みちるが次に目を覚ましたのは翌日の夕方だった。
 慣れない環境に置かれていたことの疲労が雨に打たれ続けたことで余計に負担となったそうだ。
 
「ゆっくり休んでくださいね、みちる様」
「みちる様、何か召し上がりたいものがあれば何なりと!」
「ありがとう……今は食欲がないので大丈夫」
 
 氷嚢やら清拭やらと甲斐甲斐しく働いてくれるシノとシュウに微笑み、みちるは天井をぼんやりと見つめた。
 ――急に上げ膳据え膳の生活で甘やかされて罰が当たったのね。仮にも雨巫女が雨に打たれて倒れるなんて、情けない。
 天巳の話を聞きたいと自分から言い出しておいて、結局肝心なところは有耶無耶になってしまった。
 天巳にとっても辛い話になるだろう。そうおいそれと世間話のように聞けるはずもない。
 
「……あ。天巳様がいらっしゃいましたよ」
 
 シノの声に顔を向ける。天巳が果物の盛られた籠を持って部屋に入ってくるところだった。
 
「……あまみさま」
 
 かさついた喉で名前を呼べば、天巳は厳しい表情でみちるを見つめる。その険しさにみちるは肩を小さくして詫びた。
 
「すみません、聞き苦しい声で」
「まだ、辛いか」
「……すこし」
「そなたの少しは相当ということだな」
 
 呆れ気味に寝台に腰を下ろした天巳は籠の中身をみちるにも見えやすいように傾ける。色とりどりの果実が甘い香りを放っていた。
 
「食欲はあるか。どれなら食べられる」
「……ええと」
 
 正直に言うと食欲はなかった。しかし天巳を落胆させるのも心苦しい。一番小さなものなら胃の負担も軽いだろうか、と大きさを比べて当たりをつける。
 
「天巳様、みちる様は今食欲がございませんので無理に勧めてはなりませんよ」
「しっ……」
 
 これを、と指さしかけたところにさらりとシノが口を挟む。みちるは慌てて彼女の口を噤もうとしたが後の祭りだ。
 
「誠か」
 
 真顔で天巳が問い詰めてくる。こうなったら嘘はつけまいとみちるは観念して頷いた。
 
「すみません……」
「謝るな。我の方こそ無理に勧めてすまない。香りはきつくないか」
「それは、平気で……けほっ」
 
 乾燥した喉で話そうとして咳き込んだみちるを天巳は抱き込むようにして背を撫でてやる。こんこんと続く咳に顔を赤くするみちるを見て、天巳はどうしようもなく焦りを募らせた。
 
「何か……ないか、我にできることが」
 
 一旦落ち着いた咳の合間にふるふると無言で首を横に振るみちるの仕草は、余計に天巳を追い詰めていく。窓の外から聞こえる雨音が激しくなっていく様子に、シュウが空の杯を持ってきた。
 
「天巳様。お、み、ず!」
 
 はたと天巳は目を丸くして杯を見つめる。
 一拍置いてからその意図に気づいた彼は一瞬で杯に水を満たした。そっとそれを抱き上げたみちるの口元に寄せる。

「みちる、飲めるか」
 
 息を整えてからそっと口をつけたみちるの喉が小さく上下する。無事に嚥下した音を聞き届けて天巳はようやく肩の力を抜いた。雨音も少しずつ柔らかい音に変わっていく。
 それを見てシノとシュウがくすくすと笑う。
 
「天巳様のほうが世話が焼けるの」
「みちる様、おひとりで休みたかったら遠慮なく言ってくださいね。シュウたちが天巳様をポイってするので!」
「え、あ、それはちょっと……」
 
 流石に主に対して不敬すぎやしないだろうか、とみちるは顔を引き攣らせるが、シノたちはちっとも気にせずむしろ胸を張っている。そっと天巳の反応を窺えば、天巳は不満そうにみちるを見つめ返した。
 
「なんだ、やはり邪魔なのか」
「い、いえ、そうではなく……ああ、あの、果実ですが」
「無理に食べることはない。今は引き取ろう」
 
「いえ、そうではなく……香りがいいので、置いておいて頂けると気分が晴れるといいますか」
 
 それは本心だった。特に柑橘系の香りはすうと体を通り抜けていくようで心地良い。
 
「そうか。ならこのまま……」
 
 そこで天巳の言葉が途切れる。おもむろに水の玉を浮かべた指先が、触れずして柑橘をまっぷたつに両断した。ほんのり果実の色を纏った水が静かに杯を満たす。
 
「香りをつけた。飲んでみるか」
 
斬新すぎるやり方だったのか、目を丸くしたままのみちるに杯を持たせれば大きな瞳がぱちぱちと瞬きして今の状況を飲み込もうとしている。
 
 やがて中身の水も飲み干したみちるから杯を引き取ると、心なしか顔色が良くなっているようで天巳は不思議に思って顔を覗き込む。
 
「……天巳様から、初めて頂いたお水と同じでした。このように作ってくださったのですね」
「……!」
 
 そう。みちるがこの水底にやって来たあの日。後悔と贖罪に怯えていた彼女を落ち着かせるために天巳が飲ませたのも、この香りの果実水だった。
 柑橘系の香りは気を巡らせ、飛ばす作用がある。みちるの内にわだかまったままの悪しき気を少しでも発散し、楽にしてやりたかった一心で用意した水だ。
 混乱の最中に飲まされたものを、こうしていまだ覚えていたとは。
 みちるを抱き寄せている天巳の指先がじんとあたたかくなっていく。
 
「覚えて……いたのだな」
「……はい。とても美味しいお水でした。物語に聞く甘露とはきっとあのお水なのですね。甘くて、爽やかで、元気が出て……思わずあの時は、その……」
 
 そこで言葉を濁し俯いたみちるの耳がほんのり赤い。
 
「みちる?」
「……は、はしたないほどに、求めてしまって……天巳様に呆れられていないか、今になって不安になってしまって……」
「ああ……あの時のことか」
 
 天巳は昨日の事のようにそれを思い出せる。
 口移しで与えた時のあの柔らかな唇。雛が無防備に口を開けるように天巳を求め、腕を伸ばして素直にこくりこくりと喉を鳴らしていた、無垢なみちるの睫毛の動きまで脳裏に焼きついているのだ。
 
「呆れるものか。あの時のように求められて滾るものこそあれ、嫌なことなどあるまい」
「あ……!」
 
 恥じらいが過ぎて首を揺らすみちるが愛らしく、天巳は華奢な体を自分に更にもたれかけされた。
 もう一度、果実水を作ると自分で杯をあおる。そのまま、あの日のように――みちるの唇にそっとそれを含ませた。
 
「ん……っ」
 
 ゆっくりと喉が上下する。唇に残るそれをぺろりとひと舐めしてはまた水を用意していると、みちるが慌てた様子でそれを止めた。
 
「なんだ、もう要らぬのか」
「違います……ただ、天巳様に病が移ってしまっては大変なので、これ以上は」
「気にするな。そなたから貰えるものなら病だろうが受け取ろう」
 
 そうさらりと返した天巳は躊躇せずに再び唇を重ねる。とろりと落ちていく水を感じながら、みちるはうっとりと目を閉じた。
 
「天巳様が病を得たら……今度は、私が看病して差し上げます」
「そうか。付きっきりで頼む。シノ達に邪魔されんように離れに篭ろうか」
 
 飲み込みきれなかった分が伝う跡を指の腹で拭いながら、天巳は口移しばかりではないくちづけを繰り返す。すると、はたと我に返ったみちるがぐいと彼の胸板を押し返した。
 
「どうした、急に元気だな」
「し、シノちゃんとシュウちゃんがいること、忘れて……っ、あ、あれ?」
 
 耳まで赤くしたみちるが天巳の腕の中できょろきょろと部屋を見渡すも、シノとシュウの姿は無い。先程まで天巳を追い出そうとまで提案していた小生意気な雫たちはみちる達の睦みあいを見守りつつも、いつの間にか退室していたようだ。

「あれらも気は回ると見えるな」
「つ、次にどんな顔すればいいのでしょう……」
「いつも通りで。あれらもみちるを困らせたい訳ではないだろうからな」
 
 天巳は布団をぐいと引っ張りみちるの背中にかけてやる。己の胸に抱き込んだみちるの髪をゆっくり梳けば、呼吸がゆっくりと穏やかになっていく。
 
「眠ってしまって構わん。横になったままでは咳も辛かろう」
「すみません……はやく、よくなりますので……」
「ああ。今は眠るといい。無理に起こしてすまなかったな」
 
 これ以上休息の邪魔をしたら、そのうち本当にシノ達に追い出されそうだ。そう零した天巳にみちるが小さく笑う。
 この腕の中は安全なのだ。どれほどの罪を自分が被っていようとも、彼だけは手放しで受け入れてくれている。
 意識をそっと水底に沈ませて――みちるは深く呼吸をした。