「……そう、なんだ」
晴富は声が出ないほどの重みを感じ、思わず拳をぎゅっと握りしめた。
「……母さんが、俺が小一の頃、癌で……死んじゃってさ」
幸詩の声が微かに震える。その言葉の重みが、その場の空気を一層静かにした。
「癌……」
癌。しかも、幸詩が小一だなんて、随分と幼い時に母親と離別してしまうなんて。全身が冷えたような感覚に襲われた。空気が急に重たくなった気がして、唾を無理やり飲み込む。
「二年前に父さんも、工事現場の事故に巻き込まれてさ」
幸詩は、一瞬唇を噛んだように見えた。語る彼の声からは、悲しみと共に諦めの色が滲んでいた。
事故ということは、急な別れだっただろう。中一か中二の頃に親を両方とも亡くすなんて。どんなに、辛かっただろう。
「……本当に、神様は酷ぇよなって」
「本当に……酷いね……」
あまりにも悲しい話だ。俺と同い年なのに。その悲しみの深さは、俺には決してわからない。けれど、もし自分ならと考えると、身が震えるほどの悲しみと怖さだ。
幸詩は俯き加減に、ポツリと続ける。
「今も、家に帰る度に、ああ一人なんだって……それが怖くて……」
その言葉を聞いて、ようやく気づく。幸詩が「帰りたくない」と言っていた理由が、こんなにも深いものだったなんて。俺は申し訳ない気持ちになり、ただ目を伏せるしかなかった。
「よく父親が話してたんだ。母さんと出会ったのは高校のクラスで、二人とも購買に売ってたミルクパンが好きだったって」
思い出の中を辿るように、ミルクパンを見ながら懐かしむ幸詩。
あの時は、ミルクパンが好きなのだろうと思ったが、まさかこんな経緯があるなんて。
幸詩の手に握りしめられたミルクパンは、既にぺしゃんこで無残な姿ではあるが、これが彼にとって親が残した記憶の味なのだろう。
「父さんと母さん、どっちも青口学園の生徒だったんだ」
幸詩は小さく息を吐き、少しの沈黙の後、遠くを見るような目をする。
「笹塚先生は、その時の担任だったって……父さんが教えてくれたんだ。体調悪いのに、葬式にも来てくれてさ……」
「そうだったんだ……」
「実は俺がギター始めたのは、父さんの影響でさ。小っちゃい頃から一緒に弾いてて、『バンドで世界制覇したい』って無謀な夢も、母さんと一緒にずっと応援しててくれたんだ」
幸詩の瞳が何か遠くを見ており、視線の向こうには父親との思い出が浮かんでいるのだろう。ただ、その表情はなんだか幼く、幸せを羨むようだ。
「幸詩の夢、叶えたいね」
重く強い彼の願い。彼の夢は、彼の親に結びつくものだったのだろう。俺は改めて、幸詩の願いを意識する。
「ああ、叶えるよ。だから、トラウマなんかで、足踏みしてちゃ駄目なんだ」
熱い眼差し。こんなにも夢に懸命な彼が、何故スマートフォンの動画がトラウマになってしまったのか。しかし、それでも立ち上がろうとしている幸詩は、静かで強い人だ。
「……そうだな、俺も手伝うから、早くトラウマ克服しような」
ああ、これも俺にはないものだ。にっこり笑う俺の心に、嫉妬めいた羨ましいという気持ちが浮かぶ。
俺には……何もない。夢も、目標も、強さも。
ただ、毎日をただただ、過ごしているだけ。
こんなにも熱い夢がある幸詩を、羨むことしかできない。
「ありがとう、晴富。こんな相談したの、俺の幼馴染みくらいだよ」
真っ赤に目を腫らした幸詩のはにかんだ笑顔は、俺の目を焼くほど眩しい。夢見る彼から頼られている、そのちっぽけな自尊心しか俺は持っていない。
「俺、晴富と出会えて、本当に幸運だった」
凄く嬉しい言葉だ。俺の心臓は高鳴るが、反面として、身体の中に蔓延る空虚感を強く感じる。
自分に今何も夢がないから、幸詩の夢を一緒に見ることで蓋をしようとしているみたいだ。
「俺も幸詩と出会えて、幸運だよ」
しかし、この幸運が無ければ、他人の夢を叶えたいなんて思わなかった。
「あ、折角なら一枚撮ろうよ、ミルクパンと、幸詩で」
「ミルクパン……あっ、潰しちゃった」
「誰にも見せないからさ、今日の思い出ってことで」
言葉を上手く促せば、幸詩はスマートフォンを取り出す。俺は受け取ると、カメラを起動して、レンズを幸詩へ向けた。スマートフォンに映る幸詩は、相変わらず緊張した面持ちではあったが、最初よりもリラックスした様子で潰れたパンの角度を決めている。
けれど、俺が違った。何故かはわからない。ただ、この画面越しの彼と、自分の間に酷く隔たりを感じてしまったのだ。
「今日は、顔も入れて撮ろうよ。俺と一緒にさ」
「えっ?」
本当なら顔以外を写して撮る予定だった。
けれど、どうしても、同じ画面の中で一緒に写りたかった。だから、幸詩には悪いけれど、少しばかりイタズラさせてもらった。
「はい、さん、にー、いち!」
幸詩の心の準備が出来る前にシャッターを切る。わざと内カメではなく外カメで無理矢理撮ったから、見るまではちゃんと撮れたか分からない。
シャッター音が、何もない公園に響く。
くるりと、ひっくり返し、写真を確認する。
少しばかりの手ぶれ。目元や耳や鼻が赤く泣き腫らしたのがわかる呆然とした幸詩と、楽しそうに笑ったように見える俺。
「せ、晴富! 心の準備!」
「大丈夫、ほら、怖くなかったでしょ」
思わず声を荒らげる幸詩に、俺はスマートフォンを手渡す。
「……ほんとだ」
画像をまじまじと見た幸詩は、俺と画像を交互に見る。どうやら、あまり怖さも無くなって来たようだ。幸詩は今、一つトラウマ克服まで近づいたのだ。
「ほら、あと少しで、克服できるって。次からは動画に慣れていこうか」
俺の言葉に、幸詩は「動画……いけるかな……」と身体をぶるりと震わせた。俺は笑いつつ、テーブルから降りた。すると、自分のズボンが何故かはひんやりと濡れている。
「晴富、牛乳が……」
「えっ、まじか……」
幸詩の指差すテーブルには、無残にも倒れた牛乳パックから白い液体が広がっていた。勿論、テーブルの上に乗った俺の足は濡れていた。
「ああ、これはクリーニング代だな……」
幸詩は少しだけ微笑んで、「仕方ないよ」と軽く肩を竦めた。俺も一緒に肩を竦め、二人で顔を見合わせて苦笑する。
なんでもないような一瞬だったけれど、それでも、少しだけ笑えたことが嬉しかった。
晴富は声が出ないほどの重みを感じ、思わず拳をぎゅっと握りしめた。
「……母さんが、俺が小一の頃、癌で……死んじゃってさ」
幸詩の声が微かに震える。その言葉の重みが、その場の空気を一層静かにした。
「癌……」
癌。しかも、幸詩が小一だなんて、随分と幼い時に母親と離別してしまうなんて。全身が冷えたような感覚に襲われた。空気が急に重たくなった気がして、唾を無理やり飲み込む。
「二年前に父さんも、工事現場の事故に巻き込まれてさ」
幸詩は、一瞬唇を噛んだように見えた。語る彼の声からは、悲しみと共に諦めの色が滲んでいた。
事故ということは、急な別れだっただろう。中一か中二の頃に親を両方とも亡くすなんて。どんなに、辛かっただろう。
「……本当に、神様は酷ぇよなって」
「本当に……酷いね……」
あまりにも悲しい話だ。俺と同い年なのに。その悲しみの深さは、俺には決してわからない。けれど、もし自分ならと考えると、身が震えるほどの悲しみと怖さだ。
幸詩は俯き加減に、ポツリと続ける。
「今も、家に帰る度に、ああ一人なんだって……それが怖くて……」
その言葉を聞いて、ようやく気づく。幸詩が「帰りたくない」と言っていた理由が、こんなにも深いものだったなんて。俺は申し訳ない気持ちになり、ただ目を伏せるしかなかった。
「よく父親が話してたんだ。母さんと出会ったのは高校のクラスで、二人とも購買に売ってたミルクパンが好きだったって」
思い出の中を辿るように、ミルクパンを見ながら懐かしむ幸詩。
あの時は、ミルクパンが好きなのだろうと思ったが、まさかこんな経緯があるなんて。
幸詩の手に握りしめられたミルクパンは、既にぺしゃんこで無残な姿ではあるが、これが彼にとって親が残した記憶の味なのだろう。
「父さんと母さん、どっちも青口学園の生徒だったんだ」
幸詩は小さく息を吐き、少しの沈黙の後、遠くを見るような目をする。
「笹塚先生は、その時の担任だったって……父さんが教えてくれたんだ。体調悪いのに、葬式にも来てくれてさ……」
「そうだったんだ……」
「実は俺がギター始めたのは、父さんの影響でさ。小っちゃい頃から一緒に弾いてて、『バンドで世界制覇したい』って無謀な夢も、母さんと一緒にずっと応援しててくれたんだ」
幸詩の瞳が何か遠くを見ており、視線の向こうには父親との思い出が浮かんでいるのだろう。ただ、その表情はなんだか幼く、幸せを羨むようだ。
「幸詩の夢、叶えたいね」
重く強い彼の願い。彼の夢は、彼の親に結びつくものだったのだろう。俺は改めて、幸詩の願いを意識する。
「ああ、叶えるよ。だから、トラウマなんかで、足踏みしてちゃ駄目なんだ」
熱い眼差し。こんなにも夢に懸命な彼が、何故スマートフォンの動画がトラウマになってしまったのか。しかし、それでも立ち上がろうとしている幸詩は、静かで強い人だ。
「……そうだな、俺も手伝うから、早くトラウマ克服しような」
ああ、これも俺にはないものだ。にっこり笑う俺の心に、嫉妬めいた羨ましいという気持ちが浮かぶ。
俺には……何もない。夢も、目標も、強さも。
ただ、毎日をただただ、過ごしているだけ。
こんなにも熱い夢がある幸詩を、羨むことしかできない。
「ありがとう、晴富。こんな相談したの、俺の幼馴染みくらいだよ」
真っ赤に目を腫らした幸詩のはにかんだ笑顔は、俺の目を焼くほど眩しい。夢見る彼から頼られている、そのちっぽけな自尊心しか俺は持っていない。
「俺、晴富と出会えて、本当に幸運だった」
凄く嬉しい言葉だ。俺の心臓は高鳴るが、反面として、身体の中に蔓延る空虚感を強く感じる。
自分に今何も夢がないから、幸詩の夢を一緒に見ることで蓋をしようとしているみたいだ。
「俺も幸詩と出会えて、幸運だよ」
しかし、この幸運が無ければ、他人の夢を叶えたいなんて思わなかった。
「あ、折角なら一枚撮ろうよ、ミルクパンと、幸詩で」
「ミルクパン……あっ、潰しちゃった」
「誰にも見せないからさ、今日の思い出ってことで」
言葉を上手く促せば、幸詩はスマートフォンを取り出す。俺は受け取ると、カメラを起動して、レンズを幸詩へ向けた。スマートフォンに映る幸詩は、相変わらず緊張した面持ちではあったが、最初よりもリラックスした様子で潰れたパンの角度を決めている。
けれど、俺が違った。何故かはわからない。ただ、この画面越しの彼と、自分の間に酷く隔たりを感じてしまったのだ。
「今日は、顔も入れて撮ろうよ。俺と一緒にさ」
「えっ?」
本当なら顔以外を写して撮る予定だった。
けれど、どうしても、同じ画面の中で一緒に写りたかった。だから、幸詩には悪いけれど、少しばかりイタズラさせてもらった。
「はい、さん、にー、いち!」
幸詩の心の準備が出来る前にシャッターを切る。わざと内カメではなく外カメで無理矢理撮ったから、見るまではちゃんと撮れたか分からない。
シャッター音が、何もない公園に響く。
くるりと、ひっくり返し、写真を確認する。
少しばかりの手ぶれ。目元や耳や鼻が赤く泣き腫らしたのがわかる呆然とした幸詩と、楽しそうに笑ったように見える俺。
「せ、晴富! 心の準備!」
「大丈夫、ほら、怖くなかったでしょ」
思わず声を荒らげる幸詩に、俺はスマートフォンを手渡す。
「……ほんとだ」
画像をまじまじと見た幸詩は、俺と画像を交互に見る。どうやら、あまり怖さも無くなって来たようだ。幸詩は今、一つトラウマ克服まで近づいたのだ。
「ほら、あと少しで、克服できるって。次からは動画に慣れていこうか」
俺の言葉に、幸詩は「動画……いけるかな……」と身体をぶるりと震わせた。俺は笑いつつ、テーブルから降りた。すると、自分のズボンが何故かはひんやりと濡れている。
「晴富、牛乳が……」
「えっ、まじか……」
幸詩の指差すテーブルには、無残にも倒れた牛乳パックから白い液体が広がっていた。勿論、テーブルの上に乗った俺の足は濡れていた。
「ああ、これはクリーニング代だな……」
幸詩は少しだけ微笑んで、「仕方ないよ」と軽く肩を竦めた。俺も一緒に肩を竦め、二人で顔を見合わせて苦笑する。
なんでもないような一瞬だったけれど、それでも、少しだけ笑えたことが嬉しかった。