なんで、俺、逃げているのだ?
逃げ出した足音が、廊下に乾いた音を響かせる。心臓の鼓動は乱れ、呼吸も酷く荒い。どうして、こんなに焦っているんだろう。
体育館を飛び出して、気付けば展示している教室の階も超えて、あの掘っ立て小屋の方へと向かっていた。
掘っ立て小屋は、やはり最上階ということもあり、全く人の気配はない。
その代わり、展示用の教室から出されただろう机や椅子が、廊下や教室にぎゅうぎゅうに詰められていた。
俺は椅子や机の垣根を越えて、いつもの教室の奥へと入っていく。日が沈みかけ教室の中、窓際には赤い光が差し込み、長い影を落としていた。
本日の文化祭は終わりが近いけれど、校庭からは流行の曲のBGMと人の賑わいが絶え間なく聞こえてくる。
教室内のベランダ傍に隠れるように、ガラス戸に寄りかかるようにして床に小さく蹲る。
「ああ、もう……」
意気地無し、と言われても仕方ない。
なんで、逃げてしまったのだろう。幸詩のそばにいたいと思う気持ちと、彼の周りに集まるたくさんの人たち。幸詩の隣は、もう自分だけのものではない――そのことが怖くて仕方なかった。
では、あの時幸詩の腕を掴んで、どうしたかったのだろう。困っているのではと心配で、助けたかった。
いや、違う。自分の隣から幸詩が遠くに行ってしまうと焦ったからだ。
ここ最近全く会えていなかったし、桜井さんの告白も、今日で幸詩を好きになった人たちも、全てが怖くなってしまった。
だから、衝動のまま、掴んでしまった。
全部、自分のわがままだ。
「幸詩……ごめん……」
「何が、ごめんなの」
「え」
小さく呟いたつもりだった。しかし、慌てて教室の扉の方へと向くと、汗だくで息を荒く整える幸詩が立っていた。
「幸詩、なんで」
「あんな逃げられたら、追いたくなるよ、普通」
幸詩は背中に背負ったギターを一度教室の入り口の柱に置くと、椅子と机の合間を縫って、こちらへとやってくる。
そして、俺の前に同じようにしゃがみ込む。
「晴富」
いつもよりも鋭い幸詩の瞳が、俺を映す。幸詩の唇が、更に動く前に俺は「ごめん」と謝った。
「なんで、謝るの」
「……それは」
「謝られること、されてない」
幸詩の苦しそうな言葉。ああそうだ、これは俺の個人の問題。
しかし、これから、俺は幸詩を困らせる。
「俺、幸詩のこと、好きなんだ」
あまりにも唐突だった。堪えきれなかった。隠し通すのは得意じゃない。
言ってしまえば、楽になる。
しかし案の定困ってしまったのだろう、幸詩は口を大きく開けたまま、言葉を失った。
「友達だったのに、ごめん……どうしたら、いいか、わからなくて……」
しゃくりあげる俺の瞳から、涙が溢れるのを必死に手の甲で拭う。皮膚と皮膚が擦れ、ひりひりとした痛みが広がった。
ようやく言葉は尽きた。目元をこする手を、幸詩の手が優しく掴んだ。
「幸詩?」
急なことだったので、幸詩の顔をのぞき込む。茜色の日が差し込んでいるせいなのか、幸詩の顔が赤く染まっていた。
「その……あの、今日、言おうと思ってたんだけど」
静かに見つめ合う。幸詩が口を開きかけて、また閉じた。お互いに何も言ない時間が続く。鼓動が耳に響く中、幸詩は言葉を探すように一瞬視線を一瞬逸らした。それから決意したように再び見つめた幸詩の顔は、決意を浮かべている。
「俺も……好きだよ」
その言葉が、教室の中に柔らかく落ちた。
「えっ」
幸詩の言葉が上手く頭に入ってこない。今、好きと言ったの。
「誰を?」
「晴富を」
「な、なんで」
「好きだからとしか……」
「いつから」
「結構前から、かな」
詰めるような質問に、リズムよく幸詩が答えた後、凄く気まずい沈黙が流れる。
「好きにもなるよ、俺のために、こんなに一生懸命になってくれて」
幸詩の甘い言葉。俺は唖然と口を開く。
「だから、どうにかしてでも、ずっと一緒に居たかったんだ」
甘ったるい静寂を打ち破るように、文化祭一日目の終わりを告げる校内アナウンスが響く。
「……俺、結構あからさまだと思ってたんだけどな」
幸詩は少しばかり肩の力が抜けたように、俺に覆い被さるように抱きしめる。
「ど、どうした……?」
「今回、終わったら告白しようと思ってたのに、先を越されちゃったし」
ただでさえいい声なのに、耳に掛かる吐息のように囁かれて、思わず背筋がピンと伸びる。その背筋に回った幸詩の腕に力が入る。
「晴富、好きだよ。付き合ってほしい」
直球どストレートの告白に、俺はおずおずと抱きしめ返す。
「うん」
幸せすぎて声が上手くでなくて、小さく上擦る。
二人の腕にきゅっと力が入った。幸詩の体温が心地よいし、香水の甘いグリーンな香りが幸詩だと感じさせる。
抱きしめていた腕を緩まり、少しばかり俺と幸詩の間に空間ができた。見つめ合う距離は数センチ。
鼻先が触れあうような距離だ。
「キスする?」
「初キスは……手を繋いでデートした後だろ」
これはもしやと思い尋ねると、顔が赤い幸詩は恥ずかしそうに口を尖らせた。
まさかそんな事を気にするなんて。あまりにも可愛いから、俺の身体から力が抜けたせいか、ゆっくりとあるものが湧き上がる。
「幸詩、お腹、すいたね」
そう、空腹感だった。
「たしかに、俺も朝から食べてない」
目があった俺らは、大きく笑い合った。
「幸詩、甘い物食べたい」
「じゃあ、前食べ損ねたドーナッツは?」
「いいね! 一緒に写真も撮ろう」
俺たちは立ち上がる。そして、教室から出ようと思った時、幸詩が俺に手を差し出した。
「手、繋ごう?」
俺は大きく頷きながら、その手を取った。
一度俺のクラスの展示教室へと二人で向かう。途中、先生と出くわして、手を離してしまったけれど。クラス内にはすでに誰もおらず、俺の鞄だけが置かれていた。俺は鞄を拾い上げて、幸詩の元へと戻った。
すると、なんと幸詩が俺の展示物を見ていた。
「お、俺のよく見つけたね」
幸詩に横から声を掛けると、彼は驚いたように目を見開き、勢いよく俺の方を振り返った。
「これ、めっちゃいいじゃん」
幸詩は展示を見つめたまま、強い口調で褒める。その目は少し輝いているように見えた。
「そう? クラスメイトのみんなからも好評だった」
照れくささに耐えられず、俺は首の裏を掻いた。褒められるなんて思っていなかったから、思わず顔が熱くなる。
「晴富、絶対グルメライターとか向いてるよ」
「グルメライター……」
思わず口に出して反芻する。まったく予想もしなかった言葉に、何を言われたのか一瞬理解が追いつかない。
「ご飯好きだし、美味しいものを伝えてくる力、凄いあるなぁって」
幸詩はまるで当たり前のことのように、穏やかに言葉を続ける。
その言葉が、俺にとって、まるで頭の上に大きな雷が落ちたような衝撃だった。今まで自分が考えたこともなかった道が、まるで扉を開けられたかのように見えてくる。
「それだ」
頭の中でパズルが綺麗にハマるようにカチッと音を立てる。今まで自分には、将来の夢がなかった。
やりたいことも、得意なことも見つからなくて、ただ流されるように生きてきた。
けれど、俺にも「好きなこと」があった。そして、それを生かせる仕事もあることに、今初めて気づいたのだ。
「幸詩、ナイス! ありがとう……!」
叫んだその瞬間、胸の奥から喜びが突き上げてくるのを感じた。それは今までに感じたことのない、言葉にできないほどの感謝と興奮だった。心臓が激しく脈打ち、体が震えた。もう、自分を抑えられなかった。
そして、周囲を気にすることを忘れて「大好き!」と、勢い余って叫びながら、幸詩に抱きついた。
「な、なにが!?」
突然の抱擁に驚いていた幸詩が、焦りつつも腕を回し、そっと俺を抱きしめ返してくれる。その優しさに、思わず涙が出そうになる。
本当に今日は良い日だ。最高だ。
ふと静かになった校内に、遠くから聞こえる最終下校のチャイムが穏やかに響いた。
少しの間、互いにその音を聞きながら見つめ合う。校内の喧騒が少しずつ遠ざかっていく中で、俺たちは現実へと戻った。
「じゃあ、美味しいもの食べに行こう」
俺のいつもの提案に、幸詩は満面の笑みで頷いた。
終わり