学校の下駄箱を抜けて正門を出ると、以前たい焼き屋に向かった時と同じ坂を登り始めた。空は曇りがかかり、少し湿った風が肌を撫でる。夏の兆しが少しだけ感じられるものの、まだその気配は控えめだ。
 あと少しで梅雨入りも間近だから、最近は天候もあまりよくない。
 そして、俺たち二人の空気はどうしても重いものになる。

「三角パンのお店、イートインスペースないからさあ。でも、だからこそ買い物を楽しめるって思うんだよね」
 重く淀んだ空気が俺たちの間に漂っていた。どうにかこの空気を壊そうと、俺は無理にでも明るく話し続ける。だが、隣の幸詩は暗い顔のまま、小さく頷くだけだ。彼に引きずられないように、俺は必死に言葉を紡いだ。

「昔は購買にあったパンも売ってるんだ。さっきの笹塚先生が『思い出のミルクパン』とか、『思い出のごまあんぱん』とか」
 笹塚先生は本当に歴が長く、授業の合間に色々な事を教えてくれた。購買のパンも昔より品数は減りつつ、人気なモノだけが残ったことも。
 幸詩はようやく顔を上げて、俺の方を見た。

「……ミルクパン」
「前にさ、ミルクパンについて、言ってたよね。気になるでしょ」

 幸詩の目に、ほんの少しだが、ぼんやりとした光が差し込んだ。俺たちが出会ったとき、彼がミルクパンはあるかどうか尋ねてきたことを思い出した。あの時は、単純に好きなのかと思っていたが、彼にとってもっと違う意味だったのだろう。

「俺、この店のミルクパン、好きなんだよね。おっ、見えてきた」
 視界には年季の入った白地のくすんだ建物に、赤と黄色のストライプの昭和レトロなテント看板。
 もうそろそろ閉店時間らしく、店前を片付けていた。俺は慌てて時計を見る。十六時まで後七分。

「やば、あと七分しかない」
「えっ」
「早く買おう!」
 慌てた俺は勢いのまま幸詩の腕を取って、お店に駆け込んだ。

 さっさと選ばなければという意識で、とにかく目当てのパンをお盆に乗せて会計して、という一連の作業でパンの香りや店の雰囲気を楽しむ時間は全く無かった。

「ミルクパンゲットできた~。ごめん、振り回す形になって」
 俺の手にはベーカリーオリジナルロゴが描かれた緑色ポリ袋に入った買ったパン。昔ながらのお店だからか、一個百二十円と昨今のパンにしては安い値段だ。
 謝った俺に、幸詩は「大丈夫」と短く言葉を返す。
 そして、パン屋近くの自然公園へと向かう。

 広い砂のグラウンドには、小さな砂場や錆びついた鉄棒、古びたブランコがぽつんと置かれていた。ペンキの剥げた滑り台も、公園の片隅にひっそりと佇んでいる。
 小さい頃は公園内に沢山の遊具があったが、昨今の安全面とかメンテナンス面から殆どが撤去や、別のモノに置き換わってしまった。
 だからだろうか、子供の姿もなく、犬を連れたおばあちゃんがゆっくりと歩いているだけだ。
 隅にはベンチとテーブルが設置されており、俺たちは鞄をテーブルに置いて腰を掛けた。
 ショップ袋を開けると、透明なビニールに包まれた、こんがりと焼けた艶やかなミルクパンが2つ顔を覗かせた。その隣には、ストロー付きの牛乳パックが二つと、おしぼりが揃えられている。

「さあ、食べよう」
 俺はおしぼりを幸詩に渡す。幸詩は頷くと、おしぼりの袋を破いて、手を拭き始める。
 自分の牛乳パックにストローを差すと、おしぼりで手を拭いて、ビニール袋を開く。
 そして、もう一つ取り出して、袋に入ったままの方を幸詩に差し出した。

「とりあえず、撮影忘れて食べようよ。中間テストお疲れ祝いってことで」
「……ありがとう」
 どこか暗い幸詩は申し訳なさそうに頭を下げた。俺はにっこりと笑った。

「いいのいいの。さあ、食べよう! いただきます!」
 先陣切って、ミルクパンを頬ばる。艶やかな生地に包まれたふかふか柔らかパン。ミルクらしい香りと、ほのかなバターと、優しい甘さと。全て幸せになる味だ。目を細めて堪能した後、俺の目の前に座る幸詩を見る。未だパンに手をつけず、じっと無表情で見下ろしていた。

「うん、美味しい~! 幸詩も食べてよ!」
 極めて明るいトーンで、俺は優しく促す。幸詩はハッと顔を上げた後、控えめに頷き、ようやくパンに手を伸ばした。
 透明のビニール袋を剥き、パンを持ち上げる。何故だか、震えている手。
 幸詩の感想が気になった。

 幸詩は一口、パンを齧る。
 そして、少し咀嚼した後、ごくりと飲み込んだ。
 幸詩の顔を覗き込むと、黒い前髪の隙間から見えるその瞳が、静かに揺れている。
 ふと目が合った瞬間、その端から一筋の光が零れ落ちた。
 透明な涙が、ゆっくりと頬を滑り落ちていくのを見て、俺は息を飲んだ。

「……美味しい」
 彼の喉が震え、酷く上擦る。ぼろ、ぼろと、彼の頬がしとしと濡れている。
 なんと、声を掛ければいいのだろう。

「ど、どうしたの……?」
 自分の中には、こんな言葉しかない。ポケットに入っていたタオルハンカチを取り出して、幸詩の目尻から頬にかけて、優しく当てる。

「これが、父さんが、言っていたミルクパン……か……」
「お父さん?」
 その時、ふと先程の笹塚先生とのやりとりを思い出した。たしか、ご両親らしき人の名前を話していたはず。そして、葬式。流れる涙。

 何かが一つ、繋がった。

「幸詩」
 彼の名前を呼ぶ。俺を見た幸詩は、パンを強く握りしめ、まるでこの世に独りぼっちとでも言うように、酷く寂しげだった。
 何故かはわからない。ただ、言葉を無くした俺は、幸詩の頭を優しく抱きしめたかった。
 行儀が悪いけれど身を乗り出す勢いで、俺たちの間にあるテーブルの上に乗り、必死に幸詩をたぐり寄せた。
 幸詩は腕を振り払わず、俺の胸に顔を埋め、しゃくり上げながら涙を流し続けた。


 やがて、幸詩の嗚咽が少しずつ収まり始めた。俺はゆっくりと彼を抱きしめていた腕を解く。涙と鼻水で濡れたセーターを見下ろしつつも、目は真っ赤で鼻水を垂らす幸詩の頭を撫でた。幸詩は自分の腕で涙を豪快に拭う。そして、俺の手を掴んだ。

「……俺の両親、もういないんだ」
 幸詩は静かに言った。その言葉の重みが、沈黙の中でじわりと広がっていった。