あまりの空腹で胃が唸っている。それ以外の欲求は一切僕に媚びを売ってこない。
 死神になって既に三ヶ月が経っているため、生命活動の維持に必要な人間の命が自分の胃で消化されるわけではないことは理解しているけれど、器自体は人間の身体であるため飢えを感じるのはどうやら胃らしい。純血の本来の死神が飢えを感じた時に実際どういう空腹感を抱くのかは皆目見当もつかない。死神もどきの僕には分かりっこない。
 短い死神人生の中で得た知識として、残された寿命が半年以下の余命幾許もない人間から命を享受できるというのが挙げられる。そして、そうした人たちがこぞって集まっているのが病院である。食欲が限界まで膨れ上がった僕の足先は、やはり病院を目指していた。
 思わずお腹を抱えながら、僕は足を引きずるようにしてとある病院にたどり着いた。
本当はもう誰の命も奪いたくなかったけれど、人間追い詰められると自分が可愛くなり、他者の命よりも自分の命を優先したくなるものらしい。僕はあまりに身勝手な自分の考えと行動に嫌気が差し、罪悪感を抱いた。他者の命を犠牲にしてでも自分を生かしたいというこの自己中心的な思考が後天的に備わった死神の性質に由来するものだと言い訳できるなら些か心の持ちようはあるけれど、おそらく僕の人間性が元々腐っていただけだろう。そもそも、他の人とは違って僕だけが食べる対象を人間としていることが事態をややこしくしていて、他の人たちも僕と同じような境遇になればきっと綺麗事は並べてられないと愚痴を零してみる。
「どうか、生きて」
 不意に、その言葉が僕の脳裏に過った。僕は咄嗟に頭を振った。僕にとって大切な僕のために掛けてくれたその言葉を、僕の汚い感情の言い訳に使いたくはなかった。
 追い詰められた僕は、自分の嫌な部分を垣間見て憂鬱になりながら病院の中に入った。受付を素通りして、僕は何食わぬ顔で病室が並ぶ廊下に足を踏み入れた。
 死期が近い人間からは、死の臭いがする。おそらく純度百パーセントの人間が嗅げば思わず鼻をおさえたくなるような臭いなのだろうけれど、死神の要素を持った僕からすれば、それは臭いではなく匂いであって、御幣を恐れずにいえば食欲をそそるようなものに感じられる。例えていえば、魚の血の臭いを好む鮫と同じようなものだと考えてくれればいい。
 余命が半年以下の人間がいる病室を、死神の嗅覚を頼りに探し回った。階をまたいで上へと向かうと、どこからともなく例の死の臭いが漂ってきた。その臭いに、僕の胃が鳴った。
 抜き足差し足で、僕は臭いの発生源となる病室の前に向かった。病室の前に立って、ゆっくりと病室のドアを開いた。すると、ベッドに腰掛けた小学校低学年くらいの小さな少女と、その側に置かれた椅子に座ってベッドに身を委ねる高校生くらいの少女が、二人して眠っていた。
 眠っていることに対してこれ幸いと手を叩きたくなったのと同時に、どうも死の臭いの根源がまだ幼い少女であったことに躊躇する気持ちが湧き起った。けれど、限界まで拡張された空腹感が、土壇場になって現れた僕の僅かな良心を押し潰してしまった。
 僕は相変わらず足音を立てないように眠る二人の少女に近づいた。
 気持ちよさそうに寝息を立てる幼い少女の胸に、僕は手を伸ばした。命を頂く瞬間は、視界がモノクロになり、心臓だけが赤く脈打つのが見える。僕はそれに手をのばした。
 もう少しで届く。そう思った瞬間、僕の身体が突然吹き飛び、病室の壁に打ち付けられた。身体に走った衝撃を逃がすために思わず咳き込んでから立ち上がろうとすると、さきほど眠っていた高校生くらいの少女が、先刻まで自分が座っていた椅子を僕に振りかざしてきた。すんでのところで避けたものの、少女は鬼の形相で再び僕に迫ってきた。
「なんなの、あんた!」
 殺意のない殺人を犯すつもりだった僕は、殺意のある殺人を犯す勢いの彼女に気圧された。こちらににじり寄ってくる彼女にたじろぎながらも、僕の頭は冷静だった。
 死神は人間の命を頂く際に契約を交わす。契約を交わせば、契約を交わした本人以外の人間たちには、僕と契約者がともに行動することに違和感を持たないような最適な人間関係を認識するようになる。例えば、少女と僕は歳の離れた友達であると目の前の彼女は認識し、腑に落ちるといった要領だ。実際彼女の目にどう映るかは契約してからでないと分からない。
 とにかく、今は一刻も早く少女と契約を交わせばいい。契約といっても詐欺紛いの一方的なもので、僕が彼女の命から糸を引いて僕の命に結べばそれで完了だ。
 幼い少女に目をやるとすでに目を覚ましているのに気付いた。少女は目の前で起きている状況に目を丸くしていた。そして、少女の目が僕の顔に向けられると、取り乱すように慌て出した。僕に敵意を剥きだしにしていた彼女は、突然背後で少女が泣き出したことに驚いて振り返った。
「ひなの、どうしたの?」
「いや、死神さんがいる! 連れて行かれる! 連れて行かれる!」
「し、死神? ひなの、あなたは一体何を」
 姉が妹の様子を懸念している隙に、僕は姉を突き飛ばして妹に迫った。
「きゃああああああ」
 妹が耳を劈くような悲鳴を上げた。そして、僕は妹の心臓に触れた。ひどく温かい。
そこから毛糸をほつれさせるように一本抜き出し、命の糸を僕の心臓部分に持っていく。
自分の命が死神に繋がれようとしているにもかかわらず、妹はこれ以上僕の恐ろしい顔を
見たくないのか、顔を両手で覆っている。
「お願い、やめて! ひなのだけはやめて!」
 悲痛な姉の叫び声が耳に届いて、空腹で壊れてしまいそうな僕の良心が申し訳程度に彼女に耳を傾けた。
「お願い。たった一人の、私の家族なの」
「…………」
「あなた、死神なの? ひなのにだけ、あなたの正体が見えているの?」
 そう。死期が近い人間にだけ、僕の本当の姿が見える。妹の命乞いをする彼女は、目に涙を浮かべているせいで視界が濁って僕の顔が見えていない、というわけではない。彼女には、元々はただの人間だった僕の人間の面が見えている。そして、それが正常なのだ。
「ねぇ、私じゃダメなの? その子の代わりに、私を連れて行くのはダメ?」
「……死期が近いとされる余命半年以下の人間からしか、死神は命を頂くことができない」
「…………それじゃあ、私が」
 彼女はそこで言葉を止めると、静かに目を閉じた。そして、深く息を吐くと、何かを決心するように立ち上がった。そして、ゆっくりと目を開いた。
「あなた、本当に、死神……」
 彼女は僕の姿を見て驚愕の表情を浮かべた。どういうわけか、彼女は僕の本当の姿を認識したらしい。いや、はったりかもしれない。本当は彼女の目に映る僕の姿は変わっていないにもかかわらず、演技をすることで僕が油断した隙に妹を連れて病室から逃げるつもりかもしれない。そうされてしまえば、僕は彼女の術中にはまってしまう。もう、僕は立っているのもやっとだった。今逃げられてしまえば、僕に追いかける余力は残っていない。
 僕は、彼女の命を頂くつもりで、リスクを負いながら彼女に近づいた。すると、先ほどまでは微塵も感じられなかった死の臭いが、彼女から確かに漂ってきた。驚いていると、僕と目があった彼女は抵抗する様子も見せなかった。
 僕は彼女の胸に手を伸ばした。
「え、ちょっと……」
「動かないで」
 僕の手は彼女の胸をすり抜けて、心臓を握った。彼女は非現実的な光景に喉を鳴らした。それから、毛糸の先端から糸を伸ばすように、彼女の心臓から手を引いた。彼女にも、その糸は見えている。
「これを僕の心臓に繋ぐ。そうすれば、契約は完了する」
「…………契約した私の命は、どうなるの?」
「君の寿命の半分をもらうことになる」
 僕の言葉に、彼女は難しい顔をして俯いた。けれど、すぐに顔を上げた。彼女と目が合った。
 そんな彼女に、僕は確認した。
「本当に、いいんだね?」
「……それで、ひなのが助かるのなら」
「君は、その子とは違って先がある」
「……それでも、ひなのが死神なんかの犠牲になってほしくない」
「そっか。分かったよ」
 僕は、彼女の命の糸を、自分の命に結んで繋いだ。
 その直後、すごい勢いで大勢の足音が廊下をつたって響いてきた。そして、その足音たちは病室の前でとまった。それから勢いよくドアが開かれると、一人の医者と数名の看護師たちが息を切らして立っていた。
「悲鳴が聞こえたんだが、大丈夫かね?」
 未だ茫然とする彼女と目が合った。僕はすぐに彼女から目を逸らし、医者に言った。
「すみません。彼女が人に追いかけられるという悪夢を見たらしくて、この通り……」
 僕が指をさした先では、先ほど彼女が僕に投げつけてきた椅子が倒れている。
「なるほどね。そういえば君は、彼女のクラスメイトだったね」
「はい」
 僕が首肯した隣で、看護師さんは可笑しそうに口元を押さえて笑った。
「ふふふ。ひなのちゃんもびっくりしちゃってるじゃない」
 布団にくるまって小刻みに震える妹は、僕から一切視線を外さない。怯え切った目をしている。通常、契約者以外の人間には僕と彼女の関係性は、先ほど医者が解釈したように自然なものになるはずだけど、一度死神の姿を見た人間は催眠効果が効かなくなる。つまり、この病室で、いや、この世界で僕の正体を知る者は、契約を交わした彼女と、余命幾許もない彼女の妹だけというわけだ。
 僕と彼女、そして彼女の妹との出会いはこのように最悪なものだった。