ふらつく彼を支えながら、購買から校門までの途中にあるベンチへと連れて行く。
 ロッカーの陰に隠れているせいで、普段は気付きにくい場所だ。俺も中等部に入学してからしばらくは知らなかった。
 彼も休みたかったのか、俺の肩を使いながらベンチに座った。鼻を啜り、ゼーゼーと苦しそうな呼吸は、見ているだけで俺までも辛くなるほどだ。

「さっきは、いきなり話しかけてごめん。びっくりしたよな」
 目の前に立つ形になった俺は、彼の目線に合わせるように少し屈む。
 彼は俺の方を見上げ、控えめに首を横に振った。絶対に驚いたと思うのに、俺を気遣ってくれているのだろう。

「俺、高等部一年二組の白石(しらいし)晴富(せいと)。体調悪そうだけど、大丈夫か?」
「あっ、ぉ、おれっ……んっ、うぇっほ、ぇっほ」
 遅いくらいの自己紹介に、彼は返事をしようと息を吸い込み、それが良くなかったのか大きく咳き込み始める。あまりにも酷いから、「大丈夫?」と俺が背中を擦り、彼が落ち着くのを待った。

「無理に返答しなくて大丈夫。けど、本当に帰らなくて大丈夫?」
 ここに連れていくまでの間に、勢いよく誘ってしまったので、もし帰宅したいなら駅まで一緒に行こうと提案してみたのだ。
 もう一度確認すると、彼は俺の目をしっかり見て、ゆっくりと首を横に振る。

「じゃあ、ココにしよ。三角パン食べれる? 飲み物ある?」
 彼は相づちを打ちながら、肩にかけていた通学鞄から、いそいそと紙パックのドリンクを取り出した。アラビアンなゾウの顔の真ん中にミルクティーという特徴的なパッケージは、この学校に通ったら皆は一度は選ぶ激安大容量ミルクティーだった。

「それ、俺もよく飲んでるよ」
 彼は少し微笑んだ後、何かを思い出したのかおもむろに鞄を探り、今度は一冊のノートを取り出した。そして、俺にノートの表紙を見せる。
 丁寧な『現代文』という文字が目を引き、その下に彼の名前が書かれていた。

望月(もちづき)幸詩(こうた)くんか、四組なんだ」
 大きく頷く彼こと望月くんは、ノートを鞄へと戻すと、俺の顔と自分の空いている隣へ視線を交互に動かした。多分だが、俺が立っていることに気を遣っているのだろう。

「隣、座ってもいいかな?」
 望月くんは優しく頰笑みながら、隣の空いた席を軽く指さすように目で示してくれたので、俺はベンチに腰掛けた。そして、先ほど購入したばかりのラップに包まれた三角パンを掲げる。

「じゃ、早速三角パン、実食っ! ……なんて」
 子供の頃大人気だったグルメ情報番組、司会者の決め台詞を真似する。
 やはり同世代、望月くんにも刺さったらしく、小さく「くっ」と笑った。これは鉄板ネタだよな。そう思いながら、包装であるラップを乱雑に剥がしていく。
 既に焼きたてから時間は経っているが、ふわりとクッキーのこんがりバターと甘いシュガー、小麦の香りが鼻へと届いた。
 ちらりと隣を見れば、望月くんも同じようにラップを外している。

「いっただきまーす」
「い……だき、ます」
 食べる前の挨拶を済ませ、三角の角をパクリと一口。この角にはクッキー生地の硬い部分としっとりとやわらか部分を、どちらも楽しめるのだ。サクッ、ほろほろがたまらない。
 美味しさが口の中で崩れ広がるが、中のしっかりとした食パン生地が歯を優しくふんわりと受け止める。なによりも、中に挟まる()()()()が素晴らしい。

「……あっ」
 望月くんが、掠れた声で小さく声を上げる。視線を向ければ、彼はマスクを下にずらしたまま、もぐもぐと頬張りながら目をキラキラと光らせていた。ゆっくりと咀嚼し飲み込むと、またすぐに大きく一口齧りつく。

「意外だよねぇ、この塩気のあるチーズクリームが、甘いパンと絶妙にマッチするんだよね」
「んっ! んっ!」
 先程の辛そうな様子は薄れ、美味しくて幸せそうに同意してくれる。ただ、あまりの食いように喉が追いつかなかったのだろう。

「んんっ! ……んぅっ! んんぅ!!」
 どうやら、喉に詰まらせたのか、咽せ始めた。必死に胸の中心を叩いているのを見て、俺は慌てて彼のミルクティーを手に取る。
 べりっとストローを剥がし、真っ直ぐ伸ばした後、飲み口に差し込んだ。 

「大丈夫、ほら飲んで」
 苦しくて涙目になった望月くんは、すぐにストローをパクリと咥える。そして、勢いよく吸った。紙パックの中身は一気に吸われ、ぼこぼこと凹んだ。暫くして、どうにか流し込んだのだろう、ストローから口が離れた。

「ご、ごめん……」
 荒い息の狭間で、恥ずかしそうに頭を下げる望月くん。顔も耳も真っ赤に染まっていた。随分と軽くなった紙パックを、俺は優しく彼に渡した。

「大丈夫。忘れてたんだけど、意外とクッキー生地部分で喉詰まりやすいんだよね」
 ぼろぼろと崩れるせいか、口に入れると咽せやすいだけではない。彼の真新しいブレザーやスラックスには、いつの間にかパンくずが散らばっている。
 三角パンは美味しいけれど、食べにくいということを失念していた。思い出して先に言っておけば良かったと、申し訳ない気持ちが胸に広がった。

「たすかっ、た。あ、りがと」
 飲み物を飲んだからか、ほんの少しだけ掠れが和らいだ声。

「いやいや。体調が悪いんだし、食べやすいのをすすめた方がよかったよね」
「おいしいし、甘いの好きだから、大丈夫」
「そう……それなら、安心した」
 初対面で絡んだというのに、全てに優しい返しをする。望月くんへの好感度が、どんどんと上がっていくのを感じた。

「購買のパンは、昼ならもっと種類あるし」
「ミルクパンも……?」
「好きなの? でも、ミルクパンは見たことないかなあ」

 他愛もない会話を一方的にしつつ、二人で三角パンを食べきる。美味しいとは言え、厚切り食パン一枚分はそれなりのボリュームだった。
 その時、頭上から最終下校の音声チャイムが鳴り響く。

「そろそろ校内も閉まるから、外に出ようか」
 くしゃくしゃになったラップと紙パックを、ゴミ箱に放り込んだ。望月くんはチャイムを聞き終わると肩を落とし、深い溜息をつきながら立ち上がった。その顔は、まるで今にも泣き出しそうなほど悲しげだった。

「……帰らなきゃ、だよな」

 本当に、微かに聞こえた含みのある辛そうな言葉。俺は言葉の真意を探るように、望月くんの瞳を見る。
 彼の目は暗く、寂しげに伏し目がちになっていた。そして、眉を下げると、彼は俺の目からゆっくりと視線を外し、沈んだ様子で地面を見つめた。そして、渋々と足を一歩一歩下駄箱の方へと向かっていく。

 どうして、そんなに寂しそうなんだろう。
 身体よりも小さく縮こまった後ろ姿が、どうしようもなく頭に焼き付いてしまった。