退院した次の日も学校を休むとそのまま週末になってしまい、週明けの月曜日に久しぶりに学校に行ったが、クラスは特に何も変わりはなかった。誰も気にも留めておらず、守羽(しゅう)が休んでいたことも知らないかのようだ。

 まぁ、当たり前なんだけど。僕がいなくても世界は回っているんだな

 そのことに寂しさよりも少し感動のような、畏怖(いふ)のようなものを感じる。いつものように1人静かに教室で無事に1日を過ごすと、急いで教室を出た。

 今日は絶対、顔、見たい

 守羽は真っすぐ第2校舎裏へと向かう。校舎の角を曲がるといつもの自分の座っている場所にジャージ姿の夏向(かなた)がいるのが目に入り、ギクリと足を止めた。

 しまった

 お礼を言いに行くのを今まですっかり忘れていた。

 どうしよう

 一瞬迷って、引き返そうとした守羽の足音に顔を上げた夏向と目が合ってしまう。
「シュウッ」
 大声を出してこちらに駆け寄って来た。
「ああ、大井戸(おおいど)君」
 夏向の体から発せられる力強い生命力のようなものに気圧されて思わず身を(すく)めた。同じ高校生、いや、同じ人間とは思えない程の違いに守羽は憎しみと言っていいほどの強烈な嫉妬が沸きあがる。
「守羽、大丈夫だった?」
 逃がすもんか、というように大きな手でがっしりと腕を掴まれその手の平の熱さに(おのの)いた。
「あ、うん。大丈夫。あの、もしかして、あの時、大井戸君が病院まで付き添ってくれたのかな」
 夏向の手から逃れようともがきなから守羽は訊いた。
「付き添いっていうか。カバン持って先生と一緒に行っただけだよ」
「あ、どうもありがとう。すみません、迷惑をおかけして」
 そう言って頭を下げた守羽の腕を夏向がようやく離した。
「すみませんって。迷惑とか、別にそんな。ちょっと驚いたから。守羽、顔色おかしくなって、息止まったみたいに見えて。あの後、学校休んじゃうし心配で」
「え?心配?」

 何で?クラスの誰も心配なんてしてなかった
 なんなら、ボールをぶつけた本人ですらきっともう忘れている
 なのに大井戸君が心配?

「え?そりゃあ、だって。あんな・・」
 驚いた顔で夏向も守羽を見る。
「ああ、そうだよね。ごめんね、びっくりさせて。僕の母親のことも、びっくりしたでしょ」
「あ、いや、別に。その、でも守羽どっか悪いんかなって。なんか普通じゃない感じだったから」
 夏向が言い淀む。

 普通じゃない感じって?

と嫌な気持ちになる。
「ああ、うん。小さい頃からちょっと心臓が弱くて」
 守羽の言葉に夏向がえっ、と小さく声をあげた。
「あ、でも、全然、今は普通に生活できる。激しい運動とかはしないようにしてるけど、大丈夫。こないだはボールが胸に強く当たったからあんなことになっちゃったけど、ほんとに、平気」
 守羽は慌てて言った。
「母親が心配性で、いつも過剰に反応しちゃうんだよ。もしかしてめちゃくちゃ泣いてた?普通じゃないよね。でも気にしないで」
 早口で話す言い訳めいた言葉に
「いや、気にするだろ。あんな守羽の姿、見たら。お母さん、泣くの当たり前だと思う」
と夏向が強い口調で答え守羽は黙り込んだ。
「だって、怖かったよ、俺。だから守羽のお母さんも、めちゃめちゃ怖くて泣いちゃうの当たり前だと思うけど」
 真っすぐに守羽を見ながら夏向が言った。
「そんな」

 僕のせいで怖い思いをしたって言いたいの?

 胸がチリチリと不快感でいっぱいになって思わず自分のシャツの首元を掴んだ。
「あ、大丈夫?痛むんか?」
 その言葉に守羽は無性に腹が立ってきた。
「大丈夫だって言ってんじゃん。普通に生活してるし。ボールが胸に当たるなんて、たまたまの事故みたいなもんなんだから、しょうがないだろっ」
 守羽は後ずさった。
「とにかく、付き添ってくれてありがとう。迷惑かけてごめんなさい。もう、心配ないから。僕に構わないでもらえるかな」
 
 なんなんだよ、勝手に付き添って、勝手に怖がって、勝手に心配して
 人の母親のことをわかったふうな口ぶりで、無神経な奴

「別に、構うとかじゃないだろ。ただ、あの時、守羽が・・」
「僕が何?死にそうだった?」
「え?あ、いや、その・・」
「何だよ、言えば?」
 夏向は困ったような顔で見つめ返してくる。

 なんだか、ものすごくイライラする
 嫌だ、こんな気持ちになりたくないのに

「言えよっ、僕が死にそうに見えたって」
「シュウッ」
「僕だって、こんな体になりたくなかったよっ。大井戸君みたいに丈夫で、強くなりたかった。思いっきり走って、思いっきり笑って。お母さんだって、あんなに泣かしたくなかったっ」
「守羽っ。どうした?お母さんと何かあった?」
 守羽はハッと口を(つぐ)んだ。つい余計なことを口走ってしまった。
「何でもない。大井戸君と話してると、イライラするっ」
 夏向の存在に激しく感情を揺さぶられ、言いたくない言葉が(こぼ)れてしまう。半ば叫ぶように言うと守羽は夏向に背を向けた。こんな時に素早く走り去れないのが悔しい。
「シュウッ、待てっ」
 夏向が追いかけてきて手首を掴むと、目の前に立ち塞がった。
「待ってって。俺、守羽に話したいこと・・」
 夏向の分厚い胸板で視界がいっぱいになる。守羽はきつく目を閉じて喉の奥に込み上げる熱い塊をグッと飲み込むと、拳で口元を拭った。
「大井戸君みたいな人が話しするような奴じゃないから、僕。手、離して」
「え?それ、どういう・・?」
「大井戸君、練習、行けば?彼女が呼んでる」
 グラウンドから夏向の彼女だと噂されている陸上部のマネージャーが長い髪を揺らしながらこちらに走ってくるのを視界の端に捉え、守羽は掴まれている手を引っ込めた。
「え?」
 夏向がグラウンドを振り返った隙に脇をすり抜け歩き出した。
「ナツー?そろそろアップ、始めて下さーい」
「あー。今、行く」
 2人の会話を背中で聞きながら守羽はできる限りの早足でその場から遠ざかった。