「喉、やっと復活です」
「おめでとう!」
 ゴールデンウィークが近づく四月最後の水曜日。部活のない俺と幸詩は、以前一緒に夕日を見たあの教室にいた。窓の外には柔らかな日の光が射し、青空には白い雲がぽっかりと浮かんでいる。

 相変わらず部活には馴染めないようで、出席確認と連絡事項を聞くと、逃げるように俺の元へとやってくる。
 毎度俺のクラスまで迎えに来るため、友人である高田と松下も慣れてきたらしく、「保護者業、頑張れよ~」と視線すらも向けない様子で先に帰っていった。

 以前二人から「いいように使われてないか」と心配されたけれど、俺の「大丈夫、楽しいし」という素直な気持ちと幸詩のなつきっぷりに、今は一切心配していない。

 さて、一ヶ月もかかってしまったが、ようやく幸詩の喉の調子がよくなった。

 最初に出会ったときの掠れた声が嘘のように、今の幸詩の声は少し癖がありつつも澄んだ低音で、耳に心地よく響いてくる。
 幸詩も嬉しそうに頬を緩めながら、幸詩はギターケースのファスナーをゆっくりと開け、艶やかな木目が美しいアコースティックギターを大事そうに取り出した。

「ということで、約束の通り歌います」

「おおー待ってました! 楽しみ!」
「春っぽい曲を、晴富のために用意したよ」
 少し照れたように笑ったが、目には確かな自信が宿っていた。
 なんだか初めて見る姿だったが、次の瞬間更に俺は驚かされた。
 手慣れた手つきでギターをチューニングし終えると、幸詩は軽く喉を鳴らす。そして、音階を一音一音確認するように駆け上り、そして一気に低く沈み込んでいく。
 ただの音階を駆け上り一気に落ちていく。

 それだけで、俺は思わず背筋を伸ばして息を呑んだ。

「じゃあ、聞いてください。Neon Wildの『Wildflower』」
 Neon Wildは海外で注目されているロックバンドで、『Wildflower』は以前、日本の車のCMソングとしても人気だった。雪の冷たさを耐え、春を迎えた花が力強く咲き誇る。俺は、誰にも負けない唯一だと伝えるロック。

 弦を弾く。最初の一音。静寂とした空気を切り裂くように広がった。

 心地よさに俺は、自然と目を見開いた。
 音は繋がり音楽となり、耳の横を強い風のように、アコースティックギターの柔らかくも情熱的な音が疾走していく。
 ギターの音に乗る歌声。誰よりも荒々しく。けれど、繊細な息づかいが、心を突き動かす。雪の冷たさも、春の光も、咲き誇る花の強さも。
 歌に込められたものを、彼が全て伝えてくる。
 寧ろ、この歌が幸詩なのかもしれないと、思ってしまうほど。

 最後の一音まで、聞き逃したくない。いや、終わらないでほしい。
 思わず、そう願ってしまうほどに。
 けれど、音楽は短い。最後の歌詞を歌いきり、終にはおしまいと言わんばかりに弦を掻き鳴らした。

「す、すごい……!」
 無意識に立ち上がり、手が自然と拍手を始めていた。胸の中で押さえきれない何かが爆発するような感情が湧き上がってくる。
 叩きすぎて自分の手のひらがヒリヒリと痛むが、この感動を伝えられるなら腫れ上がるのも本望だ。
 幸詩はまさかこんなにも反応するとは思わず、「お、落ち着いて……」といつもの静かな感じで俺を宥める。

「良すぎるって! これは、本当にデビューしてワールドツアーだよ!」
 心がこんなにも震えるほど素晴らしい、歌声だった。本当に世界の大きなステージで歌っているのが想像できるくらい、素晴らしかった。

「ありがとう、晴富のために用意したから、よかった」
「俺のためかあ、そう言われると照れちゃうな」
 言葉通り安心したのか、幸詩は肩の力を一気に抜き、笑みを浮かべながら大きく息を吐いた。
 俺のためとか嬉しいなと、俺はにまにまと頬の緩みが止まらない。
「せっかくだし、別の練習してる曲、聞いてもらてもいい?」
「勿論!」
 なんともありがたい提案に、俺は即答した。幸詩は楽しそうに体を横に揺らしながら、空咳で喉を鳴らし始める。
 しかし、次第に顔を顰めると、何故か申し訳なさそうな顔で俺を見た。

「あ、晴富……」
「うん」
「飴とか、あったりする?」
「勿論! 何がいい? てか、無理させちゃったかな、ごめん」

 どうやら、復活したとは言っていたが、喉の調子はまだ完璧ではないようだ。俺は鞄からクマの形の巾着を取り出した。巾着の口を開けると、今までセレクトした様々なお気に入りの個包装された飴が入っていた。俺は中身を見せるようにして、幸詩に巾着を差し出した。

「すごい、流石、晴富だね」
 幸詩は興味深そうに巾着の中を覗き込んだ。

「ははは、よく言われる。好きなの選んでいいから」
 実は高田や松下だけではなく、他のクラスメイトや同級生からもしょっちゅう飴をたかられている。というのも、俺は基本的に身体の燃費が悪く、見た目よりもお腹が空きやすい。そのため、飴玉で空腹感を紛らわせるように持ち歩いているのだ。

「じゃあ、俺、このはちみつのど飴で」
「お、お目が高い! 流石」
 幸詩はそっと飴の個包装をつまみ上げた。ハチの可愛らしいイラストが描かれた人気ののど飴だ。
 単純に蜂蜜だけではなく、レモン酸味もプラスされており、本当に甘くて喉にもいい。
 俺もついでにと、巾着の中から小さな二つのキューブが入ったフルーツ飴を取り出す。黄色と緑のキューブはそれぞれ、レモンとメロンの味だ。

「その飴、久々に見た」
「意外とでかいスーパーだと売ってるんだよな」
 よく小学生のころ遠足で女子が食べていた印象の可愛い飴なのだが、俺の母親が好きで家にいつも置いてある飴。幸詩も遠足の印象が強いからか、じっと俺の手の中にある飴を凝視する。
「じゃあ、もう一個上げるよ。えーっと、一番俺が好きなイチゴとグレープの組み合わせ」
 巾着から見えていた同じキューブの飴をつまみ上げ、はちみつのど飴を未だ握っていた幸詩に渡した。

「ありがとう」
 幸詩は飴を貰うと、礼を言いながらポケットにしまい、はちみつのど飴の方を舐め始める。俺は選んだキューブ飴を口に放り投げた。
 すっぱあまいレモンと、グリーンな甘みの強いメロンの、人工感強いチープな風味。
 これこそが、この飴の持つ独特の魅力なのだろう。唾液と共に溶けていく幸せをゆっくりと味わう。
 その時、教室の静けさを破るように、ガリッという乾いた音が響いた。
 俺が顔を上げると、幸詩が飴を無造作に噛み砕いていた。

「……豪快だね」
「飴、口にあったら、歌えないからね」
 飴を噛む音がガリリと響き、彼の言葉とともに、蜂蜜レモンの香りがふわりと広がった。
 驚く俺に淡々と回答する幸詩。たしかに、正論だが、やはりどうしてもびっくりしてしまう。
 そんな俺の驚きを気にせず、 「じゃあ、次は何を歌おうか」と幸詩はギターを軽く撫でつつ、こちらに視線を向ける。彼の瞳には、新たな挑戦へのわずかな期待が込められていた。

 幸詩の姿を見ながら、俺は心の中で思わず微笑んだ。
 きっと彼は、これからもっと大きな存在になっていくんだろうと、改めて思った。