閉め忘れたカーテンを両端に追いやって侵入してくる太陽光と目が合いながら起きた。
普段なら殺人未遂を目論む太陽光と寝起きに遭遇した暁には自身の非力さを嘆くところだけれど、今日に限っては全くダメージがない。昨日以前との自分の体調の変化に困惑しながら、僕は一階のリビングに下りた。
既に彼女と彼女の妹は食卓を囲んでおり、べとべとのバターが塗りたくられたトーストを口に運んでいた。油分を湛えたバターがトーストの縁を這うようにお皿の上に滴り落ちる光景を見て、胃液が込み上げてきた。
「あ、おはよう」
彼女からの挨拶を無視しながらトイレに駆け込んでえづいた。
しばらくしてリビングに戻ると、彼女が僕の顔を覗きながら言った。
「顔色悪いみたいだけど、大丈夫?」
いつのまにか彼女は自分の命を奪う僕の容態を憂うようになったらしい。不思議な感覚を覚えながら、僕は彼女に答えた。
「大丈夫」
僕はリビングのソファに座った。息を深く吐いてしばらく安静にしていると、先程感じた気分の悪さは幾分マシになった。二人が囲むテーブルから漂うトーストやバターの香りには不快にならざるを得なかったけれど、物を直視しなければ差し支えはない。
僕は気分を紛らわせるためについていたテレビに視線をやった。興味のないトピックが次々と取り上げられるニュース番組だった。それでも、人間の食べ物を注視するよりはよほど有意義だ。
眠気に襲われながらする読書と同じ要領でニュースを眺めていると、背後から二人の会話が響いてきた。
「お姉ちゃん、最近朝はゆっくりだね。私と一緒に学校行ってくれなくなったし」
「ひなのはもう3年生だからね。一人で登校できるようにならなきゃ」
「一人で登校できるもん。ただ、お姉ちゃんと一緒に行きたいの!」
「……ひなの。ごめん。でも、そろそろお姉ちゃん離れしないと」
「最近死神さんばっかりお姉ちゃんを独り占めしてずるい! お姉ちゃんも死神さんも学校に行ってないの知ってるんだからね!」
彼女の妹の発言に、僕は思わず振り返った。すると、彼女と目が合った。彼女は困惑した表情でこちらを見ていた。それから彼女は作り笑いを浮かべて、彼女の妹に訊いた。
「どうして、私たちが学校に行ってないって思うの?」
「だって、この前一人で家にいたとき、お姉ちゃんの学校の先生と生徒が来たんだもん」
彼女の妹の言葉に、彼女は重い荷物を足の上に落としたような顔をした。
「……その人たちは、なんて言ってた?」
「涼音さん、最近学校に来ないですけど元気ですか? って」
「……そっか。それで、ひなのはなんて言ったの?」
「本人に訊いてくださいって言ったよ」
「……そう。ごめんね、黙ってて。その人たちが言った通り、私はもう学校に行ってない」
「どうして?」
「残り短い命だから、自分の好きなように生きようと思って」
「私は学校行ってるのに!」
「ひなのは学校楽しいでしょ?」
「……お姉ちゃんは、楽しくないの?」
驚いた様子で訊ねる彼女の妹に、彼女は自嘲するように笑いながら頷いた。
「だから、学校にはもう行かないの」
彼女がそう言うと、彼女の妹は難しい顔をしながら俯いた。やがて顔を上げると、握り拳を二つ作って腰の両端に添えて言った。
「私も学校行かない!」
「……え?」
「お姉ちゃんと一緒にいる!」
「……ひなの」
「それが、残り少ない命の私がしたいこと」
「…………ひなの」
彼女は目を潤わせながら、彼女の妹を静かに抱きしめた。
「大好き、お姉ちゃん」
「……私もよ。ひなの」
二人は噛み締めるように抱擁した後、彼女の妹は彼女から離れて言った。
「でも、最後の挨拶として、今日は学校に行く」
「……うん。それがいい。それに、学校には行かなくなっても、みんなとはいつでも遊べるからね」
「うん!」
彼女の妹は嬉しそうにはにかむと、テーブルの側に置いてあったリュックを拾い上げて背負い、元気よさげに玄関へと駆けて行った。いつのまにか朝食を平らげていたらしく、お皿は空になっていた。
文化祭が終わった夜の学校みたいな喪失感が部屋に漂う中、僕は彼女と目が合った。彼女はどこか嬉しそうに笑った。僕も彼女につられて反射的に笑いそうになった。
けれど、冷静に考えるとどうして僕は笑おうとしているのだろうか、と正気にかえった。彼女が笑うことと僕が笑うことになんら相関関係はないはずだった。加えて、彼女がどうして嬉しそうな顔をしているのか、先刻までは理解していたはずなのに急に分からなくなってしまった。
自分の身に起きた不可解な感覚に首を捻っていると、玄関から何かが倒れる鈍い音がした。彼女がその音に驚きながら玄関へと急いだ。僕も彼女に遅れて続く。
玄関に向かうと、彼女の妹が片方の靴を廊下に放り投げた状態で倒れていた。よく見ると、小刻みに震えながら左膝を抱えている。唸っているようだった。
「ひなの!」
彼女が取り乱した様子で痛みに悶える彼女の妹の元にかがんだ。
「膝が痛いの?」
彼女は泣きながら彼女の妹に呼びかけたけど、彼女の妹は痛みに顔を歪ませることに終始していて、返答する余裕がないらしかった。
彼女は、何をそんなに慌てているんだろう。彼女の妹が余命宣告を受けている状態であることは、一番よく知っているはずだ。彼女の妹の容態を一時的にでも回復したければ、医学に精通する医者に診てもらう他ないことは明確である。
僕は、彼女に言った。
「救急車呼ぶ?」
「お、お願い!」
「救急車を呼んだ後、かかりつけの病院にも電話した方がいいね。電話番号は知ってる?」
「知ってる……ねぇ、お願い! ひなのを助けて!」
彼女は涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔で僕に言った。悲痛な表情を浮かべながらこちらに懇願の眼差しを向ける彼女に僕が思ったのは、医者じゃないんだから、だった。
救急車を呼んだ後、取り乱す彼女を宥めながらなんとか病院の電話番号を聞き出した。病院への電話も僕が済ませ、膝の痛みにうずくまる彼女の妹は駆けつけた救急車に乗せられて、彼女も同伴した状態でかかりつけの病院へと向かった。僕は、病院へと向かう救急車を後ろから眺めた。
彼女の妹は宣告を受けていたタイムリミットに向けて着実に衰退していたようで、むしろ残されていた猶予分まで生き続けるのか分からないとのことだった。
悲しみに暮れる彼女は、病室のベッドで眠る彼女の妹の横で涙を流し続けた。彼女によって握られた彼女の妹の小さな手が、彼女の呼びかけで僅かに反応を返した。ここ数日、彼女の妹はほとんど寝たきりだった。
僕は、二人の様子を見ながら自分に起こった変化に困惑すら抱かなくなっていた。
二人の様子を見て何も思わない。今までの自分とは決定的に違う心象になっていることは自覚しているけれど、それが不自然だとは思わない。まるで夢から覚めたようだった。
僕が人間であるという夢から、覚めたみたいに感じられた。
普段なら殺人未遂を目論む太陽光と寝起きに遭遇した暁には自身の非力さを嘆くところだけれど、今日に限っては全くダメージがない。昨日以前との自分の体調の変化に困惑しながら、僕は一階のリビングに下りた。
既に彼女と彼女の妹は食卓を囲んでおり、べとべとのバターが塗りたくられたトーストを口に運んでいた。油分を湛えたバターがトーストの縁を這うようにお皿の上に滴り落ちる光景を見て、胃液が込み上げてきた。
「あ、おはよう」
彼女からの挨拶を無視しながらトイレに駆け込んでえづいた。
しばらくしてリビングに戻ると、彼女が僕の顔を覗きながら言った。
「顔色悪いみたいだけど、大丈夫?」
いつのまにか彼女は自分の命を奪う僕の容態を憂うようになったらしい。不思議な感覚を覚えながら、僕は彼女に答えた。
「大丈夫」
僕はリビングのソファに座った。息を深く吐いてしばらく安静にしていると、先程感じた気分の悪さは幾分マシになった。二人が囲むテーブルから漂うトーストやバターの香りには不快にならざるを得なかったけれど、物を直視しなければ差し支えはない。
僕は気分を紛らわせるためについていたテレビに視線をやった。興味のないトピックが次々と取り上げられるニュース番組だった。それでも、人間の食べ物を注視するよりはよほど有意義だ。
眠気に襲われながらする読書と同じ要領でニュースを眺めていると、背後から二人の会話が響いてきた。
「お姉ちゃん、最近朝はゆっくりだね。私と一緒に学校行ってくれなくなったし」
「ひなのはもう3年生だからね。一人で登校できるようにならなきゃ」
「一人で登校できるもん。ただ、お姉ちゃんと一緒に行きたいの!」
「……ひなの。ごめん。でも、そろそろお姉ちゃん離れしないと」
「最近死神さんばっかりお姉ちゃんを独り占めしてずるい! お姉ちゃんも死神さんも学校に行ってないの知ってるんだからね!」
彼女の妹の発言に、僕は思わず振り返った。すると、彼女と目が合った。彼女は困惑した表情でこちらを見ていた。それから彼女は作り笑いを浮かべて、彼女の妹に訊いた。
「どうして、私たちが学校に行ってないって思うの?」
「だって、この前一人で家にいたとき、お姉ちゃんの学校の先生と生徒が来たんだもん」
彼女の妹の言葉に、彼女は重い荷物を足の上に落としたような顔をした。
「……その人たちは、なんて言ってた?」
「涼音さん、最近学校に来ないですけど元気ですか? って」
「……そっか。それで、ひなのはなんて言ったの?」
「本人に訊いてくださいって言ったよ」
「……そう。ごめんね、黙ってて。その人たちが言った通り、私はもう学校に行ってない」
「どうして?」
「残り短い命だから、自分の好きなように生きようと思って」
「私は学校行ってるのに!」
「ひなのは学校楽しいでしょ?」
「……お姉ちゃんは、楽しくないの?」
驚いた様子で訊ねる彼女の妹に、彼女は自嘲するように笑いながら頷いた。
「だから、学校にはもう行かないの」
彼女がそう言うと、彼女の妹は難しい顔をしながら俯いた。やがて顔を上げると、握り拳を二つ作って腰の両端に添えて言った。
「私も学校行かない!」
「……え?」
「お姉ちゃんと一緒にいる!」
「……ひなの」
「それが、残り少ない命の私がしたいこと」
「…………ひなの」
彼女は目を潤わせながら、彼女の妹を静かに抱きしめた。
「大好き、お姉ちゃん」
「……私もよ。ひなの」
二人は噛み締めるように抱擁した後、彼女の妹は彼女から離れて言った。
「でも、最後の挨拶として、今日は学校に行く」
「……うん。それがいい。それに、学校には行かなくなっても、みんなとはいつでも遊べるからね」
「うん!」
彼女の妹は嬉しそうにはにかむと、テーブルの側に置いてあったリュックを拾い上げて背負い、元気よさげに玄関へと駆けて行った。いつのまにか朝食を平らげていたらしく、お皿は空になっていた。
文化祭が終わった夜の学校みたいな喪失感が部屋に漂う中、僕は彼女と目が合った。彼女はどこか嬉しそうに笑った。僕も彼女につられて反射的に笑いそうになった。
けれど、冷静に考えるとどうして僕は笑おうとしているのだろうか、と正気にかえった。彼女が笑うことと僕が笑うことになんら相関関係はないはずだった。加えて、彼女がどうして嬉しそうな顔をしているのか、先刻までは理解していたはずなのに急に分からなくなってしまった。
自分の身に起きた不可解な感覚に首を捻っていると、玄関から何かが倒れる鈍い音がした。彼女がその音に驚きながら玄関へと急いだ。僕も彼女に遅れて続く。
玄関に向かうと、彼女の妹が片方の靴を廊下に放り投げた状態で倒れていた。よく見ると、小刻みに震えながら左膝を抱えている。唸っているようだった。
「ひなの!」
彼女が取り乱した様子で痛みに悶える彼女の妹の元にかがんだ。
「膝が痛いの?」
彼女は泣きながら彼女の妹に呼びかけたけど、彼女の妹は痛みに顔を歪ませることに終始していて、返答する余裕がないらしかった。
彼女は、何をそんなに慌てているんだろう。彼女の妹が余命宣告を受けている状態であることは、一番よく知っているはずだ。彼女の妹の容態を一時的にでも回復したければ、医学に精通する医者に診てもらう他ないことは明確である。
僕は、彼女に言った。
「救急車呼ぶ?」
「お、お願い!」
「救急車を呼んだ後、かかりつけの病院にも電話した方がいいね。電話番号は知ってる?」
「知ってる……ねぇ、お願い! ひなのを助けて!」
彼女は涙と鼻水でぐしゃぐしゃになった顔で僕に言った。悲痛な表情を浮かべながらこちらに懇願の眼差しを向ける彼女に僕が思ったのは、医者じゃないんだから、だった。
救急車を呼んだ後、取り乱す彼女を宥めながらなんとか病院の電話番号を聞き出した。病院への電話も僕が済ませ、膝の痛みにうずくまる彼女の妹は駆けつけた救急車に乗せられて、彼女も同伴した状態でかかりつけの病院へと向かった。僕は、病院へと向かう救急車を後ろから眺めた。
彼女の妹は宣告を受けていたタイムリミットに向けて着実に衰退していたようで、むしろ残されていた猶予分まで生き続けるのか分からないとのことだった。
悲しみに暮れる彼女は、病室のベッドで眠る彼女の妹の横で涙を流し続けた。彼女によって握られた彼女の妹の小さな手が、彼女の呼びかけで僅かに反応を返した。ここ数日、彼女の妹はほとんど寝たきりだった。
僕は、二人の様子を見ながら自分に起こった変化に困惑すら抱かなくなっていた。
二人の様子を見て何も思わない。今までの自分とは決定的に違う心象になっていることは自覚しているけれど、それが不自然だとは思わない。まるで夢から覚めたようだった。
僕が人間であるという夢から、覚めたみたいに感じられた。