あれから何度も試したけれど、会社に行こうとすると、足が動かなくなる。
それならリモートワークを、と思っても、会社のパソコンを開こうとすると吐き気がした。
これはいよいよダメだとなり、産業医面談を受けた結果、休んだ方が良いと言われてしまう。でもこの会社に所属したままで、私は本当に良いのだろうか。
山のように残っていた有給休暇を消化しながら、悩む。
「仕事以外やったら外には出れるんやし、川辺を歩いてくればええよ」
春香はそう言って、背中を押してくれた。
少し厚手のパーカーを羽織って多摩川土手まで来れば、風が心地よくて思わず草の上に座り込んだ。
「色付いてきてるねぇ」
近くの木々が紅葉を始めている。
「春と秋がなくなってきてると思ってたけど、こうしてみると、少しの間でもちゃんと秋はいてくれてるんだなぁ」
きっと春もそうなのだろう。
今度春香と、どこかに紅葉狩りにでも行こうか。
そうだ。前みたいに、北海道に日帰りで行っても良いのかもしれない。
「今日は秋冬の食べ物を作るか」
外に出たついでに買い物に寄ろう。久しぶりにスーパーではなくて、商店街へ。
向かう途中で、甘い香りがした。くんくんと鼻をひくつかせる。香りの元は、庭先の白い小さな花。つるが伸びている。
「ジャスミンってこの季節だっけ」
少し前はキンモクセイ。春になれば沈丁花。花には人を幸せにさせる力がある。
商店街のお肉屋さんで牛スネ肉を、八百屋で野菜を買い込み、帰宅する。
「お帰り」
リビングで、宝塚のDVDを見ていた春香は、声だけ短くこちらに返すと、そのまま画面に集中力を戻していった。ちらりと見えた『死』の役を演じている男役さんが、格好良い。
邪魔をしないようにキッチンで調理を始める。この間テレビでやっていたのを、メモしたものを広げた。
鍋にたっぷりの水。そこに牛スネ肉とローリエを入れて強火で茹でて、沸騰させてから中火に。親の敵のように灰汁を取れ、とテレビで言っていたけれど、生憎親の敵はいないので、取れるだけ取るように頑張ってみる。
「SNSで見かけた、灰汁とるのにオススメのお玉、買ってみようかなぁ」
灰汁取りは結構面倒なのだ。
「とってもとってもキリがないな」
「灰汁なのか旨味なのかの見極めも、悩みどころやねぇ」
「あれ、DVD終わったの?」
キッチンに現れた春香は、両肩に猫を二匹載せている。重そう。
「終わった。いやぁ、やっぱり美しいものはええなぁ」
うんうんと頷き、鍋の中をのぞき込んだ。
「良くわからんけど、美味しそう」
「でっしょ。ボルシチよん」
「ボルシチ……ってロシア料理……と思わせてウクライナ料理なんやっけ」
もう何年も続いている戦争がきっかけで、私たちはそれを知った。悲しいきっかけではあるけれど、自国の伝統料理が他国のものと思われるのは、それこそ悲しいので、知ることができて良かった。
「テレビでやってて、思ったより簡単そうだったから、メモしてたんだよね。外出たら秋全盛期だったから、秋冬の食べ物にしようかと思って」
「ええね。何かやることある?」
「それが、そろそろ煮込みの時間だから、私もやることがなくなる」
「なるほど。それやったら、猫と遊ぶか」
「それが一番」
煮込み時間は50分。野菜をカットだけ先にしておき、すでに猫と遊び始めている春香に混ざった。
カシャカシャブンブンという猫のおもちゃを手に、参戦する。これがあるだけで、私は猫たちの人気者になれるのだ。
「それ出されたら負けや。高いおもちゃよりも、それが好きやもんなぁ」
大興奮の猫たちと夢中で遊んでいるうちに、タイマーが鳴った。新品のカシャカシャブンブンは、すっかりボロボロに──実のところ、遊び初めて数分で一本目はお釈迦になったのだけれど。
「はい、今日はおしまい」
そう言えば、すでに飽きて寝ていたミヤは体を起こし、こちらを見る。リリはまだ遊び足りないらしく不満気だ。
手を洗い調理に戻る。煮た後の肉を一度取り出し、今度はお酢、お塩を加えたその煮汁に野菜を入れて煮込む。
「タマネギに何かついとる?」
「ああ、クローブ。テレビで、こうやって挿しておけば行方不明にならないって言ってたの」
「行方不明になったらあかん?」
「盛り付け前に排除するから」
「理解」
タイマーをセットする。今度は20分だ。時間はかかるけど、調理としては特に難しいことはなにもない。
「あ、そこに置いてある取り出したお肉、カットしてもらっても良い?」
「そう言えば、ボルシチってビーツとか入れるんやないの」
柔らかくなった肉は、揺れて揺れてうまく切るのに少し手がかかるようだ。口をツンと尖らせている。
「トマトケチャップで代用していいみたい。ビーツってオシャレカフェで扱うイメージだよね」
「黒板がある店やろ」
「そうそれそれ」
タイマーが鳴ったので、切ってもらった肉を戻す。そこへトマトケチャップを30グラム入れると、一気に煮汁が赤く染まる。味見をして塩胡椒で調えれば完成だ。
「っ、美味しい」
味見をしてみれば、想像以上に美味しい。肉の旨味と野菜の甘味に、トマトの酸味が効いているのだろう。これは早く食べたい。
指でオーケーマークを作れば、春香は素早くテーブルをセッティングした。
匂いに釣られたのか、リリとミヤが足下にまとわりつく。
「んー、お腹空いたの?」
「灯、騙されたらあかん。さっきカリカリ食べたばっかりや」
「危ない」
うちの猫は演技派なのだ。
お皿に盛り付け、フランスパンを添える。
「これ、オープンしたばっかりのあそこのパンやね」
「そうそう。こないだ食べたときに美味しかったから、今日はちょっと奮発しちゃった」
ボルシチにフランスパン。位置的には、固い黒パンやライ麦パンとかの方が正解なのかもしれないけれど。
「野菜たっぷりでええなぁ」
「ほんと。お肉もほろほろ」
胃の中に流れ込んだボルシチは、いろんな不安を横においておけるほど、美味しかった。
それならリモートワークを、と思っても、会社のパソコンを開こうとすると吐き気がした。
これはいよいよダメだとなり、産業医面談を受けた結果、休んだ方が良いと言われてしまう。でもこの会社に所属したままで、私は本当に良いのだろうか。
山のように残っていた有給休暇を消化しながら、悩む。
「仕事以外やったら外には出れるんやし、川辺を歩いてくればええよ」
春香はそう言って、背中を押してくれた。
少し厚手のパーカーを羽織って多摩川土手まで来れば、風が心地よくて思わず草の上に座り込んだ。
「色付いてきてるねぇ」
近くの木々が紅葉を始めている。
「春と秋がなくなってきてると思ってたけど、こうしてみると、少しの間でもちゃんと秋はいてくれてるんだなぁ」
きっと春もそうなのだろう。
今度春香と、どこかに紅葉狩りにでも行こうか。
そうだ。前みたいに、北海道に日帰りで行っても良いのかもしれない。
「今日は秋冬の食べ物を作るか」
外に出たついでに買い物に寄ろう。久しぶりにスーパーではなくて、商店街へ。
向かう途中で、甘い香りがした。くんくんと鼻をひくつかせる。香りの元は、庭先の白い小さな花。つるが伸びている。
「ジャスミンってこの季節だっけ」
少し前はキンモクセイ。春になれば沈丁花。花には人を幸せにさせる力がある。
商店街のお肉屋さんで牛スネ肉を、八百屋で野菜を買い込み、帰宅する。
「お帰り」
リビングで、宝塚のDVDを見ていた春香は、声だけ短くこちらに返すと、そのまま画面に集中力を戻していった。ちらりと見えた『死』の役を演じている男役さんが、格好良い。
邪魔をしないようにキッチンで調理を始める。この間テレビでやっていたのを、メモしたものを広げた。
鍋にたっぷりの水。そこに牛スネ肉とローリエを入れて強火で茹でて、沸騰させてから中火に。親の敵のように灰汁を取れ、とテレビで言っていたけれど、生憎親の敵はいないので、取れるだけ取るように頑張ってみる。
「SNSで見かけた、灰汁とるのにオススメのお玉、買ってみようかなぁ」
灰汁取りは結構面倒なのだ。
「とってもとってもキリがないな」
「灰汁なのか旨味なのかの見極めも、悩みどころやねぇ」
「あれ、DVD終わったの?」
キッチンに現れた春香は、両肩に猫を二匹載せている。重そう。
「終わった。いやぁ、やっぱり美しいものはええなぁ」
うんうんと頷き、鍋の中をのぞき込んだ。
「良くわからんけど、美味しそう」
「でっしょ。ボルシチよん」
「ボルシチ……ってロシア料理……と思わせてウクライナ料理なんやっけ」
もう何年も続いている戦争がきっかけで、私たちはそれを知った。悲しいきっかけではあるけれど、自国の伝統料理が他国のものと思われるのは、それこそ悲しいので、知ることができて良かった。
「テレビでやってて、思ったより簡単そうだったから、メモしてたんだよね。外出たら秋全盛期だったから、秋冬の食べ物にしようかと思って」
「ええね。何かやることある?」
「それが、そろそろ煮込みの時間だから、私もやることがなくなる」
「なるほど。それやったら、猫と遊ぶか」
「それが一番」
煮込み時間は50分。野菜をカットだけ先にしておき、すでに猫と遊び始めている春香に混ざった。
カシャカシャブンブンという猫のおもちゃを手に、参戦する。これがあるだけで、私は猫たちの人気者になれるのだ。
「それ出されたら負けや。高いおもちゃよりも、それが好きやもんなぁ」
大興奮の猫たちと夢中で遊んでいるうちに、タイマーが鳴った。新品のカシャカシャブンブンは、すっかりボロボロに──実のところ、遊び初めて数分で一本目はお釈迦になったのだけれど。
「はい、今日はおしまい」
そう言えば、すでに飽きて寝ていたミヤは体を起こし、こちらを見る。リリはまだ遊び足りないらしく不満気だ。
手を洗い調理に戻る。煮た後の肉を一度取り出し、今度はお酢、お塩を加えたその煮汁に野菜を入れて煮込む。
「タマネギに何かついとる?」
「ああ、クローブ。テレビで、こうやって挿しておけば行方不明にならないって言ってたの」
「行方不明になったらあかん?」
「盛り付け前に排除するから」
「理解」
タイマーをセットする。今度は20分だ。時間はかかるけど、調理としては特に難しいことはなにもない。
「あ、そこに置いてある取り出したお肉、カットしてもらっても良い?」
「そう言えば、ボルシチってビーツとか入れるんやないの」
柔らかくなった肉は、揺れて揺れてうまく切るのに少し手がかかるようだ。口をツンと尖らせている。
「トマトケチャップで代用していいみたい。ビーツってオシャレカフェで扱うイメージだよね」
「黒板がある店やろ」
「そうそれそれ」
タイマーが鳴ったので、切ってもらった肉を戻す。そこへトマトケチャップを30グラム入れると、一気に煮汁が赤く染まる。味見をして塩胡椒で調えれば完成だ。
「っ、美味しい」
味見をしてみれば、想像以上に美味しい。肉の旨味と野菜の甘味に、トマトの酸味が効いているのだろう。これは早く食べたい。
指でオーケーマークを作れば、春香は素早くテーブルをセッティングした。
匂いに釣られたのか、リリとミヤが足下にまとわりつく。
「んー、お腹空いたの?」
「灯、騙されたらあかん。さっきカリカリ食べたばっかりや」
「危ない」
うちの猫は演技派なのだ。
お皿に盛り付け、フランスパンを添える。
「これ、オープンしたばっかりのあそこのパンやね」
「そうそう。こないだ食べたときに美味しかったから、今日はちょっと奮発しちゃった」
ボルシチにフランスパン。位置的には、固い黒パンやライ麦パンとかの方が正解なのかもしれないけれど。
「野菜たっぷりでええなぁ」
「ほんと。お肉もほろほろ」
胃の中に流れ込んだボルシチは、いろんな不安を横においておけるほど、美味しかった。