「みちる様、帰ってきた!」
「天巳様、きっと大暴れ」
「烏と恋の鞘当て?」
「鞘がないから鱗と嘴当て?」
「たいへーん」
きゃっきゃと騒ぐ雫ふたりは口々に歌っては飛んで跳ねて回って止まらない。
少し離れていただけなのに懐かしく思えるその仕草に目を細めながら、みちるは長椅子に座る。
「みちる様。はいどうぞ」
恭しく盆を差し出したシノから杯を受け取れば、これも懐かしい柑橘系の香りが鼻腔をくすぐる。天巳が予め用意しておいてくれたのだろう。
「ありがとう」と礼を言ってシノの頭を撫でれば、すぐに恭しさは引っ込んで、見た目の年相応に甘えてくる。
「えへへ、みちる様のなでなで」
「みちる様、シュウにもなでなで!」
片割れが労わってもらっているのを見て羨ましくなったのか、頭突きせんばかりに突進してきたシュウにも同じようにしてやれば、ふたりの雫は顔を見合わせふにゃりと笑う。
「なーでなで」
「みちる様のなーでなで」
「天巳様にはなーいしょ!」
「モチモチ妬きの天巳様にはなーいしょ!」
天巳が聞いたらまた怒り出しそうな二重奏を響かせて、ふたりの雫は盛大に跳ねて姿を消した。
「モチモチ妬きって……ヤキモチのこと?」
ひとり杯を傾け、香りにほうと息をついたみちるの問いに答える者は今いない。
玄烏を見送ってから、天巳に連れられて水底の宮に戻ってきたみちるを迎えたのはもちろんシノとシュウだった。
「会いたかったあ」と涙と鼻水でぐしゃぐしゃの顔を押しつけるように抱きつかれて、天巳の制止も振り切って抱きしめ返したみちるはあっという間にいろいろなものでぐしょ濡れになったのだが、後悔などするはずも無い。
自分をここまで心配し、惜しんでくれる存在がここにいるのだ。この出来事のせいで帰宅後すぐに着替えと湯浴みをする羽目になったのだが、みちるがふたりを叱るはずもなかった。
今、みちるはシノとシュウが用意してくれていた着物に着替えている。白地に藍色で染め抜かれた流線が雨粒の軌跡を描く柄だ。
瞳の色とも良く似合うと言われて改めて鏡を見たみちるは、今も尚、目の前に映るものが信じられずにいる。
机に伏せてあった手鏡を手に取る。鏡の向こうで見つめ返す己の両目は幾度見つめても変わらぬ、鮮やかな縹色だ。
雨巫女として半端な加護しか受けられぬ能無しの証であった、青と黒の瞳。それが今や凪いだ水面を映した色となって彼女を彩っているのだ。
しかし――みちるは何処か浮かぬ表情で手鏡を伏せた。
「具合でも悪いのか」
かけられた声にみちるはぱっと顔を上げて振り返る。同じく湯浴みを済ませてきた天巳が羽織の紐を結わえながら部屋に入ってきたのだ。
シノが用意しておいた杯で軽く喉を潤した天巳はみちるの隣に座る。無言で水を向けられ、みちるはゆっくりと口を開いた。
「いいえ、ただ……」
「ただ?」
「この瞳のことです」
「……完璧な加護を受け継いだ雨巫女である証だろう。何が気に食わぬ」
天巳はぴくりと眉を吊り上げる。
その視線の険しさに気づいていないのか、みちるはふるふると首を振って俯いた。
「天巳様と、お揃いではなくなってしまいました」
「…………は」
流石の天巳も二の句が継げずに固まった。
「初めてお会いした時、この方も同じ瞳をお持ちなのだと勇気づけられるような……苦しさを分かち合えるといいますか、そういった親近感が湧いたのです。なのに、私だけこのように変わってしまったのが寂しくて、その」
天巳の相槌が消えたことに気づいたみちるは、はっと顔を上げて己の発言を掻き消さんばかりに両手を振る。
「す、すみません! 勝手に親近感を抱いたり寂しくなったり……おめでたいことなのだから、もっと明るくしていなくてはなりませんね! シノちゃんとシュウちゃんのお手伝いでもして参りま……」
今度はみちるが固まる番だった。
天巳が、彼女の肩を抱き寄せた。
背を掻き抱き、みちるの薄い肩に顔を埋める。ぐりぐりと頭を押しつける様は先程のシノとシュウにも通じるところがある――などと言ったならたちまち機嫌を損ねそうだ。
「あ、天巳様……」
「すまぬ、顔を見るな」
天巳の髪がくすぐったくてみちるが身を捩ると、天巳はそれを押さえ込む。肌に遊ぶ細かな刺激をうまく逃がせぬままみちるが浅い呼吸を繰り返すと、その吐息に反応した天巳がますますみちるを抱え込んだ。
ここに座る時、いつもそうしてきたようにみちるを己の膝に抱き上げる。裾が割れて足が露わになったみちるが慌てて直そうとするのも構わずに強く抱き寄せた。
「あ、天巳、さまっ。あ、あの、これは……ちょっと」
「……どこまで我を喜ばせたら気が済むのだ」
懸命に膝を合わせていたみちるがその声の弱々しさにはたと動きを止める。
「我に見初められたがために惨い仕打ちを受け、けしからぬ烏に目をつけられ……そなたには幾度謝っても足らぬというに、なにゆえ」
くぐもった呟きに、みちるは彼の背にそっと腕を回す。なめらかな髪をひと筋指を絡ませ、いつも天巳がそうしてくれているように梳いた。
「……天巳様が、私を大切に想ってくださるから。あの時、私を絶望の縁から救い上げてくださったのは天巳様です。確かに辛い思いをたくさんしてきました。大切な人を失いました。けれど……」
みちるは指に残る髪ごと天巳の背を抱きしめる。己の腕では覆えぬ広い背中を精一杯包み込もうとする彼女の献身に、天巳は静かに睫毛を揺らす。
「天巳様が、寄り添ってくださいました。私が寂しくないように、シノちゃんとシュウちゃんを傍においてくださいました。一度は生を諦めた雨を呼べない私がこうして生きているのは天巳様のおかげです」
みちるはそっと背を丸めて天巳に顔を寄せる。額に下りた前髪をそっと掬ってこめかみに唇を寄せた。
「私は貴方様だけの雨巫女です」
そう告げてはにかんだみちるの頬に、天巳はそっと手を伸ばす。包み込むように触れた頬に、自分がされたようにこめかみに、そして儀式めいたそれは順を追って額に。
静かに降るくちづけの雨を、みちるは目を閉じて受け入れる。
そっと目を開けたふたりは互いの瞳に映る己を見る。
愛おしげに蕩ける瞳の温度は変わらずとも、それを纏う色彩は確かに違ってしまった。やはりそれを残念に思うのか悲しげに笑うみちるの手を引いて、天巳は部屋の外に連れ出した。
「天巳様、きっと大暴れ」
「烏と恋の鞘当て?」
「鞘がないから鱗と嘴当て?」
「たいへーん」
きゃっきゃと騒ぐ雫ふたりは口々に歌っては飛んで跳ねて回って止まらない。
少し離れていただけなのに懐かしく思えるその仕草に目を細めながら、みちるは長椅子に座る。
「みちる様。はいどうぞ」
恭しく盆を差し出したシノから杯を受け取れば、これも懐かしい柑橘系の香りが鼻腔をくすぐる。天巳が予め用意しておいてくれたのだろう。
「ありがとう」と礼を言ってシノの頭を撫でれば、すぐに恭しさは引っ込んで、見た目の年相応に甘えてくる。
「えへへ、みちる様のなでなで」
「みちる様、シュウにもなでなで!」
片割れが労わってもらっているのを見て羨ましくなったのか、頭突きせんばかりに突進してきたシュウにも同じようにしてやれば、ふたりの雫は顔を見合わせふにゃりと笑う。
「なーでなで」
「みちる様のなーでなで」
「天巳様にはなーいしょ!」
「モチモチ妬きの天巳様にはなーいしょ!」
天巳が聞いたらまた怒り出しそうな二重奏を響かせて、ふたりの雫は盛大に跳ねて姿を消した。
「モチモチ妬きって……ヤキモチのこと?」
ひとり杯を傾け、香りにほうと息をついたみちるの問いに答える者は今いない。
玄烏を見送ってから、天巳に連れられて水底の宮に戻ってきたみちるを迎えたのはもちろんシノとシュウだった。
「会いたかったあ」と涙と鼻水でぐしゃぐしゃの顔を押しつけるように抱きつかれて、天巳の制止も振り切って抱きしめ返したみちるはあっという間にいろいろなものでぐしょ濡れになったのだが、後悔などするはずも無い。
自分をここまで心配し、惜しんでくれる存在がここにいるのだ。この出来事のせいで帰宅後すぐに着替えと湯浴みをする羽目になったのだが、みちるがふたりを叱るはずもなかった。
今、みちるはシノとシュウが用意してくれていた着物に着替えている。白地に藍色で染め抜かれた流線が雨粒の軌跡を描く柄だ。
瞳の色とも良く似合うと言われて改めて鏡を見たみちるは、今も尚、目の前に映るものが信じられずにいる。
机に伏せてあった手鏡を手に取る。鏡の向こうで見つめ返す己の両目は幾度見つめても変わらぬ、鮮やかな縹色だ。
雨巫女として半端な加護しか受けられぬ能無しの証であった、青と黒の瞳。それが今や凪いだ水面を映した色となって彼女を彩っているのだ。
しかし――みちるは何処か浮かぬ表情で手鏡を伏せた。
「具合でも悪いのか」
かけられた声にみちるはぱっと顔を上げて振り返る。同じく湯浴みを済ませてきた天巳が羽織の紐を結わえながら部屋に入ってきたのだ。
シノが用意しておいた杯で軽く喉を潤した天巳はみちるの隣に座る。無言で水を向けられ、みちるはゆっくりと口を開いた。
「いいえ、ただ……」
「ただ?」
「この瞳のことです」
「……完璧な加護を受け継いだ雨巫女である証だろう。何が気に食わぬ」
天巳はぴくりと眉を吊り上げる。
その視線の険しさに気づいていないのか、みちるはふるふると首を振って俯いた。
「天巳様と、お揃いではなくなってしまいました」
「…………は」
流石の天巳も二の句が継げずに固まった。
「初めてお会いした時、この方も同じ瞳をお持ちなのだと勇気づけられるような……苦しさを分かち合えるといいますか、そういった親近感が湧いたのです。なのに、私だけこのように変わってしまったのが寂しくて、その」
天巳の相槌が消えたことに気づいたみちるは、はっと顔を上げて己の発言を掻き消さんばかりに両手を振る。
「す、すみません! 勝手に親近感を抱いたり寂しくなったり……おめでたいことなのだから、もっと明るくしていなくてはなりませんね! シノちゃんとシュウちゃんのお手伝いでもして参りま……」
今度はみちるが固まる番だった。
天巳が、彼女の肩を抱き寄せた。
背を掻き抱き、みちるの薄い肩に顔を埋める。ぐりぐりと頭を押しつける様は先程のシノとシュウにも通じるところがある――などと言ったならたちまち機嫌を損ねそうだ。
「あ、天巳様……」
「すまぬ、顔を見るな」
天巳の髪がくすぐったくてみちるが身を捩ると、天巳はそれを押さえ込む。肌に遊ぶ細かな刺激をうまく逃がせぬままみちるが浅い呼吸を繰り返すと、その吐息に反応した天巳がますますみちるを抱え込んだ。
ここに座る時、いつもそうしてきたようにみちるを己の膝に抱き上げる。裾が割れて足が露わになったみちるが慌てて直そうとするのも構わずに強く抱き寄せた。
「あ、天巳、さまっ。あ、あの、これは……ちょっと」
「……どこまで我を喜ばせたら気が済むのだ」
懸命に膝を合わせていたみちるがその声の弱々しさにはたと動きを止める。
「我に見初められたがために惨い仕打ちを受け、けしからぬ烏に目をつけられ……そなたには幾度謝っても足らぬというに、なにゆえ」
くぐもった呟きに、みちるは彼の背にそっと腕を回す。なめらかな髪をひと筋指を絡ませ、いつも天巳がそうしてくれているように梳いた。
「……天巳様が、私を大切に想ってくださるから。あの時、私を絶望の縁から救い上げてくださったのは天巳様です。確かに辛い思いをたくさんしてきました。大切な人を失いました。けれど……」
みちるは指に残る髪ごと天巳の背を抱きしめる。己の腕では覆えぬ広い背中を精一杯包み込もうとする彼女の献身に、天巳は静かに睫毛を揺らす。
「天巳様が、寄り添ってくださいました。私が寂しくないように、シノちゃんとシュウちゃんを傍においてくださいました。一度は生を諦めた雨を呼べない私がこうして生きているのは天巳様のおかげです」
みちるはそっと背を丸めて天巳に顔を寄せる。額に下りた前髪をそっと掬ってこめかみに唇を寄せた。
「私は貴方様だけの雨巫女です」
そう告げてはにかんだみちるの頬に、天巳はそっと手を伸ばす。包み込むように触れた頬に、自分がされたようにこめかみに、そして儀式めいたそれは順を追って額に。
静かに降るくちづけの雨を、みちるは目を閉じて受け入れる。
そっと目を開けたふたりは互いの瞳に映る己を見る。
愛おしげに蕩ける瞳の温度は変わらずとも、それを纏う色彩は確かに違ってしまった。やはりそれを残念に思うのか悲しげに笑うみちるの手を引いて、天巳は部屋の外に連れ出した。