月を隠す雲も星もすべて一瞬の閃光に、そしてたちどころに反転した闇に打ち払われた。
泉にわずかばかり残っていた水はすべて吹き飛び、水底が剥き出しになっている。
そして光が消えたそこには――ひとりの青年が立っていた。
降りしきる雨を纏った色の髪が風に揺れる。永き眠りから醒めたようにゆっくりと瞼を上げた彼は、祠の前で横たわる少女を認め、その傍らに跪いた。
「ようやく逢えた。我が雨巫女、そして――我が花嫁」
言葉と共に、しっとりした長髪がみちるの頬にしたたる。
それを待っていたかのように、空からひとしずくの雨粒が血に濡れた神剣に吸い込まれていく。それを追ってもうひと粒、ふた粒。
刃に浮かぶ血を洗い流す勢いで降り始めた雨が、みちると青年を覆っていく。
「我の片割れ――縁の水面。そなた以外の波紋が我を揺らすことはない。ようやく巡り逢えたからにはそなたのために雨を呼ぼう。雨はいかなる時も護りぬく」
青年はみちるの頬にかかる髪をよける。枝が掠めてできた傷は雨粒がすべるたびに溶け落ち、力無く投げ出された腕にできた切り傷も、雨が流して癒していく。
「声を……聞かせてくれ」
とろりとした呼びかけと肌をすべる雨の流れに、みちるの睫毛がぴくりと跳ねる。
やがてぽっかりと開いた瞳は、己を覗き込む青年の整ったかんばせに少し見開かれ、青ざめた唇は言葉にならない問いかけで満たされるも、音にならず溶けていく。
「やはり、そなたも同じ目よ」
うっとりとみちるを見下ろす青年の瞳にみちるは驚き、そして悲しげに眉を歪ませた。
片方は満ちていく水面と同じ青色。そしてもう片方は夜を映した闇色。
みちると同じ、青の加護に満たされない瞳だった。
「哀れんでくれるのか、優しい娘。しかし今この時から呪縛は祝福に変わろう。同じ運命を持つそなたと巡り会えたのだ」
青年はみちるに頭を垂れるとその首筋に顔を寄せる。神剣の刃で掻き切らんとした傷口からは赤いものが滲み、流れ出でようとしていた。
「勇敢なことだ。己を斯様に傷つけて我を呼んだか」
途端に首筋に火を当てられたように熱くなる。喉の奥が引き攣れるような悲鳴は、遅れてやってきた湿った水音に掻き消された。
それが己の傷口を舐め上げている音だと理解できないまま、みちるは浅い呼吸を繰り返す。
「そう怯えるな。花嫁に酷いことなどはせぬ……そうだ、まだそなたの口から……名前を聞いていないな」
ぴちゃりぴちゃりとした高い水音の最中に問われ、みちるは悲鳴混じりに声を上げた。
「み、ちる……瑞波、みちる」
「みちる。そう。そうだな。みちるだ」
隠しきれない笑みが吐息となってみちるの肌をくすぐる。それをこそばゆく感じる寸前、青年はぢゅっと音を立てて傷口を強く吸った。
「っあ!?」
みちるの喉が反る。青年は名残惜しげに唇を離すと、みちるの背に腕を回して抱き上げた。
「さて、血も止まった。これで負担なく移動できよう」
歌うような独白に、みちるは首筋に手を遣る。いつもと変わらぬ肌の感触だ。手のひらを見れば神剣を握りしめていた切り傷も、普段から傷つけられていたせいでできた傷も、すべて跡形もなく消えていた。
「これ、は」
「雨はそなたを傷つけない。さてみちる、参ろうか。水底の宮、我らの棲家がそなたを待っている」
途端、ざあ、と雨音が一段と強まった。みちるも青年もずぶ濡れのはずなのに、ちっとも寒さを感じない。雨に打たれる痛さもない。
すっかり雨で底が見えなくなるほど満たされた泉へ足を沈めた青年に、みちるは恐ろしくなって彼の胸元に抱きついた。雨で肌に張りついた着物がくしゃりと皺になる。
「そう怖がらずとも……ま、これはこれで愉しもうか」
「あ、あ、あの」
ふふ、と形の良い唇の両端を上げた青年の歩みを少しでも遅らせたくて、みちるは訳も分からず声を上げた。しかし効果はあったようで、青年はふくらはぎあたりまで浸かった足を止めてみちるを見ている。
「どうした?」
「……あ、あなた、誰なんですか」
「そなたの運命。満つる泉のそのまた下、流れゆくすべてに宿り、司るもの。呼ぶための名前、という意味ならば――天巳と呼ぶがいい」
「あまみ……」
「そう。そなたに呼ばれると愛おしき響きになるものよ」
すっかり濡れて色を濃くした青鈍色の髪と同じ色の瞳で天巳は微笑む。端正なかんばせがほころんで花が散るような音がした。
「さて、名も知ったことだし恐ろしくはなかろう。そのような頼りない縋り方ではなく、もっとしっかりしがみついておくれ」
天巳の視線がみちるの手に落とされる。わずかに浮いた布地だけをつまんでいることを指すのだろう。
みちるはおずおずと腕を伸ばす。天巳の肩に手のひらをぺたりと触れさせれば「もっと」と首を傾けられた。
「し、つれいします」
意を決して、首筋に腕を回して抱きついた。ぎゅうと密着したお互いの体温が布に隔てられていることなどお構い無しに伝わってくる。
「ああ。聞き分けが良くて好ましい」
機嫌を良くした天巳はその場でとんと跳ねた。
泉に沈んでいた足が水面の上に立っている。
「え!?」
「いざ」
天巳の声を合図に雨がけぶってふたりを覆い隠す。幾重にも重ねられた雨の紗の向こうに祠が霞んで見える。祀られた青い石はもう見えない。
まるで雨の檻だ――とおののいたみちるを腕に抱いて、天巳は水底へとぷりと沈んだ。
泉にわずかばかり残っていた水はすべて吹き飛び、水底が剥き出しになっている。
そして光が消えたそこには――ひとりの青年が立っていた。
降りしきる雨を纏った色の髪が風に揺れる。永き眠りから醒めたようにゆっくりと瞼を上げた彼は、祠の前で横たわる少女を認め、その傍らに跪いた。
「ようやく逢えた。我が雨巫女、そして――我が花嫁」
言葉と共に、しっとりした長髪がみちるの頬にしたたる。
それを待っていたかのように、空からひとしずくの雨粒が血に濡れた神剣に吸い込まれていく。それを追ってもうひと粒、ふた粒。
刃に浮かぶ血を洗い流す勢いで降り始めた雨が、みちると青年を覆っていく。
「我の片割れ――縁の水面。そなた以外の波紋が我を揺らすことはない。ようやく巡り逢えたからにはそなたのために雨を呼ぼう。雨はいかなる時も護りぬく」
青年はみちるの頬にかかる髪をよける。枝が掠めてできた傷は雨粒がすべるたびに溶け落ち、力無く投げ出された腕にできた切り傷も、雨が流して癒していく。
「声を……聞かせてくれ」
とろりとした呼びかけと肌をすべる雨の流れに、みちるの睫毛がぴくりと跳ねる。
やがてぽっかりと開いた瞳は、己を覗き込む青年の整ったかんばせに少し見開かれ、青ざめた唇は言葉にならない問いかけで満たされるも、音にならず溶けていく。
「やはり、そなたも同じ目よ」
うっとりとみちるを見下ろす青年の瞳にみちるは驚き、そして悲しげに眉を歪ませた。
片方は満ちていく水面と同じ青色。そしてもう片方は夜を映した闇色。
みちると同じ、青の加護に満たされない瞳だった。
「哀れんでくれるのか、優しい娘。しかし今この時から呪縛は祝福に変わろう。同じ運命を持つそなたと巡り会えたのだ」
青年はみちるに頭を垂れるとその首筋に顔を寄せる。神剣の刃で掻き切らんとした傷口からは赤いものが滲み、流れ出でようとしていた。
「勇敢なことだ。己を斯様に傷つけて我を呼んだか」
途端に首筋に火を当てられたように熱くなる。喉の奥が引き攣れるような悲鳴は、遅れてやってきた湿った水音に掻き消された。
それが己の傷口を舐め上げている音だと理解できないまま、みちるは浅い呼吸を繰り返す。
「そう怯えるな。花嫁に酷いことなどはせぬ……そうだ、まだそなたの口から……名前を聞いていないな」
ぴちゃりぴちゃりとした高い水音の最中に問われ、みちるは悲鳴混じりに声を上げた。
「み、ちる……瑞波、みちる」
「みちる。そう。そうだな。みちるだ」
隠しきれない笑みが吐息となってみちるの肌をくすぐる。それをこそばゆく感じる寸前、青年はぢゅっと音を立てて傷口を強く吸った。
「っあ!?」
みちるの喉が反る。青年は名残惜しげに唇を離すと、みちるの背に腕を回して抱き上げた。
「さて、血も止まった。これで負担なく移動できよう」
歌うような独白に、みちるは首筋に手を遣る。いつもと変わらぬ肌の感触だ。手のひらを見れば神剣を握りしめていた切り傷も、普段から傷つけられていたせいでできた傷も、すべて跡形もなく消えていた。
「これ、は」
「雨はそなたを傷つけない。さてみちる、参ろうか。水底の宮、我らの棲家がそなたを待っている」
途端、ざあ、と雨音が一段と強まった。みちるも青年もずぶ濡れのはずなのに、ちっとも寒さを感じない。雨に打たれる痛さもない。
すっかり雨で底が見えなくなるほど満たされた泉へ足を沈めた青年に、みちるは恐ろしくなって彼の胸元に抱きついた。雨で肌に張りついた着物がくしゃりと皺になる。
「そう怖がらずとも……ま、これはこれで愉しもうか」
「あ、あ、あの」
ふふ、と形の良い唇の両端を上げた青年の歩みを少しでも遅らせたくて、みちるは訳も分からず声を上げた。しかし効果はあったようで、青年はふくらはぎあたりまで浸かった足を止めてみちるを見ている。
「どうした?」
「……あ、あなた、誰なんですか」
「そなたの運命。満つる泉のそのまた下、流れゆくすべてに宿り、司るもの。呼ぶための名前、という意味ならば――天巳と呼ぶがいい」
「あまみ……」
「そう。そなたに呼ばれると愛おしき響きになるものよ」
すっかり濡れて色を濃くした青鈍色の髪と同じ色の瞳で天巳は微笑む。端正なかんばせがほころんで花が散るような音がした。
「さて、名も知ったことだし恐ろしくはなかろう。そのような頼りない縋り方ではなく、もっとしっかりしがみついておくれ」
天巳の視線がみちるの手に落とされる。わずかに浮いた布地だけをつまんでいることを指すのだろう。
みちるはおずおずと腕を伸ばす。天巳の肩に手のひらをぺたりと触れさせれば「もっと」と首を傾けられた。
「し、つれいします」
意を決して、首筋に腕を回して抱きついた。ぎゅうと密着したお互いの体温が布に隔てられていることなどお構い無しに伝わってくる。
「ああ。聞き分けが良くて好ましい」
機嫌を良くした天巳はその場でとんと跳ねた。
泉に沈んでいた足が水面の上に立っている。
「え!?」
「いざ」
天巳の声を合図に雨がけぶってふたりを覆い隠す。幾重にも重ねられた雨の紗の向こうに祠が霞んで見える。祀られた青い石はもう見えない。
まるで雨の檻だ――とおののいたみちるを腕に抱いて、天巳は水底へとぷりと沈んだ。