あの日、クラスメート達と参列した葬儀は、全く現実味がなかった。まさかクラスメートの一人が、それもクラス一の人気者だった彼が亡くなるなんて信じられなかったのだ。
――私を庇って。
誰にも言えなかった、恨まれることを忌避して…。
お前が死ねばよかったんだ、そう思われるのが何よりも怖かった。卑怯者だと罵られても仕方ないと思う。助けてくれたことに感謝しながらも、私は罪悪感で押し潰されそうだった。
あの時のことを一生、忘れることはないだろう。そして、私が彼の分まで精一杯生きるんだ。それが私に出来る唯一の恩返しだと思ったから…。
「あ~あ、香菜もとうとう結婚かぁ」
都内某所にある高級ホテルの宴会場。豪奢なシャンデリアが等間隔に設置され、会場内を明るく照らしている。
隣席に座る倉持紗月の目線の先には、華美なウェディングドレスに身を包んだ親友の姿。
新婦の川崎香菜ちゃんは、私と紗月の高校生からの友達だった。愛玩動物のような可愛らしい容姿と、少し舌足らずな喋り方が特徴的な娘だ。
新郎はどこぞの会社を経営している社長で、しかもイケメンときたもんだ。所謂、玉の輿である。
昔から男受けの良い娘だったけど、まさか先を越されるとは。
「アンタももう30なんだから、早く相手を見つけないと手遅れになるよ。気付いたらババアだよ、ババア」
紗月が不安を煽るような言葉を私に寄越す。グラスを傾けながらの発言は、すこぶる腹立たしい。自分が彼氏持ちだからって調子に乗ってやがる。
「30なのはお互い様じゃん。それに、私は運命の人とまだ出会ってないだけなの。今に見てろ、イケメンを超越した超ハイパーウルトライケメンと結婚してやる」
それが叶わないとわかっていながらも大見得を切ってやる。
「イケメンを超越って、最早それは逆にブサイクなのでは?」
「う、うっさいな。とにかくアンタより早く結婚して、いずれハワイで挙式を上げる予定」
「はいはい。その時は是非私も誘ってくれたまえ」
そんな論争を繰り広げている間にも、挙式は淡々と進行していく。
『続きましては、初めての共同作業であるケーキ入刀です』
マイクを持った司会者の声がスピーカーから発せられる。瞬間、シャンデリアの明かりが落とされ会場内が薄暗くなったかと思うと、眩い照明が主役二人を照らし出す。
いつも思うけど、ケーキ入刀を二人でする意味はあるの? 初めての共同作業がケーキを切断する行為とか謎だ。
そんな私をよそに二人はナイフを持ってケーキをゆっくりと切っていく。
欣々然としている二人はやっぱり幸せそうで、結婚はいいものだなぁと再確認させられた。
パートタイムと聞けば何を思い浮かべるだろうか? 大半の人は主婦が労働する際に用いられる言葉だと認識しているだろうが、実は英語だとパートタイムはアルバイトのことを指す。アルバイトという単語はドイツ語なのだ。
とまぁ、浅知恵を披露したかっただけです。深い意味は特になし。
私は今、パートで日々を食い繋いでいる。今日も勤めているスーパーでレジを担当している真っ最中だけど、はっきり言って退屈でたまらない。大して変わらない日々を繰り返していると、今すぐこの環境から逃げ出したくなる。
人間は常に新鮮味を欲するもの。新鮮味が失われると、それは苦痛に変わる。なんに対しても共通する事柄だろう。それが食べていく為に必要不可欠なことだとわかっていても。
私はなんの為に生きているんだろうとか、この世に生きている意味があるのだろうかとか。そんなネガティブな感情がグルグルと脳内を乱舞する。だけど、私には生きなきゃいけない理由があるんだ。
「いらっしゃいませぇ」
お客さんが来たので、もう数え切れないほど繰り返し染み付いた営業スマイルを形作り頭を下げる。このスーパーは礼儀作法に厳しく、店長に見つかりでもすれば注意されかねない。すでに何回か注意されているので、もう勘弁願いたい。
「ありがとうござましたぁ。またお越しくださいませぇ」
お会計が終わりお客さんにまた頭を下げる。
少し猫背気味でカートを押すその後ろ姿は哀愁が漂う。その背中を見ていると、私もいつかはああなっちゃうんだなぁと不躾にも思ってしまう。
そんなことを考えていると、突然お客さんが振り向いて、「いつもありがとねぇ」としわくちゃの笑みを見せ会釈してきた。
私も慌てて再び低頭し、「こちらこそ、いつもありがとうございます」と礼を述べた。
私は自身の感情を恥じた。一人にしては多い量の買い物をみると、二人分なのだろう。年老いても尚、自分で買い物をして旦那さん(多分)の分も料理を作る。見習うべき姿勢だ。
その後、7時間という永遠とも思える勤務を終えて、スタッフルームに向かう。私服に着替える為と、労働時間を証拠として残すタイムカードを切る為だ。
店内みたいに活気のない通路をトボトボ歩く。やっとこの囚われの身から解放されたのはいいけど、その足取りは重かった。何故なら帰宅したとて、家庭のない私からすれば孤独感に苛まれるだけだから。
スタッフルームに入ると、仕事でも人生でも先輩の北本さんが着替えている最中だった。30代後半の北本さんは、私には不足している色気や家族をお持ちの人妻だったりする。
「お疲れさまです」
私がそう言葉を掛けると、北本さんがクルッと振り向く。長いサラサラの髪が流麗に靡いた。
「あら、松永ちゃん、お疲れさま」
「北本さんってホントに綺麗ですよね。二児の母親には見えないですよ」
「全然そんなことないよ」
私の称賛に、北本さんは謙遜する。
「そんなことありますよ。マジ羨ましいっす」
「今日はどうしたの? なんかいつもと雰囲気違うけど」
北本さんが私の顔を覗き込む。
「最近、なんか心配になってきちゃって。私、いつ結婚できるのかなぁて」
思わず将来についての懸念を吐露してしまう。
「松永ちゃんってまだ結婚してなかったんだっけ?」
「はい…。そもそも相手すらおりません」
「そっかぁ…。でもさ、松永ちゃんって可愛らしい感じだし、すぐに結婚できそうだけどね」
「そうだといいんですけど…。歳も歳だし。友達は結婚していくし」
「松永ちゃんって何歳だっけ?」
男性から尋ねられると反感を買うであろう質問を投げ掛けられる。
「30です」お店の制服であるワイシャツを脱ぎながら応じる。
「30なんてまだまだ大丈夫だよ。結婚は焦ることが一番ダメなの。相手を見誤って結婚なんかしたら、すぐに離婚するだけ」
「そんなもんですかね…ひゃっ!」急に背中を直に触れられ、情けない声が漏れる。「な、何するんですかっ」
「こんなに肌が若々しいんだから、焦る必要ないって。赤ちゃんみたいにスベスベ」
無遠慮に撫で回され、「あひゃひゃ」と身悶える。
「や、止めてください。そ、それより、北本さんはいつ結婚したんですか?」
「私? ん~と…」五指を折って数をかぞえる北本さん。「確か27だったかな」
今の私よりも年下じゃん。
「やっぱり羨ましいです。今の私の頃には、すでに立派なお母さんだったんですもん」
私が27歳の時は、彼氏を作る暇さえなく事務仕事に奔走する毎日だった。上司のパワハラで辞めたけど。あんな劣悪な環境にいたら、感情がいくつあっても足りない。
「そんなことないよ。子供が生まれたのが遅かったから、まだまだ立派なんてもんじゃない。まぁ、今でこそ子育てには慣れてきたけどね」
一足先に着替え終えた北本さんは、スタッフルームの中心に設置されているパイプ椅子に腰掛ける。細身のジーンズに包まれた、これまた長い美脚を無駄のない動作で組んだ。
意図せずの一挙だとは思うけど見せ付けられたような気分で、同時に自身の嫉妬深さに自己嫌悪。
「そんなことありますよ。前にお子さんと一緒のところを見掛けましたけど、ちゃんとお母さんしてましたよ」
「そ、そう? そう見えたんなら、ちょっと嬉しいかも」
褒められたのが嬉しかったのか、北本さんは気恥ずかしそうに含羞。
「まだお話って大丈夫ですか?」
もう少し世間話がしたかったのだけど、お子さんのこともあったので、会話の継続が可能かを問う。
「そうねぇ…」北本さんは壁に掛かっていた時計を一瞥する。「もうちょっとなら大丈夫かも」
「旦那さんとの馴れ初めを教えてもらってもいいですか? やっぱり運命的な出会いだったとか」
私服に着替え終えた私は、ロッカーにもたれ掛かり気になっていた疑問を投じる。
「別に運命的って訳でもないけどね。私が会社員をやっていた頃の上司だったの。新人だった私に仕事でわからないことがあったら親切に教えてくれたし、ヘマをやらかしたら親身になって慰めてくれたり。気付いたら惹かれている自分がいた。どうやら両思いだったから付き合って、なんとなく結婚しただけ。ほらね、面白味に欠ける話だったでしょ?」
「十分、素敵なお話でしたよ。会社で知り合った男性と結婚したってだけでも、運命じゃないですか」
確かにありふれた普遍的な経緯だったけど、王道だからこそ憧憬するってもんですよ、うん。
「そういえば、松永ちゃんもOLやってたんだよね? そこでいい人いなかったの?」
「全くいませんでした。…いや、いたかもですけど、仕事が忙しくて恋愛する気にすらなれませんでした」
もし親身になってくれるような上司に恵まれていれば、私も仕事を続けられてて結婚もしていたかもしれない。まぁ、単なるifにしか過ぎないけど…。
「もしかして、松永ちゃんって理想が高いんじゃないの?」
結婚できない理由を理想が高いで片付けられてしまう。
まぁ、確かに理想ぐらいはある。例えばイケメンとか高身長とか高収入とか家事万能とか。細かいことを列挙していくと暇がない。でも、そんな超人がいないことくらい理解している。そこまで私は愚鈍じゃない。
あくまで理想、されど理想。それが結婚への弊害になってるんじゃないの? と問われれば、言下に否定は出来ない。そりゃあ、一つでも多くの理想に当てはまっている人がいいに決まっている。
「私を愛してくれる人だったら誰でもいいかなぁ…なんて」
本音は隠して謙虚を気取ってみる。でも、あながち間違いでもない。私を愛してくれるのなら、些細なことには目を瞑る所存。
「そうなんだ。じゃあ、合コンに参加してみるってのもアリかもね」
北本さんが無難な提案を持ち掛けてくる。
「合コンですか…」
あんなの軽薄な男女が集まる印象しかない。参加したことないから、ドラマとかアニメで植え付けられたイメージだけど。
「それが嫌だったら、婚活パーティーとかもいいと思うけど」私のリアクションが微妙だったからか、次の提案を持ち掛けられる。「婚活パーティーだと結婚したい人ばかりだから相手には困らないし、理想の人と出会えるかもよ」
う~ん、婚活パーティーか…。興味がない訳じゃないけど、私としてはカップルの関係から愛を育んだ末に、結婚して夫婦の関係に昇華したい。
「興味は多少あるんですけど、知らない相手といきなりそんな関係になるのはちょっと抵抗があるっていうか…」
私の心情を聞いて、「ふふっ」と北本さんが一笑。
「いきなりそんな関係にはならないと思うよ。松永ちゃんって結構ピュアなんだね」
指摘された瞬間、身体の奥がカッと熱くなり、羞恥が無情にも私を蹂躙する。
「あっ、いや、今のはですね…」
「間違えてたら失礼だけど、松永ちゃんってそういう経験ないの?」
「はははっ、まさかそんな訳ないでしょ。学生の頃とっくに経験済みですよ。それに、させ子ってあだ名で呼ばれてたぐらいですから」
思わず口からでまかせが溢れてしまう。勿論、させ子なんてあだ名で呼ばれていた過去なんかない。
「そ、そうだよね。でも、松永ちゃんがそんなあだ名で呼ばれていたことに、ドン引きしてますよ」
北本さんは引きつった笑みを見せる。
「う、嘘ですよ、嘘! させ子って箇所はそのぉ…負けず嫌いな性悪上、故意に誇張してしまっただけで…」
私の弁解を聞いて、「ぷっ」と北本さんは吹き出す。そして、ケタケタ子供のように笑い出す。
「ま、松永ちゃんって面白いね。ふふっ、新発見だ」
私の新たな一面を見抜かれてしまう。
「そんなに面白かったですか?」
「うん、かなり」
こんなに人を笑わしたのは久々だ。それが意図的でないにしろ、どこか懐かしい気分だった。
「ごめんね、怒った?」
「い、いえいえ。そんなことで怒ったりしませんよ」
仕事中だと無理に笑顔を振りまいてはいるが、プライベートで笑うことは少ない。その為、どこか不機嫌に見られがち。だから、勘違いさせてしまった。
「ならいいんだけど。…あっ、そろそろ帰らないと」北本さんは時計を再度確認すると、椅子から腰を上げた。「それじゃあ私、帰るね」
「はい。色々とお話を聞かせてもらってありがとうござました。参考になりました」
「そんな畏まらないでいいよ。たいしたアドバイスもしてないし」
じゃあ、頑張ってね、と言い残し、北本さんはスタッフルームを出て行った。
殺風景なスタッフルームに一人取り残され、孤独感に襲われる。
「ふぅ…」と大仰に嘆息して、さっきまで北本さんが座っていたパイプ椅子に腰掛ける。まだ北本さんの体温の残滓が宿っていて、臀部が少し温かかった。
私がなんで結婚できないかを今一度、沈思黙考してみる。
容姿はそれなりだと思う。言っとくけど、決してナルシストではないからね。人生を思い返してみても、ブスとは言われたことがない。かと言って、可愛いと評されたことは少ないけども…。
自分的には中の上だと自負。結構、見る人によって評価が分かれる顔だと言われることは多い。プロポーションは…まぁ、平均的。くびれてはいないけど、一応お腹は出ていない。体重はごにょごにょ…。
性格はどうだろうか? 自ら分析するのは些か難儀だけど、人見知りはあまりしない方だし、口数も多い方だと思う。明朗快活でないにしろ、暗い性格はしていない。学生時代に友達は人並みにいたし。それじゃあ、私の欠点とはなんなのだろう…?
そんなことを考えながら、私は家路を辿っていた。
ふと、私の隣を男子学生が通り過ぎていく。違うとわかっていても、どうしても目で追ってしまう私がいた。私の悪い癖だ。彼と似た背中を見つけると、無意識の内に重ねてしまう。そして、寂寥感に苛まれるのだ。
「……よしっ」
とりあえず早く帰ろう。このまま停滞せず一歩踏み出すことが、今の私には必要なんだ。
翌日の朝、出勤の用意を済ませた私は、アパートのドアを開けて玄関を出る。
「あっつ…」
外に出た瞬間、むわっとした空気に襲撃される。そろそろ本格的な夏の到来だな、と肌で感じる今日この頃。ここ連日続く酷暑によって日本全土の電気代が高騰の一途を辿っていることだろう。
掌で日傘を作って、上空で悠々と私達を見下ろす太陽を睨み付けてやる。
私は夏が嫌いだ。苦手とか否定じゃなくて嫌悪の類。
暑いのが嫌いっていうのもあるけど、理由は他にあった。あれからもう12年が経過しようとしていた。
夏の陽射しに辟易しながら、私は歩き出す。また今日もいつもと同じようなつまらない、くだらない一日が幕を開けるのだ。
ここから職場のスーパーまで歩いて15分。休日は基本的に出不精なので、健康面を考慮して徒歩で出勤しているが、遅刻しそうな日は自転車で向かうこともある。今日は時間に余裕があるので、急がなくて済みそうだ。
歩行者の多い大通りを歩いていると、制服に身を包んだ女子高生が散見できる。他愛もない会話に嬉々とした顔を浮かべながら、私の横を通り過ぎて行く。
何気なく振り向き、私にもあんな時代があったんだなぁとその背中に自分を重ねる。毎日が楽しくて、くだらないことで笑い合って、些細なきっかけで喧嘩して。でも、最後には仲直りして。
だけど、どれもこれも今では過去の産物。どれだけ過去を渇望しても、取り戻すことは出来ないんだ。
「…ダメだダメだ」
懐古に浸っていても虚しくなるだけ。時に立ち止まり振り返ることがあったとしても、いつかは前を向いて歩を進めないといけないんだ…なんてね。
「ん…?」
顔を戻して再び歩き出そうとした時、前方に見覚えのある後ろ姿が目に入った。いや、実際には似ている後ろ姿だ。
さっきまではいなかった…と思う。唐突にバッと現れたようなそんな気がした。
白いワイシャツに黒いズボンを履いた男子学生。一見これといった特徴のない学生に見えるが、襟足とワイシャツの間から覗くホクロが印象的だった。纏う雰囲気や空気感にも、どこか似たものを感じる。
忘れもしない今から12年前の7月28日は、猛暑というに相応しい気候だった。
お昼ご飯を食べた後、自室でゴロゴロ怠惰を貪っていると無性にアイスが食べたくなった。家の冷蔵庫を覗くもそこにアイスの姿はない。
不承不承、重い腰を上げて私はコンビニに向かうことにした。ガッツリしたのを食べたくて、スーパーカップのチョコチップを買ったことも覚えている。
行儀が悪いと自覚しつつもアイスを食べながら歩いていると、我が校のサッカー部部長かつエースの清水颯斗くんとばったり遭遇。練習試合終わりだったらしく、彼の髪は少し湿っていた。
特別仲が良かった訳でもなかったけど、どうせなら一緒に帰ろうという流れになって、私は彼と帰宅することに。他愛もない会話を交わしていると、赤信号に引っ掛かり私達は立ち止まる。
眼前を行き交う複数の車。大通りで交通量が多く、信号が変わるまでの時間が長いことで有名な交差点だった。
やがて、信号が赤から青に変わろうとする頃、
キキーッ!
悲鳴に似たブレーキ音が耳朶を打った。
音が聞こえた方に目を向けた時には、スリップしたと思われる一台の白い車が目前まで迫っていた。
――あっ、轢かれる。
直感的にそう思った。あまりに急過ぎる展開に頭が追いつかずどうすることも出来なくて呆然と立ち尽くしていると、急に身体が左側に吹き飛んだ。車体はまだ私に接触していないのに関わらず、だ。
清水くんが私を押してくれたのだ。自らの身を呈して私を守ってくれたのだ。
私が尻餅をついたと同時、ドンッ! と鈍い音がした。
私の意識はそこからプツっと途切れてしまった。気付けば私は警察署で事情聴取されていたのを記憶している。事故の重要参考人として呼び出されたのだ。私はそこで清水くんが亡くなったことを知った。
――あの時の彼と似ている。
今までのとは違う、強い既視感。だけど、人違いなのは明白だった。だって、清水くんはもういないのだから。
唐突に、顔を確認してみたいという衝動に駆られる。違うのはわかっている。だけど、とにかく確かめずにはいられなかった。
彼は何をするでもなく、ただそこに飄然と立っている。私は目の前の背中に近付いていく。ゆっくりと慎重に。距離が縮まるにつれ、呼吸と脈拍が顕著に荒々しくなっているのを感じた。
「あ、あの…」
声を掛けようとしたが、瞬時に言葉を飲み込む。
声を掛けてどうするつもりなんだ、私は。見知らぬ大人の女に急に話し掛けられても彼が困惑するだけ。
「……清水くん…なの?」
そう思っていたのに、意思とは無関係にそう問い掛けている自分がいた。
一言、『違います』と否定してくれればいい。だって、違うことは絶対なのだから。
「………」
だが、彼の出した答えは、まさかの逃亡だった。
「あっ、なんで逃げるの!」
気付けば私も駆け出していた。ほとんど反射的だった。それは、動物が走るものを追い掛けてしまう本能と似ている。
「ちょっと待ってよ!」
彼もかなりの瞬足だったが、私も足には自信があった。だが、体力面では全くもって自信がない。相手は高校生で、私はアラサー。短期決着が理想だ。
好奇の視線に晒されながら、街中を駆け抜ける。この際、恥も外聞も忘却の彼方へあらかじめ放り投げておいた。
しばらく無心で彼を追い掛けていると、比較的交通量の多い十字路に差し掛かる。そして、横断歩道の信号は赤。
これは止まるしかあるまい、そう思っていたのだが、高速でビュンビュンと車が走っているというのに、彼はおかまいなしに横断歩道を渡ろうとした。
「あ、危ないよ!」
忠告するも彼は無視し、そのまま走り続ける。そして何を思ったか、彼は横断歩道を渡り切る途中で立ち止まったではないか。
「な、何やってんのっ!」
彼の右隣から乗用車が猛然と迫る。しかも、車道の真ん中に人がいるというのに、全く減速する気配がない。
このままじゃ轢かれちゃう!
凄惨な末路が脳裏をちらついた私は、彼を救うべく車道に飛び出す。
まだ間に合うはず! いや、間に合わせるんだ!
これがフィクションの世界であれば、どちらも助かってハッピーエンドというのがセオリーだろう。だが、現実はあまりに残酷だった。
彼まで後一歩という時、私の身体に車が接触。物理の法則に基づき、跳ね飛ばされる。為すすべもなく、そのまま宙を舞う。
そして、私が最後に見たものは、全くの無傷で悠然と車道に立つ彼の姿。彼の顔は『あの人』とそっくりだった。
薄れゆく意識の中、私は思い出す。今日が7月28日だということを――
「…いこ。あいこ…」
遥か悠遠から誰かが私の名を呼ぶ声がした。その声で夢現の淵を揺蕩っていた意識が覚醒へと導かれていく。誰? 私の名を呼ぶのは…。
「…あたっ!」
突如として後頭部に衝撃が走り抜け、弾かれるように身体を起こす。
「こらっ、授業中に寝るな」
脈絡もなく急に叱咤してきた人物を、私は見やる。見覚えのある人物だった。手に丸められた教科書のような本を持っているその人物は、高校時代、国語を担当していた山瀬先生そっくりの男性。
「「はははっ」」
笑い声が沸き起こって、私は周囲を見渡す。
「はぇ…?」
見慣れた顔ぶれがいくつもあった。制服に身を包んだ見慣れた人物達が、私を見て笑っているではないか。
よく見ればそこは、私が通っていた高校の教室…っぽい。いつからかあった教卓の落書き、黒板の上に貼られた『一生懸命』という手書きの紙、何かをぶつけてぼこっと凹んだ掃除用具入れ。ど、どういうこと…? ああ、そうか、と一つの答えが頭に導き出された。
「…これは夢だ」
「アホたれ。まだ夢見てると思っとんのか」
「って…!」ポコッと軽く頭を叩かれる。
「たるんどるぞ。もっとシャキっとせぇ」
そう最後に一喝すると、山瀬先生はクルッと半転し黒板の方に歩いていく。
「…す、すみません」一応、謝罪し席に座る。
「せっかく起こしてやったのに、起きないからだぞ」
背後からそんな声が届き振り返って驚愕。
「さ、紗月! …だよね?」
「何言ってんの? アンタ、まだ寝ぼけてんでしょ」
うりゃ、と額にチョップをお見舞いされる。
「ぁたっ」当然の如く額に痛みが走る。だが、これでハッキリした。これが夢じゃないことが…。
「どう目ぇ覚めた?」と心配そうな眼差しで、顔を覗き込まれる。
「…紗月、若い!」
思わずそんな言葉が自然と口から漏れていた。
「わたしゃあ、まだ17歳だ! バカたれ!」
紗月が眉を吊り上げ憤る。
「おい、そこっ! 静かにしろ!」
山瀬先生の怒号が私達を襲う。ふと、授業中に雑談しててよく怒られたことを思い出す。
「す、すいやせん」
謝りながら、私は改めて教室内に視線をスライドさせる。懐かしい顔ぶれの中に、一際目を引く人物を見つける。
――いた。清水颯斗くんが。
爽やかな笑みを浮かべる、あの時と同じままの姿で。
「…っ!」
脳の許容範囲を凌駕した出来事が頻発し頭がパンクしそうだった私は、気付けば教室を飛び出していた。
わからない! わからない! わからない!
絶賛授業中で無人の廊下を駆けながら、自分の置かれている状況を整理する。
バイト先に向かっている道中、清水颯斗くんに似た人物を見つけた私は、何故か逃げ出した彼を追い掛けた。だが、不運にもその途中、乗用車に轢かれてしまった。そして気付けば、この場、つまり学校の教室にいた。
とりあえずトイレに駆け込む。どうしても確かめておきたいことがあったから。
「…う、嘘でしょ」
トイレに備え付けられている鏡に自身の顔を映す。
目立つようになってきたほうれい線は消え、潤いが失われていた肌は張りが戻っているではないか。
鏡に映った私に手を伸ばしていく。当然、鏡の中の私も同じ動きをする。触れたら消える、なんてオチじゃないよね…?
「はぁ…はぁ…」
著しく呼吸が乱れ、視界がゆらゆら揺れ、手がプルプル微震していた。
やがて鏡に触れるが、特に何も起こらなかった。杞憂だったことに安堵し、「はぁ~」と大きな溜息が漏れた。
「……もしや」私は時をかけたのだろうか? どこぞの少女みたく。だけど、アレはフィクションだし…。だが、間違いなく高校生の私が今ここにいる。
いてもたってもいられなくなった私はトイレを飛び出し、階段を二段飛ばしで省略しながら上を目指す。目的地は屋上だ。
気付けばあっという間に屋上に通ずる鉄扉の前まで来ていた。二階から四階という短い距離ではあるが、全力疾走して息一つ切れていない。30歳の私であれば、ぜぇぜぇ呼吸を荒らげていただろう。若さ万歳。
鉄扉を開いた瞬間、眩い陽光に網膜を焼かれると同時、むわっとした空気が頬を掠める。どうやら季節は夏みたいだ。まぁ、着てる制服も半袖だしね。
痛いぐらい眩い太陽光を身体いっぱいに浴びながら、落下防止用の金網まで歩を進める。私のいた時代だと事故や自殺を懸念して、屋上を開放している学校はほぼ皆無。だけど、この時代だとまだそこまで厳くなかったからいつでも入ることが出来た。当時、私は嫌なことがあるとよく屋上に行って、一人で黄昏ていた。気持ちが安らぐというか、現実逃避できるというか…。
「すぅ~…はぁ~」
昂ぶっている気持ちを落ち着けようと、肺の限界まで空気を溜め込んでゆっくりと息を吐く。微量だけど潮の香りが混じっていた。私の住む街は海が近くにあり、風に乗って潮風が運ばれてくる。独り暮らしを始めるにあたって地元から離れた場所に転居したので、久々に嗅いだ懐かしい匂いだった。
少し冷静さを取り戻したところで、現状を整理してみる。
お前は誰だ。私は松永藍子。これは間違いようがない。例え外見が若返ろうがこれは確信が持てる。
そして、30歳だった。これも間違いない。何故なら30年間の生きてきた記憶があるから。それが断片的にしろちゃんと覚えている。
高校を卒業してからは、真面目に会社に就職しOL生活を送っていたが、上司からのパワハラに耐えかね辞職してしまった。それからはバイトを転々とし、家から比較的近いという理由でスーパーのレジ打ちに落ち着く。
思い返してみても、なんともくだらない人生を送ってきたんだなぁ、と切ない気持ちになった。
だけど、私はもう一度人生をやり直せるチャンスを得た。神様のきまぐれか、はたまた危篤状態の私が見ている夢とか…。
「それだったら嫌だな…」
どこまでも広がる真っ青な空を見上げなら、ポツリと呟く。三度目の正直。私は思いっきり頬を抓ってみた。
「ったぁ!」痛覚は正常に作動した。
夢の中で痛みは感じないから、これは夢じゃない…で、いいんだよね?
「…よしっ」一人懊悩していても、白紙の答案用紙に適切な回答を書けるとは思えなかった。
なので、私は考えるのを止めとりあえず教室に戻ろうとした…けど、いきなり飛び出しておいて、なんか戻るのは恥ずかしい。とりあえずほとぼりが冷めるまで、どこかで時間を潰そう。
私は屋上を出て階段を下っていく。一階の東側最奥、そこが目的地だった。
「…失礼しま~す」
妙な緊張感を抱きながら、保健室の扉を開いていく。
「あっ、また松永じゃない」
回転する椅子に座っていた保険医の島村のどか先生が眉を顰める。しまむーという愛称で親しまれていた美人先生だった。これまた懐かしい人物に遭遇した。
「お、おっす」
「アンタ、また授業抜け出してサボりにきたんでしょ? いいかげんにしなさよね、保健室を休憩所代わりにしないで」
「…やっぱりしまむー、綺麗…」
咎められたことより、しまむーの美貌の方が私的には重要な事柄だった。
「は、はぁ? 何よ、いきなり。…ああ、そういうことね」
「へ…?」
「褒めておいてサボりを見逃してもらおうって魂胆だろ」
「ち、違うよ! 本当にそう思っただけで…」
テレビや雑誌で活躍するアイドルを見て肥えた今の私の目でも、しまむーの顔立ちは大人らしくて綺麗だと思った。
「なんか怪しいなぁ…」
疑念を孕んだ瞳を向けられる。
「きょ、今日はあの日で体調がちょい悪くてですね…」
「三日前も同じようなこと言ってた気がするんだけど。アンタ、月に何回月経あんのよ」
「し、思春期の女子には色々あるの!」
「逆ギレかい。まっ、いいわ。アンタが留年しようが私には関係ないし」
「そ、それはそれでヒドいんだけど…」
「ベッド使っていいけど、本当に不調の子が来たらどいてもらうからね」
「がってん」
休息の許可が下りたので、私は遠慮なくベッドに身を投げる。洗剤と薬品が混ざった独特の匂いがしたけど、全く不快感はなかった。むしろ好きな匂いだ。
ベッドを借りれたのはいいけど、はっきり言って全く眠たくないし、目を瞑ってジッとしていてもマイナス思考しか働かないと思う。
「…ねぇしまむー、ちょっとお話しない?」
これはしまむーのことを色々と探れるチャンスかもしれない、そう思った私は、身体を起こして話し掛ける。
「やっぱりアンタ、仮病だったんだな」と呆れ顔のしまむー。
「こ、細かいことは気にしない気にしない。それより、しまむーに聞きたいことがあるの」
「…ふぅ」と一度嘆息してから、「で、聞きたいことってなんだ?」と問われる。
「しまむーってスキンケアとかどうしてるの?」
「そんなことが聞きたい訳? てゆーか、アンタまだ若いんだから、肌なんか気にする必要ないでしょ」
「後学の為に勉強しておいた方がいいと思って」
「…別にこれといってしてないけど」
「うっそだぁ」
「皆がしてるような手入れは一応してるけど、特別なことはしてないよ。あっ、一つあるとすれば、毎朝、生卵は飲んでる」
「な、何それ? 美味しいの?」
「はっきり言って美味しくはないよ。ただ健康にいいかなって続けるようにしてる」
「…なるへそ」しまむーの美肌の秘密は、生卵だったのか。私も飲んでみようかな。
未来(30歳)の私はお肌に無頓着で、化粧水を塗りたくっていただけだし。
「あとさぁ、初めて彼氏できたのっていつ?」
この際、聞きたいことを全て引き出そうと思った。
「好きだねぇ、女子高生はその手の話。まぁ、いいや。高一だったかな」
「で、どんな人?」
「別段、特徴のない奴だったよ。まぁ、顔はイケメンだったけど」
「やっぱり、しまむーも面食いという訳ですな」
「別に顔で選んだ訳じゃないから。告られたから付き合っただけ。どんな男かもよく知らなかったし、お試し期間みたいな感じ」
「好きでもないイケメンと付き合えるとか、勝ち組じゃんかよ」
「まぁ、全く長続きしなかったけどね。顔は良くても、中身は薄っぺらい奴だったんだよ」
目を細め懐古するしまむーは、女の顔をしていた。
今でこそ独身みたいだけど、私がいた時代だと結婚を期に退職し二児のお母さんをやっている。一度、街中で遭遇した際、顔の似た可愛らしい子供を連れていて、羨ましかったのをよく覚えている。
「今、付き合ってる人はいるの?」
「いないよ」
「ホントに?」
「毎日、生徒の世話をするだけで大変だから、そんな余裕ないよ。中には授業が嫌とか抜かしてサボりに来る面倒な生徒もいて、もう大変」
「それはそれは」
「一応言っとくけど、面倒な生徒の代表だからね、アンタ」
「失敬な! 私は優等生代表だよ!」
「寝言は寝て言いなね」
「…それよか、しまむーの男の好みって言うか、タイプってどんなの?」
「タイプ? ん~、そうだな…経済力と包容力がある人だったら誰でもいいよ」
「だったらさ、この学校の先生とかいいんじゃない? 経済力はありそうじゃん。そうだな…例えば校長とかさ」
「ジジイじゃねぇか!」しまむーは勢いよくツッコムが、「あっ」とすぐさま失言に気付く。
「おじいさんじゃありませんこと」
「何その喋り方…ぷっ、あはははは!」
私は耐えられなくて、思わず笑い出してしまう。
「そんなにウケるかね」
「だ、だって、しまむー…あはははっ」お、お腹痛い!
「これで少しは気分晴れたんじゃない?」
「…えっ?」
「松永、ここに来た時からちょっと雰囲気違ったように見えたからさ。なんか悩み事でもあったのかなって思ってたから」
さすが教師、と感心した。これまで何人もの生徒の面倒を見てきたからこそ養われた観察眼なのだろう。
「…しまむー」
「な、何よ、改まって…」
「大好き!」
私はしまむーに抱きつく。柔軟剤の香りの他に、香水だと思われる甘い匂いがした。
「い、いきなりなんなの! こら、離せ!」
嫌がる素振りを見せるしまむーだったが、満更でもなさそうだった。
そんな戯れを繰り広げていると、授業終了を告げるチャイムが鳴る。
「…そろそろ戻るよ」
そう言って私は保健室を出ようとしたが、「ちょい待ちな」と呼び止められる。
「何があったか知らないけど、あんまり授業サボるんじゃないよ。アンタの世話をもう一年しなくちゃならないって思うと、胃が痛くなるから」
「…尽力致します故」
教室に帰還するや否や、「あっ、藍子! いきなり教室出て行って、心配すんじゃん!」
紗月からお怒りの言葉を頂戴する。
「そ、ソーリー。なんか急に走り出したい衝動に駆られちゃって。思春期にありがちだよね」
さすがに本当のことは言えなかった。時間を逆行した状況を把握できず混乱してたから、なんて宣えば精神科への通院を推奨されかねない。
「ねぇよ。アンタは少年マンガの主人公か」
「まぁまぁ、さっちゃん。ちょっと落ち着いて」
その時、一人の見覚えのある女子が私達の会話に割り込んできた。若かりし頃の香菜ちゃんだ。今(未来)でもその可愛さは健在だが、学生時代の可愛さは桁違い。
「あっちゃんも反省してるよ。ねっ?」
「猛省しております」
すると、「ふぅ」と紗月が呆れたように嘆息。
「アンタ、マジで留年しても知らないからね。同窓会の時、アンタだけ呼ばれないよ」
「そ、それはやだな」
「呼ばれなくても、香菜達が別で同窓会してあげるね」
「香菜ちゃん、ありがとぉ!」
香菜ちゃんの優しさに感動し、思わず抱き締めてしまう。な、なんちゅうええ匂いなんや。しかも、胸も大きいものだから、抱き心地が最高だ。
「もぉ、あっちゃんは甘えん坊さんだなぁ」
さわさわと頭を優しく撫でられ、精神が幼児退行したような感覚を味わう。
「ちょっと香菜、藍子を甘やかさない。つけあがるから」
紗月が無理矢理私と香菜ちゃんの愛を引き裂く。
「なぁ、そこどいてもらってもいいか?」
扉の前でだべっていたからか、退去するよう声を掛けられる。それは、どこか清涼感のある声音だった。
「ああ、ごめんね」と言いながら、紗月が横に移動。
「っ…!」
紗月と香菜ちゃんの間から現れた人物を見て思わず一驚。
――清水くんだ。
すっかり忘れていたが、この時代だとまだ清水くんは生きているのだ。
「松永…?」
現実味のない光景に呆然とする私を訝しむ清水くん。
「ほら、アンタもこっち来なさいよ」
紗月に手を引っ張られ、強制的に移動させられる。
清水くんは廊下に出ると、スタスタ歩いていく。その後ろ姿を食い入るようにジッと見つめる。時折、制服と首筋の隙間からホクロがチラチラと見えていた。
「藍子、アンタ、どうかしたの? なんか固まってたけど」
「えっ? あっ、別に…」
「あっちゃん、今、清水くんのこと見つめてたでしょ? なんか恋する乙女の顔してた」
ニヤニヤと香菜ちゃんにそんな指摘をされ、「ち、違うよ」と否定。
「確かに怪しかったよね。さっきも清水くんに声を掛けられた時、あからさまにビックリしてたし」
「だ、だから違うって! ただ、気になったことがあっただけで…」
「気になったこと?」香菜ちゃんが不思議そうに私の言葉を反芻する。
「あの男子って清水くん…だよね? 間違いなく」
「アンタ、頭、大丈夫? いきなり教室を飛び出したり、朝から変な言動多いよ」
「えっ? あっちゃん、もしかして何か病気なの…?」
二人の怪訝そうな視線が突き刺さる。
「わ、私は至って正常だよ! すこぶる元気な藍子ちゃん!」
「何それ。ダサ」
「い、いいから私のことはもう放っておいて!」
「反抗期かよ」
言及から逃れるように私は自身の席に戻る。厄介にも二人の猜疑心を膨らませる結果となってしまった。だってしょうがないじゃん。私だってどうしてこうなったかわからないんだもん。
やがて昼休みが訪れ、教室内の空気が弛緩する。
過去に遡ってきてから何も口にしていなかったので、胃腸が唸り声を上げ空腹を訴えかけてきていた。
鞄をまさぐってみると、私が学生時代愛用していたピンクに水玉模様が映える巾着袋を見つける。それを開くと、これまた懐かしいキャラちっくな猫がプリントされたお弁当箱が出てきた。
「あっちゃん、一緒にた~べよ!」
香菜ちゃんに誘われ、私はお弁当箱を持って移動する。時間の経過と共に紗月と香菜ちゃんの、私に対する猜疑心は薄れたようだった。JKなんてそんなもん。
お弁当箱の蓋を開いて中身を確認。おおっ! 私の好きだったお母さん特製の唐揚げが入っていて、一気にテンションが上がった。もう何年もお母さんが作った唐揚げなんか食べてなかったしね。
「藍子のママが作るお弁当っていつも美味しそうだよね」
向かい合わせた机の対面に座る紗月が羨むように私のお弁当を見る。
「そう?」
「色合いとか完璧じゃん。ウチ、共働きだから結構そこらへん適当なんだよね」
確かに紗月のお弁当は茶色の食べ物が多い。
「アンタも働き出して一人暮らし始めたら、大変さがわかるよ。私なんてコンビニか、スーパーの惣菜だけで毎日しのいでたんだから」
「…アンタ、一人暮らしなんてしてないでしょうが」
しまった。いらんことを言っちゃった。
「さ、紗月も働きだしたら、大変さがわかるよって言いたかったの。作ってくれるだけで感謝しないと」
「……」
何故か二人がジッと私を凝視している。
「な、何?」
「あっちゃん、なんか雰囲気変わった?」
「そうそう。なんか大人っぽくなったって言うかさ。昨日とは別人みたい」
『実は私、未来からやってきたの』
なんて言えるはずなかった。まぁ、言ったところで信じてもらえないだろうけどね。
「私もちゃんと成長してるってこと。もう立派なレディーなんでね」
「…立派なレディーが口元にマヨネーズを付けてるとは思えないけどね」
「えっ? 嘘」紗月に言われるまま口元を拭ってみると、野菜に添えられていたマヨネーズがしっかり付着していた。
「ふふっ、やっぱりいつものあっちゃんだった」
クスクスと肩を揺らす香菜ちゃん。
ふと何気なく視線を感じ、そちらを見やる。そこには清水くんがいた。どこか微笑ましそうに穏和な目を向ける清水くんの姿が。
私の視線に気付いた清水くんは、スッと目を逸らし無関心を装う。み、見てたよね、絶対。
尋ねようにも私と清水くんはそこまで親密じゃない。それに勘違いだった場合、いらぬ恥をかくだけだし…。
やがて午後の授業を完遂し、念願の放課後を迎えた。私はとりあえず実家に帰りたくてうずうずしていた。ここ数年、ろくに帰ってなかったから。
理由としては、仕事や結婚についてお小言を言われるのが嫌だったのだ。早く天職を見つけろとか、孫の顔を見せろだとか。私としてはあまり触れて欲しくない部分。自覚していることをグチグチ責められるのが、一番テンション下がる。
高校時代はいつも紗月、香菜ちゃんと一緒に帰っていたが、用事があるとか言い訳して一足先に帰ることにした。
「あ~、イライラするぅ!」
グラウンドの隅に設置してある自転車置き場を通り掛かった時、そんな怒気を孕んだ声がここまで飛来してきた。ま、まさかイジメ?
以前の私ならば厄介事に巻き込まれるのも嫌だったから無視していただろう。だが、今の私は様々な経験を積んだ立派な大人。これまで散々嫌なことを見て見ぬ振りしてきたけど、そんなのはただの現実逃避にしか過ぎない。目を背け後回しにしても、そこには後悔が待っているだけなのだ。
私は恐る恐る声のした方へ近付いていく。そこには一台の自転車を前に悪戦苦闘する女生徒の姿があった。
しゃがみ込む体勢だった為顔はよく見えなかったけど、多分後輩の女子だと推測できた。
「…ねぇ、どうかした?」
思い切って話し掛けてみると、「えっ…?」その娘が露骨に驚いた顔でこちらを見た。
「あ~、もしかして聞こえてましたか?」
かなり可愛いらしい娘だった。ボブカットで二重の目。どこぞのアイドルグループに所属しています、と言われてもなんの違和感もない。
「うん、かなり」
そう肯定すると、後輩ちゃんは顔を両手で覆って悶える。
「マジすか? 恥ずかしぃ!」
そんな微笑ましい光景に苦笑しつつ、「それよりなんかあった?」と問う。
「実は自転車のチェーンが外れましてですね。さっきから何度も付けようとしてるんですけど、なかなか上手くいかなくてイライラしているとこでした」
「なんだ、そんなことか。よかったら付けてあげようか?」
「いいんですか?」
後輩ちゃんが複雑そうな表情で真偽を確認してくる。
「まかせんしゃい」
快諾すると、「じゃあ、お願いますっス」と彼女は微笑んだ。
早急に帰宅したかったのだけど、可愛い女の子が困っていたら助けてあげるのが正義ってなもんですよ。
「君、名前は?」
チェーン直しに着手しながら、私は後輩ちゃんに素性を問う。
「西口友香っス」
「友香ちゃんね」
「ちなみに先輩は?」
「私は松永藍子。気軽にあっちゃんって呼んでいいよ」
「あっちゃん…先輩はこういうの得意なんですか?」
あっちゃん先輩か…新しい響きだ。
「私が使ってるチャリがオンボロだから、よく外れるんだよね。だから、いつの間にか慣れたって感じ」
まぁ、最近はチャリなんかほぼ乗らないけど。
「へぇ…」
「で~きた!」
ちょっとコツさえ掴めばこんなのすぐに直せる。一つ問題があるとすれば、手が黒くなること。なかなか落ないんだよね、この汚れ。
「はやっ」
「ほれ」手でタイヤを駆動させ、事実であることを証明する。
「ホンマや! あっちゃん先輩、やりますねぇ」
この娘、ノリいいな。
「ありがとうございます、あっちゃん先輩」
「ふっ、いいってことよ」
何気なく掌を見やると、見事に黒く汚れていた。まぁ、喜んでくれたので、結果オーライ。
「じゃあね」と別れを告げて私は歩き出す。
「あっ、ストップ・ザ・あっちゃん先輩!」
呼び止められ、「何?」と振り返る。
「これ、ささやかですがお納めください」
友香ちゃんが何かを握った手を差し出してきたので、私はそれを受け取る。飴の包装紙だった。描かれている模様から苺味だと判別できたが、全く質量が感じられない。つまり空っぽ。
「ついでに捨てといてもらってもいいですか?」
「……」恩を仇で返す系の女子だったらしい。
「なんて冗談ですよ、冗談! そんなに怒らなくてもいいじゃないですか」
無表情でいたつもりが、怒っていると勘違いされてしまう。
前から無表情でいると、怒っていると思われがち。それが悩みだったりした。OL時代もよく不機嫌そうに見られたし、あまり周りの印象はよくなかった。
「後輩のちょっとしたお茶目じゃないですか。では、改めて」
次に頂戴した物には、ちゃんと中身が入っていた。
「…あのさ、友香ちゃんってちょっとクラスで浮いてるでしょ」
「う、浮いてませんよ。もう地に足つけて毎日奮闘してます、ウッス」
「そ、そっか…」
知り合ってほんの数分だけど、変わった娘なのは理解できた。
「じゃあね、友香ちゃん」
今度こそ友香ちゃんと別れた私は、足早に自宅へと向かった。
「おお、懐かしのマイスイートホーム」
どこにでもあるような没個性のマンションではあるが、私にとっては思い出深い物件だ。高校卒業を契機に一人暮らしを始めたので、約18年間住んでいたことになる。イタズラ好きだった私は、自分が降りる間際エレベーターの全ての階のボタンを押してよく遊んでいた。それが一時期問題になり、エレベーター内に注意書きを貼られたりした。逆にそれがイタズラ心の導火線となり、それからも面白がって何度も続けた。私が犯人だと判明した時は、めちゃくちゃ怒られたな。
エレベーターに乗り込み4階を押す。上にあがる際、ガクンと揺れるのさえ懐かしかった。
4階に到着し、通路を進んでいく。自宅である407号室の前で立ち止まる。
「……」キーを取り出し鍵穴に差し込もうとして思い留まる。この中に家族がいる、そう思うと動きが止まってしまったのだ。
意気揚々と帰ってきたはいいけど、実際にこうして我が家を目の前にすると、躊躇い逡巡してしまう。我が家なのだから躊躇する必要はないとわかっている。だけど、私にしてみれば久々の再会なのだ。
「…よ、よし」気合を入れる為にパンっと頬を叩くが、「っ…!」力加減を誤り、ジンジンと頬が痛む。
鍵を開錠し、「ただいまぁ」と無人であることを願いつつ中を覗く。
「……」
私を出迎えてくれたのは静寂。どうやら誰もいないみたい。ホッと緊張で強張っていた肩の力が弛緩する。
5年ぐらい帰っていなかったからか、嗅ぎ慣れた自宅のはずなのに不思議な匂いがした。人様の家にお邪魔した時のような、そんな感じ。
後ろ手にそっと扉を閉めて、玄関で靴を脱ぐ。いざ中に足を踏み入れようとした時、手前の扉が開いて何者かが顔を出した。
「あっ、お姉ちゃん。帰ってきたんだ」
妹の琴子だった。当たり前だけど、かなり若い。私より3つ年下だから今は中三のはずだ。
「い、いたんだね、琴子。全然気付かなかった」
なんて平静に対応したが、正直言うと心臓が口から飛び出しそうになるくらい驚いていた。
「……」何故か琴子が私をジッと見つめてくる。
「な、何…?」
「……お姉ちゃん…だよね?」
問われた瞬間、ドクンっと心音が跳ね上がる。鋭い。一見しただけで、私が当時の私じゃないことを見抜いたというのか…。
「な、何言ってんの? 当たり前じゃん」
「そう…だよね、ごめん。変なこと訊いた」
「そ、それよりお母さんは…?」
「今日は仕事で遅くなるから、二人でご飯を食べるよう言われたじゃん」
「そ、そっかそっか。ちゃっかり忘れてた」
「すっかりでしょ。てゆーか、ホントにお姉ちゃんって忘れっぽいよね。よく高校に受かったなっていつも思う」
我ながら辛辣な妹だと思う。
「でもさ、ママからお母さんに直したんだね、呼び方」
「えっ…? そ、そうだっけ? 元からお母さんって呼び方じゃなかった?」
「朝はママって呼んでた気がするけど」
「わ、私ももう大人だから、ママってのはどうかなって思い直したんだよね、うん」
確かにいつからかママからお母さんって呼び方に直したのだけど、そんな些細な部分に気付くなんて、我が妹は洞察力が優れているみたい。
「まぁ、どっちでもいいけどね。とにかく早く着替えてよ」
「な、なんで?」
「朝、一緒に買い物に行くって話してたじゃん。お姉ちゃん、マジで大丈夫?」
「そ、そうだったね。寝ぼけてたのかな、あはは」
誤魔化すように笑いながら、私は自室に向かう。
妹の琴子は私より全然しっかりしていて家事も完璧にこなして頼りになる。加えて容姿も整っており、そんな完璧な妹に当時の私は少なからず嫉妬心と劣等感を抱いていた。今思えば家事もろくにしない怠惰の染み付いた姉(私)を見て、しっかりしなきゃみたいな使命感的な感情を抱いていたのかもしれない。
「うわぁ…何もかも懐かしい」
未来だとすでに廃棄されている勉強机、マンガ達で占領された本棚、脱ぎ散らかしたパジャマが眠るベッド。私が一人暮らしをするに伴って未来には物置と化していた自室が、当時のままの姿を保っていた。
このまま青春時代に陶酔していたい気分だったけど、あまりに遅いとまた琴子に怒られるかもしれないので、私は速やかに着替えることにした。
「お姉ちゃん、そろそろ彼氏できた?」
スーパーに向かう道中、琴子が私の恋愛事情に踏み込んでくる。
「当たり前じゃない。彼氏の一人や二人もういるわよ」
まぁ、嘘だけど。これまでいい感じになった男子は何人かいたけど、付き合うまでには至らなかった。『友達でよかったよ』という台詞がトラウマになっていたりする。
「常識的に考えて二人はダメでしょ。まぁ、嘘なのはバレバレだけど」
見事に嘘が見破られてしまう。
「わ、私のことより、アンタはどうなのよ?」
「何が?」
「彼氏よ、彼氏」
「私は…まぁ、そこそこ」
明言は避け言葉を濁す琴子。多分…というか完全に私よりはモテるであろう琴子は、すでに彼氏がいるのかもしれない。昔からだけど、琴子はあまり自分の恋愛事情を口にしない。恥ずかしいからなのか、あまり干渉して欲しくないからなのか。
そんな他愛もない会話をしていたら、「あっ」と私は足を止める。
「どうかしたの?」
琴子も同じく立ち止まる。
「ね、ねぇ、違う道から行かない?」
私の言葉を聞いて、「はぁ?」と怪訝な表情をする琴子。
「もう少しで着くのに、なんでいちいち遠回りしなくちゃいけないのよ」
「ご、ご意見はごもっともですが…。あっ、そういえば朝の占いでこっちの方角は凶みたいなことを言っててさ!」
「意味わかんないんだけど」
「と、とにかく別の道から行こっ」と琴子の手を引くが、「ちょっ、離してよ!」と即座に振り払われる。
「おおっ、松永じゃんか」
騒いでいた為、見つかりたくなかった人物に存在が漏洩してしまう。
「こんなとこで会うなんて奇遇だな」
清涼感溢れる笑みを浮かべながら私達に近付いてきたのは、我がクラス随一のイケメン清水くんだった。
「え? あっ、そ、そうだね…」
「なんかあったの? 揉めてたみたいだけど」
「な、なんでもないよ! た、単なる姉妹喧嘩でして…」
めちゃくちゃ居心地が悪かった。
「姉妹? 松永って妹いたんだ、知らなかったな」
「そ、そうだったけ…?」
「へぇ…姉ちゃんに似て可愛い系だな」
「えっ…?」私に似て可愛いって言った? 聞き間違い?
「初めまして、いつも姉がお世話になってます。妹の琴子っていいます」
琴子は礼儀正しく平身低頭。
「あっ、俺は松永と同じクラスの清水颯斗です」
琴子に倣って清水くんも軽く頭を下げた。
「…清水…さん? もしかしてサッカー部のキャプテンだったりします?」
「一応、そうだけど。なんで知ってんの?」
「私達の学校でも清水先輩って有名なんですよ! めちゃくちゃイケメンのキャプテンだって!」
「そ、そうなんだ」清水くんは気恥ずかしそうに頬をポリポリ。
「そ、それよりさ、部活はどうしたの?」
私は気になった事柄を尋ねる。この時間だとまだ部活中のはずだ。
「今日はサボり」
「…キャプテンがサボって大丈夫なの?」
思いがけない返答に、私は質問を連投。
「まぁ、サボりっつーかコイツを迎えにな」
「コイツ…?」
清水くんの視線を辿り下の方に目を向けると、小さな男の子が清水くんの足にくっついているではないか。
「…か、可愛い! 何その子!」
思わず大声を発してしまうと、男の子がビクッと肩を震わせた。目測で3歳ぐらいの子だ。
「俺の弟」
「お、弟なんかいたんだ、清水くん」
全く知らなかった。どおりで清水くんに目元とか似てると思った。
「ほら、お姉ちゃん達に挨拶しろ」
清水くんが挨拶を促すが、弟くんは無言で左右に頭を振る。
「スマンな。この通りコイツ、人見知りなんだよ」
「全然気にしないで。このぐらいの歳の子ってよく人見知りするもん」
今でこそしっかり者の琴子だが、幼少期は極度の人見知りだったし。
「翔太っていうんだ」
「はじめまして、翔太くん」
威圧感を与えないように目線を合わせようとしゃがみ込む。
「…うん」
小さく返事をしてくれた。
それから少しだけ会話をした後、清水くん達兄弟と別れた。
「噂には聞いてたけど、清水先輩ってめっちゃカッコいいね」
「…そ、そう?」
「てゆーか、お姉ちゃん、めっちゃテンパってなかった?」
「テンパる? この私が? 冗談よしてよね」
「もしかしてさ、好きなの?」
「…何を?」
それが何を指し示しているのか理解していたけど、思わずとぼけた振りをしてしまう。
「清水先輩に決まってんじゃん。あんなお兄ちゃんがいたら、めっちゃ自慢しまくるし」
「…それは何かい? アタイのことを遠まわしに否定しているのかい?」
「そうかもね、ふふっ」
そう言ってイタズラっぽい笑みを浮かべる琴子は、さながら小悪魔といったところか。
買い物を済ませた私達は、手分けして夕食の準備を済ませた。私のリクエストでハンバーグを作ったけど、思ったよりも上出来だった。
姉妹揃って料理を作るのなんてかなり久々で、あーだこーだ言いながらの調理は楽しく心地よかった。
後片付けを終えると、私は自室に戻る。
「私、ホントに若返ったんだよね…」
ベッドに寝転がりながら、今日一日を回顧。思い返してみても、やっぱりまだ疑念は晴れなかった。お約束の夢オチとかだった嫌だったので、頬を力の限り上下左右に捏ねくり回してみる。
「いったぁ!」痛かった、めちゃくちゃ。
「お姉ちゃん、うるさぁい!」
隣室から琴子の叱責が襲来。
「アイムソーリー」
一応謝罪の言葉を口にすると、私は改めて室内を見渡す。
「…おっ」本棚に懐かしいタイトルの漫画を見つけた私は、手に取ってパラパラとページを捲る。確か一人暮らしを始める際、処分してしまった物だ。私はそのまま読書に耽り、旧懐の波に翻弄された。
「ただいまぁ」
どれぐらい時間が経ったであろうか、その声で物語に耽溺していた意識が現実に引き戻された。私は漫画をベッドに投棄すると、玄関へ直行。
「あら、珍しくお出迎え?」
そこにいたのは皺も白髪もほぼない若かりし頃のお母さんの姿。
「お、おかえりなさい」
「…わざわざそんなこと言いにくるなんて怪しいわね」
お母さんがスッと双眸を細める。
「む、娘が母親を出迎えるなんて普通のことじゃない」
「まぁ、なんでもいいけど。はぁ…それにしても疲れた」
疲労感をアピールするように肩と首を回すお母さん。
「…やっぱり大変? 介護の仕事」
今(未来)だともう退職してしまっているけど、お母さんはずっと介護の仕事をしていた。実際に携わったことはないけど、テレビなんかで観る介護ヘルパーさんの仕事はスゴく大変そうな印象。お母さんは仕事の愚痴を私達の前であまり口には出さなかったが、帰宅時間もバラバラで日々ストレスは溜め込んでいたと思う。
「当たり前でしょ。でも、楽な仕事なんてつまらないじゃない。大変だからこそやりがいはあるってもんよ」
その母の一言は、私の胸に突き刺さった。これまでどうにか楽な生き方は出来ないか、それしか考えてこなかった。過去を思い返してみても『やりがい』なんて言葉とは無縁の生活をずっと送っていたから。
「…鞄、運んであげる」私はお母さんの鞄を持つ。
「今日はやけに優しいわね。なんか企んでるでしょ?」
「何も企んでないってば。ちゃんと労ってあげてるだけ」
リビングまで鞄を運んでいく。
「それが怪しいっての」
「あっ、お母さんのご飯も作ってあげたから」
「うわっ、アンタにお母さんって呼ばれるの嫌なんだけど」
「な、なんでよ! 別にいいじゃん!」
「お母さん、おかえり」リビングのソファでくつろいでいた琴子が立ち上がる。「ご飯、あっためてあげるね」
「ありがと」お母さんは部屋着に着替え出す。「あっ、それより聞いてよ、琴子。さっき藍子がお母さんとか呼んできて、ぞわって鳥肌立っちゃった」
「だからなんでよ!」
我が家は母子家庭だ。私が元いた時代から換算して、15年前のこと。サラリーマンをしていたお父さんは転勤が多かった。まぁ、単刀直入に離婚原因を明かすと、転勤先でお父さんは不倫をしていたのだ。精悍な顔立ち、仕事の手腕も優れ会社でも一目置かれていたとか。
不倫が発覚した理由は、ケータイに届いていたメール。隠れてこそこそ浮気相手とメールしていた場面を、お母さんが発見した。最初こそ否定していたお父さんだったが、お母さんが厳しく詰問すると自ら白状した。それでも一回目だったので厳重注意で終わった。だけど、その後もお父さんはその女と何度も密会していたらしい。お母さんがお父さんのケータイをこっそりチェックしていたのだ。
それが発覚するや否やお父さんは逆上。なんでケータイを勝手に見るんだ! とか、お前より美人なんだよ! やら罵詈雑言をお母さんに浴びせかけた。
その場にいた私は、心底お父さんを軽蔑した。お母さんは何も悪くないじゃん、自分が浮気していたクセに何逆ギレしてんだよって。勿論、私はお母さんの味方に付いた。でも、まだ小学生だった琴子は、よりにもよってお父さんを庇った。お父さんを責めないであげて、とか、お父さんは悪いことなんかしてないよ、とか言って。多分、浮気のことをあまりよく理解していなかったのだと思う。
結局、その女との縁は切ったらしいのだが、家庭内の空気は険悪なものへと変容した。些細なことで二人はすぐ口論するようになったし、私は露骨にお父さんを無視するようになった。そんなこともあり、最終的にお父さんは家を出て行ってしまった。
最後まで別居を反対していた琴子だったが、お母さんに説得され不承不承納得させられる形で終わった。私はこれまで一切連絡を取っていないが、琴子はたまに連絡を取り合っているみたい。
私達姉妹を養う為、日々仕事に奔走するお母さんをちょっとでも楽にさせてあげるべくバイトをしようとしたけど、『その気持ちは嬉しいけど、学生の間は少しでも遊んでおきな』と言われた。自分が学生時代、バイトに追われる毎日を過ごしていたからだと言う。
そんなお母さんを労ってあげなくてどうするって話だよね。
「…ふぅ」
お風呂にも入り身体がほどよく火照ると、瞼が自然と重くなってきた。そろそろ寝ようかとベッドに寝転ぶ。
就寝前のルーティンである動画視聴をしようと枕元に手を伸ばすが、そこにあったのは二つ折りのガラケー。若返ったのはいいけど、文明の発展はまだ途上らしい。
まぁ、便利になり過ぎるのもどうかと思う。なんでもかんでもデジタル社会になりつつある昨今、人対人のコミュニケーションが希薄になっている気がする。これから先、コミュニケーション能力、つまりコミュ力が欠落した人達が増えていくんじゃないかってちょっと心配。私もそこまでコミュ力がある方じゃないけど、やっぱり実際対面して話す方が絆は深まるし、もっと仲良くなれるんじゃって思ったりする18歳の夏。
電気を消した後、再びベッドに体重を預ける。
「…ぐふふ」
これからまた高校生活を謳歌できるんだ、そう思うと自然と頬の筋力が緩む。自分で聞いててもなんて気味の悪い笑い方なんだと自嘲。
今日は色々なことが立て続けに頻発して、心身共に疲れ切っていたのですぐに眠れそうだ。なんて思っていたら、一つの疑点が脳裏を掠めた。
それは目が覚めたら、現実世界へと戻っている可能性。この状況、実は危篤状態にある私に、神様が最後に与えてくれた餞なんじゃ…。
そう考えると一気に不安感が膨張し、私の精神を無慈悲に苛む。次に目を覚ましたら、私はもうこの世にいない。そんなの嫌だ、絶対に。
「…でも」もし仮にこの時代が継続するのであれば、身体と心を休める為にも早く寝た方が賢明。
「…よしっ」私は枕を脇に抱えると、自室を出る。そのまま隣室の前まで移動して扉をノックした。
「……」
数秒待ったけど、なんの反応もない。部屋の明かりが漏れていないのを見ると、どうやら隣人はすでに寝ているようだ。
私は静かに扉を開けて中に入る。ベッドの上には膨らみがあった。
そっと近付いて隣に寝転ぶ。
「…わっ、何やってんのよ、お姉ちゃん!」
気配を殺していたつもりが、どうやら起こしてしまったようだ。
「え、えと…一緒に寝てあげようと思って」
「ビックリすんじゃん。てゆーか、暑いんだから自分の部屋で寝てよ」
シッシッと邪魔者扱いされる。
「こちら添い寝のサービスは無料となっておりますので」
「全くのノーサンキューなんだけど」
「実は世にも恐ろしい夢を見てしまいまして」
「…どんな?」
「いくら止めてって言っても見知らぬおばさんが延々とわんこそばを継ぎ足してきてさ。もう一生分のお蕎麦を食べた気分」
「それのどこが怖いのよ」
「見知らぬおばさんってのが怖くない? 『はい、じゃんじゃん!』『はい、どんどん!』ってめっちゃテンション高くてさ」
「今すぐ出てってくれる?」
「そんな寂しいこと言うなよぉ」
「私は明日も学校があるの。お姉ちゃんと違って暇じゃないの」
「私も学校あるし」
「メンドくさいなぁ。今日だけだからね」
「あんがと」
なんとか許可を頂けたので、私は安堵する。
「…ねぇ、こうやって二人で寝るのいつぶりだろうね」
ふと気になったことを口にするが、「どうでもいいよ、そんなこと」とバッサリ切り捨てられる。
「もうかれこれ20年ぐらい前じゃない?」
「アンタ、自分がいくつかわかってる?」
未来の私からしてみれば、本当にそれぐらいの年数が経っている。
「…ねぇ、琴子は私のことどう思ってる?」
尋ねるが、返送されてきたものは沈黙だった。
「ねぇ、琴子、聞いてる? ねぇっえば」
揺り起こすと、琴子は露骨に不機嫌となる。
「ああっ、もううるさいな。眠いのに邪魔しないでよ」
「ちょっとお話しようよ」
「…はぁ」琴子は心底呆れるように嘆息。「ホントにちょっとだからね。で、何?」
「琴子はお姉ちゃんのことどう思ってる?」
「メンドくさいなぁって思ってる」
「そ、そうじゃなくて。内面の話ね、内面」
「優しいんじゃない? 多分」
多分かい。
「じゃあさ、私がいなくなったらどうする?」
「…一人暮らしでもするの?」
「そうじゃなくて。私がこの世から消えたらどうする?」
「そんなの嫌に決まってんじゃん!」私の言葉を聞いた途端、琴子が声を荒げる。「また家族がいなくなるなんて絶対嫌!」
琴子は上半身を起こし、私の方を見る。なんとも言えない痛切の色が滲んでいた。
「じょ、冗談だよ、冗談。いなくならないよ」
「冗談だったとしても全然笑えない。今後一切、絶対にそんなこと言わないで」
「ご、ごめん…」
怒られてしまった。確かに逆に琴子から同じようなことを言われたら、心配になるし全く面白くない。だけど、私は不安だったのだ。次に目覚めた時、私はもうこの世にいないんじゃなかって…。
気が付けば、白色に統一された天井が視界に広がっていた。あれ? と疑問符が浮かぶ。琴子の部屋の天井は、木目調だったはず。ここはどこ?
とりあえず起き上がろうとした。が、金縛りに苛まれているかのように全く身体が動こない。辛うじて指先を動かすことができるぐらいだ。
何気なく口元に違和感を覚えて視線を下ろし瞠目。テレビでしか観たことのない呼吸器が装着されていたから。
「あっ、お母さん、見て! お姉ちゃんが目を開けたよ!」
「藍子! 大丈夫なの!」
親しみ深い二つの声音が聞こえそちらを見てみれば、焦りと不安を表情に宿した琴子とお母さんの顔があった。…いや、ちょっと待って。なんで二人共歳を取ってんの? 若返ったはずじゃ…。
『ここはどこなの?』
そう喋ろうとしたが、上手く声が出せなかった。うー、とか、あー、みたいな要領を得ない呻き声しか発声できない。
「お姉ちゃん、いっちゃダメだからね!」
いっちゃダメ? 何言ってんの?
「そうよ! お母さんより先にいくなんて許さないわよ!」
先にいく? どこに?
とりあえずダルい。とにかく眠い。
凄まじい倦怠感が私の思考を妨げる。
「お姉ちゃん! 頑張って!」
「藍子! こっちに戻ってくるの!」
涙目になりながら、琴子とお母さんは必死に訴え掛けてくる。
――あっ、私、死ぬんだ。
そう思った。だって、そうじゃないとこの二人がこんなに必死になる理由が見つからない。家族にはあまり愛されていないと思っていたけど、そんなことなかったみたい。
どうでもいいけど、めっちゃ眠い。なんでこんなに眠いんだろ?
抗えない睡魔に身を委ねると、私の意識は茫漠たる闇へと沈んだ。
「は…っ!」
パンッ! と風船が割れるような感覚で一気に意識が覚醒。
「はっ…はっ…はっ…」
全力疾走した後のように息切れが激しく、心臓がバクバクと胸部を強く殴打してくる。
「ん…? お姉ちゃん、起きたの?」
そんな声が聞こえ隣を見やると、妹の琴子が眠そうに目を擦っていた。
「こと…こ」
喉が異常なまでに渇いていて、掠れた声しか出なかった。
「…なんで泣いてんの?」
「え…?」
頬を伝う涙の感触で自身が泣いていることを自覚する。胸中を満たす悲痛な感情が涙の誘因なのは明白だったけど、その原因は不鮮明だ。
「…わかんない。でも、なんか悲しい夢を見た…気がする」
それだけはなんとなくわかった。思い出そうとしてみたけど、本能がそれを拒んでくる。
「はい」と琴子からテッシュを手渡される。「どうせしょうもない夢でも見たんでしょ? お姉ちゃん、泣き顔似合わないんだから早く拭いた方がいいよ」
「う、うん」
軽く小馬鹿にされた気がしたけど、あまり深く考えないようにした。
「香菜ね、告白されちゃった」
その日の昼休み、殷賑を極める教室にて。お弁当を食べていると、香菜ちゃんが脈絡もなくそんな言葉を口にした。
「うっそ、マジ! で、誰誰?」
食べるのを中断して紗月が過剰な反応を見せる。
いつの時代でも恋バナはJKの大好物。てゆーか、私のオアシスである香菜ちゃんを狙う不届き者は一体誰だ。
「えっとね、四組の中山くんっていう男の子が、香菜のこと好きだって」
「まさかの中山くん!」
「中山…? 誰だっけ?」私は頭を捻る。
自分のクラス以外との関係性は希薄だったので、名前を言われてもパッと顔が思い出せない。しかも、12年も前だし。
「バッカ、なんで知らないのよ。我がクラスが誇る清水くんにも負けず劣らずのイケメン男子じゃん」
「へぇ…」
そういえば、と思い出す。確かにこんな会話があった気もする。
「で、どうすんの? 付き合うに決まってるわよね?」
「断るつもりだよ。すぐに断ったら悪い気がして、考えさせてって言っちゃったけど…」
「そんなの付き合う一択でしょ! 断るなんてもったいないから、マジで」
「だって、あんまり知らない男の子だし…」
「そうそう。顔がよくても中身がクソだったら長続きしないよ」
顔がいい男は、性格に難があるのがお決まりなのだ。まぁ、偏見だけど。
「じゃあ、私に回してよ。顔がよかったら、多少性格が悪くても目を瞑る」
「アンタねぇ、顔だけで選んで何回も失敗してんの忘れた訳?:
「はぁ? 何回も失敗なんかしてないし」
しまった。今のは未来の紗月のことだった。
「顔だけで選んでたら、そのうち痛い目見るよって忠告してあげたのよ」
「大きなお世話だっつの」
不機嫌そうに言い捨てると、紗月はお弁当のお米を口に含んだ。
ケータイを忘れたことに気付いたのは、学校を出てしばらく経ってからだった。別に明日でもよかったのだけど、盗難のことを考えると取りに戻った方がいいと思った。機種変となると、家庭に負担を掛けることになるしね。
一緒に帰っていた紗月と日菜ちゃんに事情を話してから、私は来た道を引き返した。
校内は無人でないにしろ、まばらに生徒が残っているだけ。周りに誰も目撃者はいなかったけど、一応靴を履き替えてから教室に向かう。なんせ私は優等生だからね。
我が三年二組の教室の扉を開けると、半裸の男がいた。
「きゃっ」
思わず小さな悲鳴を上げてしまった。まさか変質者! と一瞬身構えてしまったが、よく見ればその人物は「し、清水くん…」だった。
「ま、松永か…。マジでビックリした」
「ご、ごめんなさい。ちょっと忘れ物しちゃって」
視界に映る清水くんの身体は、程よく引き締まった綺麗な形をしていた。ガリガリでもなければ、マッチョでもない。細マッチョと言えばいいのか…。とりあえずいい感じの体付き。
「し、清水くんはなんでここに?」
まさか放課後の教室で全裸になるという酔狂な趣味を待っているとか…。
「いや、俺も教室に忘れ物しちゃってさ」
「…上半身裸なのは、どういった理由?」
「え? あっ、スマン。どうせならここで着替えて、部活に出ようと思ってたんだ」
清水くんはユニフォームに腕を通す。な、なんだ、そんな理由か…。
私は自分の机からケータイを取り出し、「じゃあ、部活頑張ってね」と清水くんに別れを告げ教室を出ようとした。
「ちょっと待ってくれないか」
「…っ!」まさか呼び止められるとは思っていなくて、躓き転びそうになった。
「大丈夫か?」
「う、うん。そ、それでどうかしたの?」
「実は明日、朝から他校と練習試合があるんだよ。で、よかったら観に来てくんないかなってさ」
「べ、別にいいけど…。でも、なんで私なの?」
応援するなら、別に私じゃなくてもいいはず。そもそも、私が行かなくても清水くんには応援してくれるファンが大量にいるし…。
「…松永に応援して欲しいんだ。松永に応援して貰えると、更に頑張れる気がする」
「そ、そっか…」
その言葉の真意は不可視。だけど、そこまで言われちゃ行くしかないよね。
「ちなみに何時ぐらいまで?」
「朝から昼過ぎぐらいまでだな」
「…じゃあ、お弁当とかいたりする?」
「まぁ、あったら助かるけど。…もしかして作ってきてくれんのか?」
「じ、時間があったらね」
「おおっ、マジか! なんか俄然やる気になってきた」
よっぽどお弁当が嬉しいのか、露骨に口調が弾む清水くん。不覚にも可愛いと思ってしまったのは、口に出さないでおいた。
「う~ん…」
まだ陽も昇りきっていない薄暗い早朝、私は台所にて呻吟していた。
昨日の約束通りお弁当作りに着手しようとしたのだけど、よくよく考えると私はろくに料理をした試しがなかったことに気付いたのである。一人暮らしの期間は長いのだけど、いつも面倒が勝りスーパーのお弁当や惣菜に頼りきって自炊してこなかった。まさかその怠惰が、こんなところで仇になろうとは…。
とりあえず白ご飯だけはお弁当に入れてみたけど、流石にこれだけだと色合いに欠ける。そして、ガッカリされるだろう。おかずのないお弁当ほど落胆するものはない。最早、それはお弁当じゃなくて単なる白米だしね。
最終手段としてコンビニ弁当のおかずを、ただ移すっていう狡猾な方法もある。だけど、それはなんかズルいし、出来ればしたくない。
「アンタ、朝から何やってんの?」
「っ…!」
突如、背後から声を掛けられ、ビクッと肩が跳ねる。
「お、お母さん…おはよう」
振り返ると、パジャマ姿のお母さんがそこにいた。
「ま~たお母さんって呼んでる。アンタにお母さんって呼ばれるの気持ち悪い」
朝から辛辣なお方だ…。
「私だってもう子供じゃないから、いつまでもママなんて呼んでられないのっ」
「あっそ。で、何やってんの?」お母さんが私の手元を覗き込む。
「えっと…まぁ、お弁当作り?」
「あれ? 今日って土曜日だよね? お弁当いるの?」
「ん~と…まぁ、ちょっとね。ピクニックでも行こうかなって、友達と」
なんとなく気恥ずかしくなり、真実を偽装する。
「インドアのアンタがピクニック! 珍しいこともあるもんだ。雨、降らさないでよね」
「うるさいなぁ。…あっ、手伝ってよ、お母さん」
私が救援を求めると、「えぇ」とお母さんは明らかな難色を示す。
「今日はアンタ達のお弁当作らないで済むから、ゆっくり出来ると思ったのに」
「いいじゃん。ちょっとだけ手伝って」
「ああ、はいはい」
それからお母さんの手を借りて、なんとか時間までにお弁当を完成させることができた。純白のお米しかなかった質素を極めていたお弁当も、おかずが増えて色鮮やかな見た目になった。二人分ということで量を多めに作ったのだけど、思ったよりも大変な作業だった。こんな作業を毎朝していたなんて、お母さんを改めて尊敬したし、感謝しかない。
「ふぁ~あ」お母さんが大口を開けて欠伸する。「眠たいけど、そろそろ洗濯物しないと」
「…お母さん、いつもありがとう」
私が謝意の言葉を述べると、お母さんは不審そうに目を細める。
「…アンタ、熱でもあんの? やっぱり気持ち悪いよ」
「気持ち悪い言うなし。なんとなくそう思っただけだし」
我が娘に気持ち悪い気持ち悪いと失礼な母親だな、と私は内心で苦笑した。
学校のグラウンドには、既に試合を観戦しにきた生徒で溢れていた。観客の大半が女生徒である。天候は快晴で絶好の試合日和だが、孟夏の直射日光が眩しくとにかく暑い。
「「キャーッ! 清水くーん!」」
観戦していたギャラリーから黄色い声援が巻き起こる。
清水くんがボールを取っただけだと言うのに、この盛り上がりよう。あまりの人気っぷりに私は少し圧倒され気味。
実際に高校時代を送っていた時は、サッカーなどに興味がなく試合を観たことがなかったのだ。ルールさえ危うい状態である。なのでワールドカップの時期には、へぇ…日本って負けたんだ、ぐらいのテンション。ボールの蹴り合いにいちいち一喜一憂する人の気がしれない。決して貶してる訳じゃないよ。個人的には、そんなことより目の前の現実の方が大事。
「あっ、藍子じゃん」
突然、名を呼ばれ、反射的にそちらを見る。
「あっ、紗月」がそこにいた。
「藍子もサッカー見にきたの?」
「え? まぁ…そんな感じ」
「珍しいじゃん。サッカーに興味なんてあったっけ?」
「…少しだけ」
「ふぅん。あっ、もしかして清水くん目当てだったりして」からかうように、ニヤニヤと不敵に笑む紗月。「興味なさそうな素振りしといて、やっぱりアンタも好きだったんだ」
「ち、違うし」私は慌てて持っていたお弁当を後ろ手に隠す。
「清水くん、人気だしね」
私が清水くん目当てだというだという前提で話す紗月。
「紗月こそサッカーなんか興味ないじゃん。何でいんのよ?」
「私は友達の付き添い。こんなあっつい日にマジ最悪」
愚痴を漏らしながら、紗月は額に滲む汗を袖で拭う。
「じゃあ、海行こうよ、海」
私がそう提案すると、「おっ、いいね!」と紗月が食いつく。
「海行って、イケメン彼氏をゲットやで」
「男に飢えてるなぁ」
私のいた時代でも、紗月はいつでも彼氏が欲しいと宣っていた。容姿にこれといった問題はないけど、紗月の男に対する理想が高い。その為、なかなか彼氏が作れず悩んでいた。
「当たり前じゃん。高三の夏に彼氏がいないとか、マジでありえない。いつまでも女同士でつるんでる場合じゃないでしょ」
「…まぁね」
「そろそろ私達も卒業しなきゃじゃん」
「…一応聞いとくけど、何を?」
「処女」
「「キャーッ! 清水くーん!」」
またしても歓声が上がったので、グラウンドに視線を戻す。どうやら清水くんが得点を獲得したらしく、チームメイトに抱き締められたり、頭を叩かれていた。
不意に清水くんと視線が交錯。すると、喜色満面でブンブン手を振ってくれた。
「ねぇ、私に手を振ってくれてるっ!」
私の眼前にいた女子が、ピョンピョンと飛び跳ねている。
『ふふっ、私にだよ』なんて言える訳ない。私に対するアピールだって確証もないし、自意識過剰女だと邪推されるのも嫌だ。
「…私、ちょっとトイレ行ってくる」
「ん? もしかして、おっきい方?」
「違うっつの」
相変わらず下品な紗月をあしらい、私は校舎に足を踏み入れる。誰もいない校舎は、妙に静かで寂寥感に満たされていた。外からは断続的に歓声が聞こえていて、校舎だけが隔離されたような錯覚を味わう。少し不気味だけど、悪い気分じゃない。
トイレで手早く用を済ませた後、グラウンドに戻ろうとして思い留まる。私が応援しなくても、清水くんには沢山のサポーターがいる。私が欠けても、なんら変わりない。
それに、鳴り止まない黄色い声援に少し辟易していた。アイドルのライブじゃないんだから、他のメンバーにも気を使ってあげてもいいじゃん。
私は階段を上がっていく。階段を踏みしめる都度、カツンカツンという足音が鳴る。
特にこれといった理由はないけど、屋上に向かおうと思った。屋上に辿り着いた私は、中央辺りまで移動する。
「ん~っ」とりあえず大きく伸びをしてみた。
凝り固まった筋肉が弛緩し、血液が全身に流れていくような感覚に陶酔。陽射しは強烈だが、気分は爽快。
更に前進して、落下防止のフェンス越しからグラウンドを見やる。試合はまだ継続中。見る限り白熱して盛り上がっている。サッカーって走り回ってるからダイエットに向いてそうだけど、私は体力がもたないだろうな。若返ったと言っても、そもそも体力がそんなにある方じゃなかったし。
「…ふぁ~」思わず大きな欠伸が漏れる。お弁当を作る為に早起きしたので、著しく寝不足。
屋上に設置された給水棟の陰影に日除けもかねて移動する。お弁当を下に置いて、掌で床の温度を確かめてみた。
「…ふむ」日陰部分は、あんまり暑くない。腰を下ろして、給水棟の側壁に背を預ける。目を瞑って、「ふぅ」と一息つく。
清水くんは何で私を誘ったんだろ? そんな疑問がふと生まれ、目を開けて考えみる。あれだけのファンがいるのであれば、いちいち私を誘わなくてもよかったはず。
――もしかして、清水くんは私が好き…?
「いやいや、ないない」頭を振る。
清水くんはモテモテで引く手あまたなんだ。その中で私を選択する必要性があるとは到底思えない。
「ん~…わからん」
極めて難解な問題を空の彼方に放り投げ、再び目を瞑る。すると、私の意識は夏の暑気に溶けるアイスのように液状化した。
「やっと見つけた」
「わあっ!」
気付くと眼前に清水くんがいて跳ね起きる。
「った~!」反動で後頭部を壁で強打。
「だ、大丈夫か?」
「あ、うん。な、なんとか」おかげで眠気が綺麗さっぱり吹き飛んだよ。
「で、でも、なんで清水くんがここに?」
「松永を探してたに決まってんじゃん」
清水くんの額には汗が滲んでおり、少し呼吸も乱れているご様子。
「私を…?」
「それ」清水くんが指差した先にあったのは、二つのお弁当。「弁当作ってきてくれるって言ってたじゃん」
どうやら、お弁当がお目当てだったみたいだ。
「あれ? そういえば試合は?」
「今は昼休憩。ずっと松永を探してたから、腹減ったよ」
「…なんかゴメン。では、こちらをどうぞ」
お手製弁当を清水くんに献上。
「サンキュ」
にこやかにそれを受け取ると、清水くんは私の隣に腰を下ろした。ふわっと柔軟剤の甘い匂いと清水くんの汗が混じった香りが鼻腔を掠める。
「おっ、美味そう」早速、お弁当箱を開く清水くん。「でも、なんか量が多くないか?」
「男の子だから、いっぱい食べるかなって」
「そうなんだ。大変だったろ?」
「ん~…まあまあって感じ…かな」
実際、お母さんが献立を考えてくれたり調理を担ってくれたので、私はほぼ何もしていない。したことといえば、卵焼きと見栄えを考慮して盛り付けしたぐらい。
「いただけます」
清水くんは律儀にも手を合わせると、お箸を持ってお弁当を食べ始める。最初に清水くんが選んだおかずは、まさかの卵焼き。頬張りもぐもぐ咀嚼。緊張感に苛まれながら、私はその様を見守る。
「…んっ!」突如、清水くんは目を剥く。
「な、なに?」もしかして不味かったのかな? という不安感が募る。
「美味い!」
だが、反応は思ったよりも良好。どうやら杞憂だったようだ。
「ありがと。作った甲斐があったよ」
「なんかまろやかって言うか、普通と違う感じがする」
「実はちょっとだけマヨネーズを入れてるの」
「へぇ…。今度、母さんに頼んでみよう」
清水くんは旺盛にお弁当の中身を消費させていく。
「…なんで私がここにいるのがわかったの?」
一緒にお弁当を食べながら、ふと疑問に思ったことを訊いてみた。
「たまに松永が屋上にいるのを見かけてたんだよ。グラウンドで練習に打ち込んでても視界に入るんだよな、お前の存在」
「…そ、そうなんだ」
どう反応すればいいのかわからなかった。そんなこと言われたら、変な期待をしちゃうじゃないか…。
「ごちそうさま。マジで美味かった」
お弁当を食べ終えた清水くんは、後片付けを始める。彼は二人分でも少し多い量のお弁当を易々と平らげた。やっぱり男の子だなぁ、と改めて思う。
「おそまつさまでした」
「あっ、ヤベ。もうグラウンドに戻らないと。弁当、ありがとうな」
「試合、頑張ってね」
「ああ。じゃあな」
そう言い残して、清水くんは駆け足で屋上を去っていった。
「…ふぅ」なんか肩の荷が下りた気分。安堵感というか、緊張感がほどけたみたいな。清水くんと話していると、妙に気を張ってしまう。クラス一の人気者だし、私のいた時代だと“いない”人だからかもしれない。やっぱりなんだか不思議な感じがする。
「…私も戻ろう」
私は立ち上がり、お尻を払う。そして、鉄扉を開いた瞬間だった――
「ちょっと」
「ぅわっ!」目の前に人がいてビクッと派手に飛び退く。
少しつり上がった双眸と、真横に切りそろえられた前髪が特徴的な美人さんである。
見覚えがあった。確か何年か前に何気なく卒業アルバムを取り出し眺めていた時、こんな綺麗な娘いたっけと思った娘だ。私の記憶が正しければ、三井…千晶…ちゃんだったはず。
過去、他のクラスとの交流があまりなかったこともあり、失礼ながら顔や名前を忘れていた。だけど、綺麗な娘だなという印象だけは脳の隅に残っていた。
「な、何か用…?」
まさか三井さんから話し掛けられるとは微塵も思っていなくて、私はかなり狼狽した。
「はや…清水くんと何してた訳?」
三井さんの瞳には明らかな敵愾心が透けて見えた。どうやら屋上から清水くんが出てくる所を目撃していたようだ。
「べ、別に何も。ちょっと話しをしてただけ…」
「じゃあ、それってなに?」と三井さんが静かに指差した先にあったのは、私の持っている二つのお弁当箱。
「お、お弁当だけど…」
「見たらわかる。私はなんで二つ持ってるか訊いてんのよ」
突き刺さるような冷たい詰問。明らかな敵意が感じられ、背筋がゾクッと震えた。な、何を10以上も歳が離れてる小娘に臆しているんだ、私は。
「ど、どっちも私の分だよ。食べ盛りだから、私。最近、食べ過ぎで太っちゃって、ダイエットが大変で大変で」
多分、私が清水くんと一緒にいたことにご立腹のようなので、私は咄嗟に嘘をついてしまう。
「…あんまり隼人に近付くと、許さないから」
最後にそう言い捨てると、三井さんはクルッと振り返りスカートを翻し、背を向け颯爽と階段を下っていった。
「…な、なんなのよ」
「お姉ちゃん、ケータイの充電器貸して」
その日の夜、自室のベッドで寝転びながら物思いに耽っていると、妹の琴子がノックもなしに部屋に乱入してきた。お風呂上がりなのか、髪が濡れ頬が僅かに紅潮していた。
「あ~はいはい」差しぱっなしになっていた充電器のコードを抜いて、「どうぞ」と琴子に手渡す。
「どうも」
それを受け取った琴子が部屋を出よとしたが、「あっ、ちょっと待って」と引き止める。
「なに?」
「少し相談があんだけど、いい?」
「…別にいいけど。あっ、もしかして彼氏出来たとか?」
「出鼻をくじくようだけど、違うから」
「なんだ、つまんないなぁ」
その言葉通り、つまんなそうな顔をする琴子。
「なんでアンタを喜ばさないとならないのよ。でもまぁ、琴子の好きそうな内容ではある」
「えっ? なになに?」
途端、琴子は興味を弾けさせる。
私は今日あった出来事の顛末を琴子に話した。つまり、三井さんとの出来事だ。清水くんとお弁当を食べた後、三井さんが待ち受けるようにして屋上の扉前にいたことや、『あんまり隼人に近付くと、許さない』とか言われたこと。
「ふ~ん」
私の話しを聞き終わった琴子は、何故かニヤニヤしていた。
「な、何よ?」
「いや、お姉ちゃんもちゃっかりラブコメ的なことをしてたんだなぁって思ってさ」
「バカにしてんの?」
「バカにはしてないよ」
「…まぁ、いいわ。それよりどう思う?」
私は改めて意見を求める。
「間違いなく清水先輩にホレてるね、その娘」
「…そうなんかな、やっぱり」なんとなくそんな気はしていた。だけど、あの大人しい三井さんに好きな人がいたなんて驚きだ。過去、接した記憶はないに等しいが、恋愛に興味があるようには見えなかったし。
「お姉ちゃんもでしょ?」
「何が?」
「清水先輩が好きなの」
「は、はぁ? なんでそうなんのよ」
「どう見積もっても好きじゃん」
「べ、別に好きじゃないし」
「好きでもない男子にわざわざお弁当なんて作っていく訳? よっぽどのお人好しか、気がなかったらそんなことしないでしょ」
確かに、と納得してしまう。でも、お弁当を作ったのは、清水くんに頼まれたからであって自主的じゃないし。そこに恋愛感情が含まれているのか、いないのか、と問われると正直微妙なところ。
「…私は頼まれてお弁当を作っただけだし」
「じゃあ、清水先輩がお姉ちゃんに好きなのかもね」
「んなアホな」
「私もあのチョー人気の清水先輩がお姉ちゃんを好きだなんて思えないけどね」
「…どっちなのよ」
「お姉ちゃん、モテ期なのかもよ。人って特に理由もなく、モテる時期があるみたいだよ
よ」
全ての理由を、モテ期で片付けられる。ますます清水くんのことがわからなくなった…。
翌日の朝、紗月と登校途中、前方に白い自転車を押して歩く三井さんの後ろ姿が目に入る。
「三井さん、おはよー!」
三井さんはこちらを一瞥してくれたが、そのまま何事もなかったように歩いていった。
「アンタ、いつの間に三井さんと仲良くなった訳?」
紗月の何気ない問いに、「今日から!」と答える。昨晩、色々考えてた。せっかく時間を遡ってきたのだから、過去に接点のなかった子と親睦を深めるのもアリだと思ったのだ。
「ごめん、紗月。私、先に行くね」
「あっ、ちょっと!」
紗月を置いて私は三井さんの背中を追った。
「三井さん、おはよー」
三井さんの横に並んで、改めて挨拶をする。
「……」
三井さんは何も答えない。ただの屍のようだ。まぁ、生きてるけど。
「昨日ぶりだね。元気してた?」
「……」
やはり無視されてしまう。
絡んでくんな、という感情がひしひしと雰囲気から伝わってくる。
「私、実は嬉しかったんだよね。三井さんがまさか私に話し掛けてくれるなんて思ってなかったからさ」
「……」
寡黙を貫く三井さん。私、いつの間にかステルス能力を身につけていたみたい。
「あっ、清水くん」
「えっ…?」
私がいくら話し掛けても無反応だった三井さんだったが、清水くんの名を聞いた瞬間、主人の帰りを察した犬のような機敏さでピクッと反応する。
「ごめん、見間違いだったみたい」
「死ね!」
非情な一言を私に浴びせ掛けると、三井さんは歩くスピードを上げた。そういうシンプルな短い言葉が一番心に響くよ。
その日の昼休み、私はお弁当を持ってそそくさと教室を出ようとした。
「あっちゃん、どこいくの?」
が、運悪く香菜ちゃんに見つかってしまう。
「一緒に食べないの?」
「ちょっと別の教室で食べようかと思って」
「えぇ、なんでぇ?」
「香菜、文句を言ってはダメよ」すると、紗月が割り込んできた。「コイツは私達に飽きて、別のクラスメートと友情を育んでいるのだから」
「ガガーン!」香菜ちゃんがわかりやすくショックを受ける。「あっちゃん、香菜達のこと、飽きちゃったの?」
母性をくすぐられるような潤んだ目を私に向ける香菜ちゃん。
「あ、飽きてない飽きてない! いらんこと言うな、紗月」
「だってホントのことじゃん。どうせ三井さんとこ行くんでしょ?」
「そうだよ、悪いか」
「私達のことほっといて、三井さんとこ行くんだ。この浮気者!」
「ものぉ!」紗月の言葉に続いて、香菜ちゃんも便乗する。
「だぁ、うるさい! アンタ達とはまた明日食べてあげるから!」
紗月達を一蹴し、私は教室を脱する。3組の教室を廊下から覗くと、三井さんは窓際一番前の席でポツンとぼっち飯を堪能していた。なんとなくそんな気がしていたけど、三井さんはクラスに溶け込めてないようだ。
「ちぃちゃん、一緒に食べようぜぇ」
声を掛けたのが私だと判明した途端、眉を顰め露骨に嫌悪感を露わにする。
「アンタ、マジでなんなの? 休み時間の度に会いにくるし。嫌がらせ?」
「やっと話してくれたね。嫌がらせじゃなくて、良いがらせだよ」
「…マジウザい。昨日の仕返しって訳?」
「違うよ、違う」私は隣の空いていた椅子を借りて、三井さんの前に向かい合う形で座る。「私、ちぃちゃんともっと仲良くなりたいんだよね」
お弁当箱を開きながら、私は会いにきた理由を伝える。
「元から仲良くないから。それと、ちぃちゃんって呼ぶの止めて」
「私のことはあっちゃんって呼んでいいよ」
「呼ぶか」
バッサリ切り捨てると、三井さんは不機嫌そうにお弁当を食べ出す。
多分、昔の私ならこれだけ冷たく対応されれば、仲良くしようという気持ちが容易く萎んでいただろう。だが、私も人生と歳を重ね寛容な性格になったのだ。これぐらいでへこたれていては、社会を生き抜いていくことなんてまず無理。人生の荒波に揉まれきた私にすれば、こんなのなんともない。
「あっ、その野菜炒め美味しそう。一口ちょうだい」
「ヤダ」
「私の唐揚げあげるから、交換しようよ」
「いらん」
「そんなケチなこと言わないでさぁ。ほら、美味しいよ」
私はお箸で唐揚げを掴み上げ、三井さんの眼前に突き付ける。
「だから、いらないって、むぐっ…!」
口が開いた瞬間を見計らって、唐揚げを無理やり押し込む。眉間に皺を寄せながらも、観念して咀嚼する三井さん。
「んっ…!」次の瞬間、目を見開いた。「お、美味しい…かも」
認めたくないのか、三井さんは言葉を濁す。
「でしょ? 冷凍じゃなくて、お母さんが前日からちゃんと漬けて作ってくれたやつなんだよ」
「…あっそ」
「私もちょっと貰ってもいい?」
「…好きにすれば」
本人の承諾を得られたので、改めてお弁当の中身を見る。女子力の高さを感じさせる見栄え。おかずと野菜のバランスが丁度よくてカラフル。とりあえず当初の目的だった野菜炒めを選び口に運ぶ。むしゃむしゃ。
「美味しい!」思わず大声を上げてしまうぐらい、絶妙な味付けだった。
「こ、声デカい」
三井さんに注意をされ、「あっ、ごめん」と謝る。
食事中に大声を出してしまうなんて、淑女としてあるまじき行為だわ。
「でもさ、めっちゃ美味しいよ、これ。もしかして手作り?」
「…一応」
「おおっ、ちぃちゃん天才!」
「さっきも言ったけど、ちぃちゃんって呼ぶの止めて」
「どして?」
「なんか不快だから」
流石に距離を詰め過ぎたか。
「じゃあ、千晶ちゃんって呼んでもよかですか?」
「…好きにすれば」
「私のことは藍子ちゃんって呼んでね」
「呼ぶか」
「なんでよ!」
お弁当を食べ終えた頃、急に千晶ちゃんが席から立ち上がる。
「あっ、千晶さま、いずこへ!」私も席を立つ。
「トイレ」
「私もお供します故」
「付いてくんな」
同行を拒まれたが、私は千晶ちゃんの後ろを付いていく。
「おっ、千晶」
廊下を進んでいると、清水くんとバッタリ遭遇。
「は、颯斗」
「あれ? 松永も一緒じゃん。いつの間にか仲良くなって、」
「ないから」
清水くんの言葉を遮って、千晶ちゃんが即座に否定する。私と友達だと思われるのが、そんなに嫌だと言うのか…。
「なんかつきまとわれて困ってるの。助けてよ、颯斗」
千晶ちゃんが清水くんに助けを請う。
下の名前で呼び合っているところを見ると、どうやら二人は仲がいいらしい。だから、この前も颯斗と呼んでいたのか。全く知らなんだ。
「松永、千晶のこと頼むよ」
「は、颯斗、何言ってんのよ!」
「コイツ、無愛想だからクラスで孤立してるみたいなんだわ。松永は友達も多いし、松永になら千晶を任せられる」
「勝手なこと言わないでよ! 私は颯斗がいればそれでいいの!」
廊下全体に響き渡るような声量に、周囲に蔓延していた喧騒がピタッと止む。
「…あっ」千晶ちゃんがそれに気付いて口元を押さえる。
「何意地張ってんだよ」
「意地なんかじゃない。私はホントに颯斗がいればそれでいいと思ってる」
「お前、このままでいいと思ってるのか? 俺もずっとお前の面倒を見てやれんぞ」
「子供扱いしないで! 私は颯斗がいればいいの。他に友達なんていらない」
「いらないってお前…」
「友達なんかいても邪魔。どうせ都合が悪くなったら裏切るもん」
はっきりとした拒絶。
私は違和感を抱く。千晶ちゃんが他者との交流を拒み一人でいることに固執する姿勢。何か大きな理由があるのではなかろうか。それがなんなのかは、本人が吐露しないとわからない。だけど、私が言えることは一つ。
「私は裏切らないよ、絶対」
そう発言した直後、「嘘」と千晶ちゃんが言下に否定する。
「皆、口ではそう言うけど、結局は自分のことしか考えてないのよ。気に入られようとか、嫌われたくないとか、そんな下心ばっかり」
まるで誰かを糾弾するみたいなその言葉を聞いて、私は確信する。千晶ちゃんは過去に他者を信じられなくなるような出来事があったのだ、と。
「ホントだよ」私は千晶ちゃんをそっと抱き締めた。「私は絶対に裏切ったりしない」
「何も知らないくせに…」
「大丈夫。何があっても私は千晶ちゃんの味方だよ」
私をすぐに引き剥がさないということは、他者と関係を築き上げることを完全に断ち切れていないのかもしれない。
その時、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴り響く。すると、千晶ちゃんが私の肩を押して距離を取る。
「トイレ」
ボソッと言うと、千晶ちゃんは足早に廊下を歩いていった。
「松永」不意に清水くんが私を呼ぶ。「千晶のこと、頼んだ」
放課後となり、私は三組の教室に向かった。勿論、千晶ちゃんと一緒に帰る為だ。
「ちぃちゃん、一緒に帰ろうぜぇ」
黙々と帰宅準備を進める千晶ちゃんに声を掛ける。
「…はぁ」私の顔を見るなり、露骨な溜め息を漏らす千晶ちゃん。「一人で帰りなさいよ」
「そんな冷たいこと言わずに、一緒に帰ろうよ」
「私はこれから用事あるの」
「私も付き合いますぜ、地の果てまで」
「アンタ、マジでウザい。私に付きまとわないで」
「私達はもうマブダチだろ?」
「ふんっ」千晶ちゃんは鞄を持つと、足早に教室を出る。私も後に続いた。
千明ちゃんが真っ先に向かった場所は、学校のグラウンド。グラウンドでは運動部が走り回り、青春に汗を流している。
生来、私は部活というものに触れ合ってこず帰宅部のエースを貫いていた。運動するのがあまり好きじゃなかったのと、放課後の時間を削られるのが嫌だったから。卒業してから、部活に入ってればよかったな、なんて後悔する羽目になるとも知らずに。
テレビなんかで運動系や文化系の部活に密着しているのをよく見かける。皆、一様に楽しそうなのだ。苦境を乗り越えた先にあるゴールを、一丸となって目指す。まさに青春。苦楽を共にしてきたからこそ分かち合える友情は一生の宝物。
閑話休題。
千晶ちゃんが言うには、清水くんの部活が終わるのを待つらしい。いじらしいなって思う。私にもし部活に入る友達がいた場合、億劫が勝って待つなんてことはしないだろう。さっさと家に帰って、惰眠を貪っていたと思う。
「千晶ちゃんさぁ、サッカー部のマネージャーしたらいいじゃん」
グラウンドの隅にある石段に腰掛けながら、千晶ちゃんに提案する。
「ヤダ」千晶ちゃんは一考も挟まず私の提案を却下する。
「どして?」
「颯斗だけならまだしも、他の部員の面倒なんてみたくない」
「あーね」千晶ちゃんらしいと言えばらしいけど…。
「汗臭いのとか、マジ無理」
「ははは」私は愛想笑い。
まぁ、私も汗臭いのは苦手。夏場の満員電車なんてかなり強烈。OL時代、夏の間はいつも車で通勤したかった。だから免許取得を夢見たけど、テレビで流れる事故映像なんかを観てると怖くなって結局取らず今に至る。
「素朴な疑問なんだけど、千晶ちゃんと清水くんっていつから仲良いの?」
「…アンタに話してなんか意味ある?」
練習に励むサッカー部員(多分、清水くんだけ)を見据えながら、千明ちゃんは素っ気なく応じる。
「意味は…ないけど。ちょっと気になっただけで…」
千晶ちゃんは私を一瞥すると、すぐに前を見据え静かに口を開く。
「…颯斗とは幼稚園の頃から一緒」
どういう風の吹き回しか、何やら話してくれるようだ。
「やっぱり昔からモテモテだったの?」
「昔の颯斗は泣き虫で頼りなかった」
「そうなの?」
「転んだらすぐに泣くし、怒られてもすぐに泣く。極度の人見知りで、私がいないと何も出来ないような子供だった」
「かなり意外。ずっと運転神経がよくて、キラキラしてると思ってたよ」
私の中での個人的な清水くんのイメージは、運転神経がずば抜けてて、気さくな性格で友達も多く、女子からキャーキャー言われる存在。どうやら幼少期は、正反対だったらしい。
「小学生の頃にサッカーを習い始めてから、徐々に友達も増えて活発な子になっていった。私もそんな変わっていく颯斗を見てて嬉しかったよ。毎日が楽しそうで、輝いていたから」
過去を披瀝する千晶ちゃんは、どこか遠い彼方を見つめているようだった。
「いつの間にか立場も逆転してた。友達の数も人望も。ひ弱で内気だった颯斗は、気付くと影も形もなくなってた。だけど、颯斗は変わらず私と接してくれた。アイツと違って…」
「アイツ…?」
「え? あっ、な、なんでもない」
失言だったのか、千晶ちゃんはキョロキョロと目を泳がせた。
私は千晶ちゃんの挙動に違和感を覚える。“アイツ”というのが千明ちゃんが人付き合いを拒むキッカケになった人なのかもしれない。
だけど、それ以上の言及はしなかったし、出来なかった。あまり他者に踏み込んで欲しくない領域だというのは、すぐに感じ取れたから。
「ありがと、話してくれて」
「…なんで私、アンタに色々話したんだろ」千晶ちゃんが不思議そうに小首を傾げる。
「もしかしてさ、私を友達って認定してくれたってことじゃない?」
「それはない」
そろそろ泣くよ?
「危ない!」
その時、誰かの危機感の伴った声が耳に届く。パッとそちらに目を向けると、もの凄い速さの白球が目前まで迫ってきているではないか。
「千晶ちゃん!」
弾道から千晶ちゃんに直撃するのがわかった私は、彼女を庇うように抱き寄せた。
気付けば視界には、見慣れぬ白い天井が広がっていた。
「…あれ? っ…!」
上半身を起こした瞬間、後頭部にズキズキとした疼痛が走る。あたた。
痛む箇所を押さえながら、私は周辺を見渡す。いくつもの薬品が置かれた棚、鼻腔に忍び込んでくるアルコールの匂い。風でヒラヒラ揺れる白いカーテンからは、学校のグラウンドが見えた。刹那的に、そこが学校の保健室だと解する。
「確か…」私は記憶を遡る。千晶ちゃんを襲い来る白球から庇おうとしたまではいいけど、そこから何も覚えてない。私はなんでここにいるのか…。
「…おろっ?」何気なく視線を下に向けて一驚。千晶ちゃんの寝顔があったからだ。ベッドの側面で腕を枕にして寝ているではないか。
「あら、やっと起きた?」
「…っ!」急に声を掛けられ反射的に悲鳴が漏れそうになったが、なんとか堪えた。
「し、しまむー…」
保険のしまむーがいた。
「思ったより元気そうじゃん」
「そ、そんなことより、アタイは何故こげな所に?」
「覚えてないの? 頭にボールをぶつけたって、急いでその娘がここまで運んでくれたのよ」
「そ、そうだったんだ…」
「もう顔面蒼白だったから、こっちも驚いちゃったわよ。でも、看た感じ軽症だから大丈夫だと思うわ。安静にしてたらコブもじきに引くでしょ」
しまむーに言われ頭部を触ってみると、確かに小ぶりのタンコブがあった。軽く押してみる。痛い。
「でもまぁ、衝撃でちょっとは頭がマシになったんじゃない?」
「なっ、し、失敬な…!」遠回しに馬鹿だと揶揄される。
「とりあえずずっと付き添ってくれたんだから、ちゃんとお礼言っときなさいよ」
じゃあ、私はちょっと用事で職員室行ってくるわね、と言い残し、しまむーは保健室を出て行った。
「……」
私はまだ寝ている千晶ちゃん頭にソッと触れる。そのままゆっくり撫でてみた。一本一本が細く艶やかな髪は、よく手入れが行き届いている。ヘアアイロンで誤魔化し痛みまくった私の髪とは全く違う。
千晶ちゃんにはまだ結構嫌われていると思っていたけど、少しだけ心を開いてくれたのかもしれない。
「…ん?」
千明ちゃんの髪を撫で回していると、パッと彼女が目を覚ます。
「グッモーニン」
「…な、何気安く触ってんのよ!」
憤然と手を振り払われる。
「寝顔が可愛くてつい」
「起きたなら起きたって言いなさいよ! 心配したじゃない!」
「心配してくれてたの?」
「あっ…し、してる訳ないじゃない! アンタ、バカァ?」
ふんっ、とそっぽを向く千晶ちゃん。妙に顔が赤く見えたのは、夕陽の所為だろうか。それより、最後のはどこかで聞いたことのあるセリフだな。
「千晶ちゃん、ありがとう。私を運んでくれたんだよね」
「べ、別にアンタの為じゃないから。私を庇った所為で死にでもしたら、後味悪いって思っただけだし」
「し、死にでもしたらって…」
「無事そうだし、私はもう帰るから」
立ち上がり鞄を持つと、さっさと帰ろうとする千晶ちゃん。
「あっ、ちょっと待って! 私も一緒にかえ…あたた」
ベッドから出ようとした瞬間、後頭部がズキズキ痛む。
「もうちょっと休んでからにしたら」
「だ、だいじょーぶ。これぐらい平気」
「あっそ。悪化しても知らないからね」
千晶ちゃんの後に続いて廊下に出ると、騒がしかった運動部の溌剌な声は消え去り、校内は静謐な空気に満たされていた。どうやら下校時間はとっくに過ぎていたらしい。
「私って結構長い時間気絶してた?」
「…一時間ぐらいじゃないの」
「じゃあ、一時間も側にいてくれたってことだよね?」
「し、知らない」
「ありがと、千晶ちゃん」
「う、うっさい」
つっけんどんに言うと、千晶ちゃんは歩く速さを高めた。私は駆け足で千晶ちゃんの背中を追った。
やがて、自転車置き場に到着。そういえば朝、千晶ちゃんは自転車を押していたな、と思い出す。
白い自転車の鍵を手早く解錠すると、無言のまま乗りペダルに足を置いて漕ぎ出そうとする。
「あいや、待たれい!」私は荷台に飛び乗る。
「ぅわっ! ちょ、ちょっと何やってんのよ!」
「だって先に帰ろうとするんだもん」
「いいから降りなさいよ!」
「ヤダ!」
「降りろって言ってんでしょ!」
言い争っていると、自転車のバランスが崩れ仲良く転倒。
「「きゃあ!」」私達の悲鳴が重なる。
「いったぁ…アンタの所為だかんね」
打ち付けた臀部をさすりながら、千晶ちゃんが私を睥睨。
「私の所為だよ!」
「何開き直ってんのよ!」
「なんとなく!」
私達は至近距離で睨み合う。改めて近くで見る千晶ちゃんの顔は、肌が白く睫毛も長くて秀麗な顔立ちだった。無性にチューしたくなった。特に理由はない。
「むちゅ~…むぐっ」
唇を突き出すと、ガシっと両頬を掴まれる。
「にゃ、にゃにしゅんの」
「こっちの台詞。アンタ、何しようとした?」
め、目が怖い。
「いや、チューして仲直りするのが、バラエティのお約束かなって…」
「そんなもん知るか」
再び一人で自転車に乗って帰ろうとする千晶ちゃんを、「ま、待ってよ!」と引き止める。
「何してんのよ!」
「私が運転するから、一緒に帰ろっ!」
「…わかったわよ」
不承不承といった様子だったが、千晶ちゃんは了承してくれた。
後ろに千晶ちゃんを乗せサドルに座った後、ペダルに足を置いて重心を掛けると自転車は駆動する。そういえば自転車に乗るのなんて数年ぶりだ。ましてや二人乗りなんてもっと前だと思う。基本、移動は電車だったもんな。
「千晶ちゃんって休みの日とか何してんの?」
無言で運転するのも寂しかったので、素朴な疑問を投じる。
「なんでもいいじゃん」
だが、返送されてきたものは、そんな素っ気ない答えだった。まぁ、なんとなく予想してたけど…。
「私はもっぱら二度寝だな。朝ご飯も食べず昼過ぎまで寝てるのが幸せなんだよ。まぁ、後でお母さんと妹に怒られるんだけどね。『いつまで寝てんのよ!』みたいな感じで」
「どうでもいいし、聞いてないから」
つ、冷たい…。
住宅が立ち並ぶ閑静な道を進んでいくと、緩やかな下り坂に差し掛かる。そこまで傾斜のある坂道ではなかったが、かなり楽だった。
「極楽じゃあ」
二人乗りで疲れた足を休める至福の時間だ。その時、千晶ちゃんが真剣な声音で口を開いた。
「止まって」
「へっ…?」
「いいから止まって」
「家ってここらへん?」
「いいから前見なさいよ!」
「えっ?」
前方を注視すると、こちらに向かって自転車を押す警官の姿が視界に入る。げっ!
「ん…?」
私達の存在に気付いた警察官とバッチリ目が合う。ヤバい!
「こ、こんにちはぁ~」
スピードは緩めず何食わぬ顔で素通りしようとした――
「そこの二人止まりなさい!」
警官から停止命令が下る。ですよねぇ。だが、私は止まらなかった。一々対応するのも面倒だったし、何より身元を明かすのがなんか嫌だった。
「ちょっと、なんで逃げてんのよ!」
荷台に乗る千晶ちゃんから追及の言葉が飛ぶ。
「なんとなく逃げちゃった!」
「こらっ、止まりなさい!」
後ろを一瞥すると、当然の如く警官が追走してきていた。
「まだ間に合うから、止まりなさいよ!」
「今更止まれないよ!」
ペダルを懸命に漕いで坂道を一気に下る。周りの景色が目まぐるしく変わっていく。風を身体で切り裂くような感覚は、幼少期の記憶を去来させた。男勝りだった私は怖いもの知らずで、急勾配の坂をノーブレーキで下ったりしていた。一度、そこでド派手にすっ転んで大怪我してからは、ブレーキすることを覚えたけど。スピードを少し緩めて左折し、そのまま直進。
「止まれと言っとるだろ!」
振り向かずとも警官が追って来ているのがわかった。
どうにかして逃げ切らないと、怒られること必至。私は視線を左右に巡らせ逃げ場所を探す。
「前! 前見ろ!」
千晶ちゃんの緊迫感の伴った声に、視線を前に戻す。
「わっ…!」
十字路で右折してきた乗用車に衝突しそうになり、慌ててハンドルを左にきる。間一髪のところでなんとか避けられた。ふぅ、死ぬかと思ったぜ。その時、左側に小さな公園を見つけたので迷わず中に入る。遊具の少ないこぢんまりとした公園だが、緑が多く隠れるにはうってつけ。自転車を降りて、私達は茂みの影に身を隠す。自転車を発見されるとヤバいので、地面に倒しておいた。息を殺しジッと気配を絶つ。
「…もう大丈夫かな?」
約3分が経過した頃、私は千晶ちゃんに確認する。
「…多分」茂みからちょこっと顔を出して周りを見渡す千晶ちゃん。どうやら危機的状況からは脱せたようだ。
「「ふぅ…」」と私達は同時に安堵の溜め息を吐いた。
「なんか楽しかったね」
ふと、そんな感想を述べると、「はぁ?」と千晶ちゃんは眉間に深い皺を刻む。
「警察に追い掛けられるチャンスなんてそうそうないじゃん」
「あってたまるか」
「でもさ、なんかアトラクションみたいでスリル満点だったでしょ?」
「そ、それはまぁ…否めないけど」
「でしょ?」
「なんで自慢気? そもそもアンタの責任なんだからね。捕まってたら、親とか学校に連絡されてたかもしれないんだぞ」
「捕まってないから、結果オーライ!」私はビシッと親指を立てる。
すると、「はぁ」と千晶ちゃんは深く嘆息し、呆れ顔で一言。
「反省してないでしょ? アンタ」
その後、また警官に遭遇しても嫌だったので、自転車を押して歩いて帰ることにした。
「おい、そこの二人」
不意に背後から声を掛けられ、私達は同時にビクッと肩を震わせた。ま、まさか、さっきの警察官…? 翼々とゆっくり振り向く。そこにいたのは、予想外の人物だった。
「し、清水くん!」
「は、隼斗!」
いつもの爽やかな笑みを浮かべた清水くんが立っていた。
「お、驚かせないでよ」
私の言葉に同調するように、千晶ちゃんが不満を口にする。
「そ、そうよ。いきなりビックリすんじゃん」
「何をそんなに驚いてんだ?」
警官だと思ったからだよ! とは流石に言えない。
「そ、それよりなんでここに?」
動揺しているのを悟られまいと、私は話の矛先を変える。
「部活終わりで腹減ってたから、コンビニで腹ごしらえしてたんだよ」
「…そうなんだ」
「つーか、一緒に帰るぐらい仲良くなってたんだな」
「はぁ? 仲良くなんかなってないし」
ふとした清水くんの発言を、すぐさま否定する千晶ちゃん。
「別に照れることないだろ」
「照れてないし」
「何意地張ってんだ」
清水くんは千晶ちゃんの頭をクシャクシャと撫で回す。瞬間、千晶ちゃんの表情筋がふにゃっと緩んだように見えた。まるで飼い主に撫でられた犬みたいな。
「あっ…こ、子供扱いすんなって言ってんでしょ」
私の視線に気付くと、千晶ちゃんは頭を振って清水くんの手をはねのける。
「ははっ」と清水くんは破顔一笑。
長い付き合いだからこそ出来る嬉戯。異性の幼なじみがいない私からしたら、羨ましい関係性だ。
「そういえばさ、明日って授業昼までじゃん? そっからなんか用事あったりする?」
急に問い掛けられ「わ、私?」と対象者を確認すると、「うん」清水くんは頷く。
「な、なんで?」
「今日、スパイクがぶっ壊れたんだよ。だから、買いに行こうと思ってさ」
「付き合えってこと?」
「一緒に行こうと思ってた友達が、急に予定入ったとかで無理になったんだよね。試合も近いから、早めに買っておきたいんだ」
「…別にいいけど、全然わかんないよ、私」
スパイクがトゲトゲの付いた靴だってことぐらいしか知らない。
「大丈夫。付き合ってくれるだけでいいから」
「ちょっと!」その時、千晶ちゃんが憤然と物申す。「なんで私じゃなくて、ソイツを誘うのよ!」
名前を呼んでくれないのはいいけど、ソイツ呼ばわりは傷付くなぁ…。
「だってお前、人前に出んの苦手じゃん」
「うっ…そ、それはそうだけど……」
清水くんは私に向かい、「じゃあ、明日昼の2時ぐらいに駅前集合な」と勝手に約束を取り付ける。
「…が、頑張れるもん。人前ぐらいへっちゃらだし!」
「気分悪くなっても知らないからな」
「ふんっ、隼斗になんか頼らないよ~だ」
べ~っと舌を出す千晶ちゃん。子供っぽくて可愛い仕草である。私と対話する時と違って、かなり親しく仲良さげだ。
「な、何見てんのよっ」千晶ちゃんが私をキッと睨む。
「可愛いなぁって思って」
「…う~む」
翌日、学校から帰ってきた私は、ベッドに胡座をかいて悩んでいた。床に散乱するのは、私が昔愛用していた洋服達。
この後、清水くん、千晶ちゃんとお出掛けの日。どの服を着て行けばいいのかがわからなかった。
女子受けもして、男子からも好感を持たれるようなヤツを探しているが、皆目見当もつかない。基本的に自分が着たい物を着るのが主義で、昔から周りの目をあまり気にしないタイプだった。しかも、夏服だから無駄に露出度が高い。それにファッションセンスが一昔前の物ばかりなので、今の私だったら恥ずかしくて絶対に着れない。
「お姉ちゃん、お昼ご飯できたよぉ!」
突然、扉が開かれたかと思うと、妹の琴子が顔を覗かせた。
「って、何やってんの?」
「…ねぇ、男子から好感持たれるような服ってどれ?」
「えっ? 何っ? もしかしてデート?」
私の言葉を聞いた途端、琴子が即座に食いつく。
「…もう一人女子がいるから、デートじゃないかな」
「なるほどね、その女子とお姉ちゃんは友達で、同じ男子のことを好きになっちゃった訳だ。恋愛も大事だけど、友情も大事、っていうジレンマと葛藤してるんだよね。でもさ、遠慮してずるずる引きずってたら、それこそ卒業して気軽に会えなくなっちゃうよ。同じ大学を目指してるとかだったら別の話だけど、お姉ちゃんの学力でまともな大学に通えるとも思えない。ちゃんと友達もわかってくれると思うよ。愛情はふとした瞬間に冷めるけど、友情はそうそう簡単に壊れない。このまま何もせずに譲り合ってたら、絶対にどっちも後悔する。だから、今こそ勇気を振り絞って、一歩を踏み出さないとだよ。動き出さないと何も始まらないよ」
「…今の一瞬でそこまで妄想を膨らませたアンタには脱帽だよ」
少女マンガの読み過ぎだ。
「なぁんだ、違うの? 面白くなぁい」
不満げに唇を尖らせる琴子。てゆーか、なんでアンタを面白くさせないといけないのよ。とりあえず無難に当時気に入っていたダメージ加工されたデニムスカート、ピンクのノースリーブをチョイスし着替える。30歳の私だと絶対に露出させない二の腕だったけど、若い頃は当たり前のように出してたなと当時を思い出していた。
「えっと…」駅前に到着した私はキョロキョロと周囲を見渡し、待ち合わせ相手を探す。駅前といえど平日の昼過ぎなので人通りはまばら。
「…ん?」その中でも異彩を放つ人物を見つける。視界をシャットアウトするようにキャップを目深に被ったその人物は、黒い長髪でスキニーを穿いた足はかなり細い。それは明らかに千晶ちゃんだった。
「お待たせ」私は近付き声を掛ける。直後、千晶ちゃんはピクッと瞬間的に顔を上げたが、私を見るなり残念そうに肩を落とす。
「なんだ、アンタか…」
「清水くんは?」
「まだ来てない」
「そっか…」まぁ、待ち合わせ時間までは後5分ぐらいあるしね。
特に会話(私が一方的に喋ってるだけだけど)が盛り上がることもなく、いつの間にか待ち合わせ時間の14時を超過していた。
「おっかしいなぁ…」私は改めて清水くんを探そうと周辺を見渡す。
清水くんが遅刻するなんて考えられなかった。学校だといつも私より先に到着していたし、遅刻した場面を見た試しがなかった。
私がキョロキョロ待ち合わせ相手を探していると、不意に千晶ちゃんがケータイを取り出した。どうやら誰かからの着信があったようだ。
「もしもし? …うん…うん」
興味を刺激された私は、通話の内容を聞こうと千晶ちゃんの側に耳を近付ける。
直後、「はぁ? ありえないんだけど!」と千晶ちゃんが怒声を上げる。結構な声量に、思わず顔を遠ざける。な、何事?
「もういい! バカっ!」
その言葉を最後に、千晶ちゃんは即刻ケータイを仕舞い急に歩き出す。
「ど、どこ行くの?」追い掛けながら、私は問う。
「帰る」
「な、なんで?」
「ムカついたから」
千晶ちゃんは詳しく話してくれなかったが、多分、清水くんから電話があってドタキャンされたのだろう。
「ちょ、ちょっと待って!」
人波を縫ってさっさと帰ろうとする千晶ちゃんの腕を掴み取る。
「何?」
「せっかくだし今から遊ぼうよ」
「ヤダ」
即答だった。
断られるのは予想していたけど、ここで引き下げる訳にはいかない。過去に戻ってこれたのだから、千晶ちゃんともっと距離を縮めたい。あわよくば友達になりたいと切望しているけど、その未来は未だ不可視である。
「お、お願い! ちょっとだけでいいから!」
腕を掴んで引き止めるも、すぐに振り払われる。
「ヤダって言ってんでしょ!」
「一生のお願い!」
今度は腰辺りに抱き付いて引き止める。細くも程良く引き締まった腰だった。
「こ、このっ、離しなさいよ!」
身をよじって抵抗してきた。その際、千晶ちゃんの髪から甘い匂いが放散し鼻腔をくすぐられる。
「あの、どうかされましたか?」
そんな争いを繰り広げていると、一人の男性が話し掛けてきた。スーツ姿のサラリーマン風の男性。私達の動きがピタッと止まる。
「喧嘩しているように見えたんだけど」
「あっ、いや、ちょっと戯れていただけです。特に喧嘩とかじゃないので、心配しないでください」
千晶ちゃんが状況を簡単に説明する。
「そっか…なら、いいんだ」男性がジッと千晶ちゃんを凝視。
「な、なんですか?」
「君、可愛いね」千晶ちゃんの容姿を誉めると、男性はニコッと柔和に微笑んだ。「じゃあ、僕はこれで」
軽く会釈をした後、男性はくるっと振り向いて歩いていった。私はその背中を眺めながら、「優しそうな人だったね」
「…なんか気味悪かった」
「へ…?」
「最後に見せた笑顔、かなり不気味に見えた」
千晶ちゃんはスリスリと自身の腕をさする。
「そ、そう? 私には普通っぽく見えたけど…」
「早く行くよ」
「どこに?」
「アンタ、バカなの? 遊びにに決まってんでしょうが」
「え? 一緒に遊んでくれるの?」
「そう言ってんの」
「あ、ありがとう!」
どういう風の吹き回しか、千晶ちゃんは承諾してくれた。私の愛が伝わったのかしら。
遊ぶ場所を探すべくセンター街をぶらつく。隣を歩く千晶ちゃんを一瞥。彼女は衆目を遮断するように俯き歩いている。本当に人混みが苦手らしい。
「そんなに嫌なら帰る?」
そう問い掛けると、千晶ちゃんは無言で首を左右に振った。
「…あっ」
その時、見覚えのある建物が目に入り、思わず足を止める。ゲームセンターだ。
私のいた時代だと経営難で潰れてしまったが、学生時代、足繁く通った思い入れのあるゲーセン。最新型のプリ機が入荷したという情報が入れば、放課後に皆で急いで駆け付けたものだ。撮ったプリクラをプリ帳に貼り付け、かなり必死にデコったりしてたな。そのプリ帳ってどこやっただろ? 多分、実家にはあると思う。未来に戻れた際には、帰省して探そうかな。
そんなことを考えていると、一つの疑問が脳裏に浮かんだ。
私って元いた時間に戻れるの?
確かに高校生に若返れたのはすこぶる嬉しいけど、未来には未来で私の生活があるのだ。充実していたとは言い難いが、それなりに悠々自適な生活を送れていた。
「ねぇ、何ぼーっとしてんの?」
千晶ちゃんのその声で、散らばっていた意識の欠片が一気に集束する。
「…ちょ、ちょっと考え事してただけ。それより千晶ちゃんが嫌じゃなかったら、ゲーセンでも寄る?」
「…別にいいけど」
一瞬の間を置いて、千晶ちゃんは了承の意を伝えてくれた。
私達は店内に足を踏み入れる。いくつものゲーム機から発せられた音が重なり合い雑音となって、私達を取り囲む。ゲーセン自体に入るのがかなり久々だったからか、別に不快な気持ちじゃなかった。年を重ねる度、こういった若人達が寄り付く場所を敬遠するようになったんだよね。悲しいかな。
断続的に鳴り響く雑音の波に揉まれながら、何をプレイしようか思い悩む。クレーンゲーム、格闘ゲーム、レースゲーム、音楽ゲーム等、一通り網羅している。でもまずは、プリクラだよね、やっぱり。JKといえば挨拶代わりにプリクラを撮るのがセオリー。
「まず、プリクラ撮ろっか」
提案するが、「ヤダ」と瞬時に断られる。
「な、なしてっ?」
「なんかハズいから」
「思い出になるから、いいじゃん!」
「別に思い出なんかいらない」
どうやら千晶ちゃんを包囲する壁は、まだ分厚い様子。
「一緒に撮ろうよ! 一緒に撮ろうよぉ!」
どうしても欲しい玩具を強請る子供のように両手をぶんすか振り回して駄々をこねてみる。勿論、周りから好奇の眼差しが突き刺さるが、私は止めなかった。
「撮ってくれなきゃヤダ! 撮ってくれなきゃヤダぁ!」
「ああ、もうっ! わかったからみっともないマネは止めなさいよ!」
ふふふ、なんとか作戦は成功したようだ。最終的に、その場に寝転んでジタバタしようと思ってたから助かった。この作戦、失敗すれば単に醜態を晒すだけだし…。
プリ機の周囲には、若い女性達がたくさん群れていた。多分、大半は学生。中には制服を着た娘もいる。休みの日に制服? と思った人もいるだろうけど、女子は私服代わりに制服を着て出掛ける娘もいたりするのだ。かくいう私も私服選びに難航した日は、制服で歩き回っていた。
約10分後、やっと私達の順番が回ってくる。待っている間、千晶ちゃんは苛立ったようにずっと足を揺すっていたが、私は見ないフリを貫いた。だって、なんか怖いし…。
待ち時間と比例し、撮り終えるのは一瞬だ。プリ機から出てきたプリクラを取り出し写り具合を確認。うえっ、と眉を顰める。全く盛れてなかった。
最近のプリ機といえば、目が過剰に大きくなったり、輪郭が不自然に細くなるなど様々な加工が施されるのだが、旧式のだとほぼ素顔に近い感じだ。
こうやって客観的に自分と千晶ちゃんを比較すると、顔の大きさやスタイルの良さが浮き彫りになって肩を落とす。なんじゃ、この差は。私だって未来の自分と比べたら、10キロぐらい痩せてるはずなのに…。落ち込むぜ。
「これ、また今度切って渡すね」
「いらない」
「なんでよ!」
「いらないからいらない」
ふと、千晶ちゃんが何かを見つめていることに気付く。その視線を辿ると、和気あいあいとプリクラを交換し合っているJKの集団の姿があった。
「…プリ帳、持ってないし」
「なんだ、そんなことか。じゃあさ、今から買いに行こうよ」
「えっ…? で、でも…」
「いいからいいから。プリ帳ぐらい私が買ってあげる。なんせ私はお姉さんだから」
私は千晶ちゃんの手を取って、強引に歩き始める。目的地はデパートの中にある雑貨屋。これまた高校生の頃によく通った雑貨屋で、JKの心が惹かれるような可愛い小物や文房具、ぬいぐるみなんかも売っていた。私のいた時代だと、まだ経営しているはず。
男性だと近寄りがたいであろうカラフルでポップな店内を歩き回り、「…おっ」とお目当てのコーナーを見つけ足を止める。『プリ帳にオススメ!』と書かれている色彩豊かなポップが飾ってあり、様々なデザインの手帳が陳列されていた。
「千晶ちゃんって動物だと何が好き?」
尋ねると、千晶ちゃんは静かに口答。
「…ウサギ」
「そうなんだ。可愛いよね、ウサギ」
てっきり『なんでもいいじゃん』とかバッサリ切り捨てられることを想定していただけに、私は微笑ましく思った。
「…バカにしてるでしょ?」
「してないしてない! 私も好きだし、ウサギ!」
「ふんっ」と鼻を鳴らす千晶ちゃん。
どうやら私が嘲笑したと邪推したようだ。私は改めて千晶ちゃんが好みそうな手帳探しを再開。
「…おっ、これとかどう?」
リアルなウサギが一匹デカデカと描かれたデザインの手帳を、千晶に見せる。
「…可愛いけど、なんか思ってのと違う」
お気に召さなかったようだ。
「そっか…」それを戻して、再び手帳探しに着手する。「…これとかはどう…かな?」
次に手にしたのは、デフォルメされたアニメ調のウサギが何羽も散りばめられたデザインの物。流石に子供っぽいかな、と千晶ちゃんの反応を伺う。
「……」
千晶ちゃんは凝然と私の持つ手帳を眺める。千晶ちゃんの表情から感情を読み取るのは困難を極めたが、あまり気に入ってなさそうだ。
「…や、やっぱり子供っぽいよね。他のにしよっか」
そう言って、私は手帳を戻そうとした。すると、「あっ…」千晶ちゃんが小さな声を上げた。
「な、何? どうかした?」
「え? う、ううん。なんでもない」
「…?」
不思議に思いながらも、私は再び手帳を戻そうとした。
「ああっ…」
またしても千晶ちゃんが声を上げる。私にはどこか残念そうな口調に聞こえた。
「…もしかしてこれがいいの?」
「は、はぁ? 意味わかんないんだけど。私がそんな子供っぽいデザインが好きだと思う? バカにしないで」
ぷいっと顔を背ける千晶ちゃん。その仕草が子供っぽくて可愛いかったが、口に出すと怒りそうだったから黙っておいた。
「そっか。ごめんね」
私は今度こそ手帳を戻そうとした。
「あああっ…」
まただ。これで確定した。千晶ちゃんはこのデザインの手帳が欲しいのだ。私がバカにすると思って、素直に頷けないみたい。別にバカにしないんだけどなぁ…。
「私はこれがオススメかな」
「え…?」
「一見子供っぽいけど、普通に可愛いと思うよ。しかもさ、在庫が一冊しかないみたいだし人気なんだよ、これ」
試しに手渡してみると、「ん~…」千晶ちゃんは悩む。逡巡しているのが透けるように見えた。
「お姉ちゃん、それ買うの?」
その時、下方から幼い声音が届く。千晶ちゃんの背後に隠れるようにして立っていたのは、小学校低学年ぐらいの女の子。
「もしかして、この手帳欲しいの?」
私が尋ねると、女の子はコクリと首肯する。
「だって。千晶ちゃん、どうしよっか?」
まさかの事態。私は千晶ちゃんに判断を委ねる。
「……」
千晶ちゃんは改めて手帳のデザインを裏表見返した後、振り返って女の子と目線を合わせるように膝を折り曲げた。
「はい」
「え? いいの?」
「うん、いいよ」
ここからだと表情は見えなかったが、きっと千晶ちゃんは笑顔だったに違いない。
「お姉ちゃん、ありがとう!」
無垢な笑みを披露する女の子。
「どういたしまして」
手帳を手にした女の子は、お母さんらしき大人の女性の元に駆け寄っていった。
「譲っちゃったね、最後の一冊」
「他の探せばいい話」
「それはそうだけど…」
「お客さま、一部始終を見させて頂きましたよ」
「っ…!」
後ろから急に声を掛けられ反射的に振り向くと、そこには見慣れた顔があった。
「さ、紗月! な、なんでここにいんの?」
店員の青いエプロンを付けた紗月だった。
「バイト始めたんだよね。てゆーか、前に言った気がすんだけど」
「そ、そうだっけ? あはは、普通に忘れてた」
この時代に逆行して3日目。それ以前の記憶は朧気。今思い返せば、紗月がバイトしてた気もする。
「それより意外だった。三井さんって子供とか苦手そうなのに」
「私としては、同い年の方が苦手」
「そ、そう。てゆーか、二人って一緒に遊ぶぐらい仲良くなってたんだ」
「全然仲良くない。仕方なく付き合ってるだけ」
「…藍子、アンタ、嫌われてんの?」
「苦労してます」
「そういえばさっきの手帳だけど、近い内に再入荷するはずだから、入ったら私が確保しといてあげる」
「ホントにっ?」
瞬間、千晶ちゃんの表情がぱぁっと明るくなる。見たことのない、無邪気な笑顔だった。「み、三井さんって笑うんだね」
「わ、私も初めて見た」
紗月と私がそう言うと、千晶ちゃんは必死に否定する。
「い、今のは間違いだから! 笑ってないし!」
焦って否定する千晶ちゃんは、とにかく可愛かった。
雑貨屋を出て商店街を歩いていると、ファストフード店の前に立っていた人物が何気なく視界に入る。クルクルと巻かれ派手を極めた金色の長髪、つけ睫毛に黒のアイシャドーを施したケバいメイク。いわゆるギャルという人種。
私も興味がない訳じゃないけど、めちゃくちゃ目立っていた。
不意にギャルがこちらを一瞥。私は反射的に視線を逸らし、素知らぬ顔を貫く。だが何を思ったか、ギャルがこちらに近寄ってくるではないか。ま、まさか睨んでると勘違いされて、絡まれるんじゃ…なんて不安が一気に膨張。
「ねぇ、千晶だよね?」
用があったのは私ではなく、千晶ちゃんだったようだ。こ、このギャルが千晶ちゃんの知り合い…?
「…っ!」
焦るように帽子を更に深く被り直した千晶ちゃんは、そのまま何事もなかったようにギャルの横を通り過ぎようとした。
「ちょっと待てよ。逃げることないじゃん」ギャルは千晶ちゃんの腕を掴み取る。「私達、友達なのにさ」
まさかの同級生? 普通に年上だと思ってたよ。
「…アンタを友達だと思ったことない」
「へぇ、言うようになったじゃん。誰のおかげでクラスに馴染めたと思ってんの?」
「私は一瞬でもアンタに心を許したことを後悔してる。てゆーか、早く離せ」
いつもの私に対する冷淡な口調や態度ではなく、明らかな嫌悪と敵意が窺えた。
「あぁ?」
今すぐにでも喧嘩に発展しそうな、剣呑な雰囲気が立ち込める。
「ま、まぁまぁ! せっかく再会できたみたいだし、仲良くしようよ!」見かねた私は思わず容喙。「喧嘩、ダメ、絶対」
「つーか、誰?」
金髪ギャルが目を細め私を睨む。こ、怖い!
「わ、私は千晶ちゃんの友達です、はい」
「…あっそ。一応言っとくけど、コイツ、すぐに裏切るから気をつけた方がいいよ」
「自分のこと棚に上げて被害者面すんな。裏切ったのはそっちだろ」
「お前さぁ、さっきからなんなの? あんまナメてっと、痛い目みんぞ」
「喧嘩は駄目だよ、喧嘩は! 争ってもいいことないよ! ラブ&ピースがこの世を救うんだから!」
「待たせたな、直美」
その時、茶髪で細身の男が近寄ってきた。イケメンではあるが、不良っぽい雰囲気が感じられた。
「あっ、マサくん! 遅かったじゃ~ん!」
男が現れた瞬間、猫撫で声へと変貌する金髪ギャル。
「悪い悪い。トイレ、結構混んでてさ。で、何? 知り合い?」
「ん~ん、知らなぁい。なんかいきなり絡んできてさ、困ってたとこなのぉ」
白々しい台詞を吐きながら、男と腕を組む金髪ギャル。わかりやすい女。
「なんか用があんなら、俺が話聞くけど」
あからさまな威圧感を孕んだ眼光を向けてくる。
直後、千晶ちゃんが急に歩き出す。
「あっ、千晶ちゃん!」私は彼女の後を追った。
少し前を歩く千晶ちゃんの背中からは、不機嫌と後悔が透けて見えるようだった。直接口には出さないが、来なきゃよかった、という感情がひしひしと伝わってくるようだった。
「………」
私もなんと声を掛ければいいのか判然とせず、ただ黙って付いていくことしできなかった。過去、あのギャルと千晶ちゃんとの間に何があったのか私は知る由もないけど、千晶ちゃんが他人を信じられなくなってしまった一因になったのではなかろうか。とにかく一つはっきりしていることがあるとすれば、私にとってあの娘は苦手なタイプだということ。
「お願いしま~す!」
その時、若い男性からポケットティッシュを手渡される。
「あっ、どうも」
反射的にそれを受け取ると、カラオケ館の割引券が挟まっていた。
「ねぇ、カラオケ行こうよ、カラオケ!」私は声高に提案する。
「……」
やはり先程の出来事が尾を引いているのか、千晶ちゃんは黙々と足を進めるだけ。
「とりあえずちょっとだけ寄ってみようよ! 歌ったら気分転換になるしさ!」
私は千晶ちゃんの手を握ると、強引にカラオケ館まで連行。当然千晶ちゃんは抵抗してきたが、見た目通り華奢でか弱いので楽に連れ込むことができた。
とりあえず1時間コースにして、店員に指定された部屋に向かう。他の部屋から漏れてくるお客さんのくぐもった歌声に包まれながら、通路を進んでいく。耳に入ってくるのは、一昔前の馴染み深いヒットソング。青春時代の記憶が否応なく胸中に去来した。
指定された部屋に入ると、ひとまず電話で飲み物を注文。リモコンで曲選び出す。
当時JKの間で流行っていたアーティストと言えば、浜崎あゆみとか倖田來未とか大塚愛。だけど、私が好きだったのはジュディマリ。アニメ主題歌で知ってからというもの、すっかり傾倒してアルバムは全部揃えたし、ライブにも通ったりしたもんだ。
活休すると知った時、ショックが大き過ぎてちょっとした拒食症になったりしたな。そのおかげで痩せたけど。いずれは再活動してくれることを切に願っている。
曲をリクエストすると、備え付けられたスピーカーからイントロが流れ出す。私が手始めに選んだ曲は、ジュディマリの代表曲として名高い『そばかす』だ。
「…で、どうだった?」
歌い終わり、ぶすっと頬杖をつく千晶ちゃんに感想を窺う。私としては上出来だった、と自負。だが、千晶ちゃんが次に述べた感想は、あまりに辛辣だった。
「…下手」
「…ですよねぇ」
それは自分でも自覚していた。昔から半音ズレてるとよく言われていたから。叩き出した75点という微妙な得点が全てを物語っている。でもさ、もっとオブラートに包んで欲しいよ、せめて。落ち込むよ?
「…でも、なんか熱意は伝わった」
私の心情を察してか、千晶ちゃんが評価を付け足す。
「そんなに言うなら、千晶ちゃんも歌ってみてよ」
マイクを手渡すと、千晶ちゃんは一瞬躊躇いを見せつつもそれを受け取る。
「…別にいいけど」
千晶ちゃんが選曲したのは、プリンセスプリンセスの『M』。
「っ…!」
意外な選曲にも驚かされたが、更に私が驚いたのはその歌唱力だった。力強くも耳障りが良く、クセのない透明感を孕んだクリアボイス。簡潔明瞭に表すならば、うめぇ! それもかなり!
「…まあまあだな」
液晶に映し出された得点を見て、千晶ちゃんは少々不満げに呟く。96点という高得点を出しておきながら。
「…ズルい」
「えっ…?」
「美人でスタイル良くて、その上歌も上手いなんてズルいよ! 不公平だよ!」
「な、何キレてんのよ」
「私にないモノいっぱい持ってんじゃん! 分けてよ!」
単なる嫉妬である。逆恨みも甚だしいけど、私の嫉妬心は爆発した。
「そんなの知らないわよ!」
「…あっ」
私はそこで重大なことに気付く。
「な、何よ?」
「私、千晶ちゃんに勝ってるとこあった」
「…ちなみにどこ?」
「胸…ぁたっ!」
答えた瞬間、頭を叩かれた。マイクで。
「っ~! マイクはヒドいよ、マイクは!」
殴打された箇所を押さえながら悶える。意識飛ぶかと思ったよ!
「アンタがいらないこと言うからでしょうが!」
千晶ちゃんが胸元を見られないように両手で覆い隠す。私も決して巨乳というわけではないが、人並みにカップはあった。ちなみにCである。
千晶ちゃんはというと、目測でAぐらい。確認しようものなら更なる折檻が待ってそうなので、口は噤んでおいた。
「お待たせ致しましたぁ」
そんな小競り合いを繰り広げていると、お盆を持った店員さんが室内に姿を見せた。
「遅くなってすみません。お飲み物をお持ちしました」
そう言って、店員さんは飲み物をテーブルに並べる。そして、「失礼しました」と部屋を出て行った。
「…ふんっ」
不機嫌そうに鼻を鳴らした千晶ちゃんは、運ばれてきたジュースに口をつける。室内が険悪な雰囲気に満たされる。
「…私、ちょっとトイレ行ってくる」
なんとなく居心地が悪くなった私は、部屋を出てトイレに向かう。とりあえず少し熱くなった頭を冷やそうと思った。私の方が圧倒的に大人なのに、さっきのは大人気なかったと反省してる。でも、学生時代の私なんてコンプレックスの塊だったもんな。鼻は低いし睫毛も薄くて、胴長短足だった。そのコンプレックスを補う為に色々と尽力した。メイクは勿論、スカートを短くしてルーズソックスを履いたり、と。今でこそルーズソックスは時代錯誤の絶滅危惧種に認定されているが、アレは足を長く見せる効果があったりするのだ。ちなみにだが、私は目にだけ自信がある。『藍子ってキレイな二重で羨ましい』と言われることがあったし、自分でも自慢できる唯一のパーツだ。
「…よし」
トイレに備え付けてある鏡で前髪を整えてから、私はトイレを出た。
「きゃ…!」
同時、タイミング悪くトイレの前を通りかかった人と接触してしまう。
「あっ、ごめん」
ぶつかってしまった相手が謝罪の言葉を述べる。男にしては長い髪は茶色で、耳にはピアスが光り輝いていた。一見していかにも軽薄そうな印象を抱く。一昔前のキムタクっぽさがあった。今の私よりは年上だと思う。
「こちらこそ、すみませんでした」
私はそう謝ってから、横をすり抜けようとした。だが、「ちょっと待って」と腕を掴まれた。
「な、なんですか?」
予期せぬ一挙に、私の警戒心が突発的に作動する。
「君って女子二人で来てるよね?」
「…そうですけど」
「俺達も二人で来ててさ。よかったら、一緒に楽しもうよ」
「それはちょっと…」
もしかしなくても、私ってばナンパされてる?
モテるのは普通に嬉しいが、相手があんまりタイプじゃない。それに、見知らぬ男を連れていけば、千晶ちゃんが嫌がるだろう。
「そんなこと言わないでさ。可愛いんだよね」
「そ、それはどうも」
面と向かって男の人から可愛いと評される機会は稀で、気恥ずかしくなった。悪い気分じゃない。
「帽子を被った方の娘。顔はよく見えなかったけど、絶対可愛いでしょ」
「さいなら」
「ま、待って待って! 君も十分可愛いからさ!」
「そんなとってつけたように言われても全然嬉しくない」
「そ、そんなこと言わずにさ! 今日のカラオケ代全額奢るから」
男性は手を合わせて懇願する。はっきり言って、全然信用できなかった。たった今出会ったばかりだし、風体がいかにも胡散臭い。今まで何人もの女の子を泣かせてきたの違いない。完全なる偏見だけど。
「いいです。なんか怖いし」後で身体を要求されそう。
「怖くない怖くない。俺ほど優しい人間は、この世にそうそういないよ。俺の身体の半分は、優しさで出来ております」
「…ちなみに残りの半分は?」
「下心」
「さいなら」
「ああっ、ウソウソ! 純粋にカラオケを楽しみたいだけ! いや、マジで!」
「……しょうがないなぁ」
千晶ちゃんのカラオケ代も私が支払おうと思っていたので大変助かる。
「いぇ~い! 皆、盛り上がってるかぁ!」
谷山くん(私に話し掛けてきたチャラ男)がマイク片手にテンション高く叫ぶ。声がデカ過ぎてハウリングしている。
「ちょっと、なんなのよ! あの男共は!」
そう怒りを露わにしているのは、言わずもがな千晶ちゃんだった。
「い、いや、なんか奢ってくれるって言われて…」
「アンタ、バカでしょ? 危ない男達だったらどうする気よ?」
「そ、それは…大丈夫だと思う」多分。
外見こそチャラいが、そこまで悪い人には思えない。
「何を根拠に言ってる訳?」
「根拠は…ないけど」
「頭、沸いてんじゃないの?」
「二人で何コソコソ話てんの?」
そう言って女子トークに無遠慮に割り込んできたのは、谷山くんの友達である河村くんだ。髪は黒く短めだが、どこかナルシスト感が漂う男。少し苦手な人種だ。
「な、何を歌おうか相談してて…」てゆーか、顔が近い。
「じゃあさ、僕とデュエットしようよ。僕がちゃんとリードしてあげるからさ」
無遠慮に肩に手を回され、背筋がぶるっと震えた。
結局、次は私と河村くんがデュエットすることになった。のはいいが、河村くんの歌い方のクセが強く、あまり集中して歌えなかった。ねっとり絡みつくような、納豆みたいな感じ。
私達が歌っている間、谷山くんが千晶ちゃんに執拗に絡んでいたが、案の定、千晶ちゃんは常時嫌悪感を放っていた。
「はい、お疲れさま」
席に戻ると同時、谷山くんがオレンジジュースを差し出してくれた。
「ありがと」
それを受け取りストローで啜ると、少し苦味を含んだ柑橘の香りが口内に広がる。
それからしばらく谷山くんの独壇場を眺めていると、段々と眠くなってきた。谷山くんの選曲がバラードのみという訳ではなく、むしろロックな曲ばかり。
確かに睡眠不足気味ではあるが、だとしてもこの喧しい状況下で眠くなるなんておかしい。瞼が鈍重で、意識の境目が虚ろになる。
「…おっ、利いてきたみたいだな」
谷山くんの何気ない発言に、違和感と不信感を抱く。利いてきたって何?
「こっちも利いてきたみたいだ」
河村くんの言葉に視線をずらしてみれば、千晶ちゃんが眠たそうに頭を上下に揺らしているではないか。
「完全に意識が飛ぶまで、もうちょっと待った方がいいかもしれないな」
「いや、もう我慢できねぇ」
言いながら、谷山くんが千晶ちゃんの隣に座る。何をする気なの? と怪訝に思ったのも束の間、谷山くんは千晶ちゃんの太ももに触れスリスリと撫で回す。
コイツ等、私達を襲う気だ。多分、ジュースに睡眠薬でも盛ったのだろう。最初からこれが目的だったのか。まんまと騙されてしまった。
「それじゃあ、僕はこっちにしよう。あまり好みじゃないけどね」
言うと、河村くんは私の隣に腰掛ける。ナルシストめ、失礼なこと抜かしやがって。なんて憤っている場合じゃない! 私達の清き純潔が汚されるピンチなのだ!
「顔は好みじゃないけど、意外と胸が大きいな。もしかしたら、挟めるかもしれない」
「何っ? 後で代わってくれ!」
クソが。何を挟む気だ。
「……」
意識が朦朧とする中、この窮地からの打開策を思案する。だが、凄まじい睡魔に屈しそうだ。ヤバい…かも。メチャ…クチャ眠…い…。
「さぁて、そろそろ脱がそうかな」
服を少しずつ捲らていくのが、感触でわかった。もちろん抵抗しようとするが、手足は重く自由が利かない。
この際、目が覚めるのならば手段は選んでいられない。私は思い切って舌先を噛んだ。ブチッと嫌な音が聞こえ、口内が鉄臭い液体で満たされる。だが、想像を絶する痛みで意識が覚醒。
「このクソったれぇ!」
ナルシスト野郎目が掛け、頭突きを繰り出す。
「ぐはっ…!」
額に私の頭突きがクリーンヒットしたナルシスト野郎は、床に倒れ伏す。そのまま沈黙。女子の頭突きで意識を失うとはなんて貧弱な。
「お、起きたんだね。ビックリしたよ、いきなり寝ちゃうからさ。ちょうど起こそうと思ってたんだ」
白々しいヤツめ。
「へぇ、起こそうとしたんだ、服を脱がせて」
「あ、汗をかいてたみたいだからさ! 着替えさせてあげようかと思って…あはは」
「このド変態がぁ!」
私は変態野郎を思い切り突き飛ばす。
「ぶへっ…!」そのまま部屋の側壁に激突し、ズルズルと床に倒れ込んだ。…死んでないよね?
私は眠ってしまった千晶ちゃんを肩に担ぎ、急いで部屋を出る。奴等が目覚める前に早く逃げなきゃ、と必死に歩を進めた。
「あら…?」
気付くと、眼前に千晶ちゃんの顔があった。
「あっ、えっ…?」
状況が把握できず、私は辺りを見渡す。すべり台や鉄棒、ジャングルジムといった遊具が設置されているのを見て、現在地がどこかの公園だと理解する。
「ジタバタしないでくれる? なんか不快だから」
「あっ、ごめん」妙に寝心地いいな、なんて思っていたけど、どうやら私は千晶ちゃんの膝枕で眠っていたらしい。
「…私、どうしてここにいるの?」
千晶ちゃんを担いでカラオケ店を出たところまでは覚えているが、そこから記憶がごっそり欠落している。
「突然倒れたから、私がここまで運んだの。かなり大変だった」
どうやら睡眠薬の効果がまだ続いていて、途中で倒れてしまったのだろう。
「あ、あの二人は…?」
「知らない。まだカラオケ店で気絶してんじゃないの?」
「千晶ちゃん、あの時起きてたの?」
「身体は動かなかったけど、意識はかろうじてあった。あのロン毛が飲み物をやたらと薦めてくるからちょっと怪しいと思ってたんだ。だから、一応飲んだけど、少しだけにしといた。少しだけでもあんだけ利くんだから、かなり強力な薬だったみたいね」
「そ、そっか…。ゴメンね、私の所為で危険な目にあって…」
「ホントそれ。藍子と関わるようになってから、ロクなことない」
「えっ…?」
「何を驚いてんのよ? ホントのことじゃない」
「あっ、いや、そっちじゃなくて。今、藍子って呼んでくれたよね?」
私の聞き間違いでなければ、千晶ちゃんは私のことを名前で呼んでくれた。いつもなら『アンタ』なのに。初めてのことだった。
「あっ、い、今のは違う! ちょっと口が滑っただけ! てゆーか、そもそもアンタの名前知らないし!」
途端に狼狽える千晶ちゃん。…最後の一文は地味に傷付くよ。
「も、もう起きたんなら、早くどきなさいよ!」
「もうちょっとだけ千晶ちゃんの膝枕を味わっていたいな、なんて」
「……ちょっとだけだからね」
てっきり強制的に下ろされることを予期していたので、少し面食らう。
「…千晶ちゃんってさ、清水くんのこと、」
そこまで言った瞬間、身体が宙に投げ出された。
「ぶへっ…!」
重力に伴い落下し、地面に背中を打ちつける。
「にゃ、にゃにしゅんの…」
「…颯斗」
呆然とする千晶ちゃんの視線を辿ってみると、見知った横顔があった。清潔感のある黒い髪、整った目鼻立ち。清水くんだ。よく見れば、誰かと談笑しているではないか。
「んなっ…!」思わず目を見張る。一緒にいる人物が見知らぬ女子だったからだ。
ミディアムぐらいの黒いストレートヘアー、小動物のような愛らしい双眸。結構可愛い。まさかドタキャンの理由は、あの娘と出掛ける為だったのだろうか? もしかしなくても彼女?
「…帰る」
千晶ちゃんは清水くん達から遠ざかるように、突然逆方向に歩き出す。
「ま、待って!」私は千晶ちゃんの腕を掴む。「まだ彼女だって決まった訳じゃない。尾行して確かめてみようよ」
「……」
「あとさ、文句言ってやろうよ。私達みたいな美少女をほっといて、別の女と遊ぶなんてふざけんな! って」
「…私は一発ひっぱたいてやらないと気が済まない」
それは賛同の意に捉えられた。
「そうと決まれば、清水くん達を尾行しよう。作戦名は『清水くんの連れてる娘が彼女か否か確かめる作戦』ってことで」
「…そのまんまだし」
こうして私達は、清水くんの後を追跡することになった。前方には楽しそうに会話する二人の姿。手は繋いでいないみたいだが、距離感はかなり近い。肩が触れそうで触れない絶妙な距離感。なんか悪事を働いているみたいでドキドキする。浮気調査をする探偵さんの気持ちは、こんな感じなのだろうか…。
「何話してんだろ?」
ターゲットに気付かれない為、10メートルぐらいの距離を保っているので会話の内容は不明。
「…今日はわざわざありがとうございました」
「へ…?」
「先輩とこうして出歩けるなんて、夢みたいです」
「ち、千晶ちゃん、もしかして声が聞こえるの?」
「違う。口元をよく見て、言葉を解読してるだけ」
それっていわゆる読唇術というものでは…。
「す、スゴいね」
「別に。他人の口元をよく観察すれば、こんなの簡単」
清水くんを先輩と呼称していたということは、相手は後輩だと推測できた。どおりで知らない訳だ。
私も千晶ちゃんに口授された通りに口元を注視するが、一言たりとも解読できなかった。
まず最初に二人が向かった場所は、当時かなり流行していたスイーツ店。その中でも特に大人気だったのがマカロンだった。今でこそブームが去ってしまったマカロンだけど、当時は新食感のお菓子として女子達の間でめちゃくちゃ流行っていたのだ。
店内に入れば私達の存在が露見するかもしれないので、店外のガラス張りの壁から中を覗く。端から見れば不審者丸出しだが、この際手段は選んでいられない。
清水くんと後輩ちゃんはショーケースに並ぶ様々なお菓子を眺め吟味している。こういっちゃなんだが、客観的に見てお似合いの二人だな、と思った。爽やかイケメンと可愛い美少女がスイーツを選んでいる様子は、少女漫画の一場面のようにも見えた。
ようやく買い物を終えた二人が店から出てくる。私達は電柱の影に身を潜め、二人の後ろ姿をジッと見据える。すると二人は、お店の近くに設置してあったベンチに並んで座った。そして、先程買ったお菓子の袋を取り出す。どうやら外で食べるらしい。
何気なく千晶ちゃんの横顔を一瞥。眉間に皺を寄せ目を細めており、明らかに不機嫌なのが滲み出ていた。
二人は早速買ったお菓子を食べ出す。すると、後輩ちゃんが清水くんの食べていたマカロンを指差し何かを喋る。そして何を思ったか、目を瞑って口を開いた。どうやらねだっているらしい。
清水くんは一瞬の逡巡を挟んだ後、食べかけのマカロンを後輩ちゃんの口に入れ込んだ。咀嚼した後輩ちゃんは、笑顔の花を咲かせる。
お返しとばかりに後輩ちゃんが食べかけのマカロンを清水くんに差し出す。清水くんはマカロンと後輩ちゃんの顔を交互に見て躊躇いを見せる。そりゃ恥ずかしいだろう。人々の往来がある街中でア~ンをし合うなんて。
遠目からだと確認し難いが、後輩ちゃんが切なげな表情を浮かべたように見えた。一度、自分の髪をポリポリと掻いた後、観念したように清水くんは口を開いた。
刹那、千晶ちゃんが動き出す。恋人同士のようなシーンを繰り広げる二人に向かって、千晶ちゃんはズンズン猛然と近付いていく。引き止める隙もなく、私も後を追った。
「ちょっと颯斗!」
「うおっ! な、なんで千晶がここに…って、松永も…」
困惑を隠せない様子の清水くん。
「アンタ、私達との約束ほっぽりだして、そんな女と遊ぶなんてどういうことよ!」
開口一番、千晶ちゃんは清水くんに怒声を浴びせかける。
「私、どこの馬の骨かもわからない女なんて認めないから!」
憤懣やるかたないといった様子で千晶ちゃんが怒りの矛先を彼女に向ける。
「ひっ…!」怯える後輩ちゃん。
「お前、何か勘違いしてないか? 俺と真希はそんな関係じゃないからな」
「真希? 随分と親しげじゃない。呼び捨てにしておいて、何もないって言う訳?」
「そ、それはコイツが下の名前で呼べっていうから。とにかくお前が思ってるような関係じゃないのは確かだ」
「公衆の面前でマカロンを食べさせ合ってイチャイチャしてたくせに言い訳すんな!」
「み、見てたのか…。つーか、真希は単なるサッカー部の新しいマネージャーなんだよ。最近、引っ越してきたから、街を案内してくれって頼まれただけだ。なぁ?」
問われた真希ちゃんは、「は、はい」と頷く。
「そうやって誰にでも優しさを振り撒くから、変な勘違いした女が増えてることわからないの? この女たらし!」
彼女ではないとわかっても尚、千晶ちゃんの怒りは鎮まるどころか更なる加熱を見せる。
「はぁ? 誰が女たらしなんだよ!」
「アンタに決まってんでしょ!」
「つーか、俺が何をしようがお前に関係ねぇだろ!」
気付けば舌戦へと発展しており、いくつもの好奇の視線が私達に突き刺さっていた。
「いつも余計な口出ししやがって、お前は俺の母親かよ! いい加減ウンザリしてんだよ!」
清水くんがこんなに感情的になっている姿、初めて見たかもしれない。
「私は颯斗のことを思って言ってあげてるの!」
「それが余計なお世話だって言ってんだよ! それぐらい気付け馬鹿!」
「っ…!」
下唇を噛み締めながら、清水くんを睨み付ける。その双眸にはうっすらと涙が滲んでいた。
「もういい…颯斗のバカっ!」
そう最後に叫んだ千晶ちゃんは、踵を返して疾走。
「あっ、千晶ちゃん!」反射的に追走する自分がいた。
人波を器用に縫いながら、千晶ちゃんは一目散に走る。その後を必死に追い掛けるが、なかなか追いつけない。てゆーか、速い!
「千晶ちゃん、ちょっと待って!」
遠ざかる千晶ちゃんに向かって手を伸ばすが、その背中に触れることは出来ない。向かい風の影響か、千晶ちゃんの被っていた帽子が宙を舞い地面に落ちる。拾って顔を上げた時にはもう、千晶ちゃんの姿はなかった。
翌日の朝、私は真っ先に二組の教室に向かった。だが、千晶ちゃんの席には誰も座っておらず、寂寥感が漂っていた。だ登校していないだけかもしれないが、どことなく胸の辺りがザワザワしていた。
自分の教室に入ると、清水くんの姿を見つける。
「清水くん、ちょっといい?」
友達と談笑していた清水くんに声を掛ける。
「お、おう、松永」
私の顔を見た瞬間、気まずそうに清水くんは目を逸らした。
「この間はスマン。なんかダサいところ見せちまったな」
「気にしないで。それより千晶ちゃんがまだ来てないみたいなんだけど、何か知らない?」
「アイツが遅刻寸前なんて珍しいな」
「あの後、千晶ちゃんとは話したの?」
「いや、話してない。一応、電話したけど出ないんだよ、アイツ」
「…そっか」
釈然としないまま、やがて授業開始のチャイムが鳴った。結局、千晶ちゃんが登校してくることはなかった。
「あっちゃん、なんか元気ないね。どうかしたの?」日菜ちゃんが私の異変に気付く。「せっかく今日はお昼ご飯一緒だから、日菜、嬉しいのに」
いつもなら待望の昼休みも、千晶ちゃんのことが気掛かりで私は元気がなかった。
「どうせ生理でしょ?」
優雅なランチタイムに相応しくない単語を述べた不届き者に平手という制裁。
「ぁたっ…!な、何をするか貴様…」
「アンタが変な単語を口にするからでしょうが」
「ふんっ、どうせまた三井さんのことでしょ」
「そ、それは…まぁ、そうなんだけど。今日、学校に来てないみたいなんだよね」
「私達のことはほっといて、あの娘のことばっかり。前も二人で遊んでたみたいだし。私達の友情はどうでもよくなったのかぁ!」
「え? あっちゃん、日菜達のことどうでもよくなったの?」
日菜ちゃんがうるうる潤んだ目を私に向ける。
「そ、そんな訳ないでしょ。こうして一緒にお昼ご飯食べてるじゃん」
「結局、私達は三井さんの代わりでしかないってことじゃんかよ」
「日菜、あっちゃんのこと大好きなのに…」
「わ、私、ちょっとトイレ行ってくるね」
居心地が悪くなった私は、面責から逃げるようにして教室を抜け出す。その際、「あっ、この卑怯者!」と優希の非難する声が背中に刺さったが、聞こえない振りをした。
確かに二人の方が付き合いも長く仲良いけど、今は千晶ちゃんの方が気になって仕方なかった。
やっとのことで放課後を迎えたのはいいが、一つの問題が私の前に立ちはだかった。千晶ちゃんの自宅の場所がわからない。前に一緒に帰った時は、結局途中で別れたからな。
誰かに教えて貰えばいいけど、クラスで孤立していた千晶ちゃんに私以外に友達がいるとは思えない。…いや、一人だけ該当する人物がいた。
「ねぇ、清水くんにとって千晶ちゃんってどんな存在?」
学校から千晶ちゃんの家に向かう道中、私は何気ない質問を投げ掛けた。千晶ちゃんの自宅を教えてもらおうと部活中の清水くんに声を掛けると、『部活が終わってからでもいいか』と言われ今に至る。
「…単なる幼なじみかな。あんま深く考えたことない」
「掘り返すのも申し訳ないけど、二人は喧嘩とかよくする感じなの?」
「たまに。まぁ、手を上げるほどの喧嘩はないな」
「仲が良いほど喧嘩するって言うもんね」
「それよりさ、何気に二人きりで歩くの初めてだよな」
「………」
そんな指摘をされ、急に緊張感が込み上げた。確かにそうだ。今、クラスの中でもイケメンで女子人気が凄まじい清水颯斗くんと一緒に歩いている。他の女子達にこの現場を目撃されれば、私はクラス中の女子から妬まれ指弾されることだろう。
「そ、そうだっけ?」私は動揺を隠せなかった。だけど、私の方が遥かに年上なんだ。10代半ばの少年に大人の私が緊張してどうするんだ! と自分に一喝。
「そうだよ。過去にあったとしたら、俺が忘れる訳ないだろ」
「し、清水くんって記憶力いい方?」
「そこそこかな。つーか、そもそもあんまり話したことないじゃん」
「まぁ、私と話したとしてもメリットないもんね」
「そんなことねぇよ!」急に語気を荒げる清水くん。
私が驚き固まっていると、「あっ、いきなりすまん…」と謝られる。
「……」
どことなく気まずい雰囲気が、私達の間に無遠慮に割り込んでくる。
「…松永ってさ、恋愛とかに興味ないのか?」
「え? な、何? いきなり…」
脈絡もなく予想外の質問を投じられ、私は激しく狼狽した。
「あっ、いや、別に深い意味はなくて。そ、素朴な疑問」
な、何を口走ってんだ、俺は…という思考が表情から読み取れるようだった。
「私だってこれでも一応女子だからね、興味がないってことはないよ。ただ、チャンスがないっていうか…」
高校生の時の私は、かなり奥手だった。振られたり失敗することを恐れて、前に進めないまま青春時代を終えてしまった。
でもそれは、好きな人がいなかったから…と言えば嘘になる。私だってクラスの人気者である清水くんに好意を寄せていた時期もある。だけど、私には無理だ、私には釣り合わない、という負の感情が働いて、無意識に恋愛対象から外していたのだ。
「チャンスなんてそこら辺に転がってんじゃん」
「そ、そうかな?」
「松永って明るくて友達も多いし、性格も曲がってないしさ。顔も結構可愛いじゃん」
「か、可愛い…? わ、私が? またまたご冗談を」
正直、可愛いとか言われ慣れてなくて、私は素直に受け入れられなかった。年配の方からはたまに可愛いと言われることはあったが、基本的に同世代から可愛いと言われることは少なかった。
姉妹で比べられることが常で、圧倒的に妹が絶賛されることが多かった。自分から見てものっぺりしてると思ってるし。
「わ、私なんて可愛くないよ」
自ら否定するのも悲しいけど、自分がそこまで可愛くないのは自覚していた。
「周りがどう見えてるかは知らないけど、俺は愛嬌のある顔だと思うけどな」
確かにご老人からは、愛嬌のある顔だねぇ、と評されるけど…。
「俺さぁ、実は前から松永のこと、」
「あら、颯斗くんじゃない」
清水くんが何かを言いかけた時、一人の女性が声を掛けてきた。私には希薄な大人の雰囲気を醸し出す女性で、茶色の長い髪が特徴的なかなりの美人さんだ。どことなく既視感を抱く顔付きだった。
「あっ、どうも」清水くんが軽く会釈をする。
「学校の帰りかしら?」
「はい、そうです」
「こんな時間まで部活頑張ってるのね。偉いわねぇ」
清水くんに優しく微笑みかける女性。
「目標は県大会優勝なんで」
「ん? そっちの娘は…まさか颯斗くんの彼女?」
そこでやっと女性は私の存在に気付く。
「いや、今は単なるクラスメートです」
今は…?
「そういや紹介してなかったな」私が疑問符を浮かべていると、清水くんが女性の素性を明かす。「この人は千晶の母親だ」
「あっ、千晶ちゃんのお母さんだったんですか!」
どうりで誰かに似てると思った。千晶ちゃんのお母さんだったのか。
「私は松永藍子っていいます。千晶ちゃんの友達です」多分…いや、一応。
「あら、あの娘に颯斗くん以外にお友達なんていたのね。驚きだわ」
口元に手を置いて大袈裟に驚く千晶ちゃんママ。
「えっと、今から家に向かおうと思ってたんですけど、千晶は家にいますか?」
清水くんの言葉を聞いた途端、千晶ちゃんママの表情が明瞭に陰る。
「いることにはいるんだけど、昨日、家に帰ってきてから元気ないのよね、あの娘。ご飯も全然食べないし。理由を聞いても教えてくれないのよ。颯斗くん、何か知らない?」
「すみません、俺の所為です。些細なことで喧嘩をしてしまって…」
「そうだったのね。思春期なんだもん、喧嘩ぐらいするわよ」
「心配させてしまってすみませんでした」
「私、颯斗くんには感謝してるのよ。あの娘、颯斗くんがいなかったら、高校にも通ってないと思うし。あの一件がよっぽどショックだったみたいだし…」
あの一件、という言葉に疑問を覚えたが、どこか容易に踏み込んではいけないような気がして…。
そして到着した千晶ちゃんの自宅は、二階建ての立派な一軒家だった。
「どうぞ遠慮しないでくつろいでいってね」
柔和に微笑みながら、千晶ちゃんママが私達を招き入れる。
ほぉ、ここが千晶ちゃんの家か…と失礼を承知で周囲を見渡す。
「…ん?」玄関にある靴箱の上にあったフォトフレームに目を奪われる。幼少期の千晶ちゃんだと思われる小さな女の子が、若くて精悍な顔付きの男性と手を繋いで写っている。てゆーか、小さい頃の千晶ちゃんがやたらと可愛い。ドラマやCMに出演していると言われも信じてしまうほどの可愛いさだ。一家に一人は欲しい。
「あっ、その写真の千晶ちゃん可愛いでしょ?」
千晶ちゃんママが私の視線に気付いて、我が子を賞賛する。
「あっ、はい。めっちゃ可愛いです、持って帰りたいぐらい」
「あはは、アナタ、面白いこと言うわね」
「こっちの方はお父さんですか? イケメンですね」
「カッコいいでしょ? 学生の頃なんてモテモテだったんだから。今の颯斗くんみたいに」
「お、俺は別にモテモテじゃ…」
「またまた謙遜しちゃって。キャーキャー言われてるクセにぃ」
千晶ちゃんママが肘で清水くんをつつく。
「この頃がこんなにカッコいいんだったら、今ではかなり渋くなってそうですね」
『渋くなんてなってないわよ。頭もすっかり薄くなっちゃって、もう普通のおじさんよ』
みたいな返答を予想していたのだけど、千晶ちゃんママが次に述べた言葉は、私を酷く後悔させた。
「そうね…今でも生きてたら、渋くなってたのかしらね」
その一文だけで、私は現状を理解した。千晶ちゃんのお父さんがすでに亡くなっていることを…。
「ご、ごめんなさい! 私、何も知らなくて…」
「気にしないで。もう10年も前のことだから」
そんな切なそうな笑顔をされたら、説得力に欠ける。
千晶ちゃんの部屋は二階にあるようなので、私と清水くんは階段を上がっていく。
「あんまり気にすんな」
階段を上がっている途中、清水くんがそんな言葉を投げ掛けてきた。
「え…?」
「親父さんのことだよ。知らなかったんだから、仕方ないだろ。まぁ、俺が言える立場じゃないけどさ」
「あ、ありがと」
励ましの言葉に、私の心は少し軽くなった。
千晶ちゃんの部屋だと思われる扉の前で清水くんが足を止める。生活音は一切聞こえず、静寂だけが私達を包み込んでいる。清水くんがコンコンと二回ノックするも、返送されてきたものは沈黙。本当にいるのだろうか?
「千晶、いるんだろ?」
清水くんが声を発した瞬間、室内でガタガタと大きな物音が鳴った。
「入るぞ」
清水くんが無許可でドアを開け放つ。
「「…あっ」」私と清水くんの声が寸分違わず重なる。千晶ちゃんは部屋の中にいたが、窓から身を乗り出そうとしているではないか。
「お、おい、何をする気だ!」
清水くんが叫んだと同時、千晶ちゃんは窓から投身。
「きゃあ!」反射的に叫び声を上げてしまう。真っ先に清水くんが窓の方へと走る。最悪の事態を想定しながら、私も窓の方へと急いで駆け寄る。
「…っ!」窓の下を覗いて驚く。千晶ちゃんはカーポートの屋根に乗っていた。そのまま飛び降りゴロンと華麗に受け身をして見事地面に着地。
「何してんだ、あの馬鹿。忍者かよ」
清水くん、千晶ちゃんは女子だから、くの一の方が適してるよ。…今はそんなのどっちでもよくて!
「俺、アイツを追い掛けるから、松永はここで待っといてくれ!」
「ま、待って! 私も一緒に行く!」
先行する清水くんの背中に付いて行く。階段を駆け下り急いで靴を履いて玄関を飛び出すも、すでに千晶ちゃんの姿は遙か彼方。だけど、追いつけない距離じゃない。私は疾走する清水くんの横に並ぶ。
「ま、松永、お前、足速いんだな」
清水くんが驚いた顔を見せる。
「い、一応、私の唯一の長所だから」
足だけは何故か昔から速かった。特に陸上部に所属していた訳じゃないし、自主トレに励んだ訳でもない。天賦の才能というか、子供の頃から同級生相手には負け知らずだった。まぁ、短距離に限るけど。
そこら辺の男子よりも速くて、よく運動会や体育祭でもアンカーを任されたり。『アンタの唯一の取り柄だね』なんて、よくお母さんに揶揄されてたもんだ。
どうやら千晶ちゃんはそこまで速くないらしく、徐々に距離が縮まってきた。
千晶ちゃんとの距離が10メートル付近に差し掛かった時、千晶ちゃんが横断歩道の手前で急にしゃがみ込んだ。もしかして怪我したんじゃ、という懸念が膨らむ。窓から外に出た千晶ちゃんは裸足だったから。
「おい、千晶!」
私達が近くに迫ってきたことに気付いた千晶ちゃんは、ふらふらしながらも立ち上がった。
「待てよ!」清水くんが千晶ちゃんの腕を掴んで止める。「なんで逃げんだよ?」
「やっ、離して!」
ジタバタ藻掻き必死に抵抗する千晶ちゃん。
「とりあえず話し合おうぜ。な?」
刺激しないように、穏やかな口調で清水くんが説得する。
「いいから離してってば!」
清水くんの手から逃れようと千晶ちゃんが自身の腕を引っ張る。
「あっ…!」
瞬間、両者が引っ張りあった反動で千晶ちゃんが道路に投げ出された。
視界に入る歩行者の信号は赤。不運は続く。大型のトラックが目の前の道路を通りかかる。青信号なのでスピードを緩める気配はない。
「えっ…?」
私の横を過ぎ去る影。清水くんだった。勇敢にも千晶ちゃんを助けようと飛び出したのだ。
――清水くんが死ぬ。
悲惨な末路が脳裏を過ぎる。12年前のあの記憶が否応なく去来した。私の眼前で車に轢かれ亡くなってしまった清水くんの姿が。
同じ結末を繰り返してはいけない、そう直感的に思った。
気付けば私は道路に飛び出していた。そして、二人の背中を力の限り押した。清水くんと千晶ちゃんは体勢を崩しながら、横断歩道の向かい側手前で転倒し難を逃れた。ほっ、と安堵したのも束の間、次に自分が危機に晒されていることを思い出す。
だけど、どうしようもない。二人が無事なら、それでいいよね…?
「はっ、はっ…」
呼吸が著しく乱れ、動悸が顕著に激しくなる。し、死んだかと思った。
「死にてぇのか!」
トラック運転手は私達に怒声を浴びせかけると、そのまま走り去っていった。
轢かれる寸前、清水くんが私を引き寄せてくれ難を逃れられた。
「あ、ありがと、清水くん」
「俺も助かったよ。松永が押してくれなかったら、ヤバかった」
千晶も大丈夫か? と清水くんはしゃがみ込む千晶ちゃんの肩に手を置く。
「…さい」
「「え?」」私と清水くんは同時に聞き返す。
千晶ちゃんは何かを呟いたようだが、虫が鳴いたようなか細い声量でよく聞き取れなかった。
「ごめんなさぁい!」
力一杯叫ぶと、両目から滂沱の涙を流しながら子供のようにワンワン涕泣。
「あっ、え…?」
あたふたと私が当惑を極めていると、清水くんがそっと千晶ちゃんを抱き締める。
「大丈夫だから。ちゃんとごめんなさい出来た、千晶は偉いよ」
お母さんが小さな子をあやすように背中を優しくさすり慰撫する。やがて、千晶ちゃんは泣き疲れてぐっすり眠ってしまった。そのまま放置する訳にもいかないので、清水くんが背中におぶって千晶ちゃんを家まで運ぶことに。
「迷惑掛けてすまん」
来た道を戻っていると、清水くんが謝罪の言葉を口にする。
「全然迷惑じゃないよ。それよりビックリしちゃった、千晶ちゃんがあんなに泣くなんて…」
「たまにあるんだよな、さっきみたいなこと。精神的に追い詰められたら、あんな風になっちゃうみたいなんだ」
「…そうなんだ」
「別に病気じゃないと思うから、安心してくれ。普段、気丈に振る舞っているように見えるけど、結構傷付きやすいんだよ、コイツ」
言うと、清水くんはズレ落ちた千晶ちゃんを背負い直す。
「…私、千晶ちゃんと関わらない方がよかったのかな?」
「…なんで?」
「私といることで嫌な気分になってるんじゃないかなって。好きでもない人と無理やり一緒にいても、苦痛なだけじゃん」
実際、私は人付き合いが円滑にいかなくて、OLを辞めた。この人苦手だなって思うと、私はあからさまに態度に流露してしまう。
それが相手に伝わってしまうと、相手もまた私を嫌いになる。その対象が上司だった。私が後輩という立場にいることを利用して、面倒な雑務や雑用を押し付けられた。まぁ、いわゆるパワハラというもの。
最初こそ怒りを押し殺し嫌々仕事をこなしていたが、周りからは勤務態度が悪く見えたらしく、私の居場所はどんどん端へと追いやられ気付けば孤立を与えられていた。ある時、我慢の限界を迎えてしまい、その上司に辞表を叩きつけてやった。『これで少しオフィスが広くなるな』なんて抜かした上司をぶっ飛ばしたくなった。それが血気盛んな学生時代ならば今までの鬱憤をその場でぶちまけていたかもしれないが、私はすでに大人になっていたからグッとこらえた。年齢を重ねる度に、感情は抑制しなければならないことを自然と学んでいくのだ。
「本当に嫌ってる相手なら、とことん突き放すと思うんだよな。だから、松永は千晶に少なからず好かれていると思うんだ」
「そ、そうかな…」だったら嬉しいけど。
「…コイツさ、中学の頃、イジメられてたみたいなんだ」
「え…?」
思いがけない一言に、私の思考は一瞬止まる。
「クラスの女子達からハブられてたみたいなんだ」
「ど、どうして?」
「詳しくは俺も知らないんだけど、どうやらクラスで目立ってた女子の反感を買ったみたいでさ」
「…その目立ってた女子って直美って娘?」
「あれ? なんで知ってるんだ?」
点と点が結ばれたような気がした。
「前にね、千晶ちゃんと一緒にいた時バッタリ会っちゃって。千晶ちゃんは話したくないみたいだったから、深くは追及しなかったんだけど…」
「そうなんだ…。噂によると、なんか俺が関係してたみたいなんだよな」
「もしかして、直美って娘から告白されたりした?」
「な、なんでわかったんだ?」
「…女の勘ってヤツかな」
私はなんとなく事情を把握した。清水くんを好きだった直美という娘は、当時から清水くんと仲が良かった千晶ちゃんを介し彼に近付こうとした。都合良く千晶ちゃんと友達の振りでもしていたのだろう。
告白したが結局断られてしまい、腹いせに千晶ちゃんに全ての責任を押し付け八つ当たりした。ありもしない千晶ちゃんの悪評を喧伝したのか、はたまたクラスでの権力を駆使し女子全員に命令したのか…。それはわからない。でも、あながち間違っていないと思う。
一つだけ確実なことがあるとすれば、その出来事がキッカケで千晶ちゃんは他者との交流を拒むようになった。友達だと思っていた人物に裏切られた傷は、彼女の心に深く刻み込まれたのだ。
いつか裏切られるんじゃないかと猜疑し、自分の周りに自ら強固な壁を築き上げた。精神が不安定になり、子供のように泣き叫ぶのもそれが関係しているのかもしれない。
私は悔しくなった。もし私が千晶ちゃんと同じクラスだったならば、絶対に庇ってあげていたのに…。
「…あっ」
千晶ちゃんの自宅に到着する寸前、清水くんに背負われていた千晶ちゃんが目を覚ます。
「な、なんで私、颯斗におんぶされてるの?」
「あ? あ~…お前が走ってる途中に転んで気絶したから」
清水くんが嘘を交えて現状の説明をする。なにやら記憶がないらしい。
「グッモーニン、千晶ちゃん」
「げっ…」私の顔を見るなり、渋面となる。「颯斗、降ろして!」
「お、おい、暴れんな!」
「いいから降ろしてってば!」
ポコポコ清水くんの背中を叩く千晶ちゃん。どうやら恥ずかしがっているらしい。
「わかった! わかったから暴れんな!」
要望通り清水くんが千晶ちゃんを地に降ろす。
「ぃた…!」瞬間、苦痛に美貌を歪める千晶ちゃん。
「転んだ時に足首を捻ったんだよ。あんま無理すんな」
「別にこんなの全然平気だし」
千晶ちゃんは右足を少し浮かすようにしながらも、自力でひょこひょこ歩く。
「この間はごめん」
清水くんの謝罪の言葉に、千晶ちゃんは立ち止まる。
「俺が悪かった。理由はどうであれ千晶達との約束をドタキャンして、女子と一緒にいたことは事実だしな」
「…ふ、ふんっ、しょうがないから、許してあげるわよ。次ドタキャンなんかしたら、承知しないんだから」
そう言い残し、千晶ちゃんは拙い足取りで家の中に入っていった。
これって万事解決でいいんだよね…?
「なぁ、明日って何か用事あったりするか?」
千晶ちゃんの家からの帰り道、清水くんが私のスケジュールを確認してきた。
「明日? 別になんもないけど」
「じゃあさ、祭り一緒に回ろうぜ」
「あっ、もうそんな時期か」
7月の終わりに地元で毎年お祭りが催される。地域が開催するお祭りなのでそこまで規模は大きくないが、地元の子供達や中高生が集い結構賑わっていた。一人暮らしを始めるようになってからは、数年間ご無沙汰だ。
「…でも、なんで私?」
そんなの下心を期待してしまうじゃないか。清水くんが、実は私を好きなんじゃないかって…。だけど、思い上がっていらぬ恥をかきたくないから、過度な期待はしない。
「前にドタキャンした時の罪滅ぼしみたいな感じ。それと、千晶が世話になってるから、そのお礼も兼ねてさ」
「…わかった、いいよ」
そういう理由なら、と私は承諾する。
『お前のことが好きだから』
なんて、ほんの少し期待しちゃったのはここだけの話。
「お姉ちゃん、そろそろ用意…ってもうしてるじゃん」
お祭り当日の夜、おばあちゃんから譲り受けた浴衣に着替えて姿見の前で最終チェックをしていると、妹の琴子が部屋に入ってきた。
「どう? 似合ってるでしょ?」自慢げに両手を広げて感想を窺ってみる。
「馬子にも衣装」
「にゃ、にゃんだと…?」
「てゆーか、左右逆だから、それ」
「え? そうだっけ?」
浴衣なんて数年ぶりに着るから、そんなのわざわざ覚えていなかった。
「左前は縁起悪いんだよ。早死にするとか言われてるの」
「何それ怖い」
「私が直してあげる」
そう言うと、琴子は私の浴衣を直すべく脱がしきた。
「あっ、いやん。えっち…」
「キモい」
「キモいゆーな」
「本当は普通のパンツより、Tの方がいいんだけどね」
「なして?」
「下着の跡が浮き出るから」
「Tなんて持ってないし」
成人後、背伸びして大人パンツに手を出したこともあるが、ほとんど穿く機会も勇気もなくタンスに仕舞ったまま。すぐに食い込むし、なんか落ち着かないんだよね。
「ノーパンっていう手もあるよ」
丁寧に着付けしながら、琴子が至極簡単な案を提言してきた。
「ああ、なるほど。それならパンツの跡が浮き出る心配もないよね…ってそんなことするかいっ!」
「見事なノリツッコミどうも。なんなら私が持ってるの貸してあげようか?」
「えっ? なに? もしかして持ってんの?」
「一応ね。細見のジーパンとかスキニー穿く時とか使ってる」
知らぬ間に琴子は成長していたというのね。私より断然大人やないかい。
「…じゃあ、借りよっかな」
ノーパンよりマシだと思った私は、妹のTバックを借りることにした。
「それより、私になんか用だった?」
「今年のお祭りは、一緒に行こうって約束してたじゃん」
「…初耳なんだけど」
「本当なら友達と約束してたんだけど、その娘に彼氏が出来たから一緒に行けなくなったって連絡があったの。だから、今年はお姉ちゃんが付き合ってくれるって言ったじゃん。ほんの数日前に話したばっかだよ?」
「あ、あははっ、すっかり忘れてた。めんごめんご」
そういえば過去にそんな出来事もあった気がする。あまりに些細なことだから、今の今まで綺麗に失念していた。
「お姉ちゃん、マジで忘れっぽいよね。この前もお弁当忘れていったし。わざわざ届けなくちゃいけない、私の身にもなってよね」
「め、面目ないっす」
「まぁ、林檎飴で許してあげる」
「…ごめん。私もちょっと別に約束がありましてですね」
「この裏切り者!」
「す、すいやせん!」
「…あっ、もしかして前に言ってた男子とだったり?」
「えっと…まぁ、そんな感じ…」
私の言葉を聞いて、「なぁんだ」とニヤニヤからかうように微笑む琴子。
「それならそうと早く言ってよ。邪魔できないし、私は紗月ちゃん達を誘ってみることにする」
相手が男だとわかった途端、容易く引き下がる琴子。物分かりのいい空気を読める妹を持って姉として誇らしいが、本音を言えば同行して欲しかった。
前に清水くんと二人きりになったシチュエーションはあったけど、これはまごうことなきデートなのだ。緊張して何か粗相をしでかさないか、私は自分自身が心配だった。
とにかく居心地が悪い。待ち合わせ場所であるお祭り開催地の神社に繋がる階段の下、私はソワソワと落ち着きがなかった。穿き慣れないTバックなるものを着用しているからだ。当たり前だが、布面積が少なく心許ない。これならむしろノーパンの方がよかったんじゃ、とさえ思えてくる。
「ちょっとそんなに走ったら転ぶわよ!」
そんな声と共に、私の隣を小さな男の子が横切った。神社に繋がる階段を駆け上がっていく。少し遅れてさっきの子のお母さんらしき女性が、男の子を追い掛けていった。
境内からはうるさくも心地良い喧騒が断続的に聞こえてきて、私の感情を揺さぶってくる。お祭りに参加することがすごく久し振りだった。お祭りと聞いて雀躍していた心も、大人になるにつれ騒がしい場所や人混みを敬遠するようになっていた。テーマパーク、夏の海、ライブ会場とか。
行くのが面倒だという側面もあるけど、人目が苦手になっていた。そもそもそんなに自分に自信があった訳でもないし、服装も機能性を重視した決してお洒落とは言えない服を好んでいたから。気付けば、加齢に伴いお洒落に気を使わなくなっていったのだ。そんなこともあってか、人混みはなるべく避けるようになった。
「松永…だよな?」
突然話し掛けられ、意識が現実に引き寄せられた。
「し、清水くん…」がそこにいた。
Tシャツ、ジーパンというラフな出で立ちながら、爽やかな雰囲気は健在である。
「一瞬、誰かわかんなかったわ」
「へ、変…かな?」
「いや、浴衣着てるし、髪型も違ったからさ。めっちゃ似合ってるよ」
「あ、ありがと」面と向かって賞賛され、気恥ずかしさが込み上げる。
『せっかくのデートなんだから、髪も私がセットしてあげる』と琴子に言われ、問答無用で髪型をお団子にされたのだ。普段、面倒だからストレートしかしないから、新鮮な気分ではあったけど。
「じゃあ、早速行くか」
「う、うん」
先に歩き出した清水くんの後ろに、私はついて行く。密集する人々、喧々囂々と飛び交う声、立ち並ぶ出店。絵に描いたようなお祭りだ。あまりに懐かしい光景と雰囲気に、涙腺が少し刺激された。
「やっぱ人多いな」
清水くんの何気ない一言に、「そうだね」と同意する。
「とりあえず歩こうぜ」
「うん…」
微妙な距離を保ったまま、私達は歩き出す。
やはり食べ物屋さんが多いらしく、食欲を煽られる匂いが鼻腔に忍び込んでくる。今日のことを考えていると緊張で食欲があまり湧かず、朝からほぼ何も口にしていない。だからか空腹感が凄まじい…。
「そこのお似合いのカップル!」
比較的近い距離から威勢の良い声が飛来し、私は思わず足を止める。それは清水くんもだった。声のした方に目を向けると、頭にタオルを巻いた熊みたいなおじさんがいた。
「カップルって俺達のことですか?」
「そうだよ! イカ焼きどうだい? めっちゃ香ばしくて、美味いよ!」
ほどよく焦げた大きなイカ焼きをこれ見よがしに持ったおじさんが、顔をしわくちゃにしてニッコリ微笑む。よく見れば、前歯が一本欠けている。
「…どうする?」
「…ちょっと食べたいかも」
イカ焼きなんか見るのも久し振りで、すごく美味しそうに目に映った。普段、食べることなんかそうそうない代物だ。てゆーか、祭りでしか食べた記憶がない。
「じゃあ、一つください」
「はいよぉ!」
おじさんは持っていたイカ焼きを一度鉄板に置くと、豪快に醤油を上からぶっかけた。醤油の香ばしい香りが周囲に広がる。どうやら再度味付けし直してくれるらしい。
「はい、400円ね」
おじさんが油にまみれた手を差し出し催促してきた。財布を出そうと巾着の口を広げようとしたけど、「俺が出すよ」と清水くんに制される。
「え? で、でも、食べたいって言ったのは私なんだし…」
「昨日も伝えたと思うけど、お詫びだって言ったじゃんか。だから、今日は奢らせてくれよ」
「…そう言ってくれるなら」
「はい」会計を済ませたイカ焼きを差し出される。
「あ、ありがと」
イカ焼きを受け取りながら、ふと私は思う。イカ焼きの魅力に屈してしまったが、男子の前でイカ焼きを食らう女子ってどうなの? もっと綿飴とか林檎飴をちびちび食べていた方が可愛げがあったんじゃ、と少し後悔。
とりあえず一口齧ってみる。が、思った以上の弾力になかなか噛み切れない。
「んぐっ…!」やっとこさ噛み切れたイカ焼きをモチャモチャ。うめぇな、これ。お酒が欲しくなる。
「…美味そうに食うよな、松永って」
「ぁえ?」
「教室で弁当食ってる時も、一口一口ちゃんと味わって食べてる感じで。見てて気持ち良いっつーか」
「そ、そうかな?」初めてそんな指摘を受けた気がする。でも、私が気になった事柄は他にあった。
「…それよりさ、私がご飯食べてるところをいつも見てたってこと?」
「あっ…え~なんだ」清水くんの目が露骨に遊泳する。「たまたま目に入ったっつーか…。ごめん、気持ち悪かったよな」
「き、気持ち悪くなんかないよ! 人がご飯食べてるところを見ちゃうの、なんかわかる気がするし…」
テレビなんかで豪快に大食いしているタレントを観ていると、やっぱり気持ち良いし。「……」
フォローするが、どことなく気まずい空気が私達の間に立ち込める。その空気を払いのけるように、私は清水くんにイカ焼きを差し出す。
「よ、よかったら、一口いかが?」イカだけに、とは口が裂けても言えない。
「…じゃあ、遠慮なく」
イカ焼きを受け取った清水くんは、パクッと一口。モグモグ咀嚼。
「おっ、結構美味い」
「でしょ? あのおじさん、歯はなかったけど、腕は本物だったみたい」
「ははっ、確かに」清水くんは白い歯を見せ笑う。「はい、これ」とイカ焼きを返してもらう。
残りを食べようとして、私は重大なことに気付く。こ、これは関節キスというものなのでは? で、でもまぁ、関節キスなんか気にするの中学生ぐらいまでだよね、うん。清水くんの食べかけ…。学校で秘密裏に売ったら結構儲かるんじゃ、と邪念が芽生える。アホか! とかぶりを振ってその邪念を淘汰する。
「どうかした…?」私の行動を不審に思ったのか、清水くんが小首を傾げる。
「あっ、いや、関節キスのことなんか考えてないから! うん、全然!」
言い終えてから、自身の失態に気付く。こんなの意識してますよと自分で言っているようなものだ。
「そ、そういえばそうだな…。食べるのが嫌だったら、もう一つ買ってくるけど」
「い、嫌じゃないよ! むしろ嬉しいぐらいだから!」
「嬉しい…?」
「あっ、いや、嬉しいってのは、言葉のあやっていうか! と、とにかく全然気にしてないから!」
私は残っていたイカ焼きを一気に口に放り込む。自分でも何を言っているか謎だった。ただただ恥ずかしくてたまらない。今すぐ逃げ出したい気分だ。
「…むぐっ!」ろくに噛みもしないで飲み込もうとした結果、喉にイカ焼きが詰まってしまう。
「ん~!」喉元を押さえ悶絶。ヤバい! 死ぬ!
「お、おい、まさか喉に詰まったのか! ちょっと待ってろ!」
清水くんはそう言い残し私の側から離れる。ややあって、清水くんが私のもとに猛然と駆け寄ってきた。
「これ、自販機で買ったやつ。飲め!」
清水くんに手渡されたお茶を一気に流し込む。喉のつっかえが見事に取れ、スムーズに呼吸ができるようになった。あ、危なかった。
「あ、ありがと。清水くんは命の恩人だよ」
涙目になりながら、私は感謝の言葉を送る。イカ焼きが喉に詰まって死んだとか、あまりにカッコ悪い。
「…ぷっ、あはははっ!」
突然、お腹を抱えて笑い出す清水くん。
「わ、笑うとかヒドい! ホントに危なかったんだから!」
まさか笑われるなんて思ってなくて、カッと体温が上昇した。
「わ、悪い悪い。別にバカにして笑った訳じゃないんだ。やっぱ松永って面白いなって思ってさ」
「…それってバカにしてない?」
「なんか松永といると、刺激的な日々を送れそうな気がするよ」
「何それ…」喜んでいいのか、悲しんだ方がいいのか、よくわからない評価だった。
「あっ、藍子」「おおっ、あっちゃんだ!」「お姉ちゃんじゃん」
その時、見知った顔が三つ目の前に現れた。
「げっ…」自然、そんな声が漏れていた。まさか紗月、日菜ちゃん、琴子達一行と遭遇してしまうとは…。
「『げっ』とは何よ。てゆーか、清水くんじゃん」
「えぇっ? デートの相手って清水先輩だったんですか!」
私の同行相手を見て、信じられない! といった様相で目を見開く琴子。
「あっちゃん、清水くんと付き合ってたの?」浴衣姿の日菜ちゃんが私に問う。
「あっ、いや、付き合って、」
ない、と続けようとしたが、それは紗月のテンション高い声に遮られた。
「うっそ、マジ? 大ニュースじゃん! 明日の新聞の見出しは、『奇跡! イケてない女子が掴んだ、学校一のイケメン男子!』で決まりじゃん!」
「誰がイケてない女子やねん!」思わず関西弁で突っ込んでしまう。
「清水先輩!」すると何を思ったか、琴子がずいっと清水くんの前に接近。
「き、君は…?」
その勢いに圧され、たじろぐ清水くん。
「私、そこの藍子の妹です」
「ま、松永って妹いたんだ。知らなかったな…」
琴子は清水くんに向かって頭を下げ、
「どうぞこのダメな姉をよろしくお願いします!」
「あ、アンタ、何言って、」
「清水先輩ほどしっかりしている方であれば、姉を任せられます! 多分、この先清水先輩に迷惑を掛けることがあると思います。いや、十中八九あります。姉は特に取り柄のない人間ですが、退屈だけはしないはずです!」
誰かお願いだから、あの暴走妹を止めてくれぇ!
「…確かに退屈はしなそうだな」
顎に手をやり意味深な言葉を呟く清水くん。
「もう行こうよ、清水くん!」
いたたまれなくなった私は清水くんの手を引いて、三人から逃げるように走り出す。とにかく奴等から離れないと。
「お、おいっ、どこまで行くんだよ!」
「あっ、ゴメンね」
気付けば、神社奥の人気のない場所まで来ていた。四方が新緑に囲まれた自然豊かな場所だ。人が密集していないのと、木々に囲まれた場所なので少し涼しく感じた。ここまで歩いてきた労力、暑気によって火照った身体の熱が徐々に引いていく。
「ここ、静かでなんか雰囲気いいな」
清水くんがキョロキョロ辺りを見渡し一言。確かに喧騒が遠くから聞こえてきて、この場だけが隔離されたような錯覚を覚える。
「…なぁ、松永」
「なに?」
「俺さぁ、松永に言っておきたいことがあるんだ」
そう言って清水くんが私に向けた目は、真っ直ぐで真剣そのものだった。
「う、うん」
私もその真剣さに感化され、妙な緊張感を抱く。
ま、まさか告白…とか? いやいやいや! ありえないありえない! 校内で秀抜してモテる清水くんが私に告白なんてするはずない。変に期待した挙げ句、傷付くのは出来れば避けたい。私のハートはガラス玉なのだ。
「松永、俺と付き合ってくれないか?」
「あっ、はい…。で、どこに?」
でたでた。お約束のパターンだ、これは。どこかに付き添うって意味の『付き合ってください』だろう。騙されないぞ、私は。
「そういう意味じゃなくてだな。俺と交際してくださいって意味なんだが…」
「わ、私と清水くんが? 交際?」
告白されたのを理解したと同時、疑念が膨らんだ。これはドッキリなのでは? という疑念。どうせ木陰から『てってれーっ!』とか言って、共謀者が現れるに決まっている。だが、いくら待てど誰かが現れることはなかった。じゃあ、私が告白されたのは本当ってこと?
「……」
清水くんが私の二の句を黙然と待っている。
「…ちょっと考えさせてくれる……かな?」
私が出した答えは、先延ばしだった。確かに清水くんと付き合えるのは、素直に嬉しい。学校一の人気者という肩書きを省いても、清水くんは気配りの出来る良い人だし。
だけど、彼女の顔が思い浮かぶのだ。千晶ちゃんの顔だ。千晶ちゃんは清水くんが好き。それは間違いない。仮に私と清水くんが付き合ったと知れば、千晶ちゃんはどう思う? 祝福してくれるとは到底思えない。むしろ妬まれる可能性が高い。
私は千晶ちゃんとの築き上げてきた友情を崩壊させたくない、絶対に。かといって清水くんを振れる勇気が私にはない。だから、先延ばしにした。それが単なるその場しのぎにしかならないのは理解していたけど、私にはそれしか思い浮かばなかった。
「…そっか、わかった。期待しとくよ」
そう言って清水くんが私に向けた笑顔は、酷く切なげだった――
自室のベッドに寝転びながら、浴衣のまま今日の出来事を回顧する。あの後、私と清水くんはすぐ帰る流れになった。家まで送ってくれようとしたが、私は丁重にお断りした。だって、気まずい空気のまま一緒にいることが怖かったから。
「…告白されたんだよね、私」清水くんに。まだどこか現実味がない。白昼夢だったとさえ思えてくる。白昼じゃないけど。
感情の片隅で憧れを抱いていた清水くんと付き合えるなんて、私にとって思ってもみない僥倖だ。だけど、やっぱり千晶ちゃんの顔がちらつく。私は千晶ちゃんとの友情を大切にしたい。
「ああっ、もう!」そんな葛藤がずっと脳内をぐるぐる回遊して、頭が爆発しそう。
私はベッドを降りると、CDラジカセの電源を入れた。こういう時こそ好きな音楽でも聴いて、テンションを上げて悩みを吹き飛ばしたい。
スピーカーから流れ出したのは、当時、活躍していたZONEの『大爆発No,1』。シークレットベースぐらいしか有名な曲はないけど、良い曲が多いバンドだった。確か今年の春に解散したはず。その悲報を受けて、随分と落ち込んだのを記憶している。
「あれ? もう帰ってたんだ」
聴いていたアルバムの最後の曲が終わろうとした時、琴子が部屋に顔を覗かせた。
「そのまま寝たら、浴衣が皺になっちゃうよ」
「…うん」
「てゆーか、先に言っといてよ。デート相手が清水先輩とか知らなかったんだけど。でも、まさかお姉ちゃんの彼氏が清水先輩とは思わなかったよ」
「…彼氏じゃない」
「そうなの? でもさ、付き合うのも時間の問題でしょ。好きでもない同士が、お祭りなんか一緒に行かないもんね」
「…そうかな?」
「…なんか露骨に元気ないね。もしかして告白して断られちゃった?」
「…その逆」
「どういうこと?」
「告白されちゃった、清水くんに」
「そ、それ、ホントなの?」
琴子があからさまに一驚する。
「ねぇ琴子、私、どうしたらいいの?」
「…なんか事情があるみたいね。話してみてよ」
私は告白された顛末や千晶ちゃんのことについて、琴子に要約して打ち明けた。
「なるほどねぇ…」
自分の推測していた通りの事態だというのを理解し、琴子はどことなくご満悦そうだ。「…で、琴子ならどうする?」
「難しい相談だけど、私がお姉ちゃんなら付き合うかな」
「な、なんで?」
「だって、清水先輩はイケメンでサッカー部キャプテンかつ、かなりモテる。スゴいモテる。誰にもモテる」
「モテるから付き合うってこと?」
「お姉ちゃんのレベルで鑑みれば、高嶺の花じゃん。清水先輩から告白されるチャンスなんてそうそうない。この絶好のチャンスを逃すとかバカだよ。気まぐれで買って当選した宝くじを換金せずに捨てるようなもん」
「…友情を捨てろってこと?」
お姉ちゃんレベルとかいう貶された部分にはこの際触れず、私は核心に迫る。
「本当の友達なら、話せばわかってくれる。それでケンカして軋轢が生まれたら、そこまで深い関係じゃなかったってこと」
「…アンタ、難しい言葉知ってるわね」
軋轢か…後で意味を調べておこう。
翌日の昼休み、私は屋上にいた。燦々と照る太陽が眩しい。
「…すぅ、ふぅ~」高ぶった気持ちを鎮める為に、大きく息を吸ってゆっくり吐く。特に乱れてなかったけど、髪を手櫛で整え、スカートの裾も直しておく。
その時、屋上の鉄扉がギギッと奇妙な音を立てながら開いた。
「お、おす、松永」
あらかじめメールで呼び出していた清水くんが、少し引きつった笑顔を浮かべながら軽く手を上げる。
「…告白の答え、聞かせてくれるんだよな?」
無言で首肯すると、清水くんの表情から笑みが消えた。清水くんは扉をそっと閉めると、緊張した面持ちでこちらに近付いてくる。
「…正直、私ね、清水くんとは釣り合わないと思ったの。自分で言うのもなんだけど、私ってそんなに可愛くないし…」
「釣り合わないなんて、そんなこと言うなよ」
「だって清水くんはクラスの人気者じゃん。スポーツも出来るし、女子にもモテる。それに比べて私は、特にこれといった取り柄ないもん」
「そんなことない。俺は松永のいいところ知ってる」
「…例えば?」
「性格は明るいし、友達も多い。俺に弁当を作ってきてくれる優しさとか、人付き合いが苦手な千晶と打ち解けられるコミュニティー能力の高さとか」
「そ、そうかな…?」
正直、褒められて悪い気はしなかった。普段、褒められることがないから。
「そんな卑屈なることないさ。松永のよさを知っているからこそ、周りの人間も気を許すんだよ。俺はそんな松永が好きなんだ」
「っ…!」
私の決心を乱す言葉だった。
「でも、やっぱり私は…」
「松永は俺のことをどう思ってるんだ?」
「え…?」
「はっきり言って欲しい」
「私は清水くんのことが……好き」
気付けば、そんな言葉が零れていた。そんなの好きに決まっている。嫌いになる方が難しいと思う。
「…両想いってことだな。じゃあ、答えは簡単じゃないか」そう言って、清水くんサッと私に右手を差し出してくる。「改めて言うよ。松永…いや、藍子、俺と付き合ってください」
下の名前で呼称され、キュンっと心臓が締め付けられるような錯覚に襲われる。そ、それは反則だよ。
「…は、はい」
さすがに自ら好きとか言っておいて、今更断ることなんかできなかった。こうして、私と清水くんはめでたく付き合うこととなった。
「藍子、アンタ、なんか乙女の顔してない?」
教室に戻ると開口一番、紗月が私の異変を指摘してきた。
「は、はぁ? 私はいつでも乙女なんだけど。失礼しちゃうわね」
「そういう意味じゃないわよ。なんか艶っぽいって言うか」
「意味わかんない」と白を切っておく。
清水くんと話し合った結果、私達が付き合っていることは、内密にすることとなった。それを先に提案したのは私だ。私達が付き合っていることが周知されれば、確実に女性陣から嫉妬と怨恨を向けられる。
何より一番懸念すべきは、千晶ちゃんに知られてしまうこと。それこそ恨まれ友情が崩れ去る可能性もある。隠し事をしておいて何が友情だ、と思う人もいるだろう。だけど、私は千晶ちゃんに嫌われたくない。自分勝手なヤツ、と呆れられても何も文句言えない。
そして、その日の6時間目が終わる間際のことである――
『ちょっと話があるから、教室に残っておいて』というメールが千晶ちゃんから送られてきて、一瞬にして肝が冷えた。千晶ちゃんが自主的に初めてメールをくれた喜びよりも、不安が一気に膨れ上がった。ま、まさかバレた? …いや、たまたまだよね、うん。
そこからの記憶は曖昧で、気付けば放課後を迎え、私は教室に残っていた。目の前には制服姿の千晶ちゃんがいる。窓から差し込む夕陽の所為で逆光となり、その表情はよく見えない。
「そ、それより初めてじゃない? 千晶ちゃんからメールくれるなんて」
とりあえず他愛もない話題から切り込んでみるが、千晶ちゃんはジッと私を見つめるばかり。
「…颯斗となんかあった?」
清水くん名を出された瞬間、ドクンっと心臓が脈打つ。
「な、なんでそんなこと聞くの?」
「あのバカ、妙に上機嫌だったから。なんか隠してるでしょ?」
「な、なんのことだろ? 皆目見当も付かないぞなもし」
「ウソつくの下手だよ、アンタ」
刹那的に看破される。私を見る千晶ちゃんのその双眸は、確信めいたものが窺えた。「…実は私達…付き合うことになったの」
多分、変にウソをついても見透かされ、やがてバレる時がくる。だったら、もう自ら打ち明けた方がいいと思った。やっぱり秘密にしているのは、罪悪感が大きい。友達を裏切れない。
「アンタと颯斗が…?」
「う、うん…」
「どっちから告白した?」
「えっと、清水くん…から」
「…そう」
淡々とした想定外の反応に面食らう。なんとなく千晶ちゃんは怒るんじゃないかと思ってたから。
すると何を思ったか、千晶ちゃんは窓の落下防止の手すりに座ってみせた。
「そ、そんなところに座ったら危ないよ」
忠告するも、千晶ちゃんは私の言葉を受け入れない。ここは三階。落ちればただじゃ済まない。
「…お幸せに」
「えっ…?」
次の瞬間、千晶ちゃんは上半身を後ろに倒した。直後、千晶ちゃんの姿が忽然と視界から消える。落ちた――そう理解するのに数秒要した。
で、でも、大丈夫だよ。だって、前も窓から飛び降りて無事だったんだもん。千晶ちゃんには、くノ一の血が流れているんだ。きっとそうだ。
私はスカートの裾をギュッと強く握り締めながら、恐る恐る窓の方へと歩みを進める。そして、手すりを握って窓の下を覗き込んだ。
眼下に広がっていたのは、真っ赤に染まった無惨な千晶ちゃんの姿。
「あ、あ…あぁ…あああああああっ!」
頭を抱えながら、私は絶叫するしかなかった。
「はっ…!」気が付くと、視界には見慣れた天井が広がっていた。
あ、あれ? もしかするとさっきのは全部夢? そうだ、と思い出す。昨日、お祭りから帰った後、私はそのまま寝てしまったんだ。
「お姉ちゃん、どうかしたの!」
夢か現かまだ朧気な意識の中思考を巡らせていると、血相を変えた琴子が部屋に飛び込んできた。
「な、なんか叫んでなかった?」
「えっ? あ~…怖い夢見ちゃって」
私の言葉を聞いて、「何それ」と呆れ顔で一言。
「人騒がせな」
「す、すんまへん」
思い返してみるも、後味の悪い夢だった。千晶ちゃんが学校の窓から飛び降りるという悪夢。意志とは無関係にあの惨状が脳内に想起されようとして、私は頭を振ってそれを掻き消す。あんな結末、私は望んじゃいない。
「せめて着替えてから寝なさいよ。浴衣、汗で濡れて肌に張り付いてて、なんかえっちぃよ」
「い、いや~ん」
「キモい。とにかくシャワー浴びてきたら?」
登校前にシャワーを済ませた私は、重い足取りで学校へと向かった。学校には清水くんがいる。気まずいけど、顔を合わせないとならない。だって、同じクラスだから。
教室の扉に備え付けられた小窓から室内を確認する。清水くんは…まだ登校していない様子。ふぅ、と胸をなで下ろす。
「おっす、松永」
「ぎゃああ!」廊下から教室内を覗き込んでいると、不意に声を掛けられ驚愕。
「し、清水くん…!」振り返って更に驚愕。
「す、すまん。そんなに驚くとは思わなかった」苦笑する清水くん。
「つーか、何やってんの?」
「…し、視察?」
「ははっ、やっぱ松永は面白いな」
破顔一笑。そこにはいつもの爽やかな笑みを浮かべる清水くんがいた。あれ? もっと気まずくなると思っていたのに…。私、告白されたよね? まさかお祭りでの出来事も夢だったり…。
清水くんは私の横を通り抜ける際、「良い返事、待ってるから」と囁き掛けてきた。
思わずドキッとする。だが、これで告白されたのが本当だったことが証明された。
「アンタ、何してんの?」
突然肩を叩かれ、驚き飛び退く。振り向くと、「さ、紗月…」が立っていた。
「こんなとこに突っ立ってたら邪魔でしょうが」
「す、すんまへん」
「あっちゃん、おっはー!」
紗月の隣にいた日菜ちゃんが、溌剌な挨拶を私に寄越す。相変わらず元気だな、この娘。
「あっ、そういえばアンタ、清水くんとはいつから付き合ってんの?」
紗月がそう言い放った瞬間、教室内に氾濫していた喧騒が一瞬にして消え去る。
「ば、バカ…!」
紗月の口を押さえようとしたが、時すでに遅し。
「さっきの言葉ってホントなの!」
数名の女生徒達(清水くんの信者)が私達の周りに殺到。矢継ぎ早に詰問され、ちょっとした騒ぎへと発展してしまう。一応否定するが、女生徒達は聞く耳を持たない。芸能人のゴシップを食い物にする、マスコミに囲まれた女優やアイドルのような気持ちだった。
「こらっ、これはなんの騒ぎだ!」
騒ぎを嗅ぎ付けた男性教諭の怒号が飛来する。
――最悪だ。
私と清水くんが付き合っているという噂は、瞬く間に伝播されてしまった。千晶ちゃんにもいずれ知られてしまう。…すでに知られているかも。ふと、今朝見た悲惨な夢がフラッシュバックし背筋に冷たいものが走る。痛ましく悲しい夢。アレが現実になる可能性が少しでもあるのなら、私は清水くんと付き合わない方がいいのかもしれない――
「あ、あの、清水先輩とは付き合っていないんですよね?」
「付き合ってないから安心して」
「やっぱりそうですよね! よかったです!」
私が清水くんと付き合っていないという事実を知った名も知らぬ後輩ちゃんは、嬉々とした足取りで教室を去っていった。今ので何人目だろうか…。もう昼休みだというのに、マジで勘弁してほしい。
「アンタも大変ねぇ」
他人事全開な言葉を寄越す紗月を睨む。
「誰の所為だと思ってんのよ」
「すぅ~…はぁ~」込み上げる緊張を緩和するべく大きく深呼吸。
昼休みの屋上にて、私は燦々と照る陽光に照らされながら、とある人物の到着を待っていた。そわそわして居心地が悪く、何度も髪を触ってしまう。精神状態が不安定な時、無意識に髪を触ってしまうのは昔からのクセだった。現在(未来)でもそのクセは直ってなくて、目上の人に怒られ注意された時にも触ってしまうものだから、態度が悪いと勘違いされることもしばしば。
そんなことを考えていると、屋上の鉄扉が開いて呼び出しておいた人物が姿を現した。「よお、松永」
言わずもがな清水くんだ。
「呼び出されたってことは、返事を聞かせてくれるんだよな?」
この状況に強い既視感を覚えたが、私はとりあえず頷く。
「…まずゴメンね、なんか騒ぎになっちゃって」
「別にいいさ。むしろ松永と噂になって、ちょっと嬉しいぐらいだし」
「そ、そっか…」不覚にもドキッとしてしまう。
そういう台詞をさらっと言えるのが、清水くんがモテる一つの要因だろう。
「あ、あのね、真剣に考えたんだけど、私と清水くんは釣り合わないと思うの」
「…どうして?」
「清水くんはスポーツ万能でカッコよくて人気者じゃん。それに比べて私は、特に取り柄もない凡人だもん」
「そんなこと言うなよ。俺は松永のいいところ、結構知ってるつもりだ」
「…例えば?」
夢と同じ流れだと理解していても、聞かずにはいられなかった。
「性格は明るいし、友達も多い。俺に弁当を作ってきてくれる優しさとか、人付き合いが苦手な千晶と打ち解けられるコミュニティー能力の高さとか」
同じだ、まるっきり。でも、大丈夫。ここで断れば、アレは予知夢にはならないはず…。
「…でも、やっぱりゴメン。清水くんとは付き合えない」
罪悪感が強くて、清水くんの目を見れなかった。
「他に好きなヤツでもいるのか?」
「う、ううん! 好きな人はいない…よ」
「…松永には松永の考えがあるんだな。わかった、今回は潔く引き下がるよ」
「ご、ごめんね…」
「でもさ、好きなヤツがいないってことは、俺にもまだチャンスがあるってことだもんな」
「そ、それは…」どうだろ…?
「返事聞かせてくれてありがとう。じゃあ、俺は教室に戻るよ」
そう言い残し、清水くんは屋上から姿を消した。
「………」
なんとも言えない喪失感と寂寥感と罪悪感に押し潰されそうだった。
夢での出来事を避けるのならば、これが最善策だと思ったんだ。これでよかったんだよね…? 自問自答するけど、答えは不明瞭だった。
「…そろそろ戻ろう」
うじうじ考えていても仕方がないので、私も教室に戻ろうとした。
「…ぅわっ!」
扉を開けた瞬間、すぐ目の前に人のシルエットがあって思わず驚きの声を上げてしまう。逆光でよく見えなかったけど、目を凝らすと千晶ちゃんの顔だとわかった。
「ち、千晶…ちゃん」な、なんでここに…。
「…だよ」
千晶ちゃんが何かを呟いたようだがよく聞き取れず、「へ…?」と聞き返す。
「なんで断ったんだよ!」
耳が痛くなるほどの声量に圧され、私は一歩後退る。
「そ、それは…」どうやら会話を聞かれていたらしく、私は言葉に詰まる。
「理由もないのに断ったのか? はっきりしろよ!」
「つ、釣り合わないと思ったの。私と清水くんじゃ…」
「颯斗の気持ちを踏みにじったんだよ、アンタは!」
「ふ、踏みにじってなんかないよ」
これが私なりに考え出した答えなんだ。
「断ったんなら結果的に踏みにじったのと同じなんだよ!」
「そ、そんなつもりじゃ…」
「アンタ、まさか私を気遣ったわけ?」
「そ、それは…」どうやら私の感情は見透かされているようだった。
「そんないらない気遣いの為に颯斗を傷付けんな!」
憤然と最後にそう言い放ち、千晶ちゃんは階段を駆け下りていった。
「……」
私は間違っていたのだろうか? 自分が最善だと思っていた選択は、見事に裏目に出てしまったみたいだ。
「先輩、今帰りですか?」
学校からの帰路、誰とも一緒に帰る気になれずトボトボ一人歩いていると、後ろから声を掛けられた。振り向くと、自転車を押した女生徒がニコニコと微笑んでいる。
「…誰だっけ?」
「なっ、ヒドい! この前自転車のチェーンを直してあげたじゃないですか!」
「ああっ、あの時の…。って私が直してあげたんでしょ」
確か友香ちゃんだ。
「なんて冗談ですよ、冗談」
あはは、とヘラヘラ笑う友香ちゃん。
「それより、なんか元気ないですね」
「…そう見える?」
「あんなに俯いて歩いてたら、そう見えちゃいますよ。どうしたんですか? よければ、私が相談に乗りまっせ」
「友香ちゃんって口硬い?」
「口は柔らかいです。この通りぐにゃんぐにゃん」
そう言って、彼女は下唇を摘まんで上下左右に引っ張ってみせる。
「……」
「なんて冗談ですってばぁ! 私、口の硬さだけは誰にも負けませんよ。そもそも話す友達がいませんからね!」
ガハハ、と大口を開けて笑う友香ちゃん。
「なんて冗談は置いといて。さっ、この友香ちゃんになんでも話してくださいな」
この娘、ホントに大丈夫だろうか? と不安が胸中を支配するが、私一人ではどうにも解決できそうになかった。
「実はね――」
だから、私は悩みの種を植えてみようと思った。
「な~るほど。なんかマンガみたいな展開っすね」
「…私はどうするのが正解なんだろ?」
「さぁ?」
「友香ちゃん、一発だけ頭叩かせてもらっていいかい?」
「う、ウソですよ、ウソ! 後輩のちょっとしたお茶目じゃないですか」
「……」不安感が更に膨張した。
「私としてはですね、丸く収まるってのはかなり難しいと思いますよ」
「それはなんとなく予想してる。私は友達と仲直りできたらそれでいいから」
「恋愛は捨てますか」
「…捨てるって言うか、まずは軋轢を解消したいなって」
覚えたての熟語を使ってみた。
「お友達の言葉通りならば、その男友達を傷付けたのが許せないってことですよね? だったら、その男友達と付き合えばいいと思いますよ」
「…それってアリなの?」正直、それは考えつかなかったな。
「彼氏もできて、友達とも仲直りできる。まさに一石二鳥じゃあ~りませんか」
「そんなに上手くいくかな?」
「あっちゃん先輩はその男子のことはどう思ってるんですか?」
「…どうって?」
「好きか嫌いか。イエスかノーか。男か女か。生きるか死ぬか。デッドオアライブ」
意味がわからない。
「友香ちゃんってさ、たまにウザいって言われない?」
「はっ、何故それを…!」
露骨に驚いた表情を見せる友香ちゃん。
「さすがになんとなく予想できるよ」やっぱりな。
「あっちゃん先輩、実は異能力者だったんですね。夜な夜な黒猫と一緒に箒で空を飛んでるとか憧れっすよ」
「…それは魔法使いかな、どっちかって言うと。だけど、あながち間違いじゃないかもしれない」
だって私は、時をかけたのだ。それを異能力と言わず、なんと言えるのか。
「なんてね。それより、聞いてくれただけでなんかスッキリした」
「どういたしまして。アイスぐらい奢ってくれていいんですよ」
「…厚かましいとも言われるでしょ?」
近くにコンビニがあったので、私達は立ち寄ることにした。入店すると、エアコンの冷風が頬を撫でた。
友香ちゃんは幼い子のようにアイスコーナーにまっしぐら。私も後に続く。
「あっ、ハーゲンダッツの新作だ!」高価なカップアイスにテンションが上がる友香ちゃん。「おおっ、美味しそう。あっちゃん先輩、これでもいいですか?」
「あはは、冗談は存在だけにしなさい。ガリガリくんしか認めません」
「ぶ~っ、先輩のケチ。そんなんじゃ後輩に慕われませんよ」
「大いに結構」
アイスを二個購入した私達は、コンビニ近くにあったベンチに並んで腰を下ろす。海が近くにあるので、濃い潮風が運ばれてくる。
「ん~っ、やっぱりピノは最強っすね!」
アイスを食べた友香ちゃんが、喜色に彩られた声を発する。
「ピノもいいけど、やっぱモナ王でしょ」
私はアイスにかぶりつく。モナカとチョコのハーモニーが最高だ。
「私の夢はですね、ピノをお腹いっぱい食べることなんですよ」
「…ずいぶんと小さい夢だね。すぐに実現できそうだし」
「じゃあ、先輩が実現させてくださいよ。南を甲子園に連れてって」
「なんでそこでタッチなのよ」
「タッチって断片的にしか知らなくて、ちゃんと観たことないんですよね。あと、南ちゃんがカワイイ」
「私も一緒。ちゃんと観たことない」
何故か名作と言われるアニメは、名シーンしか知らない。しかも内容の前後がわからないから、感動しようにも出来ない。アルプスの少女ハイジとかフランダースの犬しかり。まぁ、再放送があまりないから仕方ないのかもしれない。今(未来)だとスマホが普及して配信で手軽に観れるになったけど、この時代にそんな便利な物はない。レンタルするにしても、長編だから大変だ。
「じ~っ…」
不意に視線を感じて隣を見やると、友香ちゃんが私の手元をジッと凝視しているではないか。
「な、なに?」
「あっ、いや、先輩のモナ王を一口頂くなんてそんな!」
「…まだ何も言ってないんだけど。…はい」
私は友香ちゃんの方にアイスを差し出す。
「え? いいんですか? じゃあ、遠慮なく」
友香ちゃんはモナ王を一口かじる。
「むぐむぐ、美味い!」
「…あっ」
その時、道路を隔てた向こう側の歩道に、見覚えのある自転車に乗った女生徒を見つける。
「どうかしましたかいの?」
「友香ちゃん、これ全部あげる」
私はモナ王を友香ちゃんに無理やり譲渡すると、立ち上がり駆け出す。
「あっ、先輩、いずこへ!」
「さっき話してた友達がいたの! ごめんね、友香ちゃん!」
「ガンバルンバですよ、先輩!」
「ありがとう!」
友香ちゃんの古い声援に応えて、私は制服を来た千晶ちゃんの姿を追う。
別に今すぐじゃなくてよかったかもしれない。だけど、今すぐこの気持ちを伝えたかった。
横断歩道の信号はタイミング悪く赤。いじらしくなってその場でバタバタと足踏み。そんなに長い秒数じゃないはずなのに、待ち時間が永遠のように感じられた。授業中とかお湯を注いだカップラーメンとか早く時間が過ぎることを切望すると、体感よりも長く錯覚してしまう。
信号が青になった瞬間、アスリートのように駆け出す。千晶ちゃんの背中はまだ視界に入っている。まだ追いつくはず…いや、追いつくんだ!
ふと、なんか最近走ってばっかりだな、と思い返す。年齢を重ねる度、走る機会はめっきり減った。幼少期は無意味に走り回っていたりしたのにな。
答えは明確。人目を気にするようになったからだ。走ることに限らず、なんに対してもそうだ。人目を気にし、自分の感情を抑圧するようになってしまう。
今にも爆発しそうな感情を抱えながら、日々を生き抜かなくちゃならない。感情を自分でコントロールできるようになることが、大人になった証だと私は思う。
大人になることを否定する訳じゃないけど、子供心はいつまでも持っていたい。忘れたくない。
だから、嘲笑されても私は走る。力の限り。
そんなことを考えている間に、千晶ちゃんとの距離は順調に縮まっていく。相手は自転車だが、私の走る速度の方が僅かに勝っている。
「ち、千晶ちゃん!」
もう少しで追い付きそうな距離まで接近した時、千晶ちゃんの名を呼ぶ。
「あっ…!」
私の顔を見た刹那、千晶ちゃんは漕ぐスピードを速めた。
「な、なんで逃げるの!」
私もスピードを上げる。だけど、さすがにスピードアップした自転車には敵わない。
「くっ、この…!」
声を掛けたことを悔やみながら、私も意地になって更なる加速を試みる。ここで千晶ちゃんを逃がしたらもう一生仲直りできない、なんとなくそう思った。だから、ただ無心で走る。走る。走る。
「はぁはぁ…ん?」
しばらく走ることだけに没入していると、千晶ちゃんの自転車の速度が落ちていることに気付く。よく見れば、目の前の横断歩道の信号は赤。そこの道路は比較的交通量も多く、信号無視も出来ないだろう。
これで追いつける、と安堵したのも束の間――千晶ちゃんは自転車を乗り捨て、胸元辺りまである塀を華麗に乗り越え砂浜の方に逃げた。
「待って!」多少もたつきながらも私も塀を乗り越え、千晶ちゃんの背中を追う。
「くっ…!」砂に足を取られ非常に走り難い。しかし、それは千晶ちゃんも同じ条件。
私は思い切ってローファーを脱ぎ捨てた。すると足元が軽くなって、幾分か走りやすくなった。
「このぉ…!」思い切って私は千晶ちゃんの背中に飛びつく。ギュッと掴んで離さない!「「きゃあ!」」
衝撃で千晶ちゃんはバランスを崩し倒れ込む。もちろん私も一緒に。千晶ちゃんの上に私が覆い被さるような体勢になってしまう。
「こほっ、ごほっ! な、何すんのよ!」
咳き込みながら、千晶ちゃんは眉を吊り上げ憤る。
「私、清水くんが好き!」
「は…?」千晶ちゃんは目を丸くする。
「でも、同じぐらい千晶ちゃんも好き!」
「な、何言って…」
「清水くんと付き合ったら、千晶ちゃんが離れていっちゃうんじゃないかってないかって思ったの。悲しむんじゃないかって。だから、清水くんの告白を断った。どっちかを選ぶとしたら、千晶ちゃんの方が大切だって思ったから。結局、私の選んだ選択肢は間違っていたみたい。私は清水くんだけじゃなくて、千晶ちゃんまでも傷付けた。すっごく後悔したよ。だから、謝りたい。千晶ちゃん、ごめんね」
「……」千晶ちゃんは私の言葉に耳を傾けてくれている。
「私の本音は終わり。次は千晶ちゃんの本音を聞かせて。清水くんのことどう思ってるの?」
「私の本音…?」
「うん」
「…私は颯斗のことが……」
数秒の沈黙を挟んだ後、消え入りそうな口調でこう答えた。
「…好き」
「じゃあ、今日から私達はライバルだ!」
「…ライバル」
私の言葉を反芻するように呟く。
「私は清水くんと付き合う。だから、千晶ちゃんは私から清水くんを奪ってみてよ」
「…な、何よ、それ。意味わかんない」
「もしかして自信ないの? 好きとか言っといて、清水くんを思う気持ちはそれぐらいで折れるような、よわっちいものだった訳?」
「…やってやろうじゃない。私と颯斗が一緒にいた期間の方が圧倒的に長いのよ。アンタみたいなヤツに負ける訳ないじゃない!」
「ふふっ」
「何笑ってんのよ?」怪訝そうに眉を顰める千晶ちゃん。
「いや、やっぱり千晶ちゃんってカワイイなって」
「バカにしてんの? てゆーか、早くどいて」
千晶ちゃんに命じられ、私は素直に立ち上がる。膝に付いた砂を払う。
「サイアク。アンタの所為で砂まみれだし」
文句を言いながら立ち上がった千晶ちゃんは、制服の砂を払う。
「じゃあ、とりあえず握手しよ」と私は右手を差し出す。
本当なら仲良く海にダイブしたい気分だったけど、ここの海は遊泳禁止。諦める他ない。
「は? なんで?」
「仲直りの証。あと、ライバルを誓い合った者同士の儀式みたいな感じ」
「………」
釈然としないながらも、千晶ちゃんは私の手を握ってくれた。私達はこれから切磋琢磨しながら、青春を謳歌していくんだ。
千晶ちゃんと友情を深め合ったその日の夜、特にやることもなくベッドに寝転びながら好きな音楽を垂れ流しにしていると、唐突にケータイが鳴り出す。
流れた着うたから、メールではなく電話だと判別できた。側に置いていたケータイを手に取り、着信相手を確かめ一驚。清水くんからだったから。
「も、もしもし。こちら松永藍子のケータイですけども、どういったご用件でしょうか?」
反射的にベッドの上で正座してしまう。
『俺、清水だけど。…つーか、なんで敬語?』
「や、やっぱり親しき仲にも礼儀ありかなっと思いましてですね」
『ははっ、やっぱ松永って面白いな。で、電話した理由なんだけど、明日さ、部活の練習試合があるんだよね。よかったらまた観に来てくんないかなって思って』
いつも通りの清水くんだ。私に振られたことなんか、まるでなかったかのようだった。
「…ど、どうして?」
『俺が一番輝いてる瞬間ってサッカーしてる時だと思ったんだよね。だから松永を惚れさせるには、プレイしてる姿を見せるのが手っ取り早いんじゃなかって考えたんだよ』
「…そ、それは巧妙な作戦ですな」
『だろ? とりあえず暇だったら観に来てくれよ』
その後、時間と場所を指定され、通話を終えた。大胆だな、と一考。あんなこと言われたら、誰だってキュンとしちゃうでしょ。
「う~む…」どうしよかな、と思い悩む。暇なのは暇だけど、清水くんと顔を合わせるのがすこぶる気まずい…。
一晩中悩みに悩んだ結果、サッカーを観戦しに行くことにした。せっかく誘われたんだし、行かないっていうのは少し心苦しいし。
翌朝、用意を済ませた私は、開催地である我が校へと趣いた。グラウンドの周りには、すでにギャラリー達が沢山いた。こんな暑い中、よくこれだけ集まったもんだな、と感心。やはり清水くんの影響は絶大なようだ。
「…ん?」数多いるギャラリーの中に、いかにも怪しげな雰囲気を放つ人物を見つける。帽子を目深に被り黒い長い髪が特徴的な女生徒。
その女生徒に近付き、
「千晶ちゃんも来てたんだ」と声を掛ける。
千晶ちゃんは振り返り私を見た瞬間、『げっ…』という顔をした。だが、何事もなかったように前を見据える。
「今日、暑いよね。本当はずっと家にこもっていたかったんだけど…」
「じゃあ帰れば」
「清水くんに誘われたから仕方なく来た感じなんだよ」
清水くんの名を出した刹那、ピクッと反応を示した千晶ちゃんだが、「あっそ…」と素っ気なく相槌を打つ。
「千晶ちゃんは応援?」
「…見張り」
「見張り?」
「颯斗に変な虫が寄り付かないように」
「ふふっ」と思わず笑ってしまう。
「な、何笑ってんのよ」千晶ちゃんが遺憾そうに私の方を見る。
「やっぱカワイイなぁ、千晶ちゃんは」
「ば、バカにすんなっ!」
ふんっ! と鼻を鳴らし、千晶ちゃんは私から顔を背ける。
それにしても、「あっつい…」
私は額を伝って流れる汗を拭う。空を仰視し、ギラギラと照りつける太陽に目を細める。
こんな炎天下でサッカーをしているというだけで、私にしてみれば尊敬に値する。暑がりの私だったらすぐにぶっ倒れそう。
その時、清水くんが得点を入れ黄色い歓声が上がる。人気者だな、と再認識。
清水くんぐらいイケメンだと引く手数多なのに、私みたいな人物を選んだ理由が本当にわからない。以前、明るいとか優しいとか評されたけど、それぐらいが取り柄の人だったら他にもいるし…。
どちらかと言えば、紗月の方が明るく優しい気もする。私みたいにだらしなくないし、曲がったことが大嫌いな正直者。考えれば考えるほどわからなくなった。やがて試合は中盤に差し掛かり、得点はイーブン。
「…あぢぃ」清水くんには悪いけど、私は試合観戦を一時的に放棄して食堂に向かうことにした。
いつも殷賑を極める食堂も、利用者が誰もいなくて寂寥感に満たされている。自販機でコーラを買うと、とりあえず頬に押し当ててみる。
「つめてっ!」
思った以上の冷たさに、反射的に頬から離す。まぁ、これで体温が少しばかり下がった気がする。
早速開けてみると、プシュッと小気味良い音が鼓膜をくすぐった。一口ゴクリ。
「くぅ~!」シュワッとした喉越しがすこぶる心地良い。やっぱり夏は炭酸に限るな。
一気に飲み干した後、もう一本買ってから私はグラウンドに戻った。
「ん…?」 差し入れのコーラを頬に押し当てて驚かしてやろうと企みながら、気配を出来る限り殺しつつ背後から歩み寄る。
ふと、違和感を覚えた。千晶ちゃんが揺れている。陽炎のようにふらふらと。
「ちあ…」
声を掛けようとした直後、千晶ちゃんが脱力したようにその場にペタンと座り込んだ。「千晶ちゃん!」持っていたコーラを捨てて、彼女の側に駆け寄る。
「ど、どうしたの? 大丈夫っ?」
「…だ、大丈夫…だから。なんか頭がぼーっとする…だけ」
ぼそぼそと話す千晶ちゃんは、どう見ても大丈夫そうに見えない。
「軽い熱中症かも。保健室に連れて行ってあげる」
ほら乗って、と背を向けてしゃがみ込む。
「だ、大丈夫だって、はぁはぁ…言ってんでしょ」
苦しそうに額に手を当てながら、乗車拒否をする千晶ちゃん。
「全然大丈夫そうに見えないよ。これ以上悪化したら病院に行かなきゃダメかもしれない。注射イタいイタいだよ」
「…ちゅ、注射」
どうやら葛藤しているようで、頭を抱える千晶ちゃん。私に背負われるのそんなに嫌?
やがて観念したようで、千晶ちゃんは私の背中に乗ってくれた。腰を上げて思った以上の軽さに一瞬驚いてしまったが、私は駆け足で保健室へと向かった。
「しまむー、急患…っていないし!」
勢いよく保健室に駆け込むが、そこにしまむーの姿はない。まさか職務放棄?
よくよく考えれば、今日から夏休みだった。どうりで先生がいないはずだ。とりあえず千晶ちゃんをベッドに寝かせることにした。
「どう? 大丈夫? 頭痛いとか、吐き気するとか」
私は千晶ちゃんのキャップを外す。明らかに顔色が悪く、滂沱の汗をかいている。私はハンカチを取り出し、汗を拭ってあげる。
「…大丈夫。ちょっと…寝たら…治…る…」
その言葉を最後に、千晶ちゃんは目を瞑って動かなくなった。胸が僅かに上下していることで生存が確認できた。あまりに重態だったら救急車を呼ぶことも考えたけど、私が見る限りまだ軽症だと思う。
でも、私は医者じゃない。急に症状が悪化する可能性もある。だけど、救急車を呼べば校内がパニックになり、結果的に試合が中断するかもしれない。
とりあえず経過観察が重要。そう思った私は、千晶ちゃんに異常が起きないかを見守ることにした。
「松永、何かあったのか!」
突然、息を切らしたユニフォーム姿の清水くんが保健室に乱入してきて瞠目。
「あ、いや、ちょっと千晶ちゃんが体調悪くなったみたいで。それより、試合は大丈夫なの?」
「千晶が背負われてるところを見かけて、すっ飛んできた。まさか熱中症か?」
「そうみたい。あっ、でも、そこまで重症じゃない…と思う」
まだ断言は出来ない…。
「だからいちいち来なくていいって言ってたのに」
「どういうこと?」
「コイツ、昔から暑さに弱いんだよ。何度か倒れてるし。それでも、試合を観に来るって止めても聞かないんだ」
「よっぽど好きなんだよ」
「好きって何を?」
「清水くんを」
「千晶が俺を…?」
口を滑らせたことに気付き、私は慌てて言葉を付け足す。
「し、清水くんがサッカーをしてる姿をだよ!」
「…あんまり興味があるようには見えなかったけどな」
「あっ、えっと…試合、戻らなくていいの?」
「そうだな。そろそろ戻らないと」
「千晶ちゃんは私に任せておいて。清水くんは試合に集中しないとだよ」
「相手の高校、結構強豪で県大会とかでもいい成績残してんだよ。こういっちゃなんだけど、ウチの高校あんまり強くないからさ。練習試合だけど、これに勝てば県大会出場も夢じゃないんだ」
「じゃあ、頑張らなきゃじゃん」
「こっからでも試合見れるから、応援しといてくれよ」
「うん、応援してるね」
私が声援を送ると、清水くんは微笑みながら保健室を去っていった。
「千晶ちゃん、本当にもう大丈夫なの?」
私が身体の心配をするが、千晶ちゃんは不機嫌そうに言い放つ。
「大丈夫だって言ってるでしょ。あんなの寝たら治ったから」
結局、千晶ちゃんは試合が終わる頃までずっと眠っていた。
「おい、お前が寝てる間ずっと付き添ってくれた松永に、なんでそんな偉そうなんだよ」
一緒に帰宅していた清水くんが、千晶ちゃんの態度に物申す。
「まずは礼が先だろ」
「うっ…あ、ありが…と」
私にお礼を言うのがそんなに嫌なのか、千晶ちゃんは絶対に目を合わせようとしなかった。
「どういたしまして」でもまぁ、ちゃんと言ってくれたことに変わりない。
「でも、残念だったね、サッカー」
攻防を繰り返しいい感じで競り合っていたけど、結果として我が校の惜敗で練習試合は終わった。
「負けはしたけど、傾向と対策はちゃんと学んだ。それを活かして、次は負けない」
そう言った清水くんの目には、メラメラと燃え盛る闘志が宿っているように見えた。負けず嫌いなのがひしひしと伝わった。
「なぁ松永、夏休みの予定って何かあったりする?」
千晶ちゃんを自宅まで送り届けた後、隣を歩く清水くんが私の予定を探る。
「まだ特にないけど…」
横断歩道の信号が赤で、私達は一度立ち止まる。道路をビュンビュン乗用車が通過していく。
「だったら8月の1日に…」
清水くんがそう言葉を述べた瞬間、凄まじい既視感を覚える。
大きな入道雲から覗く烈々と照る太陽、半袖短パン姿のラフな清水くん、眼前を駆け抜けていく何台もの車、向こうの側の歩道を歩くベビーカーを押す若いお母さん。いわゆるデジャヴというものだ。なんだろ…なんかスゴく嫌な予感がする。
それは、あまりに突然で唐突だった――
キキーッ! という甲高い仰々しい音が周囲に反響。反射的に音のした方に目を向けると、一台の白い車がこちらに猛然と接近してきていた。
「あっ…」
私は思い出す――今日が7月28日だということを。
まさに今日、清水くんが亡くなった日。私が轢かれそうになった時、清水くんが私を庇って代わりに跳ね飛ばされてしまうのだ。運命は繰り返されるというのか…。前に轢かれそうになった時とは違う、確信めいたモノがあった。
そんなことを考えている間にも、刻一刻と車が接近してきている。それに気付いた清水くんが、私を守ろうと緊迫した顔で駆け寄ってきていた。 あっ、ダメだ。また同じ結末を迎えようとしている。
――いや…。
今度は私が清水くんを守る番だ。近付いてくる清水くんを、私は突き飛ばした。力の限り思いっ切り。
すると、清水くんは驚きを満面に宿した顔で吹き飛び、地面に尻餅をついた。
「…ありがと」
呟いた直後、車が私の身体に衝突。衝撃で吹き飛ばされ、宙を舞う。
痛いという感覚はなく無痛だった。多分、この後に激痛が待っているのだろう。
本来ならば私がこうして死ぬはずだったんだ。これが正解なんだ。
どうせこのまま生きていてもつまらない無味乾燥な日々が待っているだけ。
清水くんには才能がある。未来を生きるのは、清水くんが相応しい。
それに、短い期間だったけど、高校生活をまた満喫できた。私はそれだけで満足だ。
一つだけ心残りがあったとすれば、結婚したかったな。子供の顔が見たかった。もし生まれ変われるのなら、次は才色兼備の美少女がいいな。神様、お願いしまっせ。
やがて、私の意識は深い闇の底へと沈んだ――
――私を庇って。
誰にも言えなかった、恨まれることを忌避して…。
お前が死ねばよかったんだ、そう思われるのが何よりも怖かった。卑怯者だと罵られても仕方ないと思う。助けてくれたことに感謝しながらも、私は罪悪感で押し潰されそうだった。
あの時のことを一生、忘れることはないだろう。そして、私が彼の分まで精一杯生きるんだ。それが私に出来る唯一の恩返しだと思ったから…。
「あ~あ、香菜もとうとう結婚かぁ」
都内某所にある高級ホテルの宴会場。豪奢なシャンデリアが等間隔に設置され、会場内を明るく照らしている。
隣席に座る倉持紗月の目線の先には、華美なウェディングドレスに身を包んだ親友の姿。
新婦の川崎香菜ちゃんは、私と紗月の高校生からの友達だった。愛玩動物のような可愛らしい容姿と、少し舌足らずな喋り方が特徴的な娘だ。
新郎はどこぞの会社を経営している社長で、しかもイケメンときたもんだ。所謂、玉の輿である。
昔から男受けの良い娘だったけど、まさか先を越されるとは。
「アンタももう30なんだから、早く相手を見つけないと手遅れになるよ。気付いたらババアだよ、ババア」
紗月が不安を煽るような言葉を私に寄越す。グラスを傾けながらの発言は、すこぶる腹立たしい。自分が彼氏持ちだからって調子に乗ってやがる。
「30なのはお互い様じゃん。それに、私は運命の人とまだ出会ってないだけなの。今に見てろ、イケメンを超越した超ハイパーウルトライケメンと結婚してやる」
それが叶わないとわかっていながらも大見得を切ってやる。
「イケメンを超越って、最早それは逆にブサイクなのでは?」
「う、うっさいな。とにかくアンタより早く結婚して、いずれハワイで挙式を上げる予定」
「はいはい。その時は是非私も誘ってくれたまえ」
そんな論争を繰り広げている間にも、挙式は淡々と進行していく。
『続きましては、初めての共同作業であるケーキ入刀です』
マイクを持った司会者の声がスピーカーから発せられる。瞬間、シャンデリアの明かりが落とされ会場内が薄暗くなったかと思うと、眩い照明が主役二人を照らし出す。
いつも思うけど、ケーキ入刀を二人でする意味はあるの? 初めての共同作業がケーキを切断する行為とか謎だ。
そんな私をよそに二人はナイフを持ってケーキをゆっくりと切っていく。
欣々然としている二人はやっぱり幸せそうで、結婚はいいものだなぁと再確認させられた。
パートタイムと聞けば何を思い浮かべるだろうか? 大半の人は主婦が労働する際に用いられる言葉だと認識しているだろうが、実は英語だとパートタイムはアルバイトのことを指す。アルバイトという単語はドイツ語なのだ。
とまぁ、浅知恵を披露したかっただけです。深い意味は特になし。
私は今、パートで日々を食い繋いでいる。今日も勤めているスーパーでレジを担当している真っ最中だけど、はっきり言って退屈でたまらない。大して変わらない日々を繰り返していると、今すぐこの環境から逃げ出したくなる。
人間は常に新鮮味を欲するもの。新鮮味が失われると、それは苦痛に変わる。なんに対しても共通する事柄だろう。それが食べていく為に必要不可欠なことだとわかっていても。
私はなんの為に生きているんだろうとか、この世に生きている意味があるのだろうかとか。そんなネガティブな感情がグルグルと脳内を乱舞する。だけど、私には生きなきゃいけない理由があるんだ。
「いらっしゃいませぇ」
お客さんが来たので、もう数え切れないほど繰り返し染み付いた営業スマイルを形作り頭を下げる。このスーパーは礼儀作法に厳しく、店長に見つかりでもすれば注意されかねない。すでに何回か注意されているので、もう勘弁願いたい。
「ありがとうござましたぁ。またお越しくださいませぇ」
お会計が終わりお客さんにまた頭を下げる。
少し猫背気味でカートを押すその後ろ姿は哀愁が漂う。その背中を見ていると、私もいつかはああなっちゃうんだなぁと不躾にも思ってしまう。
そんなことを考えていると、突然お客さんが振り向いて、「いつもありがとねぇ」としわくちゃの笑みを見せ会釈してきた。
私も慌てて再び低頭し、「こちらこそ、いつもありがとうございます」と礼を述べた。
私は自身の感情を恥じた。一人にしては多い量の買い物をみると、二人分なのだろう。年老いても尚、自分で買い物をして旦那さん(多分)の分も料理を作る。見習うべき姿勢だ。
その後、7時間という永遠とも思える勤務を終えて、スタッフルームに向かう。私服に着替える為と、労働時間を証拠として残すタイムカードを切る為だ。
店内みたいに活気のない通路をトボトボ歩く。やっとこの囚われの身から解放されたのはいいけど、その足取りは重かった。何故なら帰宅したとて、家庭のない私からすれば孤独感に苛まれるだけだから。
スタッフルームに入ると、仕事でも人生でも先輩の北本さんが着替えている最中だった。30代後半の北本さんは、私には不足している色気や家族をお持ちの人妻だったりする。
「お疲れさまです」
私がそう言葉を掛けると、北本さんがクルッと振り向く。長いサラサラの髪が流麗に靡いた。
「あら、松永ちゃん、お疲れさま」
「北本さんってホントに綺麗ですよね。二児の母親には見えないですよ」
「全然そんなことないよ」
私の称賛に、北本さんは謙遜する。
「そんなことありますよ。マジ羨ましいっす」
「今日はどうしたの? なんかいつもと雰囲気違うけど」
北本さんが私の顔を覗き込む。
「最近、なんか心配になってきちゃって。私、いつ結婚できるのかなぁて」
思わず将来についての懸念を吐露してしまう。
「松永ちゃんってまだ結婚してなかったんだっけ?」
「はい…。そもそも相手すらおりません」
「そっかぁ…。でもさ、松永ちゃんって可愛らしい感じだし、すぐに結婚できそうだけどね」
「そうだといいんですけど…。歳も歳だし。友達は結婚していくし」
「松永ちゃんって何歳だっけ?」
男性から尋ねられると反感を買うであろう質問を投げ掛けられる。
「30です」お店の制服であるワイシャツを脱ぎながら応じる。
「30なんてまだまだ大丈夫だよ。結婚は焦ることが一番ダメなの。相手を見誤って結婚なんかしたら、すぐに離婚するだけ」
「そんなもんですかね…ひゃっ!」急に背中を直に触れられ、情けない声が漏れる。「な、何するんですかっ」
「こんなに肌が若々しいんだから、焦る必要ないって。赤ちゃんみたいにスベスベ」
無遠慮に撫で回され、「あひゃひゃ」と身悶える。
「や、止めてください。そ、それより、北本さんはいつ結婚したんですか?」
「私? ん~と…」五指を折って数をかぞえる北本さん。「確か27だったかな」
今の私よりも年下じゃん。
「やっぱり羨ましいです。今の私の頃には、すでに立派なお母さんだったんですもん」
私が27歳の時は、彼氏を作る暇さえなく事務仕事に奔走する毎日だった。上司のパワハラで辞めたけど。あんな劣悪な環境にいたら、感情がいくつあっても足りない。
「そんなことないよ。子供が生まれたのが遅かったから、まだまだ立派なんてもんじゃない。まぁ、今でこそ子育てには慣れてきたけどね」
一足先に着替え終えた北本さんは、スタッフルームの中心に設置されているパイプ椅子に腰掛ける。細身のジーンズに包まれた、これまた長い美脚を無駄のない動作で組んだ。
意図せずの一挙だとは思うけど見せ付けられたような気分で、同時に自身の嫉妬深さに自己嫌悪。
「そんなことありますよ。前にお子さんと一緒のところを見掛けましたけど、ちゃんとお母さんしてましたよ」
「そ、そう? そう見えたんなら、ちょっと嬉しいかも」
褒められたのが嬉しかったのか、北本さんは気恥ずかしそうに含羞。
「まだお話って大丈夫ですか?」
もう少し世間話がしたかったのだけど、お子さんのこともあったので、会話の継続が可能かを問う。
「そうねぇ…」北本さんは壁に掛かっていた時計を一瞥する。「もうちょっとなら大丈夫かも」
「旦那さんとの馴れ初めを教えてもらってもいいですか? やっぱり運命的な出会いだったとか」
私服に着替え終えた私は、ロッカーにもたれ掛かり気になっていた疑問を投じる。
「別に運命的って訳でもないけどね。私が会社員をやっていた頃の上司だったの。新人だった私に仕事でわからないことがあったら親切に教えてくれたし、ヘマをやらかしたら親身になって慰めてくれたり。気付いたら惹かれている自分がいた。どうやら両思いだったから付き合って、なんとなく結婚しただけ。ほらね、面白味に欠ける話だったでしょ?」
「十分、素敵なお話でしたよ。会社で知り合った男性と結婚したってだけでも、運命じゃないですか」
確かにありふれた普遍的な経緯だったけど、王道だからこそ憧憬するってもんですよ、うん。
「そういえば、松永ちゃんもOLやってたんだよね? そこでいい人いなかったの?」
「全くいませんでした。…いや、いたかもですけど、仕事が忙しくて恋愛する気にすらなれませんでした」
もし親身になってくれるような上司に恵まれていれば、私も仕事を続けられてて結婚もしていたかもしれない。まぁ、単なるifにしか過ぎないけど…。
「もしかして、松永ちゃんって理想が高いんじゃないの?」
結婚できない理由を理想が高いで片付けられてしまう。
まぁ、確かに理想ぐらいはある。例えばイケメンとか高身長とか高収入とか家事万能とか。細かいことを列挙していくと暇がない。でも、そんな超人がいないことくらい理解している。そこまで私は愚鈍じゃない。
あくまで理想、されど理想。それが結婚への弊害になってるんじゃないの? と問われれば、言下に否定は出来ない。そりゃあ、一つでも多くの理想に当てはまっている人がいいに決まっている。
「私を愛してくれる人だったら誰でもいいかなぁ…なんて」
本音は隠して謙虚を気取ってみる。でも、あながち間違いでもない。私を愛してくれるのなら、些細なことには目を瞑る所存。
「そうなんだ。じゃあ、合コンに参加してみるってのもアリかもね」
北本さんが無難な提案を持ち掛けてくる。
「合コンですか…」
あんなの軽薄な男女が集まる印象しかない。参加したことないから、ドラマとかアニメで植え付けられたイメージだけど。
「それが嫌だったら、婚活パーティーとかもいいと思うけど」私のリアクションが微妙だったからか、次の提案を持ち掛けられる。「婚活パーティーだと結婚したい人ばかりだから相手には困らないし、理想の人と出会えるかもよ」
う~ん、婚活パーティーか…。興味がない訳じゃないけど、私としてはカップルの関係から愛を育んだ末に、結婚して夫婦の関係に昇華したい。
「興味は多少あるんですけど、知らない相手といきなりそんな関係になるのはちょっと抵抗があるっていうか…」
私の心情を聞いて、「ふふっ」と北本さんが一笑。
「いきなりそんな関係にはならないと思うよ。松永ちゃんって結構ピュアなんだね」
指摘された瞬間、身体の奥がカッと熱くなり、羞恥が無情にも私を蹂躙する。
「あっ、いや、今のはですね…」
「間違えてたら失礼だけど、松永ちゃんってそういう経験ないの?」
「はははっ、まさかそんな訳ないでしょ。学生の頃とっくに経験済みですよ。それに、させ子ってあだ名で呼ばれてたぐらいですから」
思わず口からでまかせが溢れてしまう。勿論、させ子なんてあだ名で呼ばれていた過去なんかない。
「そ、そうだよね。でも、松永ちゃんがそんなあだ名で呼ばれていたことに、ドン引きしてますよ」
北本さんは引きつった笑みを見せる。
「う、嘘ですよ、嘘! させ子って箇所はそのぉ…負けず嫌いな性悪上、故意に誇張してしまっただけで…」
私の弁解を聞いて、「ぷっ」と北本さんは吹き出す。そして、ケタケタ子供のように笑い出す。
「ま、松永ちゃんって面白いね。ふふっ、新発見だ」
私の新たな一面を見抜かれてしまう。
「そんなに面白かったですか?」
「うん、かなり」
こんなに人を笑わしたのは久々だ。それが意図的でないにしろ、どこか懐かしい気分だった。
「ごめんね、怒った?」
「い、いえいえ。そんなことで怒ったりしませんよ」
仕事中だと無理に笑顔を振りまいてはいるが、プライベートで笑うことは少ない。その為、どこか不機嫌に見られがち。だから、勘違いさせてしまった。
「ならいいんだけど。…あっ、そろそろ帰らないと」北本さんは時計を再度確認すると、椅子から腰を上げた。「それじゃあ私、帰るね」
「はい。色々とお話を聞かせてもらってありがとうござました。参考になりました」
「そんな畏まらないでいいよ。たいしたアドバイスもしてないし」
じゃあ、頑張ってね、と言い残し、北本さんはスタッフルームを出て行った。
殺風景なスタッフルームに一人取り残され、孤独感に襲われる。
「ふぅ…」と大仰に嘆息して、さっきまで北本さんが座っていたパイプ椅子に腰掛ける。まだ北本さんの体温の残滓が宿っていて、臀部が少し温かかった。
私がなんで結婚できないかを今一度、沈思黙考してみる。
容姿はそれなりだと思う。言っとくけど、決してナルシストではないからね。人生を思い返してみても、ブスとは言われたことがない。かと言って、可愛いと評されたことは少ないけども…。
自分的には中の上だと自負。結構、見る人によって評価が分かれる顔だと言われることは多い。プロポーションは…まぁ、平均的。くびれてはいないけど、一応お腹は出ていない。体重はごにょごにょ…。
性格はどうだろうか? 自ら分析するのは些か難儀だけど、人見知りはあまりしない方だし、口数も多い方だと思う。明朗快活でないにしろ、暗い性格はしていない。学生時代に友達は人並みにいたし。それじゃあ、私の欠点とはなんなのだろう…?
そんなことを考えながら、私は家路を辿っていた。
ふと、私の隣を男子学生が通り過ぎていく。違うとわかっていても、どうしても目で追ってしまう私がいた。私の悪い癖だ。彼と似た背中を見つけると、無意識の内に重ねてしまう。そして、寂寥感に苛まれるのだ。
「……よしっ」
とりあえず早く帰ろう。このまま停滞せず一歩踏み出すことが、今の私には必要なんだ。
翌日の朝、出勤の用意を済ませた私は、アパートのドアを開けて玄関を出る。
「あっつ…」
外に出た瞬間、むわっとした空気に襲撃される。そろそろ本格的な夏の到来だな、と肌で感じる今日この頃。ここ連日続く酷暑によって日本全土の電気代が高騰の一途を辿っていることだろう。
掌で日傘を作って、上空で悠々と私達を見下ろす太陽を睨み付けてやる。
私は夏が嫌いだ。苦手とか否定じゃなくて嫌悪の類。
暑いのが嫌いっていうのもあるけど、理由は他にあった。あれからもう12年が経過しようとしていた。
夏の陽射しに辟易しながら、私は歩き出す。また今日もいつもと同じようなつまらない、くだらない一日が幕を開けるのだ。
ここから職場のスーパーまで歩いて15分。休日は基本的に出不精なので、健康面を考慮して徒歩で出勤しているが、遅刻しそうな日は自転車で向かうこともある。今日は時間に余裕があるので、急がなくて済みそうだ。
歩行者の多い大通りを歩いていると、制服に身を包んだ女子高生が散見できる。他愛もない会話に嬉々とした顔を浮かべながら、私の横を通り過ぎて行く。
何気なく振り向き、私にもあんな時代があったんだなぁとその背中に自分を重ねる。毎日が楽しくて、くだらないことで笑い合って、些細なきっかけで喧嘩して。でも、最後には仲直りして。
だけど、どれもこれも今では過去の産物。どれだけ過去を渇望しても、取り戻すことは出来ないんだ。
「…ダメだダメだ」
懐古に浸っていても虚しくなるだけ。時に立ち止まり振り返ることがあったとしても、いつかは前を向いて歩を進めないといけないんだ…なんてね。
「ん…?」
顔を戻して再び歩き出そうとした時、前方に見覚えのある後ろ姿が目に入った。いや、実際には似ている後ろ姿だ。
さっきまではいなかった…と思う。唐突にバッと現れたようなそんな気がした。
白いワイシャツに黒いズボンを履いた男子学生。一見これといった特徴のない学生に見えるが、襟足とワイシャツの間から覗くホクロが印象的だった。纏う雰囲気や空気感にも、どこか似たものを感じる。
忘れもしない今から12年前の7月28日は、猛暑というに相応しい気候だった。
お昼ご飯を食べた後、自室でゴロゴロ怠惰を貪っていると無性にアイスが食べたくなった。家の冷蔵庫を覗くもそこにアイスの姿はない。
不承不承、重い腰を上げて私はコンビニに向かうことにした。ガッツリしたのを食べたくて、スーパーカップのチョコチップを買ったことも覚えている。
行儀が悪いと自覚しつつもアイスを食べながら歩いていると、我が校のサッカー部部長かつエースの清水颯斗くんとばったり遭遇。練習試合終わりだったらしく、彼の髪は少し湿っていた。
特別仲が良かった訳でもなかったけど、どうせなら一緒に帰ろうという流れになって、私は彼と帰宅することに。他愛もない会話を交わしていると、赤信号に引っ掛かり私達は立ち止まる。
眼前を行き交う複数の車。大通りで交通量が多く、信号が変わるまでの時間が長いことで有名な交差点だった。
やがて、信号が赤から青に変わろうとする頃、
キキーッ!
悲鳴に似たブレーキ音が耳朶を打った。
音が聞こえた方に目を向けた時には、スリップしたと思われる一台の白い車が目前まで迫っていた。
――あっ、轢かれる。
直感的にそう思った。あまりに急過ぎる展開に頭が追いつかずどうすることも出来なくて呆然と立ち尽くしていると、急に身体が左側に吹き飛んだ。車体はまだ私に接触していないのに関わらず、だ。
清水くんが私を押してくれたのだ。自らの身を呈して私を守ってくれたのだ。
私が尻餅をついたと同時、ドンッ! と鈍い音がした。
私の意識はそこからプツっと途切れてしまった。気付けば私は警察署で事情聴取されていたのを記憶している。事故の重要参考人として呼び出されたのだ。私はそこで清水くんが亡くなったことを知った。
――あの時の彼と似ている。
今までのとは違う、強い既視感。だけど、人違いなのは明白だった。だって、清水くんはもういないのだから。
唐突に、顔を確認してみたいという衝動に駆られる。違うのはわかっている。だけど、とにかく確かめずにはいられなかった。
彼は何をするでもなく、ただそこに飄然と立っている。私は目の前の背中に近付いていく。ゆっくりと慎重に。距離が縮まるにつれ、呼吸と脈拍が顕著に荒々しくなっているのを感じた。
「あ、あの…」
声を掛けようとしたが、瞬時に言葉を飲み込む。
声を掛けてどうするつもりなんだ、私は。見知らぬ大人の女に急に話し掛けられても彼が困惑するだけ。
「……清水くん…なの?」
そう思っていたのに、意思とは無関係にそう問い掛けている自分がいた。
一言、『違います』と否定してくれればいい。だって、違うことは絶対なのだから。
「………」
だが、彼の出した答えは、まさかの逃亡だった。
「あっ、なんで逃げるの!」
気付けば私も駆け出していた。ほとんど反射的だった。それは、動物が走るものを追い掛けてしまう本能と似ている。
「ちょっと待ってよ!」
彼もかなりの瞬足だったが、私も足には自信があった。だが、体力面では全くもって自信がない。相手は高校生で、私はアラサー。短期決着が理想だ。
好奇の視線に晒されながら、街中を駆け抜ける。この際、恥も外聞も忘却の彼方へあらかじめ放り投げておいた。
しばらく無心で彼を追い掛けていると、比較的交通量の多い十字路に差し掛かる。そして、横断歩道の信号は赤。
これは止まるしかあるまい、そう思っていたのだが、高速でビュンビュンと車が走っているというのに、彼はおかまいなしに横断歩道を渡ろうとした。
「あ、危ないよ!」
忠告するも彼は無視し、そのまま走り続ける。そして何を思ったか、彼は横断歩道を渡り切る途中で立ち止まったではないか。
「な、何やってんのっ!」
彼の右隣から乗用車が猛然と迫る。しかも、車道の真ん中に人がいるというのに、全く減速する気配がない。
このままじゃ轢かれちゃう!
凄惨な末路が脳裏をちらついた私は、彼を救うべく車道に飛び出す。
まだ間に合うはず! いや、間に合わせるんだ!
これがフィクションの世界であれば、どちらも助かってハッピーエンドというのがセオリーだろう。だが、現実はあまりに残酷だった。
彼まで後一歩という時、私の身体に車が接触。物理の法則に基づき、跳ね飛ばされる。為すすべもなく、そのまま宙を舞う。
そして、私が最後に見たものは、全くの無傷で悠然と車道に立つ彼の姿。彼の顔は『あの人』とそっくりだった。
薄れゆく意識の中、私は思い出す。今日が7月28日だということを――
「…いこ。あいこ…」
遥か悠遠から誰かが私の名を呼ぶ声がした。その声で夢現の淵を揺蕩っていた意識が覚醒へと導かれていく。誰? 私の名を呼ぶのは…。
「…あたっ!」
突如として後頭部に衝撃が走り抜け、弾かれるように身体を起こす。
「こらっ、授業中に寝るな」
脈絡もなく急に叱咤してきた人物を、私は見やる。見覚えのある人物だった。手に丸められた教科書のような本を持っているその人物は、高校時代、国語を担当していた山瀬先生そっくりの男性。
「「はははっ」」
笑い声が沸き起こって、私は周囲を見渡す。
「はぇ…?」
見慣れた顔ぶれがいくつもあった。制服に身を包んだ見慣れた人物達が、私を見て笑っているではないか。
よく見ればそこは、私が通っていた高校の教室…っぽい。いつからかあった教卓の落書き、黒板の上に貼られた『一生懸命』という手書きの紙、何かをぶつけてぼこっと凹んだ掃除用具入れ。ど、どういうこと…? ああ、そうか、と一つの答えが頭に導き出された。
「…これは夢だ」
「アホたれ。まだ夢見てると思っとんのか」
「って…!」ポコッと軽く頭を叩かれる。
「たるんどるぞ。もっとシャキっとせぇ」
そう最後に一喝すると、山瀬先生はクルッと半転し黒板の方に歩いていく。
「…す、すみません」一応、謝罪し席に座る。
「せっかく起こしてやったのに、起きないからだぞ」
背後からそんな声が届き振り返って驚愕。
「さ、紗月! …だよね?」
「何言ってんの? アンタ、まだ寝ぼけてんでしょ」
うりゃ、と額にチョップをお見舞いされる。
「ぁたっ」当然の如く額に痛みが走る。だが、これでハッキリした。これが夢じゃないことが…。
「どう目ぇ覚めた?」と心配そうな眼差しで、顔を覗き込まれる。
「…紗月、若い!」
思わずそんな言葉が自然と口から漏れていた。
「わたしゃあ、まだ17歳だ! バカたれ!」
紗月が眉を吊り上げ憤る。
「おい、そこっ! 静かにしろ!」
山瀬先生の怒号が私達を襲う。ふと、授業中に雑談しててよく怒られたことを思い出す。
「す、すいやせん」
謝りながら、私は改めて教室内に視線をスライドさせる。懐かしい顔ぶれの中に、一際目を引く人物を見つける。
――いた。清水颯斗くんが。
爽やかな笑みを浮かべる、あの時と同じままの姿で。
「…っ!」
脳の許容範囲を凌駕した出来事が頻発し頭がパンクしそうだった私は、気付けば教室を飛び出していた。
わからない! わからない! わからない!
絶賛授業中で無人の廊下を駆けながら、自分の置かれている状況を整理する。
バイト先に向かっている道中、清水颯斗くんに似た人物を見つけた私は、何故か逃げ出した彼を追い掛けた。だが、不運にもその途中、乗用車に轢かれてしまった。そして気付けば、この場、つまり学校の教室にいた。
とりあえずトイレに駆け込む。どうしても確かめておきたいことがあったから。
「…う、嘘でしょ」
トイレに備え付けられている鏡に自身の顔を映す。
目立つようになってきたほうれい線は消え、潤いが失われていた肌は張りが戻っているではないか。
鏡に映った私に手を伸ばしていく。当然、鏡の中の私も同じ動きをする。触れたら消える、なんてオチじゃないよね…?
「はぁ…はぁ…」
著しく呼吸が乱れ、視界がゆらゆら揺れ、手がプルプル微震していた。
やがて鏡に触れるが、特に何も起こらなかった。杞憂だったことに安堵し、「はぁ~」と大きな溜息が漏れた。
「……もしや」私は時をかけたのだろうか? どこぞの少女みたく。だけど、アレはフィクションだし…。だが、間違いなく高校生の私が今ここにいる。
いてもたってもいられなくなった私はトイレを飛び出し、階段を二段飛ばしで省略しながら上を目指す。目的地は屋上だ。
気付けばあっという間に屋上に通ずる鉄扉の前まで来ていた。二階から四階という短い距離ではあるが、全力疾走して息一つ切れていない。30歳の私であれば、ぜぇぜぇ呼吸を荒らげていただろう。若さ万歳。
鉄扉を開いた瞬間、眩い陽光に網膜を焼かれると同時、むわっとした空気が頬を掠める。どうやら季節は夏みたいだ。まぁ、着てる制服も半袖だしね。
痛いぐらい眩い太陽光を身体いっぱいに浴びながら、落下防止用の金網まで歩を進める。私のいた時代だと事故や自殺を懸念して、屋上を開放している学校はほぼ皆無。だけど、この時代だとまだそこまで厳くなかったからいつでも入ることが出来た。当時、私は嫌なことがあるとよく屋上に行って、一人で黄昏ていた。気持ちが安らぐというか、現実逃避できるというか…。
「すぅ~…はぁ~」
昂ぶっている気持ちを落ち着けようと、肺の限界まで空気を溜め込んでゆっくりと息を吐く。微量だけど潮の香りが混じっていた。私の住む街は海が近くにあり、風に乗って潮風が運ばれてくる。独り暮らしを始めるにあたって地元から離れた場所に転居したので、久々に嗅いだ懐かしい匂いだった。
少し冷静さを取り戻したところで、現状を整理してみる。
お前は誰だ。私は松永藍子。これは間違いようがない。例え外見が若返ろうがこれは確信が持てる。
そして、30歳だった。これも間違いない。何故なら30年間の生きてきた記憶があるから。それが断片的にしろちゃんと覚えている。
高校を卒業してからは、真面目に会社に就職しOL生活を送っていたが、上司からのパワハラに耐えかね辞職してしまった。それからはバイトを転々とし、家から比較的近いという理由でスーパーのレジ打ちに落ち着く。
思い返してみても、なんともくだらない人生を送ってきたんだなぁ、と切ない気持ちになった。
だけど、私はもう一度人生をやり直せるチャンスを得た。神様のきまぐれか、はたまた危篤状態の私が見ている夢とか…。
「それだったら嫌だな…」
どこまでも広がる真っ青な空を見上げなら、ポツリと呟く。三度目の正直。私は思いっきり頬を抓ってみた。
「ったぁ!」痛覚は正常に作動した。
夢の中で痛みは感じないから、これは夢じゃない…で、いいんだよね?
「…よしっ」一人懊悩していても、白紙の答案用紙に適切な回答を書けるとは思えなかった。
なので、私は考えるのを止めとりあえず教室に戻ろうとした…けど、いきなり飛び出しておいて、なんか戻るのは恥ずかしい。とりあえずほとぼりが冷めるまで、どこかで時間を潰そう。
私は屋上を出て階段を下っていく。一階の東側最奥、そこが目的地だった。
「…失礼しま~す」
妙な緊張感を抱きながら、保健室の扉を開いていく。
「あっ、また松永じゃない」
回転する椅子に座っていた保険医の島村のどか先生が眉を顰める。しまむーという愛称で親しまれていた美人先生だった。これまた懐かしい人物に遭遇した。
「お、おっす」
「アンタ、また授業抜け出してサボりにきたんでしょ? いいかげんにしなさよね、保健室を休憩所代わりにしないで」
「…やっぱりしまむー、綺麗…」
咎められたことより、しまむーの美貌の方が私的には重要な事柄だった。
「は、はぁ? 何よ、いきなり。…ああ、そういうことね」
「へ…?」
「褒めておいてサボりを見逃してもらおうって魂胆だろ」
「ち、違うよ! 本当にそう思っただけで…」
テレビや雑誌で活躍するアイドルを見て肥えた今の私の目でも、しまむーの顔立ちは大人らしくて綺麗だと思った。
「なんか怪しいなぁ…」
疑念を孕んだ瞳を向けられる。
「きょ、今日はあの日で体調がちょい悪くてですね…」
「三日前も同じようなこと言ってた気がするんだけど。アンタ、月に何回月経あんのよ」
「し、思春期の女子には色々あるの!」
「逆ギレかい。まっ、いいわ。アンタが留年しようが私には関係ないし」
「そ、それはそれでヒドいんだけど…」
「ベッド使っていいけど、本当に不調の子が来たらどいてもらうからね」
「がってん」
休息の許可が下りたので、私は遠慮なくベッドに身を投げる。洗剤と薬品が混ざった独特の匂いがしたけど、全く不快感はなかった。むしろ好きな匂いだ。
ベッドを借りれたのはいいけど、はっきり言って全く眠たくないし、目を瞑ってジッとしていてもマイナス思考しか働かないと思う。
「…ねぇしまむー、ちょっとお話しない?」
これはしまむーのことを色々と探れるチャンスかもしれない、そう思った私は、身体を起こして話し掛ける。
「やっぱりアンタ、仮病だったんだな」と呆れ顔のしまむー。
「こ、細かいことは気にしない気にしない。それより、しまむーに聞きたいことがあるの」
「…ふぅ」と一度嘆息してから、「で、聞きたいことってなんだ?」と問われる。
「しまむーってスキンケアとかどうしてるの?」
「そんなことが聞きたい訳? てゆーか、アンタまだ若いんだから、肌なんか気にする必要ないでしょ」
「後学の為に勉強しておいた方がいいと思って」
「…別にこれといってしてないけど」
「うっそだぁ」
「皆がしてるような手入れは一応してるけど、特別なことはしてないよ。あっ、一つあるとすれば、毎朝、生卵は飲んでる」
「な、何それ? 美味しいの?」
「はっきり言って美味しくはないよ。ただ健康にいいかなって続けるようにしてる」
「…なるへそ」しまむーの美肌の秘密は、生卵だったのか。私も飲んでみようかな。
未来(30歳)の私はお肌に無頓着で、化粧水を塗りたくっていただけだし。
「あとさぁ、初めて彼氏できたのっていつ?」
この際、聞きたいことを全て引き出そうと思った。
「好きだねぇ、女子高生はその手の話。まぁ、いいや。高一だったかな」
「で、どんな人?」
「別段、特徴のない奴だったよ。まぁ、顔はイケメンだったけど」
「やっぱり、しまむーも面食いという訳ですな」
「別に顔で選んだ訳じゃないから。告られたから付き合っただけ。どんな男かもよく知らなかったし、お試し期間みたいな感じ」
「好きでもないイケメンと付き合えるとか、勝ち組じゃんかよ」
「まぁ、全く長続きしなかったけどね。顔は良くても、中身は薄っぺらい奴だったんだよ」
目を細め懐古するしまむーは、女の顔をしていた。
今でこそ独身みたいだけど、私がいた時代だと結婚を期に退職し二児のお母さんをやっている。一度、街中で遭遇した際、顔の似た可愛らしい子供を連れていて、羨ましかったのをよく覚えている。
「今、付き合ってる人はいるの?」
「いないよ」
「ホントに?」
「毎日、生徒の世話をするだけで大変だから、そんな余裕ないよ。中には授業が嫌とか抜かしてサボりに来る面倒な生徒もいて、もう大変」
「それはそれは」
「一応言っとくけど、面倒な生徒の代表だからね、アンタ」
「失敬な! 私は優等生代表だよ!」
「寝言は寝て言いなね」
「…それよか、しまむーの男の好みって言うか、タイプってどんなの?」
「タイプ? ん~、そうだな…経済力と包容力がある人だったら誰でもいいよ」
「だったらさ、この学校の先生とかいいんじゃない? 経済力はありそうじゃん。そうだな…例えば校長とかさ」
「ジジイじゃねぇか!」しまむーは勢いよくツッコムが、「あっ」とすぐさま失言に気付く。
「おじいさんじゃありませんこと」
「何その喋り方…ぷっ、あはははは!」
私は耐えられなくて、思わず笑い出してしまう。
「そんなにウケるかね」
「だ、だって、しまむー…あはははっ」お、お腹痛い!
「これで少しは気分晴れたんじゃない?」
「…えっ?」
「松永、ここに来た時からちょっと雰囲気違ったように見えたからさ。なんか悩み事でもあったのかなって思ってたから」
さすが教師、と感心した。これまで何人もの生徒の面倒を見てきたからこそ養われた観察眼なのだろう。
「…しまむー」
「な、何よ、改まって…」
「大好き!」
私はしまむーに抱きつく。柔軟剤の香りの他に、香水だと思われる甘い匂いがした。
「い、いきなりなんなの! こら、離せ!」
嫌がる素振りを見せるしまむーだったが、満更でもなさそうだった。
そんな戯れを繰り広げていると、授業終了を告げるチャイムが鳴る。
「…そろそろ戻るよ」
そう言って私は保健室を出ようとしたが、「ちょい待ちな」と呼び止められる。
「何があったか知らないけど、あんまり授業サボるんじゃないよ。アンタの世話をもう一年しなくちゃならないって思うと、胃が痛くなるから」
「…尽力致します故」
教室に帰還するや否や、「あっ、藍子! いきなり教室出て行って、心配すんじゃん!」
紗月からお怒りの言葉を頂戴する。
「そ、ソーリー。なんか急に走り出したい衝動に駆られちゃって。思春期にありがちだよね」
さすがに本当のことは言えなかった。時間を逆行した状況を把握できず混乱してたから、なんて宣えば精神科への通院を推奨されかねない。
「ねぇよ。アンタは少年マンガの主人公か」
「まぁまぁ、さっちゃん。ちょっと落ち着いて」
その時、一人の見覚えのある女子が私達の会話に割り込んできた。若かりし頃の香菜ちゃんだ。今(未来)でもその可愛さは健在だが、学生時代の可愛さは桁違い。
「あっちゃんも反省してるよ。ねっ?」
「猛省しております」
すると、「ふぅ」と紗月が呆れたように嘆息。
「アンタ、マジで留年しても知らないからね。同窓会の時、アンタだけ呼ばれないよ」
「そ、それはやだな」
「呼ばれなくても、香菜達が別で同窓会してあげるね」
「香菜ちゃん、ありがとぉ!」
香菜ちゃんの優しさに感動し、思わず抱き締めてしまう。な、なんちゅうええ匂いなんや。しかも、胸も大きいものだから、抱き心地が最高だ。
「もぉ、あっちゃんは甘えん坊さんだなぁ」
さわさわと頭を優しく撫でられ、精神が幼児退行したような感覚を味わう。
「ちょっと香菜、藍子を甘やかさない。つけあがるから」
紗月が無理矢理私と香菜ちゃんの愛を引き裂く。
「なぁ、そこどいてもらってもいいか?」
扉の前でだべっていたからか、退去するよう声を掛けられる。それは、どこか清涼感のある声音だった。
「ああ、ごめんね」と言いながら、紗月が横に移動。
「っ…!」
紗月と香菜ちゃんの間から現れた人物を見て思わず一驚。
――清水くんだ。
すっかり忘れていたが、この時代だとまだ清水くんは生きているのだ。
「松永…?」
現実味のない光景に呆然とする私を訝しむ清水くん。
「ほら、アンタもこっち来なさいよ」
紗月に手を引っ張られ、強制的に移動させられる。
清水くんは廊下に出ると、スタスタ歩いていく。その後ろ姿を食い入るようにジッと見つめる。時折、制服と首筋の隙間からホクロがチラチラと見えていた。
「藍子、アンタ、どうかしたの? なんか固まってたけど」
「えっ? あっ、別に…」
「あっちゃん、今、清水くんのこと見つめてたでしょ? なんか恋する乙女の顔してた」
ニヤニヤと香菜ちゃんにそんな指摘をされ、「ち、違うよ」と否定。
「確かに怪しかったよね。さっきも清水くんに声を掛けられた時、あからさまにビックリしてたし」
「だ、だから違うって! ただ、気になったことがあっただけで…」
「気になったこと?」香菜ちゃんが不思議そうに私の言葉を反芻する。
「あの男子って清水くん…だよね? 間違いなく」
「アンタ、頭、大丈夫? いきなり教室を飛び出したり、朝から変な言動多いよ」
「えっ? あっちゃん、もしかして何か病気なの…?」
二人の怪訝そうな視線が突き刺さる。
「わ、私は至って正常だよ! すこぶる元気な藍子ちゃん!」
「何それ。ダサ」
「い、いいから私のことはもう放っておいて!」
「反抗期かよ」
言及から逃れるように私は自身の席に戻る。厄介にも二人の猜疑心を膨らませる結果となってしまった。だってしょうがないじゃん。私だってどうしてこうなったかわからないんだもん。
やがて昼休みが訪れ、教室内の空気が弛緩する。
過去に遡ってきてから何も口にしていなかったので、胃腸が唸り声を上げ空腹を訴えかけてきていた。
鞄をまさぐってみると、私が学生時代愛用していたピンクに水玉模様が映える巾着袋を見つける。それを開くと、これまた懐かしいキャラちっくな猫がプリントされたお弁当箱が出てきた。
「あっちゃん、一緒にた~べよ!」
香菜ちゃんに誘われ、私はお弁当箱を持って移動する。時間の経過と共に紗月と香菜ちゃんの、私に対する猜疑心は薄れたようだった。JKなんてそんなもん。
お弁当箱の蓋を開いて中身を確認。おおっ! 私の好きだったお母さん特製の唐揚げが入っていて、一気にテンションが上がった。もう何年もお母さんが作った唐揚げなんか食べてなかったしね。
「藍子のママが作るお弁当っていつも美味しそうだよね」
向かい合わせた机の対面に座る紗月が羨むように私のお弁当を見る。
「そう?」
「色合いとか完璧じゃん。ウチ、共働きだから結構そこらへん適当なんだよね」
確かに紗月のお弁当は茶色の食べ物が多い。
「アンタも働き出して一人暮らし始めたら、大変さがわかるよ。私なんてコンビニか、スーパーの惣菜だけで毎日しのいでたんだから」
「…アンタ、一人暮らしなんてしてないでしょうが」
しまった。いらんことを言っちゃった。
「さ、紗月も働きだしたら、大変さがわかるよって言いたかったの。作ってくれるだけで感謝しないと」
「……」
何故か二人がジッと私を凝視している。
「な、何?」
「あっちゃん、なんか雰囲気変わった?」
「そうそう。なんか大人っぽくなったって言うかさ。昨日とは別人みたい」
『実は私、未来からやってきたの』
なんて言えるはずなかった。まぁ、言ったところで信じてもらえないだろうけどね。
「私もちゃんと成長してるってこと。もう立派なレディーなんでね」
「…立派なレディーが口元にマヨネーズを付けてるとは思えないけどね」
「えっ? 嘘」紗月に言われるまま口元を拭ってみると、野菜に添えられていたマヨネーズがしっかり付着していた。
「ふふっ、やっぱりいつものあっちゃんだった」
クスクスと肩を揺らす香菜ちゃん。
ふと何気なく視線を感じ、そちらを見やる。そこには清水くんがいた。どこか微笑ましそうに穏和な目を向ける清水くんの姿が。
私の視線に気付いた清水くんは、スッと目を逸らし無関心を装う。み、見てたよね、絶対。
尋ねようにも私と清水くんはそこまで親密じゃない。それに勘違いだった場合、いらぬ恥をかくだけだし…。
やがて午後の授業を完遂し、念願の放課後を迎えた。私はとりあえず実家に帰りたくてうずうずしていた。ここ数年、ろくに帰ってなかったから。
理由としては、仕事や結婚についてお小言を言われるのが嫌だったのだ。早く天職を見つけろとか、孫の顔を見せろだとか。私としてはあまり触れて欲しくない部分。自覚していることをグチグチ責められるのが、一番テンション下がる。
高校時代はいつも紗月、香菜ちゃんと一緒に帰っていたが、用事があるとか言い訳して一足先に帰ることにした。
「あ~、イライラするぅ!」
グラウンドの隅に設置してある自転車置き場を通り掛かった時、そんな怒気を孕んだ声がここまで飛来してきた。ま、まさかイジメ?
以前の私ならば厄介事に巻き込まれるのも嫌だったから無視していただろう。だが、今の私は様々な経験を積んだ立派な大人。これまで散々嫌なことを見て見ぬ振りしてきたけど、そんなのはただの現実逃避にしか過ぎない。目を背け後回しにしても、そこには後悔が待っているだけなのだ。
私は恐る恐る声のした方へ近付いていく。そこには一台の自転車を前に悪戦苦闘する女生徒の姿があった。
しゃがみ込む体勢だった為顔はよく見えなかったけど、多分後輩の女子だと推測できた。
「…ねぇ、どうかした?」
思い切って話し掛けてみると、「えっ…?」その娘が露骨に驚いた顔でこちらを見た。
「あ~、もしかして聞こえてましたか?」
かなり可愛いらしい娘だった。ボブカットで二重の目。どこぞのアイドルグループに所属しています、と言われてもなんの違和感もない。
「うん、かなり」
そう肯定すると、後輩ちゃんは顔を両手で覆って悶える。
「マジすか? 恥ずかしぃ!」
そんな微笑ましい光景に苦笑しつつ、「それよりなんかあった?」と問う。
「実は自転車のチェーンが外れましてですね。さっきから何度も付けようとしてるんですけど、なかなか上手くいかなくてイライラしているとこでした」
「なんだ、そんなことか。よかったら付けてあげようか?」
「いいんですか?」
後輩ちゃんが複雑そうな表情で真偽を確認してくる。
「まかせんしゃい」
快諾すると、「じゃあ、お願いますっス」と彼女は微笑んだ。
早急に帰宅したかったのだけど、可愛い女の子が困っていたら助けてあげるのが正義ってなもんですよ。
「君、名前は?」
チェーン直しに着手しながら、私は後輩ちゃんに素性を問う。
「西口友香っス」
「友香ちゃんね」
「ちなみに先輩は?」
「私は松永藍子。気軽にあっちゃんって呼んでいいよ」
「あっちゃん…先輩はこういうの得意なんですか?」
あっちゃん先輩か…新しい響きだ。
「私が使ってるチャリがオンボロだから、よく外れるんだよね。だから、いつの間にか慣れたって感じ」
まぁ、最近はチャリなんかほぼ乗らないけど。
「へぇ…」
「で~きた!」
ちょっとコツさえ掴めばこんなのすぐに直せる。一つ問題があるとすれば、手が黒くなること。なかなか落ないんだよね、この汚れ。
「はやっ」
「ほれ」手でタイヤを駆動させ、事実であることを証明する。
「ホンマや! あっちゃん先輩、やりますねぇ」
この娘、ノリいいな。
「ありがとうございます、あっちゃん先輩」
「ふっ、いいってことよ」
何気なく掌を見やると、見事に黒く汚れていた。まぁ、喜んでくれたので、結果オーライ。
「じゃあね」と別れを告げて私は歩き出す。
「あっ、ストップ・ザ・あっちゃん先輩!」
呼び止められ、「何?」と振り返る。
「これ、ささやかですがお納めください」
友香ちゃんが何かを握った手を差し出してきたので、私はそれを受け取る。飴の包装紙だった。描かれている模様から苺味だと判別できたが、全く質量が感じられない。つまり空っぽ。
「ついでに捨てといてもらってもいいですか?」
「……」恩を仇で返す系の女子だったらしい。
「なんて冗談ですよ、冗談! そんなに怒らなくてもいいじゃないですか」
無表情でいたつもりが、怒っていると勘違いされてしまう。
前から無表情でいると、怒っていると思われがち。それが悩みだったりした。OL時代もよく不機嫌そうに見られたし、あまり周りの印象はよくなかった。
「後輩のちょっとしたお茶目じゃないですか。では、改めて」
次に頂戴した物には、ちゃんと中身が入っていた。
「…あのさ、友香ちゃんってちょっとクラスで浮いてるでしょ」
「う、浮いてませんよ。もう地に足つけて毎日奮闘してます、ウッス」
「そ、そっか…」
知り合ってほんの数分だけど、変わった娘なのは理解できた。
「じゃあね、友香ちゃん」
今度こそ友香ちゃんと別れた私は、足早に自宅へと向かった。
「おお、懐かしのマイスイートホーム」
どこにでもあるような没個性のマンションではあるが、私にとっては思い出深い物件だ。高校卒業を契機に一人暮らしを始めたので、約18年間住んでいたことになる。イタズラ好きだった私は、自分が降りる間際エレベーターの全ての階のボタンを押してよく遊んでいた。それが一時期問題になり、エレベーター内に注意書きを貼られたりした。逆にそれがイタズラ心の導火線となり、それからも面白がって何度も続けた。私が犯人だと判明した時は、めちゃくちゃ怒られたな。
エレベーターに乗り込み4階を押す。上にあがる際、ガクンと揺れるのさえ懐かしかった。
4階に到着し、通路を進んでいく。自宅である407号室の前で立ち止まる。
「……」キーを取り出し鍵穴に差し込もうとして思い留まる。この中に家族がいる、そう思うと動きが止まってしまったのだ。
意気揚々と帰ってきたはいいけど、実際にこうして我が家を目の前にすると、躊躇い逡巡してしまう。我が家なのだから躊躇する必要はないとわかっている。だけど、私にしてみれば久々の再会なのだ。
「…よ、よし」気合を入れる為にパンっと頬を叩くが、「っ…!」力加減を誤り、ジンジンと頬が痛む。
鍵を開錠し、「ただいまぁ」と無人であることを願いつつ中を覗く。
「……」
私を出迎えてくれたのは静寂。どうやら誰もいないみたい。ホッと緊張で強張っていた肩の力が弛緩する。
5年ぐらい帰っていなかったからか、嗅ぎ慣れた自宅のはずなのに不思議な匂いがした。人様の家にお邪魔した時のような、そんな感じ。
後ろ手にそっと扉を閉めて、玄関で靴を脱ぐ。いざ中に足を踏み入れようとした時、手前の扉が開いて何者かが顔を出した。
「あっ、お姉ちゃん。帰ってきたんだ」
妹の琴子だった。当たり前だけど、かなり若い。私より3つ年下だから今は中三のはずだ。
「い、いたんだね、琴子。全然気付かなかった」
なんて平静に対応したが、正直言うと心臓が口から飛び出しそうになるくらい驚いていた。
「……」何故か琴子が私をジッと見つめてくる。
「な、何…?」
「……お姉ちゃん…だよね?」
問われた瞬間、ドクンっと心音が跳ね上がる。鋭い。一見しただけで、私が当時の私じゃないことを見抜いたというのか…。
「な、何言ってんの? 当たり前じゃん」
「そう…だよね、ごめん。変なこと訊いた」
「そ、それよりお母さんは…?」
「今日は仕事で遅くなるから、二人でご飯を食べるよう言われたじゃん」
「そ、そっかそっか。ちゃっかり忘れてた」
「すっかりでしょ。てゆーか、ホントにお姉ちゃんって忘れっぽいよね。よく高校に受かったなっていつも思う」
我ながら辛辣な妹だと思う。
「でもさ、ママからお母さんに直したんだね、呼び方」
「えっ…? そ、そうだっけ? 元からお母さんって呼び方じゃなかった?」
「朝はママって呼んでた気がするけど」
「わ、私ももう大人だから、ママってのはどうかなって思い直したんだよね、うん」
確かにいつからかママからお母さんって呼び方に直したのだけど、そんな些細な部分に気付くなんて、我が妹は洞察力が優れているみたい。
「まぁ、どっちでもいいけどね。とにかく早く着替えてよ」
「な、なんで?」
「朝、一緒に買い物に行くって話してたじゃん。お姉ちゃん、マジで大丈夫?」
「そ、そうだったね。寝ぼけてたのかな、あはは」
誤魔化すように笑いながら、私は自室に向かう。
妹の琴子は私より全然しっかりしていて家事も完璧にこなして頼りになる。加えて容姿も整っており、そんな完璧な妹に当時の私は少なからず嫉妬心と劣等感を抱いていた。今思えば家事もろくにしない怠惰の染み付いた姉(私)を見て、しっかりしなきゃみたいな使命感的な感情を抱いていたのかもしれない。
「うわぁ…何もかも懐かしい」
未来だとすでに廃棄されている勉強机、マンガ達で占領された本棚、脱ぎ散らかしたパジャマが眠るベッド。私が一人暮らしをするに伴って未来には物置と化していた自室が、当時のままの姿を保っていた。
このまま青春時代に陶酔していたい気分だったけど、あまりに遅いとまた琴子に怒られるかもしれないので、私は速やかに着替えることにした。
「お姉ちゃん、そろそろ彼氏できた?」
スーパーに向かう道中、琴子が私の恋愛事情に踏み込んでくる。
「当たり前じゃない。彼氏の一人や二人もういるわよ」
まぁ、嘘だけど。これまでいい感じになった男子は何人かいたけど、付き合うまでには至らなかった。『友達でよかったよ』という台詞がトラウマになっていたりする。
「常識的に考えて二人はダメでしょ。まぁ、嘘なのはバレバレだけど」
見事に嘘が見破られてしまう。
「わ、私のことより、アンタはどうなのよ?」
「何が?」
「彼氏よ、彼氏」
「私は…まぁ、そこそこ」
明言は避け言葉を濁す琴子。多分…というか完全に私よりはモテるであろう琴子は、すでに彼氏がいるのかもしれない。昔からだけど、琴子はあまり自分の恋愛事情を口にしない。恥ずかしいからなのか、あまり干渉して欲しくないからなのか。
そんな他愛もない会話をしていたら、「あっ」と私は足を止める。
「どうかしたの?」
琴子も同じく立ち止まる。
「ね、ねぇ、違う道から行かない?」
私の言葉を聞いて、「はぁ?」と怪訝な表情をする琴子。
「もう少しで着くのに、なんでいちいち遠回りしなくちゃいけないのよ」
「ご、ご意見はごもっともですが…。あっ、そういえば朝の占いでこっちの方角は凶みたいなことを言っててさ!」
「意味わかんないんだけど」
「と、とにかく別の道から行こっ」と琴子の手を引くが、「ちょっ、離してよ!」と即座に振り払われる。
「おおっ、松永じゃんか」
騒いでいた為、見つかりたくなかった人物に存在が漏洩してしまう。
「こんなとこで会うなんて奇遇だな」
清涼感溢れる笑みを浮かべながら私達に近付いてきたのは、我がクラス随一のイケメン清水くんだった。
「え? あっ、そ、そうだね…」
「なんかあったの? 揉めてたみたいだけど」
「な、なんでもないよ! た、単なる姉妹喧嘩でして…」
めちゃくちゃ居心地が悪かった。
「姉妹? 松永って妹いたんだ、知らなかったな」
「そ、そうだったけ…?」
「へぇ…姉ちゃんに似て可愛い系だな」
「えっ…?」私に似て可愛いって言った? 聞き間違い?
「初めまして、いつも姉がお世話になってます。妹の琴子っていいます」
琴子は礼儀正しく平身低頭。
「あっ、俺は松永と同じクラスの清水颯斗です」
琴子に倣って清水くんも軽く頭を下げた。
「…清水…さん? もしかしてサッカー部のキャプテンだったりします?」
「一応、そうだけど。なんで知ってんの?」
「私達の学校でも清水先輩って有名なんですよ! めちゃくちゃイケメンのキャプテンだって!」
「そ、そうなんだ」清水くんは気恥ずかしそうに頬をポリポリ。
「そ、それよりさ、部活はどうしたの?」
私は気になった事柄を尋ねる。この時間だとまだ部活中のはずだ。
「今日はサボり」
「…キャプテンがサボって大丈夫なの?」
思いがけない返答に、私は質問を連投。
「まぁ、サボりっつーかコイツを迎えにな」
「コイツ…?」
清水くんの視線を辿り下の方に目を向けると、小さな男の子が清水くんの足にくっついているではないか。
「…か、可愛い! 何その子!」
思わず大声を発してしまうと、男の子がビクッと肩を震わせた。目測で3歳ぐらいの子だ。
「俺の弟」
「お、弟なんかいたんだ、清水くん」
全く知らなかった。どおりで清水くんに目元とか似てると思った。
「ほら、お姉ちゃん達に挨拶しろ」
清水くんが挨拶を促すが、弟くんは無言で左右に頭を振る。
「スマンな。この通りコイツ、人見知りなんだよ」
「全然気にしないで。このぐらいの歳の子ってよく人見知りするもん」
今でこそしっかり者の琴子だが、幼少期は極度の人見知りだったし。
「翔太っていうんだ」
「はじめまして、翔太くん」
威圧感を与えないように目線を合わせようとしゃがみ込む。
「…うん」
小さく返事をしてくれた。
それから少しだけ会話をした後、清水くん達兄弟と別れた。
「噂には聞いてたけど、清水先輩ってめっちゃカッコいいね」
「…そ、そう?」
「てゆーか、お姉ちゃん、めっちゃテンパってなかった?」
「テンパる? この私が? 冗談よしてよね」
「もしかしてさ、好きなの?」
「…何を?」
それが何を指し示しているのか理解していたけど、思わずとぼけた振りをしてしまう。
「清水先輩に決まってんじゃん。あんなお兄ちゃんがいたら、めっちゃ自慢しまくるし」
「…それは何かい? アタイのことを遠まわしに否定しているのかい?」
「そうかもね、ふふっ」
そう言ってイタズラっぽい笑みを浮かべる琴子は、さながら小悪魔といったところか。
買い物を済ませた私達は、手分けして夕食の準備を済ませた。私のリクエストでハンバーグを作ったけど、思ったよりも上出来だった。
姉妹揃って料理を作るのなんてかなり久々で、あーだこーだ言いながらの調理は楽しく心地よかった。
後片付けを終えると、私は自室に戻る。
「私、ホントに若返ったんだよね…」
ベッドに寝転がりながら、今日一日を回顧。思い返してみても、やっぱりまだ疑念は晴れなかった。お約束の夢オチとかだった嫌だったので、頬を力の限り上下左右に捏ねくり回してみる。
「いったぁ!」痛かった、めちゃくちゃ。
「お姉ちゃん、うるさぁい!」
隣室から琴子の叱責が襲来。
「アイムソーリー」
一応謝罪の言葉を口にすると、私は改めて室内を見渡す。
「…おっ」本棚に懐かしいタイトルの漫画を見つけた私は、手に取ってパラパラとページを捲る。確か一人暮らしを始める際、処分してしまった物だ。私はそのまま読書に耽り、旧懐の波に翻弄された。
「ただいまぁ」
どれぐらい時間が経ったであろうか、その声で物語に耽溺していた意識が現実に引き戻された。私は漫画をベッドに投棄すると、玄関へ直行。
「あら、珍しくお出迎え?」
そこにいたのは皺も白髪もほぼない若かりし頃のお母さんの姿。
「お、おかえりなさい」
「…わざわざそんなこと言いにくるなんて怪しいわね」
お母さんがスッと双眸を細める。
「む、娘が母親を出迎えるなんて普通のことじゃない」
「まぁ、なんでもいいけど。はぁ…それにしても疲れた」
疲労感をアピールするように肩と首を回すお母さん。
「…やっぱり大変? 介護の仕事」
今(未来)だともう退職してしまっているけど、お母さんはずっと介護の仕事をしていた。実際に携わったことはないけど、テレビなんかで観る介護ヘルパーさんの仕事はスゴく大変そうな印象。お母さんは仕事の愚痴を私達の前であまり口には出さなかったが、帰宅時間もバラバラで日々ストレスは溜め込んでいたと思う。
「当たり前でしょ。でも、楽な仕事なんてつまらないじゃない。大変だからこそやりがいはあるってもんよ」
その母の一言は、私の胸に突き刺さった。これまでどうにか楽な生き方は出来ないか、それしか考えてこなかった。過去を思い返してみても『やりがい』なんて言葉とは無縁の生活をずっと送っていたから。
「…鞄、運んであげる」私はお母さんの鞄を持つ。
「今日はやけに優しいわね。なんか企んでるでしょ?」
「何も企んでないってば。ちゃんと労ってあげてるだけ」
リビングまで鞄を運んでいく。
「それが怪しいっての」
「あっ、お母さんのご飯も作ってあげたから」
「うわっ、アンタにお母さんって呼ばれるの嫌なんだけど」
「な、なんでよ! 別にいいじゃん!」
「お母さん、おかえり」リビングのソファでくつろいでいた琴子が立ち上がる。「ご飯、あっためてあげるね」
「ありがと」お母さんは部屋着に着替え出す。「あっ、それより聞いてよ、琴子。さっき藍子がお母さんとか呼んできて、ぞわって鳥肌立っちゃった」
「だからなんでよ!」
我が家は母子家庭だ。私が元いた時代から換算して、15年前のこと。サラリーマンをしていたお父さんは転勤が多かった。まぁ、単刀直入に離婚原因を明かすと、転勤先でお父さんは不倫をしていたのだ。精悍な顔立ち、仕事の手腕も優れ会社でも一目置かれていたとか。
不倫が発覚した理由は、ケータイに届いていたメール。隠れてこそこそ浮気相手とメールしていた場面を、お母さんが発見した。最初こそ否定していたお父さんだったが、お母さんが厳しく詰問すると自ら白状した。それでも一回目だったので厳重注意で終わった。だけど、その後もお父さんはその女と何度も密会していたらしい。お母さんがお父さんのケータイをこっそりチェックしていたのだ。
それが発覚するや否やお父さんは逆上。なんでケータイを勝手に見るんだ! とか、お前より美人なんだよ! やら罵詈雑言をお母さんに浴びせかけた。
その場にいた私は、心底お父さんを軽蔑した。お母さんは何も悪くないじゃん、自分が浮気していたクセに何逆ギレしてんだよって。勿論、私はお母さんの味方に付いた。でも、まだ小学生だった琴子は、よりにもよってお父さんを庇った。お父さんを責めないであげて、とか、お父さんは悪いことなんかしてないよ、とか言って。多分、浮気のことをあまりよく理解していなかったのだと思う。
結局、その女との縁は切ったらしいのだが、家庭内の空気は険悪なものへと変容した。些細なことで二人はすぐ口論するようになったし、私は露骨にお父さんを無視するようになった。そんなこともあり、最終的にお父さんは家を出て行ってしまった。
最後まで別居を反対していた琴子だったが、お母さんに説得され不承不承納得させられる形で終わった。私はこれまで一切連絡を取っていないが、琴子はたまに連絡を取り合っているみたい。
私達姉妹を養う為、日々仕事に奔走するお母さんをちょっとでも楽にさせてあげるべくバイトをしようとしたけど、『その気持ちは嬉しいけど、学生の間は少しでも遊んでおきな』と言われた。自分が学生時代、バイトに追われる毎日を過ごしていたからだと言う。
そんなお母さんを労ってあげなくてどうするって話だよね。
「…ふぅ」
お風呂にも入り身体がほどよく火照ると、瞼が自然と重くなってきた。そろそろ寝ようかとベッドに寝転ぶ。
就寝前のルーティンである動画視聴をしようと枕元に手を伸ばすが、そこにあったのは二つ折りのガラケー。若返ったのはいいけど、文明の発展はまだ途上らしい。
まぁ、便利になり過ぎるのもどうかと思う。なんでもかんでもデジタル社会になりつつある昨今、人対人のコミュニケーションが希薄になっている気がする。これから先、コミュニケーション能力、つまりコミュ力が欠落した人達が増えていくんじゃないかってちょっと心配。私もそこまでコミュ力がある方じゃないけど、やっぱり実際対面して話す方が絆は深まるし、もっと仲良くなれるんじゃって思ったりする18歳の夏。
電気を消した後、再びベッドに体重を預ける。
「…ぐふふ」
これからまた高校生活を謳歌できるんだ、そう思うと自然と頬の筋力が緩む。自分で聞いててもなんて気味の悪い笑い方なんだと自嘲。
今日は色々なことが立て続けに頻発して、心身共に疲れ切っていたのですぐに眠れそうだ。なんて思っていたら、一つの疑点が脳裏を掠めた。
それは目が覚めたら、現実世界へと戻っている可能性。この状況、実は危篤状態にある私に、神様が最後に与えてくれた餞なんじゃ…。
そう考えると一気に不安感が膨張し、私の精神を無慈悲に苛む。次に目を覚ましたら、私はもうこの世にいない。そんなの嫌だ、絶対に。
「…でも」もし仮にこの時代が継続するのであれば、身体と心を休める為にも早く寝た方が賢明。
「…よしっ」私は枕を脇に抱えると、自室を出る。そのまま隣室の前まで移動して扉をノックした。
「……」
数秒待ったけど、なんの反応もない。部屋の明かりが漏れていないのを見ると、どうやら隣人はすでに寝ているようだ。
私は静かに扉を開けて中に入る。ベッドの上には膨らみがあった。
そっと近付いて隣に寝転ぶ。
「…わっ、何やってんのよ、お姉ちゃん!」
気配を殺していたつもりが、どうやら起こしてしまったようだ。
「え、えと…一緒に寝てあげようと思って」
「ビックリすんじゃん。てゆーか、暑いんだから自分の部屋で寝てよ」
シッシッと邪魔者扱いされる。
「こちら添い寝のサービスは無料となっておりますので」
「全くのノーサンキューなんだけど」
「実は世にも恐ろしい夢を見てしまいまして」
「…どんな?」
「いくら止めてって言っても見知らぬおばさんが延々とわんこそばを継ぎ足してきてさ。もう一生分のお蕎麦を食べた気分」
「それのどこが怖いのよ」
「見知らぬおばさんってのが怖くない? 『はい、じゃんじゃん!』『はい、どんどん!』ってめっちゃテンション高くてさ」
「今すぐ出てってくれる?」
「そんな寂しいこと言うなよぉ」
「私は明日も学校があるの。お姉ちゃんと違って暇じゃないの」
「私も学校あるし」
「メンドくさいなぁ。今日だけだからね」
「あんがと」
なんとか許可を頂けたので、私は安堵する。
「…ねぇ、こうやって二人で寝るのいつぶりだろうね」
ふと気になったことを口にするが、「どうでもいいよ、そんなこと」とバッサリ切り捨てられる。
「もうかれこれ20年ぐらい前じゃない?」
「アンタ、自分がいくつかわかってる?」
未来の私からしてみれば、本当にそれぐらいの年数が経っている。
「…ねぇ、琴子は私のことどう思ってる?」
尋ねるが、返送されてきたものは沈黙だった。
「ねぇ、琴子、聞いてる? ねぇっえば」
揺り起こすと、琴子は露骨に不機嫌となる。
「ああっ、もううるさいな。眠いのに邪魔しないでよ」
「ちょっとお話しようよ」
「…はぁ」琴子は心底呆れるように嘆息。「ホントにちょっとだからね。で、何?」
「琴子はお姉ちゃんのことどう思ってる?」
「メンドくさいなぁって思ってる」
「そ、そうじゃなくて。内面の話ね、内面」
「優しいんじゃない? 多分」
多分かい。
「じゃあさ、私がいなくなったらどうする?」
「…一人暮らしでもするの?」
「そうじゃなくて。私がこの世から消えたらどうする?」
「そんなの嫌に決まってんじゃん!」私の言葉を聞いた途端、琴子が声を荒げる。「また家族がいなくなるなんて絶対嫌!」
琴子は上半身を起こし、私の方を見る。なんとも言えない痛切の色が滲んでいた。
「じょ、冗談だよ、冗談。いなくならないよ」
「冗談だったとしても全然笑えない。今後一切、絶対にそんなこと言わないで」
「ご、ごめん…」
怒られてしまった。確かに逆に琴子から同じようなことを言われたら、心配になるし全く面白くない。だけど、私は不安だったのだ。次に目覚めた時、私はもうこの世にいないんじゃなかって…。
気が付けば、白色に統一された天井が視界に広がっていた。あれ? と疑問符が浮かぶ。琴子の部屋の天井は、木目調だったはず。ここはどこ?
とりあえず起き上がろうとした。が、金縛りに苛まれているかのように全く身体が動こない。辛うじて指先を動かすことができるぐらいだ。
何気なく口元に違和感を覚えて視線を下ろし瞠目。テレビでしか観たことのない呼吸器が装着されていたから。
「あっ、お母さん、見て! お姉ちゃんが目を開けたよ!」
「藍子! 大丈夫なの!」
親しみ深い二つの声音が聞こえそちらを見てみれば、焦りと不安を表情に宿した琴子とお母さんの顔があった。…いや、ちょっと待って。なんで二人共歳を取ってんの? 若返ったはずじゃ…。
『ここはどこなの?』
そう喋ろうとしたが、上手く声が出せなかった。うー、とか、あー、みたいな要領を得ない呻き声しか発声できない。
「お姉ちゃん、いっちゃダメだからね!」
いっちゃダメ? 何言ってんの?
「そうよ! お母さんより先にいくなんて許さないわよ!」
先にいく? どこに?
とりあえずダルい。とにかく眠い。
凄まじい倦怠感が私の思考を妨げる。
「お姉ちゃん! 頑張って!」
「藍子! こっちに戻ってくるの!」
涙目になりながら、琴子とお母さんは必死に訴え掛けてくる。
――あっ、私、死ぬんだ。
そう思った。だって、そうじゃないとこの二人がこんなに必死になる理由が見つからない。家族にはあまり愛されていないと思っていたけど、そんなことなかったみたい。
どうでもいいけど、めっちゃ眠い。なんでこんなに眠いんだろ?
抗えない睡魔に身を委ねると、私の意識は茫漠たる闇へと沈んだ。
「は…っ!」
パンッ! と風船が割れるような感覚で一気に意識が覚醒。
「はっ…はっ…はっ…」
全力疾走した後のように息切れが激しく、心臓がバクバクと胸部を強く殴打してくる。
「ん…? お姉ちゃん、起きたの?」
そんな声が聞こえ隣を見やると、妹の琴子が眠そうに目を擦っていた。
「こと…こ」
喉が異常なまでに渇いていて、掠れた声しか出なかった。
「…なんで泣いてんの?」
「え…?」
頬を伝う涙の感触で自身が泣いていることを自覚する。胸中を満たす悲痛な感情が涙の誘因なのは明白だったけど、その原因は不鮮明だ。
「…わかんない。でも、なんか悲しい夢を見た…気がする」
それだけはなんとなくわかった。思い出そうとしてみたけど、本能がそれを拒んでくる。
「はい」と琴子からテッシュを手渡される。「どうせしょうもない夢でも見たんでしょ? お姉ちゃん、泣き顔似合わないんだから早く拭いた方がいいよ」
「う、うん」
軽く小馬鹿にされた気がしたけど、あまり深く考えないようにした。
「香菜ね、告白されちゃった」
その日の昼休み、殷賑を極める教室にて。お弁当を食べていると、香菜ちゃんが脈絡もなくそんな言葉を口にした。
「うっそ、マジ! で、誰誰?」
食べるのを中断して紗月が過剰な反応を見せる。
いつの時代でも恋バナはJKの大好物。てゆーか、私のオアシスである香菜ちゃんを狙う不届き者は一体誰だ。
「えっとね、四組の中山くんっていう男の子が、香菜のこと好きだって」
「まさかの中山くん!」
「中山…? 誰だっけ?」私は頭を捻る。
自分のクラス以外との関係性は希薄だったので、名前を言われてもパッと顔が思い出せない。しかも、12年も前だし。
「バッカ、なんで知らないのよ。我がクラスが誇る清水くんにも負けず劣らずのイケメン男子じゃん」
「へぇ…」
そういえば、と思い出す。確かにこんな会話があった気もする。
「で、どうすんの? 付き合うに決まってるわよね?」
「断るつもりだよ。すぐに断ったら悪い気がして、考えさせてって言っちゃったけど…」
「そんなの付き合う一択でしょ! 断るなんてもったいないから、マジで」
「だって、あんまり知らない男の子だし…」
「そうそう。顔がよくても中身がクソだったら長続きしないよ」
顔がいい男は、性格に難があるのがお決まりなのだ。まぁ、偏見だけど。
「じゃあ、私に回してよ。顔がよかったら、多少性格が悪くても目を瞑る」
「アンタねぇ、顔だけで選んで何回も失敗してんの忘れた訳?:
「はぁ? 何回も失敗なんかしてないし」
しまった。今のは未来の紗月のことだった。
「顔だけで選んでたら、そのうち痛い目見るよって忠告してあげたのよ」
「大きなお世話だっつの」
不機嫌そうに言い捨てると、紗月はお弁当のお米を口に含んだ。
ケータイを忘れたことに気付いたのは、学校を出てしばらく経ってからだった。別に明日でもよかったのだけど、盗難のことを考えると取りに戻った方がいいと思った。機種変となると、家庭に負担を掛けることになるしね。
一緒に帰っていた紗月と日菜ちゃんに事情を話してから、私は来た道を引き返した。
校内は無人でないにしろ、まばらに生徒が残っているだけ。周りに誰も目撃者はいなかったけど、一応靴を履き替えてから教室に向かう。なんせ私は優等生だからね。
我が三年二組の教室の扉を開けると、半裸の男がいた。
「きゃっ」
思わず小さな悲鳴を上げてしまった。まさか変質者! と一瞬身構えてしまったが、よく見ればその人物は「し、清水くん…」だった。
「ま、松永か…。マジでビックリした」
「ご、ごめんなさい。ちょっと忘れ物しちゃって」
視界に映る清水くんの身体は、程よく引き締まった綺麗な形をしていた。ガリガリでもなければ、マッチョでもない。細マッチョと言えばいいのか…。とりあえずいい感じの体付き。
「し、清水くんはなんでここに?」
まさか放課後の教室で全裸になるという酔狂な趣味を待っているとか…。
「いや、俺も教室に忘れ物しちゃってさ」
「…上半身裸なのは、どういった理由?」
「え? あっ、スマン。どうせならここで着替えて、部活に出ようと思ってたんだ」
清水くんはユニフォームに腕を通す。な、なんだ、そんな理由か…。
私は自分の机からケータイを取り出し、「じゃあ、部活頑張ってね」と清水くんに別れを告げ教室を出ようとした。
「ちょっと待ってくれないか」
「…っ!」まさか呼び止められるとは思っていなくて、躓き転びそうになった。
「大丈夫か?」
「う、うん。そ、それでどうかしたの?」
「実は明日、朝から他校と練習試合があるんだよ。で、よかったら観に来てくんないかなってさ」
「べ、別にいいけど…。でも、なんで私なの?」
応援するなら、別に私じゃなくてもいいはず。そもそも、私が行かなくても清水くんには応援してくれるファンが大量にいるし…。
「…松永に応援して欲しいんだ。松永に応援して貰えると、更に頑張れる気がする」
「そ、そっか…」
その言葉の真意は不可視。だけど、そこまで言われちゃ行くしかないよね。
「ちなみに何時ぐらいまで?」
「朝から昼過ぎぐらいまでだな」
「…じゃあ、お弁当とかいたりする?」
「まぁ、あったら助かるけど。…もしかして作ってきてくれんのか?」
「じ、時間があったらね」
「おおっ、マジか! なんか俄然やる気になってきた」
よっぽどお弁当が嬉しいのか、露骨に口調が弾む清水くん。不覚にも可愛いと思ってしまったのは、口に出さないでおいた。
「う~ん…」
まだ陽も昇りきっていない薄暗い早朝、私は台所にて呻吟していた。
昨日の約束通りお弁当作りに着手しようとしたのだけど、よくよく考えると私はろくに料理をした試しがなかったことに気付いたのである。一人暮らしの期間は長いのだけど、いつも面倒が勝りスーパーのお弁当や惣菜に頼りきって自炊してこなかった。まさかその怠惰が、こんなところで仇になろうとは…。
とりあえず白ご飯だけはお弁当に入れてみたけど、流石にこれだけだと色合いに欠ける。そして、ガッカリされるだろう。おかずのないお弁当ほど落胆するものはない。最早、それはお弁当じゃなくて単なる白米だしね。
最終手段としてコンビニ弁当のおかずを、ただ移すっていう狡猾な方法もある。だけど、それはなんかズルいし、出来ればしたくない。
「アンタ、朝から何やってんの?」
「っ…!」
突如、背後から声を掛けられ、ビクッと肩が跳ねる。
「お、お母さん…おはよう」
振り返ると、パジャマ姿のお母さんがそこにいた。
「ま~たお母さんって呼んでる。アンタにお母さんって呼ばれるの気持ち悪い」
朝から辛辣なお方だ…。
「私だってもう子供じゃないから、いつまでもママなんて呼んでられないのっ」
「あっそ。で、何やってんの?」お母さんが私の手元を覗き込む。
「えっと…まぁ、お弁当作り?」
「あれ? 今日って土曜日だよね? お弁当いるの?」
「ん~と…まぁ、ちょっとね。ピクニックでも行こうかなって、友達と」
なんとなく気恥ずかしくなり、真実を偽装する。
「インドアのアンタがピクニック! 珍しいこともあるもんだ。雨、降らさないでよね」
「うるさいなぁ。…あっ、手伝ってよ、お母さん」
私が救援を求めると、「えぇ」とお母さんは明らかな難色を示す。
「今日はアンタ達のお弁当作らないで済むから、ゆっくり出来ると思ったのに」
「いいじゃん。ちょっとだけ手伝って」
「ああ、はいはい」
それからお母さんの手を借りて、なんとか時間までにお弁当を完成させることができた。純白のお米しかなかった質素を極めていたお弁当も、おかずが増えて色鮮やかな見た目になった。二人分ということで量を多めに作ったのだけど、思ったよりも大変な作業だった。こんな作業を毎朝していたなんて、お母さんを改めて尊敬したし、感謝しかない。
「ふぁ~あ」お母さんが大口を開けて欠伸する。「眠たいけど、そろそろ洗濯物しないと」
「…お母さん、いつもありがとう」
私が謝意の言葉を述べると、お母さんは不審そうに目を細める。
「…アンタ、熱でもあんの? やっぱり気持ち悪いよ」
「気持ち悪い言うなし。なんとなくそう思っただけだし」
我が娘に気持ち悪い気持ち悪いと失礼な母親だな、と私は内心で苦笑した。
学校のグラウンドには、既に試合を観戦しにきた生徒で溢れていた。観客の大半が女生徒である。天候は快晴で絶好の試合日和だが、孟夏の直射日光が眩しくとにかく暑い。
「「キャーッ! 清水くーん!」」
観戦していたギャラリーから黄色い声援が巻き起こる。
清水くんがボールを取っただけだと言うのに、この盛り上がりよう。あまりの人気っぷりに私は少し圧倒され気味。
実際に高校時代を送っていた時は、サッカーなどに興味がなく試合を観たことがなかったのだ。ルールさえ危うい状態である。なのでワールドカップの時期には、へぇ…日本って負けたんだ、ぐらいのテンション。ボールの蹴り合いにいちいち一喜一憂する人の気がしれない。決して貶してる訳じゃないよ。個人的には、そんなことより目の前の現実の方が大事。
「あっ、藍子じゃん」
突然、名を呼ばれ、反射的にそちらを見る。
「あっ、紗月」がそこにいた。
「藍子もサッカー見にきたの?」
「え? まぁ…そんな感じ」
「珍しいじゃん。サッカーに興味なんてあったっけ?」
「…少しだけ」
「ふぅん。あっ、もしかして清水くん目当てだったりして」からかうように、ニヤニヤと不敵に笑む紗月。「興味なさそうな素振りしといて、やっぱりアンタも好きだったんだ」
「ち、違うし」私は慌てて持っていたお弁当を後ろ手に隠す。
「清水くん、人気だしね」
私が清水くん目当てだというだという前提で話す紗月。
「紗月こそサッカーなんか興味ないじゃん。何でいんのよ?」
「私は友達の付き添い。こんなあっつい日にマジ最悪」
愚痴を漏らしながら、紗月は額に滲む汗を袖で拭う。
「じゃあ、海行こうよ、海」
私がそう提案すると、「おっ、いいね!」と紗月が食いつく。
「海行って、イケメン彼氏をゲットやで」
「男に飢えてるなぁ」
私のいた時代でも、紗月はいつでも彼氏が欲しいと宣っていた。容姿にこれといった問題はないけど、紗月の男に対する理想が高い。その為、なかなか彼氏が作れず悩んでいた。
「当たり前じゃん。高三の夏に彼氏がいないとか、マジでありえない。いつまでも女同士でつるんでる場合じゃないでしょ」
「…まぁね」
「そろそろ私達も卒業しなきゃじゃん」
「…一応聞いとくけど、何を?」
「処女」
「「キャーッ! 清水くーん!」」
またしても歓声が上がったので、グラウンドに視線を戻す。どうやら清水くんが得点を獲得したらしく、チームメイトに抱き締められたり、頭を叩かれていた。
不意に清水くんと視線が交錯。すると、喜色満面でブンブン手を振ってくれた。
「ねぇ、私に手を振ってくれてるっ!」
私の眼前にいた女子が、ピョンピョンと飛び跳ねている。
『ふふっ、私にだよ』なんて言える訳ない。私に対するアピールだって確証もないし、自意識過剰女だと邪推されるのも嫌だ。
「…私、ちょっとトイレ行ってくる」
「ん? もしかして、おっきい方?」
「違うっつの」
相変わらず下品な紗月をあしらい、私は校舎に足を踏み入れる。誰もいない校舎は、妙に静かで寂寥感に満たされていた。外からは断続的に歓声が聞こえていて、校舎だけが隔離されたような錯覚を味わう。少し不気味だけど、悪い気分じゃない。
トイレで手早く用を済ませた後、グラウンドに戻ろうとして思い留まる。私が応援しなくても、清水くんには沢山のサポーターがいる。私が欠けても、なんら変わりない。
それに、鳴り止まない黄色い声援に少し辟易していた。アイドルのライブじゃないんだから、他のメンバーにも気を使ってあげてもいいじゃん。
私は階段を上がっていく。階段を踏みしめる都度、カツンカツンという足音が鳴る。
特にこれといった理由はないけど、屋上に向かおうと思った。屋上に辿り着いた私は、中央辺りまで移動する。
「ん~っ」とりあえず大きく伸びをしてみた。
凝り固まった筋肉が弛緩し、血液が全身に流れていくような感覚に陶酔。陽射しは強烈だが、気分は爽快。
更に前進して、落下防止のフェンス越しからグラウンドを見やる。試合はまだ継続中。見る限り白熱して盛り上がっている。サッカーって走り回ってるからダイエットに向いてそうだけど、私は体力がもたないだろうな。若返ったと言っても、そもそも体力がそんなにある方じゃなかったし。
「…ふぁ~」思わず大きな欠伸が漏れる。お弁当を作る為に早起きしたので、著しく寝不足。
屋上に設置された給水棟の陰影に日除けもかねて移動する。お弁当を下に置いて、掌で床の温度を確かめてみた。
「…ふむ」日陰部分は、あんまり暑くない。腰を下ろして、給水棟の側壁に背を預ける。目を瞑って、「ふぅ」と一息つく。
清水くんは何で私を誘ったんだろ? そんな疑問がふと生まれ、目を開けて考えみる。あれだけのファンがいるのであれば、いちいち私を誘わなくてもよかったはず。
――もしかして、清水くんは私が好き…?
「いやいや、ないない」頭を振る。
清水くんはモテモテで引く手あまたなんだ。その中で私を選択する必要性があるとは到底思えない。
「ん~…わからん」
極めて難解な問題を空の彼方に放り投げ、再び目を瞑る。すると、私の意識は夏の暑気に溶けるアイスのように液状化した。
「やっと見つけた」
「わあっ!」
気付くと眼前に清水くんがいて跳ね起きる。
「った~!」反動で後頭部を壁で強打。
「だ、大丈夫か?」
「あ、うん。な、なんとか」おかげで眠気が綺麗さっぱり吹き飛んだよ。
「で、でも、なんで清水くんがここに?」
「松永を探してたに決まってんじゃん」
清水くんの額には汗が滲んでおり、少し呼吸も乱れているご様子。
「私を…?」
「それ」清水くんが指差した先にあったのは、二つのお弁当。「弁当作ってきてくれるって言ってたじゃん」
どうやら、お弁当がお目当てだったみたいだ。
「あれ? そういえば試合は?」
「今は昼休憩。ずっと松永を探してたから、腹減ったよ」
「…なんかゴメン。では、こちらをどうぞ」
お手製弁当を清水くんに献上。
「サンキュ」
にこやかにそれを受け取ると、清水くんは私の隣に腰を下ろした。ふわっと柔軟剤の甘い匂いと清水くんの汗が混じった香りが鼻腔を掠める。
「おっ、美味そう」早速、お弁当箱を開く清水くん。「でも、なんか量が多くないか?」
「男の子だから、いっぱい食べるかなって」
「そうなんだ。大変だったろ?」
「ん~…まあまあって感じ…かな」
実際、お母さんが献立を考えてくれたり調理を担ってくれたので、私はほぼ何もしていない。したことといえば、卵焼きと見栄えを考慮して盛り付けしたぐらい。
「いただけます」
清水くんは律儀にも手を合わせると、お箸を持ってお弁当を食べ始める。最初に清水くんが選んだおかずは、まさかの卵焼き。頬張りもぐもぐ咀嚼。緊張感に苛まれながら、私はその様を見守る。
「…んっ!」突如、清水くんは目を剥く。
「な、なに?」もしかして不味かったのかな? という不安感が募る。
「美味い!」
だが、反応は思ったよりも良好。どうやら杞憂だったようだ。
「ありがと。作った甲斐があったよ」
「なんかまろやかって言うか、普通と違う感じがする」
「実はちょっとだけマヨネーズを入れてるの」
「へぇ…。今度、母さんに頼んでみよう」
清水くんは旺盛にお弁当の中身を消費させていく。
「…なんで私がここにいるのがわかったの?」
一緒にお弁当を食べながら、ふと疑問に思ったことを訊いてみた。
「たまに松永が屋上にいるのを見かけてたんだよ。グラウンドで練習に打ち込んでても視界に入るんだよな、お前の存在」
「…そ、そうなんだ」
どう反応すればいいのかわからなかった。そんなこと言われたら、変な期待をしちゃうじゃないか…。
「ごちそうさま。マジで美味かった」
お弁当を食べ終えた清水くんは、後片付けを始める。彼は二人分でも少し多い量のお弁当を易々と平らげた。やっぱり男の子だなぁ、と改めて思う。
「おそまつさまでした」
「あっ、ヤベ。もうグラウンドに戻らないと。弁当、ありがとうな」
「試合、頑張ってね」
「ああ。じゃあな」
そう言い残して、清水くんは駆け足で屋上を去っていった。
「…ふぅ」なんか肩の荷が下りた気分。安堵感というか、緊張感がほどけたみたいな。清水くんと話していると、妙に気を張ってしまう。クラス一の人気者だし、私のいた時代だと“いない”人だからかもしれない。やっぱりなんだか不思議な感じがする。
「…私も戻ろう」
私は立ち上がり、お尻を払う。そして、鉄扉を開いた瞬間だった――
「ちょっと」
「ぅわっ!」目の前に人がいてビクッと派手に飛び退く。
少しつり上がった双眸と、真横に切りそろえられた前髪が特徴的な美人さんである。
見覚えがあった。確か何年か前に何気なく卒業アルバムを取り出し眺めていた時、こんな綺麗な娘いたっけと思った娘だ。私の記憶が正しければ、三井…千晶…ちゃんだったはず。
過去、他のクラスとの交流があまりなかったこともあり、失礼ながら顔や名前を忘れていた。だけど、綺麗な娘だなという印象だけは脳の隅に残っていた。
「な、何か用…?」
まさか三井さんから話し掛けられるとは微塵も思っていなくて、私はかなり狼狽した。
「はや…清水くんと何してた訳?」
三井さんの瞳には明らかな敵愾心が透けて見えた。どうやら屋上から清水くんが出てくる所を目撃していたようだ。
「べ、別に何も。ちょっと話しをしてただけ…」
「じゃあ、それってなに?」と三井さんが静かに指差した先にあったのは、私の持っている二つのお弁当箱。
「お、お弁当だけど…」
「見たらわかる。私はなんで二つ持ってるか訊いてんのよ」
突き刺さるような冷たい詰問。明らかな敵意が感じられ、背筋がゾクッと震えた。な、何を10以上も歳が離れてる小娘に臆しているんだ、私は。
「ど、どっちも私の分だよ。食べ盛りだから、私。最近、食べ過ぎで太っちゃって、ダイエットが大変で大変で」
多分、私が清水くんと一緒にいたことにご立腹のようなので、私は咄嗟に嘘をついてしまう。
「…あんまり隼人に近付くと、許さないから」
最後にそう言い捨てると、三井さんはクルッと振り返りスカートを翻し、背を向け颯爽と階段を下っていった。
「…な、なんなのよ」
「お姉ちゃん、ケータイの充電器貸して」
その日の夜、自室のベッドで寝転びながら物思いに耽っていると、妹の琴子がノックもなしに部屋に乱入してきた。お風呂上がりなのか、髪が濡れ頬が僅かに紅潮していた。
「あ~はいはい」差しぱっなしになっていた充電器のコードを抜いて、「どうぞ」と琴子に手渡す。
「どうも」
それを受け取った琴子が部屋を出よとしたが、「あっ、ちょっと待って」と引き止める。
「なに?」
「少し相談があんだけど、いい?」
「…別にいいけど。あっ、もしかして彼氏出来たとか?」
「出鼻をくじくようだけど、違うから」
「なんだ、つまんないなぁ」
その言葉通り、つまんなそうな顔をする琴子。
「なんでアンタを喜ばさないとならないのよ。でもまぁ、琴子の好きそうな内容ではある」
「えっ? なになに?」
途端、琴子は興味を弾けさせる。
私は今日あった出来事の顛末を琴子に話した。つまり、三井さんとの出来事だ。清水くんとお弁当を食べた後、三井さんが待ち受けるようにして屋上の扉前にいたことや、『あんまり隼人に近付くと、許さない』とか言われたこと。
「ふ~ん」
私の話しを聞き終わった琴子は、何故かニヤニヤしていた。
「な、何よ?」
「いや、お姉ちゃんもちゃっかりラブコメ的なことをしてたんだなぁって思ってさ」
「バカにしてんの?」
「バカにはしてないよ」
「…まぁ、いいわ。それよりどう思う?」
私は改めて意見を求める。
「間違いなく清水先輩にホレてるね、その娘」
「…そうなんかな、やっぱり」なんとなくそんな気はしていた。だけど、あの大人しい三井さんに好きな人がいたなんて驚きだ。過去、接した記憶はないに等しいが、恋愛に興味があるようには見えなかったし。
「お姉ちゃんもでしょ?」
「何が?」
「清水先輩が好きなの」
「は、はぁ? なんでそうなんのよ」
「どう見積もっても好きじゃん」
「べ、別に好きじゃないし」
「好きでもない男子にわざわざお弁当なんて作っていく訳? よっぽどのお人好しか、気がなかったらそんなことしないでしょ」
確かに、と納得してしまう。でも、お弁当を作ったのは、清水くんに頼まれたからであって自主的じゃないし。そこに恋愛感情が含まれているのか、いないのか、と問われると正直微妙なところ。
「…私は頼まれてお弁当を作っただけだし」
「じゃあ、清水先輩がお姉ちゃんに好きなのかもね」
「んなアホな」
「私もあのチョー人気の清水先輩がお姉ちゃんを好きだなんて思えないけどね」
「…どっちなのよ」
「お姉ちゃん、モテ期なのかもよ。人って特に理由もなく、モテる時期があるみたいだよ
よ」
全ての理由を、モテ期で片付けられる。ますます清水くんのことがわからなくなった…。
翌日の朝、紗月と登校途中、前方に白い自転車を押して歩く三井さんの後ろ姿が目に入る。
「三井さん、おはよー!」
三井さんはこちらを一瞥してくれたが、そのまま何事もなかったように歩いていった。
「アンタ、いつの間に三井さんと仲良くなった訳?」
紗月の何気ない問いに、「今日から!」と答える。昨晩、色々考えてた。せっかく時間を遡ってきたのだから、過去に接点のなかった子と親睦を深めるのもアリだと思ったのだ。
「ごめん、紗月。私、先に行くね」
「あっ、ちょっと!」
紗月を置いて私は三井さんの背中を追った。
「三井さん、おはよー」
三井さんの横に並んで、改めて挨拶をする。
「……」
三井さんは何も答えない。ただの屍のようだ。まぁ、生きてるけど。
「昨日ぶりだね。元気してた?」
「……」
やはり無視されてしまう。
絡んでくんな、という感情がひしひしと雰囲気から伝わってくる。
「私、実は嬉しかったんだよね。三井さんがまさか私に話し掛けてくれるなんて思ってなかったからさ」
「……」
寡黙を貫く三井さん。私、いつの間にかステルス能力を身につけていたみたい。
「あっ、清水くん」
「えっ…?」
私がいくら話し掛けても無反応だった三井さんだったが、清水くんの名を聞いた瞬間、主人の帰りを察した犬のような機敏さでピクッと反応する。
「ごめん、見間違いだったみたい」
「死ね!」
非情な一言を私に浴びせ掛けると、三井さんは歩くスピードを上げた。そういうシンプルな短い言葉が一番心に響くよ。
その日の昼休み、私はお弁当を持ってそそくさと教室を出ようとした。
「あっちゃん、どこいくの?」
が、運悪く香菜ちゃんに見つかってしまう。
「一緒に食べないの?」
「ちょっと別の教室で食べようかと思って」
「えぇ、なんでぇ?」
「香菜、文句を言ってはダメよ」すると、紗月が割り込んできた。「コイツは私達に飽きて、別のクラスメートと友情を育んでいるのだから」
「ガガーン!」香菜ちゃんがわかりやすくショックを受ける。「あっちゃん、香菜達のこと、飽きちゃったの?」
母性をくすぐられるような潤んだ目を私に向ける香菜ちゃん。
「あ、飽きてない飽きてない! いらんこと言うな、紗月」
「だってホントのことじゃん。どうせ三井さんとこ行くんでしょ?」
「そうだよ、悪いか」
「私達のことほっといて、三井さんとこ行くんだ。この浮気者!」
「ものぉ!」紗月の言葉に続いて、香菜ちゃんも便乗する。
「だぁ、うるさい! アンタ達とはまた明日食べてあげるから!」
紗月達を一蹴し、私は教室を脱する。3組の教室を廊下から覗くと、三井さんは窓際一番前の席でポツンとぼっち飯を堪能していた。なんとなくそんな気がしていたけど、三井さんはクラスに溶け込めてないようだ。
「ちぃちゃん、一緒に食べようぜぇ」
声を掛けたのが私だと判明した途端、眉を顰め露骨に嫌悪感を露わにする。
「アンタ、マジでなんなの? 休み時間の度に会いにくるし。嫌がらせ?」
「やっと話してくれたね。嫌がらせじゃなくて、良いがらせだよ」
「…マジウザい。昨日の仕返しって訳?」
「違うよ、違う」私は隣の空いていた椅子を借りて、三井さんの前に向かい合う形で座る。「私、ちぃちゃんともっと仲良くなりたいんだよね」
お弁当箱を開きながら、私は会いにきた理由を伝える。
「元から仲良くないから。それと、ちぃちゃんって呼ぶの止めて」
「私のことはあっちゃんって呼んでいいよ」
「呼ぶか」
バッサリ切り捨てると、三井さんは不機嫌そうにお弁当を食べ出す。
多分、昔の私ならこれだけ冷たく対応されれば、仲良くしようという気持ちが容易く萎んでいただろう。だが、私も人生と歳を重ね寛容な性格になったのだ。これぐらいでへこたれていては、社会を生き抜いていくことなんてまず無理。人生の荒波に揉まれきた私にすれば、こんなのなんともない。
「あっ、その野菜炒め美味しそう。一口ちょうだい」
「ヤダ」
「私の唐揚げあげるから、交換しようよ」
「いらん」
「そんなケチなこと言わないでさぁ。ほら、美味しいよ」
私はお箸で唐揚げを掴み上げ、三井さんの眼前に突き付ける。
「だから、いらないって、むぐっ…!」
口が開いた瞬間を見計らって、唐揚げを無理やり押し込む。眉間に皺を寄せながらも、観念して咀嚼する三井さん。
「んっ…!」次の瞬間、目を見開いた。「お、美味しい…かも」
認めたくないのか、三井さんは言葉を濁す。
「でしょ? 冷凍じゃなくて、お母さんが前日からちゃんと漬けて作ってくれたやつなんだよ」
「…あっそ」
「私もちょっと貰ってもいい?」
「…好きにすれば」
本人の承諾を得られたので、改めてお弁当の中身を見る。女子力の高さを感じさせる見栄え。おかずと野菜のバランスが丁度よくてカラフル。とりあえず当初の目的だった野菜炒めを選び口に運ぶ。むしゃむしゃ。
「美味しい!」思わず大声を上げてしまうぐらい、絶妙な味付けだった。
「こ、声デカい」
三井さんに注意をされ、「あっ、ごめん」と謝る。
食事中に大声を出してしまうなんて、淑女としてあるまじき行為だわ。
「でもさ、めっちゃ美味しいよ、これ。もしかして手作り?」
「…一応」
「おおっ、ちぃちゃん天才!」
「さっきも言ったけど、ちぃちゃんって呼ぶの止めて」
「どして?」
「なんか不快だから」
流石に距離を詰め過ぎたか。
「じゃあ、千晶ちゃんって呼んでもよかですか?」
「…好きにすれば」
「私のことは藍子ちゃんって呼んでね」
「呼ぶか」
「なんでよ!」
お弁当を食べ終えた頃、急に千晶ちゃんが席から立ち上がる。
「あっ、千晶さま、いずこへ!」私も席を立つ。
「トイレ」
「私もお供します故」
「付いてくんな」
同行を拒まれたが、私は千晶ちゃんの後ろを付いていく。
「おっ、千晶」
廊下を進んでいると、清水くんとバッタリ遭遇。
「は、颯斗」
「あれ? 松永も一緒じゃん。いつの間にか仲良くなって、」
「ないから」
清水くんの言葉を遮って、千晶ちゃんが即座に否定する。私と友達だと思われるのが、そんなに嫌だと言うのか…。
「なんかつきまとわれて困ってるの。助けてよ、颯斗」
千晶ちゃんが清水くんに助けを請う。
下の名前で呼び合っているところを見ると、どうやら二人は仲がいいらしい。だから、この前も颯斗と呼んでいたのか。全く知らなんだ。
「松永、千晶のこと頼むよ」
「は、颯斗、何言ってんのよ!」
「コイツ、無愛想だからクラスで孤立してるみたいなんだわ。松永は友達も多いし、松永になら千晶を任せられる」
「勝手なこと言わないでよ! 私は颯斗がいればそれでいいの!」
廊下全体に響き渡るような声量に、周囲に蔓延していた喧騒がピタッと止む。
「…あっ」千晶ちゃんがそれに気付いて口元を押さえる。
「何意地張ってんだよ」
「意地なんかじゃない。私はホントに颯斗がいればそれでいいと思ってる」
「お前、このままでいいと思ってるのか? 俺もずっとお前の面倒を見てやれんぞ」
「子供扱いしないで! 私は颯斗がいればいいの。他に友達なんていらない」
「いらないってお前…」
「友達なんかいても邪魔。どうせ都合が悪くなったら裏切るもん」
はっきりとした拒絶。
私は違和感を抱く。千晶ちゃんが他者との交流を拒み一人でいることに固執する姿勢。何か大きな理由があるのではなかろうか。それがなんなのかは、本人が吐露しないとわからない。だけど、私が言えることは一つ。
「私は裏切らないよ、絶対」
そう発言した直後、「嘘」と千晶ちゃんが言下に否定する。
「皆、口ではそう言うけど、結局は自分のことしか考えてないのよ。気に入られようとか、嫌われたくないとか、そんな下心ばっかり」
まるで誰かを糾弾するみたいなその言葉を聞いて、私は確信する。千晶ちゃんは過去に他者を信じられなくなるような出来事があったのだ、と。
「ホントだよ」私は千晶ちゃんをそっと抱き締めた。「私は絶対に裏切ったりしない」
「何も知らないくせに…」
「大丈夫。何があっても私は千晶ちゃんの味方だよ」
私をすぐに引き剥がさないということは、他者と関係を築き上げることを完全に断ち切れていないのかもしれない。
その時、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴り響く。すると、千晶ちゃんが私の肩を押して距離を取る。
「トイレ」
ボソッと言うと、千晶ちゃんは足早に廊下を歩いていった。
「松永」不意に清水くんが私を呼ぶ。「千晶のこと、頼んだ」
放課後となり、私は三組の教室に向かった。勿論、千晶ちゃんと一緒に帰る為だ。
「ちぃちゃん、一緒に帰ろうぜぇ」
黙々と帰宅準備を進める千晶ちゃんに声を掛ける。
「…はぁ」私の顔を見るなり、露骨な溜め息を漏らす千晶ちゃん。「一人で帰りなさいよ」
「そんな冷たいこと言わずに、一緒に帰ろうよ」
「私はこれから用事あるの」
「私も付き合いますぜ、地の果てまで」
「アンタ、マジでウザい。私に付きまとわないで」
「私達はもうマブダチだろ?」
「ふんっ」千晶ちゃんは鞄を持つと、足早に教室を出る。私も後に続いた。
千明ちゃんが真っ先に向かった場所は、学校のグラウンド。グラウンドでは運動部が走り回り、青春に汗を流している。
生来、私は部活というものに触れ合ってこず帰宅部のエースを貫いていた。運動するのがあまり好きじゃなかったのと、放課後の時間を削られるのが嫌だったから。卒業してから、部活に入ってればよかったな、なんて後悔する羽目になるとも知らずに。
テレビなんかで運動系や文化系の部活に密着しているのをよく見かける。皆、一様に楽しそうなのだ。苦境を乗り越えた先にあるゴールを、一丸となって目指す。まさに青春。苦楽を共にしてきたからこそ分かち合える友情は一生の宝物。
閑話休題。
千晶ちゃんが言うには、清水くんの部活が終わるのを待つらしい。いじらしいなって思う。私にもし部活に入る友達がいた場合、億劫が勝って待つなんてことはしないだろう。さっさと家に帰って、惰眠を貪っていたと思う。
「千晶ちゃんさぁ、サッカー部のマネージャーしたらいいじゃん」
グラウンドの隅にある石段に腰掛けながら、千晶ちゃんに提案する。
「ヤダ」千晶ちゃんは一考も挟まず私の提案を却下する。
「どして?」
「颯斗だけならまだしも、他の部員の面倒なんてみたくない」
「あーね」千晶ちゃんらしいと言えばらしいけど…。
「汗臭いのとか、マジ無理」
「ははは」私は愛想笑い。
まぁ、私も汗臭いのは苦手。夏場の満員電車なんてかなり強烈。OL時代、夏の間はいつも車で通勤したかった。だから免許取得を夢見たけど、テレビで流れる事故映像なんかを観てると怖くなって結局取らず今に至る。
「素朴な疑問なんだけど、千晶ちゃんと清水くんっていつから仲良いの?」
「…アンタに話してなんか意味ある?」
練習に励むサッカー部員(多分、清水くんだけ)を見据えながら、千明ちゃんは素っ気なく応じる。
「意味は…ないけど。ちょっと気になっただけで…」
千晶ちゃんは私を一瞥すると、すぐに前を見据え静かに口を開く。
「…颯斗とは幼稚園の頃から一緒」
どういう風の吹き回しか、何やら話してくれるようだ。
「やっぱり昔からモテモテだったの?」
「昔の颯斗は泣き虫で頼りなかった」
「そうなの?」
「転んだらすぐに泣くし、怒られてもすぐに泣く。極度の人見知りで、私がいないと何も出来ないような子供だった」
「かなり意外。ずっと運転神経がよくて、キラキラしてると思ってたよ」
私の中での個人的な清水くんのイメージは、運転神経がずば抜けてて、気さくな性格で友達も多く、女子からキャーキャー言われる存在。どうやら幼少期は、正反対だったらしい。
「小学生の頃にサッカーを習い始めてから、徐々に友達も増えて活発な子になっていった。私もそんな変わっていく颯斗を見てて嬉しかったよ。毎日が楽しそうで、輝いていたから」
過去を披瀝する千晶ちゃんは、どこか遠い彼方を見つめているようだった。
「いつの間にか立場も逆転してた。友達の数も人望も。ひ弱で内気だった颯斗は、気付くと影も形もなくなってた。だけど、颯斗は変わらず私と接してくれた。アイツと違って…」
「アイツ…?」
「え? あっ、な、なんでもない」
失言だったのか、千晶ちゃんはキョロキョロと目を泳がせた。
私は千晶ちゃんの挙動に違和感を覚える。“アイツ”というのが千明ちゃんが人付き合いを拒むキッカケになった人なのかもしれない。
だけど、それ以上の言及はしなかったし、出来なかった。あまり他者に踏み込んで欲しくない領域だというのは、すぐに感じ取れたから。
「ありがと、話してくれて」
「…なんで私、アンタに色々話したんだろ」千晶ちゃんが不思議そうに小首を傾げる。
「もしかしてさ、私を友達って認定してくれたってことじゃない?」
「それはない」
そろそろ泣くよ?
「危ない!」
その時、誰かの危機感の伴った声が耳に届く。パッとそちらに目を向けると、もの凄い速さの白球が目前まで迫ってきているではないか。
「千晶ちゃん!」
弾道から千晶ちゃんに直撃するのがわかった私は、彼女を庇うように抱き寄せた。
気付けば視界には、見慣れぬ白い天井が広がっていた。
「…あれ? っ…!」
上半身を起こした瞬間、後頭部にズキズキとした疼痛が走る。あたた。
痛む箇所を押さえながら、私は周辺を見渡す。いくつもの薬品が置かれた棚、鼻腔に忍び込んでくるアルコールの匂い。風でヒラヒラ揺れる白いカーテンからは、学校のグラウンドが見えた。刹那的に、そこが学校の保健室だと解する。
「確か…」私は記憶を遡る。千晶ちゃんを襲い来る白球から庇おうとしたまではいいけど、そこから何も覚えてない。私はなんでここにいるのか…。
「…おろっ?」何気なく視線を下に向けて一驚。千晶ちゃんの寝顔があったからだ。ベッドの側面で腕を枕にして寝ているではないか。
「あら、やっと起きた?」
「…っ!」急に声を掛けられ反射的に悲鳴が漏れそうになったが、なんとか堪えた。
「し、しまむー…」
保険のしまむーがいた。
「思ったより元気そうじゃん」
「そ、そんなことより、アタイは何故こげな所に?」
「覚えてないの? 頭にボールをぶつけたって、急いでその娘がここまで運んでくれたのよ」
「そ、そうだったんだ…」
「もう顔面蒼白だったから、こっちも驚いちゃったわよ。でも、看た感じ軽症だから大丈夫だと思うわ。安静にしてたらコブもじきに引くでしょ」
しまむーに言われ頭部を触ってみると、確かに小ぶりのタンコブがあった。軽く押してみる。痛い。
「でもまぁ、衝撃でちょっとは頭がマシになったんじゃない?」
「なっ、し、失敬な…!」遠回しに馬鹿だと揶揄される。
「とりあえずずっと付き添ってくれたんだから、ちゃんとお礼言っときなさいよ」
じゃあ、私はちょっと用事で職員室行ってくるわね、と言い残し、しまむーは保健室を出て行った。
「……」
私はまだ寝ている千晶ちゃん頭にソッと触れる。そのままゆっくり撫でてみた。一本一本が細く艶やかな髪は、よく手入れが行き届いている。ヘアアイロンで誤魔化し痛みまくった私の髪とは全く違う。
千晶ちゃんにはまだ結構嫌われていると思っていたけど、少しだけ心を開いてくれたのかもしれない。
「…ん?」
千明ちゃんの髪を撫で回していると、パッと彼女が目を覚ます。
「グッモーニン」
「…な、何気安く触ってんのよ!」
憤然と手を振り払われる。
「寝顔が可愛くてつい」
「起きたなら起きたって言いなさいよ! 心配したじゃない!」
「心配してくれてたの?」
「あっ…し、してる訳ないじゃない! アンタ、バカァ?」
ふんっ、とそっぽを向く千晶ちゃん。妙に顔が赤く見えたのは、夕陽の所為だろうか。それより、最後のはどこかで聞いたことのあるセリフだな。
「千晶ちゃん、ありがとう。私を運んでくれたんだよね」
「べ、別にアンタの為じゃないから。私を庇った所為で死にでもしたら、後味悪いって思っただけだし」
「し、死にでもしたらって…」
「無事そうだし、私はもう帰るから」
立ち上がり鞄を持つと、さっさと帰ろうとする千晶ちゃん。
「あっ、ちょっと待って! 私も一緒にかえ…あたた」
ベッドから出ようとした瞬間、後頭部がズキズキ痛む。
「もうちょっと休んでからにしたら」
「だ、だいじょーぶ。これぐらい平気」
「あっそ。悪化しても知らないからね」
千晶ちゃんの後に続いて廊下に出ると、騒がしかった運動部の溌剌な声は消え去り、校内は静謐な空気に満たされていた。どうやら下校時間はとっくに過ぎていたらしい。
「私って結構長い時間気絶してた?」
「…一時間ぐらいじゃないの」
「じゃあ、一時間も側にいてくれたってことだよね?」
「し、知らない」
「ありがと、千晶ちゃん」
「う、うっさい」
つっけんどんに言うと、千晶ちゃんは歩く速さを高めた。私は駆け足で千晶ちゃんの背中を追った。
やがて、自転車置き場に到着。そういえば朝、千晶ちゃんは自転車を押していたな、と思い出す。
白い自転車の鍵を手早く解錠すると、無言のまま乗りペダルに足を置いて漕ぎ出そうとする。
「あいや、待たれい!」私は荷台に飛び乗る。
「ぅわっ! ちょ、ちょっと何やってんのよ!」
「だって先に帰ろうとするんだもん」
「いいから降りなさいよ!」
「ヤダ!」
「降りろって言ってんでしょ!」
言い争っていると、自転車のバランスが崩れ仲良く転倒。
「「きゃあ!」」私達の悲鳴が重なる。
「いったぁ…アンタの所為だかんね」
打ち付けた臀部をさすりながら、千晶ちゃんが私を睥睨。
「私の所為だよ!」
「何開き直ってんのよ!」
「なんとなく!」
私達は至近距離で睨み合う。改めて近くで見る千晶ちゃんの顔は、肌が白く睫毛も長くて秀麗な顔立ちだった。無性にチューしたくなった。特に理由はない。
「むちゅ~…むぐっ」
唇を突き出すと、ガシっと両頬を掴まれる。
「にゃ、にゃにしゅんの」
「こっちの台詞。アンタ、何しようとした?」
め、目が怖い。
「いや、チューして仲直りするのが、バラエティのお約束かなって…」
「そんなもん知るか」
再び一人で自転車に乗って帰ろうとする千晶ちゃんを、「ま、待ってよ!」と引き止める。
「何してんのよ!」
「私が運転するから、一緒に帰ろっ!」
「…わかったわよ」
不承不承といった様子だったが、千晶ちゃんは了承してくれた。
後ろに千晶ちゃんを乗せサドルに座った後、ペダルに足を置いて重心を掛けると自転車は駆動する。そういえば自転車に乗るのなんて数年ぶりだ。ましてや二人乗りなんてもっと前だと思う。基本、移動は電車だったもんな。
「千晶ちゃんって休みの日とか何してんの?」
無言で運転するのも寂しかったので、素朴な疑問を投じる。
「なんでもいいじゃん」
だが、返送されてきたものは、そんな素っ気ない答えだった。まぁ、なんとなく予想してたけど…。
「私はもっぱら二度寝だな。朝ご飯も食べず昼過ぎまで寝てるのが幸せなんだよ。まぁ、後でお母さんと妹に怒られるんだけどね。『いつまで寝てんのよ!』みたいな感じで」
「どうでもいいし、聞いてないから」
つ、冷たい…。
住宅が立ち並ぶ閑静な道を進んでいくと、緩やかな下り坂に差し掛かる。そこまで傾斜のある坂道ではなかったが、かなり楽だった。
「極楽じゃあ」
二人乗りで疲れた足を休める至福の時間だ。その時、千晶ちゃんが真剣な声音で口を開いた。
「止まって」
「へっ…?」
「いいから止まって」
「家ってここらへん?」
「いいから前見なさいよ!」
「えっ?」
前方を注視すると、こちらに向かって自転車を押す警官の姿が視界に入る。げっ!
「ん…?」
私達の存在に気付いた警察官とバッチリ目が合う。ヤバい!
「こ、こんにちはぁ~」
スピードは緩めず何食わぬ顔で素通りしようとした――
「そこの二人止まりなさい!」
警官から停止命令が下る。ですよねぇ。だが、私は止まらなかった。一々対応するのも面倒だったし、何より身元を明かすのがなんか嫌だった。
「ちょっと、なんで逃げてんのよ!」
荷台に乗る千晶ちゃんから追及の言葉が飛ぶ。
「なんとなく逃げちゃった!」
「こらっ、止まりなさい!」
後ろを一瞥すると、当然の如く警官が追走してきていた。
「まだ間に合うから、止まりなさいよ!」
「今更止まれないよ!」
ペダルを懸命に漕いで坂道を一気に下る。周りの景色が目まぐるしく変わっていく。風を身体で切り裂くような感覚は、幼少期の記憶を去来させた。男勝りだった私は怖いもの知らずで、急勾配の坂をノーブレーキで下ったりしていた。一度、そこでド派手にすっ転んで大怪我してからは、ブレーキすることを覚えたけど。スピードを少し緩めて左折し、そのまま直進。
「止まれと言っとるだろ!」
振り向かずとも警官が追って来ているのがわかった。
どうにかして逃げ切らないと、怒られること必至。私は視線を左右に巡らせ逃げ場所を探す。
「前! 前見ろ!」
千晶ちゃんの緊迫感の伴った声に、視線を前に戻す。
「わっ…!」
十字路で右折してきた乗用車に衝突しそうになり、慌ててハンドルを左にきる。間一髪のところでなんとか避けられた。ふぅ、死ぬかと思ったぜ。その時、左側に小さな公園を見つけたので迷わず中に入る。遊具の少ないこぢんまりとした公園だが、緑が多く隠れるにはうってつけ。自転車を降りて、私達は茂みの影に身を隠す。自転車を発見されるとヤバいので、地面に倒しておいた。息を殺しジッと気配を絶つ。
「…もう大丈夫かな?」
約3分が経過した頃、私は千晶ちゃんに確認する。
「…多分」茂みからちょこっと顔を出して周りを見渡す千晶ちゃん。どうやら危機的状況からは脱せたようだ。
「「ふぅ…」」と私達は同時に安堵の溜め息を吐いた。
「なんか楽しかったね」
ふと、そんな感想を述べると、「はぁ?」と千晶ちゃんは眉間に深い皺を刻む。
「警察に追い掛けられるチャンスなんてそうそうないじゃん」
「あってたまるか」
「でもさ、なんかアトラクションみたいでスリル満点だったでしょ?」
「そ、それはまぁ…否めないけど」
「でしょ?」
「なんで自慢気? そもそもアンタの責任なんだからね。捕まってたら、親とか学校に連絡されてたかもしれないんだぞ」
「捕まってないから、結果オーライ!」私はビシッと親指を立てる。
すると、「はぁ」と千晶ちゃんは深く嘆息し、呆れ顔で一言。
「反省してないでしょ? アンタ」
その後、また警官に遭遇しても嫌だったので、自転車を押して歩いて帰ることにした。
「おい、そこの二人」
不意に背後から声を掛けられ、私達は同時にビクッと肩を震わせた。ま、まさか、さっきの警察官…? 翼々とゆっくり振り向く。そこにいたのは、予想外の人物だった。
「し、清水くん!」
「は、隼斗!」
いつもの爽やかな笑みを浮かべた清水くんが立っていた。
「お、驚かせないでよ」
私の言葉に同調するように、千晶ちゃんが不満を口にする。
「そ、そうよ。いきなりビックリすんじゃん」
「何をそんなに驚いてんだ?」
警官だと思ったからだよ! とは流石に言えない。
「そ、それよりなんでここに?」
動揺しているのを悟られまいと、私は話の矛先を変える。
「部活終わりで腹減ってたから、コンビニで腹ごしらえしてたんだよ」
「…そうなんだ」
「つーか、一緒に帰るぐらい仲良くなってたんだな」
「はぁ? 仲良くなんかなってないし」
ふとした清水くんの発言を、すぐさま否定する千晶ちゃん。
「別に照れることないだろ」
「照れてないし」
「何意地張ってんだ」
清水くんは千晶ちゃんの頭をクシャクシャと撫で回す。瞬間、千晶ちゃんの表情筋がふにゃっと緩んだように見えた。まるで飼い主に撫でられた犬みたいな。
「あっ…こ、子供扱いすんなって言ってんでしょ」
私の視線に気付くと、千晶ちゃんは頭を振って清水くんの手をはねのける。
「ははっ」と清水くんは破顔一笑。
長い付き合いだからこそ出来る嬉戯。異性の幼なじみがいない私からしたら、羨ましい関係性だ。
「そういえばさ、明日って授業昼までじゃん? そっからなんか用事あったりする?」
急に問い掛けられ「わ、私?」と対象者を確認すると、「うん」清水くんは頷く。
「な、なんで?」
「今日、スパイクがぶっ壊れたんだよ。だから、買いに行こうと思ってさ」
「付き合えってこと?」
「一緒に行こうと思ってた友達が、急に予定入ったとかで無理になったんだよね。試合も近いから、早めに買っておきたいんだ」
「…別にいいけど、全然わかんないよ、私」
スパイクがトゲトゲの付いた靴だってことぐらいしか知らない。
「大丈夫。付き合ってくれるだけでいいから」
「ちょっと!」その時、千晶ちゃんが憤然と物申す。「なんで私じゃなくて、ソイツを誘うのよ!」
名前を呼んでくれないのはいいけど、ソイツ呼ばわりは傷付くなぁ…。
「だってお前、人前に出んの苦手じゃん」
「うっ…そ、それはそうだけど……」
清水くんは私に向かい、「じゃあ、明日昼の2時ぐらいに駅前集合な」と勝手に約束を取り付ける。
「…が、頑張れるもん。人前ぐらいへっちゃらだし!」
「気分悪くなっても知らないからな」
「ふんっ、隼斗になんか頼らないよ~だ」
べ~っと舌を出す千晶ちゃん。子供っぽくて可愛い仕草である。私と対話する時と違って、かなり親しく仲良さげだ。
「な、何見てんのよっ」千晶ちゃんが私をキッと睨む。
「可愛いなぁって思って」
「…う~む」
翌日、学校から帰ってきた私は、ベッドに胡座をかいて悩んでいた。床に散乱するのは、私が昔愛用していた洋服達。
この後、清水くん、千晶ちゃんとお出掛けの日。どの服を着て行けばいいのかがわからなかった。
女子受けもして、男子からも好感を持たれるようなヤツを探しているが、皆目見当もつかない。基本的に自分が着たい物を着るのが主義で、昔から周りの目をあまり気にしないタイプだった。しかも、夏服だから無駄に露出度が高い。それにファッションセンスが一昔前の物ばかりなので、今の私だったら恥ずかしくて絶対に着れない。
「お姉ちゃん、お昼ご飯できたよぉ!」
突然、扉が開かれたかと思うと、妹の琴子が顔を覗かせた。
「って、何やってんの?」
「…ねぇ、男子から好感持たれるような服ってどれ?」
「えっ? 何っ? もしかしてデート?」
私の言葉を聞いた途端、琴子が即座に食いつく。
「…もう一人女子がいるから、デートじゃないかな」
「なるほどね、その女子とお姉ちゃんは友達で、同じ男子のことを好きになっちゃった訳だ。恋愛も大事だけど、友情も大事、っていうジレンマと葛藤してるんだよね。でもさ、遠慮してずるずる引きずってたら、それこそ卒業して気軽に会えなくなっちゃうよ。同じ大学を目指してるとかだったら別の話だけど、お姉ちゃんの学力でまともな大学に通えるとも思えない。ちゃんと友達もわかってくれると思うよ。愛情はふとした瞬間に冷めるけど、友情はそうそう簡単に壊れない。このまま何もせずに譲り合ってたら、絶対にどっちも後悔する。だから、今こそ勇気を振り絞って、一歩を踏み出さないとだよ。動き出さないと何も始まらないよ」
「…今の一瞬でそこまで妄想を膨らませたアンタには脱帽だよ」
少女マンガの読み過ぎだ。
「なぁんだ、違うの? 面白くなぁい」
不満げに唇を尖らせる琴子。てゆーか、なんでアンタを面白くさせないといけないのよ。とりあえず無難に当時気に入っていたダメージ加工されたデニムスカート、ピンクのノースリーブをチョイスし着替える。30歳の私だと絶対に露出させない二の腕だったけど、若い頃は当たり前のように出してたなと当時を思い出していた。
「えっと…」駅前に到着した私はキョロキョロと周囲を見渡し、待ち合わせ相手を探す。駅前といえど平日の昼過ぎなので人通りはまばら。
「…ん?」その中でも異彩を放つ人物を見つける。視界をシャットアウトするようにキャップを目深に被ったその人物は、黒い長髪でスキニーを穿いた足はかなり細い。それは明らかに千晶ちゃんだった。
「お待たせ」私は近付き声を掛ける。直後、千晶ちゃんはピクッと瞬間的に顔を上げたが、私を見るなり残念そうに肩を落とす。
「なんだ、アンタか…」
「清水くんは?」
「まだ来てない」
「そっか…」まぁ、待ち合わせ時間までは後5分ぐらいあるしね。
特に会話(私が一方的に喋ってるだけだけど)が盛り上がることもなく、いつの間にか待ち合わせ時間の14時を超過していた。
「おっかしいなぁ…」私は改めて清水くんを探そうと周辺を見渡す。
清水くんが遅刻するなんて考えられなかった。学校だといつも私より先に到着していたし、遅刻した場面を見た試しがなかった。
私がキョロキョロ待ち合わせ相手を探していると、不意に千晶ちゃんがケータイを取り出した。どうやら誰かからの着信があったようだ。
「もしもし? …うん…うん」
興味を刺激された私は、通話の内容を聞こうと千晶ちゃんの側に耳を近付ける。
直後、「はぁ? ありえないんだけど!」と千晶ちゃんが怒声を上げる。結構な声量に、思わず顔を遠ざける。な、何事?
「もういい! バカっ!」
その言葉を最後に、千晶ちゃんは即刻ケータイを仕舞い急に歩き出す。
「ど、どこ行くの?」追い掛けながら、私は問う。
「帰る」
「な、なんで?」
「ムカついたから」
千晶ちゃんは詳しく話してくれなかったが、多分、清水くんから電話があってドタキャンされたのだろう。
「ちょ、ちょっと待って!」
人波を縫ってさっさと帰ろうとする千晶ちゃんの腕を掴み取る。
「何?」
「せっかくだし今から遊ぼうよ」
「ヤダ」
即答だった。
断られるのは予想していたけど、ここで引き下げる訳にはいかない。過去に戻ってこれたのだから、千晶ちゃんともっと距離を縮めたい。あわよくば友達になりたいと切望しているけど、その未来は未だ不可視である。
「お、お願い! ちょっとだけでいいから!」
腕を掴んで引き止めるも、すぐに振り払われる。
「ヤダって言ってんでしょ!」
「一生のお願い!」
今度は腰辺りに抱き付いて引き止める。細くも程良く引き締まった腰だった。
「こ、このっ、離しなさいよ!」
身をよじって抵抗してきた。その際、千晶ちゃんの髪から甘い匂いが放散し鼻腔をくすぐられる。
「あの、どうかされましたか?」
そんな争いを繰り広げていると、一人の男性が話し掛けてきた。スーツ姿のサラリーマン風の男性。私達の動きがピタッと止まる。
「喧嘩しているように見えたんだけど」
「あっ、いや、ちょっと戯れていただけです。特に喧嘩とかじゃないので、心配しないでください」
千晶ちゃんが状況を簡単に説明する。
「そっか…なら、いいんだ」男性がジッと千晶ちゃんを凝視。
「な、なんですか?」
「君、可愛いね」千晶ちゃんの容姿を誉めると、男性はニコッと柔和に微笑んだ。「じゃあ、僕はこれで」
軽く会釈をした後、男性はくるっと振り向いて歩いていった。私はその背中を眺めながら、「優しそうな人だったね」
「…なんか気味悪かった」
「へ…?」
「最後に見せた笑顔、かなり不気味に見えた」
千晶ちゃんはスリスリと自身の腕をさする。
「そ、そう? 私には普通っぽく見えたけど…」
「早く行くよ」
「どこに?」
「アンタ、バカなの? 遊びにに決まってんでしょうが」
「え? 一緒に遊んでくれるの?」
「そう言ってんの」
「あ、ありがとう!」
どういう風の吹き回しか、千晶ちゃんは承諾してくれた。私の愛が伝わったのかしら。
遊ぶ場所を探すべくセンター街をぶらつく。隣を歩く千晶ちゃんを一瞥。彼女は衆目を遮断するように俯き歩いている。本当に人混みが苦手らしい。
「そんなに嫌なら帰る?」
そう問い掛けると、千晶ちゃんは無言で首を左右に振った。
「…あっ」
その時、見覚えのある建物が目に入り、思わず足を止める。ゲームセンターだ。
私のいた時代だと経営難で潰れてしまったが、学生時代、足繁く通った思い入れのあるゲーセン。最新型のプリ機が入荷したという情報が入れば、放課後に皆で急いで駆け付けたものだ。撮ったプリクラをプリ帳に貼り付け、かなり必死にデコったりしてたな。そのプリ帳ってどこやっただろ? 多分、実家にはあると思う。未来に戻れた際には、帰省して探そうかな。
そんなことを考えていると、一つの疑問が脳裏に浮かんだ。
私って元いた時間に戻れるの?
確かに高校生に若返れたのはすこぶる嬉しいけど、未来には未来で私の生活があるのだ。充実していたとは言い難いが、それなりに悠々自適な生活を送れていた。
「ねぇ、何ぼーっとしてんの?」
千晶ちゃんのその声で、散らばっていた意識の欠片が一気に集束する。
「…ちょ、ちょっと考え事してただけ。それより千晶ちゃんが嫌じゃなかったら、ゲーセンでも寄る?」
「…別にいいけど」
一瞬の間を置いて、千晶ちゃんは了承の意を伝えてくれた。
私達は店内に足を踏み入れる。いくつものゲーム機から発せられた音が重なり合い雑音となって、私達を取り囲む。ゲーセン自体に入るのがかなり久々だったからか、別に不快な気持ちじゃなかった。年を重ねる度、こういった若人達が寄り付く場所を敬遠するようになったんだよね。悲しいかな。
断続的に鳴り響く雑音の波に揉まれながら、何をプレイしようか思い悩む。クレーンゲーム、格闘ゲーム、レースゲーム、音楽ゲーム等、一通り網羅している。でもまずは、プリクラだよね、やっぱり。JKといえば挨拶代わりにプリクラを撮るのがセオリー。
「まず、プリクラ撮ろっか」
提案するが、「ヤダ」と瞬時に断られる。
「な、なしてっ?」
「なんかハズいから」
「思い出になるから、いいじゃん!」
「別に思い出なんかいらない」
どうやら千晶ちゃんを包囲する壁は、まだ分厚い様子。
「一緒に撮ろうよ! 一緒に撮ろうよぉ!」
どうしても欲しい玩具を強請る子供のように両手をぶんすか振り回して駄々をこねてみる。勿論、周りから好奇の眼差しが突き刺さるが、私は止めなかった。
「撮ってくれなきゃヤダ! 撮ってくれなきゃヤダぁ!」
「ああ、もうっ! わかったからみっともないマネは止めなさいよ!」
ふふふ、なんとか作戦は成功したようだ。最終的に、その場に寝転んでジタバタしようと思ってたから助かった。この作戦、失敗すれば単に醜態を晒すだけだし…。
プリ機の周囲には、若い女性達がたくさん群れていた。多分、大半は学生。中には制服を着た娘もいる。休みの日に制服? と思った人もいるだろうけど、女子は私服代わりに制服を着て出掛ける娘もいたりするのだ。かくいう私も私服選びに難航した日は、制服で歩き回っていた。
約10分後、やっと私達の順番が回ってくる。待っている間、千晶ちゃんは苛立ったようにずっと足を揺すっていたが、私は見ないフリを貫いた。だって、なんか怖いし…。
待ち時間と比例し、撮り終えるのは一瞬だ。プリ機から出てきたプリクラを取り出し写り具合を確認。うえっ、と眉を顰める。全く盛れてなかった。
最近のプリ機といえば、目が過剰に大きくなったり、輪郭が不自然に細くなるなど様々な加工が施されるのだが、旧式のだとほぼ素顔に近い感じだ。
こうやって客観的に自分と千晶ちゃんを比較すると、顔の大きさやスタイルの良さが浮き彫りになって肩を落とす。なんじゃ、この差は。私だって未来の自分と比べたら、10キロぐらい痩せてるはずなのに…。落ち込むぜ。
「これ、また今度切って渡すね」
「いらない」
「なんでよ!」
「いらないからいらない」
ふと、千晶ちゃんが何かを見つめていることに気付く。その視線を辿ると、和気あいあいとプリクラを交換し合っているJKの集団の姿があった。
「…プリ帳、持ってないし」
「なんだ、そんなことか。じゃあさ、今から買いに行こうよ」
「えっ…? で、でも…」
「いいからいいから。プリ帳ぐらい私が買ってあげる。なんせ私はお姉さんだから」
私は千晶ちゃんの手を取って、強引に歩き始める。目的地はデパートの中にある雑貨屋。これまた高校生の頃によく通った雑貨屋で、JKの心が惹かれるような可愛い小物や文房具、ぬいぐるみなんかも売っていた。私のいた時代だと、まだ経営しているはず。
男性だと近寄りがたいであろうカラフルでポップな店内を歩き回り、「…おっ」とお目当てのコーナーを見つけ足を止める。『プリ帳にオススメ!』と書かれている色彩豊かなポップが飾ってあり、様々なデザインの手帳が陳列されていた。
「千晶ちゃんって動物だと何が好き?」
尋ねると、千晶ちゃんは静かに口答。
「…ウサギ」
「そうなんだ。可愛いよね、ウサギ」
てっきり『なんでもいいじゃん』とかバッサリ切り捨てられることを想定していただけに、私は微笑ましく思った。
「…バカにしてるでしょ?」
「してないしてない! 私も好きだし、ウサギ!」
「ふんっ」と鼻を鳴らす千晶ちゃん。
どうやら私が嘲笑したと邪推したようだ。私は改めて千晶ちゃんが好みそうな手帳探しを再開。
「…おっ、これとかどう?」
リアルなウサギが一匹デカデカと描かれたデザインの手帳を、千晶に見せる。
「…可愛いけど、なんか思ってのと違う」
お気に召さなかったようだ。
「そっか…」それを戻して、再び手帳探しに着手する。「…これとかはどう…かな?」
次に手にしたのは、デフォルメされたアニメ調のウサギが何羽も散りばめられたデザインの物。流石に子供っぽいかな、と千晶ちゃんの反応を伺う。
「……」
千晶ちゃんは凝然と私の持つ手帳を眺める。千晶ちゃんの表情から感情を読み取るのは困難を極めたが、あまり気に入ってなさそうだ。
「…や、やっぱり子供っぽいよね。他のにしよっか」
そう言って、私は手帳を戻そうとした。すると、「あっ…」千晶ちゃんが小さな声を上げた。
「な、何? どうかした?」
「え? う、ううん。なんでもない」
「…?」
不思議に思いながらも、私は再び手帳を戻そうとした。
「ああっ…」
またしても千晶ちゃんが声を上げる。私にはどこか残念そうな口調に聞こえた。
「…もしかしてこれがいいの?」
「は、はぁ? 意味わかんないんだけど。私がそんな子供っぽいデザインが好きだと思う? バカにしないで」
ぷいっと顔を背ける千晶ちゃん。その仕草が子供っぽくて可愛いかったが、口に出すと怒りそうだったから黙っておいた。
「そっか。ごめんね」
私は今度こそ手帳を戻そうとした。
「あああっ…」
まただ。これで確定した。千晶ちゃんはこのデザインの手帳が欲しいのだ。私がバカにすると思って、素直に頷けないみたい。別にバカにしないんだけどなぁ…。
「私はこれがオススメかな」
「え…?」
「一見子供っぽいけど、普通に可愛いと思うよ。しかもさ、在庫が一冊しかないみたいだし人気なんだよ、これ」
試しに手渡してみると、「ん~…」千晶ちゃんは悩む。逡巡しているのが透けるように見えた。
「お姉ちゃん、それ買うの?」
その時、下方から幼い声音が届く。千晶ちゃんの背後に隠れるようにして立っていたのは、小学校低学年ぐらいの女の子。
「もしかして、この手帳欲しいの?」
私が尋ねると、女の子はコクリと首肯する。
「だって。千晶ちゃん、どうしよっか?」
まさかの事態。私は千晶ちゃんに判断を委ねる。
「……」
千晶ちゃんは改めて手帳のデザインを裏表見返した後、振り返って女の子と目線を合わせるように膝を折り曲げた。
「はい」
「え? いいの?」
「うん、いいよ」
ここからだと表情は見えなかったが、きっと千晶ちゃんは笑顔だったに違いない。
「お姉ちゃん、ありがとう!」
無垢な笑みを披露する女の子。
「どういたしまして」
手帳を手にした女の子は、お母さんらしき大人の女性の元に駆け寄っていった。
「譲っちゃったね、最後の一冊」
「他の探せばいい話」
「それはそうだけど…」
「お客さま、一部始終を見させて頂きましたよ」
「っ…!」
後ろから急に声を掛けられ反射的に振り向くと、そこには見慣れた顔があった。
「さ、紗月! な、なんでここにいんの?」
店員の青いエプロンを付けた紗月だった。
「バイト始めたんだよね。てゆーか、前に言った気がすんだけど」
「そ、そうだっけ? あはは、普通に忘れてた」
この時代に逆行して3日目。それ以前の記憶は朧気。今思い返せば、紗月がバイトしてた気もする。
「それより意外だった。三井さんって子供とか苦手そうなのに」
「私としては、同い年の方が苦手」
「そ、そう。てゆーか、二人って一緒に遊ぶぐらい仲良くなってたんだ」
「全然仲良くない。仕方なく付き合ってるだけ」
「…藍子、アンタ、嫌われてんの?」
「苦労してます」
「そういえばさっきの手帳だけど、近い内に再入荷するはずだから、入ったら私が確保しといてあげる」
「ホントにっ?」
瞬間、千晶ちゃんの表情がぱぁっと明るくなる。見たことのない、無邪気な笑顔だった。「み、三井さんって笑うんだね」
「わ、私も初めて見た」
紗月と私がそう言うと、千晶ちゃんは必死に否定する。
「い、今のは間違いだから! 笑ってないし!」
焦って否定する千晶ちゃんは、とにかく可愛かった。
雑貨屋を出て商店街を歩いていると、ファストフード店の前に立っていた人物が何気なく視界に入る。クルクルと巻かれ派手を極めた金色の長髪、つけ睫毛に黒のアイシャドーを施したケバいメイク。いわゆるギャルという人種。
私も興味がない訳じゃないけど、めちゃくちゃ目立っていた。
不意にギャルがこちらを一瞥。私は反射的に視線を逸らし、素知らぬ顔を貫く。だが何を思ったか、ギャルがこちらに近寄ってくるではないか。ま、まさか睨んでると勘違いされて、絡まれるんじゃ…なんて不安が一気に膨張。
「ねぇ、千晶だよね?」
用があったのは私ではなく、千晶ちゃんだったようだ。こ、このギャルが千晶ちゃんの知り合い…?
「…っ!」
焦るように帽子を更に深く被り直した千晶ちゃんは、そのまま何事もなかったようにギャルの横を通り過ぎようとした。
「ちょっと待てよ。逃げることないじゃん」ギャルは千晶ちゃんの腕を掴み取る。「私達、友達なのにさ」
まさかの同級生? 普通に年上だと思ってたよ。
「…アンタを友達だと思ったことない」
「へぇ、言うようになったじゃん。誰のおかげでクラスに馴染めたと思ってんの?」
「私は一瞬でもアンタに心を許したことを後悔してる。てゆーか、早く離せ」
いつもの私に対する冷淡な口調や態度ではなく、明らかな嫌悪と敵意が窺えた。
「あぁ?」
今すぐにでも喧嘩に発展しそうな、剣呑な雰囲気が立ち込める。
「ま、まぁまぁ! せっかく再会できたみたいだし、仲良くしようよ!」見かねた私は思わず容喙。「喧嘩、ダメ、絶対」
「つーか、誰?」
金髪ギャルが目を細め私を睨む。こ、怖い!
「わ、私は千晶ちゃんの友達です、はい」
「…あっそ。一応言っとくけど、コイツ、すぐに裏切るから気をつけた方がいいよ」
「自分のこと棚に上げて被害者面すんな。裏切ったのはそっちだろ」
「お前さぁ、さっきからなんなの? あんまナメてっと、痛い目みんぞ」
「喧嘩は駄目だよ、喧嘩は! 争ってもいいことないよ! ラブ&ピースがこの世を救うんだから!」
「待たせたな、直美」
その時、茶髪で細身の男が近寄ってきた。イケメンではあるが、不良っぽい雰囲気が感じられた。
「あっ、マサくん! 遅かったじゃ~ん!」
男が現れた瞬間、猫撫で声へと変貌する金髪ギャル。
「悪い悪い。トイレ、結構混んでてさ。で、何? 知り合い?」
「ん~ん、知らなぁい。なんかいきなり絡んできてさ、困ってたとこなのぉ」
白々しい台詞を吐きながら、男と腕を組む金髪ギャル。わかりやすい女。
「なんか用があんなら、俺が話聞くけど」
あからさまな威圧感を孕んだ眼光を向けてくる。
直後、千晶ちゃんが急に歩き出す。
「あっ、千晶ちゃん!」私は彼女の後を追った。
少し前を歩く千晶ちゃんの背中からは、不機嫌と後悔が透けて見えるようだった。直接口には出さないが、来なきゃよかった、という感情がひしひしと伝わってくるようだった。
「………」
私もなんと声を掛ければいいのか判然とせず、ただ黙って付いていくことしできなかった。過去、あのギャルと千晶ちゃんとの間に何があったのか私は知る由もないけど、千晶ちゃんが他人を信じられなくなってしまった一因になったのではなかろうか。とにかく一つはっきりしていることがあるとすれば、私にとってあの娘は苦手なタイプだということ。
「お願いしま~す!」
その時、若い男性からポケットティッシュを手渡される。
「あっ、どうも」
反射的にそれを受け取ると、カラオケ館の割引券が挟まっていた。
「ねぇ、カラオケ行こうよ、カラオケ!」私は声高に提案する。
「……」
やはり先程の出来事が尾を引いているのか、千晶ちゃんは黙々と足を進めるだけ。
「とりあえずちょっとだけ寄ってみようよ! 歌ったら気分転換になるしさ!」
私は千晶ちゃんの手を握ると、強引にカラオケ館まで連行。当然千晶ちゃんは抵抗してきたが、見た目通り華奢でか弱いので楽に連れ込むことができた。
とりあえず1時間コースにして、店員に指定された部屋に向かう。他の部屋から漏れてくるお客さんのくぐもった歌声に包まれながら、通路を進んでいく。耳に入ってくるのは、一昔前の馴染み深いヒットソング。青春時代の記憶が否応なく胸中に去来した。
指定された部屋に入ると、ひとまず電話で飲み物を注文。リモコンで曲選び出す。
当時JKの間で流行っていたアーティストと言えば、浜崎あゆみとか倖田來未とか大塚愛。だけど、私が好きだったのはジュディマリ。アニメ主題歌で知ってからというもの、すっかり傾倒してアルバムは全部揃えたし、ライブにも通ったりしたもんだ。
活休すると知った時、ショックが大き過ぎてちょっとした拒食症になったりしたな。そのおかげで痩せたけど。いずれは再活動してくれることを切に願っている。
曲をリクエストすると、備え付けられたスピーカーからイントロが流れ出す。私が手始めに選んだ曲は、ジュディマリの代表曲として名高い『そばかす』だ。
「…で、どうだった?」
歌い終わり、ぶすっと頬杖をつく千晶ちゃんに感想を窺う。私としては上出来だった、と自負。だが、千晶ちゃんが次に述べた感想は、あまりに辛辣だった。
「…下手」
「…ですよねぇ」
それは自分でも自覚していた。昔から半音ズレてるとよく言われていたから。叩き出した75点という微妙な得点が全てを物語っている。でもさ、もっとオブラートに包んで欲しいよ、せめて。落ち込むよ?
「…でも、なんか熱意は伝わった」
私の心情を察してか、千晶ちゃんが評価を付け足す。
「そんなに言うなら、千晶ちゃんも歌ってみてよ」
マイクを手渡すと、千晶ちゃんは一瞬躊躇いを見せつつもそれを受け取る。
「…別にいいけど」
千晶ちゃんが選曲したのは、プリンセスプリンセスの『M』。
「っ…!」
意外な選曲にも驚かされたが、更に私が驚いたのはその歌唱力だった。力強くも耳障りが良く、クセのない透明感を孕んだクリアボイス。簡潔明瞭に表すならば、うめぇ! それもかなり!
「…まあまあだな」
液晶に映し出された得点を見て、千晶ちゃんは少々不満げに呟く。96点という高得点を出しておきながら。
「…ズルい」
「えっ…?」
「美人でスタイル良くて、その上歌も上手いなんてズルいよ! 不公平だよ!」
「な、何キレてんのよ」
「私にないモノいっぱい持ってんじゃん! 分けてよ!」
単なる嫉妬である。逆恨みも甚だしいけど、私の嫉妬心は爆発した。
「そんなの知らないわよ!」
「…あっ」
私はそこで重大なことに気付く。
「な、何よ?」
「私、千晶ちゃんに勝ってるとこあった」
「…ちなみにどこ?」
「胸…ぁたっ!」
答えた瞬間、頭を叩かれた。マイクで。
「っ~! マイクはヒドいよ、マイクは!」
殴打された箇所を押さえながら悶える。意識飛ぶかと思ったよ!
「アンタがいらないこと言うからでしょうが!」
千晶ちゃんが胸元を見られないように両手で覆い隠す。私も決して巨乳というわけではないが、人並みにカップはあった。ちなみにCである。
千晶ちゃんはというと、目測でAぐらい。確認しようものなら更なる折檻が待ってそうなので、口は噤んでおいた。
「お待たせ致しましたぁ」
そんな小競り合いを繰り広げていると、お盆を持った店員さんが室内に姿を見せた。
「遅くなってすみません。お飲み物をお持ちしました」
そう言って、店員さんは飲み物をテーブルに並べる。そして、「失礼しました」と部屋を出て行った。
「…ふんっ」
不機嫌そうに鼻を鳴らした千晶ちゃんは、運ばれてきたジュースに口をつける。室内が険悪な雰囲気に満たされる。
「…私、ちょっとトイレ行ってくる」
なんとなく居心地が悪くなった私は、部屋を出てトイレに向かう。とりあえず少し熱くなった頭を冷やそうと思った。私の方が圧倒的に大人なのに、さっきのは大人気なかったと反省してる。でも、学生時代の私なんてコンプレックスの塊だったもんな。鼻は低いし睫毛も薄くて、胴長短足だった。そのコンプレックスを補う為に色々と尽力した。メイクは勿論、スカートを短くしてルーズソックスを履いたり、と。今でこそルーズソックスは時代錯誤の絶滅危惧種に認定されているが、アレは足を長く見せる効果があったりするのだ。ちなみにだが、私は目にだけ自信がある。『藍子ってキレイな二重で羨ましい』と言われることがあったし、自分でも自慢できる唯一のパーツだ。
「…よし」
トイレに備え付けてある鏡で前髪を整えてから、私はトイレを出た。
「きゃ…!」
同時、タイミング悪くトイレの前を通りかかった人と接触してしまう。
「あっ、ごめん」
ぶつかってしまった相手が謝罪の言葉を述べる。男にしては長い髪は茶色で、耳にはピアスが光り輝いていた。一見していかにも軽薄そうな印象を抱く。一昔前のキムタクっぽさがあった。今の私よりは年上だと思う。
「こちらこそ、すみませんでした」
私はそう謝ってから、横をすり抜けようとした。だが、「ちょっと待って」と腕を掴まれた。
「な、なんですか?」
予期せぬ一挙に、私の警戒心が突発的に作動する。
「君って女子二人で来てるよね?」
「…そうですけど」
「俺達も二人で来ててさ。よかったら、一緒に楽しもうよ」
「それはちょっと…」
もしかしなくても、私ってばナンパされてる?
モテるのは普通に嬉しいが、相手があんまりタイプじゃない。それに、見知らぬ男を連れていけば、千晶ちゃんが嫌がるだろう。
「そんなこと言わないでさ。可愛いんだよね」
「そ、それはどうも」
面と向かって男の人から可愛いと評される機会は稀で、気恥ずかしくなった。悪い気分じゃない。
「帽子を被った方の娘。顔はよく見えなかったけど、絶対可愛いでしょ」
「さいなら」
「ま、待って待って! 君も十分可愛いからさ!」
「そんなとってつけたように言われても全然嬉しくない」
「そ、そんなこと言わずにさ! 今日のカラオケ代全額奢るから」
男性は手を合わせて懇願する。はっきり言って、全然信用できなかった。たった今出会ったばかりだし、風体がいかにも胡散臭い。今まで何人もの女の子を泣かせてきたの違いない。完全なる偏見だけど。
「いいです。なんか怖いし」後で身体を要求されそう。
「怖くない怖くない。俺ほど優しい人間は、この世にそうそういないよ。俺の身体の半分は、優しさで出来ております」
「…ちなみに残りの半分は?」
「下心」
「さいなら」
「ああっ、ウソウソ! 純粋にカラオケを楽しみたいだけ! いや、マジで!」
「……しょうがないなぁ」
千晶ちゃんのカラオケ代も私が支払おうと思っていたので大変助かる。
「いぇ~い! 皆、盛り上がってるかぁ!」
谷山くん(私に話し掛けてきたチャラ男)がマイク片手にテンション高く叫ぶ。声がデカ過ぎてハウリングしている。
「ちょっと、なんなのよ! あの男共は!」
そう怒りを露わにしているのは、言わずもがな千晶ちゃんだった。
「い、いや、なんか奢ってくれるって言われて…」
「アンタ、バカでしょ? 危ない男達だったらどうする気よ?」
「そ、それは…大丈夫だと思う」多分。
外見こそチャラいが、そこまで悪い人には思えない。
「何を根拠に言ってる訳?」
「根拠は…ないけど」
「頭、沸いてんじゃないの?」
「二人で何コソコソ話てんの?」
そう言って女子トークに無遠慮に割り込んできたのは、谷山くんの友達である河村くんだ。髪は黒く短めだが、どこかナルシスト感が漂う男。少し苦手な人種だ。
「な、何を歌おうか相談してて…」てゆーか、顔が近い。
「じゃあさ、僕とデュエットしようよ。僕がちゃんとリードしてあげるからさ」
無遠慮に肩に手を回され、背筋がぶるっと震えた。
結局、次は私と河村くんがデュエットすることになった。のはいいが、河村くんの歌い方のクセが強く、あまり集中して歌えなかった。ねっとり絡みつくような、納豆みたいな感じ。
私達が歌っている間、谷山くんが千晶ちゃんに執拗に絡んでいたが、案の定、千晶ちゃんは常時嫌悪感を放っていた。
「はい、お疲れさま」
席に戻ると同時、谷山くんがオレンジジュースを差し出してくれた。
「ありがと」
それを受け取りストローで啜ると、少し苦味を含んだ柑橘の香りが口内に広がる。
それからしばらく谷山くんの独壇場を眺めていると、段々と眠くなってきた。谷山くんの選曲がバラードのみという訳ではなく、むしろロックな曲ばかり。
確かに睡眠不足気味ではあるが、だとしてもこの喧しい状況下で眠くなるなんておかしい。瞼が鈍重で、意識の境目が虚ろになる。
「…おっ、利いてきたみたいだな」
谷山くんの何気ない発言に、違和感と不信感を抱く。利いてきたって何?
「こっちも利いてきたみたいだ」
河村くんの言葉に視線をずらしてみれば、千晶ちゃんが眠たそうに頭を上下に揺らしているではないか。
「完全に意識が飛ぶまで、もうちょっと待った方がいいかもしれないな」
「いや、もう我慢できねぇ」
言いながら、谷山くんが千晶ちゃんの隣に座る。何をする気なの? と怪訝に思ったのも束の間、谷山くんは千晶ちゃんの太ももに触れスリスリと撫で回す。
コイツ等、私達を襲う気だ。多分、ジュースに睡眠薬でも盛ったのだろう。最初からこれが目的だったのか。まんまと騙されてしまった。
「それじゃあ、僕はこっちにしよう。あまり好みじゃないけどね」
言うと、河村くんは私の隣に腰掛ける。ナルシストめ、失礼なこと抜かしやがって。なんて憤っている場合じゃない! 私達の清き純潔が汚されるピンチなのだ!
「顔は好みじゃないけど、意外と胸が大きいな。もしかしたら、挟めるかもしれない」
「何っ? 後で代わってくれ!」
クソが。何を挟む気だ。
「……」
意識が朦朧とする中、この窮地からの打開策を思案する。だが、凄まじい睡魔に屈しそうだ。ヤバい…かも。メチャ…クチャ眠…い…。
「さぁて、そろそろ脱がそうかな」
服を少しずつ捲らていくのが、感触でわかった。もちろん抵抗しようとするが、手足は重く自由が利かない。
この際、目が覚めるのならば手段は選んでいられない。私は思い切って舌先を噛んだ。ブチッと嫌な音が聞こえ、口内が鉄臭い液体で満たされる。だが、想像を絶する痛みで意識が覚醒。
「このクソったれぇ!」
ナルシスト野郎目が掛け、頭突きを繰り出す。
「ぐはっ…!」
額に私の頭突きがクリーンヒットしたナルシスト野郎は、床に倒れ伏す。そのまま沈黙。女子の頭突きで意識を失うとはなんて貧弱な。
「お、起きたんだね。ビックリしたよ、いきなり寝ちゃうからさ。ちょうど起こそうと思ってたんだ」
白々しいヤツめ。
「へぇ、起こそうとしたんだ、服を脱がせて」
「あ、汗をかいてたみたいだからさ! 着替えさせてあげようかと思って…あはは」
「このド変態がぁ!」
私は変態野郎を思い切り突き飛ばす。
「ぶへっ…!」そのまま部屋の側壁に激突し、ズルズルと床に倒れ込んだ。…死んでないよね?
私は眠ってしまった千晶ちゃんを肩に担ぎ、急いで部屋を出る。奴等が目覚める前に早く逃げなきゃ、と必死に歩を進めた。
「あら…?」
気付くと、眼前に千晶ちゃんの顔があった。
「あっ、えっ…?」
状況が把握できず、私は辺りを見渡す。すべり台や鉄棒、ジャングルジムといった遊具が設置されているのを見て、現在地がどこかの公園だと理解する。
「ジタバタしないでくれる? なんか不快だから」
「あっ、ごめん」妙に寝心地いいな、なんて思っていたけど、どうやら私は千晶ちゃんの膝枕で眠っていたらしい。
「…私、どうしてここにいるの?」
千晶ちゃんを担いでカラオケ店を出たところまでは覚えているが、そこから記憶がごっそり欠落している。
「突然倒れたから、私がここまで運んだの。かなり大変だった」
どうやら睡眠薬の効果がまだ続いていて、途中で倒れてしまったのだろう。
「あ、あの二人は…?」
「知らない。まだカラオケ店で気絶してんじゃないの?」
「千晶ちゃん、あの時起きてたの?」
「身体は動かなかったけど、意識はかろうじてあった。あのロン毛が飲み物をやたらと薦めてくるからちょっと怪しいと思ってたんだ。だから、一応飲んだけど、少しだけにしといた。少しだけでもあんだけ利くんだから、かなり強力な薬だったみたいね」
「そ、そっか…。ゴメンね、私の所為で危険な目にあって…」
「ホントそれ。藍子と関わるようになってから、ロクなことない」
「えっ…?」
「何を驚いてんのよ? ホントのことじゃない」
「あっ、いや、そっちじゃなくて。今、藍子って呼んでくれたよね?」
私の聞き間違いでなければ、千晶ちゃんは私のことを名前で呼んでくれた。いつもなら『アンタ』なのに。初めてのことだった。
「あっ、い、今のは違う! ちょっと口が滑っただけ! てゆーか、そもそもアンタの名前知らないし!」
途端に狼狽える千晶ちゃん。…最後の一文は地味に傷付くよ。
「も、もう起きたんなら、早くどきなさいよ!」
「もうちょっとだけ千晶ちゃんの膝枕を味わっていたいな、なんて」
「……ちょっとだけだからね」
てっきり強制的に下ろされることを予期していたので、少し面食らう。
「…千晶ちゃんってさ、清水くんのこと、」
そこまで言った瞬間、身体が宙に投げ出された。
「ぶへっ…!」
重力に伴い落下し、地面に背中を打ちつける。
「にゃ、にゃにしゅんの…」
「…颯斗」
呆然とする千晶ちゃんの視線を辿ってみると、見知った横顔があった。清潔感のある黒い髪、整った目鼻立ち。清水くんだ。よく見れば、誰かと談笑しているではないか。
「んなっ…!」思わず目を見張る。一緒にいる人物が見知らぬ女子だったからだ。
ミディアムぐらいの黒いストレートヘアー、小動物のような愛らしい双眸。結構可愛い。まさかドタキャンの理由は、あの娘と出掛ける為だったのだろうか? もしかしなくても彼女?
「…帰る」
千晶ちゃんは清水くん達から遠ざかるように、突然逆方向に歩き出す。
「ま、待って!」私は千晶ちゃんの腕を掴む。「まだ彼女だって決まった訳じゃない。尾行して確かめてみようよ」
「……」
「あとさ、文句言ってやろうよ。私達みたいな美少女をほっといて、別の女と遊ぶなんてふざけんな! って」
「…私は一発ひっぱたいてやらないと気が済まない」
それは賛同の意に捉えられた。
「そうと決まれば、清水くん達を尾行しよう。作戦名は『清水くんの連れてる娘が彼女か否か確かめる作戦』ってことで」
「…そのまんまだし」
こうして私達は、清水くんの後を追跡することになった。前方には楽しそうに会話する二人の姿。手は繋いでいないみたいだが、距離感はかなり近い。肩が触れそうで触れない絶妙な距離感。なんか悪事を働いているみたいでドキドキする。浮気調査をする探偵さんの気持ちは、こんな感じなのだろうか…。
「何話してんだろ?」
ターゲットに気付かれない為、10メートルぐらいの距離を保っているので会話の内容は不明。
「…今日はわざわざありがとうございました」
「へ…?」
「先輩とこうして出歩けるなんて、夢みたいです」
「ち、千晶ちゃん、もしかして声が聞こえるの?」
「違う。口元をよく見て、言葉を解読してるだけ」
それっていわゆる読唇術というものでは…。
「す、スゴいね」
「別に。他人の口元をよく観察すれば、こんなの簡単」
清水くんを先輩と呼称していたということは、相手は後輩だと推測できた。どおりで知らない訳だ。
私も千晶ちゃんに口授された通りに口元を注視するが、一言たりとも解読できなかった。
まず最初に二人が向かった場所は、当時かなり流行していたスイーツ店。その中でも特に大人気だったのがマカロンだった。今でこそブームが去ってしまったマカロンだけど、当時は新食感のお菓子として女子達の間でめちゃくちゃ流行っていたのだ。
店内に入れば私達の存在が露見するかもしれないので、店外のガラス張りの壁から中を覗く。端から見れば不審者丸出しだが、この際手段は選んでいられない。
清水くんと後輩ちゃんはショーケースに並ぶ様々なお菓子を眺め吟味している。こういっちゃなんだが、客観的に見てお似合いの二人だな、と思った。爽やかイケメンと可愛い美少女がスイーツを選んでいる様子は、少女漫画の一場面のようにも見えた。
ようやく買い物を終えた二人が店から出てくる。私達は電柱の影に身を潜め、二人の後ろ姿をジッと見据える。すると二人は、お店の近くに設置してあったベンチに並んで座った。そして、先程買ったお菓子の袋を取り出す。どうやら外で食べるらしい。
何気なく千晶ちゃんの横顔を一瞥。眉間に皺を寄せ目を細めており、明らかに不機嫌なのが滲み出ていた。
二人は早速買ったお菓子を食べ出す。すると、後輩ちゃんが清水くんの食べていたマカロンを指差し何かを喋る。そして何を思ったか、目を瞑って口を開いた。どうやらねだっているらしい。
清水くんは一瞬の逡巡を挟んだ後、食べかけのマカロンを後輩ちゃんの口に入れ込んだ。咀嚼した後輩ちゃんは、笑顔の花を咲かせる。
お返しとばかりに後輩ちゃんが食べかけのマカロンを清水くんに差し出す。清水くんはマカロンと後輩ちゃんの顔を交互に見て躊躇いを見せる。そりゃ恥ずかしいだろう。人々の往来がある街中でア~ンをし合うなんて。
遠目からだと確認し難いが、後輩ちゃんが切なげな表情を浮かべたように見えた。一度、自分の髪をポリポリと掻いた後、観念したように清水くんは口を開いた。
刹那、千晶ちゃんが動き出す。恋人同士のようなシーンを繰り広げる二人に向かって、千晶ちゃんはズンズン猛然と近付いていく。引き止める隙もなく、私も後を追った。
「ちょっと颯斗!」
「うおっ! な、なんで千晶がここに…って、松永も…」
困惑を隠せない様子の清水くん。
「アンタ、私達との約束ほっぽりだして、そんな女と遊ぶなんてどういうことよ!」
開口一番、千晶ちゃんは清水くんに怒声を浴びせかける。
「私、どこの馬の骨かもわからない女なんて認めないから!」
憤懣やるかたないといった様子で千晶ちゃんが怒りの矛先を彼女に向ける。
「ひっ…!」怯える後輩ちゃん。
「お前、何か勘違いしてないか? 俺と真希はそんな関係じゃないからな」
「真希? 随分と親しげじゃない。呼び捨てにしておいて、何もないって言う訳?」
「そ、それはコイツが下の名前で呼べっていうから。とにかくお前が思ってるような関係じゃないのは確かだ」
「公衆の面前でマカロンを食べさせ合ってイチャイチャしてたくせに言い訳すんな!」
「み、見てたのか…。つーか、真希は単なるサッカー部の新しいマネージャーなんだよ。最近、引っ越してきたから、街を案内してくれって頼まれただけだ。なぁ?」
問われた真希ちゃんは、「は、はい」と頷く。
「そうやって誰にでも優しさを振り撒くから、変な勘違いした女が増えてることわからないの? この女たらし!」
彼女ではないとわかっても尚、千晶ちゃんの怒りは鎮まるどころか更なる加熱を見せる。
「はぁ? 誰が女たらしなんだよ!」
「アンタに決まってんでしょ!」
「つーか、俺が何をしようがお前に関係ねぇだろ!」
気付けば舌戦へと発展しており、いくつもの好奇の視線が私達に突き刺さっていた。
「いつも余計な口出ししやがって、お前は俺の母親かよ! いい加減ウンザリしてんだよ!」
清水くんがこんなに感情的になっている姿、初めて見たかもしれない。
「私は颯斗のことを思って言ってあげてるの!」
「それが余計なお世話だって言ってんだよ! それぐらい気付け馬鹿!」
「っ…!」
下唇を噛み締めながら、清水くんを睨み付ける。その双眸にはうっすらと涙が滲んでいた。
「もういい…颯斗のバカっ!」
そう最後に叫んだ千晶ちゃんは、踵を返して疾走。
「あっ、千晶ちゃん!」反射的に追走する自分がいた。
人波を器用に縫いながら、千晶ちゃんは一目散に走る。その後を必死に追い掛けるが、なかなか追いつけない。てゆーか、速い!
「千晶ちゃん、ちょっと待って!」
遠ざかる千晶ちゃんに向かって手を伸ばすが、その背中に触れることは出来ない。向かい風の影響か、千晶ちゃんの被っていた帽子が宙を舞い地面に落ちる。拾って顔を上げた時にはもう、千晶ちゃんの姿はなかった。
翌日の朝、私は真っ先に二組の教室に向かった。だが、千晶ちゃんの席には誰も座っておらず、寂寥感が漂っていた。だ登校していないだけかもしれないが、どことなく胸の辺りがザワザワしていた。
自分の教室に入ると、清水くんの姿を見つける。
「清水くん、ちょっといい?」
友達と談笑していた清水くんに声を掛ける。
「お、おう、松永」
私の顔を見た瞬間、気まずそうに清水くんは目を逸らした。
「この間はスマン。なんかダサいところ見せちまったな」
「気にしないで。それより千晶ちゃんがまだ来てないみたいなんだけど、何か知らない?」
「アイツが遅刻寸前なんて珍しいな」
「あの後、千晶ちゃんとは話したの?」
「いや、話してない。一応、電話したけど出ないんだよ、アイツ」
「…そっか」
釈然としないまま、やがて授業開始のチャイムが鳴った。結局、千晶ちゃんが登校してくることはなかった。
「あっちゃん、なんか元気ないね。どうかしたの?」日菜ちゃんが私の異変に気付く。「せっかく今日はお昼ご飯一緒だから、日菜、嬉しいのに」
いつもなら待望の昼休みも、千晶ちゃんのことが気掛かりで私は元気がなかった。
「どうせ生理でしょ?」
優雅なランチタイムに相応しくない単語を述べた不届き者に平手という制裁。
「ぁたっ…!な、何をするか貴様…」
「アンタが変な単語を口にするからでしょうが」
「ふんっ、どうせまた三井さんのことでしょ」
「そ、それは…まぁ、そうなんだけど。今日、学校に来てないみたいなんだよね」
「私達のことはほっといて、あの娘のことばっかり。前も二人で遊んでたみたいだし。私達の友情はどうでもよくなったのかぁ!」
「え? あっちゃん、日菜達のことどうでもよくなったの?」
日菜ちゃんがうるうる潤んだ目を私に向ける。
「そ、そんな訳ないでしょ。こうして一緒にお昼ご飯食べてるじゃん」
「結局、私達は三井さんの代わりでしかないってことじゃんかよ」
「日菜、あっちゃんのこと大好きなのに…」
「わ、私、ちょっとトイレ行ってくるね」
居心地が悪くなった私は、面責から逃げるようにして教室を抜け出す。その際、「あっ、この卑怯者!」と優希の非難する声が背中に刺さったが、聞こえない振りをした。
確かに二人の方が付き合いも長く仲良いけど、今は千晶ちゃんの方が気になって仕方なかった。
やっとのことで放課後を迎えたのはいいが、一つの問題が私の前に立ちはだかった。千晶ちゃんの自宅の場所がわからない。前に一緒に帰った時は、結局途中で別れたからな。
誰かに教えて貰えばいいけど、クラスで孤立していた千晶ちゃんに私以外に友達がいるとは思えない。…いや、一人だけ該当する人物がいた。
「ねぇ、清水くんにとって千晶ちゃんってどんな存在?」
学校から千晶ちゃんの家に向かう道中、私は何気ない質問を投げ掛けた。千晶ちゃんの自宅を教えてもらおうと部活中の清水くんに声を掛けると、『部活が終わってからでもいいか』と言われ今に至る。
「…単なる幼なじみかな。あんま深く考えたことない」
「掘り返すのも申し訳ないけど、二人は喧嘩とかよくする感じなの?」
「たまに。まぁ、手を上げるほどの喧嘩はないな」
「仲が良いほど喧嘩するって言うもんね」
「それよりさ、何気に二人きりで歩くの初めてだよな」
「………」
そんな指摘をされ、急に緊張感が込み上げた。確かにそうだ。今、クラスの中でもイケメンで女子人気が凄まじい清水颯斗くんと一緒に歩いている。他の女子達にこの現場を目撃されれば、私はクラス中の女子から妬まれ指弾されることだろう。
「そ、そうだっけ?」私は動揺を隠せなかった。だけど、私の方が遥かに年上なんだ。10代半ばの少年に大人の私が緊張してどうするんだ! と自分に一喝。
「そうだよ。過去にあったとしたら、俺が忘れる訳ないだろ」
「し、清水くんって記憶力いい方?」
「そこそこかな。つーか、そもそもあんまり話したことないじゃん」
「まぁ、私と話したとしてもメリットないもんね」
「そんなことねぇよ!」急に語気を荒げる清水くん。
私が驚き固まっていると、「あっ、いきなりすまん…」と謝られる。
「……」
どことなく気まずい雰囲気が、私達の間に無遠慮に割り込んでくる。
「…松永ってさ、恋愛とかに興味ないのか?」
「え? な、何? いきなり…」
脈絡もなく予想外の質問を投じられ、私は激しく狼狽した。
「あっ、いや、別に深い意味はなくて。そ、素朴な疑問」
な、何を口走ってんだ、俺は…という思考が表情から読み取れるようだった。
「私だってこれでも一応女子だからね、興味がないってことはないよ。ただ、チャンスがないっていうか…」
高校生の時の私は、かなり奥手だった。振られたり失敗することを恐れて、前に進めないまま青春時代を終えてしまった。
でもそれは、好きな人がいなかったから…と言えば嘘になる。私だってクラスの人気者である清水くんに好意を寄せていた時期もある。だけど、私には無理だ、私には釣り合わない、という負の感情が働いて、無意識に恋愛対象から外していたのだ。
「チャンスなんてそこら辺に転がってんじゃん」
「そ、そうかな?」
「松永って明るくて友達も多いし、性格も曲がってないしさ。顔も結構可愛いじゃん」
「か、可愛い…? わ、私が? またまたご冗談を」
正直、可愛いとか言われ慣れてなくて、私は素直に受け入れられなかった。年配の方からはたまに可愛いと言われることはあったが、基本的に同世代から可愛いと言われることは少なかった。
姉妹で比べられることが常で、圧倒的に妹が絶賛されることが多かった。自分から見てものっぺりしてると思ってるし。
「わ、私なんて可愛くないよ」
自ら否定するのも悲しいけど、自分がそこまで可愛くないのは自覚していた。
「周りがどう見えてるかは知らないけど、俺は愛嬌のある顔だと思うけどな」
確かにご老人からは、愛嬌のある顔だねぇ、と評されるけど…。
「俺さぁ、実は前から松永のこと、」
「あら、颯斗くんじゃない」
清水くんが何かを言いかけた時、一人の女性が声を掛けてきた。私には希薄な大人の雰囲気を醸し出す女性で、茶色の長い髪が特徴的なかなりの美人さんだ。どことなく既視感を抱く顔付きだった。
「あっ、どうも」清水くんが軽く会釈をする。
「学校の帰りかしら?」
「はい、そうです」
「こんな時間まで部活頑張ってるのね。偉いわねぇ」
清水くんに優しく微笑みかける女性。
「目標は県大会優勝なんで」
「ん? そっちの娘は…まさか颯斗くんの彼女?」
そこでやっと女性は私の存在に気付く。
「いや、今は単なるクラスメートです」
今は…?
「そういや紹介してなかったな」私が疑問符を浮かべていると、清水くんが女性の素性を明かす。「この人は千晶の母親だ」
「あっ、千晶ちゃんのお母さんだったんですか!」
どうりで誰かに似てると思った。千晶ちゃんのお母さんだったのか。
「私は松永藍子っていいます。千晶ちゃんの友達です」多分…いや、一応。
「あら、あの娘に颯斗くん以外にお友達なんていたのね。驚きだわ」
口元に手を置いて大袈裟に驚く千晶ちゃんママ。
「えっと、今から家に向かおうと思ってたんですけど、千晶は家にいますか?」
清水くんの言葉を聞いた途端、千晶ちゃんママの表情が明瞭に陰る。
「いることにはいるんだけど、昨日、家に帰ってきてから元気ないのよね、あの娘。ご飯も全然食べないし。理由を聞いても教えてくれないのよ。颯斗くん、何か知らない?」
「すみません、俺の所為です。些細なことで喧嘩をしてしまって…」
「そうだったのね。思春期なんだもん、喧嘩ぐらいするわよ」
「心配させてしまってすみませんでした」
「私、颯斗くんには感謝してるのよ。あの娘、颯斗くんがいなかったら、高校にも通ってないと思うし。あの一件がよっぽどショックだったみたいだし…」
あの一件、という言葉に疑問を覚えたが、どこか容易に踏み込んではいけないような気がして…。
そして到着した千晶ちゃんの自宅は、二階建ての立派な一軒家だった。
「どうぞ遠慮しないでくつろいでいってね」
柔和に微笑みながら、千晶ちゃんママが私達を招き入れる。
ほぉ、ここが千晶ちゃんの家か…と失礼を承知で周囲を見渡す。
「…ん?」玄関にある靴箱の上にあったフォトフレームに目を奪われる。幼少期の千晶ちゃんだと思われる小さな女の子が、若くて精悍な顔付きの男性と手を繋いで写っている。てゆーか、小さい頃の千晶ちゃんがやたらと可愛い。ドラマやCMに出演していると言われも信じてしまうほどの可愛いさだ。一家に一人は欲しい。
「あっ、その写真の千晶ちゃん可愛いでしょ?」
千晶ちゃんママが私の視線に気付いて、我が子を賞賛する。
「あっ、はい。めっちゃ可愛いです、持って帰りたいぐらい」
「あはは、アナタ、面白いこと言うわね」
「こっちの方はお父さんですか? イケメンですね」
「カッコいいでしょ? 学生の頃なんてモテモテだったんだから。今の颯斗くんみたいに」
「お、俺は別にモテモテじゃ…」
「またまた謙遜しちゃって。キャーキャー言われてるクセにぃ」
千晶ちゃんママが肘で清水くんをつつく。
「この頃がこんなにカッコいいんだったら、今ではかなり渋くなってそうですね」
『渋くなんてなってないわよ。頭もすっかり薄くなっちゃって、もう普通のおじさんよ』
みたいな返答を予想していたのだけど、千晶ちゃんママが次に述べた言葉は、私を酷く後悔させた。
「そうね…今でも生きてたら、渋くなってたのかしらね」
その一文だけで、私は現状を理解した。千晶ちゃんのお父さんがすでに亡くなっていることを…。
「ご、ごめんなさい! 私、何も知らなくて…」
「気にしないで。もう10年も前のことだから」
そんな切なそうな笑顔をされたら、説得力に欠ける。
千晶ちゃんの部屋は二階にあるようなので、私と清水くんは階段を上がっていく。
「あんまり気にすんな」
階段を上がっている途中、清水くんがそんな言葉を投げ掛けてきた。
「え…?」
「親父さんのことだよ。知らなかったんだから、仕方ないだろ。まぁ、俺が言える立場じゃないけどさ」
「あ、ありがと」
励ましの言葉に、私の心は少し軽くなった。
千晶ちゃんの部屋だと思われる扉の前で清水くんが足を止める。生活音は一切聞こえず、静寂だけが私達を包み込んでいる。清水くんがコンコンと二回ノックするも、返送されてきたものは沈黙。本当にいるのだろうか?
「千晶、いるんだろ?」
清水くんが声を発した瞬間、室内でガタガタと大きな物音が鳴った。
「入るぞ」
清水くんが無許可でドアを開け放つ。
「「…あっ」」私と清水くんの声が寸分違わず重なる。千晶ちゃんは部屋の中にいたが、窓から身を乗り出そうとしているではないか。
「お、おい、何をする気だ!」
清水くんが叫んだと同時、千晶ちゃんは窓から投身。
「きゃあ!」反射的に叫び声を上げてしまう。真っ先に清水くんが窓の方へと走る。最悪の事態を想定しながら、私も窓の方へと急いで駆け寄る。
「…っ!」窓の下を覗いて驚く。千晶ちゃんはカーポートの屋根に乗っていた。そのまま飛び降りゴロンと華麗に受け身をして見事地面に着地。
「何してんだ、あの馬鹿。忍者かよ」
清水くん、千晶ちゃんは女子だから、くの一の方が適してるよ。…今はそんなのどっちでもよくて!
「俺、アイツを追い掛けるから、松永はここで待っといてくれ!」
「ま、待って! 私も一緒に行く!」
先行する清水くんの背中に付いて行く。階段を駆け下り急いで靴を履いて玄関を飛び出すも、すでに千晶ちゃんの姿は遙か彼方。だけど、追いつけない距離じゃない。私は疾走する清水くんの横に並ぶ。
「ま、松永、お前、足速いんだな」
清水くんが驚いた顔を見せる。
「い、一応、私の唯一の長所だから」
足だけは何故か昔から速かった。特に陸上部に所属していた訳じゃないし、自主トレに励んだ訳でもない。天賦の才能というか、子供の頃から同級生相手には負け知らずだった。まぁ、短距離に限るけど。
そこら辺の男子よりも速くて、よく運動会や体育祭でもアンカーを任されたり。『アンタの唯一の取り柄だね』なんて、よくお母さんに揶揄されてたもんだ。
どうやら千晶ちゃんはそこまで速くないらしく、徐々に距離が縮まってきた。
千晶ちゃんとの距離が10メートル付近に差し掛かった時、千晶ちゃんが横断歩道の手前で急にしゃがみ込んだ。もしかして怪我したんじゃ、という懸念が膨らむ。窓から外に出た千晶ちゃんは裸足だったから。
「おい、千晶!」
私達が近くに迫ってきたことに気付いた千晶ちゃんは、ふらふらしながらも立ち上がった。
「待てよ!」清水くんが千晶ちゃんの腕を掴んで止める。「なんで逃げんだよ?」
「やっ、離して!」
ジタバタ藻掻き必死に抵抗する千晶ちゃん。
「とりあえず話し合おうぜ。な?」
刺激しないように、穏やかな口調で清水くんが説得する。
「いいから離してってば!」
清水くんの手から逃れようと千晶ちゃんが自身の腕を引っ張る。
「あっ…!」
瞬間、両者が引っ張りあった反動で千晶ちゃんが道路に投げ出された。
視界に入る歩行者の信号は赤。不運は続く。大型のトラックが目の前の道路を通りかかる。青信号なのでスピードを緩める気配はない。
「えっ…?」
私の横を過ぎ去る影。清水くんだった。勇敢にも千晶ちゃんを助けようと飛び出したのだ。
――清水くんが死ぬ。
悲惨な末路が脳裏を過ぎる。12年前のあの記憶が否応なく去来した。私の眼前で車に轢かれ亡くなってしまった清水くんの姿が。
同じ結末を繰り返してはいけない、そう直感的に思った。
気付けば私は道路に飛び出していた。そして、二人の背中を力の限り押した。清水くんと千晶ちゃんは体勢を崩しながら、横断歩道の向かい側手前で転倒し難を逃れた。ほっ、と安堵したのも束の間、次に自分が危機に晒されていることを思い出す。
だけど、どうしようもない。二人が無事なら、それでいいよね…?
「はっ、はっ…」
呼吸が著しく乱れ、動悸が顕著に激しくなる。し、死んだかと思った。
「死にてぇのか!」
トラック運転手は私達に怒声を浴びせかけると、そのまま走り去っていった。
轢かれる寸前、清水くんが私を引き寄せてくれ難を逃れられた。
「あ、ありがと、清水くん」
「俺も助かったよ。松永が押してくれなかったら、ヤバかった」
千晶も大丈夫か? と清水くんはしゃがみ込む千晶ちゃんの肩に手を置く。
「…さい」
「「え?」」私と清水くんは同時に聞き返す。
千晶ちゃんは何かを呟いたようだが、虫が鳴いたようなか細い声量でよく聞き取れなかった。
「ごめんなさぁい!」
力一杯叫ぶと、両目から滂沱の涙を流しながら子供のようにワンワン涕泣。
「あっ、え…?」
あたふたと私が当惑を極めていると、清水くんがそっと千晶ちゃんを抱き締める。
「大丈夫だから。ちゃんとごめんなさい出来た、千晶は偉いよ」
お母さんが小さな子をあやすように背中を優しくさすり慰撫する。やがて、千晶ちゃんは泣き疲れてぐっすり眠ってしまった。そのまま放置する訳にもいかないので、清水くんが背中におぶって千晶ちゃんを家まで運ぶことに。
「迷惑掛けてすまん」
来た道を戻っていると、清水くんが謝罪の言葉を口にする。
「全然迷惑じゃないよ。それよりビックリしちゃった、千晶ちゃんがあんなに泣くなんて…」
「たまにあるんだよな、さっきみたいなこと。精神的に追い詰められたら、あんな風になっちゃうみたいなんだ」
「…そうなんだ」
「別に病気じゃないと思うから、安心してくれ。普段、気丈に振る舞っているように見えるけど、結構傷付きやすいんだよ、コイツ」
言うと、清水くんはズレ落ちた千晶ちゃんを背負い直す。
「…私、千晶ちゃんと関わらない方がよかったのかな?」
「…なんで?」
「私といることで嫌な気分になってるんじゃないかなって。好きでもない人と無理やり一緒にいても、苦痛なだけじゃん」
実際、私は人付き合いが円滑にいかなくて、OLを辞めた。この人苦手だなって思うと、私はあからさまに態度に流露してしまう。
それが相手に伝わってしまうと、相手もまた私を嫌いになる。その対象が上司だった。私が後輩という立場にいることを利用して、面倒な雑務や雑用を押し付けられた。まぁ、いわゆるパワハラというもの。
最初こそ怒りを押し殺し嫌々仕事をこなしていたが、周りからは勤務態度が悪く見えたらしく、私の居場所はどんどん端へと追いやられ気付けば孤立を与えられていた。ある時、我慢の限界を迎えてしまい、その上司に辞表を叩きつけてやった。『これで少しオフィスが広くなるな』なんて抜かした上司をぶっ飛ばしたくなった。それが血気盛んな学生時代ならば今までの鬱憤をその場でぶちまけていたかもしれないが、私はすでに大人になっていたからグッとこらえた。年齢を重ねる度に、感情は抑制しなければならないことを自然と学んでいくのだ。
「本当に嫌ってる相手なら、とことん突き放すと思うんだよな。だから、松永は千晶に少なからず好かれていると思うんだ」
「そ、そうかな…」だったら嬉しいけど。
「…コイツさ、中学の頃、イジメられてたみたいなんだ」
「え…?」
思いがけない一言に、私の思考は一瞬止まる。
「クラスの女子達からハブられてたみたいなんだ」
「ど、どうして?」
「詳しくは俺も知らないんだけど、どうやらクラスで目立ってた女子の反感を買ったみたいでさ」
「…その目立ってた女子って直美って娘?」
「あれ? なんで知ってるんだ?」
点と点が結ばれたような気がした。
「前にね、千晶ちゃんと一緒にいた時バッタリ会っちゃって。千晶ちゃんは話したくないみたいだったから、深くは追及しなかったんだけど…」
「そうなんだ…。噂によると、なんか俺が関係してたみたいなんだよな」
「もしかして、直美って娘から告白されたりした?」
「な、なんでわかったんだ?」
「…女の勘ってヤツかな」
私はなんとなく事情を把握した。清水くんを好きだった直美という娘は、当時から清水くんと仲が良かった千晶ちゃんを介し彼に近付こうとした。都合良く千晶ちゃんと友達の振りでもしていたのだろう。
告白したが結局断られてしまい、腹いせに千晶ちゃんに全ての責任を押し付け八つ当たりした。ありもしない千晶ちゃんの悪評を喧伝したのか、はたまたクラスでの権力を駆使し女子全員に命令したのか…。それはわからない。でも、あながち間違っていないと思う。
一つだけ確実なことがあるとすれば、その出来事がキッカケで千晶ちゃんは他者との交流を拒むようになった。友達だと思っていた人物に裏切られた傷は、彼女の心に深く刻み込まれたのだ。
いつか裏切られるんじゃないかと猜疑し、自分の周りに自ら強固な壁を築き上げた。精神が不安定になり、子供のように泣き叫ぶのもそれが関係しているのかもしれない。
私は悔しくなった。もし私が千晶ちゃんと同じクラスだったならば、絶対に庇ってあげていたのに…。
「…あっ」
千晶ちゃんの自宅に到着する寸前、清水くんに背負われていた千晶ちゃんが目を覚ます。
「な、なんで私、颯斗におんぶされてるの?」
「あ? あ~…お前が走ってる途中に転んで気絶したから」
清水くんが嘘を交えて現状の説明をする。なにやら記憶がないらしい。
「グッモーニン、千晶ちゃん」
「げっ…」私の顔を見るなり、渋面となる。「颯斗、降ろして!」
「お、おい、暴れんな!」
「いいから降ろしてってば!」
ポコポコ清水くんの背中を叩く千晶ちゃん。どうやら恥ずかしがっているらしい。
「わかった! わかったから暴れんな!」
要望通り清水くんが千晶ちゃんを地に降ろす。
「ぃた…!」瞬間、苦痛に美貌を歪める千晶ちゃん。
「転んだ時に足首を捻ったんだよ。あんま無理すんな」
「別にこんなの全然平気だし」
千晶ちゃんは右足を少し浮かすようにしながらも、自力でひょこひょこ歩く。
「この間はごめん」
清水くんの謝罪の言葉に、千晶ちゃんは立ち止まる。
「俺が悪かった。理由はどうであれ千晶達との約束をドタキャンして、女子と一緒にいたことは事実だしな」
「…ふ、ふんっ、しょうがないから、許してあげるわよ。次ドタキャンなんかしたら、承知しないんだから」
そう言い残し、千晶ちゃんは拙い足取りで家の中に入っていった。
これって万事解決でいいんだよね…?
「なぁ、明日って何か用事あったりするか?」
千晶ちゃんの家からの帰り道、清水くんが私のスケジュールを確認してきた。
「明日? 別になんもないけど」
「じゃあさ、祭り一緒に回ろうぜ」
「あっ、もうそんな時期か」
7月の終わりに地元で毎年お祭りが催される。地域が開催するお祭りなのでそこまで規模は大きくないが、地元の子供達や中高生が集い結構賑わっていた。一人暮らしを始めるようになってからは、数年間ご無沙汰だ。
「…でも、なんで私?」
そんなの下心を期待してしまうじゃないか。清水くんが、実は私を好きなんじゃないかって…。だけど、思い上がっていらぬ恥をかきたくないから、過度な期待はしない。
「前にドタキャンした時の罪滅ぼしみたいな感じ。それと、千晶が世話になってるから、そのお礼も兼ねてさ」
「…わかった、いいよ」
そういう理由なら、と私は承諾する。
『お前のことが好きだから』
なんて、ほんの少し期待しちゃったのはここだけの話。
「お姉ちゃん、そろそろ用意…ってもうしてるじゃん」
お祭り当日の夜、おばあちゃんから譲り受けた浴衣に着替えて姿見の前で最終チェックをしていると、妹の琴子が部屋に入ってきた。
「どう? 似合ってるでしょ?」自慢げに両手を広げて感想を窺ってみる。
「馬子にも衣装」
「にゃ、にゃんだと…?」
「てゆーか、左右逆だから、それ」
「え? そうだっけ?」
浴衣なんて数年ぶりに着るから、そんなのわざわざ覚えていなかった。
「左前は縁起悪いんだよ。早死にするとか言われてるの」
「何それ怖い」
「私が直してあげる」
そう言うと、琴子は私の浴衣を直すべく脱がしきた。
「あっ、いやん。えっち…」
「キモい」
「キモいゆーな」
「本当は普通のパンツより、Tの方がいいんだけどね」
「なして?」
「下着の跡が浮き出るから」
「Tなんて持ってないし」
成人後、背伸びして大人パンツに手を出したこともあるが、ほとんど穿く機会も勇気もなくタンスに仕舞ったまま。すぐに食い込むし、なんか落ち着かないんだよね。
「ノーパンっていう手もあるよ」
丁寧に着付けしながら、琴子が至極簡単な案を提言してきた。
「ああ、なるほど。それならパンツの跡が浮き出る心配もないよね…ってそんなことするかいっ!」
「見事なノリツッコミどうも。なんなら私が持ってるの貸してあげようか?」
「えっ? なに? もしかして持ってんの?」
「一応ね。細見のジーパンとかスキニー穿く時とか使ってる」
知らぬ間に琴子は成長していたというのね。私より断然大人やないかい。
「…じゃあ、借りよっかな」
ノーパンよりマシだと思った私は、妹のTバックを借りることにした。
「それより、私になんか用だった?」
「今年のお祭りは、一緒に行こうって約束してたじゃん」
「…初耳なんだけど」
「本当なら友達と約束してたんだけど、その娘に彼氏が出来たから一緒に行けなくなったって連絡があったの。だから、今年はお姉ちゃんが付き合ってくれるって言ったじゃん。ほんの数日前に話したばっかだよ?」
「あ、あははっ、すっかり忘れてた。めんごめんご」
そういえば過去にそんな出来事もあった気がする。あまりに些細なことだから、今の今まで綺麗に失念していた。
「お姉ちゃん、マジで忘れっぽいよね。この前もお弁当忘れていったし。わざわざ届けなくちゃいけない、私の身にもなってよね」
「め、面目ないっす」
「まぁ、林檎飴で許してあげる」
「…ごめん。私もちょっと別に約束がありましてですね」
「この裏切り者!」
「す、すいやせん!」
「…あっ、もしかして前に言ってた男子とだったり?」
「えっと…まぁ、そんな感じ…」
私の言葉を聞いて、「なぁんだ」とニヤニヤからかうように微笑む琴子。
「それならそうと早く言ってよ。邪魔できないし、私は紗月ちゃん達を誘ってみることにする」
相手が男だとわかった途端、容易く引き下がる琴子。物分かりのいい空気を読める妹を持って姉として誇らしいが、本音を言えば同行して欲しかった。
前に清水くんと二人きりになったシチュエーションはあったけど、これはまごうことなきデートなのだ。緊張して何か粗相をしでかさないか、私は自分自身が心配だった。
とにかく居心地が悪い。待ち合わせ場所であるお祭り開催地の神社に繋がる階段の下、私はソワソワと落ち着きがなかった。穿き慣れないTバックなるものを着用しているからだ。当たり前だが、布面積が少なく心許ない。これならむしろノーパンの方がよかったんじゃ、とさえ思えてくる。
「ちょっとそんなに走ったら転ぶわよ!」
そんな声と共に、私の隣を小さな男の子が横切った。神社に繋がる階段を駆け上がっていく。少し遅れてさっきの子のお母さんらしき女性が、男の子を追い掛けていった。
境内からはうるさくも心地良い喧騒が断続的に聞こえてきて、私の感情を揺さぶってくる。お祭りに参加することがすごく久し振りだった。お祭りと聞いて雀躍していた心も、大人になるにつれ騒がしい場所や人混みを敬遠するようになっていた。テーマパーク、夏の海、ライブ会場とか。
行くのが面倒だという側面もあるけど、人目が苦手になっていた。そもそもそんなに自分に自信があった訳でもないし、服装も機能性を重視した決してお洒落とは言えない服を好んでいたから。気付けば、加齢に伴いお洒落に気を使わなくなっていったのだ。そんなこともあってか、人混みはなるべく避けるようになった。
「松永…だよな?」
突然話し掛けられ、意識が現実に引き寄せられた。
「し、清水くん…」がそこにいた。
Tシャツ、ジーパンというラフな出で立ちながら、爽やかな雰囲気は健在である。
「一瞬、誰かわかんなかったわ」
「へ、変…かな?」
「いや、浴衣着てるし、髪型も違ったからさ。めっちゃ似合ってるよ」
「あ、ありがと」面と向かって賞賛され、気恥ずかしさが込み上げる。
『せっかくのデートなんだから、髪も私がセットしてあげる』と琴子に言われ、問答無用で髪型をお団子にされたのだ。普段、面倒だからストレートしかしないから、新鮮な気分ではあったけど。
「じゃあ、早速行くか」
「う、うん」
先に歩き出した清水くんの後ろに、私はついて行く。密集する人々、喧々囂々と飛び交う声、立ち並ぶ出店。絵に描いたようなお祭りだ。あまりに懐かしい光景と雰囲気に、涙腺が少し刺激された。
「やっぱ人多いな」
清水くんの何気ない一言に、「そうだね」と同意する。
「とりあえず歩こうぜ」
「うん…」
微妙な距離を保ったまま、私達は歩き出す。
やはり食べ物屋さんが多いらしく、食欲を煽られる匂いが鼻腔に忍び込んでくる。今日のことを考えていると緊張で食欲があまり湧かず、朝からほぼ何も口にしていない。だからか空腹感が凄まじい…。
「そこのお似合いのカップル!」
比較的近い距離から威勢の良い声が飛来し、私は思わず足を止める。それは清水くんもだった。声のした方に目を向けると、頭にタオルを巻いた熊みたいなおじさんがいた。
「カップルって俺達のことですか?」
「そうだよ! イカ焼きどうだい? めっちゃ香ばしくて、美味いよ!」
ほどよく焦げた大きなイカ焼きをこれ見よがしに持ったおじさんが、顔をしわくちゃにしてニッコリ微笑む。よく見れば、前歯が一本欠けている。
「…どうする?」
「…ちょっと食べたいかも」
イカ焼きなんか見るのも久し振りで、すごく美味しそうに目に映った。普段、食べることなんかそうそうない代物だ。てゆーか、祭りでしか食べた記憶がない。
「じゃあ、一つください」
「はいよぉ!」
おじさんは持っていたイカ焼きを一度鉄板に置くと、豪快に醤油を上からぶっかけた。醤油の香ばしい香りが周囲に広がる。どうやら再度味付けし直してくれるらしい。
「はい、400円ね」
おじさんが油にまみれた手を差し出し催促してきた。財布を出そうと巾着の口を広げようとしたけど、「俺が出すよ」と清水くんに制される。
「え? で、でも、食べたいって言ったのは私なんだし…」
「昨日も伝えたと思うけど、お詫びだって言ったじゃんか。だから、今日は奢らせてくれよ」
「…そう言ってくれるなら」
「はい」会計を済ませたイカ焼きを差し出される。
「あ、ありがと」
イカ焼きを受け取りながら、ふと私は思う。イカ焼きの魅力に屈してしまったが、男子の前でイカ焼きを食らう女子ってどうなの? もっと綿飴とか林檎飴をちびちび食べていた方が可愛げがあったんじゃ、と少し後悔。
とりあえず一口齧ってみる。が、思った以上の弾力になかなか噛み切れない。
「んぐっ…!」やっとこさ噛み切れたイカ焼きをモチャモチャ。うめぇな、これ。お酒が欲しくなる。
「…美味そうに食うよな、松永って」
「ぁえ?」
「教室で弁当食ってる時も、一口一口ちゃんと味わって食べてる感じで。見てて気持ち良いっつーか」
「そ、そうかな?」初めてそんな指摘を受けた気がする。でも、私が気になった事柄は他にあった。
「…それよりさ、私がご飯食べてるところをいつも見てたってこと?」
「あっ…え~なんだ」清水くんの目が露骨に遊泳する。「たまたま目に入ったっつーか…。ごめん、気持ち悪かったよな」
「き、気持ち悪くなんかないよ! 人がご飯食べてるところを見ちゃうの、なんかわかる気がするし…」
テレビなんかで豪快に大食いしているタレントを観ていると、やっぱり気持ち良いし。「……」
フォローするが、どことなく気まずい空気が私達の間に立ち込める。その空気を払いのけるように、私は清水くんにイカ焼きを差し出す。
「よ、よかったら、一口いかが?」イカだけに、とは口が裂けても言えない。
「…じゃあ、遠慮なく」
イカ焼きを受け取った清水くんは、パクッと一口。モグモグ咀嚼。
「おっ、結構美味い」
「でしょ? あのおじさん、歯はなかったけど、腕は本物だったみたい」
「ははっ、確かに」清水くんは白い歯を見せ笑う。「はい、これ」とイカ焼きを返してもらう。
残りを食べようとして、私は重大なことに気付く。こ、これは関節キスというものなのでは? で、でもまぁ、関節キスなんか気にするの中学生ぐらいまでだよね、うん。清水くんの食べかけ…。学校で秘密裏に売ったら結構儲かるんじゃ、と邪念が芽生える。アホか! とかぶりを振ってその邪念を淘汰する。
「どうかした…?」私の行動を不審に思ったのか、清水くんが小首を傾げる。
「あっ、いや、関節キスのことなんか考えてないから! うん、全然!」
言い終えてから、自身の失態に気付く。こんなの意識してますよと自分で言っているようなものだ。
「そ、そういえばそうだな…。食べるのが嫌だったら、もう一つ買ってくるけど」
「い、嫌じゃないよ! むしろ嬉しいぐらいだから!」
「嬉しい…?」
「あっ、いや、嬉しいってのは、言葉のあやっていうか! と、とにかく全然気にしてないから!」
私は残っていたイカ焼きを一気に口に放り込む。自分でも何を言っているか謎だった。ただただ恥ずかしくてたまらない。今すぐ逃げ出したい気分だ。
「…むぐっ!」ろくに噛みもしないで飲み込もうとした結果、喉にイカ焼きが詰まってしまう。
「ん~!」喉元を押さえ悶絶。ヤバい! 死ぬ!
「お、おい、まさか喉に詰まったのか! ちょっと待ってろ!」
清水くんはそう言い残し私の側から離れる。ややあって、清水くんが私のもとに猛然と駆け寄ってきた。
「これ、自販機で買ったやつ。飲め!」
清水くんに手渡されたお茶を一気に流し込む。喉のつっかえが見事に取れ、スムーズに呼吸ができるようになった。あ、危なかった。
「あ、ありがと。清水くんは命の恩人だよ」
涙目になりながら、私は感謝の言葉を送る。イカ焼きが喉に詰まって死んだとか、あまりにカッコ悪い。
「…ぷっ、あはははっ!」
突然、お腹を抱えて笑い出す清水くん。
「わ、笑うとかヒドい! ホントに危なかったんだから!」
まさか笑われるなんて思ってなくて、カッと体温が上昇した。
「わ、悪い悪い。別にバカにして笑った訳じゃないんだ。やっぱ松永って面白いなって思ってさ」
「…それってバカにしてない?」
「なんか松永といると、刺激的な日々を送れそうな気がするよ」
「何それ…」喜んでいいのか、悲しんだ方がいいのか、よくわからない評価だった。
「あっ、藍子」「おおっ、あっちゃんだ!」「お姉ちゃんじゃん」
その時、見知った顔が三つ目の前に現れた。
「げっ…」自然、そんな声が漏れていた。まさか紗月、日菜ちゃん、琴子達一行と遭遇してしまうとは…。
「『げっ』とは何よ。てゆーか、清水くんじゃん」
「えぇっ? デートの相手って清水先輩だったんですか!」
私の同行相手を見て、信じられない! といった様相で目を見開く琴子。
「あっちゃん、清水くんと付き合ってたの?」浴衣姿の日菜ちゃんが私に問う。
「あっ、いや、付き合って、」
ない、と続けようとしたが、それは紗月のテンション高い声に遮られた。
「うっそ、マジ? 大ニュースじゃん! 明日の新聞の見出しは、『奇跡! イケてない女子が掴んだ、学校一のイケメン男子!』で決まりじゃん!」
「誰がイケてない女子やねん!」思わず関西弁で突っ込んでしまう。
「清水先輩!」すると何を思ったか、琴子がずいっと清水くんの前に接近。
「き、君は…?」
その勢いに圧され、たじろぐ清水くん。
「私、そこの藍子の妹です」
「ま、松永って妹いたんだ。知らなかったな…」
琴子は清水くんに向かって頭を下げ、
「どうぞこのダメな姉をよろしくお願いします!」
「あ、アンタ、何言って、」
「清水先輩ほどしっかりしている方であれば、姉を任せられます! 多分、この先清水先輩に迷惑を掛けることがあると思います。いや、十中八九あります。姉は特に取り柄のない人間ですが、退屈だけはしないはずです!」
誰かお願いだから、あの暴走妹を止めてくれぇ!
「…確かに退屈はしなそうだな」
顎に手をやり意味深な言葉を呟く清水くん。
「もう行こうよ、清水くん!」
いたたまれなくなった私は清水くんの手を引いて、三人から逃げるように走り出す。とにかく奴等から離れないと。
「お、おいっ、どこまで行くんだよ!」
「あっ、ゴメンね」
気付けば、神社奥の人気のない場所まで来ていた。四方が新緑に囲まれた自然豊かな場所だ。人が密集していないのと、木々に囲まれた場所なので少し涼しく感じた。ここまで歩いてきた労力、暑気によって火照った身体の熱が徐々に引いていく。
「ここ、静かでなんか雰囲気いいな」
清水くんがキョロキョロ辺りを見渡し一言。確かに喧騒が遠くから聞こえてきて、この場だけが隔離されたような錯覚を覚える。
「…なぁ、松永」
「なに?」
「俺さぁ、松永に言っておきたいことがあるんだ」
そう言って清水くんが私に向けた目は、真っ直ぐで真剣そのものだった。
「う、うん」
私もその真剣さに感化され、妙な緊張感を抱く。
ま、まさか告白…とか? いやいやいや! ありえないありえない! 校内で秀抜してモテる清水くんが私に告白なんてするはずない。変に期待した挙げ句、傷付くのは出来れば避けたい。私のハートはガラス玉なのだ。
「松永、俺と付き合ってくれないか?」
「あっ、はい…。で、どこに?」
でたでた。お約束のパターンだ、これは。どこかに付き添うって意味の『付き合ってください』だろう。騙されないぞ、私は。
「そういう意味じゃなくてだな。俺と交際してくださいって意味なんだが…」
「わ、私と清水くんが? 交際?」
告白されたのを理解したと同時、疑念が膨らんだ。これはドッキリなのでは? という疑念。どうせ木陰から『てってれーっ!』とか言って、共謀者が現れるに決まっている。だが、いくら待てど誰かが現れることはなかった。じゃあ、私が告白されたのは本当ってこと?
「……」
清水くんが私の二の句を黙然と待っている。
「…ちょっと考えさせてくれる……かな?」
私が出した答えは、先延ばしだった。確かに清水くんと付き合えるのは、素直に嬉しい。学校一の人気者という肩書きを省いても、清水くんは気配りの出来る良い人だし。
だけど、彼女の顔が思い浮かぶのだ。千晶ちゃんの顔だ。千晶ちゃんは清水くんが好き。それは間違いない。仮に私と清水くんが付き合ったと知れば、千晶ちゃんはどう思う? 祝福してくれるとは到底思えない。むしろ妬まれる可能性が高い。
私は千晶ちゃんとの築き上げてきた友情を崩壊させたくない、絶対に。かといって清水くんを振れる勇気が私にはない。だから、先延ばしにした。それが単なるその場しのぎにしかならないのは理解していたけど、私にはそれしか思い浮かばなかった。
「…そっか、わかった。期待しとくよ」
そう言って清水くんが私に向けた笑顔は、酷く切なげだった――
自室のベッドに寝転びながら、浴衣のまま今日の出来事を回顧する。あの後、私と清水くんはすぐ帰る流れになった。家まで送ってくれようとしたが、私は丁重にお断りした。だって、気まずい空気のまま一緒にいることが怖かったから。
「…告白されたんだよね、私」清水くんに。まだどこか現実味がない。白昼夢だったとさえ思えてくる。白昼じゃないけど。
感情の片隅で憧れを抱いていた清水くんと付き合えるなんて、私にとって思ってもみない僥倖だ。だけど、やっぱり千晶ちゃんの顔がちらつく。私は千晶ちゃんとの友情を大切にしたい。
「ああっ、もう!」そんな葛藤がずっと脳内をぐるぐる回遊して、頭が爆発しそう。
私はベッドを降りると、CDラジカセの電源を入れた。こういう時こそ好きな音楽でも聴いて、テンションを上げて悩みを吹き飛ばしたい。
スピーカーから流れ出したのは、当時、活躍していたZONEの『大爆発No,1』。シークレットベースぐらいしか有名な曲はないけど、良い曲が多いバンドだった。確か今年の春に解散したはず。その悲報を受けて、随分と落ち込んだのを記憶している。
「あれ? もう帰ってたんだ」
聴いていたアルバムの最後の曲が終わろうとした時、琴子が部屋に顔を覗かせた。
「そのまま寝たら、浴衣が皺になっちゃうよ」
「…うん」
「てゆーか、先に言っといてよ。デート相手が清水先輩とか知らなかったんだけど。でも、まさかお姉ちゃんの彼氏が清水先輩とは思わなかったよ」
「…彼氏じゃない」
「そうなの? でもさ、付き合うのも時間の問題でしょ。好きでもない同士が、お祭りなんか一緒に行かないもんね」
「…そうかな?」
「…なんか露骨に元気ないね。もしかして告白して断られちゃった?」
「…その逆」
「どういうこと?」
「告白されちゃった、清水くんに」
「そ、それ、ホントなの?」
琴子があからさまに一驚する。
「ねぇ琴子、私、どうしたらいいの?」
「…なんか事情があるみたいね。話してみてよ」
私は告白された顛末や千晶ちゃんのことについて、琴子に要約して打ち明けた。
「なるほどねぇ…」
自分の推測していた通りの事態だというのを理解し、琴子はどことなくご満悦そうだ。「…で、琴子ならどうする?」
「難しい相談だけど、私がお姉ちゃんなら付き合うかな」
「な、なんで?」
「だって、清水先輩はイケメンでサッカー部キャプテンかつ、かなりモテる。スゴいモテる。誰にもモテる」
「モテるから付き合うってこと?」
「お姉ちゃんのレベルで鑑みれば、高嶺の花じゃん。清水先輩から告白されるチャンスなんてそうそうない。この絶好のチャンスを逃すとかバカだよ。気まぐれで買って当選した宝くじを換金せずに捨てるようなもん」
「…友情を捨てろってこと?」
お姉ちゃんレベルとかいう貶された部分にはこの際触れず、私は核心に迫る。
「本当の友達なら、話せばわかってくれる。それでケンカして軋轢が生まれたら、そこまで深い関係じゃなかったってこと」
「…アンタ、難しい言葉知ってるわね」
軋轢か…後で意味を調べておこう。
翌日の昼休み、私は屋上にいた。燦々と照る太陽が眩しい。
「…すぅ、ふぅ~」高ぶった気持ちを鎮める為に、大きく息を吸ってゆっくり吐く。特に乱れてなかったけど、髪を手櫛で整え、スカートの裾も直しておく。
その時、屋上の鉄扉がギギッと奇妙な音を立てながら開いた。
「お、おす、松永」
あらかじめメールで呼び出していた清水くんが、少し引きつった笑顔を浮かべながら軽く手を上げる。
「…告白の答え、聞かせてくれるんだよな?」
無言で首肯すると、清水くんの表情から笑みが消えた。清水くんは扉をそっと閉めると、緊張した面持ちでこちらに近付いてくる。
「…正直、私ね、清水くんとは釣り合わないと思ったの。自分で言うのもなんだけど、私ってそんなに可愛くないし…」
「釣り合わないなんて、そんなこと言うなよ」
「だって清水くんはクラスの人気者じゃん。スポーツも出来るし、女子にもモテる。それに比べて私は、特にこれといった取り柄ないもん」
「そんなことない。俺は松永のいいところ知ってる」
「…例えば?」
「性格は明るいし、友達も多い。俺に弁当を作ってきてくれる優しさとか、人付き合いが苦手な千晶と打ち解けられるコミュニティー能力の高さとか」
「そ、そうかな…?」
正直、褒められて悪い気はしなかった。普段、褒められることがないから。
「そんな卑屈なることないさ。松永のよさを知っているからこそ、周りの人間も気を許すんだよ。俺はそんな松永が好きなんだ」
「っ…!」
私の決心を乱す言葉だった。
「でも、やっぱり私は…」
「松永は俺のことをどう思ってるんだ?」
「え…?」
「はっきり言って欲しい」
「私は清水くんのことが……好き」
気付けば、そんな言葉が零れていた。そんなの好きに決まっている。嫌いになる方が難しいと思う。
「…両想いってことだな。じゃあ、答えは簡単じゃないか」そう言って、清水くんサッと私に右手を差し出してくる。「改めて言うよ。松永…いや、藍子、俺と付き合ってください」
下の名前で呼称され、キュンっと心臓が締め付けられるような錯覚に襲われる。そ、それは反則だよ。
「…は、はい」
さすがに自ら好きとか言っておいて、今更断ることなんかできなかった。こうして、私と清水くんはめでたく付き合うこととなった。
「藍子、アンタ、なんか乙女の顔してない?」
教室に戻ると開口一番、紗月が私の異変を指摘してきた。
「は、はぁ? 私はいつでも乙女なんだけど。失礼しちゃうわね」
「そういう意味じゃないわよ。なんか艶っぽいって言うか」
「意味わかんない」と白を切っておく。
清水くんと話し合った結果、私達が付き合っていることは、内密にすることとなった。それを先に提案したのは私だ。私達が付き合っていることが周知されれば、確実に女性陣から嫉妬と怨恨を向けられる。
何より一番懸念すべきは、千晶ちゃんに知られてしまうこと。それこそ恨まれ友情が崩れ去る可能性もある。隠し事をしておいて何が友情だ、と思う人もいるだろう。だけど、私は千晶ちゃんに嫌われたくない。自分勝手なヤツ、と呆れられても何も文句言えない。
そして、その日の6時間目が終わる間際のことである――
『ちょっと話があるから、教室に残っておいて』というメールが千晶ちゃんから送られてきて、一瞬にして肝が冷えた。千晶ちゃんが自主的に初めてメールをくれた喜びよりも、不安が一気に膨れ上がった。ま、まさかバレた? …いや、たまたまだよね、うん。
そこからの記憶は曖昧で、気付けば放課後を迎え、私は教室に残っていた。目の前には制服姿の千晶ちゃんがいる。窓から差し込む夕陽の所為で逆光となり、その表情はよく見えない。
「そ、それより初めてじゃない? 千晶ちゃんからメールくれるなんて」
とりあえず他愛もない話題から切り込んでみるが、千晶ちゃんはジッと私を見つめるばかり。
「…颯斗となんかあった?」
清水くん名を出された瞬間、ドクンっと心臓が脈打つ。
「な、なんでそんなこと聞くの?」
「あのバカ、妙に上機嫌だったから。なんか隠してるでしょ?」
「な、なんのことだろ? 皆目見当も付かないぞなもし」
「ウソつくの下手だよ、アンタ」
刹那的に看破される。私を見る千晶ちゃんのその双眸は、確信めいたものが窺えた。「…実は私達…付き合うことになったの」
多分、変にウソをついても見透かされ、やがてバレる時がくる。だったら、もう自ら打ち明けた方がいいと思った。やっぱり秘密にしているのは、罪悪感が大きい。友達を裏切れない。
「アンタと颯斗が…?」
「う、うん…」
「どっちから告白した?」
「えっと、清水くん…から」
「…そう」
淡々とした想定外の反応に面食らう。なんとなく千晶ちゃんは怒るんじゃないかと思ってたから。
すると何を思ったか、千晶ちゃんは窓の落下防止の手すりに座ってみせた。
「そ、そんなところに座ったら危ないよ」
忠告するも、千晶ちゃんは私の言葉を受け入れない。ここは三階。落ちればただじゃ済まない。
「…お幸せに」
「えっ…?」
次の瞬間、千晶ちゃんは上半身を後ろに倒した。直後、千晶ちゃんの姿が忽然と視界から消える。落ちた――そう理解するのに数秒要した。
で、でも、大丈夫だよ。だって、前も窓から飛び降りて無事だったんだもん。千晶ちゃんには、くノ一の血が流れているんだ。きっとそうだ。
私はスカートの裾をギュッと強く握り締めながら、恐る恐る窓の方へと歩みを進める。そして、手すりを握って窓の下を覗き込んだ。
眼下に広がっていたのは、真っ赤に染まった無惨な千晶ちゃんの姿。
「あ、あ…あぁ…あああああああっ!」
頭を抱えながら、私は絶叫するしかなかった。
「はっ…!」気が付くと、視界には見慣れた天井が広がっていた。
あ、あれ? もしかするとさっきのは全部夢? そうだ、と思い出す。昨日、お祭りから帰った後、私はそのまま寝てしまったんだ。
「お姉ちゃん、どうかしたの!」
夢か現かまだ朧気な意識の中思考を巡らせていると、血相を変えた琴子が部屋に飛び込んできた。
「な、なんか叫んでなかった?」
「えっ? あ~…怖い夢見ちゃって」
私の言葉を聞いて、「何それ」と呆れ顔で一言。
「人騒がせな」
「す、すんまへん」
思い返してみるも、後味の悪い夢だった。千晶ちゃんが学校の窓から飛び降りるという悪夢。意志とは無関係にあの惨状が脳内に想起されようとして、私は頭を振ってそれを掻き消す。あんな結末、私は望んじゃいない。
「せめて着替えてから寝なさいよ。浴衣、汗で濡れて肌に張り付いてて、なんかえっちぃよ」
「い、いや~ん」
「キモい。とにかくシャワー浴びてきたら?」
登校前にシャワーを済ませた私は、重い足取りで学校へと向かった。学校には清水くんがいる。気まずいけど、顔を合わせないとならない。だって、同じクラスだから。
教室の扉に備え付けられた小窓から室内を確認する。清水くんは…まだ登校していない様子。ふぅ、と胸をなで下ろす。
「おっす、松永」
「ぎゃああ!」廊下から教室内を覗き込んでいると、不意に声を掛けられ驚愕。
「し、清水くん…!」振り返って更に驚愕。
「す、すまん。そんなに驚くとは思わなかった」苦笑する清水くん。
「つーか、何やってんの?」
「…し、視察?」
「ははっ、やっぱ松永は面白いな」
破顔一笑。そこにはいつもの爽やかな笑みを浮かべる清水くんがいた。あれ? もっと気まずくなると思っていたのに…。私、告白されたよね? まさかお祭りでの出来事も夢だったり…。
清水くんは私の横を通り抜ける際、「良い返事、待ってるから」と囁き掛けてきた。
思わずドキッとする。だが、これで告白されたのが本当だったことが証明された。
「アンタ、何してんの?」
突然肩を叩かれ、驚き飛び退く。振り向くと、「さ、紗月…」が立っていた。
「こんなとこに突っ立ってたら邪魔でしょうが」
「す、すんまへん」
「あっちゃん、おっはー!」
紗月の隣にいた日菜ちゃんが、溌剌な挨拶を私に寄越す。相変わらず元気だな、この娘。
「あっ、そういえばアンタ、清水くんとはいつから付き合ってんの?」
紗月がそう言い放った瞬間、教室内に氾濫していた喧騒が一瞬にして消え去る。
「ば、バカ…!」
紗月の口を押さえようとしたが、時すでに遅し。
「さっきの言葉ってホントなの!」
数名の女生徒達(清水くんの信者)が私達の周りに殺到。矢継ぎ早に詰問され、ちょっとした騒ぎへと発展してしまう。一応否定するが、女生徒達は聞く耳を持たない。芸能人のゴシップを食い物にする、マスコミに囲まれた女優やアイドルのような気持ちだった。
「こらっ、これはなんの騒ぎだ!」
騒ぎを嗅ぎ付けた男性教諭の怒号が飛来する。
――最悪だ。
私と清水くんが付き合っているという噂は、瞬く間に伝播されてしまった。千晶ちゃんにもいずれ知られてしまう。…すでに知られているかも。ふと、今朝見た悲惨な夢がフラッシュバックし背筋に冷たいものが走る。痛ましく悲しい夢。アレが現実になる可能性が少しでもあるのなら、私は清水くんと付き合わない方がいいのかもしれない――
「あ、あの、清水先輩とは付き合っていないんですよね?」
「付き合ってないから安心して」
「やっぱりそうですよね! よかったです!」
私が清水くんと付き合っていないという事実を知った名も知らぬ後輩ちゃんは、嬉々とした足取りで教室を去っていった。今ので何人目だろうか…。もう昼休みだというのに、マジで勘弁してほしい。
「アンタも大変ねぇ」
他人事全開な言葉を寄越す紗月を睨む。
「誰の所為だと思ってんのよ」
「すぅ~…はぁ~」込み上げる緊張を緩和するべく大きく深呼吸。
昼休みの屋上にて、私は燦々と照る陽光に照らされながら、とある人物の到着を待っていた。そわそわして居心地が悪く、何度も髪を触ってしまう。精神状態が不安定な時、無意識に髪を触ってしまうのは昔からのクセだった。現在(未来)でもそのクセは直ってなくて、目上の人に怒られ注意された時にも触ってしまうものだから、態度が悪いと勘違いされることもしばしば。
そんなことを考えていると、屋上の鉄扉が開いて呼び出しておいた人物が姿を現した。「よお、松永」
言わずもがな清水くんだ。
「呼び出されたってことは、返事を聞かせてくれるんだよな?」
この状況に強い既視感を覚えたが、私はとりあえず頷く。
「…まずゴメンね、なんか騒ぎになっちゃって」
「別にいいさ。むしろ松永と噂になって、ちょっと嬉しいぐらいだし」
「そ、そっか…」不覚にもドキッとしてしまう。
そういう台詞をさらっと言えるのが、清水くんがモテる一つの要因だろう。
「あ、あのね、真剣に考えたんだけど、私と清水くんは釣り合わないと思うの」
「…どうして?」
「清水くんはスポーツ万能でカッコよくて人気者じゃん。それに比べて私は、特に取り柄もない凡人だもん」
「そんなこと言うなよ。俺は松永のいいところ、結構知ってるつもりだ」
「…例えば?」
夢と同じ流れだと理解していても、聞かずにはいられなかった。
「性格は明るいし、友達も多い。俺に弁当を作ってきてくれる優しさとか、人付き合いが苦手な千晶と打ち解けられるコミュニティー能力の高さとか」
同じだ、まるっきり。でも、大丈夫。ここで断れば、アレは予知夢にはならないはず…。
「…でも、やっぱりゴメン。清水くんとは付き合えない」
罪悪感が強くて、清水くんの目を見れなかった。
「他に好きなヤツでもいるのか?」
「う、ううん! 好きな人はいない…よ」
「…松永には松永の考えがあるんだな。わかった、今回は潔く引き下がるよ」
「ご、ごめんね…」
「でもさ、好きなヤツがいないってことは、俺にもまだチャンスがあるってことだもんな」
「そ、それは…」どうだろ…?
「返事聞かせてくれてありがとう。じゃあ、俺は教室に戻るよ」
そう言い残し、清水くんは屋上から姿を消した。
「………」
なんとも言えない喪失感と寂寥感と罪悪感に押し潰されそうだった。
夢での出来事を避けるのならば、これが最善策だと思ったんだ。これでよかったんだよね…? 自問自答するけど、答えは不明瞭だった。
「…そろそろ戻ろう」
うじうじ考えていても仕方がないので、私も教室に戻ろうとした。
「…ぅわっ!」
扉を開けた瞬間、すぐ目の前に人のシルエットがあって思わず驚きの声を上げてしまう。逆光でよく見えなかったけど、目を凝らすと千晶ちゃんの顔だとわかった。
「ち、千晶…ちゃん」な、なんでここに…。
「…だよ」
千晶ちゃんが何かを呟いたようだがよく聞き取れず、「へ…?」と聞き返す。
「なんで断ったんだよ!」
耳が痛くなるほどの声量に圧され、私は一歩後退る。
「そ、それは…」どうやら会話を聞かれていたらしく、私は言葉に詰まる。
「理由もないのに断ったのか? はっきりしろよ!」
「つ、釣り合わないと思ったの。私と清水くんじゃ…」
「颯斗の気持ちを踏みにじったんだよ、アンタは!」
「ふ、踏みにじってなんかないよ」
これが私なりに考え出した答えなんだ。
「断ったんなら結果的に踏みにじったのと同じなんだよ!」
「そ、そんなつもりじゃ…」
「アンタ、まさか私を気遣ったわけ?」
「そ、それは…」どうやら私の感情は見透かされているようだった。
「そんないらない気遣いの為に颯斗を傷付けんな!」
憤然と最後にそう言い放ち、千晶ちゃんは階段を駆け下りていった。
「……」
私は間違っていたのだろうか? 自分が最善だと思っていた選択は、見事に裏目に出てしまったみたいだ。
「先輩、今帰りですか?」
学校からの帰路、誰とも一緒に帰る気になれずトボトボ一人歩いていると、後ろから声を掛けられた。振り向くと、自転車を押した女生徒がニコニコと微笑んでいる。
「…誰だっけ?」
「なっ、ヒドい! この前自転車のチェーンを直してあげたじゃないですか!」
「ああっ、あの時の…。って私が直してあげたんでしょ」
確か友香ちゃんだ。
「なんて冗談ですよ、冗談」
あはは、とヘラヘラ笑う友香ちゃん。
「それより、なんか元気ないですね」
「…そう見える?」
「あんなに俯いて歩いてたら、そう見えちゃいますよ。どうしたんですか? よければ、私が相談に乗りまっせ」
「友香ちゃんって口硬い?」
「口は柔らかいです。この通りぐにゃんぐにゃん」
そう言って、彼女は下唇を摘まんで上下左右に引っ張ってみせる。
「……」
「なんて冗談ですってばぁ! 私、口の硬さだけは誰にも負けませんよ。そもそも話す友達がいませんからね!」
ガハハ、と大口を開けて笑う友香ちゃん。
「なんて冗談は置いといて。さっ、この友香ちゃんになんでも話してくださいな」
この娘、ホントに大丈夫だろうか? と不安が胸中を支配するが、私一人ではどうにも解決できそうになかった。
「実はね――」
だから、私は悩みの種を植えてみようと思った。
「な~るほど。なんかマンガみたいな展開っすね」
「…私はどうするのが正解なんだろ?」
「さぁ?」
「友香ちゃん、一発だけ頭叩かせてもらっていいかい?」
「う、ウソですよ、ウソ! 後輩のちょっとしたお茶目じゃないですか」
「……」不安感が更に膨張した。
「私としてはですね、丸く収まるってのはかなり難しいと思いますよ」
「それはなんとなく予想してる。私は友達と仲直りできたらそれでいいから」
「恋愛は捨てますか」
「…捨てるって言うか、まずは軋轢を解消したいなって」
覚えたての熟語を使ってみた。
「お友達の言葉通りならば、その男友達を傷付けたのが許せないってことですよね? だったら、その男友達と付き合えばいいと思いますよ」
「…それってアリなの?」正直、それは考えつかなかったな。
「彼氏もできて、友達とも仲直りできる。まさに一石二鳥じゃあ~りませんか」
「そんなに上手くいくかな?」
「あっちゃん先輩はその男子のことはどう思ってるんですか?」
「…どうって?」
「好きか嫌いか。イエスかノーか。男か女か。生きるか死ぬか。デッドオアライブ」
意味がわからない。
「友香ちゃんってさ、たまにウザいって言われない?」
「はっ、何故それを…!」
露骨に驚いた表情を見せる友香ちゃん。
「さすがになんとなく予想できるよ」やっぱりな。
「あっちゃん先輩、実は異能力者だったんですね。夜な夜な黒猫と一緒に箒で空を飛んでるとか憧れっすよ」
「…それは魔法使いかな、どっちかって言うと。だけど、あながち間違いじゃないかもしれない」
だって私は、時をかけたのだ。それを異能力と言わず、なんと言えるのか。
「なんてね。それより、聞いてくれただけでなんかスッキリした」
「どういたしまして。アイスぐらい奢ってくれていいんですよ」
「…厚かましいとも言われるでしょ?」
近くにコンビニがあったので、私達は立ち寄ることにした。入店すると、エアコンの冷風が頬を撫でた。
友香ちゃんは幼い子のようにアイスコーナーにまっしぐら。私も後に続く。
「あっ、ハーゲンダッツの新作だ!」高価なカップアイスにテンションが上がる友香ちゃん。「おおっ、美味しそう。あっちゃん先輩、これでもいいですか?」
「あはは、冗談は存在だけにしなさい。ガリガリくんしか認めません」
「ぶ~っ、先輩のケチ。そんなんじゃ後輩に慕われませんよ」
「大いに結構」
アイスを二個購入した私達は、コンビニ近くにあったベンチに並んで腰を下ろす。海が近くにあるので、濃い潮風が運ばれてくる。
「ん~っ、やっぱりピノは最強っすね!」
アイスを食べた友香ちゃんが、喜色に彩られた声を発する。
「ピノもいいけど、やっぱモナ王でしょ」
私はアイスにかぶりつく。モナカとチョコのハーモニーが最高だ。
「私の夢はですね、ピノをお腹いっぱい食べることなんですよ」
「…ずいぶんと小さい夢だね。すぐに実現できそうだし」
「じゃあ、先輩が実現させてくださいよ。南を甲子園に連れてって」
「なんでそこでタッチなのよ」
「タッチって断片的にしか知らなくて、ちゃんと観たことないんですよね。あと、南ちゃんがカワイイ」
「私も一緒。ちゃんと観たことない」
何故か名作と言われるアニメは、名シーンしか知らない。しかも内容の前後がわからないから、感動しようにも出来ない。アルプスの少女ハイジとかフランダースの犬しかり。まぁ、再放送があまりないから仕方ないのかもしれない。今(未来)だとスマホが普及して配信で手軽に観れるになったけど、この時代にそんな便利な物はない。レンタルするにしても、長編だから大変だ。
「じ~っ…」
不意に視線を感じて隣を見やると、友香ちゃんが私の手元をジッと凝視しているではないか。
「な、なに?」
「あっ、いや、先輩のモナ王を一口頂くなんてそんな!」
「…まだ何も言ってないんだけど。…はい」
私は友香ちゃんの方にアイスを差し出す。
「え? いいんですか? じゃあ、遠慮なく」
友香ちゃんはモナ王を一口かじる。
「むぐむぐ、美味い!」
「…あっ」
その時、道路を隔てた向こう側の歩道に、見覚えのある自転車に乗った女生徒を見つける。
「どうかしましたかいの?」
「友香ちゃん、これ全部あげる」
私はモナ王を友香ちゃんに無理やり譲渡すると、立ち上がり駆け出す。
「あっ、先輩、いずこへ!」
「さっき話してた友達がいたの! ごめんね、友香ちゃん!」
「ガンバルンバですよ、先輩!」
「ありがとう!」
友香ちゃんの古い声援に応えて、私は制服を来た千晶ちゃんの姿を追う。
別に今すぐじゃなくてよかったかもしれない。だけど、今すぐこの気持ちを伝えたかった。
横断歩道の信号はタイミング悪く赤。いじらしくなってその場でバタバタと足踏み。そんなに長い秒数じゃないはずなのに、待ち時間が永遠のように感じられた。授業中とかお湯を注いだカップラーメンとか早く時間が過ぎることを切望すると、体感よりも長く錯覚してしまう。
信号が青になった瞬間、アスリートのように駆け出す。千晶ちゃんの背中はまだ視界に入っている。まだ追いつくはず…いや、追いつくんだ!
ふと、なんか最近走ってばっかりだな、と思い返す。年齢を重ねる度、走る機会はめっきり減った。幼少期は無意味に走り回っていたりしたのにな。
答えは明確。人目を気にするようになったからだ。走ることに限らず、なんに対してもそうだ。人目を気にし、自分の感情を抑圧するようになってしまう。
今にも爆発しそうな感情を抱えながら、日々を生き抜かなくちゃならない。感情を自分でコントロールできるようになることが、大人になった証だと私は思う。
大人になることを否定する訳じゃないけど、子供心はいつまでも持っていたい。忘れたくない。
だから、嘲笑されても私は走る。力の限り。
そんなことを考えている間に、千晶ちゃんとの距離は順調に縮まっていく。相手は自転車だが、私の走る速度の方が僅かに勝っている。
「ち、千晶ちゃん!」
もう少しで追い付きそうな距離まで接近した時、千晶ちゃんの名を呼ぶ。
「あっ…!」
私の顔を見た刹那、千晶ちゃんは漕ぐスピードを速めた。
「な、なんで逃げるの!」
私もスピードを上げる。だけど、さすがにスピードアップした自転車には敵わない。
「くっ、この…!」
声を掛けたことを悔やみながら、私も意地になって更なる加速を試みる。ここで千晶ちゃんを逃がしたらもう一生仲直りできない、なんとなくそう思った。だから、ただ無心で走る。走る。走る。
「はぁはぁ…ん?」
しばらく走ることだけに没入していると、千晶ちゃんの自転車の速度が落ちていることに気付く。よく見れば、目の前の横断歩道の信号は赤。そこの道路は比較的交通量も多く、信号無視も出来ないだろう。
これで追いつける、と安堵したのも束の間――千晶ちゃんは自転車を乗り捨て、胸元辺りまである塀を華麗に乗り越え砂浜の方に逃げた。
「待って!」多少もたつきながらも私も塀を乗り越え、千晶ちゃんの背中を追う。
「くっ…!」砂に足を取られ非常に走り難い。しかし、それは千晶ちゃんも同じ条件。
私は思い切ってローファーを脱ぎ捨てた。すると足元が軽くなって、幾分か走りやすくなった。
「このぉ…!」思い切って私は千晶ちゃんの背中に飛びつく。ギュッと掴んで離さない!「「きゃあ!」」
衝撃で千晶ちゃんはバランスを崩し倒れ込む。もちろん私も一緒に。千晶ちゃんの上に私が覆い被さるような体勢になってしまう。
「こほっ、ごほっ! な、何すんのよ!」
咳き込みながら、千晶ちゃんは眉を吊り上げ憤る。
「私、清水くんが好き!」
「は…?」千晶ちゃんは目を丸くする。
「でも、同じぐらい千晶ちゃんも好き!」
「な、何言って…」
「清水くんと付き合ったら、千晶ちゃんが離れていっちゃうんじゃないかってないかって思ったの。悲しむんじゃないかって。だから、清水くんの告白を断った。どっちかを選ぶとしたら、千晶ちゃんの方が大切だって思ったから。結局、私の選んだ選択肢は間違っていたみたい。私は清水くんだけじゃなくて、千晶ちゃんまでも傷付けた。すっごく後悔したよ。だから、謝りたい。千晶ちゃん、ごめんね」
「……」千晶ちゃんは私の言葉に耳を傾けてくれている。
「私の本音は終わり。次は千晶ちゃんの本音を聞かせて。清水くんのことどう思ってるの?」
「私の本音…?」
「うん」
「…私は颯斗のことが……」
数秒の沈黙を挟んだ後、消え入りそうな口調でこう答えた。
「…好き」
「じゃあ、今日から私達はライバルだ!」
「…ライバル」
私の言葉を反芻するように呟く。
「私は清水くんと付き合う。だから、千晶ちゃんは私から清水くんを奪ってみてよ」
「…な、何よ、それ。意味わかんない」
「もしかして自信ないの? 好きとか言っといて、清水くんを思う気持ちはそれぐらいで折れるような、よわっちいものだった訳?」
「…やってやろうじゃない。私と颯斗が一緒にいた期間の方が圧倒的に長いのよ。アンタみたいなヤツに負ける訳ないじゃない!」
「ふふっ」
「何笑ってんのよ?」怪訝そうに眉を顰める千晶ちゃん。
「いや、やっぱり千晶ちゃんってカワイイなって」
「バカにしてんの? てゆーか、早くどいて」
千晶ちゃんに命じられ、私は素直に立ち上がる。膝に付いた砂を払う。
「サイアク。アンタの所為で砂まみれだし」
文句を言いながら立ち上がった千晶ちゃんは、制服の砂を払う。
「じゃあ、とりあえず握手しよ」と私は右手を差し出す。
本当なら仲良く海にダイブしたい気分だったけど、ここの海は遊泳禁止。諦める他ない。
「は? なんで?」
「仲直りの証。あと、ライバルを誓い合った者同士の儀式みたいな感じ」
「………」
釈然としないながらも、千晶ちゃんは私の手を握ってくれた。私達はこれから切磋琢磨しながら、青春を謳歌していくんだ。
千晶ちゃんと友情を深め合ったその日の夜、特にやることもなくベッドに寝転びながら好きな音楽を垂れ流しにしていると、唐突にケータイが鳴り出す。
流れた着うたから、メールではなく電話だと判別できた。側に置いていたケータイを手に取り、着信相手を確かめ一驚。清水くんからだったから。
「も、もしもし。こちら松永藍子のケータイですけども、どういったご用件でしょうか?」
反射的にベッドの上で正座してしまう。
『俺、清水だけど。…つーか、なんで敬語?』
「や、やっぱり親しき仲にも礼儀ありかなっと思いましてですね」
『ははっ、やっぱ松永って面白いな。で、電話した理由なんだけど、明日さ、部活の練習試合があるんだよね。よかったらまた観に来てくんないかなって思って』
いつも通りの清水くんだ。私に振られたことなんか、まるでなかったかのようだった。
「…ど、どうして?」
『俺が一番輝いてる瞬間ってサッカーしてる時だと思ったんだよね。だから松永を惚れさせるには、プレイしてる姿を見せるのが手っ取り早いんじゃなかって考えたんだよ』
「…そ、それは巧妙な作戦ですな」
『だろ? とりあえず暇だったら観に来てくれよ』
その後、時間と場所を指定され、通話を終えた。大胆だな、と一考。あんなこと言われたら、誰だってキュンとしちゃうでしょ。
「う~む…」どうしよかな、と思い悩む。暇なのは暇だけど、清水くんと顔を合わせるのがすこぶる気まずい…。
一晩中悩みに悩んだ結果、サッカーを観戦しに行くことにした。せっかく誘われたんだし、行かないっていうのは少し心苦しいし。
翌朝、用意を済ませた私は、開催地である我が校へと趣いた。グラウンドの周りには、すでにギャラリー達が沢山いた。こんな暑い中、よくこれだけ集まったもんだな、と感心。やはり清水くんの影響は絶大なようだ。
「…ん?」数多いるギャラリーの中に、いかにも怪しげな雰囲気を放つ人物を見つける。帽子を目深に被り黒い長い髪が特徴的な女生徒。
その女生徒に近付き、
「千晶ちゃんも来てたんだ」と声を掛ける。
千晶ちゃんは振り返り私を見た瞬間、『げっ…』という顔をした。だが、何事もなかったように前を見据える。
「今日、暑いよね。本当はずっと家にこもっていたかったんだけど…」
「じゃあ帰れば」
「清水くんに誘われたから仕方なく来た感じなんだよ」
清水くんの名を出した刹那、ピクッと反応を示した千晶ちゃんだが、「あっそ…」と素っ気なく相槌を打つ。
「千晶ちゃんは応援?」
「…見張り」
「見張り?」
「颯斗に変な虫が寄り付かないように」
「ふふっ」と思わず笑ってしまう。
「な、何笑ってんのよ」千晶ちゃんが遺憾そうに私の方を見る。
「やっぱカワイイなぁ、千晶ちゃんは」
「ば、バカにすんなっ!」
ふんっ! と鼻を鳴らし、千晶ちゃんは私から顔を背ける。
それにしても、「あっつい…」
私は額を伝って流れる汗を拭う。空を仰視し、ギラギラと照りつける太陽に目を細める。
こんな炎天下でサッカーをしているというだけで、私にしてみれば尊敬に値する。暑がりの私だったらすぐにぶっ倒れそう。
その時、清水くんが得点を入れ黄色い歓声が上がる。人気者だな、と再認識。
清水くんぐらいイケメンだと引く手数多なのに、私みたいな人物を選んだ理由が本当にわからない。以前、明るいとか優しいとか評されたけど、それぐらいが取り柄の人だったら他にもいるし…。
どちらかと言えば、紗月の方が明るく優しい気もする。私みたいにだらしなくないし、曲がったことが大嫌いな正直者。考えれば考えるほどわからなくなった。やがて試合は中盤に差し掛かり、得点はイーブン。
「…あぢぃ」清水くんには悪いけど、私は試合観戦を一時的に放棄して食堂に向かうことにした。
いつも殷賑を極める食堂も、利用者が誰もいなくて寂寥感に満たされている。自販機でコーラを買うと、とりあえず頬に押し当ててみる。
「つめてっ!」
思った以上の冷たさに、反射的に頬から離す。まぁ、これで体温が少しばかり下がった気がする。
早速開けてみると、プシュッと小気味良い音が鼓膜をくすぐった。一口ゴクリ。
「くぅ~!」シュワッとした喉越しがすこぶる心地良い。やっぱり夏は炭酸に限るな。
一気に飲み干した後、もう一本買ってから私はグラウンドに戻った。
「ん…?」 差し入れのコーラを頬に押し当てて驚かしてやろうと企みながら、気配を出来る限り殺しつつ背後から歩み寄る。
ふと、違和感を覚えた。千晶ちゃんが揺れている。陽炎のようにふらふらと。
「ちあ…」
声を掛けようとした直後、千晶ちゃんが脱力したようにその場にペタンと座り込んだ。「千晶ちゃん!」持っていたコーラを捨てて、彼女の側に駆け寄る。
「ど、どうしたの? 大丈夫っ?」
「…だ、大丈夫…だから。なんか頭がぼーっとする…だけ」
ぼそぼそと話す千晶ちゃんは、どう見ても大丈夫そうに見えない。
「軽い熱中症かも。保健室に連れて行ってあげる」
ほら乗って、と背を向けてしゃがみ込む。
「だ、大丈夫だって、はぁはぁ…言ってんでしょ」
苦しそうに額に手を当てながら、乗車拒否をする千晶ちゃん。
「全然大丈夫そうに見えないよ。これ以上悪化したら病院に行かなきゃダメかもしれない。注射イタいイタいだよ」
「…ちゅ、注射」
どうやら葛藤しているようで、頭を抱える千晶ちゃん。私に背負われるのそんなに嫌?
やがて観念したようで、千晶ちゃんは私の背中に乗ってくれた。腰を上げて思った以上の軽さに一瞬驚いてしまったが、私は駆け足で保健室へと向かった。
「しまむー、急患…っていないし!」
勢いよく保健室に駆け込むが、そこにしまむーの姿はない。まさか職務放棄?
よくよく考えれば、今日から夏休みだった。どうりで先生がいないはずだ。とりあえず千晶ちゃんをベッドに寝かせることにした。
「どう? 大丈夫? 頭痛いとか、吐き気するとか」
私は千晶ちゃんのキャップを外す。明らかに顔色が悪く、滂沱の汗をかいている。私はハンカチを取り出し、汗を拭ってあげる。
「…大丈夫。ちょっと…寝たら…治…る…」
その言葉を最後に、千晶ちゃんは目を瞑って動かなくなった。胸が僅かに上下していることで生存が確認できた。あまりに重態だったら救急車を呼ぶことも考えたけど、私が見る限りまだ軽症だと思う。
でも、私は医者じゃない。急に症状が悪化する可能性もある。だけど、救急車を呼べば校内がパニックになり、結果的に試合が中断するかもしれない。
とりあえず経過観察が重要。そう思った私は、千晶ちゃんに異常が起きないかを見守ることにした。
「松永、何かあったのか!」
突然、息を切らしたユニフォーム姿の清水くんが保健室に乱入してきて瞠目。
「あ、いや、ちょっと千晶ちゃんが体調悪くなったみたいで。それより、試合は大丈夫なの?」
「千晶が背負われてるところを見かけて、すっ飛んできた。まさか熱中症か?」
「そうみたい。あっ、でも、そこまで重症じゃない…と思う」
まだ断言は出来ない…。
「だからいちいち来なくていいって言ってたのに」
「どういうこと?」
「コイツ、昔から暑さに弱いんだよ。何度か倒れてるし。それでも、試合を観に来るって止めても聞かないんだ」
「よっぽど好きなんだよ」
「好きって何を?」
「清水くんを」
「千晶が俺を…?」
口を滑らせたことに気付き、私は慌てて言葉を付け足す。
「し、清水くんがサッカーをしてる姿をだよ!」
「…あんまり興味があるようには見えなかったけどな」
「あっ、えっと…試合、戻らなくていいの?」
「そうだな。そろそろ戻らないと」
「千晶ちゃんは私に任せておいて。清水くんは試合に集中しないとだよ」
「相手の高校、結構強豪で県大会とかでもいい成績残してんだよ。こういっちゃなんだけど、ウチの高校あんまり強くないからさ。練習試合だけど、これに勝てば県大会出場も夢じゃないんだ」
「じゃあ、頑張らなきゃじゃん」
「こっからでも試合見れるから、応援しといてくれよ」
「うん、応援してるね」
私が声援を送ると、清水くんは微笑みながら保健室を去っていった。
「千晶ちゃん、本当にもう大丈夫なの?」
私が身体の心配をするが、千晶ちゃんは不機嫌そうに言い放つ。
「大丈夫だって言ってるでしょ。あんなの寝たら治ったから」
結局、千晶ちゃんは試合が終わる頃までずっと眠っていた。
「おい、お前が寝てる間ずっと付き添ってくれた松永に、なんでそんな偉そうなんだよ」
一緒に帰宅していた清水くんが、千晶ちゃんの態度に物申す。
「まずは礼が先だろ」
「うっ…あ、ありが…と」
私にお礼を言うのがそんなに嫌なのか、千晶ちゃんは絶対に目を合わせようとしなかった。
「どういたしまして」でもまぁ、ちゃんと言ってくれたことに変わりない。
「でも、残念だったね、サッカー」
攻防を繰り返しいい感じで競り合っていたけど、結果として我が校の惜敗で練習試合は終わった。
「負けはしたけど、傾向と対策はちゃんと学んだ。それを活かして、次は負けない」
そう言った清水くんの目には、メラメラと燃え盛る闘志が宿っているように見えた。負けず嫌いなのがひしひしと伝わった。
「なぁ松永、夏休みの予定って何かあったりする?」
千晶ちゃんを自宅まで送り届けた後、隣を歩く清水くんが私の予定を探る。
「まだ特にないけど…」
横断歩道の信号が赤で、私達は一度立ち止まる。道路をビュンビュン乗用車が通過していく。
「だったら8月の1日に…」
清水くんがそう言葉を述べた瞬間、凄まじい既視感を覚える。
大きな入道雲から覗く烈々と照る太陽、半袖短パン姿のラフな清水くん、眼前を駆け抜けていく何台もの車、向こうの側の歩道を歩くベビーカーを押す若いお母さん。いわゆるデジャヴというものだ。なんだろ…なんかスゴく嫌な予感がする。
それは、あまりに突然で唐突だった――
キキーッ! という甲高い仰々しい音が周囲に反響。反射的に音のした方に目を向けると、一台の白い車がこちらに猛然と接近してきていた。
「あっ…」
私は思い出す――今日が7月28日だということを。
まさに今日、清水くんが亡くなった日。私が轢かれそうになった時、清水くんが私を庇って代わりに跳ね飛ばされてしまうのだ。運命は繰り返されるというのか…。前に轢かれそうになった時とは違う、確信めいたモノがあった。
そんなことを考えている間にも、刻一刻と車が接近してきている。それに気付いた清水くんが、私を守ろうと緊迫した顔で駆け寄ってきていた。 あっ、ダメだ。また同じ結末を迎えようとしている。
――いや…。
今度は私が清水くんを守る番だ。近付いてくる清水くんを、私は突き飛ばした。力の限り思いっ切り。
すると、清水くんは驚きを満面に宿した顔で吹き飛び、地面に尻餅をついた。
「…ありがと」
呟いた直後、車が私の身体に衝突。衝撃で吹き飛ばされ、宙を舞う。
痛いという感覚はなく無痛だった。多分、この後に激痛が待っているのだろう。
本来ならば私がこうして死ぬはずだったんだ。これが正解なんだ。
どうせこのまま生きていてもつまらない無味乾燥な日々が待っているだけ。
清水くんには才能がある。未来を生きるのは、清水くんが相応しい。
それに、短い期間だったけど、高校生活をまた満喫できた。私はそれだけで満足だ。
一つだけ心残りがあったとすれば、結婚したかったな。子供の顔が見たかった。もし生まれ変われるのなら、次は才色兼備の美少女がいいな。神様、お願いしまっせ。
やがて、私の意識は深い闇の底へと沈んだ――