数日後、果穂の容態が安定したとの連絡を彼女の父親から受けた僕が病室のドアを開けると、薄明かりの中で、果穂が眠っているように目を閉じている姿が目に入った。髪は少し乱れ、頬は痩せて見えたが、苦しげな表情ではなかった。
 「果穂……」
  静かに名前を呼ぶと、果穂はゆっくりと僕に顔を向けた。驚いたように目を見開き、次の瞬間、かすかに微笑んだ。
 「……涼くん、来てくれたんですね」
 その声はかすれていたが、果穂はゆっくりと身を起こし、体を引きずるようにベッドの上に座り直した。
 「無理するなよ。まだ休んでいないと」
 「休んだからと言って良くなるものじゃありませんから。そんなことより、涼くんに謝りたかったんです」
 果穂の言葉は冷静で、けれどもそれが本心から落ち着いているのだと思うことはどうしてもできなかった。
 「ごめんなさい、涼くん。急に倒れて怖がらせてしまいました」
 「いや、むしろ謝るのは僕の方だ。咄嗟に、どうしたらいいのか分からなくなって……でも無事で良かった」
 果穂は目を細めて笑い、静かな病室の中で、二人はしばらく無言のまま、 ただお互いの存在を確かめ合うようにそこに座っていた。
 沈黙が長くなり、僕はようやく重い口を開いた。
 「果穂は、本当に安楽死制度を受けるのか?」
 ずっと聞くのが怖かった。果穂がいなくなると考えただけで、体調が悪くなる。怖くて、避け続けてきた。
 「本当に、ですか。ええ、本当ですよ。気持ちは何も変わってません」
 果穂の声は静かだったが、決意は揺るがないようだった。
 「どうしてなんだ? 果穂に何があったのか、理由を教えてくれないか?」
 「涼くんがそこまで直接的に尋ねてきたのは、最初の頃以来でしょうか」
 果穂の口調に、かすかな皮肉が混じっているのを感じた。
 「茶化すなよ。適当にあしらっていいこととそうじゃないことの分別はついてるつもりだ」
 「茶化してるとは心外ですね。私はいつでも大真面目ですよ。大真面目に選んだ選択肢がこれです」
 果穂の表情が一瞬曇った。
 「何がその決断の引き金になった?」僕は彼女の言葉の裏にある本当の気持ちを探ろうとした。
 果穂は、まるで淡雪が降り積もったかのようなカスミソウを、どこか遠い記憶を辿るように寂寥めいた表情で見つめていた。
 「分からないが答えです」
 「分からない?」
 一体果穂は何を言い出したのだろうか。僕をからかっているようには見えなかった。
 「本当に分からないんです」
 果穂は深く息を吐き、言葉を続けた。
 「もちろん、理由はいくらでも挙げられますよ。最初に私が死を意識した瞬間は、余命宣告を告げられた時でした。無自覚に先があると思っていた道に、光の見えぬ穴がぽっかりと空いていたんです。おまけに、その道中には苦痛という荊が生い茂っている。逃げてしまおうというのは実に自然な選択肢です」
 果穂の言葉は淡々としていたが、その重みや苦痛はとても常人に耐えられるものではなかった。
 「次に私の病気による家族の不和ですね。それが治療費による家計の圧迫によるものか、完璧な家族に翳りが見えたことによる焦りなのか。私はただ今までのように過ごしたかっただけだったんです。口に出すのは恥ずかしいですが、私は家族が大好きだった。私という人間がいなくなることによって両親が元に戻れるのなら私が犠牲になるのも悪くないでしょう」
 果穂の声が少し震えているのに気づいて、僕は果穂の手を握った。その手は少し冷たく、力を込めれば、壊れてしまいそうな程か弱い感触が指先に伝わってきた。
 「友人関係の悩みもあるでしょうか。私は今日に至るまで、家族と涼くん以外の誰にも病気を打ち明けることができていません。中学、高校問わず、私の周りに群がる人種は、言わば暗闇で光に群がる虫のようなものでした。一見輝いて見える私の外面だけに固執して、実のところ誰も私自身に興味がある訳じゃない。好きな小説や価値観、誰一人私と一致する人間はいませんでした。私はそんな完璧な人間ではない、もうすぐ死ぬ人間なんだと言ってしまわなかったのは、少なからずプライドがあったからでしょうか。私という幻想が壊れることに恐れを抱いていたんです。愚かですよね」
 果穂の言葉は次第に早くなり、感情が高ぶっているのが感じられた。
 「世間からの冷たい対応も刺さりました。興味本位に、安楽死に反対運動をしている人に話しかけてみたことがあったんです。けれど、彼らの口から出る言葉はどれも無責任に自己本位のものばかりで、私達を完全な弱者だと認識していました。助けたいという人も、あくまで手を差し伸べてあげているだけなんです。つまるところ、私も人並みに世間に対して反骨心を持っていたんです。でも、そのどれも人生を諦めさせる材料としては足りませんね。私はそこまで弱い人間じゃなかったんです」
 果穂は一度深呼吸をし、僕の目をまっすぐ見つめた。
 「――ならどうして決断に至ったのかを聞きたいという顔です。けれど、分からないが答えなんです。ふざけている訳でなく、私にも本当に分からないんです。安楽死って、良くできた言葉だとは思いませんか? 死ぬという、最大級の絶望が含まれているのに、相反するような楽という字が含まれているんですよ。とんだ皮肉です。絶望してしまったから死にたいのか、死にたいから絶望してしまったのか。私にはそれすら分からなくなってしまったんです。ねぇ、どっちだと思いますか? 私は間違っていますか?」
 まくし立てる果穂に僕は圧倒されていた。しかし、認めてしまえば果穂を肯定することになってしまう。
 「……少なくとも、果穂がいなくなったことによって全部無かったことのように上手くいくはずがない。僕のことはもちろん、家族についてもそうだ」僕は何とか言葉を絞り出した。
 「そうですね、それは私も全面的に同意します。私がいなくなることよって以前の仲の良かった家族に戻るかと言われれば決してそんなことはないでしょう。むしろ、消えない傷跡として永遠に残ってしまうかもしれませんね」
 果穂は少し悲しそうに微笑んだ。
 「……でももういいんです。綺麗事でもなんでも、自分を納得させられるのなら何でも。私は疲れた、そう疲れたんです。体は日に日に衰えていっています。心の支えとなっていた風景画も、色鉛筆を握ることすら困難になって、小説はページを捲る作業すらしんどいです」
 果穂の声は次第に小さくなっていった。
 「嵐のように突然襲われる発作に怯えてまともに寝られていません。私の体なのに、もはや私の意思で動いていないんです。そんな状況でまだ生きていたいと思えますか? 生きていて欲しいと思いますか?」
 僕は言葉を失った。果穂の苦しみを前に、何も言えなかった。
 「私はもういいんです。世間では私を嘲笑う声もあるでしょう。神聖なものである命を侮辱してる、生きていればいつかいいことがあるはずだって。じゃあ、あなたが代わってくれればいいのに。どうして私なんですか?」
 果穂の声が、大きく感情的になった。
 「おおかた、父にでも頼まれたのでしょう? 私の選択をやめさせて欲しいと。そうすれば、確かに家族の意見はまとまるでしょうね。父は、母には強く当たれないですから、治療するという方向で話を纏めるのが一番都合が良いのでしょう。でも、そこに私の苦痛は何も考慮されていない。私はもう限界なんです。死は怖いです、一度だって経験したくありません。でも、同じぐらい今もまだ生きていることが怖いんです。いつ落下するか分からないジェットコースターに乗り続けるぐらいなら自分で落下のタイミングを決めた方が心の準備ができる分ましです」
 果穂は一気に言葉を吐き出すと、深く息をついた。
 「話は終わりです、私を説得しようと思っていたのならごめんなさい」
 僕は黙って果穂の言葉を聞いていた。彼女の決意の強さに、何も言い返すことができなかった。
 僕は何も理解出来ていなかった。果穂が抱えている苦痛、葛藤。分かっていた気になっていただけで、とっくに果穂の心は壊れていたんだ。
 「あの日、なんで僕に声をかけた? どうして僕を選んでくれたんだ」
 僕の質問に一瞬思考し、すぐに何を言っているのか理解したようだ。
 「どうして。それは何か特別な理由があると思っていたということでしょうか。――残念ですが、本当に偶然ですよ。急に関わるようになった異性と実は昔会っていました、何か重大な伏線が隠されている、なんてそれこそ物語の中の世界です。初めてと言いましたが、私は息苦しい学校において、気分転換として度々屋上を訪れていたんです。そんなある日、陰鬱な男子生徒を見つけた気紛れです。私のことを知らず、世界に絶望している。選んだ理由はそれ以上でも、それ以下でもありません」
 果穂にとっては、いくらでも代用の利く存在で、たまたまそれが僕だったというだけの話だった。僕でなければならない役目だと思い込んでいたのは、自意識過剰だったわけだ。自分の愚かさに、本当に頭を抱えたくなる。
 そうだよな、普通でない僕に声をかけるなんて()()があるに決まっているのだから。
 「でも、涼くんには感謝しているんですよ」果穂の表情が少し和らいだ。「以前、生きる未練、死ぬことへの未練という話をしたのを覚えていますか?」
 僕はうなずいた。
 「生きる未練とは、文字通り死が迫った時に感じるもっと生きたい、死ぬまでにやりたかったことを指す未練です。流行りのパフェを見たり、花火大会に行ったり。カメラを通してではありますが、実に沢山の経験を貰いました。本当に充実していて、おかげで世界に絶望せず済んでいたといっても過言ではありません」と果穂は言った。
 「では、死ぬことへの未練とは何でしょうか。言い換えれば、死の恐怖、不安。自分が死んだ後周りはどうなってしまうのかってことです。これはやはり家族や周囲のことだったのですが、こちらは最初から私自身との闘いでした。私が死ぬということは、その時点で全ての責任や重圧からも解放されるんです。結局はそれを受け入れることができるかだったんです」
 果穂はそこでまた一つ言葉を切った。
 「私は、豊かな人生を送っていたと思います。後悔を全くしてないとは言いませんが、与えられたものは実に恵まれていて。もう一度同じ人生を歩めるのなら歩みたいと思えるぐらい、私は自分を愛せていたし、幸せでした。待っていても失ってしまうものなら、自ら手放した方が幾分、気持ちは楽になる気がします。と、そこまで思考を落ち着かせることができました。つまり、未練は消えたんです」
 果穂は穏やかな表情で僕を見つめた。
 「ありがとう、涼くん。私の無茶な願いで、柄でもないことを沢山させてしまいましたが、涼くんのお陰です」
 過去一の清々しい笑顔を浮かべる果穂を、僕はまともに見れなかった。
 それはつまり、僕が果穂を殺したことを意味しているから。見てしまったら涙で前が見えなくなる気がした。
 「僕は果穂のことが好きだ。生きていて欲しい」
 突然の告白に、果穂の表情が凍りついた。
 「――それは本当に今言うべき言葉ですか? 私の発言の意図を何も理解してません。もし百歩譲って本当だとしても、私のためを思うのであれば伏せておくべきだったんじゃないでしょうか」
 僕はそれに返す言葉もなかった。沈黙が部屋に広がる。
 「……酷なことを言いましたね。もうここには来ないでください」
 果穂の声は冷たく、決意に満ちていた。僕は何も言えず、ただ黙って立ち上がった。最後に果穂を振り返ると、彼女は再び窓の外を見つめていた。
 
 灰色の雲が埋める曇天の下、病院の外には今日も反対運動をしている集団がいた。病院の自動ドアが開く音と共に、彼らの声が冷たい風に乗って耳に届く。僕は深呼吸をして心を落ち着かせてから、自分からその集団に近づいていった。
 群衆の中から、前回僕に声をかけてきた白髪の老人を見つける。その姿は、今にも倒れそうなほど痩せこけているにもかかわらず、どこか狂信的なものを感じさせた。
 「こんなことをして、安楽死を選ぶ人が精神を病むことになるとは思わないんですか?」僕は老人に問いかけた。
 老人は僕を認めると、やつれた顔に皺を寄せて微笑んだ。
 「逆だよ。私たちはこの活動によって、そういった人の目を覚まそうとしているんだ」
 「目を、覚ます?」
 「そうだ」白髪の老人は力強く頷き、その周囲の老人たちも同調するように頭を下げた。「どんな困難にあろうとも、生きてさえいればいいことっていうのは誰にでも起こるんだ。この年まで生きている我々にしか分からないこともあるんだよ」
 老人の言葉に、僕は思わず顔をしかめた。
 「この政策の対象となるのは、外にも出られないような患者ですよ。こうやってお元気一杯やれる僕やあなた方とは違うんです。恵まれた視点から、一方的に価値観を押し付けるのは違うんじゃないですか」
 「生きているっていうのはそれだけで素晴らしいことなんだよ。自ら死を選ぶなんて言語同断だ」老人は首を振る。
 「だから!」僕は苛立ちを感じながら反論した。「生きていることそのものに苦痛を感じる人もいますよねって話を僕はしてるんです」
 「さっきから君は何を言っているんだ。安楽死と言葉を変えてもやっていることは自殺と同じじゃないか」老人の声は、怒りの色が浮かんでいた。
 何故、こうも自分は絶対に正しいのだという自信があるのだろう。
 噛み合っているようで、絶妙に会話が噛み合わない。僕は気づかれぬように舌打ちした。
 「あなたたちのやっていることは、誰のためにもなってないって言ってるんです」
 猿でも伝わるように冷静に話すが、老人は心底理解できない、という表情を浮かべる。
 「意味が分からないな。私たちは望まぬ死を強制する仕組みについて反抗しているんだよ」
 「そもそもその前提が違うんですって」僕は声を荒げそうになるのを抑えながら説明を続けた。「安楽死制度のことをちゃんと理解できていますか? 外部からの干渉がないことは時間をかけて厳正にチェックされるんです。本人が望まない限り絶対に強制されることはありません」
 老人は僕の言葉を鼻で笑う。
 「それは結局、国の役人の仕事だろう? めちゃくちゃやってるに決まってる」
 病院の前で騒いでいる僕らの周りには、いつの間にかまばらに人だかりができ、好奇の目で注目を集め始めていた。僕は周囲の視線を感じながら、さらに食い下がった。
 「一体、何の根拠があってそんなことを言ってるんですか?」
 老人は周囲の仲間たちに同意を求めるように目を向けてから答えた。
 「皆言ってるよ。この政策は増えすぎた老人を間引くためのものだって。私たちは自分の身を守るために戦わなければいけないんだ」
 今日一番の衝撃的な発言に、目の前が一瞬暗くなったような気がした。僕は、思わず頭痛を覚える。
 「待ってください」必死に冷静さを保とうとするが、頭に血が上っていくのを感じた。「あなた方は、末期患者のために戦っているのでは?」
 老人はやれやれとでも言うように、肩をすくめた。
 「興味がないとは言わない。だが、まずは自分のことだ。私達老人は、まだ生きられるのにその芽を強制的に摘まれようとしているんだ。許せる訳がないだろう」
 僕はもう我慢の限界だった。
 「さっきからあんたらの言ってることは、何一つ分からない。これは末期患者に向けた政策であって、あんた達老人に向けた政策じゃないって何度言えば分かる?」
 「なんだその言い草は」「何様だ」と野次が飛ぶが気にもならなかった。
 白髪の老人は嘲るように笑った。
 「重病の患者なんて放っておいてもどうせ死ぬのだから大した問題じゃないだろう?」
 その言葉を聞いた瞬間、僕の中で何かが切れた。次の瞬間、僕は老人の顔面を殴っていた。鈍い音と、甲高い悲鳴が周囲から上がる。老人の体が後ろに倒れ、周囲の人々が慌てて支えた。
 それがこいつらの本音なのだ。本心から救いたいと思っている訳じゃない。ただ体のいい謳い文句にしていただけだ。殴ったはずの僕の手までじんじんと痛んだが、不思議と高揚感があった。心臓が激しく鼓動を打つのを感じる。
 僕は病院内から飛び出してきたスタッフによって半ば拘束されるように引き離された。白衣を着た男性看護師が僕の腕を掴んだ所で、僕は抵抗を止めた。
 「何があったんですか?」
 殴った理由を聞かれたが、僕は何も答えなかった。背後では老人たちの怒号が響き、口汚い罵りが聞こえた。既に、先に手を出した僕が全面的に悪いのだと認識できるほどには、頭は冷えていた。
 しかし、謝罪するつもりは毛頭ない。だって、あまりにも果穂が報われなかった。

 後日談として、僕は暴力沙汰を起こした代償として、緊急時を除き聖桜病院への出入り禁止を命じられた。
 本来であれば、通報され事件になってもおかしくなかった。しかしそうならなかったのは、目撃者による客観的な証言と、僕が殴った老人が事を大きくするつもりがないと提言してくれたおかげらしかった。どうやら、病院関係者により的確な説明が行われ、自分たちの認識に間違いがあったことを反省しているらしい。
 顛末はどうあれ、僕は果穂に会うことが事実上不可能になり、このことは学校や周囲に伝わることもなく内々で処理されることとなった。

 *
 
 病院での騒ぎから二週間程経った頃。何かをしていないと、僕はため息ばかりをつくようになっていた。冬の肌寒さが染みる土曜日の午後、僕は市の総合体育館へと足を向けていた。普段なら休日は家で過ごし、僕が遠出をするときというのは果穂絡みであるのが定番なのだけれど、今回はそうではなかった。
 試合会場に一歩足を踏み入れると、まず目に飛び込んできたのは大勢の観客だった。バスケットボールの弾む音、シューズが床を擦る音、選手たちの掛け声が響き渡る。まだ試合開始前だというのに、緊張感と熱気が空気を震わせていた。
 「坂口くん、こっちこっち!」
 底抜けに明るい声に振り向くと、薄浅葱(うすあさぎ)色のユニフォーム姿の佐藤さんが手を振っていた。いつもの制服姿とは違う彼女の姿に、一瞬どきりとする。
 なぜそんな会場に僕がいるのかと言えば、他でもない佐藤さんから応援に来て欲しいと言う連絡を受けたからだった。
 「話には聞いてたけど、本当に凄い賑わいだな」
 「ウインターカップだもん。特に、三年の先輩にとってはこれが高校生活最後の大舞台になるだろうし、そういう意味でも思い入れや注目度は高いんじゃないかな」
 彼女の言葉で、ここがどれほど重要な舞台か改めて実感する。今日行われているのは、女子バスケにおいて、インターハイと並ぶ二大大会の一つである、ウインターカップの予選準決勝だった。
 「僕なんかが来て良かったのか?」
 「もちろん! もっといい席にしてあげたかったんだけど、関係者席は坂口くんには息苦しいでしょ?」
 佐藤さんの視線の先に、数人のクラスメイトが見えた。確かに、あの中に混ざるのは少し気が引けた。
 「微力だけど応援してる。頑張って」
 「まっかせてよ!  私の活躍、しっかり見てなきゃダメだからね!」
 ウインクした佐藤さんは軽くジャンプしながら、チームメイトの元へ駆けていった。
 僕は上段の自由席に座り、もらったパンフレットを眺める。
 今日、我が校が戦うのは聞いたこともない学校だった。この試合に勝てば、次は決勝戦。そこで更に勝てば、晴れて全国大会という訳だ。
 しばらく見ていると、選手たちがコートに整列していた。両校とも出場しているのは三年生が多かったが、その中に佐藤さんの姿もあった。待ちわびた観客席からの拍手に、僕も釣られて控えめに手を叩いた。
 開始のブザーが鳴り、試合が始まると、その激しさに目を見張った。テレビで見る試合は、プロのカメラマンによって見やすいように工夫されたものだということを思い知らされる。現実の迫力は段違いで、集中しなければすぐに目まぐるしく状況が変わり、今、誰がボールを持っているのかすぐに見失ってしまう程だ。
 だが、そんなスピード感の中、一際目を引いたのは佐藤さんだった。彼女は、決して高い身長を持ってはいない。しかし、動き出し、裏抜け、シュートモーション。全ての動作が周囲より一瞬早いのだ。まるで動きのギアが周囲と一段違うかのようだった。
 相手のディフェンスを紙一重でかわし、軽やかなステップでゴール下から美しいレイアップシュート。その動きは、まるで重力を感じさせないほど滑らかで、僕は思わず目を見開いた。
 「ナイスシュート、××!」
 鮮やかすぎるゴールに、応援席からは悲鳴のような歓声。相手チームには落胆が見えた。
 佐藤さんの活躍は噂に聞いていたが、ここまでとは想像していなかったのだ。素人にも分かるほど繊細なプレーは、いつもの彼女からは想像できないもので、エースと呼ぶに相応しい貫禄だった。
 得点を決めた佐藤さんは、きょろきょろと周りを見回し、僕に向かってピースサインを送った。「やってやったぜ!」とでも言いたげな輝く笑顔で。
 僕はもう笑うしかなかった。

 ――結果から言えば、佐藤さんの所属する我が校は敗れた。だがどちらが勝っても不思議ではないほどの接戦だったことは、胸を張って言える。一進一退の攻防は、まさに息をのむような緊迫感に満ちていた。
 相手チームは長身のセンターを軸にした堅実なプレーで徐々にリードを広げていった。対してこちらは、やはり佐藤さんの活躍が光った。彼女の高速ドリブルは相手ディフェンスを翻弄し、絶妙なパスでチームメイトにチャンスを創出する。一人突破するたびに沸き起こる歓声は、まさに手に汗にぎる興奮だった。
 だからこそ。誰も最後のシーンを責めることなどできなかった。
 第四クォーター、残り二十秒。スコアは62-60で我がチームが追う展開。逆転を狙うなら、スリーポイントが欲しい場面。
 そんな局面で、主将である先輩がフリーでボールを受け取った。会場中がその一挙手一投足に注目する中、彼女はそれを裏切るように、あえてボールを佐藤さんに戻した。自ら放てば決まったかもしれない。それでも、この局面でパスを出したのは、佐藤さんへの絶対的な信頼か、それとも責任という重圧に屈したのか。
 苦し紛れに佐藤さんが放ったスリーポイントシュートは、美しい放物線を描いてゴールに吸い込まれるかに見えた。しかし、運命はその瞬間を僅かに捻じ曲げ、ボールはリングをかすかにはじいて外れる。
 ブザーが鳴り、試合終了。惜しくも2点差での敗北が確定した。会場全体が落胆の溜め息に包まれる中、佐藤さんだけがコート中央に立ち尽くしていた。

 試合後、ロビーで再会した佐藤さんの表情は複雑だった。汗で濡れた前髪を掻き上げながら、彼女はゆっくりと僕に近づいてきた。
 「お疲れ様。すごい試合だったよ」と僕は言った。
 「待っていてくれたの?」
 「……そうするべきだと思ったから」
 正直、待ち伏せているようで居心地は悪かったが、何か話さなくてはいけないという使命感に駆られた。
 「優しいんだね。でも、ごめん。私のせいで負けちゃった」佐藤さんは哀しげに微笑んで、「こんなはずじゃなかったんだけどな」と、呟くように付け加えた。
 「それまでの展開を作り上げたのは紛れもなく佐藤さんだし、誰が見たって今日のMVPは明らかだった」
 「でも、ここしかない大一番で。私が決めていたら勝てたのは事実だから。責められても仕方ないよ」佐藤さんの声は震えていた。
 「誰かにそれを言われたのか?」
 「……そうだよ」佐藤さんは、そっぽを向いて短く頷いた。でも、そんなことあるはずなかった。
 「それ、嘘だろ。今日の試合を見て、責められる訳ないんだ。一緒にプレーしてきた先輩たちなら、なおさら。感謝こそすれ、責めるなんてあり得ない。恨むべきは何もできなかった自分であるべきだ」
 僕にしては、珍しく感情的な言葉だった。最近、以前までのように感情を抑えることができなくなりつつあった。
 「……その通りだよ」佐藤さんはバツの悪そうな顔で小さく頷いた。
 「先輩たちは誰一人として私を責めなかった。むしろ『足を引っ張ってごめん』って謝られたぐらい。でもね、私はあと一年あっても先輩たちには()が無い。これで引退なの。私が決めていたら、まだ次につながったはずだった。そう思うと、自分を許すなんてできるわけないよ」
 「じゃあ、僕が許そう」
 被せるような僕の言葉に、佐藤さんは驚いたように顔を上げた。
 「僕は、ルールの基本くらいしか知らないほどバスケに疎いんだ。それでも、今日の佐藤さんは完全にチームを引っ張るエースだった。最後だって本当に紙一重だ。もう一度同じ場面が訪れたら、どっちに転ぶか分からないくらい拮抗してた。凄いんだよ、本当に凄いんだ」
 一度話始めたら止まらなくなっていた。
 「僕ですらこう思うんだ。誇っていい、何か言われたって逆恨みだと開き直ればいいさ」
 「……どうしてそこまで必死になってくれるの?」怯んだような佐藤さんの目に涙の粒が光っているのが見えて、僕はようやく冷静になった。
 何故僕はここまで必死になっているのだろうか。僕は少し考えてから、静かに答えた。
 「佐藤さんが、僕のことを見捨てないでいてくれたから。今思えば、半年前の僕がいかに腐ったダメ人間だったか、よく分かったんだ。世界に絶望して周囲の声が何も入ってこなかった。――でも、佐藤さんはそんな僕に見切りをつけずに、小さな変化にも敏感に気づいてくれたんだ。それが、すごく嬉しかった。誰かの目に自分の存在が映っていると思えた。だから、感謝しているんだ」
 嘘偽りない本音だった。僕は最初、佐藤さんのことを苦手だと思っていた。それがいつの間にか、少しずつ関りが深くなるごとに、彼女の優しさを素直に受け止められるようになっていた。苦手だと思っていた佐藤さんの印象は、気が付けば消えていた。
 「佐藤さんは、やっぱり笑顔が似合うと思う。胸を張って笑って欲しい」
 佐藤さんは、裾で目元をこすって鼻をすすった。
 「坂口くんが、ここまではっきり話してくれたのは初めてだね。……でもそっか、嬉しかったんだ」
 佐藤さんの笑顔が少しずつ戻ってきたのを見て、僕も安堵した。
 「本当のことを言うとね」佐藤さんは少し照れくさそうに言った。「今日は坂口くんを元気づけようと思って試合に呼んだの」
 「僕を……?」
 「うん、分かりやすかったよ。何か目標を失った抜け殻みたいな目をしていたから」
 相変わらずの観察眼だった。驚きはしなかったが、彼女の優しさに胸が熱くなるのを感じた。
 「それなのに私の方が元気づけられちゃうなんて本当に参っちゃうな」
 佐藤さんは照れくさそうに頬を赤らめ、何かを決心したように深呼吸をした。彼女は一瞬躊躇したが、すぐに続けた。
 「本当は今日、試合に勝って言うつもりだったんだけど……いいよね。坂口くん、私と付き合ってくれませんか?」
 僕の思考が凍りついた。佐藤さんは、この手の人の感情を弄ぶような嫌がらせを心底嫌う人だった。誰に対しても裏表なく接し、関わる人全ての幸せを願うような性格。それが僕の知る佐藤さんだった。
 だとすれば、この言葉は一体何を意味するのか。
 「……耳がおかしくなったみたいだ」と僕は言った。
 「ううん、おかしくないし私は大真面目だよ」と佐藤さんは言った。
 真っ直ぐな眼差しだった。そこに浮かぶ好意に気付かぬほど僕は鈍くもなかったが、それを受け止める準備ができているかどうかは別問題だった。
 「場所を変えようか」
 佐藤さんはそう言って、面映ゆげに微笑んだ。

 公園の近くを通り過ぎると、遊具で遊ぶ子供たちの賑やかな声が聞こえてくる。そこを過ぎれば、古い商店街。八百屋さんの店先には色とりどりの野菜が並び、パン屋からは焼きたてのパンの香りが漂っていた。
 黄金色に染まった空が、少しずつ紫がかった色に変わりつつあった。吐く息が白く霞む程の寒さだったが、不思議と体の芯は温かかった。
 「……有難い話だって分かってる。でも、正直嬉しさよりも戸惑いが勝ってる。どうして僕なんだ?」
 僕とは正反対の人格者である佐藤さんが、なんて趣味の悪い冗談のように聞こえた。
 「どうして、か。きっかけはいくつかあったけれど……今になって思えば、最初から気になってたのかもしれない」
 隣を歩く佐藤さんは、悴む指先に息を吹きかけていた。そうして佐藤さんは、ゆっくりと、まるで確かめるように語り始めた。
 「気づいてるとは思うけれど、坂口くんの家庭事情は、クラスでも有名だった。だから、二年で同じクラスになった時はイメージ通りの人が現れたなと思ってたの。私に兄妹はいなかったけれど、坂口くんと同じ状況なら、きっと同じように周囲を拒絶して、文字通り存在しない様に振舞う。積極的に声を掛けていたのに、同情が少しも含まれていなかったと言ったら嘘になるかな。けど放っておけなくて、どうにかできないか、私はいつも気になってた」
 その行動が哀れみからであったとしても、結果的に僕の心を温める材料になっているのだから佐藤さんは優しい人だと思った。
 「でも、ある時から坂口くんは変わったよね。それが誰かとの出会いからなのか、抱えていた問題が解決したのか。実際のところは分からない。危うさはあったけれど、以前よりも格段に前向きになって、明らかに似合わない趣味にも挑戦するようになった。正直、私はそのことに少なからず嫉妬してたんだ。私が成しえなかったこと、苦労してやっていることをいとも簡単にやってのけたんだから」
 佐藤さんは吐き出すように笑っていて、それは僕の知らない一面だった。
 「でもそれと同時に、凄い、と思ったんだ。絶望から這い上がれる強さは誰にでもあるものじゃない。私は皆がいうほど完璧じゃない。器の小さな私なんか、比べ物にならないぐらいの人としての強さを感じたの。唐突なのは分かってるし、こんなカッコ悪い形になってごめんね。でも、私とのことを真剣に考えてみて欲しいんだ」
 佐藤さんの言葉を何度も頭の中で繰り返した。
 「ごめん」
 僕は佐藤さんの顔を見れなかった。彼女がこれだけ誠意を見せてくれたのに、僕は反応が怖くて目を見て話すことすらできない。なんて不誠実なのだろうと自分を呪った。
 「佐藤さんはみんなの憧れで、僕なんかに到底釣り合うような人物じゃないと思っていた。だから、気持ちは本当に嬉しかったし、まるで夢みたいな話だ。でも実際の僕はそんな強い人間じゃないんだ。佐藤さんの忠告を無視した結果、僕は結局何もかも失敗した。根幹にあった過去への後悔も、棘のように深く根付いていて、未だ乗り越えられずにいる。僕は空っぽなんだ……何も残っていない」
 僕は、言いながら無意識に拳を握り締めていた。
 「失敗?」
 「――僕は、ある人と出会ったんだ。初めは、決して良い出会いであるとは言えなかったし、僕は彼女にとって体のいい協力者に過ぎなかった。むしろ、僕も妹によく似た境遇の彼女を利用して過去の清算をしようとしてたぐらいだ。そこに人としての強さなんて微塵もなくて、浅はかにも程がある。けれど、僕はそんな彼女からも拒絶された。今の僕には、まさに抜け殻って言葉がお似合いだ。魂を抜かれたような気分だよ」
 誰にも話せなかった本音を、まさか初めて話すことになるのが佐藤さんだとは、夢にも思っていなかった。
 「それは、本当に解決しないといけないことなの?」不思議そうに言う佐藤さんの言葉は寝耳に水だった。
 「僕の問題は結局何も解決していないんだ。このままなら、僕はまた前に戻ってしまう。いや、それならまだいい。でも妹はもう死んでいるんだ。逃げて時間で風化して、いつの間にか誰からも忘れられてしまう。それだけが怖いんだ」
 佐藤さんは首を振った。
 「正しくは、他に解決する方法はないのって意味かな。私にも悩みはあるし、後悔もある。誰だって持ってるものだよ。乗り越えることだけが解決じゃなくて、避けたり忘れたりするのも解決という選択肢の一つなんじゃないかな」
 「でもそれはこの場合、残った人間の勝手な解釈だ」
 「じゃあ坂口くんは何を持って解決だと思えるの? いくら願ってももう本心を聞くことはできない。どんな結末にしようとそれは残った人間のエゴに過ぎないんだから」
 返す言葉もない正論だった。
 「僕はどうしたら……」
 「抱えて歩けばいいんだよ。ふとした時に思い出す程度でもいいから、心にちゃんと刻んでおくの。清算してしまったら、もう思い出すこともしなくなる」
 「そんなことで解決と呼んでいいのか?」
 「苦しむことに意味があると思うのなら、私は否定しない。でも本当の意味で解決してるかなんて誰にも分からないよ。そもそも正解なんて、もうないんだから。これは生きている人間の権利でもある。取り返しのつかないことに対して折り合いをつけるのもまた人生なんだから」
 佐藤さんが示した道は、一つの正解のような気がした。
 「空の人間が人を気遣うなんてできないよ。坂口くんには心がある」
 決定的な言葉を発してしまえば、この関係が終わってしまう気がして怖かった。でも、言わないことが最も罪深いことであるのもまた分かっていた。
 「僕は好きな人がいるんだ。関係が進むにつれ、その人を手伝うことが僕の存在理由になっていった」
 好きな人に好きな人がいる。それがどれだけ辛いことであるのか。体験がなくとも想像できる痛みは尋常でなかった。もしも果穂に恋人が……なんて考えただけで吐き気がした。
 だが、佐藤さんはそのショックを顔に見せず微笑んだ。
 「知ってたよ」
 「……驚かないのか?」
 「私は、坂口くんが思っているよりも君のことを見てるんだよ。うん、なんとなく予想はできてた。私に対する視線に恋愛感情がないことなんて、見てれば分かるよ」佐藤さんは、悲し気に目を細めた。
 「だって、坂口くん私の下の名前すら知らないでしょ?」
 僕は、どう言葉を返せばいいか分からなかった。そんな筈はないと否定しようとして、頭の中で必死に佐藤さんの記憶を探った。しかし、どれだけ記憶を掘り返しても、肝心な部分にはもやがかかったままだった。
 そうして気付いた。僕は、クラスメイトの誰のフルネームも覚えていなかった。そんな訳があるだろうか、と何度も自問自答したが、返ってくるのは同じ答えだった。
 今、何を言っても説得力はなく、彼女を傷つけるだけのように思えた。
 佐藤さんは、そんな僕を可笑しそうに笑った。
 「違うよ、悪い意味じゃないの。もちろん傷つきはしたけれど、それが私に限った話じゃないのは分かってるつもり。特別な存在になれなかったのが悔しいだけ」
 「……僕を恨まないのか?」
 「どうして?」
 「仮にも、好意を向けていた相手が自分のことを全く考えてくれてないと分かったら恨みたくなるだろ」
 佐藤さんは、可笑しそうに笑った。
 「なんで私が坂口くんを恨まないといけないのさ。感謝こそすれ、恨みなんてない」
 感謝に至っては、本当に理解できなかった。
 「どうして? 理由を教えて欲しい」今度は僕が尋ねる番だった。
 「全く考えていないって言うけれど、本当に何も考えてないわけじゃないのが分かってるからだよ。名前なんて、知らなくても何も支障がないから必要ないんだよ。私に興味がないのならもっと雑に、邪険に扱っても良かった。でも、そうはしなかったよね。私はこの結末も、ちゃんと分かってた。それでも言葉にしたかったんだ」
 沈んだ太陽をバックに、佐藤さんは失恋後とは思えぬほど満面の笑みを浮かべた。
 「ありがとう。私に恋を教えてくれて」
 その言葉に、僕は言葉を失った。空の色は完全に紫に変わり、街灯が一つ、また一つと灯り始めた。その光の中で、佐藤さんの横顔が柔らかく浮かび上がっていた。

 *
 
 「話があるんだ」
 家に帰った僕は、開口一番そう告げた。僕が両親に対して話を持ち掛けることは久しくなかったので、リビングにいた両親は、突然の宣言に驚いた様子で顔を上げた。
 母は台所で夕食の支度をしていたが、蛇口から水を垂れ流したまま固まり、父は新聞から目を離し、眉をひそめて僕を見つめていた。
 「家族全員で話さなきゃならないことなんだ。やっと……覚悟ができた」
 僕の気迫に気づいたのか、両親は一瞬顔を見合わせた。
 「わかった」
 重々しい父の言葉で、母はようやく我に返ったように動き出し、タオルで手を拭いながら席に着く。落ち着かないのか、そわそわと僕の様子を伺っているのが分かった。
 今まで、僕は意図的に家族での会話を避けてきた。いや、きっと僕だけじゃない。みんな本心を語り合おうとはしていなかった。その枷を今外そうとしているのだと思うと、緊張するのも無理はなかった。
 僕は深呼吸をして、言葉を選びながら話し始めた。
 「この話をする前に……僕はとある女の子との出会いについて話さないといけない」
 そうして僕は、果穂との出会い、彼女が抱える病、そして彼女の未練を果たすことが月乃への後悔を晴らすのに繋がっていると思っていたことを、ゆっくりと、時には言葉を詰まらせながら話した。
 「僕にとっての後悔は、月乃にとっていい兄になれなかったことだった。ずっと冷たくしていたし、最後の瞬間も温かい言葉をかけることができなかった。謝りたかったんだ。謝って、今度は月乃のわがままを、気が済むまで聞いてやりたかった」
 声が震えそうになるのを、拳を握りしめることで無理やり抑え込んだ。
 「そんな後悔を、似た境遇の果穂を手伝うことで……月乃への罪滅ぼしにしていたんだ。でも、もっと最悪なのは、彼女に出会うまで月乃への後悔を忘れていたってことだ。僕はただ漫然と日々を過ごすうちに、自分の行いを正当化して、忘れていたことすら覚えていなかった。僕にも心配して声を掛けてくれる存在がいた。手を差し伸べてくれる友達も、同じ悲しみを分かち合える家族も。けれど感情に任せてその手を拒んだのは、他でもない僕自身だった。決して周りに非があった訳じゃない。扱いづらい、腫物であろうとしたのは僕自身でどうしようもない屑だ、言い訳のしようもない」
 僕は顔を上げ、両親の表情を確認した。二人とも静かに、真剣な面持ちで僕の話を聞いていた。
 「でもその日々のおかげで、僕は月乃が抱えていた気持ちを少しだけ理解できたんだ。月乃は確かに感情表現が苦手な子だった。でも、心がないわけじゃない。不安な時は僕の服を握っていたし、嬉しい時は鼻歌を歌っていた。泣き言を一度も口にしなかったのは周囲を心配させたくなかったからだ」と僕は言った。
 「僕は……いや、僕たちは。忘れる必要なんてなかったんだ。忘れずに抱えて歩けば良かっただけだった。二人はもっと前に気づいていて、僕が切り出すのを待っていたのかもしれない。でも僕はこんなにも遅くなってしまった」
 頭の中には、月乃の華奢な手の感触、母の泣き顔、父の笑顔がフラッシュバックするように浮かんでいた。
 「月乃は僕のことを恨んでいなかったかもしれない。最後の瞬間だって、自分のことよりも僕への感謝を伝えることを優先するような優しい妹だった。都合の良い想像だと思うかもしれない。……だけど、そう思えるようになったんだ」
 僕が話し終えて、長い沈黙が流れた。その時間は、永遠のようにも感じられて、穴が空くほど見つめた机の木目は、ぐらぐらと不規則に揺れていた。
 「涼はもう大丈夫なの?」母の声は、不安を確かめるような調子だった。その言葉に込められた様々な意図が透けて見えた。
 「僕はもう大丈夫だよ」それは自分に。そして両親に、月乃に、果穂に、佐藤さんに。僕と関わった全ての人に向けての大丈夫だった。
 母は、それを聞いて安堵の笑顔を浮かべた。
 「死んでも胸の中に生き続けている、なんて慰めを言う気はないわ。家族がいなくなったことはどうしようもない事実で、ぽっかりと穴が空いたことは間違いない。でも、だからと言って忘れる必要はないのよね」
 「父さん、母さん。今まで心配かけてごめん」僕は深く頭を下げた。ずっと言わなければいけないと思っていた言葉に、ようやく肩の荷が下りた気がした。
 「こちらこそ、すまなかった。俺も距離の取り方がわからなくなっていたのかもしれない。いつも、当たり障りのない会話ばかりして、何もしていない訳じゃないと思い込もうとしてた」
 「私も、悪い方ばかりに想像を膨らませて、涼が変な方向に進んでしまうんじゃないかって神経質になっていたの。もっと涼の気持ちを尊重してあげればよかった」
 それぞれの本音を吐き出し、長年積もっていた靄が晴れていくような感覚があった。
 「でも、涼にはまだやることがあるんだろう?」
 父が僕を温かな目で見つめていた。僕にとっての問題とは、家族のことだけではなかった。
 「そうなんだ。でも、どうしたらいいか分からない。拒絶されてしまった上に、会えたとしても何を言えばいいのか……」僕は躊躇いながら答えた。
 「どうするかを考えるのは、最悪、話が始まってからでもいいんだ。本音を口にさえすれば、少なくともその熱意は伝わる。お互いの心の中にある感情を吐き出して、その中で一致した点、妥協点をすり合わせることでしか問題は解決しない。なんて、俺が言うことじゃないかもしれないが」
 僕は父の言葉を噛み締めるように頷いた。
 「……どうにかして話し合いの場を作れるようにする」
 「あぁ、頑張れ」父は力強く言った。
 母が最後に付け加えた。「最後に私から一つだけ」その目は優しく潤んでいた。「月乃は、涼のことを凄く慕っていたのよ。本人にそれを伝えなかったのは照れ隠しだったのかもしれないわね。涼がお見舞いに来ると知ると、熱心に髪をとかしていたの」
 その言葉に、僕の記憶の中の月乃の姿が鮮明によみがえった。確かに、闘病中でも月乃はいつも滑らかで絹のような黒髪をしていた。
 僕は立ち上がった。居ても立ってもいられなかった。
 「頑張ってね」「頑張れよ」
 背後から両親の声が聞こえた。その声は、世界一僕の背中を押すものだった。
 
 *
 
 薄暗い夕暮れの光の中、視界の隅で、父がまた花を入れ替えているのが見えた。必要ないと幾度となく伝えているのに、毎週健気に続ける父の姿に、言葉にできぬもどかしさを覚える。
 白い病室の壁に映える色とりどりの花々。その鮮やかさは無条件で心を晴れやかにするもののはずが、私にとっては現実味がない。生命力を象徴するはずのものが、かえって私の無力感や孤独感を強調させていた。かつては「スケッチの対象」という建前があった。けれど、神経が麻痺し、色鉛筆を握れなくなった今、その存在価値すらゼロに戻っていた。
 手入れするのも結局父であるのだから、そんな無駄なことやめてしまえばいいのに、と指先のしびれを感じながら思った。
 唯一の救いは、枯れる前に新しい花に変えてくれることだけだった。枯れていく姿を目の当たりにしたら、私は否が応でも自分を投影し、それをストレスの一部にしてしまっていただろうから。花の命の終わりが、自分の終わりを象徴するようで怖かった。
 父は、いつものように身の回りの世話を終えると、重い足取りで病室を後にした。
 ようやく訪れた静寂に、安堵すると同時に不安が押し寄せてきた。孤独というのは、昔から私の中のネガティブな考えを加速させる触媒だった。
 自分と向き合う時間が一番しんどい。心の奥底から湧き上がる自己嫌悪の波に、どう抗えばいいのかわからない。
 自分がどれだけ代替の利く人間か、自分がどれだけ無力な人間か、自分がどれだけ価値のない人間か、自分がどれだけ愛されていない人間なのか。冷酷な現実が、容赦なく突きつけられる気がするから。
 孤独が怖い。一人にしてほしい。私を分かって欲しい。簡単に理解されたくない。生きることから逃げてしまいたい。死にたくない。何から何まで矛盾してる。でも、全部本音だった。全部、私の悲痛な叫びだった。
 考えて絶望して、また考えて。そうしてまた、自分の事が大嫌いになっていく。
 ――そういえば、とふと思い出したようなふりをした。
 そういえば、こんな私を好きだと言ってくれた男の子がいた。一人でいたいと願う私を決して一人にしてはくれず、これでもかと希望を見せつけてきたあの男の子。すっかり遠くなってしまった温かな日々を思い出し、胸が締め付けられた。
 だが、もう会うことがないのを知っている。私が彼を拒絶した日、彼は病院で暴力沙汰を起こし、事実上の出禁になったらしい。そんな訳があるだろうか、と耳を疑った。
 彼は、たとえ争いに巻き込まれようとも傍観者の立場を守り決して矢面に立つことはない。感情よりも面倒を優先させる人種だと思っていた。そんな彼が、なぜ。現実を受け入れられない自分がいた。
 でも私にそれを確かめる術はないし、何より拒絶したのは私なのだ。私が彼の心を壊し、自暴自棄にさせたのなら、関わる資格なんてあるはずがなかった。
 ……そのはずなのに。未だ心の中では彼を忘れられていないことがどうしようもなく胸を苦しくさせた。
 
 突然、リズミカルにノックする音が病室に響いた。わざわざノックするということは家族ではない。予期せぬ来訪者に、深呼吸した。
 涙を隠して大丈夫だと言い聞かせたり、笑えない時に無理やり笑顔を作ったり。そんなことをしているうちに、私はすっかり本心を隠すのが得意になっていた。
 開かれたドアに、首だけ動かして私は渾身の笑顔を向けた。鏡で見慣れたその表情が、どれほど空虚に見えるか。分かっていても、私にはこうするしかなかった。
 そこに立っている人を見た瞬間に、私の心は飛び上がった。信じられない光景に、目を疑う。
 「……どうして?」
 「お待たせ。待たせちゃって悪かったな」
 いつかのように引き攣った笑顔で、賺したように涼くんは言った。
 
 *

 内心かいた汗に気付かれぬように、僕は精一杯の決め顔で話しかけた。額に浮かぶ汗を拭いたい衝動を必死に抑える。
 果穂は、予想通り驚いてくれたけれど、僕自身も驚いている。ここまで来るのは、本当に大変だったのだ。幾度となく諦めかけた道のりを、僕は振り返る。
 まず目下の問題は、僕に課された出入り禁止だった。これがある限り、いくら僕が望もうとも叶わない願いであるのは言うまでもない。
 しかし、できることは多くなかった。直接、直談判に行くと言うのは前回の二の舞になりかねない。加えて、運よく入れても交渉する前に追い出されてしまうことも考えられた。
 となると、僕が頼れるのは果穂の父しかいなかった。何でも協力しよう、と言ってくれてはいたが、まさか出禁解除の交渉をさせられるとは思っていなかっただろう。申し訳なさと焦りが入り混じる中、事情を説明したところ、気持ちよく引き受けてくれたが報告は芳しくなかった。
 だが、仕方ないと言えば仕方ない。内容はともあれ、僕は無抵抗、それも老人を殴ったのだ。病院側もそんな危険人物をおいそれと招き入れる訳にはいかない。怒りに任せて取った行動の代償は、あまりにも大きかった。
 動きのないまま数日。いよいよ途方に暮れていたのだが、何故か立ち入りを許可する旨の連絡が果穂の父から僕に届いたのだ。明確な理由は分からなかったが、突然病院側から許可が下りたらしい。
 どうにもすっきりとしない答えだったが、なにはともあれ僕は果穂に会いに行く権利を再び取り戻したわけだった。
 「どうして……いや、どうやって来たんですか」
 果穂の声には、怒りが込められていて、まるで不審者を見る目つきだった。そうなるのも無理はない。彼女は僕に絶交を言い渡し、この病室への立ち入りも禁じられていたのだから。
 「まず、誤解しないで欲しいけど忍び込んだわけじゃない。ちゃんと、正規の手順に則ってこの場に立ってる」僕は深呼吸をして、できるだけ穏やかな口調で答えた。僕を見る目が不審者から変質者に変わった。
 「だとしても、もう来ないで欲しいと伝えましたよね」
 「確かにな。でも思い出してほしい、僕は頷いてないはずだ」
 かなり無理のある言い訳だったが、今すぐに追い出されることだけは避けたかった。果穂は、あの日の光景を思い出しているのか、数秒目を閉じた。
 「……屁理屈です」
 「そうだよ、屁理屈だ。僕は僕が来たいからここに来た。それだけで充分だろ」
 再び目を開けた時、その瞳には諦めの色が浮かんでいた。僕はいつまでも粘るつもりで、こうなった僕に理屈が通じないことは果穂もわかっているようだった。
 「一体何をしに?」
 「もちろん、話をするため」
 「私と何を話すって言うんですか。父から頼まれて説得しに来たのなら余計なお世話です」
 「それは違うな。確かに僕は、果穂の父親にある頼みごとを受けてた。でもそれは、果穂の選択を尊重して、寄り添ってあげて欲しいってことだ。つまり、これから話すのは僕の意思だ」
 「……僕の意志?」
 果穂の声は、訝し気で、苛立ちすら感じられた。でも僕はそんな果穂のガラスみたいな瞳をまっすぐ見つめた。
 「僕から何かを話すことは、中々なかったから。たまには聞いてくれてもいいだろ?」
 果穂は何も答えなかった。僕はそれを勝手に肯定だと判断して話を始めた。
 「信じてもらえるか分からないけれど、昔の僕はそれなりに陽気な性格をしていたんだ。友達は多かったし、周囲からは器用な子供だと持て囃されていた。今じゃ考えられないよな?」
 同情を誘うような語り草に、果穂は微塵も反応を示さなかった。だが、僕は構わず続ける。
 「反対に、僕の妹は喜怒哀楽の感情表現というものが苦手で、周囲と壁を作り、いつも飄々としていた。妹は月乃という名前だった。――僕は、実のところ月乃を疎ましく思っていたんだ。体の弱さから両親の心配を一身に集めていたからね。家族仲は良い方だったけど、僕が月乃に対して温かに接していた記憶はないし、月乃もまた僕に対して何かを頼ったりはせず……とにかく兄妹仲に限っていえば理想の関係とは言えないものだった。そうは言っても血を分けた兄弟だ。僕は、月乃が死んだことでようやくその存在の大きさに気付いたし、裏を返せばそれまで意識すらしていなかった。だから、月乃は、何もしてくれず自分のことばかりだった僕を恨んでいるはずだと思ったんだ。それが後悔となって、僕の心を最近までずっと蝕み続けていた」
 「それは聞きました。その罪滅ぼしに、よく似た私を使っていたんですよね」
 果穂の声は冷たく、拒絶するようだったが、僕が本当に伝えたかったのはこれからだった。気合を入れなおすように背筋を伸ばした。
 「そうだ。確かにそれは間違いじゃなかったけど、最初から間違いだったんだ。月乃は、僕のことをたった一人の兄として、不器用ながらも頼ってくれていた。慕ってくれてすらいたかもしれない。そのことに、最近ようやく気が付いたんだ」
 「それは直接聞いたんですか?」果穂の皮肉の籠った問いかけに、僕は素直に答えた。
 「いや、全部想像だよ」
 「だったら涼くんはこれからも苦しむべきです。真実はどうあれ、彼女の救いを求めた手を取ろうともしなかったのだから」
 いつになく挑発的なのは、果穂にとって病気で亡くなった人は、無関係に思えなかったのだろう。自分が死んだ後に虫のいい考えで乗り越えようとするのは気に食わないよな、と思った。
 「もちろん、過ぎた過去を美化してしまうなんてありふれた話だし、僕に都合が良すぎるのは自覚してる。僕が冷たくしていた過去が消えるわけでも、月乃のために何かをしてあげたらという後悔が無くなった訳でもない。ただ、僕は忘れるんじゃなく、これからも一生月乃への想いを抱えて生きる覚悟が出来たんだ。ようやく本当の意味で前を向くことができるようになった」
 「それはただ開き直っているだけです」
 「そうかもな。でも、それは生きている僕の特権でもあるし、償いでもあるんだ。僕は自分を信じさせることができるぐらいの言葉を沢山もらった。それはもう色んな人に。僕はもう自分を責めてふさぎ込むのをやめたんだ」
 開き直った理論というのは、ある種無敵に近い。果穂はこれ以上は無駄だという様に、視線を僕から逸らし半ば諦めたように、深く息を吐きだした。
 「今更そんな話を私に聞かせて、何のつもりですか」
 僕は自分の過去を乗り越えたという話から、果穂に何を伝えたかったのだろうか。自分の中の感情を言語化しようとするが、取り出そうとするとまるで霞のように溶けて消えていく。
 言葉に出来ぬ歯痒さに、僕は父の言葉を思い出した。思いの丈を余さず伝えれば、理解してもらえるかもしれない。浮かんできた言葉を、端から並べていくことにした。
 「つまり僕はさ、あの映画を見てからずっと考えてたんだ。愛し合う二人、言い換えれば、信じあえる二人ならどんな困難だって乗り越えていけるはずだって」
 脈絡のない言葉に、果穂は明らかに不満げな表情を浮かべた。
 「私の言ったことを忘れたんですか。行き過ぎた理想は身を滅ぼします。お互いの幸せのために妥協ラインを設定して、引き際を見誤らないことが大事なんです」
 「果穂は利口だよ。僕なんかよりも、よっぽど深く世界を見透かしているんだと思う。きっと現実は、愛や理想論だけで乗り越えていけるほど甘くはなくて、残酷なほど冷たいんだろう」自分の言葉を確かめるように、ゆっくりと言った。
 「でも、時に感情論こそが意味を持つ時っていうのもあるんだ。不可能ばかりを口にして、夢を見ることを諦めてしまったら、本来掴めていたはずの幸せすら取りこぼしてしまうかもしれない。その時こそ、真の意味で人は抜け殻になってしまうんじゃないか」
 「だからそれが理想論だって言ってるんです。どうにもならない問題というのは、どこまで行ってもどう足掻こうとも変わらない」僕の熱と対照的に、果穂の声は冷えていた。
 「その通りだよ。全面的に果穂が正しいさ。でも、その選択が正しいかどうかに興味なんてなくて、僕が正しいと信じられるかこそが大事なんだ。僕にとって、助けたい人は果穂で、支えて欲しい人も果穂だ。僕は果穂がいたら何でも乗り越えられると自分を信じさせることができる」
 「さっきから本当に何を言っているんですか? 今涼くんが言った内容は、自分よがりのものばかりです。支えて欲しいから生きて欲しい、僕はこう思う様になった。全部涼くんの主観でしかありません。私はもう耐えられないんです。今すぐにでも逃げ出したい、怖い、でもどうしようもない、苦しい。どうして私のことを考えてくれていないんですか」果穂の瞳は潤んでいて、声も震えていた。
 「考えてるさ」僕は、そんな果穂を落ち着けるように静かに言葉を紡ぐ。
 「一体どこが」果穂の目がまっすぐ僕を捉えていた。その瞳に映る自分を見て、自信を奮い立たせる。
 「言っただろ。信じあえる二人ならどんな困難だって乗り越えられるはずだって。僕が話しているのは青臭い理想論で、現実に幸せになれる可能性なんて万に一つもないかもしれない。でも、奇跡が起きるかもしれない時に死んでいたら、奇跡なんて起きようがないんだ。果穂にとって、明日を生きていたいと思わせる存在に僕はなりたい。何のために生きているのか分からないのなら、僕のために生きていると思えばいい。絶対にないなんて、誰にも否定できないんだから」
 「それは悪魔の証明です。誰にも否定できないということは、誰にも断言できないんですから。そんなあやふやなもののために、私に生き続けろと?」
 「僕の言ってることは支離滅裂で破綻してるんだろうな。僕はただ、果穂がいない日常が怖い、果穂がいない生活に慣れるのが怖い、いつの間にか風化して消えてしまうのが怖い。ただそれだけなんだ。僕のことをどんな手を使っても信じさせてみせる」
 自分が何を伝えたいのか、果穂が何を言っているのか僕はまるで覚えていなかった。とにかく、僕は果穂と一緒に生きて居たかった。
 果穂は、僕の言葉を必死に整理するように、何度も言いなおし少しずつ頭に染み込ませようとしていた。
 「自分勝手にも程があります……私はもう体をほとんど動かすことすら出来ません。こんな状態で、涼くんは私のことを愛せるんですか?」
 「逆にその程度で僕が果穂を愛せないと思っているのなら心外だな。果穂の考え方、性格、価値観、どれもが僕と違って新鮮だった。それは何も変わっていない」
 僕が何一つ嘘をついておらず、全て本心から言っていることを察したのか、果穂は黙り込んだ。
 「……私はまだ生きていてもいいのでしょうか」
 それが自分自身のことでなく、家族のことを気遣っているのだと伝わってきた。今更家族に合わせる顔がないなんて思っているのだろうか。
 「僕が保障する。どんな結末であれ、果穂の選択を尊重してくれるのは間違いない」
 僕の言葉に、果穂は目を伏せた。
 「私は、生きていていいんですか?」
 今度は僕に向けられた言葉だと分かった。僕は、自信を持って頷いた。
 「僕は果穂が好きだ。少しでも長く一緒に生きて居たい」
 心臓は飛び出るように高鳴り、焼けるように熱い喉で、僕は渾身の愛の告白を口にした。
 「私も、涼くんが好きです」
 ずっと隠していた不安を打ち明けるかのように戸惑いながら、でも確かにそう口にした。
 
 僕らはこの時、確かに心が通っていた。僕は確かめるように果穂と唇を合わせたし、果穂もそれに応えた。
 それが虚勢だとしても、信じあえる二人なら、どんな困難も本気で乗り越えられる気がした。
 神はもう既に僕らに残酷なまでの運命を課してきた。その苦労を乗り越え、やっと報われる時が来たのだと思った。
 僕らは奇跡が起こることを確信して眠った。
 ――それから果穂は、約二カ月後の三月七日に死んだ。