雨が降っていなかったおかげで土はぬかるんでおらず、走りやすかった。それでも駆けて行く足が土埃を巻き上げずからからにならぬのは、朝露や夜露が土を適度に潤し、葉がその蒸発を防ぐからだろう。
 雨巫女が雨を呼ばずとも、あるがままの有り様で生きている生命が山とある。
 父の教えが耳に蘇った。
 熱くなる胸を抱えた神剣ごと押さえ込み、みちるは枝を避けて駆け続ける。追ってくる男達の怒号を葉が遮っているのか、はたまた彼らが見当違いな所を探しているのか――とにもかくにも耳につくのは自分の呼吸だけになった頃、森の終わりが見えた。
 月明かりに照らされた泉が、みちるを待っていた。
 水かさは変わらず少ない。しかし、人ひとり沈んだところですぐには露見しない深さではあった。
 みちるは泉の淵に沿って祠へ向かう。そこで足首に強い痛みが走って崩れ落ちた。
 
「っつう……」
 
 走っている最中に捻ったのか、はたまた壁に叩きつけられた時に痛めたのか。最早どちらでも良かった。
 痛みを覚えた途端に体じゅうの力が萎えてしまったのか、うまく手足が動かせなくなる。早鐘を打ち続けてきた心臓が喉のあたりで暴れている感覚に咳き込んだら止まらなくなった。
 
「う……」
 
 咳を飲み込み、懸命に立ち上がろうと身を起こせば赤いものがほたりと落ちた。見れば腕の内側やら手のひらやらが引っ掻いたような傷で真っ赤だ。
 抜き身の剣を握りしめて走ってきたのだからあちこちが傷ついているのも当然だった。
 ざり、と泉の淵の意匠を指で掴みながら立ち上がる。足を引き摺りながら祠の前へたどり着く。崩れ落ちるように座り込み、それでもなんとか裾を直すと、昼間と同じく青い御神体が静かにみちるを見据えた。
 
「申し訳、ございません。今代の雨巫女は、お役目を果たせませんでした」
 
 額を地面に擦り付けるように伏す。祠からの答えはもちろん返ってこない。
 何処かで、泉の水面が波打つことを期待していた。叱咤するような冷たい飛沫を。労るような柔らかな雫を。
 だが――風ひとつ吹かぬ森はたまさかの悪戯すら齎してはくれない。
 これこそが祠の答えなのだと認めざるを得ない、凪いだ水面からの無言の宣告を目に焼き付け、みちるは神剣を手に取り刃を首筋に当てた。
 逃げろと言ってくれた父のことを思えば裏切りだが、もうみちるには生きる理由がない。黄泉の国に逃げるのだと思えば少しは気持ちも楽になるだろうか。
 
「……母様、父様には会えましたか。わたしも、そちらへまいります」
 
 全力で駆けて来た体に刃は冷たく、その生命を終わらせようとしている体は熱い。
 
 「……っ」
 
 刃を押し当てる。もっと力を込めて勢いよく引かねばこの生命は終わらない。
 はらはらと揺れては首から逃げようとする刃に手を添えて、歯を食いしばってぐいと引いた。
 熱い。これを感じるということはまだ生きている。
 それでは駄目なのだ。
 みちるはもう一度やり直そうと神剣を膝の上に置いた。改めて見れば、刃の切っ先から柄まで一直線に溝が掘られている。その終点は柄で待ち構える雨龍の大きく開いた口だった。
 生命を丸呑みせんとするその迫力にみちるはすべてを預けるつもりで、静かに刃を押し当て、引いた。
 行きどころを失った血がすうと溝を流れていく。切っ先から柄へ、そして――龍の口が赤く濡れた時。

 空全体が白刃となって、泉を一閃した。