目が覚めると病院のベッドに寝ていた。
「シュウちゃん?」
 ベッドの横で母親が泣いている。

 ああ、またか

「お母さん?」
 守羽は(かす)れた声で母親を呼ぶとその手を握った。
「ごめんね、びっくりさせて」
 ゆっくりと起き上がると自分でベッドの脇のナースコールのボタンを押す。しばらくすると小さい頃からずっと主治医をしてくれている珠海(たまみ)医師が顔を出した。
「お、守羽君、目が覚めたね」
 ニッと歯を見せて大らかに笑う顔にほっとして
「先生、ご無沙汰です」
と守羽も口に被せられている酸素マスクを外して笑い返した。
「うん、顔色、良くなった。久々の発作だったね」
「はい、ちょっと不測の事故で避けられませんでした」
「野球のボールが強く胸に当たっちゃったみたいだね。健康な人でも不整脈起こすことあるから結構、怖いんだ。付き添ってきてくれたお友達が説明してくれて助かった。すいぶん心配してたけど、仲良いの?」
「友達?付き添いって?学校の先生じゃなくて?」
「うん。先生もいたけど、ジャージ着た生徒さんも一人。背が高くてがっしりした。でっかい体縮めて守羽君のカバン、抱きかかえてたけど」
 その姿を思い出したのか少し笑いながら言う。

 背が高くてがっしり・・?もしかして大井戸君?

「友達ではない、です」
「え?そうなの?ずいぶん心配してたから仲良いのかと思った。すごい体格だね、彼。高校生とは思えない体つきで驚いた」
「ああ、棒高跳びの選手で学校の人気者です。2年でインハイ出場するようなすごい人」
 へぇ、と言いながら珠海医師が聴診器で胸の音を聴き、うん、大丈夫だね、と頷く。
「ちょっと球が当たったところも見せて」
 珠海医師が胸に張り付けてある湿布薬を剥がした。
「うわ」
 丸く紫色のあざになっていて、ぽっこりとふくらんでいる。肌を軽く押されて
「いてっ」
と思わず体を引いた。母親がヒッと小さく声を上げる。
「ああ、ごめん、大丈夫だよ。心配しないで」
 守羽は慌てて母親に言った。
「良かったねー、顔に当たらなくて。顔に当たってたら、守羽君のお母さん譲りの美貌、台無しになるとこだった」
 珠海医師も母親に笑顔を向けると新しい湿布薬を素早く張り直し、入院着の前を閉じた。
「よし、今日は少し検査して、何もなければ明日、退院できると思うよ」
「はい、ありがとうございます。お母さん、僕、喉渇いたな。何か買いに行こっか」
 守羽はゆっくりとベッドから出ると、母親を連れて廊下に出た。
「守羽君、お母さん、こんにちは」
「こんにちは」
 顔見知りの看護師と挨拶を交わす。
「お母さんは何にする?」
 守羽は母親に聞いた。
「シュウちゃんと同じのでいい」
 守羽はカフェオレを二つ買って、一つを母親に手渡した。
「ごめんね、びっくりさせちゃって」
「ううん、お母さんこそ、ごめんなさい」
 グズグズとハンカチで鼻を押さえながら母親は答えた。
「お母さん、僕に付き添ってきてくれた友達見た?覚えてる?」
「お友達?そんな人、いた?」
「覚えてないならいいよ」
 きっと母親は泣きじゃくっていて、何も覚えていないんだろう。昨日から泣き続けてろくに眠ってもいないはずだ。

 今度会ったら、付き添ってくれたお礼、言わなくちゃ

 いくつか説明もしなくては、と思うと少し憂鬱になる。守羽の心臓は生まれつき肺に向かう血管が少し狭い。子供の頃は入院や運動制限もあって嫌な思いもしたが、成長するにつれてずいぶんとましになった。今は無理さえしなければ日常生活は問題なく送れる。疲れやすかったり、息苦しく感じることはあっても、昨日のような失神までしてしまうことは最近ではずいぶんまれだったからすっかり油断していた。
「守羽君、検査始めたいんだけどいいかな」
 珠海医師に呼ばれて
「はい」
と守羽は立ち上がった。
「じゃあ行くね。お母さんはもう家に帰っていいよ。昨日あんまり寝てないでしょ?明日の朝、着替え、持ってきてくれる?」
 母親に話しかけると
「でも・・」
と不安げな顔で見上げてきた。
「大丈夫ですよ、守羽君、検査で今日は一日お部屋に戻ってきませんし」
 母親の隣に座って話しかける顔見知りの看護士に少し頭を下げ、守羽は珠海医師の後ろについて行った。
「お母さんも久しぶりで驚いただけだよ」
 珠海が明るく言う。
「そうですね。最近はあまり泣かせずに済んでたんでちょっと油断してました」
 守羽も努めて明るくそう答えた。
 守羽のイメージの中の母親はいつも泣いている。自分が泣かしているのだと思うと心苦しい。母親は小さい頃から守羽の体の事を気にして泣いていた。運動が皆と同じようにできないと言っては泣き、顔色が悪いと言っては泣き、呼吸困難などを起こそうものなら、自分が呼吸できなくなるほど泣き、最後に必ず「ごめんね、シュウちゃん。丈夫に産んであげられなくて。」と言って泣いた。そんな母親を見るのが守羽は自分の体のことよりも辛かった。

 もうなるべくグラウンドは通らないようにしよう。自分で自分のことは気をつけなくちゃ
 
 そう思いながら守羽は検査台に上がった。