「はっ…!」
気が付くと、見知らぬ白い天井が眼前に広がっていた。
身体を起こそうと思っても、四肢が重く自由が利かない。眼球だけを縦横無尽に動かし、現状の把握に努める。
白に統一されたその部屋は、物寂しい雰囲気が漂っている。そして嗅覚を刺激する薬品の匂いから、そこが保健室だと理解する。…いや、私の知っている保健室ではない。病院かもしれない。多分、車に轢かれた後病院に担ぎ込まれたのだろう。よかった、死んでなくて、と心底安堵。
「…ん?」
手首に繋がれた管を見て、自分が結構な重症だということを理解する。これって点滴だよね? 間違いなく。
その時、カツカツと誰かが廊下を歩いているような足音が聞こえてきた。なんとなく出入り口の方を見ていると、女性の看護師さんが姿を現した。私より年上だと思われる妙齢の方だ。
「松永さん、点滴を…って松永さん!」私を見た途端、急に慌てふためく看護師さん。「先生、松永さんが目を覚ましました!」
私が目覚めたことに驚いているみたい。どうやら私は何日間か気を失っていたようだ。
そして、病院の先生だと思われる白衣を着た若い男性が病室に訪れ、色々と問診されることになった。眼鏡を掛けた、やけに端整な顔立ちの先生だった。
「事故当時の記憶はありますか?」
「な…んとなく」
数日間発声していない為か、掠れた声が漏れる。
「自分のお名前や歳はわかりますか?」
「松永…藍子。歳は…じゅう、」
「藍子!」
年齢を答えようとした時、血相を変えたおばさんが病室に駆け込んできた。見覚えがある顔なのに、頭がボーッとして思考が追い付かない。
「アナタ、大丈夫なの?」
「松永さん、落ち着いてください。娘さんは目覚めたばかりで意識がまだはっきりとしていないみたいです」
「そ、そうですか。私のことはわかる?」
「…お母さん……だよね?」
お医者さんの『娘』という言葉で、関係性を導き出すのは容易かった。
「そう! アナタのお母さんよ! よかった、目覚めてくれて!」
思った以上にきつく抱き締められ、「ぐっ」と呻き声が漏れる。私のお母さんなのは間違いない。だけど、それよりもまず気になったのは――
「お母さん、老けた?」
昨日のお母さんより、目の前のお母さんは確実に歳を取っている。私の言葉を聞いて、お母さんは怪訝そうな顔を見せた。
「そんなの当たり前じゃない。生きてたら歳取るわよ」
何を当たり前なこと言ってんの、みたいな顔をされた。いや、そうだとしても一日二日どころじゃない。もう何十年も経過したような、そんな老け方だった。
それは藍子も同じなんだからね。アナタも30になったんだから、そろそろお肌のケアには気を使わないと」
「え? 今、なんて…?」
「だから、そろそろお肌のケアには気を、」
「その前だよ!」
「あ、アナタも30になったんだからって言っただけよ」
「ま、まさか…」私は自分の顔に触れペタペタと確認。
確かに多少張りが失われている気がする。次に指を確認すると、水仕事で荒れて刻まれたあかぎれがいくつもあった。
私は現代に戻ってきたっていうの? まだ思考回路が追いつかない。アレは全て夢だったの? 駄目だ。色々なことが起こり過ぎて混乱しそう。
「…ごめん、ちょっと一人にして」
「まだ少し事態を把握できていないようですね。少し一人にさせてあげましょう」
先生はお母さんの肩に手を置くと、導くようにして病室を出て行った。病室に誰もいなくなったのを確認したのと同時、私はベッドから起き上がろと試みた。
「わっ…と」筋力を何日間か使っていなかった所為か、少しよろけてしまう。点滴の管が歩行を妨げきて、いじらしくなり引き抜く。
病室に備え付けられていた鏡の前に立つ。美容院でのカット代を浮かそうと伸びっぱなしの長い髪、睡眠不足を顕著に表す目の下のクマ、潤いが希薄な肌。そこに映っていたのは、間違いなく30歳の私だった。
「戻ってきたんだ、私…」
もう少し高校生活を謳歌したかったんだけどな。全部夢か…そりゃそうか。現実で時間を逆行できるはずないもん。それこそ魔法でも使わない限り…。
「…あ~あ」私はベッドに身を投げる。
なんか全部どうでもよくなった。喪失感と脱力感と虚脱感が身体中を駆け巡る。
「松永さん、少し落ち着きましたか?」
それから30分が経った頃ぐらいだろうか、さっきのイケメン先生が病室に顔を覗かせた。
「…まぁ、少し」
「それはよかった」
お医者さんはニコッと口元に爽やかな笑みを湛える。あれ? と妙な感覚を抱く。どこかで見たことのある笑みだった。穏和かつ懐かしい感じ。よく見れば、お医者さんの顔もどこかで見たような気も…。まぁ、他人の空似ってこともあるよね。こう言っちゃなんだけど、私にイケメンの知り合いはいない。
「僕の顔に何か付いてます?」イケメン先生が苦笑する。
「あっ、いえ」無遠慮に凝視していたことに気付いて、私はすぐに目線を外した。
「…先生って誰かに似てるって言われることあります?」
多分、芸能人に似た人がいるから、どこかで見た顔のように感じられるだけ。そう思った私は、直球に尋ねてみた。
「僕ですか? あんまり言われたことないなぁ…。ちなみに誰に似てると思われたんですか?」
「そ、それがどうにも思い出せなくてですね…」
「まぁ、僕なんてどこにでもいそうな顔付きですから」
「そ、そんなことありゃせんよ。先生ほどのイケメンがどこにでもいそうだったら、世の中の人が大抵イケメンですぜ」
私がそんな意見を述べると、「ははっ」とイケメン先生は破顔一笑。
「松永さん、面白いこと言いますね。昔と何も変わってない」
「わ、私なんて全然面白くないですよ。もう真面目中の真面目で…って昔?」
ふと、イケメン先生が述べた言葉の一文に違和感を覚える。
「さすがにこの格好じゃわかんねぇか。もう何年も会ってないしな」
「…はい?」いきなりのタメ口に、私は面食らう。
「俺だよ、俺」イケメン先生は眼鏡を外す。
眼鏡を外したことで、イケメン先生の素顔が露わになる。
「は? え? う、嘘…」目の前の人物の正体が判明して、私は呆然とする。
サッカー部の部長兼エースで、全校生徒の女子達がこぞって憧憬した我がクラスで一番のモテ男。つまり――
「し、清水…くん?」
「久し振りだな、松永」
「な、なんで! なんで清水くんがいるの!」
とりあえず意味がわからなかった。まさか私はまだ夢を見ているのだろうか…。
「なんでって医者になったからだよ。つーか、マジでビックリした。まさか運ばれてきた患者が、松永だったなんてな」
「だ、だって清水くんは12年前車に…」
「あの時のこと覚えてくれてんだ。まぁ、当たり前か。衝撃的だったもんな。車に轢かれそうになった俺を、松永が助けてくれたんだよな」
「私が清水くんを…?」確かに助けた。でも、アレは全て夢だったはず。
「とにかく2人共無傷で済んでよかったよな。あの時はマジで死ぬかと思ったし」
駄目だ。予想の範疇を逸脱した出来事が立て続けに起こり、また混乱しそうだ。
一度、整理してみよう。私は不運な事故にあって、過去にタイムスリップした。高校3年生の夏。そこでは亡くなったはずの清水颯斗くんが生きていた。清水くんに誘われお祭りに行ったり、告白されたりした。その全てが私の知っている過去にはなかった出来事なんだ。
そして運命の日、私は清水くんを庇って車に轢かれた。本当なら清水くんが轢かれて亡くなった命日だったはずなのに…。だけど、私の目の前には清水くんがいる。そして、私も生きている。偽者ではないと思う。そんな意味のない質の悪い嘘をつく必要性があるとは思えない。それじゃあ、私は過去を塗り替えたっていうの?
「ま、松永、お前、泣いてんのか?」
「え? …あっ」
指摘され目元を拭ってみると、手の甲はしっかりと湿っていた。
「ご、ごめん。なんでだろ? 嬉しいはずなのに…」
拭っても拭っても、濁流のように次々と涙が溢れ出る。涙腺が弛緩し、自らの意志ではどうにもならない。
「…落ち着いたか?」
私が泣き止むまで静かに待っていてくれた清水くんは、スッとハンカチを差し出してくれた。
「あ、ありがと。なんかごめんね、急に泣いちゃって…」
「気にすんな。まだ起きたばかりで、感情の起伏が定まらないだけさ」
「…清水くんさ、今でもモテモテでしょ」
「い、いきなりだな」
「だって、イケメンで、しかもお医者さんで優しいとかモテない方がおかしいもん」
「ま、まぁ、言い寄られることは多いが…」
「やっぱり。学生時代もモテモテだったもんね。試合の時とかギャラリーがすごかったし」
「アレ、マジで迷惑してたんだよな。試合にあんまり集中できなかったし」
「今更だけど、サッカー止めたんだね」
「大学まではやってたんだけどな。自分の限界に気付いて止めた。プロの壁は高いからな」
「私、好きだったんだけどな、清水くんがプレーしてる姿。カッコよかった」
「そ、そりゃどうも。褒めてもなんも出んぞ」
「…あ、あのね、ちょっとお願いがあるんだけど」
「なんだよ、改まって」
「ちょっと触ってもいい?」
「触る? 何を?」訝しむように眉を顰める清水くん。
「…清水くんのこと」
私の要求を聞いた途端、清水くんは素っ頓狂な声を発した。
「は、はぁ? お、お前、何言って…」
「確かめておきたいの」これが現実かどうかを…。
「…別に構わんが」
私が冗談めかして言ったことじゃないのが伝わったのか、清水くんは緊張した面持ちで承諾してくれた。
私は清水くんの頬に手を伸ばしていく。慎重にゆっくりと。
距離が縮まるにつれ、呼応するように心臓がドクドクと脈動を速める。触れたら消えちゃうんじゃないかって、幻かもしれないって、そういう疑念を全て払拭したかった。
やがて、指先が頬に触れる。…あったかい。人の体温。生きてる証拠。
そのままペタペタと触る。ペチペチと叩いてもみた。
「痛い痛い」清水くんが嫌がる。
それでも構わず、今度はツンツンとつついてみた。
「だから痛いって」
調子に乗ってしまった報いとして、腕を掴まれてしまう。
「ご、ごめんなさい…」
「……」
なんとも言えない無言の時が訪れる。
すると、清水くんがこちらに顔を近付けてきた。ドクンっと心臓が一際激しく脈打つ。
こ、この流れはもしや…。私は覚悟を決めて両目を伏せ唇を少しだけ突き出した。
直後、
「お姉ちゃん!」
ビクッと反射的に私達は顔を遠ざける。病室の出入り口の方を見ると、目を潤ませた妹の琴子が立っているではないか。大人になった琴子が。
「よかったぁ!」
私の顔を見るや否や、琴子は弾丸のような勢いで駆け寄ってくると抱き締めてきた。泣きじゃくる琴子の頭を撫でてあげる。よっぽど心配を掛けたみたいだ。これだけ心配してくれる家族がいて、私は幸せ者だなって思った。
同窓会開催のメールが送られてきたのは、退院から一週間が経った頃だった。
そろそろ元の生活にも慣れ、仕事にも復帰した。まぁ、私がいようといまいと仕事にはあまり影響なかっただろうけど、クビにならなかっただけマシだ。
心機一転、私は転職活動に精を出していた。いつまでもフラフラとフリーターに徹している訳にはいかないと思い直したのだ。主に清水くんの影響だけどね。
退院するまでの間、清水くんと話す機会が増え、病院での出来事を色々と教えてもらったりした。人を病気や怪我から救うというのは思った以上に難しく、大変なことを学んだ。
『私も看護士になって、ここに就職しようかな』なんて冗談めかして言ってみると、『松永と一緒に仕事が出来るとか、毎日退屈しなさそうだな』とか言われた。
人を介抱する仕事には、昔から興味はあった。介護士とかホームヘルパーとか。
お母さんが携わっていたってのもあるけど、おじいちゃんやおばあちゃんの話を聞くのが好きだったから。私の知らない時代を生きてきたからこそ語れる昔話や恋愛話。私のおばあちゃん(母方)も親の反対を押し切って、おじいちゃんと結ばれる為に駆け落ちしたらしい。
そんなドラマでしか見たことないような話を、実際に体験した人がいるなんて憧れでしかない。まぁ、資格を取るのが面倒だったから敬遠していたけど…。
でも、これはいいキッカケだ。看護士を目指すには少し遅いんじゃないかって思ったりもしたけど、30代から試験を受ける人も結構いるらしい。
特に理由もなく漫然と生きていくより、誰かの為になることをした方が人生が有意義になる。だから私は、一から勉強して看護士を目指すことにしたのだ。
それから1ヶ月が経過して、同窓会当日を迎えた。開催地の母校には、当時の3年生の面々が集まっていた。
全員参加というのは難しいけど、ほぼ全員が参加している。クラス一のモテ男だった清水くんの周囲には沢山のクラスメート達が群がり、騒がしく盛り上がっていた。やはり、当時からモテモテだった清水くんの人気は凄まじい。
「あっ、藍子!」
名を呼ばれ、ハッと我に返る。そちらを見ると、紗月が立っていた。高校生の紗月を最近まで見ていたからか、老けて目に映った。
「久し振りじゃ~ん。元気してた?」
「それなりに。てゆーか、結構連絡取り合ってたじゃん」
「直接会うのは久し振りじゃんか。あっ、それより聞いたよ。アンタ、入院してたらしいじゃん」
「まぁね。でも、一週間ぐらいだよ」
「事故ったって聞いて、めっちゃ心配したんだから」
「それは存じてます」
私が意識を失っている間、メールや着信履歴が紗月で埋め尽くされていたから。
「ホントはお見舞い行きたかったんだけどね」
「仕事なんだから仕方ないよ」
「てゆーか、高校生の頃もなんか事故ったことあったよね。アンタ、実は無敵なんじゃない?」
「そ、そうかも」人生で二回も轢かれて外傷がないってほぼ奇跡。
「あっちゃん!」その時、ブンスカ手を振り回しながら、こちらに駆け寄ってくる人物が一人。香菜ちゃんだ。
「スッゴく久し振りだね! 会いたかったよぉ!」
キツく抱き締められる。瞬間、柔軟剤だと思われる、甘ったるい香りがした。てゆーか、おっぱいの感触が凄まじい。
「く、苦しいぃ」
男ならイチコロであろう秘技に、私は根を上げる。息ができない!
「あっ、ごめんね。久し振り過ぎて思わず抱きついちゃった」
「相変わらずね、香菜は」紗月が肩を竦める。
「か、香菜ちゃん、なんかおっぱいデカくなってない?」
「ああ、これ? 妊娠してからおっきくなっちゃった」
香菜ちゃんは自身の胸を持ち上げる。見るからにかなりボリューミーだ。
そういえば、香菜ちゃんは結婚して赤ちゃんが産まれたと言っていたな。私も結婚式に呼ばれてたけど、もう何年も前のことのようだ。
「赤ちゃんかぁ。羨ましいな。何歳になるんだっけ?」
「もう1歳になるよぉ」
「連れてきてるの?」
「今日はパパとお留守番中」日菜ちゃんはニッコリと微笑む。
香菜ちゃんがママとか絶対に穏やかで優しい子に育つだろうな。
「私達もそろそろ結婚しないとマジでヤバいよ、冗談抜きで」
仲間だと言わんばかりに、紗月が肩を組んでくる。
「そんなに焦ってもいいことないよ」
確かに結婚には憧れるが、年齢に焦って結婚しても長続きしないに決まっている。
「ふんっ、アンタはいいよね、相手がいてさ」
「…相手なんかいないんだけど」
「ウソつけ。清水くんといい感じなクセに」
「わ、私と清水くんはまだ付き合ってないから」
どうやら彼氏と別れて、私を妬んでいるらしい。
「まだってことは、いずれ付き合う気でいるんじゃん」
「ぐっ…」図星だった。
病院で再会して以来、私と清水くんはよくメールを交わし合う仲まで発展した。仕事が多忙な清水くんは、彼女と付き合う暇もなくフリーらしい。言わずもがな私もフリー。
イケメン、医者、高収入という3拍子が揃った清水くんみたいな人と付き合いたくないわけがない。勿論、外見や収入面だけじゃなく、清水くんは性格も優しくて熱い良い男。私にはもったいないぐらい。
だけど、私には一歩踏み出せない理由があった。千晶ちゃんの存在だ。
現在、千晶ちゃんがどこで何をしているのか、私は知らない。清水くんは連絡先を知っているみたいだが、そんなに頻繁に連絡を取り合っていないらしい。千晶ちゃんのことがはっきりしていない今、やっぱり清水くんと付き合うという選択肢は選べない。…今でも千晶ちゃんは清水くんに心を寄せているのだろうか? 確かめたくても、千晶ちゃんはここにいない。事情があって来れないと清水くんに連絡があったみたい。
「私も金持ちのイケメンといずれ結婚したいなぁ。高級マンションに住んで、高級車を乗り回して、毎日外食の贅沢三昧の日々」紗月がただれた願望を口にする。「ただソファにふんぞり返ってるだけでお金が入ってくるなんて最高じゃない」
「…家事ぐらいしなさいよ」
「家事なんて家政婦に任せておけばいいのよ」
「アンタねぇ…」
そんな不毛な会話をしていると、「おっす、仲良し3人娘」
そう私達に声を掛けてきたのは、まさかの清水くんだった。
「おっ、噂をすればなんとやら。日菜、私達はちょっと席を外そうか」
「あっちゃん、ガンバだよ!」
紗月と日菜ちゃんは私に気を使い、二人きりの空間を作ってくれた。
「なんだよ、どこ行くんだ?」
「と、トイレだって。そ、それより囲まれてたみたいだけど、ほっといていいの?」
「あまりに絡んでくるから、疲れてちょっと抜けてきた」
「そ、そっか…」
紗月がいらんことを言ったおかげで、変に意識して話し掛けづらくなったじゃんかよ。
「…なんか久々だよな」
「え…?」
「こういう騒がしい雰囲気。やかましいけど、居心地が良いって言うかさ」
「わかる。学校の休み時間みたいな感じでしょ?」
「そうそう! 昔に戻ったみたいだ」
懐かしむように目を細める清水くん。
「…清水くんって結婚とか興味ある?」
「と、唐突だな」
露骨に困惑させてしまう。
「へ、変な意味じゃないよ! ただ、周りも結構結婚したりしてるじゃんか。私達も30代になったんだから、そろそろ考えた方がいいのかなぁって…」
「う~ん…あんま考えたことないな。そもそも相手いないし」
「あ、相手がいたらするの?」
「どうだろう…。今は仕事一筋みたいなところがあるからな」
「清水くんと結婚する人は幸せ者だね」
「そ、そうか…?」
「仕事一筋とか言ってるけど、何よりも家族を大切にしそう。忙しい合間を縫って子供の相手をしてくれたり、家事を手伝ってくれたり」
そんな情景が頭に浮かぶんだ。
「買いかぶり過ぎだよ。俺、そんなに出来た人間じゃない」
「そんなことないよ。関わってきてわかるもん。清水くんは良い人」
「さ、サンキュ」
恥ずかしいのか、頬をポリポリ掻く清水くん。
「結婚と言えば、千晶に先を越されるなんて思ってもみなかった」
「そうだよね、まさか千晶ちゃんに先を…って今なんと?」
「いや、だから千晶が先に結婚するなんて思ってなかったって」
「どえええぇぇぇっ!」
予想だにしない情報を聞かされ、驚嘆の声を発してしまう。当然、視線という視線が私達に集中する。
「なになに?」「どうしたの?」「なんかあった?」
ざわめきが波のように広がっていく。ヤバい。ちょっとした騒ぎになってしまった。
「ちょうどいいや」
清水くんがボソッとそんな言葉を口にした。意味がわからず、「え…?」と声が漏れる。
「皆、証人になってくれよ!」
「なんだなんだ?」「証人だって」「どういう意味?」
旧友達が囁き合う。
「静かにしてくれ!」
清水くんのその一言で、その場がしんと静まり返る。
「松永…いや、藍子!」
「えっ? あっ、はい」
普段、男性から下の名前で呼ばれることなんかなくて、キュンとしてしまう。
そして、清水くんが次に発した言葉は、私のみならず全員を驚かすこととなった。
「俺と結婚を前提に付き合ってくれ!」
「ええっ!」「嘘ぉ!」「きゃああ!」
瞬間、ギャラリー達が一気にざわつく。
「は? え? わ、私と?」私は困惑を隠せなかった。
「学生時代、何人かと付き合ってきたけど、最後にはやっぱりお前の顔が浮かぶんだ。よっぽど俺にとって忘れられない存在らしい」
「そ、その言葉は嬉しいけど…」
私にとっても清水くんは忘れられない存在だ。付き合いたくない訳がない。そして、千晶ちゃんが結婚したと知った今、断る理由もない。
「ほ、ホントに私でいいの?」
こんな怠惰の染み付いたような私を選んでくれるなんて嬉しい限りだが、どうにも決断しかねる。私を嫁にもらってもデメリットしか思い浮かばん。逆に私が選べる立場だったら、自分自身を奥さんにしたいなんて思わないだろう。
「俺は藍子がいいんだ」
清水くんが私に向かって手を差し出す。
「私、いい奥さんになれないかもだよ」
「いや、藍子ならいい奥さんになる。なんとなくそんな気が…しなくもない」
どっちだよ、と思わず突っ込みそうになった。
「…後悔するかもよ」
「そんなの覚悟の上だ」
「えっと…じゃあ、お願いします」
差し出された手を取る。瞬間、「「おおっ!」」とギャラリー達が一斉に声を上げた。
は、恥ずかしい。
「キース! キース!」
その時、一人の男子が口づけせよと囃し立てる。アホか、こんな大勢の前でキスなんか出来るか。
だが、学生時代の悪ノリが再発したらしく、皆が更に煽ってくる。
「「キース!キース!」」
幾重にも連なったキスの大合唱が巻き起こる。
「ど、どうしよ?」清水くんに意見を窺う。
「するしかないだろ」
「ええっ! こんな公衆の面前で?」
「皆を納得させるには、ここでするしかない」
そう言った清水くんの表情は、冗談の欠片も感じられない真剣そのものだった。
「…わ、わかった」
覚悟を決めた私は静かに目を瞑る。まさかこんな衆目の前で初キスをする羽目になるとは…。
「…い、いくぞ」
両肩に手を置かれた感触がして、ビクっと身体が反応してしまう。待つのを我慢できずチラッと薄目を開けてみると、清水くんの整った顔が目と鼻の先にあって緊張感が四肢を駆け巡った。反射的に私はギュッと瞼を閉ざす。
やがて、柔らかくも弾力のある物体が優しく唇に触れる。瞬間、大きな歓声が私達を取り囲んだ。
「て、照れくさいな…」
清水くんの頬は羞恥によって紅潮していた。多分、私も。顔、あっつい。
「…し、幸せにしてね」
「ったり前だ」
こうして私達は結ばれたのだった。
そして、一年の交際を経て結婚もした。まさか颯斗くんと結婚するなんて誰が想像できただろうか。私の知っている世界だと亡くなっていたはずの人物だというのに…。
だけど、私が時をかけて助けたのだ。現代に戻ると、彼は生きていた。しかも、私を治療してくれたお医者さんだった。
自分自身でも信じられないぐらい荒唐無稽だけど、現実なのだから仕方ない。
千晶ちゃんにもちゃんと結婚することを伝えた。ケジメだと思ったから。
『あっそ。一応おめでとう』と祝福の言葉を頂戴した。
あまり驚く様子がなかったので、なんとなく予想していたのかもしれない。そんなことより、未来の千晶ちゃんは更に綺麗になっていた。美人に磨きが掛かって、全然老けてなかったのには驚かされた。私も美容には気を使わないとな、と戒めになった。
あの時、私の前に現れた制服姿の颯斗くん。私の潜在意識が生み出した錯覚だったのか、はたまた夏の陽炎が見せた幻影だったのか…。
今となってはどちらでもいい。だって、彼はこうして生きているのだから。
つまらない、くだらないと思っていた世界も案外捨てたもんじゃないのかもしれない。所詮は心の持ちようなのだ。
これからの明日がすばらしいと思えるように、私達は焦らずゆっくりと共に歩もうと思う。
気が付くと、見知らぬ白い天井が眼前に広がっていた。
身体を起こそうと思っても、四肢が重く自由が利かない。眼球だけを縦横無尽に動かし、現状の把握に努める。
白に統一されたその部屋は、物寂しい雰囲気が漂っている。そして嗅覚を刺激する薬品の匂いから、そこが保健室だと理解する。…いや、私の知っている保健室ではない。病院かもしれない。多分、車に轢かれた後病院に担ぎ込まれたのだろう。よかった、死んでなくて、と心底安堵。
「…ん?」
手首に繋がれた管を見て、自分が結構な重症だということを理解する。これって点滴だよね? 間違いなく。
その時、カツカツと誰かが廊下を歩いているような足音が聞こえてきた。なんとなく出入り口の方を見ていると、女性の看護師さんが姿を現した。私より年上だと思われる妙齢の方だ。
「松永さん、点滴を…って松永さん!」私を見た途端、急に慌てふためく看護師さん。「先生、松永さんが目を覚ましました!」
私が目覚めたことに驚いているみたい。どうやら私は何日間か気を失っていたようだ。
そして、病院の先生だと思われる白衣を着た若い男性が病室に訪れ、色々と問診されることになった。眼鏡を掛けた、やけに端整な顔立ちの先生だった。
「事故当時の記憶はありますか?」
「な…んとなく」
数日間発声していない為か、掠れた声が漏れる。
「自分のお名前や歳はわかりますか?」
「松永…藍子。歳は…じゅう、」
「藍子!」
年齢を答えようとした時、血相を変えたおばさんが病室に駆け込んできた。見覚えがある顔なのに、頭がボーッとして思考が追い付かない。
「アナタ、大丈夫なの?」
「松永さん、落ち着いてください。娘さんは目覚めたばかりで意識がまだはっきりとしていないみたいです」
「そ、そうですか。私のことはわかる?」
「…お母さん……だよね?」
お医者さんの『娘』という言葉で、関係性を導き出すのは容易かった。
「そう! アナタのお母さんよ! よかった、目覚めてくれて!」
思った以上にきつく抱き締められ、「ぐっ」と呻き声が漏れる。私のお母さんなのは間違いない。だけど、それよりもまず気になったのは――
「お母さん、老けた?」
昨日のお母さんより、目の前のお母さんは確実に歳を取っている。私の言葉を聞いて、お母さんは怪訝そうな顔を見せた。
「そんなの当たり前じゃない。生きてたら歳取るわよ」
何を当たり前なこと言ってんの、みたいな顔をされた。いや、そうだとしても一日二日どころじゃない。もう何十年も経過したような、そんな老け方だった。
それは藍子も同じなんだからね。アナタも30になったんだから、そろそろお肌のケアには気を使わないと」
「え? 今、なんて…?」
「だから、そろそろお肌のケアには気を、」
「その前だよ!」
「あ、アナタも30になったんだからって言っただけよ」
「ま、まさか…」私は自分の顔に触れペタペタと確認。
確かに多少張りが失われている気がする。次に指を確認すると、水仕事で荒れて刻まれたあかぎれがいくつもあった。
私は現代に戻ってきたっていうの? まだ思考回路が追いつかない。アレは全て夢だったの? 駄目だ。色々なことが起こり過ぎて混乱しそう。
「…ごめん、ちょっと一人にして」
「まだ少し事態を把握できていないようですね。少し一人にさせてあげましょう」
先生はお母さんの肩に手を置くと、導くようにして病室を出て行った。病室に誰もいなくなったのを確認したのと同時、私はベッドから起き上がろと試みた。
「わっ…と」筋力を何日間か使っていなかった所為か、少しよろけてしまう。点滴の管が歩行を妨げきて、いじらしくなり引き抜く。
病室に備え付けられていた鏡の前に立つ。美容院でのカット代を浮かそうと伸びっぱなしの長い髪、睡眠不足を顕著に表す目の下のクマ、潤いが希薄な肌。そこに映っていたのは、間違いなく30歳の私だった。
「戻ってきたんだ、私…」
もう少し高校生活を謳歌したかったんだけどな。全部夢か…そりゃそうか。現実で時間を逆行できるはずないもん。それこそ魔法でも使わない限り…。
「…あ~あ」私はベッドに身を投げる。
なんか全部どうでもよくなった。喪失感と脱力感と虚脱感が身体中を駆け巡る。
「松永さん、少し落ち着きましたか?」
それから30分が経った頃ぐらいだろうか、さっきのイケメン先生が病室に顔を覗かせた。
「…まぁ、少し」
「それはよかった」
お医者さんはニコッと口元に爽やかな笑みを湛える。あれ? と妙な感覚を抱く。どこかで見たことのある笑みだった。穏和かつ懐かしい感じ。よく見れば、お医者さんの顔もどこかで見たような気も…。まぁ、他人の空似ってこともあるよね。こう言っちゃなんだけど、私にイケメンの知り合いはいない。
「僕の顔に何か付いてます?」イケメン先生が苦笑する。
「あっ、いえ」無遠慮に凝視していたことに気付いて、私はすぐに目線を外した。
「…先生って誰かに似てるって言われることあります?」
多分、芸能人に似た人がいるから、どこかで見た顔のように感じられるだけ。そう思った私は、直球に尋ねてみた。
「僕ですか? あんまり言われたことないなぁ…。ちなみに誰に似てると思われたんですか?」
「そ、それがどうにも思い出せなくてですね…」
「まぁ、僕なんてどこにでもいそうな顔付きですから」
「そ、そんなことありゃせんよ。先生ほどのイケメンがどこにでもいそうだったら、世の中の人が大抵イケメンですぜ」
私がそんな意見を述べると、「ははっ」とイケメン先生は破顔一笑。
「松永さん、面白いこと言いますね。昔と何も変わってない」
「わ、私なんて全然面白くないですよ。もう真面目中の真面目で…って昔?」
ふと、イケメン先生が述べた言葉の一文に違和感を覚える。
「さすがにこの格好じゃわかんねぇか。もう何年も会ってないしな」
「…はい?」いきなりのタメ口に、私は面食らう。
「俺だよ、俺」イケメン先生は眼鏡を外す。
眼鏡を外したことで、イケメン先生の素顔が露わになる。
「は? え? う、嘘…」目の前の人物の正体が判明して、私は呆然とする。
サッカー部の部長兼エースで、全校生徒の女子達がこぞって憧憬した我がクラスで一番のモテ男。つまり――
「し、清水…くん?」
「久し振りだな、松永」
「な、なんで! なんで清水くんがいるの!」
とりあえず意味がわからなかった。まさか私はまだ夢を見ているのだろうか…。
「なんでって医者になったからだよ。つーか、マジでビックリした。まさか運ばれてきた患者が、松永だったなんてな」
「だ、だって清水くんは12年前車に…」
「あの時のこと覚えてくれてんだ。まぁ、当たり前か。衝撃的だったもんな。車に轢かれそうになった俺を、松永が助けてくれたんだよな」
「私が清水くんを…?」確かに助けた。でも、アレは全て夢だったはず。
「とにかく2人共無傷で済んでよかったよな。あの時はマジで死ぬかと思ったし」
駄目だ。予想の範疇を逸脱した出来事が立て続けに起こり、また混乱しそうだ。
一度、整理してみよう。私は不運な事故にあって、過去にタイムスリップした。高校3年生の夏。そこでは亡くなったはずの清水颯斗くんが生きていた。清水くんに誘われお祭りに行ったり、告白されたりした。その全てが私の知っている過去にはなかった出来事なんだ。
そして運命の日、私は清水くんを庇って車に轢かれた。本当なら清水くんが轢かれて亡くなった命日だったはずなのに…。だけど、私の目の前には清水くんがいる。そして、私も生きている。偽者ではないと思う。そんな意味のない質の悪い嘘をつく必要性があるとは思えない。それじゃあ、私は過去を塗り替えたっていうの?
「ま、松永、お前、泣いてんのか?」
「え? …あっ」
指摘され目元を拭ってみると、手の甲はしっかりと湿っていた。
「ご、ごめん。なんでだろ? 嬉しいはずなのに…」
拭っても拭っても、濁流のように次々と涙が溢れ出る。涙腺が弛緩し、自らの意志ではどうにもならない。
「…落ち着いたか?」
私が泣き止むまで静かに待っていてくれた清水くんは、スッとハンカチを差し出してくれた。
「あ、ありがと。なんかごめんね、急に泣いちゃって…」
「気にすんな。まだ起きたばかりで、感情の起伏が定まらないだけさ」
「…清水くんさ、今でもモテモテでしょ」
「い、いきなりだな」
「だって、イケメンで、しかもお医者さんで優しいとかモテない方がおかしいもん」
「ま、まぁ、言い寄られることは多いが…」
「やっぱり。学生時代もモテモテだったもんね。試合の時とかギャラリーがすごかったし」
「アレ、マジで迷惑してたんだよな。試合にあんまり集中できなかったし」
「今更だけど、サッカー止めたんだね」
「大学まではやってたんだけどな。自分の限界に気付いて止めた。プロの壁は高いからな」
「私、好きだったんだけどな、清水くんがプレーしてる姿。カッコよかった」
「そ、そりゃどうも。褒めてもなんも出んぞ」
「…あ、あのね、ちょっとお願いがあるんだけど」
「なんだよ、改まって」
「ちょっと触ってもいい?」
「触る? 何を?」訝しむように眉を顰める清水くん。
「…清水くんのこと」
私の要求を聞いた途端、清水くんは素っ頓狂な声を発した。
「は、はぁ? お、お前、何言って…」
「確かめておきたいの」これが現実かどうかを…。
「…別に構わんが」
私が冗談めかして言ったことじゃないのが伝わったのか、清水くんは緊張した面持ちで承諾してくれた。
私は清水くんの頬に手を伸ばしていく。慎重にゆっくりと。
距離が縮まるにつれ、呼応するように心臓がドクドクと脈動を速める。触れたら消えちゃうんじゃないかって、幻かもしれないって、そういう疑念を全て払拭したかった。
やがて、指先が頬に触れる。…あったかい。人の体温。生きてる証拠。
そのままペタペタと触る。ペチペチと叩いてもみた。
「痛い痛い」清水くんが嫌がる。
それでも構わず、今度はツンツンとつついてみた。
「だから痛いって」
調子に乗ってしまった報いとして、腕を掴まれてしまう。
「ご、ごめんなさい…」
「……」
なんとも言えない無言の時が訪れる。
すると、清水くんがこちらに顔を近付けてきた。ドクンっと心臓が一際激しく脈打つ。
こ、この流れはもしや…。私は覚悟を決めて両目を伏せ唇を少しだけ突き出した。
直後、
「お姉ちゃん!」
ビクッと反射的に私達は顔を遠ざける。病室の出入り口の方を見ると、目を潤ませた妹の琴子が立っているではないか。大人になった琴子が。
「よかったぁ!」
私の顔を見るや否や、琴子は弾丸のような勢いで駆け寄ってくると抱き締めてきた。泣きじゃくる琴子の頭を撫でてあげる。よっぽど心配を掛けたみたいだ。これだけ心配してくれる家族がいて、私は幸せ者だなって思った。
同窓会開催のメールが送られてきたのは、退院から一週間が経った頃だった。
そろそろ元の生活にも慣れ、仕事にも復帰した。まぁ、私がいようといまいと仕事にはあまり影響なかっただろうけど、クビにならなかっただけマシだ。
心機一転、私は転職活動に精を出していた。いつまでもフラフラとフリーターに徹している訳にはいかないと思い直したのだ。主に清水くんの影響だけどね。
退院するまでの間、清水くんと話す機会が増え、病院での出来事を色々と教えてもらったりした。人を病気や怪我から救うというのは思った以上に難しく、大変なことを学んだ。
『私も看護士になって、ここに就職しようかな』なんて冗談めかして言ってみると、『松永と一緒に仕事が出来るとか、毎日退屈しなさそうだな』とか言われた。
人を介抱する仕事には、昔から興味はあった。介護士とかホームヘルパーとか。
お母さんが携わっていたってのもあるけど、おじいちゃんやおばあちゃんの話を聞くのが好きだったから。私の知らない時代を生きてきたからこそ語れる昔話や恋愛話。私のおばあちゃん(母方)も親の反対を押し切って、おじいちゃんと結ばれる為に駆け落ちしたらしい。
そんなドラマでしか見たことないような話を、実際に体験した人がいるなんて憧れでしかない。まぁ、資格を取るのが面倒だったから敬遠していたけど…。
でも、これはいいキッカケだ。看護士を目指すには少し遅いんじゃないかって思ったりもしたけど、30代から試験を受ける人も結構いるらしい。
特に理由もなく漫然と生きていくより、誰かの為になることをした方が人生が有意義になる。だから私は、一から勉強して看護士を目指すことにしたのだ。
それから1ヶ月が経過して、同窓会当日を迎えた。開催地の母校には、当時の3年生の面々が集まっていた。
全員参加というのは難しいけど、ほぼ全員が参加している。クラス一のモテ男だった清水くんの周囲には沢山のクラスメート達が群がり、騒がしく盛り上がっていた。やはり、当時からモテモテだった清水くんの人気は凄まじい。
「あっ、藍子!」
名を呼ばれ、ハッと我に返る。そちらを見ると、紗月が立っていた。高校生の紗月を最近まで見ていたからか、老けて目に映った。
「久し振りじゃ~ん。元気してた?」
「それなりに。てゆーか、結構連絡取り合ってたじゃん」
「直接会うのは久し振りじゃんか。あっ、それより聞いたよ。アンタ、入院してたらしいじゃん」
「まぁね。でも、一週間ぐらいだよ」
「事故ったって聞いて、めっちゃ心配したんだから」
「それは存じてます」
私が意識を失っている間、メールや着信履歴が紗月で埋め尽くされていたから。
「ホントはお見舞い行きたかったんだけどね」
「仕事なんだから仕方ないよ」
「てゆーか、高校生の頃もなんか事故ったことあったよね。アンタ、実は無敵なんじゃない?」
「そ、そうかも」人生で二回も轢かれて外傷がないってほぼ奇跡。
「あっちゃん!」その時、ブンスカ手を振り回しながら、こちらに駆け寄ってくる人物が一人。香菜ちゃんだ。
「スッゴく久し振りだね! 会いたかったよぉ!」
キツく抱き締められる。瞬間、柔軟剤だと思われる、甘ったるい香りがした。てゆーか、おっぱいの感触が凄まじい。
「く、苦しいぃ」
男ならイチコロであろう秘技に、私は根を上げる。息ができない!
「あっ、ごめんね。久し振り過ぎて思わず抱きついちゃった」
「相変わらずね、香菜は」紗月が肩を竦める。
「か、香菜ちゃん、なんかおっぱいデカくなってない?」
「ああ、これ? 妊娠してからおっきくなっちゃった」
香菜ちゃんは自身の胸を持ち上げる。見るからにかなりボリューミーだ。
そういえば、香菜ちゃんは結婚して赤ちゃんが産まれたと言っていたな。私も結婚式に呼ばれてたけど、もう何年も前のことのようだ。
「赤ちゃんかぁ。羨ましいな。何歳になるんだっけ?」
「もう1歳になるよぉ」
「連れてきてるの?」
「今日はパパとお留守番中」日菜ちゃんはニッコリと微笑む。
香菜ちゃんがママとか絶対に穏やかで優しい子に育つだろうな。
「私達もそろそろ結婚しないとマジでヤバいよ、冗談抜きで」
仲間だと言わんばかりに、紗月が肩を組んでくる。
「そんなに焦ってもいいことないよ」
確かに結婚には憧れるが、年齢に焦って結婚しても長続きしないに決まっている。
「ふんっ、アンタはいいよね、相手がいてさ」
「…相手なんかいないんだけど」
「ウソつけ。清水くんといい感じなクセに」
「わ、私と清水くんはまだ付き合ってないから」
どうやら彼氏と別れて、私を妬んでいるらしい。
「まだってことは、いずれ付き合う気でいるんじゃん」
「ぐっ…」図星だった。
病院で再会して以来、私と清水くんはよくメールを交わし合う仲まで発展した。仕事が多忙な清水くんは、彼女と付き合う暇もなくフリーらしい。言わずもがな私もフリー。
イケメン、医者、高収入という3拍子が揃った清水くんみたいな人と付き合いたくないわけがない。勿論、外見や収入面だけじゃなく、清水くんは性格も優しくて熱い良い男。私にはもったいないぐらい。
だけど、私には一歩踏み出せない理由があった。千晶ちゃんの存在だ。
現在、千晶ちゃんがどこで何をしているのか、私は知らない。清水くんは連絡先を知っているみたいだが、そんなに頻繁に連絡を取り合っていないらしい。千晶ちゃんのことがはっきりしていない今、やっぱり清水くんと付き合うという選択肢は選べない。…今でも千晶ちゃんは清水くんに心を寄せているのだろうか? 確かめたくても、千晶ちゃんはここにいない。事情があって来れないと清水くんに連絡があったみたい。
「私も金持ちのイケメンといずれ結婚したいなぁ。高級マンションに住んで、高級車を乗り回して、毎日外食の贅沢三昧の日々」紗月がただれた願望を口にする。「ただソファにふんぞり返ってるだけでお金が入ってくるなんて最高じゃない」
「…家事ぐらいしなさいよ」
「家事なんて家政婦に任せておけばいいのよ」
「アンタねぇ…」
そんな不毛な会話をしていると、「おっす、仲良し3人娘」
そう私達に声を掛けてきたのは、まさかの清水くんだった。
「おっ、噂をすればなんとやら。日菜、私達はちょっと席を外そうか」
「あっちゃん、ガンバだよ!」
紗月と日菜ちゃんは私に気を使い、二人きりの空間を作ってくれた。
「なんだよ、どこ行くんだ?」
「と、トイレだって。そ、それより囲まれてたみたいだけど、ほっといていいの?」
「あまりに絡んでくるから、疲れてちょっと抜けてきた」
「そ、そっか…」
紗月がいらんことを言ったおかげで、変に意識して話し掛けづらくなったじゃんかよ。
「…なんか久々だよな」
「え…?」
「こういう騒がしい雰囲気。やかましいけど、居心地が良いって言うかさ」
「わかる。学校の休み時間みたいな感じでしょ?」
「そうそう! 昔に戻ったみたいだ」
懐かしむように目を細める清水くん。
「…清水くんって結婚とか興味ある?」
「と、唐突だな」
露骨に困惑させてしまう。
「へ、変な意味じゃないよ! ただ、周りも結構結婚したりしてるじゃんか。私達も30代になったんだから、そろそろ考えた方がいいのかなぁって…」
「う~ん…あんま考えたことないな。そもそも相手いないし」
「あ、相手がいたらするの?」
「どうだろう…。今は仕事一筋みたいなところがあるからな」
「清水くんと結婚する人は幸せ者だね」
「そ、そうか…?」
「仕事一筋とか言ってるけど、何よりも家族を大切にしそう。忙しい合間を縫って子供の相手をしてくれたり、家事を手伝ってくれたり」
そんな情景が頭に浮かぶんだ。
「買いかぶり過ぎだよ。俺、そんなに出来た人間じゃない」
「そんなことないよ。関わってきてわかるもん。清水くんは良い人」
「さ、サンキュ」
恥ずかしいのか、頬をポリポリ掻く清水くん。
「結婚と言えば、千晶に先を越されるなんて思ってもみなかった」
「そうだよね、まさか千晶ちゃんに先を…って今なんと?」
「いや、だから千晶が先に結婚するなんて思ってなかったって」
「どえええぇぇぇっ!」
予想だにしない情報を聞かされ、驚嘆の声を発してしまう。当然、視線という視線が私達に集中する。
「なになに?」「どうしたの?」「なんかあった?」
ざわめきが波のように広がっていく。ヤバい。ちょっとした騒ぎになってしまった。
「ちょうどいいや」
清水くんがボソッとそんな言葉を口にした。意味がわからず、「え…?」と声が漏れる。
「皆、証人になってくれよ!」
「なんだなんだ?」「証人だって」「どういう意味?」
旧友達が囁き合う。
「静かにしてくれ!」
清水くんのその一言で、その場がしんと静まり返る。
「松永…いや、藍子!」
「えっ? あっ、はい」
普段、男性から下の名前で呼ばれることなんかなくて、キュンとしてしまう。
そして、清水くんが次に発した言葉は、私のみならず全員を驚かすこととなった。
「俺と結婚を前提に付き合ってくれ!」
「ええっ!」「嘘ぉ!」「きゃああ!」
瞬間、ギャラリー達が一気にざわつく。
「は? え? わ、私と?」私は困惑を隠せなかった。
「学生時代、何人かと付き合ってきたけど、最後にはやっぱりお前の顔が浮かぶんだ。よっぽど俺にとって忘れられない存在らしい」
「そ、その言葉は嬉しいけど…」
私にとっても清水くんは忘れられない存在だ。付き合いたくない訳がない。そして、千晶ちゃんが結婚したと知った今、断る理由もない。
「ほ、ホントに私でいいの?」
こんな怠惰の染み付いたような私を選んでくれるなんて嬉しい限りだが、どうにも決断しかねる。私を嫁にもらってもデメリットしか思い浮かばん。逆に私が選べる立場だったら、自分自身を奥さんにしたいなんて思わないだろう。
「俺は藍子がいいんだ」
清水くんが私に向かって手を差し出す。
「私、いい奥さんになれないかもだよ」
「いや、藍子ならいい奥さんになる。なんとなくそんな気が…しなくもない」
どっちだよ、と思わず突っ込みそうになった。
「…後悔するかもよ」
「そんなの覚悟の上だ」
「えっと…じゃあ、お願いします」
差し出された手を取る。瞬間、「「おおっ!」」とギャラリー達が一斉に声を上げた。
は、恥ずかしい。
「キース! キース!」
その時、一人の男子が口づけせよと囃し立てる。アホか、こんな大勢の前でキスなんか出来るか。
だが、学生時代の悪ノリが再発したらしく、皆が更に煽ってくる。
「「キース!キース!」」
幾重にも連なったキスの大合唱が巻き起こる。
「ど、どうしよ?」清水くんに意見を窺う。
「するしかないだろ」
「ええっ! こんな公衆の面前で?」
「皆を納得させるには、ここでするしかない」
そう言った清水くんの表情は、冗談の欠片も感じられない真剣そのものだった。
「…わ、わかった」
覚悟を決めた私は静かに目を瞑る。まさかこんな衆目の前で初キスをする羽目になるとは…。
「…い、いくぞ」
両肩に手を置かれた感触がして、ビクっと身体が反応してしまう。待つのを我慢できずチラッと薄目を開けてみると、清水くんの整った顔が目と鼻の先にあって緊張感が四肢を駆け巡った。反射的に私はギュッと瞼を閉ざす。
やがて、柔らかくも弾力のある物体が優しく唇に触れる。瞬間、大きな歓声が私達を取り囲んだ。
「て、照れくさいな…」
清水くんの頬は羞恥によって紅潮していた。多分、私も。顔、あっつい。
「…し、幸せにしてね」
「ったり前だ」
こうして私達は結ばれたのだった。
そして、一年の交際を経て結婚もした。まさか颯斗くんと結婚するなんて誰が想像できただろうか。私の知っている世界だと亡くなっていたはずの人物だというのに…。
だけど、私が時をかけて助けたのだ。現代に戻ると、彼は生きていた。しかも、私を治療してくれたお医者さんだった。
自分自身でも信じられないぐらい荒唐無稽だけど、現実なのだから仕方ない。
千晶ちゃんにもちゃんと結婚することを伝えた。ケジメだと思ったから。
『あっそ。一応おめでとう』と祝福の言葉を頂戴した。
あまり驚く様子がなかったので、なんとなく予想していたのかもしれない。そんなことより、未来の千晶ちゃんは更に綺麗になっていた。美人に磨きが掛かって、全然老けてなかったのには驚かされた。私も美容には気を使わないとな、と戒めになった。
あの時、私の前に現れた制服姿の颯斗くん。私の潜在意識が生み出した錯覚だったのか、はたまた夏の陽炎が見せた幻影だったのか…。
今となってはどちらでもいい。だって、彼はこうして生きているのだから。
つまらない、くだらないと思っていた世界も案外捨てたもんじゃないのかもしれない。所詮は心の持ちようなのだ。
これからの明日がすばらしいと思えるように、私達は焦らずゆっくりと共に歩もうと思う。