結局、先週は1回も先生の顔、見られなかったな

 校舎裏のフェンスにもたれて見上げる2階の端、化学室の窓。窓を閉める時にチラリと覗かせる顔を守羽は思い浮かべた。
 眼鏡をかけた白衣姿。形の良い後頭部ときちんと整えた襟足。いつも伏し目がちにして授業をしているのに時々、脱線して話すときの夢中になる顔。女子生徒に人気があるくせに彼女らの話をつまらなそうに聞いている姿。試験管を繊細に持ち上げる手つき。化学室の後片付けを手伝う守羽に、一口チョコをくれる時の笑顔。スケッチをしている守羽を見つけると目元を緩ませ白衣のポケットに突っ込んでいる手を出して小さく胸の前に挙げて見せる細い指。
 何もかもをスケッチブックに描き写せるほど目に焼き付けてある。
 
 今日こそは絶対に(かがり)先生の顔が見たい

 恐る恐る校舎の陰から裏手を覗くと今日は誰もおらず、いつもの場所が空いていた。木陰に座り込んでフェンスにもたれかかり、ようやく、ふぅ、と息をつく。昨日もまた夏向がいて顔を見ることができなかったが、今日は大丈夫なようだ。本校舎から吹奏楽部が音合わせをしている音が遠く聴こえてきて、守羽の静かな日常が戻ってくる気配に安心しスケッチブックと鉛筆を取り出した。
「おっ、守羽。やっぱいた」
という夏向の声が聞こえて、守羽はビクリと体を震わせた。

 なんだよ、コイツ、勘弁してよ

 強張った顔を上げると、ニコニコと人懐こい笑顔で夏向が近づいてくる。
「昨日、話があるって言ったのに、1人でさっさと行っちゃうからさ。ここに来れば会えると思って。はい」
 こちらの様子も気にせず、隣に座ってオレンジジュースを差し出してきた。
「・・どうも」
 今さら逃げ出すこともできずに仕方なく、ジュースのパックを受け取った。 昨日、あれだけ言ったのにまるで何もなかったかのような顔だ。

 しかもいつのまにか下の名前、呼び捨てになってるし
 
 守羽は少し棘のある言い方で
「あのさ、大井戸君、練習行かなくていいんですか?」
と訊いた。
 
 どうして放っておいてくれないんだろう?

 おおかた心臓の話を聞いて可哀想に、とか思って同情しているのだろう、と守羽はうんざりとした気分になる。
「んー?行くけど。まだ平気です」
 夏向は呑気に牛乳を飲んでいる。
「あのさ、昨日も言ったけど、もう、大丈夫だから」
「そっか。良かった」
 全く伝わってない様子が守羽をイラつかせる。
「だからさ、あの」

 もう僕に構わないで下さい

 そう強く言おうとした瞬間
「なぁ、スケッチブック見せて」
と夏向が先に言葉を発した。
「え?」
「それ、見たい」
 夏向がひざの上のスケッチブックを指さす。
「は?ダメだよ」
 
 絶対に誰にも見せられない。ページには篝先生の姿がいくつも描いてあるのに

「え、なんで。守羽、すげぇ絵上手いのに。いいじゃん、見せてよ」
 夏向が無邪気な笑顔で笑いかけてくる。
 
 何、勝手なこと言ってんの、コイツ。マジで無神経

「嫌だっつってんじゃんっ」
 隠そうとしたスケッチブックを一瞬早く、夏向の手が取りあげて立ち上がった。へへ、と楽しそうに笑うとパラリと表紙をめくる。「ヤメてっ!」
 守羽が飛びつくと夏向は長い手を上に伸ばしてスケッチブックをうんと高くまで上げた。パサパサとページが開く。
 
 お願い、見ないで

 守羽は夏向の大きな体にしがみついて必死で手を伸ばした。10センチ以上は高い夏向の手の先には全然届かない。パラパラとめくれたページにいくつもの篝の顔が揺れた。
「見るなっ」
 守羽は湿った声で叫んだ。夏向がさっきまでの楽しそうな顔とは打って変わった真剣な顔でページをじっと食い入るように見ている。
「これ・・」
 夏向の日に焼けて鍛えられた腕を思い切り引っ張ると、ようやく手を降ろした。その手からスケッチブックをもぎとる。
「守羽、篝のこと、好きなの?」
 夏向が強く光る瞳で守羽を見た。

 今度は何?軽蔑?嫌悪?それとも気持ちが悪い?

 そう思うと守羽は猛烈に腹が立って叫んだ。
「何様なんだよ。何でも勝手にそうやってっ。大井戸君、人気者だから何やってもいいわけ?何やっても許されるのかよっ」
「え?ちがっ、そんな。そんなつもりっ」
「渡貫君?どうした?平気か?大井戸君、何してるのっ」
 その時、上の方から声が聞こえた。見上げると、篝が2階の窓から身を乗り出してこちらを見ている。
「篝せんせ・・」
 守羽はカッと顔が熱くなって涙が零れそうになり、カバンをひっつかむと夏向に背を向け早足で歩き出した。
「守羽、シュウッ」
「大井戸君、待ちなさい」
 篝が夏向を呼び止める声を背中で聞きながら守羽は逃げるように遠ざかった。

 最悪、最悪、最悪。篝先生に大井戸君といるところを見られた
 全部聞かれた?しかも大井戸君に篝先生への気持ちを知られてしまった
 どうしよう、大井戸君が全部、篝先生に話したら?
 もう篝先生の顔、見られない、二度とあの場所に行けない、どうしよう

 スケッチブックを見たときの夏向の顔が頭にチラつく。守羽はこの世の終わりのような絶望的な気分で家に帰り、ベッドにドサリと寝転んだ。先週、夏向に遭遇してから、ひどい目にばかりあっている気がしてくる。

 何で放っておいてくれないんだろう

 一人で静かに生きていたいだけなのに、と守羽は枕に顔を押し付けた。どんなに静かに過ごしていても人に絡まれることは時々ある。それは同情だったり、親切心だったり、心配だったり、悪意だったり、軽蔑だったり、ただ、楽しいから・・だったり。

 それも全部、うまくやり過ごすことができるようになってきたと思ったのに
 今日の大井戸君は楽しそうで、・・嫌だった
 
 夏向はノロノロと体を起こして、はぁ、とため息をついた。
 
 違う、大井戸君のせいじゃない、自分のせいだ。最近、調子が良かったから油断してた自分が悪い
 あの時、グラウンドを通ったから。誰も見ていないと思ってスケッチブックに好きな人の顔なんて描いたから
 全部油断していた自分のせい

 守羽はカバンからスケッチブックを取り出すと、綴じてあるページを一枚ずつ引きちぎって細かく破りゴミ箱に投げ入れた。次のページも、その次も。篝を描いたページを全て破いて捨てたゴミ箱の袋を取り出し、ギュッと固く口を縛った。