朝目覚めた瞬間、私は勢いよく体を起こした。そして、窓辺に目を向ける。
「おはよう桔梗」
「……おはよう、夜月」
よかった、まだ消えてない。体の薄さも、昨日と変わっていない。足先の消えた部分も、それ以上進行していない。私はそれが確認できると、深く安堵の息を吐いた。
今の私に、夜月に対して強がる余裕はない。いてくれてよかったと心の底から思ったし、たぶん夜月にもそれが伝わってしまったと思う。
夜月は窓の傍に足をクロスさせて立ったまま、まだ意識が完全に覚醒していない私に話しかけてきた。
「桔梗も、俺に何か伝えたいなら早めにしておいてくれよ」
「……言いたくない」
夜月の消滅に反発するように、私はそう答えた。
私を好きになってくれてありがとう。楽しい思い出をありがとう。これからもずっと、あなたのことが大好きです――そんな言葉を口にしてしまえば、その瞬間に夜月が消えてなくなってしまう気がするのだ。
言えないよ……。
「死んだ分際であまりこういうことは言いたくないんだが、桔梗と付き合って、俺は幸せだったよ。毎日が楽しかった。学校で友達と話すのも好きだったけど、華やかさっていうのかな、学校のつまらない行事も、だるい登下校の時間も、桔梗といるとまるで一つのイベントみたいに思えてた」
「やめてよ! 聞きたくない!」
私は耳を塞いで、布団に倒れこむ。うつ伏せになって、可能な限り五感を遮断した。
その言葉を聞いてしまったら、本当に夜月が消えてしまいそうな気がするのだ。お別れとお別れの言葉は、当たり前だが密接に結びついている。間接的なものじゃない、すごく直接的なつながりなのだ。
「なにも言わないでいい!」
わがままを言っているのは自覚している。でも、また夜月がいなくなってしまうことを考えると、子供のように駄々をこねるしかなかった。大人になんて、なれやしない。
だけど、夜月の声は私の鼓膜を震わすことなく、聞こえてきてしまう。導火線に火がついてしまったかのように、彼の言葉は止まってはくれなかった。
「好きだぜ、桔梗。だから、どうか幸せになってくれ」
その言葉を最後に、彼の声は聞こえなくなった。三十秒経っても、一分たっても、三分たっても――彼の声は聞こえてこない。
もしかして、消えちゃったの? 別れの言葉を私に伝えたから、もう成仏しちゃったの?
私は激しく脈動する心臓の音を聞きながら、おそるおそる、窓に目を向ける。
夜月はキョトンとした表情を浮かべて、私を見ていた。
「ん? もしかして消えたと思った?」
「…………最低」
深いため息を吐いた。呆れと安堵、気持ちとしては半々ぐらい。
なんであんなお別れのような言葉を言って黙っちゃうの。勘違いされてもおかしくないでしょ。私を怒らせたいの?
「いやいや、もうお別れのときは近いんだぞ? 消える前に言いたいことを言っておくのは大事だろ。むしろなんで桔梗は言わないんだ。手遅れになったら、また後悔するんじゃないか?」
「それはそうだけど……」
夜月の言う通り、なんだろうな。私が聞き分けのない子供なだけ。
何日後の何時何分何秒に消えるということがわかっていれば、しっかりと伝えられると思うのに。そんな言い訳のような想いが頭をめぐる。
でも私の言葉が原因でタイムリミットを短縮してしまうかもしれないと思うと、そんなに簡単に決断することはできない。
でも、わかってるよ。
「わかってるよ……早く言わないといけないってことぐらい」
伝えられないまま終わってしまうほうが、よっぽど問題だってことぐらい。
ちらっと夜月を見る。彼はずっと同じポーズをとったまま、私に目を向けていた。
急かすことなく、ただ待っている。
「……私が言っても、絶対消えない?」
「いますぐには消えない。消えそうになったら、ねばる」
「なによそれ……約束できるの?」
「おう、俺は約束やぶったことないだろ?」
「やぶってるじゃん。ずっと一緒って言ってたくせに」
「こればっかりは許してほしいかなぁ」
苦笑いを浮かべながら、夜月は頬を掻く。こんな時までふざけたような態度をとっている夜月に嘆息する。いや、私がふざけたようなことを言ってしまったのが原因か。
彼は悪くない。
「……夜月と結婚するつもりだった」
ぽつりと言葉を漏らすと、夜月はすかさず「ん、俺もそのつもりだった」と返答する。
「好きってあまり伝えられなくてごめん。大好きだったけど、夜月が調子にのるからあまり言えなかった」
「ははっ、まぁ正直、俺自身も言われるのが恥ずかしかったからな。そうすることで言わせないようにしてたってのもあるかもしれない。でも嬉しいのは嬉しいんだぞ? そこは勘違いしないように」
「夜月が他の女の子と楽しそうに話してると、むかむかしてた。心の狭い彼女でごめん」
「むしろ俺としては、嫉妬してくれると嬉しいかな。とはいえ寂しい思いをさせてごめん」
「……私に告白してくれて――あり、がと。私のことを好きに、なってくれて、ありがと」
謝罪から感謝の言葉に切り替わったタイミングで、悲しみが押し寄せてきた。言葉に、嗚咽が混じり始めてしまう。
「――っ夜月と、一緒にいられて、楽しかった! 付き合えて、幸せだった! 私は絶対、夜月のことを永遠に忘れない……!」
一生という言葉に違和感を覚えてしまう彼のために、『永遠』という言葉を使って想いを伝える。私の気持ちの大きさが、きちんと伝わっているだろうか。うまく言葉にできているだろうか。私の愛は、ちゃんと夜月に届いているのだろうか。
「おう、俺も桔梗と同じ気持ちだ」
「ふっ、うっ――お別れなんて、しだぐない! こんな言葉なんて、いいだくない! やだ、いやだよぉ……」
布団を握りしめる手に力を込めながら、感情を言葉に乗せる。
嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ!
どこにもいかないでほしい! 成仏なんてしないでほしい! ずっと傍にいて、自信満々にふざけたことを言って欲しい!
もうわがままなことは言わないから、強くなるから、もっと良い彼女になれるように頑張るから、お願いだから、一人にしないでよ……。
だけど、
「きちんと伝えてくれてありがとな桔梗」
時間は止まってはくれないのだ。夜月が消えることは、きっと止めることができないのだ。
いい加減、私は誰かに甘えてばかりではいけない。こんなに弱い私を見て、夜月が安心できるわけもない。心配をかけてしまうだけだ。
夜月に縋りつくために強くなるんじゃなくて、夜月を安心させるために強くならないといけない。そうわかっているのに、
「俺抜きでも、頑張れそうか?」
「……そんなの、わかんないよ」
――はっきりとは答えられなかった。最後の最後まで、私は弱いままだ。
優しく私の背を撫でようとする彼の手は、私の体に何の影響も及ぼすことはない。
私が夜月の頬に手を伸ばしても、空しく素通りするだけ。
夜月がいなくなった世界を、私はいったいどうすれば生きていけるのだろう。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
昨日宮下から来たメッセージに、私は『わかった』という四文字だけを返信していた。
それに対し宮下は既読を付けるのみで、どこで何をどれぐらい話すのか、一切情報が伏せられたまま、私は彩と一緒に学校に向かった。
学校に向かいながら、一緒に下校する予定だった彩にはどうせ隠すこともできないので、正直に宮下から『二人で話したい』と言われたことを伝えた。
そのメッセージの内容に心当たりがないということを伝えると、彩も首を傾げて困惑を示していた。
「亮くんがねぇ~、なんだろう。告白――はないかぁ。いやもしかしたらもしかするのかも?」
「えぇ……私、宮下をそんな目で見たことないよ。あっちもそんな風に見てないって」
私が彩の紹介で夜月と宮下と初めて会ったとき、二人に恋人はいなかったし、私もまたフリーだった。だけど恋愛感情を抱いたのは宮下ではなく夜月のほうだったし、夜月の恋愛相談にも宮下は乗っていたようだから、彼にも私にも好きになるようなタイミングは無かったと思う。
相手に恋人がいたとしても、好きになっちゃったらどうしようもない――そんなことが現実には起こりうることはわかっているけど、宮下に限ってそれはないんじゃないかなぁ。あくまで、友人として接してくれていたように思う。
というか、もしそうじゃなかったとしたら、私も夜月も宮下のことを警戒して距離をとってしまったかもしれない。
「どうかなぁ。亮くん結構女子から告白とかされてるみたいだけど、全部断ってるみたいだし、案外桔梗に気が合ってもおかしくないのかも? でもやっぱり、例え亮くんがきーちゃんのことを好きだったとしても、このタイミングはないんじゃないかなぁ。もし仮にだよ? 亮くんがきーちゃんのことを好きだったとしたら、告白するまでに一年は待ちそうな気がするもん」
い、一年……? 気の長い話だ。でも、たしかにそれだったらまだ、宮下っぽい気がするかも。夜月や私に気を遣って、自分の心殺して待っていそう。
「それはそれで、すごいね。弱ってるところにつけこむみたいだからってことだよね?」
「そうそう。でもそんなにのんびりしてたら、他の男に搔っ攫われる可能性もあるから、難しいところだね~。きーちゃん可愛いし」
「そんなことないって――それに私、夜月以外に興味ない」
「……そ、そうだよね。ごめんね? 悪気があったわけじゃないの」
「ううん、大丈夫。こっちこそ気を遣わせちゃってごめんね」
少し空気が悪くなってしまったので、謝罪する。
やっぱり、彩も私に他の人と付き合って欲しかったりするのかな。もし彩の恋人が――と、逆の立場だった場合を一瞬考えてしまいそうになったけど、あまりにも不謹慎だったので頭を振って忘れることにした。
ずっと死んでしまった夜月に固執するのは、はたから見て心配になってしまうのだろうか。どれだけ元気に振舞ったとしても、可哀想に見えてしまうのだろうか。
哀れな女に、見えてしまうのだろうか。
「でも、告白じゃないとしたら何の話だろうね~。きーちゃんだけを誘ったってことは、私に聞かれたくない話ってことだもん。ということは、夜月くん関連のことかな? 男子たちしか知らない、内緒の話だったり?」
「男子だけの内緒の話……」
なるほど、そういうパターンもあり得るのか。
ちらっと隣を歩く夜月に目を向けて見ると、「そこまでは予想できないな」と言いながら、手のひらを上に向けてさっぱりわからないというジェスチャーをしていた。
いったい、宮下は私と何を話すつもりなのだろう。
さすがにこれだけもったいぶっておきながら、どうでもいいような話ではないと思う。それならば、メッセージで伝えたり、電話で話したりすればいいだけだし。
宮下がこんな風に私を誘うからには、面と向かって話さなければいけない理由が絶対にあるはずだ。だけど、それはいくら考えてもわからなかった。
今日の学校は、ずっとそれが気になってそわそわしてしまいそうだなぁ。
HRの前の時間、授業の合間、昼休みなどなど、宮下は当然学校に来ていたし、私たちを無視するようなこともなかったので、普通に話をした。
その最中に一度だけ、宮下が私にだけ聞こえるような小さい声で「明るいうちには終わるから」と伝えてきた。私にもたらされた情報は、たったそれだけである。
気になって「今日何を話すつもりなの?」と聞いてみたけれど、はぐらかされてしまって教えてくれなかった。
まさか本当に告白? だとしたら、私としては断る以外の選択肢はないんだけど。夜月のこと好きだし。恋人関係を解消したつもりもないし。
だから例え宮下がどれほど私のことを好きだったとしても、私は他の男子になびくつもりはない。どれほど愛を語られたとしても、心に響くことはないだろう。
でもやっぱり、告白だとは思えないんだよね。だとしたらもっと照れた姿を見せたりするだろうし、緊張した雰囲気を隠せないと思う。宮下はそういう感情を隠すのが上手そうだから、断定はできないけど。
そして、待ちに待った放課後がやってきた。
てっきり、学校でもう彩とは別れるのかと思ったけど、宮下が『俺と二人で歩いてたら、変な噂をするやつがいるかもしれない』と気を遣ってくれたようで、私と彩の最寄り駅までは三人で移動した。彩とは、駅でお別れだ。
彩は宮下に向かって『きーちゃん泣かせたら警察呼ぶから!』と物騒な忠告をしていた。そんなことで警察を呼んじゃダメでしょ。というか、泣かせるような言葉を、彼が吐くとは思えないし。まぁ、それをわかった上で彩は言っているんだろう。
「それで、話ってなんなの?」
二人きりになった瞬間、私は宮下に聞いてみた。いや、厳密には二人きりではなく、夜月もすぐそばにいるのだけど。彼は彼で「どんな話をするつもりだろうな」とワクワクした様子を見せている。暢気なものだ。
「目的地はあるんだけど、その前に少しだけ白百合と話をしたいから……とりあえずバスにのろう」
そう言って、宮下はバス停に向かって歩き始める。私は少し遅れて歩きだし、宮下の横にたどり着いたところでもう一度質問をした。
「まぁいいけど……結構遠くにいくつもりなの? あまり遅くなるようなお母さんに連絡しておかないといけないんだけど」
「いいや、遠くじゃない。というか白百合にとっては帰り道の途中だ。昼にも言ったけど、明るいうちにはちゃんと解散するよ。じゃないと夜月に怒られそうだし」
時刻表を指でなぞりながら、宮下はそう言った。
私の家までの道中に、宮下の目的地はあるらしい。だとすれば、思い浮かぶ選択肢は一つしかなかった。それを私は、独り言のように口にした。
「……もしかして、夜月の家?」
その私の言葉に反応し、宮下は顔を上げてニカっと笑う。
「おっ、正解。さすがにここまで言ったらバレるか。美紀さんにはちゃんとアポとってるから、安心して」
花栗美紀――夜月のお姉ちゃんの名前だ。もしかして、今日は美紀さんと私を会わせるためとか? なんだか、告白されたらどうしようとか考えていた自分がひどく滑稽にみえた。
まぁ、親友の彼女にさすがにそんなことはしないよね。私がいまでも夜月のことを好きだということを知っている宮下なら、なおさらだ。
「夜月の家になにしにいくの?」
「それはまだ内緒だな。サプライズってやつ」
「サプライズ……? 人の家でサプライズってできるもの?」
「それができちゃうんだな。夜月の親友なら」
宮下はニカっとした笑みを私に向ける。さわやかな笑顔だ。だけど、私には綺麗すぎるように見える。もっとしわくちゃになったような全力の笑顔が、私の好きな笑顔なのだから。
宮下とバスに乗って、慣れ親しんだ夜月の家の近くのバス停で降り、彼の家の近くにある公園に向かった。一口に公園――とは言っても、学校のグラウンドぐらいの大きさのある、とても広い公園だ。少年野球のチームが練習したりしているのを、バスの窓から見かけたりする。
きっと私だけでなく、夜月と仲の良い宮下もまた慣れ親しんだ場所ではあるんだろうな。夜月は宮下をよく家に呼んでいたようだし。もしかしたら公園で遊ぶこともあったかもしれない。二人とも、時々子供っぽいこともあるし。
そしてその公園の端にある、小さなベンチに私たちは腰掛けた。
「ほい、ジュース」
するとすぐさま、横から水滴がまばらについたペットボトルのリンゴジュースが出てくる。私が好んでよく買っているやつだ。宮下のもう片方の手には緑茶が握られている。
「え? いつの間にこんなの買ったの?」
「駅で二人がトイレ行ってるとき。バスの中で渡そうと思ったけど、立ってたから飲むの危ないと思って持ってた」
宮下は緑茶の入ったペットボトルのキャップを空けながら、なんでもないことのように言う。この前のファミレスの時といい、いつの間にかお金を払い終えてしまっているなぁ。
夜月にもやられた経験が何度かある。ちなみに、私も同じことをしたりした。
「そんな、悪いよ。ただでさえこの前食事代だしてもらったばかりなのに、お金払うよ」
「ノーノ―! それだと俺がこっそり買ってきた意味がないじゃん! 俺のプライドを守るためにも、その財布は引っ込めてくれ。な? お願い」
宮下が手を合わせて必死に言うものだから、私はしぶしぶ彼の言葉に従った。
夜月は私たちが座っているベンチの後ろに立っていて、そこで「まぁ、ここでお金貰ったら恥ずかしいよな」と笑っていた。たしかに、私もこっそり買って驚いてもらおうと思ったときに、お金をもらっても全然嬉しくないな。
そういうことならありがたく受け取っておこう。キャップを空けて、ジュースを一口飲んだところで、宮下が口を開く。
視線はこちらに向いておらず、広々とした公園を眺めながら。
「いまから俺はすごくダサいことを言う。でも裏を読もうとしたりせず、ちゃんと言葉通りに受け取ってほしいんだ」
ダサいこと……ってなんだろう。さっぱりわからない。
「……? うん、わかった」
いったい宮下が私に何を言うつもりなのかはわからないけど、とりあえず深読みをしなければいいってことだよね? なにか、抽象的であいまいな話でもするのだろうか。
「俺は、白百合のことが好きだ。でも、付き合ってほしいとは思わない」
……?
…………ん?
いま、もしかして私のことを好きって言った? 言ったよね?
「……え? ど、ど、どういうこと?」
これって、告白――だよね? 私のことが好きって、いま宮下言ったよね? でも付き合ってほしいとは思わないって、どういうこと? 意味が分からないんだけど。
というかまず、宮下が私のことを好きだったっていうことが、私にとっては現実味がなさすぎる。傍から見たら、もしかしてそんな風に見えていたりしたのだろうか?
でもそうだったとしたら彩が気付きそうなものだし……気持ちを隠し続けていたってこと? それとも、ここ最近の話?
可愛らしく頬でも赤く染めていれば女の子らしいのだろうけど、困惑で照れるどころではなかった。たぶん宮下が望んだ反応じゃないだろうなと思い、申し訳ない気持ちがこみあげてくる。これもまた、宮下の望むところではないのだろうが。
「いきなりこんなこと言われても困るよな。それに、まるで振られることを怖がってるみたいでさ、あんまり言いたくはなかったんだ。気持ちを伝えないって選択肢ももちろんあったんだけど――俺だって、後悔はしたくなかったから。夜月みたいに死んじゃったとき、『気持ちぐらいは伝えおきたかった』なんて、思いたくなかったから」
「そう……なんだ。でも、ごめんなさい。私は宮下とは付き合えないよ」
私がそう言うと、宮下は顔を赤くして「まぁそう言うよな」と照れ笑いをしていた。
あまり、がっかりしているようには見えない。
「最初に行った通り、言葉通り受け取ってくれよ? 俺は『付き合ってほしいとは思わない』って言ったぞ?」
「――あっ、そうだった。なんかごめん、もしかして無駄に振っちゃった?」
「うん、俺の心を切り裂いていった。でもまぁ振られたら振られたでスッキリするんだけどな」
そう言っている割には、宮下は笑っていた。まるで、私のこの反応が正解だとでも言うように。それはそれで、意味が分からないんだけど。
「俺は白百合のことも好きだけど、夜月のことも好きなんだよ。もちろん、夜月に関しては友人的な意味でだぞ? だから、あいつが大切にしていた――大好きだった彼女を奪おうだなんて思わないし、夜月がいなくなったからって、チャンスだなんて死んでも思わない」
宮下の口にする言葉は、まさに私の思う宮下の像と重なっていた。そう、こういう人なのだ、こういう優しい人なのだ。優しすぎて、損をしてしまうような人なのだ。
「むしろ俺としては、ずっと白百合に夜月のことを好きでいてほしいんだ。他の男に目もくれないぐらい、夜月のことを好きでいてほしい。だから、俺は『付き合ってほしいとはおもわない』って言ったんだ」
真剣な表情で、彼はそう言った。
夜月も私に向けて『新しい恋をしてほしい』だなんて言ったけれど、私には夜月の感覚も、宮下の感覚も、あまりよくわからない。
好きだったら、自分と一緒にいたいと思うんじゃないだろうか。相手にとって、一番になりたいと思うものなんじゃないだろうか。独占したいと、思うものなんじゃないだろうか。
「……その感覚が、私にはよくわからないよ。好きだったら、付き合いたいと思うのが普通じゃないの?」
私の問いかけに、宮下は首を振る。
「必ずしも、そうとは限らないぜ。俺は好きにも色々あると俺は思うんだよ。はっきりと否定できるのは、俺自身がそうだからかな」
「それって、あんまり好きじゃないってことなんじゃないの? 大して好きじゃないから、付き合わなくてもいいやって思えるんじゃないの?」
失礼なように聞こえてしまうだろうけど、私の中で困惑の主張が大きすぎて、正直に聞いてしまった。けれど、宮下は少しも嫌な顔をすることなく、答えてくれる。
「もちろん、白百合が夜月のことを過去として割り切ったのなら、付き合ってほしいと思うよ。他の男子に負けたくないって思う。だけど、相手が夜月なら別なのさ。だから、もしかしたら俺は心のどこかで、保険を掛けておきたかったのかもしれないな。万が一白百合が夜月以外に目を向けたとき、俺が白百合のことを好きだということを、知っておいてほしかったのかも……いやこれってやっぱりダサいよな」
「……別に、宮下のことダサいとは思わないよ。私はそういう考えのほうが、普通だと思うし」
励ましているつもりじゃなくて、本当にそう思った。
少なくとも、『好きだけど付き合ってほしくない』という感覚よりは、すごくわかりやすい。
視線を彷徨わせながら照れ臭そうに頭をガシガシと掻いた宮下は、「まとめだ」と口にする。そして、私を見た。視線は揺れていない。
「俺は白百合のことが好きだから、もっと力になってやりたい思うんだ。だからつらいときは相談してほしいし、泣きたいときは胸を貸したい。できるだけ笑顔でいてほしいと、そう思うんだよ。そういうときに、何もしてやれないのが一番つらい。見返りは、何も求めないからさ。夜月のことを好きなままで、俺を頼ってくれ」
なんと、答えればいいのだろう。
これが告白だったなら、ごめんなさいのひと言で終わるのに、彼から送られてくる無償の愛を叩き落としてしまうのは、すごくひどいことのように思えた。
もし仮に、私が『必要ない』と断ったとしても、きっと宮下は今まで通りに接してくれるだろう。
頼りにしてほしいと言われているだけだ。断る理由はないけど、相手から好意を寄せられていると思うと、変に期待させてしまいそうで、やっぱり断ったほうがいいんじゃないかと思ってしまう。
答えは、すぐに出てこなかった。
「……保留でも、いい?」
「あぁ、もちろん大丈夫だ。ちなみに、俺の申し出は断っても全然構わないからな?」
私の答を聞いた宮下は、ケロッとした表情でそう言った。
案外さっぱりしてるなぁ。ダメ元で言ってみただけなんだろうか。
そんなことを思いながら「うん」と短い返事をすると、宮下が半目になって私を見てくる。
「勘違いしてほしくないから説明するけど、別にどうでもいいから断られてもいいって思ってるんじゃないぞ。もし俺を頼ったなら、俺が白百合を支えられるし、断ることができるぐらいの強さがあるなら、俺も安心だからな。だから、どっちでもいい。気持ちを伝えた時点で、俺の勝ちは確定してるんだぜ?」
そう言って、宮下はいつものニカっとした綺麗な表情で笑う。
なるほど……頭の良い考え方をするなぁ。私がどちらを選択したとしても、宮下は満足するってことだよね。
となると――私に好きって想いを伝えることよりも、彼にとってはこちらが本命だったってことになるのかな? ……うん、実に宮下っぽい。
「勝ち負けじゃないでしょ――でも、ありがと。そういうことなら、私も選びやすいかも」
「おう――じゃあ俺の話も終わったところで、いよいよ夜月の家――サプライズといきますか。白百合が驚くところ、楽しみだなぁ」
宮下はそう言いながら立ち上がる。そしてスラックスのお尻の部分を手で叩いて、通学バッグを肩に掛けた。
「正直、俺はあの世にいる夜月に怒られるかもしれないけど、んなもん俺を置いてどっかにいっちまったあいつが悪い! 悔しかったら邪魔してみろってんだ! ばーか!」
彼はだれもいないグラウンドに向かって、大きめの声で言う。宮下がその言葉を伝えたい相手は、私の後ろにいるんだけどなぁ。
ちなみに夜月は、宮下の発言を聞いて前方へ飛び出し、「ばかって言う奴がばかなんだばーか!」なんてことを言っていた。同レベルすぎて笑えてくる。
「ふふっ、なにそれ。夜月の秘密を話してくれるつもりなの?」
「そうそう、俺だけが知ってる、夜月の秘密だ。思わずニヤけちゃうようなやつだぜ? そして夜月の親友としては、あいつの彼女である白百合に是非とも知っておいてほしいことなんだ」
まるでおもちゃを紹介する子供のように、宮下は楽し気に話をする。
いったい、宮下は夜月のどんな秘密を握っているというのだろう。エロ本とかだったら笑えないんだけど……いや、さすがに違うよね? そういうのって、男子の友情パワーでこっそり捨ててあげるよね? 間違っても死後に彼女に見せるとかしないよね?
私はそんな可能性を思いついてしまって顔を引きつらせていたのだけど、当の本人はなんのことかさっぱりわかっていないようで、ばか呼ばわりしてきた宮下に「変なこと言ったらぶん殴るからな!」などと言いながらフライングでお腹を殴っていた。全部貫通してしまっているが。
「美紀さんには白百合が来るってことまだ言ってないから、きっと喜ぶと思うぞ」
「うん、私も話したい」
はまゆう公園に行く時とか、美紀さんが車で連れていってくれたこともあったし、夜まで夜月の家にいたりしたときは、私を家まで送ってくれたりしていた。よく『妹ができたみたいで嬉しい』と言ってくれていたことを思い出す。
夜月とも私とも距離が近い人だからこそ、これまで会えないでいた。美紀さんは、元気にしているだろうか。
「宮下は事故のあとに美紀さんと最近会ったの?」
「彩と一緒に線香あげに行ったときにな。夜月が亡くなってから、一週間後ぐらいのときに」
あぁ、そうか。そういえば彩が宮下と一緒に線香をあげに行ったって言ってたっけ。
「そうだったんだ……美紀さんはその、大丈夫そうだった?」
「あの人も強い人だからな~、弱っているような雰囲気はほとんどなかったぜ。みんなで夜月の話をしたんだけど、俺と彩のほうがよっぽど泣いてた。たぶん、俺たちが見えないところで、もう枯れるぐらい泣いたんだろ」
「そっか、そうだよね」
私の何倍も一緒に過ごしてきた家族なんだから、その悲しみは私では計り知れないものなのだろう。私の心に空いた穴よりも、ずっと大きな穴が空いてしまったのだろう。
私は他の人を心配する余裕も無かったぐらいなのに……すごいなぁ。
☆ ☆ ☆ ☆ ☆
「いらっしゃい桔梗ちゃん! もう、亮くんもなんでもっと早く教えてくれなかったの!? 桔梗ちゃんが来るなら私ケーキ買ってきてたのに! 高いやつ!」
「それだと俺なら必要ないみたいな言い方っすね」
「あんたは飴で十分!」
「ひでぇ~」
公園を出るタイミングで宮下は美紀さんに『今日白百合も一緒に行きます』と伝えており、その返信の段階から美紀さんは『なんで言ってくれなかったの!?』と悲痛なメッセージを十通ぐらい宮下に送っていた。宮下はその画面を私に見せながら笑っていた。
美紀さんは彼が言っていた通り、思っていたよりも元気そうだった。弱っている様子はほとんど見受けらえない。
だけど、あくまでほとんど。全てまでは隠しきれていなかった。
「じゃあ、ちょっと客間で話そうよ。それと、二人とも夜月に顔を見せてあげてね」
そう話す美紀さんからは、どうしようもなく悲しい気持ちが伝わってきていた。振る舞いなのか、声色なのか、口調なのか――何が原因だと聞かれたら明確に答えは出せないのだけど、彼女の雰囲気が、私の知る夜月のお姉さんとは少し違っている。
みんなきっと、悲しい気持ちを隠して、明るく振舞っているのだ。
どんよりした空気は、さらなる悲しみを引き寄せてしまうから。
みんながみんなそうではないと思うけれど、こうやって美紀さんのように、そして彩や宮下、美夜さんや私の両親――みんな、悲しみを伝播させないように、普通に過ごしているのだ。
みんなにもっと悲しんでほしいと思っていたけど、きっと表面には表れていない部分でちゃんとみんな悲しんでくれている。夜月の死で、苦しんでくれている。
それがわかったような気がして、少しだけ心が軽くなったような気がした。
美紀さんと客間で三十分ほど話してから、夜月の部屋に移動することになった。
掃除はされているらしいが、彼の部屋はまだそのままだった。ベッドや布団もあるし、デスクには教科書が積んであるし、本棚には漫画、スマートフォンの充電器もテーブルの上に置いてあったりする。
六畳ぐらいの広さで、私の部屋と一緒。クローゼットの位置や窓の位置は違うけれど、広さが一緒というだけで親近感を覚えたものである。カーテンと布団は紺色で、比較的明るい色合いの私の部屋と比べると、男子って感じの雰囲気がする。
そんな夜月の部屋には、私と宮下だけでやってきた。
宮下曰く、
「これは夜月のプライベートなんで、美紀さんでも無理っス。家族だからこそ無理っス」
とのこと。となるとやはり、私関連の何かが夜月の部屋にはあるのだろう。まさに今からプライベートが明かされそうになっている夜月も「そうだそうだ!」なんて言って宮下を応援している。宮下が全ての原因ということは忘れてしまっているらしい。
しかし本当に予想がつかないな。
まさか死期を予期して手紙なんてものがあるわけでもないだろうし。一年記念日に渡す予定だったものとかかなぁ……いやでも、それにしてはちょっと買うのが早すぎるような気もするんだよね。
「なんだと思う?」
宮下は部屋に入ったところで、ニヤニヤしながら聞いてきた。
この部屋に来る前からわかっていたことだけど、やはり彼はこの状況を存分に楽しんでいるらしい。不謹慎――ではないんだろう。彼なりに、夜月や私を想ってくれてのことだと思う。
「うーん……手紙かなぁって思ったんだけど、違うだろうし……あ、もしかして、実は告白をするときラブレターを用意してて、それが捨てられずに残ってるとか?」
これは案外いい予想なのではないだろうか。
そして、もしそんな秘蔵のものがあるのならぜひ読まさせていただきたい。夜月の前で朗読したいな――そんな地獄のような考えが頭に浮かんだけれど、宮下は手をクロスさせてバッテンのジェスチャーをする。違ったみたいだ、残念。
「でも、じつは惜しくはあるんだよ。ヒントは告白前のことだ」
「えぇ……全然わかんないよ」
本人すらも「なんのこと言ってるんだこいつ」なんて言っているし、宮下が何かを勘違いしているって可能性はないだろうか?
そう思っていたけれど、ニヤニヤした宮下がデスクの脇にある引き出しに手を伸ばしたところで、夜月が急に慌てだした。
「――ちょっ、待った! それは無しだ亮! ダメだってばか! うぉおおおお! 止まれ止まれ止まれぇええええええ!」
そんな風に叫びながら夜月は宮下の動きを止めようと必死に手を動かしている。しかし夜月の努力空しく、スカスカと彼の手はむなしく空を切る。やがて引き出しは開かれ、宮下は引き出しの奥のほうから白い長方形の箱を取り出した。
そして、それを私に手渡してくる。
「本人の了承を得ずに勝手に家に上がりこんで、引き出しの中の物を盗む――みたいな感じだけどさ、これは白百合が持っておくべきものだと思うんだ。もし誰かが文句を言うなら、俺が責任を持つ――って言っても、文句を言う奴なんざひとりもいないだろうけどな。いるとしたら夜月ぐらいかな」
宮下はそう言って楽しそうに笑う。親友ならではのいたずらみたいなものだろうか。男子のこういうおちゃめなやり取りを見ると、ちょっとうらやましく思える。いやでも、自分がもし同じことをやられたら怒っちゃいそうだなぁ。
そんなことを考えながら辺りを見渡してみると、いつの間にか夜月は部屋から姿を消していた。どうやら、宮下の行動が制御できなかったため、逃走を選んだらしい。私からそれほど距離はとれないはずだから、近くにはいるんだろうけど。
ねー、夜月これなんなのー? 本当にもらっていいのー?
心の声で呼びかけてみるが、夜月からの返答はない。一階とかに行っちゃったのかな。
ひとまずこの時点でわかるのは、手紙ではないということ。そして、夜月が私に見られたくはないということ。
夜月が本心から嫌がる物だったとしたら、きっと宮下はこんな風にして渡したりしないと思うから、嫌というよりはたぶん恥ずかしい系のものなんだよね?
たぶんこっそり買っていたジュースの代金を支払われるような感じに似ているタイプの感情なんだろう。
「これなに? プレゼント?」
クレヨンとかが入っていそうなサイズの箱だ。しかしプレゼントにしては何のデザインもないし、質素過ぎる気がする。夜月がくれたものなら、なんでも喜べる自信があるけど。
その白い箱は重心が片側に偏っていて、振るとカサカサと音がした。
「開けてもいいのかな?」
「あぁ、開けたらきっと、白百合は泣くと思うぜ」
宮下は相変わらずのニヤニヤとした表情で、私の反応を楽しむように言う。
そう言われちゃうと、意地でも泣きたくなくなるなぁ。というか、私を泣かせたらいけないんじゃなかったっけ? 彩に怒られるよ?
「警察呼ばなきゃ」
そう言いながら制服の胸ポケットに手を伸ばそうとすると、宮下は「あれは彩の冗談だから!」と焦っていた。そんなに私を見て楽しもうとするから悪い。
そう思いながら箱の端に手を掛け、中の物を取り出してみる。
箱から出てきたものは、全く私が予想しなかったものだった。というか、これを予想できる人が世の中に何人いるのだろう――そのレベルの意味のわからなさだった。
「……油性ペン? しかも袋空いてるし」
中にはマイネームの油性ペンが入っていた。
いったい私は中古の油性ペンを見て、どのように感情を揺さぶられたらいいのだろう。夜月が使っていたペンというだけで、私にとっては価値あるものではあるんだけど……『泣くと思う』なんて言ってハードルをめちゃくちゃ上げられたあとに受け取ると、反応に困ってしまう。
「その奥、重たいほうがメインだからな」
「あ、そっか。まだ奥に何かあるんだ」
そう口にしながら、私は箱を傾けてトントンと揺らす。すると、白い箱の中を滑ってプラスチックの箱のようなものが出てきた。透明にピンクの紙が背景として入れられている。そんな箱。
「――っ」
それがなんなのかを理解した瞬間、私は口が漏れないようにとっさに口を塞いだ。そして不覚にも、涙が勢いよくあふれ出してきた。
泣いてやるもんかなんて思ったことは、もうどこかに消えてしまっている。
プラスチックの箱の中に入っていたのは、ハート型の南京錠と、二つの鍵だった。そしてその南京錠の左半分には、『夜月』という名前が油性ペンで書かれている。
はまゆう公園にある、あの南京錠だった。
「まだ夜月が白百合に告白する前にさ、あいつが『桔梗に告白する場所の下見がしたい』って言うから一緒に俺も付いていったんだよ。恋人の聖地に、男二人でさ。その時に『最初から準備していたほうがスマート』って理由で、事前に自販機で南京錠を買ってたんだよあいつ。だけど、結局引き出しに眠ったまま。白百合がこういうの好きじゃないみたいってしょげてたぜ」
宮下が、この南京錠が引き出しに眠っていた理由を解説してくれる。
そうだ、夜月が南京錠の話をしたときに『私は恥ずかしい』ということを言ってしまった記憶がある。あのときすでに彼はもうこれを買っていて、たぶん、バッグの中にはこれが入っていて、告白のあとに私に名前を書いてもらって、掛けるつもりだったんだろう。
……あぁ、私はなんてことを。
「――っ、ば、ばかじゃないの……ひとこと、言えばよかったじゃない! 夜月がしたいって言うなら、私、断らなかったよ……!」
「……もったいないからって、ダメ元で付き合ってから一年の記念日に、白百合にお願いしてみるつもりだったみたいだぜ」
「――なっ、なんで、言って、くれなかったの……!」
南京錠に向かって声を投げかける私に、宮下はもう何も言わなかった。部屋には夜月もいなくなっているから、私の声にこたえる人は誰もいない。
私はしばらくの間、南京錠に描かれた『夜月』の文字を見ながら、涙を流した。
透明な箱越しに夜月の名前をなぞりながら、何度も何度も、『なんで言ってくれなかったの』と心で訴えながら、泣き続けた。
「どうぞ」
私の感情が落ち着いてきたところで、宮下がハンカチを押し付けるように渡してくる。どうやら私が泣き止むタイミングを見計らっていたらしい。一瞬、宮下がこの場にいることを忘れそうになってしまっていた。
「……男子って、ハンカチ持ってたんだ。夜月だけかと思ってた」
紺色と黒のチェック柄のハンカチだ。それを見ながら、鼻をすする。
「俺は夜月の影響でな。夜月が言うにはこういう男子がモテるらしい」
「――ふっ、そうかもね。ありがと」
お礼を言って、ハンカチで涙をぬぐう。
「また使う時があるかもしれないから、今日のところはそれ貸しとく。今度学校で返してくれたらいいから」
「……うん、ありがと」
私は夜月のベッドに腰を下ろして、一息ついた。
飲みかけのリンゴジュースをバッグから取り出して、水分を補給。
「……はー」
もう一度大きく息を吐いた。
なんで夜月はこんな大事なものを隠しておくかなぁ。
……まぁ、私が微妙な反応しちゃったからいけなかったんだよね。
夜月がこれを買っていることを知っていたら、もっと前向きな言葉を言えたかもしれないのに――なんて考えても結局、言い訳でしかない。責めるべきは、昔の自分だ。
「それで、白百合はどうする? 思い出として持っていてもいいと思うし、はまゆう公園に持って行ってもいい。もしいまから行くって言うなら、俺も付き添うぜ」
「そっか……そうだよね」
持っておくか、はまゆう公園に掛けるか――か。難しい問題だ。
手元に持っておいたほうが、夜月を傍に感じることはできるだろう。通学バッグに付けたりしてもよさそう。……だけどこの南京錠があるべき場所は、きっとあのモニュメントなんだよね。少なくとも夜月は、そうしたかったはずだ。
それに、夜月は『俺離れしろ』と私に言ってきていた。こうして未練がましく夜月の思い出に縋ろうとするのは、きっと彼の望むところではないんじゃないかな。
かといって、この南京錠を掛けてしまえば、夜月の文字を気軽に見ることはできなくなる。
そしてはまゆう公園の南京錠は定期的に外されてしまうはずだ。じゃないと、あっという間に掛けるスペースがなくなってしまう。つまり、いつまでもはまゆう公園に行けば見ることができるというわけでもない。
それでも。
「……付けにいこうかな」
これがたぶん、前に進むということなのだろう。
そう考えると、手元から南京錠が無くなるとしても、あまり嫌なことには思えなかった。むしろこの南京錠を掛けてしまえば、夜月と私を繋ぐ何かが、強固なものになってくれるんじゃないかと、そう思えたから。
行くと決めたら、私たちの行動は速かった。時刻は夕方の五時過ぎ。
今から家を出たら、歩いて行っても日が落ちる前にはまゆう公園に着くことができる――そう思って、宮下と一緒にせかせかと準備をしたのだけど、美紀さんが車で送ってくれることになった。
もう帰るのかと聞かれたので、正直にはまゆう公園に行くと伝えると、快く車を出すことを提案してくれたのだ。ありがたい。むしろなんで私を頼らないのと怒られたぐらいだ。
夜月はやや不服そうにしながらも、助手席に乗って私たちに付いてきた。
もしかしたらこの南京錠を私が見つけて、あの場所に掛けに行くのが嫌なのだろうかとも思ったけど、たぶん今の彼の表情は拗ねているような感じだと思う。本気で嫌だったとしたら、ちゃんとそう伝えてくると思うし。
夕暮れの時間に訪れたはまゆう公園は、カップルがいて、夫婦がいて、散歩している人がいて――そんな感じで人はそこそこいたのだけど、そもそも公園が広いからぽつぽつという表現があっているような雰囲気である。
海を見下ろす鐘がある場所にも、人がいたりいなかったり。
ちょうど私たち四人が向かったタイミングで海を見ていた夫婦が別の場所へ移動したので、私はゆっくりとモニュメントのあたりを観察することができた。
そういえば、彩も彼氏とこの場所に来て南京錠を掛けたって言ってたっけ。
「なるほどね、夜月が好きそうだ」
私がポケットから取り出した南京錠を見て、美紀さんは納得したように声を漏らす。
「はい、夜月が好きそうです」
私は美紀さんの言葉に同意しつつ、夜月の隣に自分の名前を油性ペンで書いて、鍵でロックを外し、それをモニュメントに掛けた。
それをスマートフォンで撮影して、これを思い出として残しておくことにした。
ちらっと後ろを振り返ると、宮下と美紀さん――その後ろには、腕を組んでそっぽを向く夜月の姿。
もう、いつまでも拗ねないでよ。もともと夜月がやりたかったことなんでしょ?
そう心で語り掛けたあとに、今度は口を動かして美紀さんたちに話しかける。
「……すみません、少しだけ一人にしてもらってもいいですか? 宮下も、悪いけど」
「うん、じゃああっち側から海見てる。ほらいくよ亮くん」
「ちょ――そんなに強く引っ張らなくても行きますから! 白百合、ごゆっくり!」
宮下は美紀さんに引きずられるような形で、もう一つの柵がある場所へと向かって行く。
美紀さんたちにはああ言ったけど、一人になりたかったわけではない。夜月と話したかったのだ。
「不満?」
私はいじわるな感じでニヤリと口の端をつりあげ、二人の名前が書かれた南京錠をつまみ、夜月に言う。彼は不服そうにしながらもこちらに寄ってきて、南京錠に視線を向けた。そして、「そりゃ人の恥ずかしい話をバラされたからな」とふてくされたように口にする。
「別に恥ずかしい話じゃないと思うけど。私は嬉しかったよ」
「……桔梗こういうの苦手って言ってたし」
「まぁ、ちょっと照れくさい気持ちはあるけどね。でもそれ以上に夜月が準備してくれてたことが嬉しいの。ありがとね」
「そりゃよかったですね」
不満そう、ではあるけど、ちょっと嬉しそう。やっぱり夜月はこういうロマンチックなことが好きなんだなぁ。ちらちらと南京錠のことを見ているし。
夜月は演技なのか本心なのかわからないようなため息を吐いてから、石畳の上をうろうろと歩き、やがて、今まさに地平線に沈もうとしている夕日に目を向ける。オレンジと赤の間のような――まさに燃えるような空。こういう風景も、夜月と何度も見てきたなぁ。
「でも、安心したぜ」
そう言ってから、彼はつま先で石畳をトントンと叩いた。実際に音は聞こえてこないけど。
「今の桔梗なら、大丈夫そうだ。俺が消えていなくなったとしても、きっと歩いて行ける。困ったときは赤石とか亮を頼るんだぞ? あいつらなら、信用できる」
「……まぁ、二人とも優しいのはその通りだね」
宮下が私に告白しているときも、夜月はずっとそばで話を聞いていた。もしかしたらそれもあって、夜月は心の引っ掛かりが無くなったのかもしれない。もし何かあったときは、自分の親友がなんとかしてくれるだろうと、そう思ったのかもしれない。
「もう、お別れが近いんだよね」
「……おう」
夜月の体は、もう私の目にほとんど見えていない。消えるように、どんどん薄くなってきている。
彼が車の助手席に乗っているときにはもうすでにそんな感じで、別れが近いということを、私の目にわかりやすく教えてくれていた。
そして私は、体の薄くなった夜月の姿を目にしても動揺しなかった。来るべき時がきた――そう思っただけ。
「ねぇ夜月」
「ん? どうした?」
「私、夜月のことが好きだよ」
「おう」
夜月は返事をして、くしゃりとした笑顔を浮かべる。私の大好きな笑顔を。
「……夜月は『新しい恋をしろ』なんて私に言ってた……それは私のことを思ってのことだって納得したつもりだけど、聞いてあげるつもりなんて、ないから。新しい恋なんて、私には必要ないから」
私のその言葉に、夜月は苦笑する。『しょうがないなぁ』とでも言いだしそうな諦めた表情だった。
「ま、そんなこと言う気がしてたよ、桔梗はさ。俺のこと大好きだもんな」
「そうよ、悪い?」
「悪いわけあるか。でも、俺としては桔梗を支えてくれる人がいたほうが――「必要ない」――そうですか」
「いいじゃない、私の人生なんだから。誰のことが好きだって」
夜月に詰め寄って、鼻と鼻がくっついてしまいそうな場所で口を開く。彼は後ずさりすることなく、真っすぐに私の目を見た。
「ずっと好きでいたって、いいじゃない。一生――じゃなくて、永遠に夜月に恋していたって、いいじゃない! あなたのことを想い続けていたって、いいじゃない! 私を置いて行っちゃったんだから、これぐらい許してよっ」
「…………」
「なんで何も言わないの! いいじゃない……お願いだから、好きでいさせてよ。ずっと夜月のことを好きでいさせてよ……私は、この気持ちをずっと、いつまでも変えられそうにないの」
「…………」
夜月は無言で私から一歩距離を取って、鼻からため息を吐いた。
そして、視線を柵の向こう――夕日に向ける。
そして「ダメだな、俺は」と口にした。
「――こんなはずじゃなかったのに。桔梗の幸せを一番に願っているはずなのに、『嬉しい』って思っちまう」
「……うん」
「ありがとな」
そう言って、今にも消えそうな手を私の頭に乗せた。触れられる感触はないが、温かみを感じるような、私よりも大きくてごつごつした手が、頭に乗っている。
「俺も永遠に、桔梗を愛してるよ」
最後に夜月はもう一度、私に向けてくしゃりとした笑みを浮かべてくれた。
幽霊なのか幻覚なのか――最後までわからない彼の頬には、一滴の涙が伝っていた。
思わず手を伸ばす――もうそこには何もない。夜月の気配も、何も感じられない。ついさきほどまで私の目に見えていた彼は、とうとう見えなくなってしまった。
私は石のアーチの下に走り、ロープを握って強く左右に振った。
ゴーンゴーンと、大きな音が公園に響く。響愛の鐘という名のついた鐘を、私は大きく打ち鳴らした。
「――うっ、うぅっ、あり、がとう! 私も、夜月のこと、愛してるっ!」
ロープにしがみつきながら、海に向かって叫んだ。
人目なんて気にする余裕もない。そんなことよりも、私には夜月に想いを伝えることが大事だった。美紀さんに聞かれていたかもしれない、宮下にも聞かれていたかもしれない。
でも誰になんと思われてもよかった。これぽっちの恥で、夜月に想いが伝わるのなら。
涙を制服の袖でぬぐい、真っすぐと地平線を見る。
私は大丈夫だよ、夜月。一人でも大丈夫。一人で歩いて行けるよ。
そうなことを心の中で口にしながら、棒立ちになって海と空を眺めていると、足音がこちらに近づいてきた。美紀さんと宮下だ。よくよく周りを見ると、ちらほらと散歩をしている人が見える。彼らは私と目が合うと、サッと視線を逸らした。
変な人だと思われちゃったかな……でも、いいや別に。なんとなく、私の言葉は鐘の音に乗って夜月に届いた気がするから。
「桔梗ちゃん、スッキリした?」
「なんていうか――今の白百合良い顔してるな」
美紀さんも宮下も、私を見て笑顔を浮かべてくれた。
「……はい、連れてきてくださってありがとうございました」
美紀さんに向かって頭を下げて、宮下にも「付き添いありがと」と笑いかける。
今日、この場所に来られて本当によかった。あの時、はまゆう公園に行って南京錠を掛けると決断して良かった。
きちんと夜月にお別れを言えた。ありがとうと伝えらえた。夜月のことが好きだとちゃんと言えた。この場所に来ていなかったら、言えないままお別れすることになっていたかもしれない。そう考えると、今の私は達成感で満たされている。
夜月はいなくなってしまったというのに、こちらに吹き込んでくる潮風のように、私の心はとてもすがすがしい状態だった。
「あ、そういえば桔梗ちゃん、ハート見つけた?」
美紀さんがふと思い出したように、そんな質問を私に投げかけてくる。
ハート? どこかにハートがあるの? 鐘の中に『愛』の文字があることは知ってるけど、ハートなんてどこかにあったかな?
キョトンとしている私を見て、宮下も「白百合知らなかったのか」と驚いた様子を見せる。
え? もしかして私だけ知らないの? そんなに有名な話?
「ほら、ここここ。ハート―マーク。てっきり夜月と探したりしてたかと思ったのに」
そう言いながら、美紀さんが石畳の上をテクテクと歩いて、つま先でトントンと地面をたたく。美紀さんが立つその場所は、まさについ先ほど夜月が立っていた位置だった。私は美紀さんに近づいて行って、彼女の足が示す場所に目を向けた。
「――ふ、ふふっ」
それを見て、私は思わず笑ってしまった。
なんなのよ――もう、気付かなかった私がばかみたいじゃない!
美紀さんの足先――そして私の視線の先には、色々な形の石に紛れ込んだ綺麗なハートマークの石があった。まさかあれで、私に『好き』という気持ちを伝えていたつもりなのだろうか。
まったく――本当に、こういうの好きなんだよね、夜月は。
「ん? 桔梗ちゃんなんか言った?」
「あっ、すみません。何でもないです。こんなのあったんですね」
「ここだけじゃなくて、他の場所にもあるんだよ~。全部で何個あるかはわからないけどね。私は三つぐらい見つけてるかな」
美紀さんは楽しそうにそう言ってから、柵まで近寄って海を眺め始めた。
もしかしたら夜月、私と二人で来た時もさりげなくそんなことをやっていたのかなぁ。やっていて私が気付いていないだけだったとしたら……すごく申し訳ない。でも、私が全く気付かずにしょんぼりしちゃう夜月を想像してみると、ちょっと可愛いかも。
地面のハートマークを見つめている私に、今度は宮下が話しかけてくる。
「さっき美紀さんも言ってたけどさ、随分スッキリした顔してるぞ」
「そうかな」
「あぁ、しっかりと前を見てる気がする」
なるほど。今の私はそんな風に見えているのか。だとしたら間違いなく夜月のおかげだよね。そしてきっと、夜月ときちんとしたお別れができたからだろう。
いい機会だ――もうこの勢いで、元気なうちに宮下にも伝えておこう。
「宮下、今日話してくれたことだけどさ、私には必要ないかな」
悩んだ末に私がだした結論は、拒絶。
宮下の気持ちはすごく嬉しかった。だけど以前の私ならまだしも、いまの私には必要のないものだと思う。
「ははっ、そう言うと思った。今の白百合からはさ、すごいエネルギーを感じるというか、俺が支えるなんておこがましいって思うぐらい、どっしりしてる」
「うん、気持ちは嬉しかったよ。でも、いらない。私は一人がいいの――一本の白百合でいたいの」
たまには夜月のように、ロマンチックなことを言ってみた。相手に気付かれないぐらいの、遠まわしな言い方で。
しかし宮下は、私の想像に反して、
「それに、『桔梗』だもんな」
そう言って笑顔を浮かべた。夜月とは違う、綺麗な笑みを。
バレたのが恥ずかしくて、顔が熱くなるのを感じる。もし宮下の目に私の頬が赤く映っているとしたら、『夕日のせいだから』なんてありきたりな言い訳を使ってもいいだろうか。
「……もしかして宮下、意味知ってるの?」
「たまたまな」
宮下は楽しそうにそう答えると、美紀さんの隣に行って空を眺める。二人とも、潮風を浴びて髪がぐちゃぐちゃになっていた。でも、とても気持ちよさそう。
私もすぐに宮下の後を追って、同じように空を眺めた。日が沈んで、もうすぐ夜がやってくる。
宮下にはああ言っちゃったけど、空から夜月が私を見てくれているのなら、『一人』とは言えないのかもね。