「さあ、準備できたよ!」
ばあちゃんの威勢のいい声が響くと仏間の扉が開く。入ってきた時乃と神崎の姿を見て、色々と考えていた言葉は全部どこかに飛んで行ってしまった。二人はばあちゃんが着付けた浴衣を身に纏っていた。時乃の浴衣は白地に赤い花が咲いていて、神崎の浴衣は青い夜空に新月が彩られている。
「じっと見てないで、何か言いなさいよ」
時乃の言葉でハッと我に返る。
「えっと。綺麗、です」
相手は見慣れた時乃と神崎なのに、どうしてもしどろもどろとなってしまう。髪までしっかりとセットされた二人はなんだかいつもよりずっと大人びて見えて、上手く顔を見ることが出来ない。それに、自分の心臓の音がこれでもかとうるさかった。一応中身は三十年以上生きてきているはずなのに、すっかり精神は高校生に戻っていた。いや、今の高校生ならこういうときもっと上手く答えるのかもしれないけどさ。
俺の答えに二人は顔を見合わせて、同時にぷっと吹き出した。そこに被せるようにばあちゃんのため息が聞こえてくる。
「情けないねえ。じいちゃんがあたしを口説いた時はもっとこう、積極的にね」
「うるせえ」
このままだといつまでもからかわれ続けそうで、逃げるようにばあちゃんの家を後にする。
日は西に沈みかけて、黄昏時の太陽は夏の強さを少し和らげていたけど、まだまだ世界のあちこちが熱を帯びている。
そんな夏の世界を時乃と神崎と三人で歩いていると、少しだけ不思議な気持ちに包まれる。神崎が元居た世界も、それから派生した俺が元居た世界でも、この三人が夏の空の下を一緒に歩くことはなかった。そんな世界を今は当然のように歩んでいる。
「せっかくの夏祭りなんだから、翔太も浴衣着ればよかったのに」
「いいよ、俺は。そういうの似合わないから」
「でもさー。宮入くんは私たちの浴衣を見れるのに、私たちはいつもの宮入くんしか見れないのは不公平じゃない?」
「俺の浴衣なんて見てもしょうがないだろ……」
ぶーぶー文句を言い続ける二人だけど、夏の夕暮れを歩く姿はこの瞬間を満喫しているようだった。その二人の一歩前を歩きながら小さく息をつく。別に俺だって浴衣を着てもよかったのだけど、そういう雰囲気になることに少しだけビビってしまっていた。せっかく手が届いたこの平穏な時間を、今はまだこのまま味わっていたい、なんて。
「でも、石川先生もいいとこあるじゃん。わざわざ休みの日にお祭りの会場まで車で送ってくれるなんて」
今日はこの後、永尾高校の校門で筑後と合流して石川先生の車で街の方で開催される夏祭りに向かうことになっていた。石川先生は「車で行ったらビールが飲めねえじゃねえか」とかブツブツ言っていたけど、筑後から聞いた話だとわざわざ車を洗ったり準備に余念がなかったらしい。その筑後は筑後で数日前からソワソワとしていて、楽しみにしてるのがあちこちから滲み出していたけれど。
「まあ、石川先生は神崎には逆らえないからな」
「え。まさか香子ちゃん、魔性の女?」
「違うよー。石川先生にはちょっと貸しがあるだけ」
苦笑を浮かべる神崎に時乃は混乱したように首をかしげるけど、ふと足を止めた。
「どうした?」
「やばっ。ばあちゃんの家にカバン忘れた」
「ほら、俺をからかうのに夢中になってるから。まだ時間は余裕あるし、一回戻るか」
「いいよいいよ! すぐ追いつくから二人は先にゆっくり歩いてて!」
「追いつくってまさかお前、その格好で……」
止めようとしたときには時乃は俺たちに背を向けて元来た道を引き返していた。浴衣に下駄という限りなく走るのに向いていないような格好でスイスイと器用に走っていく。その姿はあっという間に遠くなってしまった。
「なんていうか時乃は変わらないな。まあ、とりあえずゆっくり先に行ってるか」
「うん、そうだね」
再び学校に向かって歩き出すのと同時に神崎と手が触れて、指先だけを小さく絡める。途端に気恥しくなって黙って前を見て歩くことにした。でも、数歩も歩かないうちに堪えきれなくなったかのように神崎がくつくつと笑い始める。
「ねえ、どうしよう、宮入君。私たち、中身が三十半ばなんだって思い出したら、こんな風に探り合いながら歩いてるのがなんか急におかしくなってきちゃった」
「色々と台無しだな」
手を離そうとすると、慌てたように神崎の手が追いかけてくる。
「待って待って。私、前の世界の高校時代は勉強ばっかりだったから、こんな風に青春するのが夢だったの」
ズルい。そんなことを言われたら、何も言えなくなってしまう。
また俺たちは指先だけをそっと繋いで夏の黄昏に染まる道を歩き始めた。神崎は少し眩しそうに目を細めて夕日を見つめる。その頬が世界と同じように赤く染まっていた。
「ねえ、宮入君」
「うん?」
「宮入君はこの世界で何をしたいか、もう決めた?」
神崎の視線は夕日よりももっと遠くを見ているようだった。
「まだ、決めてない。これまでずっと一つの目標に向かってダッシュで駆け抜けてきたから、今だけは自由に選べる時間をもう少し堪能しようと思ってる」
「そっか、そうだね。私が元居た世界でも、今の宮入君も“呪い”とずっと向き合い続けて、ようやく解き放たれたんだから肩の力抜かないとね」
神崎の声はどこまでも優しく労わってくれるようだった。神崎の言う通り気がついたときには“呪い”と向き合って、神崎を救うために走り続けてきた。神崎が元居た世界の俺も同じように時乃の為にずっと走りっぱなしだったんだろう。
「神崎は? もう決めたのか?」
「うん。決めたよ」
神崎の言葉は少し意外で、ちょっとだけ置いていかれたような寂しさを感じる。
「私は波動分野のプロフェッショナルになる」
「それ、前と同じじゃないのか? 神崎なら他にもいろんな道があると思うけど」
「そうなんだけどね。私が元居た世界の宮入博士とか、宮入君をこの世界に送り出してくれた時乃ちゃんと筑後君とか。そう言った人たちに、ちゃんと貴方達が救いたい人たちを救うことが出来たって教えてあげたいなあって」
俺たちが今歩いている世界は、俺たちだけの力で選び取ることが出来た世界ではなくて。それぞれ願いを込めて送り出してきてくれた人たちがいたから、俺たちはここまでたどり着くことが出来た。
「もう一度、気負うことなく研究の道に進むってのも悪くないかもな」
こっちの世界でも時乃が研究の道に進むかはわからないけど、でも、叶うならば筑後も含めたみんなそれぞれで研究なんてしながら、今みたいに語り合えたら楽しそうだ。それに、ちょっとしたどこかの自分への対抗心で、神崎と一緒に研究をしてみたいって気持ちも正直無視できない程度には抱いてる。
探り合いを続けていた神崎の指が、もう少し踏み込んで絡められる。
「ねえ、宮入君――」
「わわっ! 下駄だと上手く止まれなっ!」
いつの間にか後ろから時乃の声が近づいてきて、するりと神崎の手が離れていった。名残惜しそうに追いかけようとする手をぐっとこらえる。その直後、時乃が走ってきた勢いそのままに背中に飛びついてきた。前に押し出されていきそうになるのをどうにか踏ん張る。
「お前さあ。そんな格好してる時くらい落ち着けよ」
「二人が何か楽しそうに話してるからいけないんじゃん」
それなら三人で一緒に戻ればよかっただろって思ったけど、唇を尖らせる時乃に馬鹿正直にそんなことを言ったら手にしたカバンではたかれるくらいされそうでぐっとこらえる。神崎はそんな俺たちを見てまた楽しそうに笑ってた。
「ねえ、香子ちゃん。何の話してたの?」
「んー。そうだね」
たたっと数歩前に出た神崎がくるっと向き直ると、そのまま俺と時乃の手をとった。俺に向けてどこか意味ありげな笑みを浮かべる。
「いつか宮入君に選択するときがきたら、選んでもらえるように頑張るねって話!」
神崎は俺たちの手を引くと、まだ誰も知らない道の先へと駆け出した。
ばあちゃんの威勢のいい声が響くと仏間の扉が開く。入ってきた時乃と神崎の姿を見て、色々と考えていた言葉は全部どこかに飛んで行ってしまった。二人はばあちゃんが着付けた浴衣を身に纏っていた。時乃の浴衣は白地に赤い花が咲いていて、神崎の浴衣は青い夜空に新月が彩られている。
「じっと見てないで、何か言いなさいよ」
時乃の言葉でハッと我に返る。
「えっと。綺麗、です」
相手は見慣れた時乃と神崎なのに、どうしてもしどろもどろとなってしまう。髪までしっかりとセットされた二人はなんだかいつもよりずっと大人びて見えて、上手く顔を見ることが出来ない。それに、自分の心臓の音がこれでもかとうるさかった。一応中身は三十年以上生きてきているはずなのに、すっかり精神は高校生に戻っていた。いや、今の高校生ならこういうときもっと上手く答えるのかもしれないけどさ。
俺の答えに二人は顔を見合わせて、同時にぷっと吹き出した。そこに被せるようにばあちゃんのため息が聞こえてくる。
「情けないねえ。じいちゃんがあたしを口説いた時はもっとこう、積極的にね」
「うるせえ」
このままだといつまでもからかわれ続けそうで、逃げるようにばあちゃんの家を後にする。
日は西に沈みかけて、黄昏時の太陽は夏の強さを少し和らげていたけど、まだまだ世界のあちこちが熱を帯びている。
そんな夏の世界を時乃と神崎と三人で歩いていると、少しだけ不思議な気持ちに包まれる。神崎が元居た世界も、それから派生した俺が元居た世界でも、この三人が夏の空の下を一緒に歩くことはなかった。そんな世界を今は当然のように歩んでいる。
「せっかくの夏祭りなんだから、翔太も浴衣着ればよかったのに」
「いいよ、俺は。そういうの似合わないから」
「でもさー。宮入くんは私たちの浴衣を見れるのに、私たちはいつもの宮入くんしか見れないのは不公平じゃない?」
「俺の浴衣なんて見てもしょうがないだろ……」
ぶーぶー文句を言い続ける二人だけど、夏の夕暮れを歩く姿はこの瞬間を満喫しているようだった。その二人の一歩前を歩きながら小さく息をつく。別に俺だって浴衣を着てもよかったのだけど、そういう雰囲気になることに少しだけビビってしまっていた。せっかく手が届いたこの平穏な時間を、今はまだこのまま味わっていたい、なんて。
「でも、石川先生もいいとこあるじゃん。わざわざ休みの日にお祭りの会場まで車で送ってくれるなんて」
今日はこの後、永尾高校の校門で筑後と合流して石川先生の車で街の方で開催される夏祭りに向かうことになっていた。石川先生は「車で行ったらビールが飲めねえじゃねえか」とかブツブツ言っていたけど、筑後から聞いた話だとわざわざ車を洗ったり準備に余念がなかったらしい。その筑後は筑後で数日前からソワソワとしていて、楽しみにしてるのがあちこちから滲み出していたけれど。
「まあ、石川先生は神崎には逆らえないからな」
「え。まさか香子ちゃん、魔性の女?」
「違うよー。石川先生にはちょっと貸しがあるだけ」
苦笑を浮かべる神崎に時乃は混乱したように首をかしげるけど、ふと足を止めた。
「どうした?」
「やばっ。ばあちゃんの家にカバン忘れた」
「ほら、俺をからかうのに夢中になってるから。まだ時間は余裕あるし、一回戻るか」
「いいよいいよ! すぐ追いつくから二人は先にゆっくり歩いてて!」
「追いつくってまさかお前、その格好で……」
止めようとしたときには時乃は俺たちに背を向けて元来た道を引き返していた。浴衣に下駄という限りなく走るのに向いていないような格好でスイスイと器用に走っていく。その姿はあっという間に遠くなってしまった。
「なんていうか時乃は変わらないな。まあ、とりあえずゆっくり先に行ってるか」
「うん、そうだね」
再び学校に向かって歩き出すのと同時に神崎と手が触れて、指先だけを小さく絡める。途端に気恥しくなって黙って前を見て歩くことにした。でも、数歩も歩かないうちに堪えきれなくなったかのように神崎がくつくつと笑い始める。
「ねえ、どうしよう、宮入君。私たち、中身が三十半ばなんだって思い出したら、こんな風に探り合いながら歩いてるのがなんか急におかしくなってきちゃった」
「色々と台無しだな」
手を離そうとすると、慌てたように神崎の手が追いかけてくる。
「待って待って。私、前の世界の高校時代は勉強ばっかりだったから、こんな風に青春するのが夢だったの」
ズルい。そんなことを言われたら、何も言えなくなってしまう。
また俺たちは指先だけをそっと繋いで夏の黄昏に染まる道を歩き始めた。神崎は少し眩しそうに目を細めて夕日を見つめる。その頬が世界と同じように赤く染まっていた。
「ねえ、宮入君」
「うん?」
「宮入君はこの世界で何をしたいか、もう決めた?」
神崎の視線は夕日よりももっと遠くを見ているようだった。
「まだ、決めてない。これまでずっと一つの目標に向かってダッシュで駆け抜けてきたから、今だけは自由に選べる時間をもう少し堪能しようと思ってる」
「そっか、そうだね。私が元居た世界でも、今の宮入君も“呪い”とずっと向き合い続けて、ようやく解き放たれたんだから肩の力抜かないとね」
神崎の声はどこまでも優しく労わってくれるようだった。神崎の言う通り気がついたときには“呪い”と向き合って、神崎を救うために走り続けてきた。神崎が元居た世界の俺も同じように時乃の為にずっと走りっぱなしだったんだろう。
「神崎は? もう決めたのか?」
「うん。決めたよ」
神崎の言葉は少し意外で、ちょっとだけ置いていかれたような寂しさを感じる。
「私は波動分野のプロフェッショナルになる」
「それ、前と同じじゃないのか? 神崎なら他にもいろんな道があると思うけど」
「そうなんだけどね。私が元居た世界の宮入博士とか、宮入君をこの世界に送り出してくれた時乃ちゃんと筑後君とか。そう言った人たちに、ちゃんと貴方達が救いたい人たちを救うことが出来たって教えてあげたいなあって」
俺たちが今歩いている世界は、俺たちだけの力で選び取ることが出来た世界ではなくて。それぞれ願いを込めて送り出してきてくれた人たちがいたから、俺たちはここまでたどり着くことが出来た。
「もう一度、気負うことなく研究の道に進むってのも悪くないかもな」
こっちの世界でも時乃が研究の道に進むかはわからないけど、でも、叶うならば筑後も含めたみんなそれぞれで研究なんてしながら、今みたいに語り合えたら楽しそうだ。それに、ちょっとしたどこかの自分への対抗心で、神崎と一緒に研究をしてみたいって気持ちも正直無視できない程度には抱いてる。
探り合いを続けていた神崎の指が、もう少し踏み込んで絡められる。
「ねえ、宮入君――」
「わわっ! 下駄だと上手く止まれなっ!」
いつの間にか後ろから時乃の声が近づいてきて、するりと神崎の手が離れていった。名残惜しそうに追いかけようとする手をぐっとこらえる。その直後、時乃が走ってきた勢いそのままに背中に飛びついてきた。前に押し出されていきそうになるのをどうにか踏ん張る。
「お前さあ。そんな格好してる時くらい落ち着けよ」
「二人が何か楽しそうに話してるからいけないんじゃん」
それなら三人で一緒に戻ればよかっただろって思ったけど、唇を尖らせる時乃に馬鹿正直にそんなことを言ったら手にしたカバンではたかれるくらいされそうでぐっとこらえる。神崎はそんな俺たちを見てまた楽しそうに笑ってた。
「ねえ、香子ちゃん。何の話してたの?」
「んー。そうだね」
たたっと数歩前に出た神崎がくるっと向き直ると、そのまま俺と時乃の手をとった。俺に向けてどこか意味ありげな笑みを浮かべる。
「いつか宮入君に選択するときがきたら、選んでもらえるように頑張るねって話!」
神崎は俺たちの手を引くと、まだ誰も知らない道の先へと駆け出した。