サムエル・コッキング苑を出ると右手にある階段。その階段の手前に猫がいた。

「眠っとる」

 すぐ近くを観光客がたくさん通っているというのに、我関せずといった風情で眠る。黒ブチだ。随分と人に慣れている。さすが観光地の猫。
 そこの階段を降りる。土産物屋が並ぶ先に右手にカフェ、左手には民宿があった。

「民宿かぁ。ええなぁ」
「こういうところ、泊まってみたいね」
「日帰りできるところに、あえての宿泊は贅沢やね」

 ところで、と続ける。

「……また階段や」

 一度下ったと思ったが、再び下りの階段が現れた。

「まるでドラクエやな」
「そのココロは」
「倒しても倒しても出てくるスライム」
「正直に言うと」
「うん」
「私、ドラクエ、FF世代なんだけど、全然やったことない」
「うせやん」

 RPGが苦手な小学生だったのだ。主にアクションゲームをやっていた。
 話しながら階段を降りる。少し広い踊り場に出た。左側を見れば──右手はサムエル・コッキング苑の土台になっている壁が続いている──切り立った崖のちょうど合間。看板がたっていて解説文があった。

「やま、ふたつ?」
「へぇ。江の島は、二つの山でできとるんか」

 太陽がまぶしい。額に手を当て、景色を眺めた。左右に崖が見え、その間がぽっかりと、きれいにくり抜かれたようになっている。その先には青く光る海が広がり、手前には色を僅かに黄金に移した薄が、そよ、と風に吹かれていた。

 遥か先まで見渡す海は、その水平線で空と溶け合い、太陽の光をキラキラと反射させる。
 海辺ではやはり釣り人がその糸を垂らしていた。江の島は思うよりも多くの釣り人が、好んで訪れる場所であるらしい。

「うーん」
「どしたん」
「あそこの人たち」
「あの釣り人?」
「そう。どうやってあそこに行ったのかな、って」
「船かな?」
「それしかないか」

 階段を降り切ると、左手に和菓子の店が。中村屋、と幟に書かれてある。大きく開かれたショーケースの向こう側から、店員がひっきりなしに声をかけていた。

「あかねとうふ、やて」
「豆腐?」
「おやお客さん。あかねとうふ気になりますか? オススメですよ」

 商魂逞しい店主が、私の声をすぐさま拾った。こちらが答える前に素早く店頭の冷蔵庫から、あかねとうふと思しき商品を二つ取り出してくる。

「食べていきます? 後ろの建物で食べられますよ」

 なんという押しの強さだ。ここは大阪か? と突っ込みたくなる。見れば8センチ四方程度のサイズ。この程度なら食べてもランチに影響はでなさそう。

「せっかくだし」

 店主からあかねとうふを受け取った。よく冷えている。
 すぐ後ろ──つまり降りてきた階段を背にして右側──にある建物を見遣れば、Tシャツやら巾着やらのプリントものと、観光地の土産物が売られている。その向こうは通路になっているのか、小道が続いていた。

「この巾着かわええな」
「それ、うちのオリジナルなんですよ」

 後ろから声がする。先ほどの店員だ。よく見ればプリントされている模様は店の屋号と合致している。なるほど。

「オリジナルアイテムええなぁ」
「ハルカ先生オリジナル商品でも作っちゃう?」
「家紋調べな」
「ふはっ。家紋である必要ないでしょ」

 こういうときは、キャラクターで作るものじゃないのか。
 土産物の並ぶ棚の隣に、簡素なテーブルと椅子が置かれていた。腰をおろし手渡されたあかねとうふと、店員がサービスで用意してくれた緑茶に手をのばす。

「あかねとうふって初めてやね」
「ね。名前がなんかかわいい」

 臙脂色のつるりとした表面が、小さな立方体の器に入れられている。そこへするりとスプーンをさした。

「もちもちしてる……」

 あかねとうふとは、こし餡と葛で作られた、水ようかんのような和菓子だった。

「もちもちや。もちもち、もちもち」もちもちが止まらない。スプーンをひたすら口に運ぶ。もちもち。

 一気に食べきって、席を立つ。甘いものを入れた途端、胃が刺激されてしまった。

「お腹空いちゃった」
「それ、わかるわぁ」

 はなはだ逆説的に感じるかもしれないが、お腹が──空いてしまったのだ。

 中村屋を左手に直進し、すぐにまた上り階段。

「これ、降りる意味あったんか?」
「天然の地の利だからしかたがないとは言え、なかなかだねぇ」

 少しあがると左手に折れるように曲がっていく。踊り場にも食事処はあったけれど、ずいぶんと並んでいた。
 階段を登りきると、まっすぐな道に出る。右手にはおしゃれなカフェ。

 その向かいには、これまた美味しそうなにおいを広げている、少し古めかしい蕎麦屋があった。蕎麦屋だというが、店の入り口では、先ほどの店と同じように蛤やら栄螺やらを焼いている。その磯のにおいが私たちを刺激してきた。
 この後、すぐにランチを食べたいと思っているので、ここは我慢。それにしても、炭火焼きと焼いた醤油の匂いというのは、どうしてこんなにも魅惑的なのだろうか。我慢をした私たちは偉いと思う。

 石畳の道を真っ直ぐ進む。両側に民家を過ごし、鳥居の手前に古民家風のうどん屋を見た。なかなか趣がある。
 緑が深くなり参道が始まった。ついに正面に社が見える。奥津宮だ。

「あれが三つ目の社やね」
「ねね、手水の水口が龍じゃなくて亀だよ」
「ほんまやな。珍しい」
「さっき猫がいたところにも亀がいたし、亀尽くしだ。亀って、神様の遣いとかなんだっけ?」
「何が遣いでも、この国ならおかしくはないやろう」
「確かに」

 奥にある本殿の手前、賽銭箱の前に並んで立った。人がまばらなので、並ばずにお参りができる。

「あれ、灯。上見て」

 何かと思い天井を見上げた。

「亀……」
「八方睨みの亀やて」
「八方睨み?」
「こういうことや。上見といてな」

 天井を見上げる私の背中を軽く押し、左右に移動させる。

「おお? おおお?」
「どこから見ても、亀に睨まれてるようやろ」
「いつもお前を見ているぞ」
「普段より声低くして言わんといて」

 八方睨みの亀。時は江戸後期。江戸琳派の祖となった酒井抱一が1803年に描いた力作だそう。当時のものは、現存してはいるが傷みが激しいため、原画は社務所にて保管。

 拝殿に描かれているものは、1994年に片岡華陽が復元した。藤沢市の有形文化財に指定されている。八方睨み、とはどの方角から見ても睨んでいるものを言う。と、近くに解説があった。観光地はこういうことがしっかりと書かれているのが良いよね。

 無事に奥津宮を参拝し、すぐ後ろにある社務所でお守りをのぞいた。

「この龍のお守り格好ええなぁ。買おう」
「いいじゃん。私も買おうかな」
「ええやん。勝ち守りってあるし」

 小さな青いお守りは、きっと私の背中を押してくれることだろう。
 そこから少し奥にいった下り階段の手前。そこが今日のランチの目的地だ。ここだけは調べてきたのだ。

「外の席じゃなければ、すぐにご案内可能です」
「それで大丈夫です」

 外ではないけれど、海が見える窓際だ。ラッキー。
 メニューはどれも海鮮系。美味しそうな定食もたくさんあるけれど、私たちは二人とも、同じところで目をとめた。

「すみません! 生しらす丼二つ」

 海では、カヌーと水上バイクが走っている。通り過ぎた後に白い波を生み出していた。
 ぴーひょろろろろ、と鳶がなく。

「外やったら、食べ物取られかねないねぇ」
「あー、ほんと。ちょっと怖かったかも」

 それでも、青い空に飛ぶ鳶が妙に美しく見えた。青空に飛び交う鳶の美しさ。白い雲。再びぴーひょろ、と鳶が高く鳴いた。

「この、江の島丼ってのも気になったんやけど」

 手元のメニューを春香が指さす。さざえを卵でとじたものらしい。

「次回はこれにしよう」
「ええね。次は有里さんやマイも誘おうか」
「皆で、さっきの民宿に泊まっても良いかも」
「それは絶対楽しいやつや」
「お待たせしました。生しらす丼二つ」

 高校生と思しき少年が運んできた。息子さんだろうか。髪の毛がぼさぼさでメガネをかけているが、真面目そうだ。店内をよく見ると高校生くらいのバイトが多い。地元の子なのかもしれない。

 お盆にのせられ目の前に置かれたそれは、つやつやとした透明のしらすの山。生姜が添えられている。その他に香の物と味噌汁が付いていた。初めて食べる生しらすに胸が高鳴る。そうか。これが茹でられると白くなるのか、などと思う。生姜を溶いた醤油をかけた。

「いただきます」

 両手を合わせ、先ずは一匹、口に運んでみる。

「なんやこれ。とろける」
「生臭くないねぇ」

 どんどん手が動く。つるつるとした口当たり、ほどけるように溶けていく魚。
 あっという間に丼が空になってしまった。

「この先、また下りの階段があって、そこに岩屋という観光名所があります」
「下る、ということは、帰りは上りということやな」
「その通りです。ただ」
「ただ?」

 食後のお茶を頂きながら、今後の予定について話す。

「私の足は、そろそろ限界なんだよね」

 春香がやにわに私の手を取る。

「同士よ……!」

 つまり、私たちはその観光名所を次回に譲ることにしたのだ。
 下るのはともかく、また上ってくるのはきつい。事前の調べでは、上らずに船で入り口の橋まで戻れるルートがあるらしいけれど、今日は波の関係で船が出ていなかった。

 船が出ているときに、向かう方が絶対に良い。私たちの足のためにも。
 来た道を戻り、先ほどあかねとうふを食べた店の横にあった小道を行くことにした。その先にあった、上りの階段に日和ったとか、そういうことは──少ししかない。