「……みちる?」
 
 執務机に向かっていた天巳は顔を上げた。
 背筋をざわざわと駆け上る感覚にたまらず椅子を蹴飛ばさんばかりに立ち上がる。机に載っていた書物や巻物が崩れて床に散らばった。墨を含んでいた筆までもが弾け飛んで壁に黒い飛沫が飛び散った。
 
「……っ」
 
 机に手をついて呼吸を整える。閉じた瞳の奥で水脈を辿る。
 水底の宮を流れるすべての水は、天巳の霊力が溶け込んでいる。今まで彼のものだけで満たされていた水脈に、突如混じり出したのがみちるの霊力だ。それを追うなどと考えたこともない。白い料紙に落ちた墨汁を見つけることと同じだからだ。
 しかし、水脈の気は、混じり気のない清廉な天巳のものだけに戻っていた。
 ――みちるが、どこにもいない。
 最悪の結果を再確認した天巳は大股で執務室を後にする。勢いよく閉じられた扉が嫌な音を立てた。
 
「シュウ、シノ!」
 
 みちるの部屋へ向かいながら呼べば、雫ふたりはすぐに姿を現した。いつもくすくす笑いながら見た目通りにはしゃいで跳ねるふたりだが、今回ばかりは神妙にしている。
 
「天巳様、大変」
「みちる様、いない」
「みちる様、天巳様に会いに行ったのに」
「みちる様、お庭から消えた」
「庭?」
 
 天巳は口々に報告を重ねるふたりを連れて庭へ向かう。常雨の庭は、雨が降ってはいるもののその結界は陽の光で散らされてそこかしこの水滴が反射し、妙に明るかった。
 
「雲、弱まってる」
「陽射しが突き抜けてきた」
 
 シノとシュウが揃って空を指さす。
 常ならば分厚い雨雲で覆われている空が、今は綿を引き裂いたように薄れている。その隙間から容赦なく降り注ぐ陽光が庭の隅々まで干上がらせんばかりに強さを増した。
 
「待て、出るな」
 
 天巳に先んじてみちるを探そうとしたシュウを手で制して後ろへ押し返す。力の加減がうまく行かずにシュウを受けとめようとしていたシノも支えきれずに後ろへひっくり返った。
 きゃあ、と悲鳴の二重奏を聞き流して天巳は慎重に庭へ出る。大きな丸い雨粒を遊ばせて揺れる葉をおもむろに弾くと、雨粒が弾け飛んだ瞬間、日に当たったところから土気色に朽ち果てていく。
 無言で眉根を寄せた天巳は他の手がかりを探すために更に足を進めた。徐々に乾き出した土がその色を薄くしている。天巳が歩けばそこは再びじとりと潤い、色が沈んだ。
 
「みちる」
 
 泥はねなど気にもとめず、天巳は庭を巡る。もう彼女の気配はここに無いことなどわかっている。
 しかし雨音は知っている。彼女の足音を。
 雨粒は映している。みちるの姿を。
 水たまりは見ている。みちるの足取りを。
 
「みちる、どこだ、どこに行った」
 
 やがて天巳は飛び石の終わりまでやって来た。小さな橋に至るその手前に――それは、あった。
 
「みちるの、傘」
 
 ひっくり返り雨を受け止め続けている、本来の役割を果たしていないその柄は、天を指していた。
 蛇の目傘の内側に満ちた雨が、銀の小花を泳がせて回り続ける。きらきら輝くそれは陽射しを乱反射して色とりどりに天巳の瞳を騒がせた。
 
「みちるは何処だ」
 
 天巳の声で、傘の水面が息づいた。
 水面が揺れる。そこに映るのは覗き込んでいる天巳ではない。
 みちるが歩いている。
 ここではない、もっと庭の手前だ。傘をさしたばかりの所で何かあったのか。
 みちるは天巳の住まう執務の棟を見上げている。何かに驚いて目を見開いた。
 黒い羽根が――見えた。
 
「玄烏、か」
 
 ぎり、と奥歯を噛み締めながら水面を見つめる。
 映るばかりで音が聞こえないことがもどかしい。
 何かを語られ、困惑した様子のみちるに更に詰め寄る玄烏。映し出される記憶に干渉できないと知りつつも割り込んで追い払ってしまいたい衝動を抑え込んでいた天巳だが――ふ、と表情が消えた。
 水面の中で、玄烏がみちるを抱き寄せていた。そして重ねられた唇。
 ぐったりと脱力したみちるが攫われていく。黒い羽根が勝利を宣言するように大きく羽ばたいてふたりが姿を消す。
 そこで水面はまた空を映し出した。
 
「…………みちる」
 
 握りしめていた天巳の手のひらから、つうと血が滲み、水面に落ちる。薄紅色が波紋を描いて溶け込んでいく。
 
「待っていろ。迎えに行く」
 
 静かな鬨の声を皮切りに天上に雲が集まり出す。何層ものそれは重なったことで白から灰色へ、鈍色へ、そして暗雲となり雷を呼ぶ。
 刹那、水底に光が満ちた。そして瞬く間に黒雲から雷の槍が突き立てられる。
 一寸先も覚束無いほどの雨が矢となりつぶてとなり降り注ぐ。
 天巳は血を垂れ流す手のひらで空を仰いだ。降りしきる雨に洗い流されていくはずのそれが、地から噴き出す雨水を呼んで巻き上げられ、水と血が混ざった塊になった。
 
「我の花嫁に手を出したか。空に太陽は要らぬということだな」
 
 みちるには一度も聞かせたことのない声音で、天巳は低く囁いた。