放課後、いつもの場所で守羽(しゅう)はスケッチブックを開いて鉛筆を走らせていた。高校2年になっても相変わらず誰ともつるまず第2校舎の裏側で1人、フェンスにもたれて絵を描いている。この場所は滅多に人が通らず静かで、とても居心地が良い。守羽は放課後の部活動の時間にはほとんど毎日、ここに来ていた。
 美術部に所属はしているが、部室にはたまに大きな作品を制作したりコンテストに応募する時に顔を出す程度だ。美術大学を目指している守羽は、美大受験のための予備校に週末通っていて専門的な指導はそこでしてもらっているし、適当な友達作りをする気もさらさらないのでそれで十分だ。
 生まれつき心臓が少し悪い守羽は小さい頃、激しい運動や遊びができずあまり周りの友達と一緒に騒いだりすることができなかった。何事もゆっくりと行動しなくてはならず、周りの子供達と同じペースで活動することができない。皆に迷惑をかけるのが嫌で自然と1人で行動するようになり、今では1人でいるほうが気が楽になってしまった。
 高校生ともなると「絵の上手い静かな子」というキャラも周りに認知され、こうしてスケッチブックを開いていると誰も守羽の存在など認識しなくなる。色素の薄いオレンジがかった茶色い癖のある髪で同じくオレンジがかった琥珀(アンバー)色の瞳を隠し、顔を伏せてスケッチブックに向かっていれば守羽の世界は大抵、平和に保たれた。
 そして守羽にはここに来る誰にも言えないもう1つの理由があった。

 今日は顔、見られるかな

 鉛筆を動かす手を止めスケッチブックを閉じると、2階の端の開いている窓を見上げる。

 (かがり)先生、何してるんだろ。実験器具とか洗ってんのかな

 男性にしては細い指先を思い出し、はぁ、と切なくため息を(こぼ)したその時
「昨日はびっくりさせて悪かったな」
とオレンジジュースのパックが校舎を見上げて妄想に浸っている守羽の目の前に差し出された。
「えっ?僕?」
 昨日、2メートルはありそうなフェンスを軽々と飛び越えて走り去って行った生徒が今日はジャージ姿で守羽を覗き込み、紙パックを差し出している。

 何?なんで?

 突然の視界への乱入者に頭の中まで覗かれたような気がして軽くパニックになりながら手を伸ばしジュースを受け取った。
「昨日、大丈夫だった?」
 そう言いながら牛乳のパックを手に守羽の隣に当然のように腰を下ろす。
「2組の渡貫(わたぬき)、だろ?」
 守羽は驚いて隣の顔を見た。
「あ、え?僕の名前、知ってるの?」

 なんで?なんか怖い

「うん、いっつもここで絵、描いてるよな」
「あー、まぁ」
 警戒しながら紙パックにストローを差す。
 
 同じクラスでもなければ、1度も話したこともないのに

「俺の名前は?知ってる?」
「・・大井戸(おおいど)君」
「お?知ってた?」
「大井戸君は有名だから。みんな知ってます」
 そう言って守羽は右手の本校舎を指差した。校舎の屋上から大きな懸垂幕がかかっている。
『インターハイ出場決定 棒高跳び 二年一組 大井戸 夏向』
「ああ。そうそう、あれ、俺」
 夏向は守羽に人懐っこい笑顔を向けた。
「・・うん」

 だから、みんな知ってるってば

 わざわざそんなことを言いに来たのか、と守羽は少しイラついた。
「下の名前は?あれ、何て読むか分かる?」
「下の名前?いや、えーと、なつ・・むき?」
 夏向が飲んでいた牛乳をブフッと吹き出した。
「あ・・、ごめん、えっと、違う・・よね」
 守羽が慌ててポケットから出したハンカチを夏向は首を振って断り、グイと手の平で口元を(こす)った。
「なつむきって。そう呼んだ奴、渡貫が初めて」
 そう言うと肩を揺らして笑い始めた。恥ずかしさに守羽の顔が熱くなる。
「かなた。おおいどかなた、です」
「あ、ああ、そっか、かなた・・。みんながナツって呼んでるから、ナツなんとか、かと思って」
 ボソボソと言い訳のように小声で話す赤い顔の守羽を夏向(かなた)は見た。
「渡貫はシュウだよな」
「え?あ、うん。知ってるの?」
「守る羽って書いてシュウだろ?すげーいい名前」
「そうかな。ってか、何で知ってるの?」
「うん?俺にも羽があったら、もっと高く跳べるかなーって思ってさ、いいなって思って覚えてた」
 そう言いながら、うーんと背伸びをすると夏向は立ち上がった。
「悪い、また邪魔しちゃった。じゃ、俺、練習あるから、行くわ。またな」
 そう言って、夏向はグラウンドに駆けて行く。
 
 何だ、今の?答えになってないし

 守羽はあっけに取られて、走り去って行く夏向の背中を見送った。
 大井戸夏向は有名な生徒だ。陸上部の棒高跳びの選手で、1年生の時から競技会の入賞常連者として目立っていた。2年生の今年はすでにインターハイに出場が決定し、地元新聞にも取り上げられたりしてますます注目を浴びている。
 背が高く、がっちりとした肩と長い手足。綺麗に鍛えられた分厚い胸板と逞しい腕は高校生とは思えぬ体格だ。その恵まれた身体を生かして高く跳ぶ姿はまるで空を飛んでいるみたいに見える、と評判ですでに体育大学からスカウトが視察にきている。その上、人懐こく誰とでも気さくに話す性格で男女問わず人気があり、日に焼けた肌に、はっきりとした目鼻立ちと意思の強そうな眉、という顔の良さも相まってファンが大勢ついているらしい。守羽とはこの学校では地球の反対側にいるよりも遠い距離にいる人物だ。
 そんな夏向が、自分のことを知っていることに守羽は驚いた。しかも下の名前まで知っているのは驚きを通り越して少し気味が悪い。 

 あいつ、牛乳飲んでた・・?

 あんなにでかいのにまだでかくなり足りないのかよ、と心の中で軽くディスっていると、オレンジジュースのパックからポタリと雫がスケッチブックの上に落ちた。慌ててハンカチで拭い、ハッと思い出して校舎を見上げると2階の窓はいつの間にか閉まっている。

 ああ、見逃した

 守羽はがっかりと肩を落としてスケッチブックをカバンに突っ込み、立ち上がった。

 明日は雨の予報なのに

 昨日も夏向の脱走騒ぎで見逃し、今日も夏向が話しかけてきたせいで見逃した。

 なんなんだよ

 2日続けて邪魔してきた夏向を恨めしく思いながら、仕方なくグラウンドの端を歩いて校門に向かう。梅雨空で湿気を含んだ不快な空気がどんよりと重く体にまとわりつき、息がしにくい気がして体がだるく、今日はますます気が滅入るカキーン、カキーンと野球部の金属バットが球を打つ音をぼんやりと聞きながら守羽はうつむいてノロノロと歩いた。

 こんな日に運動とかバカじゃないのか。体にそんなに負荷かけて、何が楽しいんだ
 
 守羽は心の中で八つ当たり気味に呟く。その時
「おいっ、よけろっ、危ないっ!」
という叫び声が聞こえた。ビュンッという音がしてドッと守羽の体に重い衝撃が走る。
「っつ」
 守羽は息が詰まって前のめりに倒れた。クッ、クッと喉が締まって息ができず、胸が苦しくなって体を丸めた。
「渡貫っ!」
 名前を呼んで走ってくる足音がする。うぅ、と守羽は小さく呻いた。体が冷たくなってくるのがわかる。
「おいっ、誰か先生呼べっ!」
 誰かの大きくて温かい手が肩を包んだ。
「渡貫っ!シュウッ!しっかりっ、息しろっ」
 その声を聞きながら守羽の意識は遠のいていった。