こちらに手を伸ばす彼の意図はなんとなくわかっていて、逃げ出したくてもそうはいかないことを心のどこかで自覚していたあたしは、せめてもの抵抗として俯いた。



「大丈夫だよ。全部俺に任せて」



 ふたりの距離がほとんどなくなって、彼から脅しのような意味を含めた言葉を受け取ると、自然に、あ、と声が出た。


 恐怖と緊張で止まらない心臓の拍動を彼に悟られたら、それこそ本当に消えてしまいたい。



「俺は、織方さんの味方だから」



 何度も聞いたそのセリフの持つ重みが、徐々に増していくのがわかった。


 彼の左手が、例によってあたしの髪の毛を掬い上げて、耳にかける。


 生きていないんじゃないかってくらいのつめたさを帯びた彼の手があたしの頬に触れたとき、その感触に肩を震わせた。


 怖くて声の出せないあたしと、それを逆手にとって事を進めようとする彼との、唇どうしの距離が近づくにつれ、視界が少しずつ暗くなっていって、脳裏に浮かぶのは、愛している人があたしに触れる体温だった。


 あたし、どうしたら良かったのかな。ただ、藍と幸せになりたかった、だけなのに。


 事態を俯瞰し、自分の罪を自覚し、それでも千歳色の姿をすこしだけ妖艶に感じてしまうあたしは、既にきっと、戻れないところまで来てしまっているのだろう。


 藍のことが好き。それだけは、絶対に変わらない事実。


 だけどあたしには、この状況をどうにかするための力量を持ち合わせていない。


 黒い絵の具をほんの少し混ぜたような重たさを纏う雰囲気に呑まれて、

 そのうち喉が潰れたような息苦しさに襲われた。


 唇が重なったとき、涙がこぼれた。


 千歳色は一度離れて、うっすらと目を開けてあたしの顔を確認してから、もう一度、恐怖で抵抗すらままならないあたしに深く口づけた。