彼女は彼女の妹の病室に入り浸っていた。家に帰っても彼女はほとんど口を利くことはなかった。夜もろくに寝ていないようで、ここ最近は目にクマがある。
 彼女の妹も自分の姉の様子に一抹の不安があるらしく、頻繁に彼女に帰って眠るように言うのを耳にするけれど、彼女は頑なにそれを拒否した。
「お姉ちゃんも残された時間が短いんだよ。私と違って身体は元気なんだから、自分の好きなことに時間を使ってほしい」
「自分が好きなことに時間を使ってるから、私はここにいる」
「もう、そういうことじゃなくて!」
「ひなのが苦しんでるときに、私だけが楽しむなんて無責任なことしない」
「お姉ちゃんは昔から頑固なんだから」
「何を言われても、私はここにいるから」
 彼女の妹は、譲らない彼女の姿勢に溜め息を吐いた。僕は、二人に何も言えなかった。何か言える立場でもなかった。ただただ、胸が傷んだ。
 それからもしばらくの間、彼女はほとんど寝ることなく病院と家を行き来した。それが災いし、いよいよ彼女は倒れることになった。
 二人の時間をつくるために、僕は定期的に席を外すようにしていた。よく、病院の屋上で空を見上げた。
 その日もいつもみたいに屋上で空を見上げたり、街の風景を眺めたりしていた。その時にふと思い出したのが、僕が彼女から聞いた言葉だった。
 僕はその時、彼女に訊ねた。
「眠れないの?」
 彼女は僕の問いかけに振り返った。目元に深いクマができていた。彼女はゆっくりと首を振った。
「自分の意思で眠ってない」
 僕は彼女の返答に驚いた。てっきり、彼女の妹が心配で眠れないのだとばかり思っていたからだ。彼女の真意が気になって、僕は彼女に訊いた。
「どうして眠らないの?」
 続く彼女の言葉に、僕は驚いた。
「あの子が苦しんでる時に、眠ってなんかいけない」
 予想外の理由だった。僕が唖然としていると、彼女は少し虚ろな目をしながら言った。
「一度、病室に戻った時、ひなのがすごく苦しそうにしてた。私がドアを開けたことに気が付かないくらい。でも、私が一度ドアを閉めてからもう一度開けた時、ひなのはすぐに表情を変えた。普段通りの自分を演じようとしてた。まだ小さいのに。額に汗まで掻いてた。それを見たら、のうのうと眠ってなんかいられなくなった」
 彼女のその時の言葉が、頭からずっと離れない。そして、お互いに気を使う二人がいる病室に戻ることがいつも憚られる。
 それでも、不自然にならないようにある程度の時間が経つと僕は二人のもとに向かった。ドアを開けると、彼女がベッドの横で倒れていた。彼女が座っていた椅子も横倒しになっている。
 彼女の妹が、泣きながらうつ伏せになっている彼女の肩を揺らした。
「お姉ちゃん、目を覚まして。お願い、死んじゃったら嫌!」
 彼女の妹の叫びに、僕は人間の味方として作られたはずの注射針に意図せず心臓が刺されたような錯覚を覚えた。悲痛な表情を浮かべる彼女の妹は、自分の命のことなんかまるで眼中にない様子で泣きじゃくった。
「大丈夫。きっと眠ってるだけだよ。僕が彼女を背負って帰るから安心して」
 僕がそう言うと、彼女の妹が赤くした目でこちらをじっと見つめてきた。それから、目線を逸らすことなく頷いた。僕も頷き返してから、彼女の背中に腕を回してなんとか起き上がらせた。彼女の妹にも協力してもらって一度ベッドに彼女を座らせて、僕は彼女の両足に手を回した。それから立ち上がると、彼女の妹が病室のドアを開いた。
「ありがとう」
 僕の礼に頷いた彼女の妹は僅かな沈黙の後、意を決したように僕に告げた。
「お姉ちゃんを家で寝かせたら、またここに来て。話があるの」
 彼女の妹が僕と二人きりになってしまうことを承知の上で提案してきたことに、僕は驚いた。彼女の妹は、僕を通して死神の姿を見たはずだ。僕がまだ人間だった頃、間違いなくこの世に存在し得るどんな有象無象よりも恐ろしいものだと、死神の姿を見てそう確信した記憶がある。彼女の妹は、おそらく僕だったら怖気付くほどの恐怖心よりも優先したい何かがあるのだろう。何かしらの覚悟を決めたらしい彼女の妹の申し出に、僕は頷いた。
 道中、道を行き交う人たちから奇異な目線を何度も投げかけられた。人を背負って長距離を歩くことは初めてだったけれど、随分と大変だった。
 家にたどり着いて彼女の部屋まで向かい、僕は彼女が目を覚さないよう慎重にベッドの上にのせた。起こさないように彼女の靴を脱がせた。彼女は寝息を立てながら胸を上下させている。正直、屋上から病室に戻った時には心臓が凍てつく心地だったけれど、ただ眠っているだけなのが見て分かった。後は今晩、最近まともに食事を摂っていない彼女に何か食べさせれば問題はないだろう。現在進行形で僕が彼女の命を蝕んでいるというのに、その張本人が彼女の体調を気にかけているというのは非常に奇妙なことだった。
 僕は忍足で彼女の部屋から出た。物音を立てないように靴を履き、代わりに彼女の靴を玄関に並べて家を出た。鍵を締める時もなるべく音を立てないように心掛けた。
 約束通り病院に戻って、彼女の妹の病室に入った。開口一番、彼女の妹が口を開いた。
「お姉ちゃんの具合はどう?」
「うん、ただ眠ってるだけだよ」
「……はぁ、そっか。良かったぁ」
 彼女の妹は文字通り、胸を撫でおろした。
「それで、話っていうのは?」
「……うん、そうだったね。よし」
 彼女の妹は両頬をパシッと叩くと、僕に向き直った。
「最近、お姉ちゃんが楽しそうなの」
「そうなんだ」
「どうしてだと思う?」
「……湖に行ったから?」
「違うよ。もっと前から」
 僕は彼女の妹が言わんとすることが分からず首を傾げることしかできなかった。すると、彼女の妹は呆れたように言った。
「死神さんと出会った時からだよ」
「…………え、どうして?」
「…………それ、本気で言ってる?」
「彼女は僕と居て楽しいと思っている。君はそう言いたいんでしょ?」
 僕の言葉に彼女の妹は頷いた。
「それが理解できないんだ。どうして、彼女が自分の寿命が限りなく制限される原因の僕と居て楽しいと思うのか」
「……確かに、それは私にも分からない。でも、少なくとも死神さんと出会う前よりもずっとお姉ちゃんちゃんは変わった。良い方向に」
「……良い方向」
「どう言えば分からないけど、今まで全部自分で抱えてきたものが減ったっていうのが正解なのかな。その抱えていたもののせいで、お姉ちゃんはずっと自分を責めてきた。いつも夢でうなされるのを隣で見てきた。だから、分かるの」
「…………」
「だからね、死神さんにはまずお礼が言いたい。ありがとう」
「……そんな、僕は」
「死神さんが自分のことをどう思っているのか分からないけど、お姉ちゃんはあなたのことを必要としている。だから、私はあなたを突っぱねることはしない」
「……君はやっぱり、彼女の妹なんだね」
「どういう意味?」
「君たち姉妹は、とことんお人好しらしい」
「そうかな。それにしては、今から私は死神さんにお願いを押し付けようとしてるんだけどね」
「お願い?」
 僕が訊き返すと、彼女の妹は頷いた。彼女の妹は不敵な笑みを浮かべた。
「お姉ちゃんとデートして」
「…………は?」
「その様子を写真とか動画に収めて私にも見せて」
「……ごめん。どういうつもりでそんなことを口にしているのかさっぱり分からないんだけど」
「お姉ちゃんには、余生を楽しんでほしい。お姉ちゃんはずっと、私のせいで我慢してきたことがたくさんある。お姉ちゃんが年相応に楽しむ姿が見たい」
「……そっちこそ、年齢を弁えた発言をお願いしたいね」
 僕は彼女の妹の頭を撫でた。一瞬硬直したけれど、僕を突き放すようなことはしなかった。
「もう命を取ろうだなんて思ってないよ」
 僕は苦笑しながら言った。すると、彼女の妹が何故か顔を赤らめた。そして、彼女の妹は言った。
「……あの時は、宥めてくれてありがとう。嬉しかった」
「あの時?」
 一瞬分からず訊き返したけれど、すぐに思い出した。彼女の父親と再会した時に泣いていた彼女の妹を僕が宥めたときのことに対するお礼だったらしい。
「これを叶えてくれたら、私を怖がらせたことは許してあげる。だから、お願い」
 彼女の妹は、切実な声で僕に言った。
「……分かった。でも、君を差し置いて彼女は出掛ける気になるのかな」
「死神さんが言ってくれたら、なんとかなるかも」
 面会時間が終了するまで、僕は彼女の妹からいくつか彼女に体験してほしいことを聞いた。
「お姉ちゃんをよろしく。きっと、死神さんの言葉なら聴く耳を持ってくれるはずだよ」
 どうして彼女の妹がそんな自信を持っているのかは不明なままだったけれど、約束してしまったものは仕方がない。彼女の妹から預かったメモを手に病院を出た。
 僕はコンビニに立ち寄って水やカップ麺を買った。しばらくまともに飲食をしていない彼女の栄養源を確保して、僕は彼女に家に戻った。
 彼女の部屋を覗くと、水中で聞こえる酸素ボンベの音のように深い寝息を立てながら眠っている様子が窺えた。僕は少し安心してリビングに向かった。ソファに座ってぼんやりしていると、僕もいつしか意識を手放していた。
 廊下が軋む音で目を覚ました。時計を確認すると深夜になっていた。それから廊下がある方を振り返ると、髪を乱して何やら慌てた様子の彼女が僕を凝視していた。
「おはよう。深夜だけど」
「…………どうして私が家にいるの? 病院でひなのの側にいたはずなのに」
「僕が君を家まで運んだ」
「…………どういうこと?」
「無理が祟って、君は病室で倒れた」
「……そんな」
「君の妹がひどく心配していた」
「…………ひなの」
「お見舞いに行っちゃいけないわけじゃない。ただ、ちゃんと自分の身体を労わってほしいんだ。僕も、君の妹も、そのことを君に望んでいる」
 彼女は難しい顔を浮かべた。
 もし彼女がまた無茶をするようなら、僕は何としてでも阻止するつもりだ。もし、今日みたいに倒れるようなことがあれば、彼女の体調が心配になるだけじゃなくて彼女の妹の最期を看取れなくなる可能性がある。それは、彼女にとって一生の後悔になるだろう。きっと、死んでも死にきれない。
 ぎゅるぎゅる、と音が鳴った。音源は、彼女だった。彼女は気まずそうな顔でこちらを見ながらお腹を押さえている。僕は思わず笑ってしまった。リビングのテーブルの上に置いたままだったビニール袋からカップ麺を取り出した。彼女は目を丸くして、また音を鳴らした。
 熱湯を注いで三分待った後、彼女は「いただきます」と言ってから麺を啜った。
「美味しい」
「深夜っていうのがまた引き立たせるよね」
「背徳感がすごい」
「ご飯もちゃんと食べようね」
「……なんか保護者みたいなこと言ってる」
 彼女は煩わしそうに言ってから、笑った。久しぶりに彼女の笑顔を見た気がした。
 食事を終えた彼女は、満足そうにソファに座った。僕も彼女の後に続いて座った。
「君が体調を崩したら元も子もない。これからは無理をしないこと。いいね?」
「…………」
 返事こそしなかったけれど、彼女は不本意そうに頷いた。僕は机の上に置いていたメモを手に取った。
「それと、君の体調が万全だったらの話だけど、明後日の夏祭りに行こう。午前中は映画を観に行ってもいいかもね。後は君の希望を聞きたいところなんだけど」
「ちょっと待って。なんの話?」
 要領を得ないといった様子で、彼女は僕の言葉を遮った。
「君の妹からのお願いなんだ。君が楽しんでる様子を収めた写真や動画がほしいらしい」
「……どうして」
「君が楽しんでいるところを見たいんだって」
「…………」
「これが実現したら、僕が君の妹に襲い掛かろうとした事実も帳消しにしてくれるらしい。だから、僕からもお願いするよ」
「……ふっ、なにそれ」
 彼女は力が抜けたように笑った。
「分かった。ひなのが生きてるうちに、見せてあげよう。私の携帯で撮影すればいいね」
「うん。明日はお見舞いに行くこと以外は安静にしよう。ちゃんと夜になったら」
「分かってるってば。過保護すぎ。絶対あんた親になったら娘からうざがられるタイプだよ」
 彼女はけらけらと笑った。そんな冗談を言ってのける彼女は、やっぱりすごい。自分が親になる未来が来ないことはわかっているはずなのに。僕にも、彼女にも。
 翌日、お見舞いに行く時には彼女の顔色がすっかり戻っていて、目の下のクマもほとんど目立たなくなっていた。彼女の妹は血色の良くなった姉を見て安心したらしく、泣いていた。彼女もつられて涙目になっていた。
「心配かけてごめんね。もう大丈夫だからね」
「お姉ちゃん、死んじゃうかと思った。怖かったぁ」
 二人はお互いの絆を確かめるように抱擁を交わした。僕が二人に出会わなければ、このやり取りはもう少し先になっていただろう。そう思うと、僕は居た堪れない気持ちになった。
 彼女は約束通り、お見舞いが終わって帰宅して安静にしていた。ちゃんと食事は摂ったし、適切な時間に就寝した。
 夏祭り当日、僕は彼女の手を引いて最寄り駅に連れて行った。彼女が僕の行動に困惑しながら訊いてきた。
「なんで手なんか繋いでるの?」
「一応、君の妹からデートの名目でという指示がある」
「…………ひなのめ」
 彼女は顔を紅潮させながら吐き捨てるように言った。僕も彼女のことを笑えないくらいには周りの目を気にして恥ずかしい。
 駅に隣接した映画館で彼女が希望した映画のチケットを購入し、上映時刻までの時間潰しとして頃合いの良い飲食店に入った。
 何気ない会話をしているといつの間にか上映時間が迫っていたことに気付いて、僕と彼女は急いでスクリーンに向かった。
 映画の内容はSFで、彼女がチョイスした割に客層はほとんど男性だった。正直、甘々の恋愛ものを彼女が選んでいたら気まずくなるだろうと懸念していたけれど、僕みたいな男子にとっても楽しめる内容で非常に助かった。
 映画館を出ると、彼女は自分たちが観た映画のパネルの前に立った。僕もパネルの前に来るよう彼女が指示したため、それに従って彼女の隣に並んだ。彼女は携帯のカメラモードを起動して、画角に二人を映した。
「撮るよ」
「うん」
 シャッター音が鳴って、彼女は撮れ高を確認した。問題はなかったようで、小休憩としてカフェに入ると彼女は先程観た映画の談議を始めた。意見が別れる映画だっただけに、面白かったけれど消化不良だった僕は、彼女の鋭い見解や考察に舌を巻きながら耳を傾けた。
 身体が休まった頃合いで駅から各停電車に乗って二つ駅を乗り継ぐと、夏祭りが開催されている神社に到着した。ただし、まだ出店が出るには早い時間だった。
「どうしよう。何で暇を潰す?」
「実は、近くに浴衣のレンタルショップがあるらしいんだ。駅のポスターに書いてあった」
「へぇ、そういうのがあるんだ」
「着てみない?」
「……そういえば、人生で浴衣着たことないかも」
「僕、微妙に貯金が残ってるから、使い道をこれに決めてたんだ」
「男性用の浴衣もあるの?」
「僕じゃなくて、君の」
「……え、あんたは?」
「僕はいいよ。帯結べないし」
「ふっ、なにそれ。私もいいよ。そんなことに貴重な貯金使っちゃダメだよ」
「いや、僕はもう二度とお金を使うこともないから。僕が納得するものに使いたいんだ」
「…………ありがとう」
 彼女には特にお金の面でも何度かお世話になった。これくらい、彼女に献上するのは当たり前のことだった。
 浴衣を貸し出すお店を彼女に検索してもらい、ナビの指示を受けて僕たちは目的地を目指した。神社から十分ほどしてレンタルショップを見つけた。中に入ると、やはり夏祭りで浴衣を着る予定の女性がたくさんいた。買うにしては高く、着るにしては機会が少ないことから、このお店は繁盛しているらしかった。
 彼女は店内に並ぶ浴衣を吟味し、自分の好みに合うものを選んだ。幸い、彼女は僕の全財産の範疇内で購入できる浴衣を選んでくれた。もしかすると、値段を見て決めたのかもしれない。
 彼女は店員さんの誘導で試着室に通され、僕は待っている間横長の椅子に座るように言われた。カップルの彼氏たち何人かがすでに彼女の着替えを待って座っていた。
 ちょうど僕が椅子に座った時に、男性が一人代わるように立ち上がった。どうやら、彼女さんが試着しているようで、浴衣姿の女性が振袖をたなびかせながら男性に訊ねた。
「どう?」
「可愛いよ」
「本当? さっき着たのとどっちが可愛い?」
「どっちも可愛いよ」
「えー、はっきりしてよ」
 無邪気にはしゃぐ彼女が男性の肩を叩いた。乾いた音が鳴った。男性の表情を見るに、返答に窮しているようだった。この手の質問にめっぽう耐性のない僕は、きっと女性を怒らせてしまうだろう。恋愛とは実に難しい。
 他人事のように他のカップルたちのやり取りを眺めながら、彼女の着替えを待った。着替え始めてから三十分ほどした頃合いで、彼女が出てきた。どこか恥ずかしそうに何度も浴衣の着付けを気にしながら彼女は僕に訊いた。
「……どう?」
「うん、似合ってるよ」
「……そう。じゃあ、これにする」
「え? 他のは試さなくてもいいの?」
「うん。これ以上待たせても悪いし」
「そんなこと気にしなくて構わないのに」
「あんたが似合ってるって言ってくれたから、これがいい」
 彼女はそう言うと顔を逸らしてしまった。
 ニヤニヤする店員さんに気まずい思いをしながらお会計を済ませると、店員さんが「お似合いですよ」と僕たちに言ってきた。この店員さんは何か勘違いしているらしく、その勘違いが僕と彼女を気まずくさせた。
 神社に戻った時には境内の灯がいくつかほんのりと灯っていた。出店が徐々に形を成していき、すでにお店への呼び込みを始めている人もいた。
 彼女はすでにお腹が空いていたらしく、混んでいないうちに食料を確保することにした。人がまばらな境内は、普段神聖な神社への配慮が辛うじて残っているみたいで、押し寄せてくる人間たちに備えて祀られた神様たちがこの後の喧騒に警戒して身を潜め始めているように思えた。
 最初に僕たちが訪れたのは、焼きそばを売る出店だった。粋のいいお兄さんが、溌剌とした声で僕たちを出迎えてくれた。
「焼きそば一つください」
「はいよー」
 無駄のない動きであっという間にプラスチックの容器に焼きそばが入れられ、青海苔や紅生姜をかけた商品が彼女に手渡された。彼女はお礼を述べてお兄さんに会釈した。次の食べ物も早々に確保してしまおうと彼女と話していると、焼きそばを待っている間に随分と客が増えたらしく、出店が慌てて活気を焚き付け始めていた。それを煙たがる神様たちは、徐々に神社から姿をくらましていくだろう。
 次に僕たちが向かったのは、飲み物の出店だった。彼女はラムネを買った。その後はたこ焼き、チョコバナナ、りんご飴、クレープ、ケバブの順に買っていった。ちなみに、僕は人間の食べ物を受け付けないため、これらは彼女一人で平らげた。
「……随分と食べるね」
「食い納めってやつ」
「そういうことなら、何も言うまい」
 全て食べ終えた彼女は、浴衣に締め付けられる腹部を押さえながら、胃の中のものを消化するために身体を動かそうと提案してきた。
「射的しよう」
「指先だけの運動だね」
「ちょっと黙ろうか」
 彼女に睨まれて、僕は思わず吹き出してしまった。彼女も僕に続いて笑いをこぼした。ずっと、この時間が続けばいいのに。
 はちまきを巻いた恰幅のいいおじさんが、射的用の銃を手渡してきた。最初に僕が挑戦し、5つの玉を使って三発命中した。後手に回った彼女は、なんと一発のみの成果だった。
「拗ねてるの?」
「……違う」
「不貞腐れてる?」
「違う! 今回は勝ちを譲っただけ」
 彼女は頬を膨らませながらそう言い放った。
「こっち来て」
 彼女は僕の手を引いて別の屋台に向かった。そこには、無数の金魚が泳ぎ回る長方形の水槽があった。彼女は浴衣の袖を捲りながら店主からポイを受け取った。随分とやる気に満ち溢れているようだった。彼女は慎重に水槽に張られた水面にポイを忍び込ませると、軽やかな手つきで金魚を数匹薄い網の上に捕らえて素早く銀の器に放り込んだ。彼女の手捌きから見て、かなりやり込んていることが窺えた。
 結局、彼女は十五匹も金魚を手に入れた。彼女は得意げになって、店主から受け取ったポイを僕に渡した。
「お手並み拝見」
 彼女はニヤニヤしながら僕の隣にしゃがみ込んだ。彼女の表情が癪に障った。起伏した自分の感情を押さえ込むように深呼吸して、神経を研ぎ澄ませた。大きな金魚は狙わない。あくまで数の勝負だ。余裕があれば、彼女を横目に大物を捕獲すればいい。
 僕は慎重にポイを水面につけた。極力、着水している時間を排除するためにすぐさま金魚が密集している方へと手首を動かした。すると、網が音もなく中央から波紋が広がるように優しく破れた。一瞬の焦りが僕の手元を狂わせ、繊細なポイの網に動揺を見せてしまったのだろうか。
 しばらく動揺で動けないでいると、真隣から耳を劈くような笑い声が響いてきた。
「あはははははは」
「……笑いすぎじゃない? 近所迷惑だよ」
 とてつもない笑い声を上げる主は、もちろん彼女だった。随分と砕けた姿で笑う彼女は、お腹を抱えながらひーひーと呼吸を乱した。
「まさか、一匹もとれないなんて」
「……仕方ない。素人なんだから」
「私でも射的で一つは景品を倒したのに」
「…………」
「はー、おっかし。こんなに笑ったのいつ振りだろ」
 彼女は目尻に人差し指を添えて笑い過ぎて現れた涙を拭った。すると、彼女はとことん不名誉な提案をしてきた。
「成果を写真に撮ろうよ」
「……僕には成果なんてないけど」
 僕がむすっとしながら恨めしい気持ちで彼女に言うと、彼女は店主に金魚を放すビニール袋を二つくれた。彼女は自分が獲得した金魚を片方に入れ、もう片方は水槽から水だけを汲んだ。
「はい、これ持ってピースして」
「…………正気?」
 彼女は携帯を取り出して自分と僕を画面内に映した。彼女の手には金魚が泳ぎ回る賑やかなビニール袋を顔に近づけ、一方の僕は水だけが透き通ったビニール袋を片手にピースした。
 しばらく笑いを引きずる彼女に辟易しながら境内を歩いていると、彼女は「あっ」と何か目覚ましいものでも見つけたみたいな反応を示した。小走りでどこかに向かう彼女に慌ててついて行くと、壁に立て掛けられた網目状の白いフェンスにいくつかのお面が飾られてあるのが目に入った。
「これ、買いたい」
 彼女が指差したのは、髑髏のような黒いお面だった。これを見た人はおそらく共通認識として死神を思い浮かべることだろう。
 彼女はそのお面を買い、僕の目の前でそれを顔に被せた。この神社には死神が二人、紛れ込んでいる。人間の喧騒を煩わしく思って愛想を尽かされた神様不在のこの神社では、僕たちが咎められることはない。
 彼女はお面を被ったまま、僕に抱きついてきた。驚いて身を硬直させていると、彼女は震える声で呟いた。
「もし同じ死神になれたら、私たちはずっと一緒に居られるの?」
 彼女の問いかけに、僕は唸った。胸元に顔を埋める彼女を見下ろしたけれど、お面が邪魔をして表情は分からなかった。
 前も言った通り、彼女に死神は向いていない。
 何も答えずに立ち尽くしていると、彼女は僕から離れて後ろを振り返った。お面を側頭部に寄せて、浴衣の袖で目元を拭った。それからこちらを振り返ると、彼女は僕に笑顔を見せた。
「あんた、私の命を食べるんだから長生きしてよ」
「…………」
「約束」
 彼女は僕の胸に拳をつきつけた。僕は彼女の言葉に凍りついたけれど、かろうじて返答した。
「それって、他の人の命を犠牲にしながら生きながらえろってこと?」
「……嫌な言い方」
 彼女は不機嫌そうに唇を尖らせた。
 僕は死神になってから二度、長生きしてほしいと言われた。彼女との約束と契約、どちらの方が重いのだろうか。
 ある程度境内の催し物を堪能した後、僕たちは神社の裏側にある河原に向かった。すでに大量の人が川辺でひしめき合っており、僕たちは逸れないように手を繋いだ。僕も彼女も、気付けばお互いに触れ合うことに抵抗がなくなっていた。
 人々の騒めきはやがて空気を読んで鳴りを潜めた。本来この空間に漂うべき静寂が辺りに緊張感を植え付けた。
 しばらくすると、空をくねくねと這う蛇が金切り声を無造作に発するような音が耳に届いた。それから一瞬の沈黙を挟んだ後、スタンディングオベーションが起きたかと錯覚するような音が一帯に降り注いだ。夜空の暗闇を掻き分けるようにして周囲を赤く染め上げる花火が唸った。
 最初に打ち上げられた花火を皮切りに次々と数多の花火が絶え間なく夜空を自身の色で支配した。緑、赤、青、オレンジと、いくつもの花火が圧巻の花模様を空に刻印した。
 ふと隣を見ると、彼女が上空で巻き起こる自然と科学が融合した水彩画みたいな花火同士の戯れに見惚れているのが視界に入った。彼女が間もなく死ぬ。そのことが信じられない。いや、信じたくない。自分が引き起こしたツケが回ってきた。
 夜空を海底にしたように幻想的な花火の珊瑚礁が視界いっぱいに広がり続けている。今この瞬間に時間が止まってしまえばいいのに。本気でそう思った。
 夏祭りが終了し、僕と彼女はレンタルショップに寄った。彼女は元の服装に戻った。浴衣を着る時よりも脱ぐ時の方が当然はやく、呆気なく日常が戻って来てしまった。
 後日、病室で彼女が彼女の妹に夏祭りの日に撮った写真を見せた。金魚不在のビニール袋を片手にVサインをする僕に二人して笑っていた。彼女は思い出してお腹を抱えながら笑った。彼女の妹は、僕たちに「ありがとう」とお礼を言った。
「二人のおかげで私もその場に行った気になれた。今度は遊園地デートかな」
「デートじゃない!」
 彼女の妹の言葉に、彼女は過剰に反応して否定した。僕たち三人は、また笑った。肝心の花火の写真を撮り損ねたことにご立腹の彼女の妹に、今度は遊園地での写真を撮ってくることを約束した。
 けれど、結局彼女の妹との約束を守ることはいよいよできなかった。容態が悪化し、いつ旅立ってもおかしくない状態になった。所謂、危篤状態というやつだった。当然、そんな状態の彼女の妹を差し置いて楽しむことはできるはずがなかった。
 彼女の妹は、目に見えて衰弱していた。