何かを叩くようなくぐもった音が耳に届いて目を覚ました。すぐにまた同じ音が耳に届き、誰かがドアをノックする音だと気が付いた。随分と濃密な夢を見た。目尻に違和感を覚えて指を当てると、水滴がついた。勢いよく目元を擦って、僕はベッドから降りた。
 ドアの鍵を外すと、廊下に彼女が立っていた。最初彼女は俯いていたけど、泣き腫らしたみたいに赤くなった目で僕を見上げた。
「……どうしたの」
「……様子が変だったから、確認しに来た」
「……どちらかというと、今は君の様子の方が変だけどね」
「…………」
「とりあえず、入りなよ」
 僕が言うと、彼女は素直に従って部屋に入って来た。彼女は長方形を成すベッドの短い辺の縁に腰掛けた。僕は彼女の隣に座った。
 しばらく沈黙が走って気まずい思いでいると、彼女が不意に口を開いた。
「さっきは、ごめんなさい」
「……え?」
「叩いた」
「……あれは、僕が悪かったから。どうかしてたよ。ごめん」
 彼女は僕に一瞥をくれてからすぐに視線を逸らし、頷いた。それからまた沈黙が続いた。僕はただ、彼女が話し始めるのを待った。どう声を掛けたらいいのかも、どうして彼女がしおらしくなっているのかも見当がつかなかったからだ。
 おそらく十分くらいお互いに何も話さなかった。いよいよ僕が何か言うべきかと思っていると、彼女の方が沈黙を破った。
「嫌な夢見た」
「…………夢?」
「お父さんが家から出て行った時の夢」
 彼女は唇を噛みながら言った。
「ねぇ、なんでひなのなんだろう」
「……え?」
「なんでひなのが死なきゃいけないの? なんで私じゃなくて、ひなのが病気にならなきゃいけないの? あんなにも良い子なのに。汚い私の方が、よっぽど死んだ方がいいのに」
 彼女は両手で顔を覆って泣き出した。
「私、最低だ」
 今まで抑圧してきた感情を一気に爆発させるように彼女は声を上げて泣いている。震える彼女の背中に、僕は手を置いた。
「どんな夢を見たの?」
「…………昔の記憶だった。お父さんがある夜に、ひなのを捨てて自分について来いって言ってきた。あの時、行かないって言わなければ、幸せだったのかなって。もしあの時、振り返った時にひなのの寝顔が目に入ってこなかったら、私は幸せな人生を送れてたのかなって、そんなことを思ってしまった」
 彼女は呼吸を乱していた。僕は背中をさすり続けて、彼女に深呼吸するように言った。彼女は声の混じった上擦った呼吸を繰り返した。肩を上下させる幅が徐々に小さくなっていき、最後に深く息を吐いた。
「昔、ひなのと一緒に生きる選択をした自分は間違ってなかった。それは、断言できる。でも、自分を許せなかったのは、自分の耳に届いた『あの時、お父さんについて行ってたら』っていう言葉が、今の自分の声だった。それって、無意識のうちに私がひなののことを責めてるってことだと思った」
 彼女は諦観したように「最低だよね、私」と含み笑いをした。彼女は僕の胸元に頭を預けてきた。僕は内心、動揺した。
「なんか、あんたにはよくこういう話しちゃうね」
「……こういう話?」
「なんとなく、同じではないにしろ境遇が似ている気がしてるのかも。誰かに対する後悔があるところも、語弊を恐れずに言うと結局は報われなかったところも。本当に性格悪いこと言うけど、恵まれてる周りはいいねっていつも思ってた。本当につらい人の気持ちなんか知らないだろうし、知ろうとも思わないほど恵まれていていいねって独りよがりな僻みを持ってた」
 彼女は自嘲するように笑った。
「私、死神の才能あるかも」
「……どうかな。君は死神になるには惜しいくらいに人格者だと思ってるよ」
「どこがよ」
 彼女は思わず、といった要領で笑った。
「僕が隣にいることを許してくれている時点で、君は死神にはなれないよ。死神になるには、君が思っている以上にもっと世界から嫌悪される存在である必要がある」
 僕は彼女の頭を撫でた。彼女は少し面喰らったように口を開いた。僕は、彼女の額にキスをした。
「君が星になったらきっと、驚くほど綺麗なんだろうね」
「な、なにそれ。急になんなの」
 彼女は慌てながら立ち上がった。彼女を見上げたまま僕は言った。
「残念ながら僕は、星じゃなくて灰になる存在なんだ。死神になってみて、僕は自分の身体が全くの別物に変化した自覚がある。宇宙に存在する物質は、人間の身体を構成する成分を含んでいる。でも、死神はその物理法則から外れてしまっている。存在するはずのない、存在が許されていない禁忌。星になる素質がない。それが、死神だよ」
 僕が捲し立てると、彼女は何かを言おうとした。けれど、思いとどまったのか言葉を呑み込んだ。
「さっき、死神に支配されて分かった。本当の闇を理解した。そんな闇を君は拒否した。大丈夫。君は光を望む良い人だよ」
「……ありがと」
 彼女は何故か不機嫌そうな声で言った。
「何か気に障った?」
「…………色々ひどいことは言ったけど、あんたのこと、良い人だって思ってるよ」
「……それは意外だね。寿命も半分もらってるのに」
「言われてみれば。前言撤回しようかな」
 彼女は、そう言って笑った。先程までの自嘲を混ぜた笑いなんかじゃなくて、自然と現れた笑顔に思えた。
「なんで笑ってるの?」
「……僕、笑ってた?」
「笑ってたよ」
「君が笑ってたからかもね」
「……どういう意味?」
「さぁ」
 彼女は「なにそれ」と言いながら僕に尋問してきた。けれど、僕は確固たる意志で口を割らなかった。
 それからしばらく他愛の話が続いた。その会話の中で、彼女はふとこんな話をした。
「私、死んだらあの湖に骨を撒いてほしいな」
 カーテンを開け放った窓越しの湖を見ながらの言葉だった。僕は思わず彼女の横顔を凝視した。しばらく彼女がぼんやりと外を眺めている様子を見守っていると、突然こちらを振り返った。僕は思わず上体を逸らした。
「頼んじゃおっかな」
 悪戯っ子のような笑みをこちらに向けながら、彼女は上目遣いで僕の表情を窺った。
「……僕がそんな大役を背負っていいの?」
「いいの」
「君の命を奪う相手だよ」
「だから、その償いとして、引き受けてよ」
「……検討しておく」
 彼女は僕の言葉に満足そうに頷いた。彼女が何を思っているのかは、分からなかった。
 それから、僕たちがどうしたのかは全く記憶にない。気が付くと、カーテンが開け放たれているのをいいことに、太陽光が得意げにベッドの表面に光の水溜りをつくっていた。
 思わず唸りながら寝返りをうつと、目の前に彼女の寝顔があった。声こそ出さなかったものの、勢いよくベッドから飛び降りた拍子に彼女が目を覚ました。髪を跳ねさせながら眩しそうに欠伸をした。口元をもごもごさせた後、僕と目が合った。細められていた目が徐々に見開かれ、驚愕に満ちた眼球が今の状況を把握し出した。
「うわっ」
 彼女は頭を抱えて叫んだ。
「え、どうして。やだ、私……」
 彼女は狼狽えながら独り言を呟いた後、再び僕と目が合うと急速に顔を赤くした。枕を手にして顔を隠した。それから顔の半分だけ覗かせて気まずそうに口を開いた。
「ごめん」
「……ぷっ、あはははは」
「……え、どうしたの?」
 彼女は僕が突然笑い出したことに戸惑っている様子だった。無理もない。ただ、いつもしっかりしようとしている彼女が、こんなポンコツな姿を見せてくれたことが可笑しくて、嬉しかった。
 ……どうやら僕は、彼女が嬉しいと自分も嬉しくなるようだった。
 恥ずかしがる彼女をドアまで送った。ドアを開けると、目の前の廊下に彼女の妹が立っていた。
「そこで死神さんと何してたの?」
 僕も彼女も予期せぬ事態に固まった。
 彼女はなんとか彼女の妹に説明し、お互いの部屋に戻って各々帰る支度をした。ホテルをチェックアウトし、ローカル線と新幹線を乗り継いで地元に戻った。幸い、彼女の妹が骨肉腫の痛みを訴えることはなかった。
 ただし、旅行を終えてから一週間が経つと彼女の妹の容態が悪化した。いよいよ、彼女の妹は自分の命の灯火を守ることが難しくなったようだった。僕が二人と初めて接触した時点で、彼女の妹の余命は少なくとも半年以下だった。そこに契約が加わったことで、寿命はさらに半分になった。つまり、彼女の妹の余命は最大で3ヶ月ということになり、残された時間はあと僅かだ。
 彼女は、そんな状態に置かれた彼女の妹の見舞いを毎日続けた。一日中、彼女の妹の側についた。
 全てとは言わずとも、自分がいよいよ本当に人の命を奪っていることを実感し始めた。僕も彼女と共に彼女の妹のお見舞いをするけれど、一体二人はどういう思いを抱いているのだろう。
 僕は今更になって、恐ろしく図々しい感情が湧いてくるようになってしまった。我ながらほとほと嫌気が差してしまう。
「二人とも、生きてほしい」
 死神にも人間にもなりきれない半端者の愚かな願いだけれど、切実なものだということは疑わないでほしい。万人から笑われたって構わない。
 それでも、僕は願わずにはいられない。