ふたりで会話を交わしながら歩いているうちに、いつの間にかあたしの家は目前に迫っていて、
藍は、じゃあここで、といって玄関前であたしに手を振った。
「藍、ほんとに気をつけて帰ってね。家着いたら連絡して?」
「うん、大丈夫」
大丈夫じゃないでしょう、と釘を刺すと、わかった、連絡するから、と彼は約束を交わしてくれた。
来週からは学校復帰するよ、と藍がこぼすように言う。
それについてはやや不安が残るけれど、うん、と頷くことしかできなかった。
今度こそ別れを告げようかというタイミングだった。
「……あれ?」
藍が急に、そんな声を漏らす。
彼が突然こちらをまじまじと見つめてくるものだから、何だか緊張してしまって、
どうしたの、と絞り出した声が震えている気がした。
「……口紅、落ちてる?」
え、と声を上げた。
「いつも完璧な紬乃なのに、珍しいね。普段そういうとこ見せないから、可愛い」
思い出すのは、千歳色から恐怖とともに与えられた、甘くてやわらかいキスの感触、だなんていうアンバランスな記憶で、後悔するのは、あのあと口紅を塗り直さなかったという、小さなミス。
千歳色に掴まれた腕が、触れられた頬が、押し付けられた下腹部が、そして、重ねられた唇が、少しずつあの記憶を吐き出して、そこから吹き出した毒が、じわり、と全身にまわっていく。
あたしに手を振りながら、何も知らずに歩き出した藍の後ろ姿を眺めてはいたけれど、痛いくらいに拍動を繰り返す心臓とは裏腹に、感じた心の痛みが思ったよりも軽くて、そんな自分自身に吐き気がした。