彼女と契約を交わした日が金曜日であったため、翌日からの二日間、僕は彼女の家で居候することになった。というのも、僕と彼女は契約によって命が繋がれた状態になっており、僕は彼女との間に伸びる命の糸にへその緒としての役割を背負わして寿命を得ている。彼女の寿命が尽きる瞬間になって一気に彼女の生命力を吸収するわけではなく、ともに活動する中で彼女から命を分け与えてもらう形になる。つまり、本来一人で消費するはずの寿命を、彼女と僕の二人で共有することになる。だから死神と契約した人の寿命は半分になってしまうのだ。そして僕と彼女を繋ぐその糸の存在は、僕と彼女が離れることを許さない。
「ねぇ、どんな手を使ったの。どうして君の身体は突然、半年以下の寿命になったの」
 彼女の家に住むことになって最初に発した僕のその発言を含めて、当然ながら彼女は以降投げかけられた僕からの言葉を全て無視した。
彼女の妹は病院に入院ではなく通院しているらしく、姉と同じ家で暮らしているらしかった。彼女の妹も未だ僕に怯えた表情を見せてくる。契約時にしか死神の姿は視認できないはずだけれど、あの一回でも十分記憶に刻まれるほどのトラウマは植え付けられたらしく、未だに僕とまともに目を合わせてくれない。もっとも、自分の命が脅かされそうになった元凶であるし、自分の実の姉の寿命を吸収している張本人なのだから、僕に対して好意的ではない態度を示すことは何ら不自然ではない。
 そして、二人は余命半年以下という結末が待ち受けていることに加えて、どうやら二人暮らしらしかった。詳しい事情は二人から無視されているから訊き出すことができていない。ただ、二人が生活する様子から見てどうやら両親が帰ってくる気配はなさそうだった。離婚していて父親が単身赴任なのか、それとも離婚ではなく片親が死別しているか、あるいは両親を失っているのか。彼女たちにとっては不本意ながら一緒に暮らすことになった僕が詮索していい領域ではない話であるため、これ以上は考えないことにしておく。
 何はともあれ、僕は透明人間として二人と同じ家で過ごした。二人で過ごしているにしては立派な一軒家で部屋も余っている。ありがたいことに僕はその余っていた部屋を使わせてもらえることになった。
 その部屋は、久しく使われていないことが窺えた。埃っぽく、最初部屋に入った時にはむせてしまった。ただ、彼女なりの配慮なのか、ベッドの上の埃をわざわざ掃除機で吸い取ってくれた。もちろん無言で。
 僕は彼女に礼を言ってからベッドに横たわった。寝床さえ与えてくれれば、後は何も施しを受けなくていいのが幸いだった。死神に憑依されてからの僕は、飲食はおろか排泄すら不要になった。
この二日間で、自分と妹の分の料理をつくっていた彼女が控えめに僕に視線を寄越してきたことがあった。どうやら彼女は信じられないほどのお人好しらしく、自分の命を脅かしているはずの僕の容態を気にしてくれている様子だった。僕は愚かにも嬉しくなって、食事が必要ないことを伝えた。そして、その直後に彼女は僕の容態を憂いているのではなく、栄養失調などを通して僕の容態が悪化することでその影響を受け得る命の繋がりがある自分の身体を慮っていることに思い至って少し落ち込んだ。
 土日が過ぎ去って月曜日、僕は彼女と、そして彼女の妹とともに学校に登校した。僕の分の筆記用具や教科書は持ち合わせていないけれど、契約を結べば整合性のとれた世界になっているはずだ。そのため、僕は病院で医者が口にしていた「クラスメイト」という言葉を頼りに彼女と登校することにしたのだ。もし彼女が両親のいる家に住んでいた場合、僕の立場はどうなっていたのだろうと無意味に考えてみたけれど、おそらくその場合はまた別の肩書が付与されていたのだろうと思った。その際は、医者は僕を彼女のクラスメイトとは認識せず、世界から見た僕と彼女の関係性はまた違ったものになっていただろう。
 相変わらず彼女に無視され続ける僕は、通学路の途中で彼女の妹が小学校に向かう分かれ道に進むのを見送った。彼女が自分の妹に手を振る姿を真似て僕も手を振ってみたけれど、彼女の妹は僕が本物の透明人間であるように振舞った。姉である彼女にだけ目を合わせて手を振ったのだ。そして、その姿が見えなくなると、彼女は僕を置いてさっさと歩き出してしまった。僕は慌てて彼女の後を追う。彼女の姿を見失えば、高校への行き方が分からなくなってしまう。
 彼女が通う高校に到着し、昇降口で自分の名前が書かれた靴を探した。僕の本来の名前とは別であるはずなのに、まるで元々この高校に通っていたかのように手が自然と「如月」と書かれた上履きに伸びた。
 靴を履き替えていると、隣から視線を感じて思わず振り返った。彼女が驚いた様子で僕が履いた上靴を見ていた。
「……どうしたの?」
 僕が思わず訊くと、彼女はおずおずと答えた。
「如月なんて人、一昨日まで私のクラスにいなかった」
 そう一言だけ気味悪そうに呟くと、僕に口をきいてしまったことに驚いたのか「はっ」と息を呑んですぐに背を向けた。そして、そそくさと歩き出してしまった。僕も急いで彼女の後に続く。
 校舎の二階に、彼女の教室があった。どうやら、彼女は本来の僕と同じ2年生らしかった。僕は自分が在籍していた高校のことを思い出しながら教室に入った。
 先ほど、自分の靴がどれか分かったのと同じ要領で、どれが僕の席なのかも直感的に分かった。身体が覚えていて、そこに導かれるような感覚だった。
僕の席は窓側にあり、彼女が座った席とは少し離れた場所にあった。そして、都合の良いことに机の横に備え付けられたフックに鞄が掛けられてあった。中身を確認すると、僕の名前が書かれた教科書やノート、筆記用具があった。死神の特権である契約というシステムはなんとも便利なものだ。
 感心しながら黒板に書かれた授業の予定を確認して、僕は教材一式を机の上に置いた。なんとも模範的な生徒である。なんとなく視線を彼女に向けると、つまらなさそうに頬杖をついてぼんやりしている様子が目に入った。まだ予鈴が鳴るには早く、友人が登校してきていないのだろう。手持無沙汰な様子だった。
 予鈴が鳴る五分ほど前に生徒による教室の出入りが盛んになった。早く来てもやることがないとふんでギリギリを攻めているのだろう。僕も同じような心理で、自分が人間だった時にそうしていたのを思い出した。
「おっはよー」
 規則に反しているのではないかと思えるほどの茶髪で、完全に指摘対象扱いされるであろうスカートの丈の長さをしたいかにもギャルな女子生徒が、すでに教室に待機していた女子生徒たちに手を振りながら入って来た。この手のタイプは苦手であるため、僕は反射的に目を逸らした。
「涼音、おはよ」
「…………」
「え、なに? 無視? 感じわるーい」
 朝から雰囲気を悪くするような態度を取っているのは一体誰なんだと恨み言を心中でぶつけてやろうと振り返ると、驚いたことに彼女がギャルの挨拶を無視していたようだった。それと同時に、彼女の名前が涼音だということを初めて知った。
「ねねね、おはよ。涼音ちゃんおっはよー」
「…………」
 一度無視されても寄り添ってくれているギャルになんて態度を示しているんだと内心悪態を吐いてみたけれど、当然そんなものが彼女に届くはずもなく、依然として彼女は不貞腐れた表情のままギャルのことを無視している。
 すると、ギャルは声の調子を落として言った。
「うっざ。あんた何様のつもり?」
 ギャルはそう言うと、鞄の中から何やら容器を取り出し、中から白い液体を手中に出した。乳液か何かだろうか。徐にそんなことをしたかと思うと、ギャルは突然それを彼女の頭に思い切り塗り付けた。
「ねぇー、返事もしないなんてどんな教育受けてんの? あ、てかあんた親いないんだっけ」
 ギャルの予期せぬ行動に、僕は肝が冷えた。周りを見渡してみても、ギャルの行動にクラスメイトたちは笑顔を受かべている。僕は今の状況に混乱した。
 ギャルは一通り塗りたくり終えたのか、一度彼女の頭から手を離して払うと、今度は彼女の髪の毛をわしづかみにして自分の方へと彼女の顔を寄せた。
「死ねよ」
 ギャルの言葉を聞いて、僕は自分の中の何かが切れる音がした。身体中が熱くなった。
「おいおい、朝からなんか騒がしいなぁ。何してんだよ、綾」
 教室に男子生徒が入って来た。そして、ギャルに親しげに声を掛けた。
「あ、たっくん聞いてよぉ。涼音ってば、私の挨拶を無視したんだよー? どう思う?」
「ん? あー、あれじゃね? お前への僻みとかじゃねーの?」
「え? 僻み?」
「お前が可愛すぎて嫉妬してるとか」
「あは、やだぁたっくん。それはたっくんが思ってることでしょ?」
「バレたか」
 二人は周りが見ている中でキスでもするんじゃないかと思う勢いで、この場に相応しくないイチャイチャを始めた。けれど、すぐにギャルが細めた目を彼女に向けた。
「それか、家族が円満な私に嫉妬したとか? あ、でも、それって私だけじゃなくてこのクラスにいる全員かな?」
「そういえば、涼音の親父、母親が死んでから蒸発して娘二人置いて逃げたらしいじゃん」
 二人の言葉に、彼女は流石に顔色を変えたようだった。およそ澄ました態度を貫いていた彼女らしからぬ表情だった。
 その表情を見た僕は、思わず立ち上がった。
「やめなよ」
 僕の言葉に、クラスの全員がこちらに視線を向けてきた。
「あ? 俺らに言ってんの?」
 今までの僕だったら、相手の凄んだ態度に怯んでいただろう。
「なに、あんたヒーローでも気取ってんの?」
 ヒーローどころか死神だ。死神になるくらいには、二人みたいな人間に立ち向かう勇気がなかったことに後悔している。とめどなく溢れ出す怒りは、恐怖心に勝ったらしい。
 こちらに近寄って来る男子生徒に、僕は急いで自分の椅子を持ち上げてみせた。僕の行動に相手が一瞬怯んだのを確認して、彼に向かって思い切り椅子を投げつけた。椅子は彼の右腕に直撃し、声にならない声を上げて彼は倒れ込んだ。苦しそうに悶える彼に、ギャルは心配そうに駆け付けた。ギャルは彼の制服の袖を急いでまくった。酷い痣ができていた。ギャルは悲痛な叫び声を上げてこちらを睨みながら立ち上がった。
「許さない。あんた、たっくんになんてことを」
「君こそ、涼音さんになんてこをしたと思ってる」
「あんな無価値なやつ、何されてもいいじゃん!」
 ギャルの発言に、僕は思考よりも先に身体が動いた。自然と握りこぶしをつくりながら。けれど、僕の手に込められた憎しみは、誰かの手によって手首を掴まれたことで鎮められた。振り返ると、彼女が僕の手首を掴みながら、首を横に振っていた。
「もういいよ」
「……でも」
「あんたがそこまでする必要ない」
 彼女の冷静な言葉に、僕は頭にのぼっていた血が急速に引いていくのが分かった。僕は握っていた手をゆっくりと開いた。
「如月、あんたタダで済むと思ってないでしょうね。たっくんをこんな目に遭わせておいて」
「タダで済まないのは二人も同じよ」
 彼女はそう言い返すと、スカートのポケットから携帯を取り出して動画を再生し始めた。先ほど、彼女に対してギャルと彼がしている仕打ちを見上げる光景が映し出されていた。その動画を見て、ギャルは青ざめた。
「あんた、いつの間に」
「鞄の中から携帯のカメラ部分だけ突き出して動画を回してた。どうせまた絡んでくるだろうと思って。ちなみに、今までの分もこの携帯に全部収まってるよ」
 彼女の追い打ちの言葉に、ギャルは意気消沈した様子だった。彼が負傷した腕も公にできないだろう。周囲を見渡すと、クラスメイトたちは無関係だと言わんばかりに僕から目を逸らした。
 沈黙が流れる教室で、彼女は掴んでいた僕の手を引いた。
「帰ろう」
「え?」
「いいから、こんなところにもう用はないよ」
 彼女の言葉に困惑しながら、僕は手を引かれる形で教室を後にした。
 学校を出てから、僕と彼女は無言で家を目指した。彼女の半歩後ろを僕が歩いた。余計なことをして彼女の居場所をなくしてしまったかと、僕はかなり落ち込んでいた。
 帰宅して家に上がると、彼女はそのままリビングに向かってソファに勢いよく身体を預けた。最初顔をソファに埋めるようにうつ伏せだった。その背中が小刻みに揺れていて、僕は彼女を泣かせてしまったと焦った。すると、彼女は勢いよく仰向けになった。彼女の表情は、なんと笑顔だった。
「あっははは」
 突然、笑い始めた彼女に、僕は思わず後退りした。
「あ、ちょっと、引かないでよ」
「え、いや、だって」
「はぁー、清々した。見た? 綾のあの顔。たくやもざまあみろだっての」
「……えっと、君そんな感じの人だったの?」
「なんか、どうせ死んじゃうならこんな場所にいなくてもいいよなーって、あんたがブチ切れてる間に色々吹っ切れたんだよね」
「……なるほど」
「あ、でも、ひなのには今日のことは秘密ね。教育に悪いから」
「うん、肝に銘じておく」
 僕が頷くと、彼女は衝撃的なことを言った。
「私、今日で学校やめる」
「……なんだって?」
「今まで、誰に向けたかもわからない体裁のために学校に行ってたけど、ずっと綾やたくやからちょっかいかけられていたわけだし、あんたのおかげで復讐ができた今となっては学校に行くことが急に無意味に思えた」
 あの二人からの酷い仕打ちを「ちょっかい」と表現するあたり、彼女の強さが窺えた。僕はおずおずと彼女に訊いた。
「でも、学校をやめるには、また学校に行かないといけないんじゃ」
「本当にやめるんじゃないよ。手続きとか面倒だし。ただ学校に行かないだけ。登校拒否ってやつ」
「え、でも、本当にいいの?」
「だって、どうせ私死ぬんだし」
 彼女は素朴にそんなことを言ってのけた。僕は彼女の言葉で心が抉られる思いをした。
「ごめん」
 僕が謝ると、彼女は驚いたような顔をして、意外そうに言った。
「今更だね。ていうか、悪いって思ってはいたんだ」
「……そりゃあ、まあ」
 僕が言い淀んでいると、彼女が言った。
「でも、私と契約を結ばなければ、あんたは死んでたんでしょ?」
「……うん」
「ま、もういいや。別にあんたを許したとかそんなことは一切ないけど、ていうか、ひなのをあんなに怖がらせたことは一生許さないけど、なんかさ。こんなこと言うのはいけないんだろうけど、自分の寿命に終止符が打たれるってなって、どこかホッとしてる」
「…………」
「自分の命に期限があるなら、もうわざわざ自分が嫌な気持ちになるようなことしなくていいじゃんってなった」
「……そっか」
 僕は、彼女の言葉に頷くしかなかった。彼女の言葉に、何かを言い返す権利がなかった。

 彼女の妹が帰宅した時、僕と彼女は言葉を交わしていた。何の会話をしていたかは全く覚えていないけれど、少なくとも何の会話をしたか忘れてしまう程度の内容だったことだけは確かで、それはつまり、他愛のない会話と表現していいものだった。人の命を弄ぶような僕が他愛のないなんて言葉を使うことすらおこがましいけれど。
 彼女の妹は、そんな光景を見て心底驚いた様子だった。休日の二日間、寸分たりとも言葉を交わすことがなかったうえに生殺与奪の権限を握る相手でもある僕と特に嫌悪感や抵抗感を示すことなく話している姉の姿に強いショックを受けたらしい。その日、彼女の妹は僕にも、姉にも自ら話しかけてくることはなかった。
 翌日、僕たち三人で学校に登校した。ただし、本当に登校したのは彼女の妹だけで、通学路の三叉路で別れたのち、僕と彼女は家へと引き返した。
「僕たちだけで帰っていいの?」
「ひなのは幸い、私と違って学校が楽しいらしくて。毎日友達と楽しく遊んでる」
「そっか。それは何よりだね」
 僕の首肯をよそに、彼女は誰もいない道で大きく伸びをした。
「これからはあの学校に行かなくていいんだって思うと、すごい解放感」
「……でも、あの二人が昨日のことを先生に訴えてたら、また学校に行く必要があるよね」
「いや、それはないと思う。あの二人、大人には猫被るから。私たちを学校に呼び出したら自分たちにとって不都合なことも露呈しちゃうし、それは避けたいって思うんじゃないかな。多分世渡り上手なタイプだよ」
 彼女は妙に自信ありげにそう言い切った。彼女は、強い。
「さて、この後は何しようかな」
「…………あのさ」
「なに?」
「僕と君は、離れて行動することができない」
「……あー、なんか私とあんたの命が繋がってるんでしょ」
「うん。そこでお願いなんだけど、もしこの後予定がないなら……」
「え? うん」
「……僕が行きたいところについて来てもらってもいい?」
 僕のお願いに、彼女は神妙な面持ちになった。けれど、彼女は逡巡した後に頷いた。

 僕と彼女は、「神木」という表札がポストに刻まれた一軒家の前に立っていた。時刻はお昼過ぎである。彼女とファストフード店で昼食をとって(僕は食べていない)ここに来た。
 彼女はここに来るまで、何も言わずに僕について来てくれていた。けれど、ここに至るまで何も情報を出してこなかった僕に対して、彼女はついに口を開いた。
「この家は、なに?」
 彼女の問いかけに、僕は答えた。
「僕の家だよ」
「……それって」
「僕が死神になる前、君と同じ人間だった時に住んでいた家だよ」
 僕の言葉に、彼女は黙り込んでしまった。きっと、彼女は僕が元は人間だったという話を聞いていながら、あまりに現実離れした死神という存在に一種の幻想を抱いていたことで、僕が元々は彼女と共通項となる人間であったという事実が腑に落ちていなかったのだろう。僕の言葉は耳には届くけれど、頭の中でその意味するところが結びついて理解してはいなかった。彼女はそんな状態だったのではないだろうか。
「死神になってからは、家族に会わなかったの?」
 彼女はらしくもないしおらしい声で訊いてきた。
「あるよ」
「……どうだったの?」
「死神である僕は、契約者以外の人間からは、契約者と近しい関係を持っていると認識される」
「……それって、つまり」
「僕の母親は、自分にとって無関係な当時の僕の契約者と親しい関係である僕を、赤の他人だと認識した」
「家に上がったの?」
「うん。そこで、不法侵入者扱いされて、通報される前に急いで逃げたよ」
「……そう、だったんだ」
「……どうしたの? どうして、君が苦しそうなの?」
「……ごめんなさい」
 彼女は震える声で言った。
 僕は彼女が不憫に思えて、思わず背中を摩った。彼女は僕に触れられたことに一瞬びくりとしたけど、拒絶することはなかった。
「今回は前と違って自分の家族に会いに来たんじゃないんだ。多分、今の時間帯なら母親が家にいると思うんだけど、気付かれないように自分の部屋に入り込みたい」
 僕の説明に、彼女は汗を掻きながら辛うじて頷いた。
 僕は彼女に家の近くで待っていてもらうように頼んだ。彼女に家から離れられてしまうと、限られた可動域によって僕が家の中で自由に動き回ることができなくなってしまう。幸い僕と彼女の命を繋ぐ糸は物理的な物体に干渉することがないため、距離さえ離れすぎなければ問題はない。
 今の彼女を一人にするのは少し心配だったけれど、考えてみればそんな彼女の命の消費速度を倍にしているのは紛れもない僕なのだから、今更そんな気を使ったところで僕の地獄行きは決定している。いや、もしかすると、人道から外れた行いによって死後の世界が存在しない無に追いやられるかもしれない。
 そんな生産性のない考えを巡らせることで、彼女には強がってみせたもののトラウマになっている母親から不審者扱いされた記憶から気を紛らわせた。緊張でドアノブにかける手が震えた。
 手が震えるのを堪えながらドアを開けた。けれど、ドアは開かなかった。母親はいつも自分が家に居る時には鍵を開けたままにするのだけど、前回の騒動があったからかきちんと鍵をするようになったらしい。息子としては安心できる心掛けだけれど、今に限っては困る。
 僕は家の庭にまわり、逆さまにして壁に添えられた小鉢をひっくり返した。そこには見慣れた鍵があった。それを見た僕は、思わず泣きそうになった。
母子家庭の母は、朝僕の分のお弁当をつくって僕が学校に行くのを見送った後、昼に仮眠をとって夕方から夜勤のパートに出掛ける生活を送っていた。僕が小学生だった時、一度家の鍵をなくして一晩中家に入れなかったことがあった。母親は泣きじゃくる僕をなだめて、今後鍵をなくしても大丈夫なように小鉢の下に鍵を隠すという作戦を立てた。結局、それ以来鍵をなくすことはなかったから小鉢の下を確認することはなかったけれど、ずっと置いていたのだろうか。それとも、行方不明となった息子である僕がいつか帰って来ても困らないように、小鉢の下に鍵を置いてくれているのだろうか。
 僕は、今から自分がしようとしていることに良心が痛んだ。けれど、僕は首を振ることで思考を乱し、小鉢から鍵を取り出してドアノブに鍵を挿した。母親が寝ている時間帯なのは知っているけれど、万が一のことを考慮して慎重にドアを開けた。靴を脱いで忍び足で廊下を歩いた。リビングからテレビの音が聞こえる。ドアを開ければ、母親の姿を一目見ることができる。でも、ここでリスクを犯すのはあまりにも愚かだ。
 僕は要らぬ欲求を捨てて、自室がある二階へと足音をたてずに向かった。自分の部屋は、どうやらそのままにしてあるらしい。僕は部屋の中に入った。
 僕は、机の引き出しの奥にお年玉などでもらったお金を貯金していた。それを取り出して中身を確認した。3万円入っていた。思ったよりも少ない。自分が死神になるよりも前に、貯金を使って新しい携帯を買ったことを思い出した。
 僕はお金の入った紙袋を持って、静かに部屋を出た。階段をおりる時にはのぼっていた時以上に気を使った。玄関までたどり着いて靴を履いた。自分の後ろにあるリビングからテレビの音が聞こえる。もう一度、母親に会いたい衝動に駆られた。会って、「僕だよ」って一言伝えたい。どう考えても僕だと分かってくれないことは理解しているのに、理屈を超えた本能がそうすることを望んでいる。でも、ここで取り返しのつかないことをしてはいけない。
 僕は必死に自分に言い聞かせながら、家から出た。外に出ると、少し離れたところに彼女がいた。僕が頼んだ通り、ずっとそこにいてくれたようだった。
「ごめん、お待たせ」
「…………」
 彼女が無言で僕の顔をじっと見てきた。そのことに居心地が悪くなって、僕は彼女に訊ねた。
「えっと、どうしたの?」
「……大丈夫?」
「なにが?」
「あんた、泣いてるよ」
「……え」
 彼女に指摘されて、僕は自分の目尻を拭った。確かに、濡れている。言われてみて初めて、自分の頬に涙がつたっている感覚が脳に届いてきた。涙が次々と流れ出てきてとまらない。
「あれ、なんでだろ。ごめん、ちょっと待ってね」
 僕は自分の声が震えているのに困惑しながら、彼女に背を向けた。どうして僕は泣いているのだろう。確かに、何故か急に不安になったんだった。家から出た瞬間、ずっと家の中で鼻孔に届いていた懐かしい匂いが消えて不安になってしまったのだ。
 どうにかして涙を堰き止めようと苦心していると、突然背中に温もりを感じた。驚いて振り返ろうとすると、「見るな」と彼女が言った。どうやら、彼女が背後から僕のことを抱きしめてくれているらしい。
「……あの、どういうつもり?」
「いいから」
「……君は、強いね」
「……強くなんかない」
「強いよ。両親がいないっていうのは、無条件に自分のことを受け入れてくれる人がいないというのは、ひどく辛い。それなのに、君は」
 僕がそこまで言うと、耳元で息を吸う音が聞こえた。
「辛いよ! 私だってすごく辛い! 綾やたくやに親のことを言われるの、本当はいつも嫌だった! 泣きたかった! そんなの、辛いに決まってるじゃん!」
「……ごめん」
「……いや、ごめん。今のは、謝らせるように誘導しているようなものだった。ごめんなさい」
 彼女の声が尻すぼみになった。
 本当は、こんなことをする権利は僕にはないのだろうけど、僕は彼女の方を振り返って抱きしめた。彼女は真正面から僕に抱きしめられたことに驚いたようで、短く息を切った。けれど、彼女はそんな僕の無礼講に応えるように、僕の背中に腕を回した。
「自分の命を奪ってくる人に安心させられるなんて、意味わかんない。なにこれ」
「……確かに、よく分からない状況だね」
 僕はそう言って、彼女をより一層強く抱きしめた。彼女も僕に呼応するように腕に力を込めた。彼女を安心させるためにしたことだけど、何故か僕も安心した。いや、もしかすると彼女以上に、僕の方が安心しているのかもしれない。
 ひとしきり抱きしめ終えた僕と彼女は、しばらく顔を合わせることができなかった。僕はこれから自分がしようとしていることに意識を集中させて、さっきのことは忘れるように努めた。
 僕は彼女を連れてホームセンターにやって来た。僕が自分の実家に立ち寄ったのも、ここであるものを買いたいがためだった。
 僕はそこで、手紙とフェンスカッターを購入した。彼女は僕がそんなものを買う光景を見て不思議そうにしていた。
 それから、僕は自分の母校に向かった。母校といっても、本来僕はまだ元の高校に在籍しているはずである。本来の僕がどういう扱いを受けているかは不明だけど、行方不明者とされているなら絶対に見つかりっこなく、捜査が打ち切られている可能性がある。つまり、在籍免除を喰らっている可能性がある。もっとも、その事実がどうであれ、今の僕には無関係ではある。
 僕は昇降口に向かい、そこで「日比谷」という生徒の靴箱に手紙を入れた。ここに来る前に暑さをしのぐために小さなカフェに寄った時、彼女には見られないように手紙にある内容を事前に書いておいた。
 僕と彼女は授業中の学校で、職員や生徒にバレないように屋上へと向かった。その道中、僕は自分が所属していた2年生の教室に目をやった。そして、すぐにそのことを後悔した。目を塞ぎたくなるような光景がそこに広がっていたからだ。思わず目頭を押さえた。
「どうしたの?」
 彼女がこちらの異変に気付いたようで、心配してくれた。
「なんでもない。大丈夫」
 僕がそう答えると、彼女は納得のいかない表情になった。付き合ってもらっているのに答えないのは忍びないけれど、言葉にするのも嫌だった。嫌な記憶が一気にフラッシュバックした。鼓動が速くなって、僕は胸を押さえた。
「大丈夫? 苦しい?」
「……大丈夫。僕は、死神だから」
 彼女は僕の返答に怪訝そうに目を細めた。
 屋上まで上がり、僕と彼女は緑色に塗装された屋上へと出た。僕にとっては久しぶりの光景だった。
 僕は屋上を取り囲むフェンスに近づき、先ほどホームセンターで購入したフェンスカッターでフェンスの網を切った。
「え、ちょっと、なにしてんの?」
「フェンスを切ってる」
「いや、だからなんでそんなことするの?」
 彼女が焦ったように叫んだ。僕は彼女の質問には答えなかった。質問に答えてしまえば、今から僕がしようとしていることを彼女はとめるだろうから。
 人が一人通れるほどの大きさまでフェンスを切って、僕はフェンスカッターを目立たないように屋上の隅に置いた。彼女は難しい顔をしながら僕の挙動を見ていた。何を言っても意味がないと悟ったのか、フェンスを切っている途中から僕に話しかけなくなった。
 僕と彼女はお互いに無言のまま、しばらく屋上から見える街の景色を眺めていた。そのうち、高校の敷地内で唸るようにチャイムが鳴った。これは、全ての授業が終了したことを告げるチャイムだった。僕は彼女に言った。
「ごめん、一緒に隠れてくれない?」
「え?」
「もうすぐ来ると思うから」
「誰が?」
「君の妹が家に帰るまでには済ませるから」
「……ねぇ、あんた一体なにする気?」
 彼女の言葉には答えず、僕は彼女の手を引いて屋上の入り口から死角となる隅へと向かった。そこで、僕たち二人は身を潜めた。
 しばらく待つと、錆びが擦れるような鋭い音が響いてきた。誰かが屋上のドアを開けたらしい。ドアを開けた主は、屋上の様子を確かめるように一瞬動きを止めた。それからゆっくりとドアを閉めると、屋上の真ん中へと向かった。僕が望んでいた人物が、予想通り来てくれた。
 日比谷俊樹。彼なら、あの手紙を見れば必ず来てくれると信じていた。僕は彼の靴箱に「果たし状」と書いた手紙を入れていた。彼の性格上、見過ごすことはないとふんでいたのだ。
 ここまでの作戦が成功したことに、僕は安堵した。慎重に彼の様子を窺っていると、彼は裁断されたフェンスに気付いたらしく、そこに向かって歩き出した。今がチャンスだった。
「君はここでじっとしていて」
「え、ちょっと!」
 彼女が混乱していることに構わず、僕は彼の背中目掛けて思い切り走った。僕の足音が聞こえたのか、彼は破られたフェンスの前でこちらを振り返った。僕と目が合った瞬間、彼は少し後退るような仕草をした。
 僕はそんな彼目掛けて、勢いに任せて突進した。フェンスに空いた穴を、僕と彼は通り抜けた。フェンスの切れ端で頬と肘を擦った。ただ、興奮からか痛みは感じなかった。
「な、なんだよ、お前!」
 彼は怯えるように叫んだ。流石の彼でも今の状況が呑み込めず、パニックになっているらしい。フェンスの向こうにある塀の縁に、僕は彼を押し倒した状態で追いやった。彼の首から先は、塀の縁から放り出されて宙にある。傍から見れば、僕は屋上から彼を突き落とそうとしているふうに見えるだろう。実際、僕はそのつもりで今こうしている。
「果たし状なんてふざけたものを寄越したのは、お前か?」
「うん、如何にも」
「なんでこんなことするんだよ」
「君だって、こんなことを周りの人間にしてきたんじゃないの?」
「……果たし状に書いてあった死神っていうのは、お前のことか?」
「君がかつて僕をそう呼んだんじゃないか」
「……俺は、お前のことを知らない」
「教室の机に、花瓶が二つあった。あの花瓶は、お前が置いたんだろ。そのうちの一人は、お前が殺した」
 屋上に来るまでに目に入った僕の教室に、花瓶が二つ机の上に置かれてあるのを見た。一つは、僕の机の上に。もう一つは、死んだクラスメイトの机の上に。
「……お前、神木の知り合いか? それとも、小鳥遊の知り合いか?」
「どうだろうね」
「俺に復讐しに来たのか」
 日比谷は徐々に余裕の表情を取り戻してきた。僕は彼のその表情が癇に障った。本当に屋上から突き落とす勢いで、僕は彼の胴体を塀の縁の外側に近づけた。
「お、おい。マジじゃないよな? 俺を殺したら、お前は犯罪者だぞ」
「だから、僕は死神だって言ってるじゃないか」
 僕は、彼の身体を本気で突き落とそうとした。こんな奴、死んでしまっても構わない。今の彼は、冷静さを失った僕によって寿命が一気に縮まった状態になっている。数秒後には命を落とす状況に追い込まれた彼は、死神と契約を交わす権限を得た。僕は、彼の心臓が赤く脈打つのを見た。脈打つ権利もない心臓を握りつぶしたい衝動に駆られた。
「う、うわあああああああ」
 突然、彼が叫び声を上げた。それもそうだろう。契約の瞬間、僕の身体は死神に置換されて視認される。僕は彼の首を両手で強く絞めつけた。彼の恐怖と苦痛に歪んだ顔を見て、僕は一種の愉悦に浸った。本当に突き落としてしまおうか。そう思った瞬間、僕は急に彼の身体から身を引き剥がされた。上体が反れた瞬間、彼が一瞬の隙をついて僕の頬を殴ってきた。
「っ……」
 唇が切れて、口の中に血の味が広がった。手の甲で口元を拭ってみると、血がついていた。
 彼は小刻みに身体を震わせながら、フェンスを抜けて屋上から飛び出して逃げて行った。あとちょっとのところだったのに。そう思った瞬間、小気味良い音が鳴るとともに彼に殴られた頬と同じ側の頬に衝撃が走った。唇の切れ口が余計に広がって血が滴り落ちた。
「あんた馬っ鹿じゃないの? 人を殺しちゃったら、それこそ本当に死神じゃない!」
 彼女が血相を変えて僕に捲し立てた。どうやら、僕は彼女にビンタされたらしい。彼に殴られた時とは違って、頬の痛みとともに心臓が握りつぶされるような苦しさも併発した。
「私、人殺しに付き合わされたの? あんただって人間の心があるんでしょ? さっき、自分が受け入れてくれる人がいない悲しみで泣いてたじゃん。どうして人として大事な物を台無しにするようなことするの?」
 彼女は目を赤くしながら僕の胸倉を掴んだ。そして、ゆらゆらと僕を揺らしながら言った。
「お願いだから、苦しみに苦しみを重ねないで。自分じゃない誰かがそんなことをしているところなんて見たくない」
 彼女はそう言うと、自分の顔を両手で覆った。
 本格的に唇が切れたようで、人間を襲った直後の吸血鬼みたいに顎から血が垂れていく。痺れるようなこの痛みは、彼女の苦しみを表しているように思えた。
「ごめん」
 僕は、ただただ彼女に謝ることしかできなかった。

 本当は僕と面識がある日比谷は、今は死神による催眠効果で本来の僕を認識できていなかった。つまり、学校の部外者がフェンスを破壊し、突然生徒である日比谷を屋上に呼び出して殺人未遂を犯したという噂が流れてもおかしくはなかった。それにより不審者の発生アナウンスが流れて、警戒態勢が強まった学校からの脱出が困難になるかと予見されたけど、意外にもそんなことはなかった。どうやら、日比谷は屋上での出来事を口外していないらしかった。
 帰り道、当然彼女は僕に口をきくことはなく、僕は冷静になってみて自分がしようとしていたことの罪深さと恐ろしさに遅発的に気付いて血の気が引いていた。もし、彼女があの時とめてくれていなかったら、取り返しがつかないことになっていた。彼女が言った通り、僕は文字通り死神に成り下がっていた。本物の死神に。
 帰宅してしばらくすると、彼女の妹が帰宅した。僕と話したくないだろう彼女と、明日の数に限りのある彼女の妹を二人きりにするために、僕はこの家に居候することになった時に与えられた部屋(以下、自分の部屋と呼ぶ)にこもった。
 僕はずっと、部屋の電気を暗くしたまま、ベッドの上に横たわっていた。布団を被って、今日屋上で日比谷に殺人未遂を働いたときの光景を繰り返し脳裏で再生した。その度に、深い自己嫌悪に陥った。そうやって感傷に浸り続けているうちに、僕は眠ってしまった。
 目が覚めたときには、カーテン越しでも分かるほど外がすっかり暗くなっていた。眠ったことで少しは先ほどの憂鬱さが解消されたけれど、当然気分は晴れないままだった。僕は特に意味もなく自分の部屋を出ようとして、唇に痛みが走った。
「そうか。殴られたんだった」
 僕は咄嗟に痛みの発生源に手を添えた。すると、皮膚の感触とは別の何か湿ったような感覚が指先に走った。優しく撫でてみると、それが絆創膏であることが分かった。さらに、フェンスで傷ついた右肘にも絆創膏が貼られてあった。どうやら、僕が眠っている間に彼女が施しをしてくれたらしい。
 お礼を言うためにリビングに向かうと、彼女がソファに座りながらテレビを観ていた。彼女がソファの右端に座っていたため、僕は左端に腰を掛けた。そして、彼女にお礼を言った。
「あの、ありがとう。絆創膏、貼ってくれたんだよね」
彼女は僕の言葉に反応することはなかった。こちらに一瞥をくれることもなく、テレビに映るバラエティ番組を観ていた。
 仕方がないのでしばらく沈黙が下りた状態でテレビを観ていると、彼女が徐にリモコンを手にした。そして、テレビ画面を真っ暗にしてしまった。暗い画面にぼやけた僕と彼女の姿が反射した。濁ったテレビの画面からは、彼女の表情は窺えなかった。
しばらくの静寂の後、彼女が口を開いた。
「聞かせて」
「……え?」
「あんたが死神になったきっかけ」
「……聞いてもいいことないよ」
「日比谷っていう人が、あんたが死神になるきっかけなんじゃないの。だったら、話を聞かせてくれた方が、今日の出来事に折り合いがつけられるかもしれない」
 彼女は、それ以上は何も言うまいと口を閉ざした。
僕は小さく息を吐いた。そして、真正面を向いたまま、僕は自分が死神もどきになるきっかけを話し始めた。