「天巳様……ここは」
 
 屋敷を出て、渡り廊下に入る。ここを使えば雨に濡れることなく外を歩けるのだ。風呂上がりのみちるを気にした天巳の思いやりに気づかぬみちるではない。手を引く天巳に応えてそっと腕に寄り添えば、天巳はみちるの肩に手を添えて歩調を緩めた。
 渡り廊下に沿って歩くと、ちょうどぐるりと庭全体を迂回する形になる。その終点にひっそりと佇む祠に至ると、天巳は中から両手で抱えるほどの大きさをした水盆を取り出した。
 
「我が天上から初めて降りてきた場所だ。ここの水は今に至るまで、映してきたすべてを記憶している」
 
 天巳が小声で何かを呟くと風もないのに水面が揺れる。盆の底と同じ青鈍色だったそれがみるみる薄らいで――覗き込んでいたみちるは咄嗟に口元を覆った。
 
「母様」
 
 記憶の中だけの母が、水底にいる。
 波紋に揺れる面影を母親だと確信を持てたのはいつか神楽殿で舞った時と同じ装束だからだ。そして、手にはあの神剣。恭しく捧げ持ったそれに語りかけているらしい。時折咳き込むせいでぶれる体が忙しく動く唇と共に懐から取り出したものにみちるは見覚えがあった。
 
「玄烏の、羽根……」

 どくん、とみちるの胸が大きく脈打つ。確かに、母が雨巫女でありながら玄烏と通じていた証だった。みちるが胸の前で手を握って見つめる中も、母は何らかの作法に則り手印を結んでいる。そして鞘からすらりと抜け出でた神剣で――撫でるように、一閃。
 羽根の漆黒を吸い込むように染まった刃だが、それも一瞬のことですぐに元の色を取り戻した。
 今のが、玄烏の力を借りて母が成したまじない――なのか。みちるが天巳を見遣ればその意図を汲んで天巳も頷いた。
 
「あの神剣は雨巫女と雨龍を繋ぐもの。そなたの母がそれに干渉したことでこうして水に記憶されている」
「母は……雨巫女としての使命を違えてまで、一体、何を」
 
 かつて、玄烏はそれを天巳への呪いだと言い、最後にはみちるへのまじないと言い換えた。そしてどちらも間違いではないと言う。
 禅問答にも似た謎かけにみちるは頭を悩ませるが、手がかりが少なすぎる中でそう簡単に解けるわけも無い。
 やがて、母は懐から折り畳まれた紙片を取り出す。ばらばらと開いていくそれは経を転読する手つきに似ていた。
 
「あれには……何が書いてあるの」
「しばし待て」
 
 そして、母は再び折り畳んだそれを、泉に浮かべた。急速に水を吸っていくそれは沈む前に水面に四散していく。墨がわずかに水面で黒く滲んだが、染めるには至らずに文字ごと水に溶けていく。
 
「! 消えてしまいます」
「案ずるな。言っただろう。水面に映るすべてを記憶していると」
 
 天巳に応じるように、水面が揺れる。母の姿は波紋と共に消え、水盆の底から黒い煙が細切れに立ち上って形を成していく。懸命に目を凝らすみちるは、その正体に思い至って目を見開いた。
 
「“あ……め”、“申し上げ”……? 文字……? これは今、水に溶けていった文字なのですか!」
 
 天巳は頷いてみちるに水盆から目を離さないように促す。途切れ途切れではあるものの、文字の羅列を追っていけば意味を成すものが多い。
 泡のように底から湧き上がっては水面に至って儚く散る文字の群れを、みちるは懸命に追いかける。
 ひと文字たりとも逃さぬようにと身を乗り出すみちるが崩れ落ちぬようにと、天巳はさりげなく背を支えながら湧きいづる文字の波を共に泳ぐ。
 
「我……むすめ、みちる……は、霊力のいと高きこと甚だし」
「御方に誕生の折より見初められしは、喜ばしきことなれど」
「あふるるばかりの余りたる御……加護、()しからぬ輩に籠絡されるべからず」
 
 読み上げていくみちるの脳裏に分家の面々が浮かぶ。美沙とその父を筆頭とした彼らがこの頃から妙な動きを見せていたことを、母は知っていたのだろう。
 
「愚かな逆心……且つ親心なれど、此処に於いて水の加護を堰き止めることして娘への護りとす」
「娘の血を持って雨龍の御方との繋がりを再び結び」
「娘が心より涙を捧げる時、この封は破るる」
「欠けたる加護を持て余す娘とて慈しみくださるならば、雨龍の御方には花嫁としてお迎えくださりますよう」
「願わくば……みちるが捧げる涙をお受け取りになるのが……雨龍の御方で、ありますことを」

 最後の一筆が盆の底から湧き上がる。それに手を伸ばしたみちるが天巳の制止より一瞬早く水面に触れた。
 波紋ごと弾けた文字がみちるの手の中をすり抜けていく。
 
「あ」
 
 もう一度覗き込んだ水盆の底。そこに映るのは手紙を捧げて空を見上げる母だった。
 水面に映った記憶と、水底を覗く今が、ひと呼吸の間だけ交差した。
 
「   」
 
 咄嗟に呼びかけたみちるの声を吸い込むように水面が青鈍色に沈んでいく。
 凪いだ水面は鏡のように呆然とへたり込むみちるを映すばかりだった。
 
「……みちる」
 
 天巳が呼びかけても答えはない。天巳はそっとみちるを抱き上げて祠を離れ東屋に入った。長椅子に腰掛けた頃にみちるはゆっくり顔を上げる。
 
「……玄烏の言った通りでした。天巳様への呪いであり私へのおまじない。天巳様は……これを、ご存知だったのですね」
「……ああ。そなたにしか解けぬまじないだった。そしてそなたが知らずして解かねばならぬ呪い。だが既に、そなたが解いたのだよ、みちる。その涙で」
 
 天巳はそっとみちるの頬に触れる。指を濡らす雫は雨にはないぬくもりを帯びていた。
 
「そなたが類いまれな霊力の持ち主であったことは僥倖であると同時に、数多の禍を齎す可能性があった。だからこそ母君はそれを封じることで、そなたにとってのまことの幸せをふるいにかけたのだろう」
「父も……何も言いませんでした。おそらく、母が口止めしていたのでしょうか」
「そうだな。下手に明かしてしまっては却って拗れて禍根を残す元だ。そなたの父君は賢明だった」
 
 ぽつりぽつりと思い出を語るみちるがゆっくりと体の力を抜いて天巳に身を預ける。肩に感じるその重みを愛おしげに抱き寄せながら、天巳は幾度も頷いた。
 
「そなたは愛されていたのだ。もう能無し雨巫女などと蔑まれる謂れはないし、己を卑下する必要もない。雨の祝福を受ける我が妻……そなたが欠いてきたものすべて、我が満たそう」
 
 みちるを満たす天巳の腕は揺りかごのようだ。
 幼子を寝かしつけるような、それでいて睦言を囁くような甘い調べはみちるの瞼をも蕩けさせる。
 心地よい声音で降り注ぐ雨の籠に抱かれて、みちるはそっと目を閉じた。