下駄箱でさっさと靴を履き替えた。そして、学校の正門から出て、いつもは下る坂を下りず、最初の細い路地を右へと曲がった。
 学校から最寄り駅は歩いて十分だが、隣駅は十五分ほどで到着出来る。
 隣駅の近くには俺の家がある関係で、ドーナッツ屋開店のチラシが投函されていた。

「実は俺の家、隣駅なんだ。だから、たまに歩いて帰ってるんだ」
「そうなんだ、近いのいいね」
「まあね、ただ遅刻しそうになるんだよねえ、気が緩んでさ。望月くんは?」
 まだ出会ったばかりだから、会話にはぎこちなさはあるが、少しずつ打ち解けようと話を振る。望月くんも頑張って答えてくれる。

「……俺、電車で三十分くらい」
「どのあたり?」
「世田谷の方。……直線ならもっと近いのにって、いつも思ってる」
 どこか悔しさ滲ませた口振りに苦いものを食べたかのような表情で、つらつらと恨み言を吐き出す望月くんは意外な一面だった。

「たしかに、ちょっと迂回するよね。乗り換えも渋谷だし、大変だなあ」
 頭の中で東京沿線の線路図を思い浮かべる。確かに、彼が言うとおり直線だったら近いが、痒いところに届くような線路はない。しかも、乗り換えは大勢の人が朝から晩まで常時ごった返す渋谷駅。
 平日毎日通学となると、かなりハードだ。望月くんは俺の言葉に同意するように大きく頷くと、わかりやすい程にがくりと肩を落とした。
 あまりにも肩をがっくりと落とした姿に、もっと明るい話題に代えようと頭からひねり出す。

「そうそう、どんなドーナッツ好き?」
 俺の貧弱な頭から出てきたのは、しっかりとドーナッツに乗っ取られた話題だった。
 落ち込む望月くんも、振られた話題に驚いたの勢いよく振り向く。
 またもや、気まずい沈黙。どうしようかと俺が困惑していると、望月くんが小さく噴き出した。

「ふ、普通の、かな」
 肩をふるわせて、笑いを堪えたような返答。どうやら何かがツボってしまったよう。何が面白かったのかはわからないが、スベって更に冷たい空気が流れるよりはマシだろう。
 しかし、普通のドーナッツか。

「ふわふわ? さくさく? しっとり? ずっしり? なめらか?」
「えっーと、ふわふわかな」
 かなり食い気味で深掘れば、堪えきれないのか笑いながら応えてくれる。大きなマスクと長い前髪で表情は見えないが、楽しそうなのは確かだと思いたい。

「わかる、いいよね。俺は全部好き」
 ピースサインをしながら、キリッとキメ顔を望月くんに向ける。
 遂に彼の腹筋は崩壊した。腹を抱えて大きく笑い、途中からは呼吸もままならず、咳きこみ始める。俺は慌てて「大丈夫か!?」と背中を摩る。まさか、こんなにも反応が良いとは思わなかった。
 水を飲んだりして、どうにか望月君は自分の呼吸を落ち着かせると、「大丈夫だよ」と俺に微笑んだ。

「全部美味しいからね」
 優しい気遣いが、正直今は申し訳なかった。


 かなり親睦を深めた俺たち。
 しかし、俺は一つ大事なことを忘れていた。

「本日、売り切れ閉店!?」
 開店半額セールを狙う人たちは沢山居た。
 朝十時開店で午後四時過ぎに来たら、それは買えるわけがない。
 しかも、店の前に貼られた商品一覧ポスターを見るに、通常の値段は一個五百円からと高いけれど、値段に見合ったドーナッツの数々。
 各種アレルギー対応のドーナッツや、SNS映えを意識したドーナッツ、味やボリュームも様々用意されているよう。

 膝から崩れ落ちた俺は、申し訳ない気持ちで望月くんを見上げた。

「ごめん、売り切れちゃった……」
「気にしないで、寧ろ大丈夫?」
「だいじょばないかも」
 わかりやすく絶望するのは、やはり半額だから。
 学生にとって、あまりにも大きな差。
 がっくりと膝をついてしまった俺を見て、望月くんが周りを見渡した。
 「……じゃあ、あれは?」
 望月君が指を指した方へと、顔を向ければ、熱い風が俺の顔へぶわりとかかる。
 熱々な湯気の中に包まれた、ほんのり甘く柔らかな小麦と、じわりと染みる甘辛い豚肉の美味しい香り。
 
「肉まん……」
 ドーナッツ屋のすぐ傍にある本格町中華のお店。
 幼い頃からよく家族で食べに行っており、店頭で蒸している安くて大きな肉まんが名物だ。
 この湯気の熱さ的に、今ちょうど蒸し上がったばかりなのだろう。
 たしか一つ、三百円。
 望月くんの提案、肉まんの香り。俺が取る選択は勿論一択だ。
「食べる」

 そうして、二人で一つずつ購入し、店前の端に乱雑に置かれた丸椅子に座った。
「いただきまーす」
「いただきます」
 白くて正方形の袋に入れられた肉まんは、少し黄色を帯びた分厚く柔らかな感触の生地。
 袋から力強く湧き上がる湯気は、これだけで更に濃厚な幸せを感じさせる。
 口を大きく開けて、一口。前歯が熱々の生地を貫通し、挽き肉と細切れのニラ、タマネギが詰まったタネを噛む。

 じゅわっと、肉汁に包まれた濃いめの中華だしが口の隅々まで広がる。

「ああっづ!」
 熱い、めちゃくちゃ熱い、また火傷コースだ。次こそは気をつけないと。
 しかし、肉まん食って火傷は小さい頃から何度も繰り返していて、一向に直る気配はないのが現状である。
 今は口中が痛いのを、なんとか耐えて、しっかり感で飲み込んだ。

「大丈夫?」
「大丈夫、美味しいは我慢だから」
 心配そうに俺をのぞき込む望月くんに、涙目になりながらも親指を立てる。
 当分口内は、水ぶくれからの皮むけベロベロだろう。

「……俺、アゴ上、火傷したかも」
「え、仲間じゃん」
 なんと、望月くんも火傷をしていたようで、困ったように眉を下げる。
 ただ、俺的には仲間がいたことが嬉しくて、ずいっと望月くんに顔を近づけた。

「な、仲間だね」
 流石に距離が近すぎたのか、望月くんは戸惑いながら少しばかり仰け反った。

 ふーふーと息で冷ましながら、二人で完食する。
 望月くんは以外と食べ方がワイルドで口が大きいのか、結構豪快にかぶりついていた。俺は口は小さい方なので、ちょっとだけ羨ましかった。
 子供の頃は食べきれない量だったが、やはり成長したのだなと感じた。
 思い出の味を友達と分け合うのは楽しい。けれど、俺は本来の目的を忘れていなかった。

「望月くん、次こそはドーナッツだね」
 空になった白い袋を力強く握りしめる俺。
 望月くんは、目を二回まばたきをした後、大きく頷いた。

「俺でいいの?」
「そうだよ! 他にも色々食べに行こう!」
 彼らしい遠慮ぎみな聞き返しに、俺は食い気味で答える。望月くんは、「ありがとう」とはにかんだ。

 しかし、もう空を見るとすでに、夕暮れの茜色に染まっていた。
 思えば今日は父親の帰宅が比較的早いらしく、久々に一緒に食べる予定だったことを思い出した。
 となると、これ以上帰宅が遅れると母親に怒られてしまう。
「じゃあ、そろそろ遅いし、帰ろう」
 俺が声をかけると、望月くんは寂しそうに眉を下げ、彼が視線を少し逸らして足元を見つめた。

「もう、帰るの」
 なんだか子供がぐずったかのように尋ねる望月くんの姿は、少し幼くてなぜだかほっとけない気持ちにさせてくる。

「そうだね、望月くんも病み上がりだし、家族が心配しちゃうよ。でも、また明日も会おうよ」
 けれど、望月くんは今も風邪気味だし、今日は俺にも家庭の事情がある。
 俺の素直な言葉に、望月くんは眉を下げながらも、ぎこちなく笑った。

「そっか、明日か。白石くんの家族も心配するよね」
 今の言葉は俺への返事というよりも、どこかもっと遠くに向けられたように聞こえる。
 気まずいというのもおかしいけれど、そうとしか俺には例えられなかった。
 雰囲気を変えないと、俺は思わず声をかけた。

「駅まで送るよ」
「ありがとう」
 お店の前から見える小さな駅舎に向かい、俺たちはゆっくりと歩き出す。
 望月くんは言葉は少なかったけれど、その表情や声色が、何かを伝えようとしているように思えた。何を言いたいのか、まだ俺には分からないけれど、もう少し仲良くなったら話してくれるのかもしれない。
 改札の前で立ち止まった望月くんが、ふっとこちらを振り返った。
 
 「じゃあ、また明日」
 と言ったその声が、どこか寂しそうで、気持ちを隠すように響いた気がした。
 俺は一瞬、どう返すべきか迷ったけれど、結局「また明日」と同じ言葉を返すことしかできなかった。