空は既に橙色に染まり始めていた。
 幸詩に引きずられるがまま校門を出て、最寄り駅の方へと早歩きで進んでいく。普段の幸詩らしくないほど、断るにしてもかなり強硬な手段だった。
 強く引っ張られる腕は、痛みが酷く熱く、まるで燃えるようだ。
 坂を下りた頃、タイミングよく歩道の信号が赤に変わった。流石に幸詩も交通ルールに逆らえないため、ようやく歩みを止める。俺はチャンスだと、すかさず幸詩に声をかけた。

「幸詩、どうしたんだ? 大丈夫か?」

 幸詩は一瞬こちらを見て、何かを思い出したように「……っ! ごめん!」と、小さな声で謝った。
 優しく聞こえるように気をつければ、幸詩は我に返ったのか慌てて俺の腕から手を放し、後ずさるように距離を取った。
 腕に伝わる痛みがじんじんと熱を持ち、あの強い握力の余韻が残っていた。それほどまでに、あまりにも切羽詰まっている幸詩を責める気にはならなかった。

「何か……話したいことあったら聞くし、そっとしてほしいならそれでも、いいよ」
 幸詩の背中を二回ほど慰めるように撫でる。幸詩は申し訳なさそうに頭を垂れた。

「……ラーメン、食べたら、でいいかな」
 幸詩は視線を下げ、唇を少し噛んだ

「わかった。じゃあ、ラーメン屋、選ばないとね」
 ラーメンでも食べて、気を落ち着かせたいのだろう。その気持ちは凄く分かる。
 頭を上げれば、歩道の信号が赤から青へと変わった。他の待っていた人達と共に、俺たちもまた歩き始める。
 腕の握られたことによる痛みが、酷く熱いせいだろうか。
 彼の手が離れた瞬間、胸にポッカリと穴が開いたような寂しさが広がった。


 しかし、そんな俺たちでも人間どうしても不和があるものだ。


「ラーメンは味噌」
「いや、ここは塩だね」
 俺を見下ろし味噌を主張する幸詩と、譲れない想いの塩を選ぶ俺。
 斜め向かいの二つのラーメン屋。
 片方は味噌ラーメンが有名なお店の暖簾分け店で、もう一つは最近出来た話題の塩ラーメンのお店だ。

「味噌のが美味しい」
「塩のが素材の良さが分かる」
「素材が悪かったら嫌じゃん」
「味噌の味にほぼ差分ないじゃん」
 互いに折れる気はないようで、じーっと見つめ合う。まさか、ラーメンごときでと思うが、ラーメンは高い。基本的に安くても七百円、平均は千円前後。
 学生の財布から一杯を捻出するのは、なかなかにハードルがある。

「味噌のバターコーン乗せが至高」
「ここの塩ラーメンは、焼きネギにこだわってで、低温鶏チャーシューと豚チャーシューも乗ってる夢のハッピーセットなんだよ!」
「ラーメン名店と言えば、この店だろ」
「新店には新店の良さがあるの!」
 道の隅でひたすら幸詩と揉める俺。平和に解決したいけれど、こればかりは譲れない想いなのだ。
 二人して味噌の良さ、塩の良さをぶつけ合い、出し尽くしていく。こんなことで争いたい訳ではない。二人とも言葉を無くし、終いには幸詩を見上げる形で睨めっこ。お腹も勿論空いており、ラーメン屋の良いスープの匂いを嗅ぎながらとは、なんの罰ゲームだ。

 もうどうしよう、このままだと収拾が付かないと頭を抱えそうになった時、隣に通ったサラリーマンたちの言葉が耳に飛び込んできた。

「おい、あそこにさ、油そばの店、出来たんだぜ!」
「お、あの塊みてぇなチャーシュー山盛りのところだろ。結構安かったから、気になってたんだ」
「オーナーが有名店で修行した人らしい、行かねぇか!」

 俺と幸詩がサラリーマンの方を見る。サラリーマンが指差しながら目指す先には、新装開店の花輪がずらりと並んでいた。勿論お客さんもそれなりに並んでいるが、平日だからか少し待てば入れそうな長さだ。

「幸詩、油そばどう?」
「良いと思う」
 俺の提案に、幸詩も同意する。塩と味噌の決着は持ち越しとなったが、塊のようなチャーシューと安さと言うワードに、逆らえる男子高校生は少ない。
 俺たち二人はサラリーマンを追うように、油そばの店へと向かった。食券制で先に買ってから並ぶ形で、俺たちは一番安い小豚油そばを一枚ずつ購入し、先ほどのサラリーマンの後ろに並ぶ。

 店内には野菜やニンニクの量を伝える呪文(コール)が飛び交っており、正直最初は何事かと怖かった。一応お店の前には呪文(コール)の作法や種類の一覧が可愛いイラストと共に記載されており、特に何もなければ「そのままで」のみだけで良いらしい。

「ヤサイアブラにしようかな」
「俺は全マシかな」
 二人で一覧を眺めながら、自分の注文を決める。ただ、人数的に着席できるまでには、まだまだ時間がかかりそうだ。俺は待つまでの間、一番気になっていた事を口に出した。

「思えば、さ。桜井さん、幸詩のこと知ってたみたいだね」
 先ほど出会った桜井さんの、幸詩を誘った言葉だった。以前から知っていたというような口振りだったが、それにしては幸詩に気付くのには時間がかかっている。

「……そう、だな」
 俺の質問に答えるが、喉の奥に何か引っかかりがあるのか、酷く言葉の歯切れが悪い。じっと俺が視線を送ると、幸詩は皮肉っぽく口の端を吊り上げた。
「まさか、()()()()()()()とは、な」
「気付く?」
 何の事だろうと俺が首を傾げれば、幸詩は小さく頷いた。

「……そろそろ、晴富にも……話した方が、いいよな」
「えっ?」
 幸詩は小さく呟いたのに対し、どういう意味かと素っ頓狂な声を上げた俺。幸詩はあまり聞かれたくない話なのか、ハテナを頭上に浮かべる俺の耳に、ふっと唇を近づける。
 その近さ、硬い髪の先、甘い草のような不思議な香水の香りと、耳にかかる息の熱。
 意識するはずないのに、あまりにも急すぎたからか頬に熱が灯り、心臓が強く跳ねた。身体を硬直させて、真っ赤になった俺とは反対に、耳の鼓膜を弾いた幸詩の声は低く掠れていた。

「俺の、トラウマの理由」
 俺の身体から、熱が下がっていく。まさか雑談しようかな程度だったのに、藪の中の蛇をつついてしまったのだ。
 これは決して、ラーメンの列に並びながらする話ではない。
 それでも、どうしても、その続きが気になってしまった。