「まあまあみちる様、こんなにずぶ濡れ」
「あらあら天巳様も、うんとびしょ濡れ」
 
 持っていった傘をもう一度広げ直すのもおかしなほどに雨に打たれたふたりを見て、シノとシュウは仰天してその場で無意味に跳ね回った。
 
「みちるを風呂に入れてやってくれ」
「かしこまりました!」
 
 元気のいい返事と共にシノはぴちゃんと高く跳ねた水音を残して姿を消した。シュウは手早く手ぬぐいを持ち出してみちるの髪や手を拭いている。
 
「あの、私はいいので天巳様を先に」
「我に構うな。みちるが先だ」
「ですが」
「くどい。そなたが先に湯を使え」
 
 天巳の冷ややかな物言いにその場の空気がしんと冷える。手ぬぐいを握るみちるの指先が震えているのは、ずぶ濡れになったからだけではない。
 一歩退いたみちるはくずおれるように膝をつく。板の間に額を擦り付けた。
 
「も、申し訳ございません……! 差し出がましいことを申しました」
 
 シュウがぎよっとして手ぬぐいを取り落とす。はらりとみちるの背に落ちたそれはすぐに水を吸って灰色に沈んでいく。
 
「お叱りは如何様にも受けます。出過ぎた真似を致しました……」
 
 丸めた背を震わせ続けるみちるの体はあまりに華奢で、頼りない。
 先程、見ず知らずの男に啖呵をきったとは思えぬほどの弱々しさに、天巳は己の唇をぎりりと噛み締める。
 
「……そなたは、そのように生きてきたのだな。ひとの顔色を窺って、謂れなき理不尽に耐え……吹けば散る水面の花弁のように」
 
 天巳は静かに膝を折った。シュウから新しい手ぬぐいを一枚受け取ると、みちるの髪を優しく覆う。
 
「怖がらせてすまなかった。我が身の不甲斐なさをそなたに当たり散らすなど、恥ずべき行いだ」
 
 髪をひと房掬い、押すように水気を絞り、拭う。
 それを繰り返しているうちに、みちるの震えも収まってきた。
 
「……顔を、見せてくれるか」
 
 その呼びかけに、みちるはおずおずと顔を上げる。
 青と黒の視線が不安げに揺らいで天巳の鼻先あたりを遠慮がちに彷徨う。
 
「そなたの心遣い、嬉しく思う。だが、そなた以上に我は心配性のようだ。我を思うなら先に湯で温まってくれぬか」
「は……い」
 
 か細いながらも応じた声音はいつものみちるに近いものがある。天巳はゆっくりと頷き、手ぬぐいでみちるの頭を包み込みながら、色の失せた唇に親指をすべらせた。
 すう、すう、と何かを拭い去る動きにみちるは戸惑う。
 
「あの……天巳様?」
「烏に啄まれただろう。浄めておかねば」
 
 あの強引なくちづけを思い出し、みちるの頬がかっと朱を帯びる。天巳の目の前であのようなことをされたのだ。いくら憤ってもなかったことにはならないが、それでもやはり天巳に対する裏切りであることには変わりない。もっと警戒しておくべきだったと後悔の念に苛まれているみちるの唇が淡く開いた。

「みちる」
「っ、はい。あの、先程のことは私の不用心でした。迂闊なことばかりで申し訳ございません。今後は――っ」
 
 己を責め立てる言葉など封じてしまえとばかりに、天巳はみちるの唇を塞いだ。幾度も角度を変えて、何度も、何度も。呼吸が浅くなってきたみちるがくちづけの合間に大きく息を吸い込んだところで天巳の唇がそれを貪る。手ぬぐい越しに耳全体をやわやわと撫でられながら舌の先を吸われ、みちるは何もかもわからなくなりそうだった。
 
「あ、まみ、さま……ん、ッッ」
 
 天巳の腕の中で懸命に応えるみちるが名を呼ぶたびに、天巳の中で持て余している激情がうねりを増す。
 ――このまま掻き抱いて、すべて奪ってしまいたい。
 清廉なかんばせに似つかわしくない欲望がゆらりと立ち上るが、腕に縋る華奢な体のぬくもりが小さく震えているのを感じ、これ以上戻れなくなる前にと唇を離した。
 はあはあと荒い呼吸で肩を大きく上下させるみちるの背後に、湯の支度を整えてきたシノが見える。これ幸いにと天巳はシノにみちるを託した。
 
「それでは……お先に失礼致します」
「ああ。ゆっくり温まっておいで」
 
 亀裂から修復までのやりとり一部始終をちゃっかり聞いていたシュウが、濡れた床用に手ぬぐいを敷き詰め終わったところで顔を上げた。
 
「ゆずりあい、素敵。でもふたりでいっしょ、もっと素敵! 心も体もぽかぽかー!」
 
 みちるの足がぴたりと止まった。自分の手を拭っていた天巳も動きを止める。
 
「わ! 名案! シュウはお利口さんだあ」
「でしょう? 一緒にあったまれるの、仲良しさんの証拠!」
「善は急げ! さあさ天巳様、そんなところでのんびりしてるよりお湯にざぶんと浸かりましょ。みちる様もいっしょ! ふたりでぬくぬくー!」
 
 天巳の手ぬぐいを無造作に引っ張るシュウと、みちるの背をぐいぐい押すシノ。
 童の見た目には不釣り合いなほどの力で風呂場に連れて行こうとするふたりに、みちるは目を白黒させつつもなんとか宥めようとするが、こういう時ばかりはちっとも言うことを聞かないのがこのふたりである。
 背を押されてつんのめりかけながらも振り向いたみちるは天巳を見上げる。シュウと綱引き状態になっている手ぬぐいが今にも引きちぎられそうだが、つとめて無表情を保っていた。
 
「あ、天巳様……」
 
 眉を八の字にしたみちるは天巳の出方を窺う。確かにシノ達の言うように、ふたり一緒に入るのが合理的ではある。しかし、みちるの価値観ではそれは大いに問題である。天巳のことは憎からず思っているものの、そういうことはおいそれと許すものではないだろう。
 
「どうした」
「あ、ええと、その」
 
 覚束無い返事では何の時間稼ぎにもならないと自覚しつつみちるは頬に手をやる。先程のくちづけのせいで、とても熱い気がする。
 
「あ、天巳様は、どのようにお考えで」
 
 この宮の主は天巳なのだ。これは彼女が皮肉にも外敵たる玄烏に宣言したことでもある。天巳が是と言えば自分にはそれを拒む権利は無い。
 ――拒む権利。
 そこまで考えを巡らせて、みちるははたと気がついた。もし、天巳がみちるにその権利を与えたなら、自分は正面切ってそれを行使できるのか。
 嫌です、一緒に入浴は致しかねます――正論の矛と貞操観念の盾を以てそう言い切ってしまえば、天巳も無体な真似はしてこないだろう。
 しかし、ここで天巳を拒んでは、結局、先程のようなすれ違いやわだかまりを生む一方ではないか。否、それは単なる言い訳に過ぎないのかもしれない。断るための言い訳ばかり用意して、己が傷つかぬようにと予防線を張っているだけなのか。
 つまりそれは。みちるが、天巳に、肌を――
 僅かな間にそこまで発展した己の中の浅ましい欲に気づいて、みちるは今度こそ己の頬がしっかりと熱くなっていると自覚する。湯けむりの中で肌を合わせる様を想像してしまったなど、天巳には口が裂けても言えない。
 こんなはしたないことでは呆れられてしまう。そう不安に駆られつつ上目遣いで天巳を見遣れば、彼は一度、ゆっくりと瞬きをして――首を横に振った。
 
「何を言われようと我は変わらぬ。みちるが先だ」
 
 すう、と頬の熱が冷めた。
 一音一音、はっきりとそう宣言されて、みちるは俯きがちに頷いて、小さく返事をした。
 シノとシュウも、しゅんと肩を落として無言になる。自分の心の内がふたりを通して透けて見えるようで、みちるは居たたまれなさでぎゅっと手のひらに爪を立てた。
 みちるを先導するシノと、天巳の手放した手ぬぐいを畳むシュウが揃ってふたりから視線を外した時、天巳が一歩、みちるに近づいた。身をかがめた彼の長い髪がしっとりとみちるの肩に落ちる。
 
「天巳様?」
「早合点するな。拒んだわけではない。自重だ」
「え……?」
 
 うまく言葉の意味が飲め込めずに首を傾げるみちるの不安げな瞳を、天巳はじっと見下ろす。
 
「あれのせいで、今は互いに冷静ではいまい。今のくちづけもそうだが――あれ以上、そなたに衝動のまま不用意な真似をしたとあっては我は己を許せぬ。だから今は距離を置く」
 
 訥々と語る天巳の声が、乱れたままのみちるの心に染み入っては馴染んでその波を消していく。
 みちるは天巳を見上げ、今度ははっきりと頷いた。天巳も口の端をやんわりと上げて頷き返す。
 拒絶された訳では無かった。ただそれを言葉にして伝えてくれたことに、みちるの胸がいっぱいになる。
 沸き立ち、次の瞬間には凍てついた忙しない水面の温度が優しいぬくもりに満ちていく。ほうと安堵の吐息を漏らしたみちるに、天巳は悪戯っぽく囁いた。
 
「随分と喜んでいるな。次は期待して良いのか」
「え……あ、えっと……!?」
 
 安心しきったところに思わぬ奇襲をかけられみちるの心にまたもや波風が立つ。しかしこれは嫌ではない。
 返事もろくに言葉にならず慌てふためくみちるは頬を覆って無意味に首を振る。しかし、その指の隙間から垣間見える耳たぶが朱に染まっていることに天巳は目ざとく気づいていた。
 それは拒絶の証ではなく恥じらいの――天巳を男と意識するからこその掻き乱される心の波飛沫に目を細め、天巳はみちるを風呂へと送り出した。
 
「天巳様、大人です。素敵。みちる様、きっとますます天巳様に夢中」
 
 黙って一部始終を眺めていたシュウがくすくすと体を揺らす。その落ち着きのない頭を軽く撫でてやった天巳は、もう見えなくなったみちるの後ろ姿を脳裏に浮かべる。
 
「すべてを告げてもなお、みちるがそう想ってくれるなら……何を投げ打っても構わんな」
 
 シュウは己の頭を撫でる大きな手に自分の手を添える。冷えきったそれに目を大きく瞬いて、ぴちゃんと大きく跳ねた。
 入浴を終えたみちるが自室へと戻ってくると、そこはしんとしていた。否、かすかな雨音だけが窓硝子を戯れに叩いては過ぎ去っていく。
 無為に部屋をゆっくりと歩く。高い天井の果ては薄暗い雨雲の色に似てよく見えない。
 ぼんやりと灯る壁の灯りは雨粒のようにいくつも連なってはいるものの、部屋全体をくっきりと照らし出すには程遠い。
 座り心地の良い長椅子に、拭き清められた食卓。清潔な天蓋付きの寝台。美しい景色の描かれた衝立はあれど、この明るさではその筆致のすべてを眺めるには力不足だ。
 みちるは極力足音を立てないようにして一番大きな窓に近づいた。この静けさの中では、どうしても自然由来の音以外を出すのが憚られる。
 硝子の向こうに庭が見える。あの辺りを通ったのかもしれないが、雨の筋がいくつもできた窓硝子を隔てては判別が難しかった。
 しとしとと降り続く雨。それ以外に音のない世界。音を出す者がいないのだから当たり前だ。
 
「……そういえば、まだあの子達以外に、誰にもお会いしていない」
 
 良く働く女童ふたりは元は雫だ。生命を持たせたということはつまり、天巳の力の一部でもある。
 みちるはまだ、天巳が介在した以外の者がここに住んでいるのを見たことがない。
 
「雨を司る伝説の龍、雨龍の御方……その方のお住まいが、こんなにも静かで、寂しいものだなんて」
 
 これではあちらの世界で暮らしていたみちると同じようなものだ。否、みちるの方が望むと望まざるとに関わらず、様々な人と関わりを持っていた。決して好ましい間柄ではなかったが、会話があった。音があった。太陽の下ではっきりとした姿を見ていた。
 これではまるで、この宮は――
 みちるは窓の桟に触れる。世界を一直線に切り取り、あるがままの世界とこちらを隔てるもの。
 
「檻……」
「やはりそう思ったか」
 
 呟きに返されたひと言に、みちるは飛び上がるほど驚いた。ばっと振り返れば湯浴みを終えて着替えを済ませた天巳が立っている。
 
「っも、うしわけございません! 畏れ多くも住まわせて頂いている御宮に対してなんと不届きなことを……」
「構わん。慧眼だな」
 
 咄嗟に深く頭を下げたみちるを遮って天巳は肯定した。みちるは恐る恐る頭を上げて天巳の表情を垣間見たが、気分を害した様子は無さそうだった。
 座れと促されて長椅子に座れば、やはり隣に天巳も腰を下ろす。
 
「何から話そうかと迷っていたが、そなたが糸口をくれた」
「話す……」
「烏が喧しかったろう。あれの思うままも癪なことだ」
 
 烏とは、やはり玄烏のことを指すのだろう。傍若無人にふたりの間を掻き回し、あまつさえみちるの唇を奪ったあの男。思い出したことで唇にあの時の熱が灯った気がして、みちるはごしごしと唇を手の甲で擦る。その様子を見つめる天巳の視線はどこか頼りなげだった。
 
「あれの言うこともあながち間違いではないのだ。我は――龍であることを手放した蛇。この水底の宮は我のための牢獄だ」
 牢獄。はっきりとそう言い切った天巳にみちるは目を疑った。しかし、不穏な表現で己が居場所を評してみせたにも関わらず淡々とした天巳の表情はぶれることなくこの部屋を――否、窓の外の庭を見つめている。
 
「不思議には思わぬか。雨を降らせる雲は空にある。龍はその神力で空を翔けると人々は語る。しかし我はそなたを連れて水底に沈んだ。それは――我が叢雲の宮を追放されたから。雨龍を継ぐ者として、相応しくなかったからだ」
 
 そう言われて、初めてみちるは気がついた。確かに数多の絵巻物に描かれる龍は空を飛ぶ。地を這う龍など見たことがない。それは彼女が住んでいた奥宮に祀られていた屏風でも同じことだった。
 雲を背負い、雨を呼ぶ龍。その天翔る勇姿こそが龍を龍たらしめるゆえんだと、特段疑問に思うことなく過ごしてきた。
 それが、天巳に欠けているというのか。
 
「我がこのような身の上だからこそ、それに仕える雨巫女たるそなたまで辛い思いをさせた。すまぬ……と言葉で言うだけなら容易いが、そなたの心はそれで収まらぬことくらいは承知している」
 
 天巳は静かにみちるを見た。青い瞳に黒い瞳。鏡を見るたびに胸を痛め、苛立ちを強くし、哀しみを深くしてきた、半端者の、役立ずの証。
 
「……話せる範囲で構いません。何があったのか、お聞かせ願えますか」
 
 みちるは同じ瞳で天巳を見据える。天巳はその色を遮るように目を伏せた。
 
「雨龍は代々長命だ。雨巫女が捧げる人々の信仰を糧とし、その身に宿る神力を分け与えることで雨を降らせ、信仰を守る。雨巫女は加護の受け手であり、信仰の送り手だ。そこに雨龍が認識する「個」はない。しかし稀に――雨龍の伴侶たる雨巫女が生まれる。次代の龍へと血を継がせるための、運命の巫女だ」
 
 天巳の長い睫毛がぴくり、と痙攣した。しかし、その瞼は閉じられたままだ。
 
「その娘が母の胎に宿る時、雨龍に変化が生じる。その者は雨巫女を娶るために人の姿を手に入れる。その娘に加護を与えるために。数多の民の信仰より、その娘の心を糧として雨を降らせるために」
 
「それは――」
 
 咄嗟に割って入った言葉は、みちるが飲み込みきれなかった残滓だ。話に水を差す真似はしたくなかったが、まろびでた言葉は止められぬ。
 
「それは……危険なのではないでしょうか。雨巫女ひとりが、雨を、加護の元を狂わせる。村にひとつしかない井戸を塞いでしまうようなものではないのですか」
「そうだ。凪いで久しい、途方もない安寧の水面に石を投げ込むようなもの。その波紋がいかなる混乱を齎すか――聡い者ならばすぐに手を打つだろう。だから、我は自ら水底に堕ちた。天高くたゆたう水の還る源、叢雲の宮から、地中深く潜っては淀み、いつか空へ昇る日を渇仰する水底へ。龍から巳へと姿を転じた。しかし、人の姿だけは手放さぬ。その理由はただひとつ」
 
 朗々とした語りがふと途切れる。天巳の瞼がようやく上がる。堕ちた証である色を忍ばせて。みちるの心を縛り続けてきた、そのふたつの色を宿らせて。
 
「我にとってのただひとり――みちる。そなたを欲してやまぬからだ」
 
 話の最中、今まで触れずにいたのが耐えきれぬとばかりに天巳はみちるを掻き抱く。急なことで応えることも拒むことも中途半端な体勢のみちるに構うことなくぐいと膝に抱き上げてその細い首筋に顔を埋める。
 
「あま、みさま、まって」
「そなたは我を待たせてばかりだ。あと幾年待てばいいのだ」
「わたし、まだ、わからないことだらけで……」
「そうか。人の子にすべて理解してもらおうとは思わん」
 
 肌を掠める天巳の吐息がどんどん熱くなっていくことにみちるは混乱しながらなんとか彼を押しやろうとするが、細身とはいえ男の力を制することもできずに焦りばかりが先立つ。みちるのすべてを暴こうと絡みつく腕の強さにもがきながら、みちるは浅くなってきた呼吸で天巳を何度も呼んだ。
 それが功を奏したのか、天巳の腕が渋々止まる。
 
「……まだ、何を問う」
「そのお話の通り、私が天巳様を、雨龍の御方の有り様を変えさせた雨巫女ならば――私こそが貴方を龍でなくした咎人ではないのですか」
 
 天巳の吐息が一瞬乱れる。ゆったりと顔を上げたその瞳には温度がない。爛々と光るそれは尊い龍のそれとは何かが違うと、みちるの内が語りかけてくる。
 早まることしか知らぬ鼓動が胸から喉の辺りまでせり上がってくるのをなんとか抑え込んで、みちるは天巳に真正面から向き合う。
 
 ――私が、憎くはないのですか。

 ようやく手に入れた安寧を自ら手放す禁断の問いかけだった。
 ここまでの話を聞かされれば、天巳がみちるを傍に置く理由は、愛おしいからばかりではないことは見当がつく。
 罰するためか、思い知らせるためか、はたまた行き場のない衝動のはけ口にするためか。
 知らずのうちとはいえ、神を堕としたことへの贖罪ならば選ばれた雨巫女として、みちるはその償いを全うしなければならない。
 地上で耐えてきたことが続くだけだ。神の怒りと人の狼藉を同列に図ることはできずとも、向けられる感情のわだかまりは同根である。
 
 みちるが悪いのだ。
 雨を呼べぬ雨巫女が悪い。
 天を泳ぐ龍を水底に沈めた娘が悪い。
 だから責を負わねばならないのだ。
 
 その事実に行き着いたことで、みちるの頭がずきりと痛んだ。脈打つごとに熱くなる痛みと血の気が引くような寒さに捕らわれる。
 
「私は貴方様の雨巫女です。私の存在が天巳様を惑わせたなら、その報いを受けなければなりません。か……覚悟は、できております」
 
 がんがんと痛みが強くなってくる。目を背けてはならぬと見開き続けている瞳までもがちりちりと炙られている錯覚に陥る。それとは真逆に天巳の瞳にはじっとりと滲むものがしたたりそうでもあった。
 ふ、と天巳の指がしなやかにみちるの首を這う。
 爪の表面で薄い皮膚を撫でられる。時折戯れに爪の先がかりりと鎖骨を甘く引っ掻く。
 
「……っ」
 
 背筋を伝い上ってくる感覚にみちるの肌が粟立つ。天巳はそれに目を留めてふっと笑った。

「怯えずとも傷つけはせぬ。初めに申したぞ? 雨はそなたを傷つけないと」
「で……も、私のせいで天巳様が……」
「すべて納得ずくでのことよ。そなたが気に病むことは何もない。そなたがおらぬ天上など虚ろの城。水底の牢獄とて、そなたがいれば浄土もかくやだ」
 
 天巳の睦言を聞かされながら、みちるは必死に頭を働かせる。
 この期に及んで天巳が嘘をつく必要もない。文字通り、みちるのすべては天巳の手に握られている。
 天巳に対して優位になるものをみちるは何ひとつ持ち合わせていない。そんなみちるに天巳はどうして――
 
「確かに我は恩恵を手放した。己の有り様を失った。だがそれがどうした。我にとってのただひとりをなにゆえ憎まねばならぬ」
 
 歌うような独白の中、天巳がぐいと体重をかければみちるは支えきれずに背中から長椅子に倒れ込んだ。
 それを追って天巳の美しくまっすぐな髪がひと房滑り降りてくる。
 
「愛しい娘。哀しい娘。我の目に飛び込んできたばかりに狂わせた。そなたが我を憎む方が道理だろうに」
「天巳様の唯一になったからこの瞳になったというなら……おあいこでは、ないのですか」
 
 そうだ。何かがおかしい。天巳の話は彼が青と黒の瞳を持つに至った説明であり、みちるはとばっちりを食っただけになってしまう。それを償いと呼ぶには軽すぎる。
 雨龍の御方の花嫁として選ばれるべき雨巫女が無能であるわけがない。あるはずなのだ、みちるがこの瞳になった理由が。
 
「聡い娘よ。誤魔化されてはくれぬのか」
 
 こんなに近くにいるのに、天巳の顔がぼやけてくる。遠くから聞こえる声が耳のあたりでくぐもって、脳髄に至る前に弾かれる。
 
「天巳……さま? なんだか、わたし、へん……」
 
 横たわっているのに血の気が引く感覚がする。目が開けていられない。
 ぐるりと渦を巻き始めた視界から抜け出そうと手を伸ばすと、天巳に受け止められる。しかし天巳は握った手首とみちるを交互に見遣って息を呑んだ。
 
「熱い……みちる、そなた発熱しておるのか」
「ねつ……?」
 
 おかしい。みちるの指先は冷たいのだ。しかし天巳が頬にあててくれた手の甲はひんやりと気持ちがいい。思わずうっとりと力を抜いて押し当てると、天巳は勢いよく手を引き抜いてしまった。
 
「シノ、シュウ、氷を持て!」
 
 張り上げた呼び声が痛む頭に響く。う、と顔を顰めたみちるの体がふわりと浮いて、天巳に抱き上げられたのだとわかった。
 手早く寝台に運ばれ寝かされる。
 
「みちる、気を確かに持て。我が宮を流れる水で作った氷嚢なら熱などたちどころに冷ましてみせよう」
 
 大真面目に宣言した天巳にぎゅうと手を握りしめられてみちるの体から力が抜ける。
 ああ、こんなことが以前もあった。
 あの時みちるの手を握ってくれたのは――
 
「と……さま」
 
 うすらと開いた瞳には眉を下げてこちらを見つめる男が映る。ああ、心配させて申し訳ないとみちるはそっと握られた手をもぞもぞと動かして大きな手の甲を指先で撫でた。
 
「大丈夫……すこし、寝たらなおるから。とうさまも、明日早いから、休んで」
 
 は、と浅い呼吸が聞こえた。それが記憶の声と重なりきらずにぶれたことにみちるは軽く首を傾げる。
 しかし、次に耳に響いた高い水音ふたつがそれを塗りつぶして――みちるの意識は、そこで沈んだ。
 みちるが次に目を覚ましたのは翌日の夕方だった。
 慣れない環境に置かれていたことの疲労が雨に打たれ続けたことで余計に負担となったそうだ。
 
「ゆっくり休んでくださいね、みちる様」
「みちる様、何か召し上がりたいものがあれば何なりと!」
「ありがとう……今は食欲がないので大丈夫」
 
 氷嚢やら清拭やらと甲斐甲斐しく働いてくれるシノとシュウに微笑み、みちるは天井をぼんやりと見つめた。
 ――急に上げ膳据え膳の生活で甘やかされて罰が当たったのね。仮にも雨巫女が雨に打たれて倒れるなんて、情けない。
 天巳の話を聞きたいと自分から言い出しておいて、結局肝心なところは有耶無耶になってしまった。
 天巳にとっても辛い話になるだろう。そうおいそれと世間話のように聞けるはずもない。
 
「……あ。天巳様がいらっしゃいましたよ」
 
 シノの声に顔を向ける。天巳が果物の盛られた籠を持って部屋に入ってくるところだった。
 
「……あまみさま」
 
 かさついた喉で名前を呼べば、天巳は厳しい表情でみちるを見つめる。その険しさにみちるは肩を小さくして詫びた。
 
「すみません、聞き苦しい声で」
「まだ、辛いか」
「……すこし」
「そなたの少しは相当ということだな」
 
 呆れ気味に寝台に腰を下ろした天巳は籠の中身をみちるにも見えやすいように傾ける。色とりどりの果実が甘い香りを放っていた。
 
「食欲はあるか。どれなら食べられる」
「……ええと」
 
 正直に言うと食欲はなかった。しかし天巳を落胆させるのも心苦しい。一番小さなものなら胃の負担も軽いだろうか、と大きさを比べて当たりをつける。
 
「天巳様、みちる様は今食欲がございませんので無理に勧めてはなりませんよ」
「しっ……」
 
 これを、と指さしかけたところにさらりとシノが口を挟む。みちるは慌てて彼女の口を噤もうとしたが後の祭りだ。
 
「誠か」
 
 真顔で天巳が問い詰めてくる。こうなったら嘘はつけまいとみちるは観念して頷いた。
 
「すみません……」
「謝るな。我の方こそ無理に勧めてすまない。香りはきつくないか」
「それは、平気で……けほっ」
 
 乾燥した喉で話そうとして咳き込んだみちるを天巳は抱き込むようにして背を撫でてやる。こんこんと続く咳に顔を赤くするみちるを見て、天巳はどうしようもなく焦りを募らせた。
 
「何か……ないか、我にできることが」
 
 一旦落ち着いた咳の合間にふるふると無言で首を横に振るみちるの仕草は、余計に天巳を追い詰めていく。窓の外から聞こえる雨音が激しくなっていく様子に、シュウが空の杯を持ってきた。
 
「天巳様。お、み、ず!」
 
 はたと天巳は目を丸くして杯を見つめる。
 一拍置いてからその意図に気づいた彼は一瞬で杯に水を満たした。そっとそれを抱き上げたみちるの口元に寄せる。

「みちる、飲めるか」
 
 息を整えてからそっと口をつけたみちるの喉が小さく上下する。無事に嚥下した音を聞き届けて天巳はようやく肩の力を抜いた。雨音も少しずつ柔らかい音に変わっていく。
 それを見てシノとシュウがくすくすと笑う。
 
「天巳様のほうが世話が焼けるの」
「みちる様、おひとりで休みたかったら遠慮なく言ってくださいね。シュウたちが天巳様をポイってするので!」
「え、あ、それはちょっと……」
 
 流石に主に対して不敬すぎやしないだろうか、とみちるは顔を引き攣らせるが、シノたちはちっとも気にせずむしろ胸を張っている。そっと天巳の反応を窺えば、天巳は不満そうにみちるを見つめ返した。
 
「なんだ、やはり邪魔なのか」
「い、いえ、そうではなく……ああ、あの、果実ですが」
「無理に食べることはない。今は引き取ろう」
 
「いえ、そうではなく……香りがいいので、置いておいて頂けると気分が晴れるといいますか」
 
 それは本心だった。特に柑橘系の香りはすうと体を通り抜けていくようで心地良い。
 
「そうか。ならこのまま……」
 
 そこで天巳の言葉が途切れる。おもむろに水の玉を浮かべた指先が、触れずして柑橘をまっぷたつに両断した。ほんのり果実の色を纏った水が静かに杯を満たす。
 
「香りをつけた。飲んでみるか」
 
斬新すぎるやり方だったのか、目を丸くしたままのみちるに杯を持たせれば大きな瞳がぱちぱちと瞬きして今の状況を飲み込もうとしている。
 
 やがて中身の水も飲み干したみちるから杯を引き取ると、心なしか顔色が良くなっているようで天巳は不思議に思って顔を覗き込む。
 
「……天巳様から、初めて頂いたお水と同じでした。このように作ってくださったのですね」
「……!」
 
 そう。みちるがこの水底にやって来たあの日。後悔と贖罪に怯えていた彼女を落ち着かせるために天巳が飲ませたのも、この香りの果実水だった。
 柑橘系の香りは気を巡らせ、飛ばす作用がある。みちるの内にわだかまったままの悪しき気を少しでも発散し、楽にしてやりたかった一心で用意した水だ。
 混乱の最中に飲まされたものを、こうしていまだ覚えていたとは。
 みちるを抱き寄せている天巳の指先がじんとあたたかくなっていく。
 
「覚えて……いたのだな」
「……はい。とても美味しいお水でした。物語に聞く甘露とはきっとあのお水なのですね。甘くて、爽やかで、元気が出て……思わずあの時は、その……」
 
 そこで言葉を濁し俯いたみちるの耳がほんのり赤い。
 
「みちる?」
「……は、はしたないほどに、求めてしまって……天巳様に呆れられていないか、今になって不安になってしまって……」
「ああ……あの時のことか」
 
 天巳は昨日の事のようにそれを思い出せる。
 口移しで与えた時のあの柔らかな唇。雛が無防備に口を開けるように天巳を求め、腕を伸ばして素直にこくりこくりと喉を鳴らしていた、無垢なみちるの睫毛の動きまで脳裏に焼きついているのだ。
 
「呆れるものか。あの時のように求められて滾るものこそあれ、嫌なことなどあるまい」
「あ……!」
 
 恥じらいが過ぎて首を揺らすみちるが愛らしく、天巳は華奢な体を自分に更にもたれかけされた。
 もう一度、果実水を作ると自分で杯をあおる。そのまま、あの日のように――みちるの唇にそっとそれを含ませた。
 
「ん……っ」
 
 ゆっくりと喉が上下する。唇に残るそれをぺろりとひと舐めしてはまた水を用意していると、みちるが慌てた様子でそれを止めた。
 
「なんだ、もう要らぬのか」
「違います……ただ、天巳様に病が移ってしまっては大変なので、これ以上は」
「気にするな。そなたから貰えるものなら病だろうが受け取ろう」
 
 そうさらりと返した天巳は躊躇せずに再び唇を重ねる。とろりと落ちていく水を感じながら、みちるはうっとりと目を閉じた。
 
「天巳様が病を得たら……今度は、私が看病して差し上げます」
「そうか。付きっきりで頼む。シノ達に邪魔されんように離れに篭ろうか」
 
 飲み込みきれなかった分が伝う跡を指の腹で拭いながら、天巳は口移しばかりではないくちづけを繰り返す。すると、はたと我に返ったみちるがぐいと彼の胸板を押し返した。
 
「どうした、急に元気だな」
「し、シノちゃんとシュウちゃんがいること、忘れて……っ、あ、あれ?」
 
 耳まで赤くしたみちるが天巳の腕の中できょろきょろと部屋を見渡すも、シノとシュウの姿は無い。先程まで天巳を追い出そうとまで提案していた小生意気な雫たちはみちる達の睦みあいを見守りつつも、いつの間にか退室していたようだ。

「あれらも気は回ると見えるな」
「つ、次にどんな顔すればいいのでしょう……」
「いつも通りで。あれらもみちるを困らせたい訳ではないだろうからな」
 
 天巳は布団をぐいと引っ張りみちるの背中にかけてやる。己の胸に抱き込んだみちるの髪をゆっくり梳けば、呼吸がゆっくりと穏やかになっていく。
 
「眠ってしまって構わん。横になったままでは咳も辛かろう」
「すみません……はやく、よくなりますので……」
「ああ。今は眠るといい。無理に起こしてすまなかったな」
 
 これ以上休息の邪魔をしたら、そのうち本当にシノ達に追い出されそうだ。そう零した天巳にみちるが小さく笑う。
 この腕の中は安全なのだ。どれほどの罪を自分が被っていようとも、彼だけは手放しで受け入れてくれている。
 意識をそっと水底に沈ませて――みちるは深く呼吸をした。
「みちる様、ご快癒おめでとうございます」
「元気なみちる様に会えて嬉しい!」
「ありがとう。心配をかけてごめんなさいね」
 
 あれから数日経ってみちるの熱は引いた。時折浅く咳き込むことはあるが、苦しくなることはない。徐々に本調子に戻っていくだろう。
 粥も卒業し、ふっくらと炊かれたご飯を食めば体力が戻っていく気さえする。代わる代わる世話を焼いてくれる献身的な雫達にみちるは微笑んだ。
 
「天巳様も、きっとお喜び」
「嬉しくって雨粒が踊っちゃうかも」
 
 くるくるーと歌いながら手を取って踊るシノ達に拍手をしながらみちるはちらりと窓の外を見た。
 今日の雨空は少し明るいようだ。
 
「天巳様は、お部屋にいらっしゃるの?」
「ええと、多分? お仕事? があるみたいで」
 
 こてんと首を傾げたシュウがそのまま転げそうで、慌てて手を貸せば、きゅっと握り返された。
 
「みちる様の手、あったかい!」
「シュウずるい、シノもみちる様ぎゅうする!」
 
 大人顔負けの言葉遣いをしているかと思いきや、すぐに見た目通りの甘えたがりを発揮するふたりに構われながら、みちるは賑やかな食卓を味わった。
 ――けれど、やはり足りない。
 毎日様子を見に来ては世話を焼いてくれたのは天巳も同じだ。
 こうして動けるようになった今こそ、みちるから礼をしに行くのが礼儀だろう。否、それは建前であり、ただ会いに行きたいだけなのかもしれない。
 無条件でみちるを慈しんでくれる天巳は、みちるにとって今や唯一無二の存在だ。
 彼の唯一として生まれたのならその役目をまっとうしたい。天より水底に沈むことを選んだ彼に寄り添いたい。
 この数日間の献身的な看病を受けて、みちるはその思いをより強くした。
 
「……ねえ、天巳様のお好きなもの、何か知ってる?」
 
 何か差し入れをしたいの、と切り出しつつ問えば、シノとシュウは揃って顔をこちらに向けた。
 
「みちる様」
「……ええと?」
「天巳様が好きなのはみちる様!」
「だから差し入れはみちる様一択!」
 
 異口同音にそう言われてみちるは気圧されるが、それでは何の差し入れにもならない。それでは単に顔を見せに行くだけになってしまう。
 
「天巳様にとってのお水はみちる様なの」
「ご飯も、お花も、空気も!」
 
 空気も、とは流石に過剰すぎる気もしたが、そこは頑として譲らないふたりだ。おかげでみちるは何ひとつ有益な知見を得られずに身ひとつで天巳の部屋に「差し入れ」をしに行くことになってしまった。
 先日、用意してもらった傘を差して庭に出る。渡り廊下からも天巳のいる棟に行けるそうだが、みちるはこの雨を避けたくはなかった。
 雨降り続く水底の宮。潤いに満ちる空気はしっとりと肌に馴染んでいく。裾に泥はねをあげないように注意しながら飛び石を渡る。
 途中まで来て、傘をうつ雨粒が静かになっているのに気づき、おもむろに傘を傾け庭を見た。
 ――明るい。雲が薄くなっているのか。雨が小止みになっている。
 陽が射している。そこで無意識に身を強ばらせた。
 この水底において、雨は結界だ。しっとりとけぶる雨の壁があらゆる災厄を洗い流す。
 そこに陽の光が射し込むということは――
 はらり、とみちるの眼前に黒いものが舞う。黒い――烏の、羽根だった。
 飛び石にはらりと舞った漆黒のそれは異質なほどに己を主張し、己に降りしきる雨粒を弾いてなお光を放つ。
 ぎくりと足を止めたみちるはそれを凝視する。これはここにあってはいけないものだ。
 咄嗟に踵を返して渡り廊下から天巳の元へ向かおうとすると、ばさりと耳を打つ羽音が足を縫い止める。
 
「……ああいた。具合悪くしてたんだって?」
 
 軽やかな声音と共に黒を纏った青年が降りてくる。爪先が飛び石に着くや否や、くるりと体を回転させた彼は羽根に付着した雨粒を払うように手をひらめかせた。
 
「慣れない環境で疲れたんだろうねえ。もう出歩いて大丈夫なのかい」
「玄烏……さん」
「お、名前覚えていてくれたんだね。雨巫女様にはご機嫌麗しゅう……なんてね」
 
 片目を軽くつぶってみせた青年――玄烏は人懐っこく笑ってみせた。陽光の如く晴れやかな表情にも関わらず、相対するみちるは傘の柄を固く握りしめたまま目を離さない。
 
「まあ、あれだけずぶ濡れになってたら風邪のひとつもひくよねえ。俺はあの後すぐに湯浴みしたからこの通り元気いっぱい。天巳はあたためてくれなかったんだ? 冷たいやつだな」
 
 はっと漏らした吐息に嘲笑が含まれていることに気づかぬみちるではない。自分に向けられたなら流してしまえた棘も天巳を謗るものであるならば取り払ってしまいたかった。
 
「あ……まみ様も、すぐにお湯を使わせてくださいました。私が弱いから倒れただけで……天巳様は、何も、悪くありません」
 
 はっきりと言い返したみちるの一言一句を律儀に頷きながら聞いていた玄烏は、長い体躯を折り曲げてみちると目線の高さを合わせる。黒眼鏡の縁をかちゃりとずらして、直接金の瞳でみちるを見た。
 
「ふうん。体、弱いの? 昔から? 持病とかある? 合わない食べ物があるとか?」
「え……」
 
 天巳のことをこれ以上悪しく言うようなら突っぱねようと身構えていたみちるだが、思いもよらぬ角度から矢継ぎ早に疑問をぶつけられて肩透かしを喰らう。
 
「食べ物は、特に……」
「そう。人の子には個体によって毒になったりならなかったりする食べ物があるらしいけど、あの酷い暮らしをしてたら選り好みなんてしてられないよねえ。でもそんな中で何年も生きてこられたのは流石だよ」
 
 えらいえらい、と幼子を褒める口調でこれ見よがしに拍手をされてみちるはどうにもむず痒くなる。困りきったその表情を黒眼鏡の奥からしっかりと見据えつつ、玄烏は忙しなく動かしていた薄い唇をいったんつぐむ。笑顔の形に固められたそれを殊更ゆっくりと開いた。
 
「きみ自身の素養はもちろんだけど――ご両親が大切に育んできた下地があるからだろうね」
 
 はっと、みちるは顔を上げた。にたりと三日月型につり上がった唇がみちるの動きひとつひとつを見定め、嗤う。
 
「知ってるよ。あの先代を凌ぐほどの加護を持って産まれた娘だ。幼い頃は下にも置かない身の上だったろう? そこから一転、能無しと蔑まれたのは悲惨だったね。けど、そう簡単に伏せっていたら明日の飯は降ってこない。晴れの日も風の日も、たまに気まぐれに降る雨の日も、きみは必死に生きて……いや、生き延びてきた。案外きみは丈夫で図太いのさ。こんな雨ひとつじゃ揺るがないくらいにはね」
 
 褒められているのか貶されているのかわからない評価を飲み込まされて、みちるの口の中が苦くなる。どこかで感じた味だと記憶を辿れば、別れ際の強引なくちづけが脳裏をよぎった。
 
「それで――俺の言いたいこと、わかるかい?」
 
 みちるの頭を覗いているのか、赤い舌の先端をちらりと突き出しては引っ込めた玄烏は、黒眼鏡のつるをくいと引っ張ってその瞳を晒した。
 烏の輝くまなこが、己が羽根と同じ色の娘に焦点を定めた。
 
「その黒い瞳は俺が与えた色さ。半端な加護の烙印じゃない。太陽の申し子たる烏の――俺の花嫁である祝福だよ」
 みちるは眼前で漆黒の羽根を広げる男を見上げた。
 何度も瞬きを繰り返し、頭の中で彼の言葉を反芻する。
 軽やかな声音。それに似合わぬ重い一撃であることは本人も承知しているのか、みちるが状況をうまく飲み込めぬことも愉しんでいるようにふんふんと鼻歌を歌ってみせる。
 
「あなた……が? どうして……」
「おっ、復活した? いいね。固まったままならさっさと連れて行こうかと思ったよ」
「連れて?」
「そう。だってこんなじめじめした辛気臭い新居なんて御免だろ。俺ならきみを陽のあたる場所に連れ出してあげられる」
 
 玄烏はそこに観客が居並ぶ舞台であるかのように両腕を広げた。黒い羽根がばさりと重たく響いて彼の威光を引き立てる影となる。
 
「なんだかんだ言っても住み慣れたあの村が一番だろう? 優しいご両親に俺らを敬ってくれる従順な民。そしてみちるは類まれな加護を以て村を照らす()の巫女だ」
 
 くるりと回ってみせた玄烏は硬直したままのみちるに深く跪いて手を差し伸べる。傘の柄を握ったままのみちるはそれに応じることはなかったが、淡々と切り替えた彼は不思議と不恰好にならない仕草で胸に手をあててみせた。
 
「そして極めつけにきみの隣に立つのは陽の光を導く八咫烏たるこの俺がいる。どうかな。違った未来が拓けて来ないかい?」
 
 またもやぱちりと片目をつぶってみせた玄烏はそれが癖らしく、にっと口の端を上げて笑う。
 しかし、みちるは彼の仕草などどうでも良かった。彼があっけらかんと言い放ってみせた、ただひとつが彼女を捉えて離さない。
 
「…………優しいご両親?」
「そう! きみを大切に育ててくれた御尊父と御母堂さ。彼らがいなくちゃ今の君は無いからね」
「そんな……だって、ふたりとも、もう」
「そうだね。きみの認識ではそうだろう」
 
 しんみりとしてみせた玄烏はふっと目を伏せる。彼岸へ向けるまなざしに、みちるは玄烏の考えが読めずにただただ混乱させられるばかりだ。
 
「……会いたくは、ないのかな?」
 
 そう問われて否定できるほどにみちるの中で両親は過去の思い出になりきってはいない。心の一番やわらかい部分を突いてみせた玄烏は、みちるの答えを待つだけの余裕を見せる。
 何度か口を開いては閉じを繰り返していたみちるは傘の柄を握り締めながらふるふると首を振る。案外粘るな、と口の中だけで呟いた玄烏だが、今度ははっきりと音を乗せた声を発した。
 
「御母堂には浅からぬ縁があってね。頼まれごとを請負ったよ――天巳について、だけど」
「あま、み、さま」
「そう。確かに天巳はきみの運命でもある。けれど、異なる種族の運命なんかにきみの一生を棒に振ることは無いんだ。ま、一緒に暮らしてわかってきたと思うけど、あいつはなかなか一途だろう?」
 
 みちるは恐る恐る頷く。この水底に招かれてから何不自由がないようにと世話を焼いてくれた天巳の献身はみちるの想像を超えていた。それを一途と呼ぶならまさにその通りだ。
 玄烏は庭木を見渡すと、手近な葉を一枚むしってくるりと円錐状に丸める。それを杯に見立てて枝からしたたる雨粒を受けとめ始めた。
 
「それはね、言葉を変えれば執着とも呼ぶんだ。気の遠くなるような時を生きるべき龍が、全身全霊をちっぽけな人の子にすべて向ける」
 滔々と語るうちに葉の中身は徐々に雨水で満たされていく。
 
「いくら雨巫女といえど、人の子だ。生きるべき場所から離れ、破滅的なほどの霊力を受けとめ続けられるほど、強い存在ではない。寵愛の始まりは遠からず破綻する蜜月の終わりを意味している」
 
 一滴、また一滴。絶えずしたたる雫を受けとめ上昇していく水面は、器の脆弱さなど歯牙にもかけず広がり続ける。やがて増幅していく小さな水面の圧に葉の内側が震え出す。
 
「今までは気にも留めなかった些細な疲労が亀裂になる、心のうちが揺さぶられて見たことの無い自分が暴かれる――覚えはないかい」
 
 玄烏に問われるまでもなくみちるには心当たりがあった。天巳に連れられて初めて庭に出たあの日。雨音ひとつひとつにどうしようもなく心が掻き乱された。
 雨を待ち望む雨巫女としての本懐が揺さぶられたのだろうと思っていた。しかし、今にして思えば自分らしくないにも程があるふるまいだった。
 濡れることがわかっていながら傘を捨てて雨に打たれる、激昂する、天巳の制止に聞く耳を持たない――押し殺してきた幼い感情の発露なのか、それとも。
 そしてその結果の発熱だ。もっと体の芯から凍る寒さを味わったことはあった。美沙に受けた酷な仕打ちは手足の指で数えるには足りない。けれど、僅かな時間、雨に打たれただけで昏倒したのだ。あれは、本当に環境が変わったことによる疲労のせいなのだろうか?
 ぐるぐると渦を巻く思考の海に放り出されたみちるを引っ張り上げんばかりに、玄烏は言葉の命綱を投げ込む。それは妖しく揺らめいてみちるの眼前で尻尾を振った。
 
「きみにとって心地の良い献身であり、離し難い慈愛の雨垂れだ。しかし、最初は受け入れ、満たされることに浸る杯も――やがて溢れて内側から砕け散る」
 
 玄烏は無情にもぱっと手を広げる。葉はびしゃりと弾け飛んだ。びしょ濡れになった手を振って水気を払った玄烏はちらりと視線を泳がせた。みちるがそれを追えば、庭に設えてある川に葉が落ちるところだった。水面はそれを受けとめると、音もなくそれを流れの果てに追いやっていく。
 
「きみの御母堂は、それを恐れたのさ。だから俺に祈りを捧げた。禁忌とわかっていながらね。ああ美しき母の愛ってところかな」
「禁忌?」
 
 みちるは母のことをほとんど知らない。胸に抱いてもらった覚えはある。雨龍の御方のために舞う、雨巫女としての顔に畏れを成したこともある。しかし、それは母の人となりを知るものではないのだ。
 何を感じ、考え、日々の糧としてきたか。みちるの行く末をどう案じてきたのか。それを語らうにも反発するにも、まだみちるは幼すぎた。
 そう。幼いみちるを遺してどのように泉下の人となったのか――父も含め、誰も語ってはくれなかった。
 それゆえに、みちるは雨巫女の任をひとりで学ぶしかなかったのだ。祠の祀り方、祈り方、祝詞の奏上、そしてかの神剣が何故奥宮に残されていたのか――知らねばならぬことが山ほどあった。
 その母が、禁忌を犯した?
 傘の柄を握りしめた指が白んでくる。鼓動が胸の内側から振動となってみちるの喉を動かす。
 
「母様は、貴方に何を祈ったのですか」
 
 玄烏はゆっくりと口の端を歪めた。
 
「雨龍と雨巫女の繋がりを利用して、加護を反転させること。つまり呪いさ。きみの御母堂は龍を欺いた。その報いとして命を落とした。まあ天に唾する大罪の報いとしては軽すぎるけどね」
「のろい……」
 
 玄烏の言葉を反復するだけでずんと重くなっていく胃の腑のあたりを無意識にさする。
 それを見て玄烏は「おやおや随分繊細になったね」と鼻で笑った。
 
「母親の命と引き換えになり損ないの雨龍から逃れられたっていうのに、結局それに捕まって絆され、馬鹿みたいな執着に食い殺されようとしている。お人好しにも度が過ぎるとは思うけど、どうやらきみの霊力は封じたところで渾々と湧き出てくる泉のようだ」
 
 玄烏は一歩前に出ると、みちるが縋り付いている傘を掴んで放り投げる。放物線を描いたそれが落下するより早く、みちるを引き寄せ金の瞳でまっすぐに見つめた。
 
「雨龍を堕とす手伝いを引き受けたのが運の尽き、いやこれぞ運命……かな」
「……ッ、や、離してっ」
 
 身を捩るみちるの肩を抱き込んだ玄烏はそれ以上の抵抗を封じこんだ。
 あの時と同じように、唇を重ねる。
 息を吸い込む直前で硬直した唇を割って玄烏は深くみちるを味わう。
 
「んん……!」
 
 押し付けられた胸板を押し返そうとする精一杯の抵抗すら愉しみつつ、幾度も角度を変えてみちるの唇を貪った。
 身を焦がす熱い唇。その中に溶けだした甘さが、みちるを捉えて離さない。
 じっとりと濡れた玄烏の革手袋がみちるの頬を包み込む。その中で黒眼鏡のひやりとした感覚がみちるの肌になじんでいく。
 ようやくみちるの唇を解放した玄烏は、くたりと力の抜けた華奢な体を抱きとめつつ耳元に唇を寄せた。
 
「きみは青と黒の狭間にいる花嫁だ。きみの母がそうしたように、俺もきみを守ってあげる」
「や、天巳さま、たすけ……」
「人の子に呪われるような龍が助けに来るはずがない。生かされた命は、大切に使わないとね」
 
 喉の奥で押し殺した笑い声が頭に響く。
 黒い革手袋がみちるの顎をそっと捕らえ、持ち上げる。
 雨で額にこごる前髪をそっと梳き、左右で色の違う瞳をまじまじと覗き込んだ。
 
「中途半端なのは好きじゃないんだ。早く俺の色に染めてあげるよ」
「い、いや! これは、天巳様と同じ……」
「だ、か、ら。それが嫌なんだって」
 
 歌うように節をつけた玄烏は強引にみちるを横抱きにすると羽根を広げる。
 とん、と軽く飛び石を蹴って舞い上がったその影が水底の池に映り込み、影絵のように焼き付いた。
「……みちる?」
 
 執務机に向かっていた天巳は顔を上げた。
 背筋をざわざわと駆け上る感覚にたまらず椅子を蹴飛ばさんばかりに立ち上がる。机に載っていた書物や巻物が崩れて床に散らばった。墨を含んでいた筆までもが弾け飛んで壁に黒い飛沫が飛び散った。
 
「……っ」
 
 机に手をついて呼吸を整える。閉じた瞳の奥で水脈を辿る。
 水底の宮を流れるすべての水は、天巳の霊力が溶け込んでいる。今まで彼のものだけで満たされていた水脈に、突如混じり出したのがみちるの霊力だ。それを追うなどと考えたこともない。白い料紙に落ちた墨汁を見つけることと同じだからだ。
 しかし、水脈の気は、混じり気のない清廉な天巳のものだけに戻っていた。
 ――みちるが、どこにもいない。
 最悪の結果を再確認した天巳は大股で執務室を後にする。勢いよく閉じられた扉が嫌な音を立てた。
 
「シュウ、シノ!」
 
 みちるの部屋へ向かいながら呼べば、雫ふたりはすぐに姿を現した。いつもくすくす笑いながら見た目通りにはしゃいで跳ねるふたりだが、今回ばかりは神妙にしている。
 
「天巳様、大変」
「みちる様、いない」
「みちる様、天巳様に会いに行ったのに」
「みちる様、お庭から消えた」
「庭?」
 
 天巳は口々に報告を重ねるふたりを連れて庭へ向かう。常雨の庭は、雨が降ってはいるもののその結界は陽の光で散らされてそこかしこの水滴が反射し、妙に明るかった。
 
「雲、弱まってる」
「陽射しが突き抜けてきた」
 
 シノとシュウが揃って空を指さす。
 常ならば分厚い雨雲で覆われている空が、今は綿を引き裂いたように薄れている。その隙間から容赦なく降り注ぐ陽光が庭の隅々まで干上がらせんばかりに強さを増した。
 
「待て、出るな」
 
 天巳に先んじてみちるを探そうとしたシュウを手で制して後ろへ押し返す。力の加減がうまく行かずにシュウを受けとめようとしていたシノも支えきれずに後ろへひっくり返った。
 きゃあ、と悲鳴の二重奏を聞き流して天巳は慎重に庭へ出る。大きな丸い雨粒を遊ばせて揺れる葉をおもむろに弾くと、雨粒が弾け飛んだ瞬間、日に当たったところから土気色に朽ち果てていく。
 無言で眉根を寄せた天巳は他の手がかりを探すために更に足を進めた。徐々に乾き出した土がその色を薄くしている。天巳が歩けばそこは再びじとりと潤い、色が沈んだ。
 
「みちる」
 
 泥はねなど気にもとめず、天巳は庭を巡る。もう彼女の気配はここに無いことなどわかっている。
 しかし雨音は知っている。彼女の足音を。
 雨粒は映している。みちるの姿を。
 水たまりは見ている。みちるの足取りを。
 
「みちる、どこだ、どこに行った」
 
 やがて天巳は飛び石の終わりまでやって来た。小さな橋に至るその手前に――それは、あった。
 
「みちるの、傘」
 
 ひっくり返り雨を受け止め続けている、本来の役割を果たしていないその柄は、天を指していた。
 蛇の目傘の内側に満ちた雨が、銀の小花を泳がせて回り続ける。きらきら輝くそれは陽射しを乱反射して色とりどりに天巳の瞳を騒がせた。
 
「みちるは何処だ」
 
 天巳の声で、傘の水面が息づいた。
 水面が揺れる。そこに映るのは覗き込んでいる天巳ではない。
 みちるが歩いている。
 ここではない、もっと庭の手前だ。傘をさしたばかりの所で何かあったのか。
 みちるは天巳の住まう執務の棟を見上げている。何かに驚いて目を見開いた。
 黒い羽根が――見えた。
 
「玄烏、か」
 
 ぎり、と奥歯を噛み締めながら水面を見つめる。
 映るばかりで音が聞こえないことがもどかしい。
 何かを語られ、困惑した様子のみちるに更に詰め寄る玄烏。映し出される記憶に干渉できないと知りつつも割り込んで追い払ってしまいたい衝動を抑え込んでいた天巳だが――ふ、と表情が消えた。
 水面の中で、玄烏がみちるを抱き寄せていた。そして重ねられた唇。
 ぐったりと脱力したみちるが攫われていく。黒い羽根が勝利を宣言するように大きく羽ばたいてふたりが姿を消す。
 そこで水面はまた空を映し出した。
 
「…………みちる」
 
 握りしめていた天巳の手のひらから、つうと血が滲み、水面に落ちる。薄紅色が波紋を描いて溶け込んでいく。
 
「待っていろ。迎えに行く」
 
 静かな鬨の声を皮切りに天上に雲が集まり出す。何層ものそれは重なったことで白から灰色へ、鈍色へ、そして暗雲となり雷を呼ぶ。
 刹那、水底に光が満ちた。そして瞬く間に黒雲から雷の槍が突き立てられる。
 一寸先も覚束無いほどの雨が矢となりつぶてとなり降り注ぐ。
 天巳は血を垂れ流す手のひらで空を仰いだ。降りしきる雨に洗い流されていくはずのそれが、地から噴き出す雨水を呼んで巻き上げられ、水と血が混ざった塊になった。
 
「我の花嫁に手を出したか。空に太陽は要らぬということだな」
 
 みちるには一度も聞かせたことのない声音で、天巳は低く囁いた。
「長い長い冬が明けました。緑の大地を照らすあたたかな光! これもすべて――様が賜った御加護のおかげにございます」
「ありがとう、――様! これ、ぼくたちが摘んできたお花だよ。――様はお花、好き?」
「わたくしたちもより一層、分家としての矜恃を持ってご本家を支えるよう励みます。――様、ご安心くださいね」
 
 どこかで聞いた声が次々とみちるの内に満ちていく。懐かしく、あたたかく、そしてどこか――物悲しい。
 しゃん、しゃん、と鈴の音が響いた。続いて笛の音が天へと上っていく。これも聞き覚えのある音色だ。
 
「この祠では――様を祀っているの。見て、この目が覚めるような金色! 姿が見えなくても、ここからわたしたちを見守ってくださるのね」
 
 太陽の光を受けて誇らしげに輝く金色。それを大切に押し頂いているのは誰だろうか。
 
「あなたの代でますます御加護は強く確かなものになるでしょうね」
「まったくだ。私たちも鼻が高い」
 
 ほっそりとした女性に寄り添う男性の輪郭。胸にどっと押し寄せた感情に名をつけられぬまま、みちるは咄嗟に手を伸ばした。
 しかし、ふたりに触れることは叶わない。
 
「逢いたいだろう?」
 
 背後で、烏の声がした。
 
「抱きしめてもらいたい、頭を撫でてもらいたい――いいんだ。きみにはそれを願う権利がある」
 
 あと少し手を伸ばせば触れられるところに、懐かしい顔が見える。思い出の中だけで焦がれていた微笑みがそこにある。
 
「ただ、今のままじゃ駄目なんだ。きみに加護を授けたものを――はっきり自覚して、俺に伝えて?」
 
 ふたりの輪郭が揺らぐ。ちらちらと細かな光の粒子がふたりの顔を覆い隠す。
 遠ざかるそれを引き止めようと手を伸ばすみちるの手首が後ろから伸びてきた羽根に包まれ、くるりと体を反転させられる。
 黒い羽根がみちるの背を優しく包んだ。明るく照らされていた理想郷を、舞い散る羽根がまだらに隠す。
 
「ほらほら、俺だって意地悪はしたくないんだ。こう見えてお嫁さんは大切にしたいんだよ?」
「……お嫁、さん?」 
「そう。きみほどの霊力を秘めた娘と契りを交わせばこの天の下はあまねく光で照らされる。八咫烏が導く光は強く深くどこまでも届く。たとえ水底に逃げたって干上がらせてしまうだろうね」
 
 ――水底。
 みちるの瞳の奥が何かをうったえかけるようにざわめいた。
 玄烏はつまらなさそうにその変化を見抜くと、両手でみちるの頬を包み込んで己の顔に引き寄せる。
 
「ほら、俺の瞳にきみが映ってる。瞳の色は何色かな? 青? 黒? 違うよねえ」
「色……わ、たし、は」
「よし、一度目をつむって。自分の中に流れる霊力を感じてごらん」
 
 玄烏は革手袋をした手でみちるの瞼を覆う。ひやりとした感覚が混乱しきったみちるには心地よい。玄烏の言う通りにそっと目を閉じればさらりと前髪が撫でられた。
 
「そう、いい子」
 
 甘い囁きと共に額にくちづけが落とされる。みちるの内が落ち着きなくざわめいて掻き乱されていく。
 何かが変わってしまうような不安。玄烏の手をどけようとすると、後頭部を少し強めに抱きかかえられた。
 
「俺の名前を呼んで?」
「……玄烏?」
「うん。そのまま目を閉じて。何色が見える?」
 
 閉ざされた視界は真っ暗闇だ。しかし時折何か光るものがちらついた。その色は、果たして。
 
「……わからない。白い? ような……」
「……へえ」
 
 甘さを削いだ低い声音。みちるの背筋が硬直する。
 
「まだ染まらないつもり? もうひとつの過去が欲しくないのかな」
 
 突然、視界が一気に明るくなる。玄烏が手をどけたのだ。
 戸惑うみちるの顎が持ち上げられて金の瞳が細められた。
 
「もうひとつの過去は金色にきらきら光って綺麗だろう? きみは日の巫女として、皆を照らし崇められていたんだよ。きみに満ちていくのは水じゃない。まばゆいばかりの日輪だ」
 
 どくん、と鼓動が始まりを告げた。
 みちるの瞳は玄烏のそれに映る景色に魅入られている。
 丁寧に拭き浄められた板の間。
 日輪を柄に刻んだ神剣はその鞘すら輝いている。
 それを手にして舞うのは黒衣を纏ったみちるだ。
 永遠を顕す正円の鏡を額に掲げ、誇らしげな笑顔で栄光を振りまく。
 
「……あれは……わたし?」
「そう。みちる、きみだよ。美しいだろう?」
 
 玄烏は懐から短剣を取り出してみちるに持たせる。舞うみちるが携えているものと同じ神剣だった。
 
「ほうら、日の巫女の証だ。輝かしいね」
 
 輝きに魅了されたみちるは、操られたように玄烏の瞳に、その中で舞う自分に魅入る。
 優雅に、そして力強く舞うみちる。それは思い出の中の母と似ていた。その袖がゆったりと膨らみ、やがて烏の羽根になる。何かに向けて伸ばされた手を取るのはやはり同じ黒衣をはためかせる玄烏だ。
 眼前の光景に重ね合わせるように、玄烏はみちるの手を取った。鞘を握る手を上から包み込むと、そっと指先だけを絡め、爪にくちづける。
 映し出される絵空事と現実が混ざりあっていく。
 玄烏と揃いの色を纏って微笑むみちるは、その金の瞳で玄烏を見つめている。
 
「綺麗だよ。その金の瞳、蜂蜜みたいにとろけそうだ。あまねく世を照らす光の瞳を持つ日の巫女。八咫烏たる俺の伴侶にふさわしい色だ」
 
 睦言を聞いているのは、どちらのみちるだろう。
 頬をすべる玄烏の指がくすぐったい。このままくちづけられることを恥じらって顔を背けた先で、父が母の肩を抱いていた。
 
「……かあさま」
 
 母は袖で目元を押さえている。みちるが玄烏と添うことが嬉しいのだろうか。
 父がしきりに口を動かしている。何を言っているのか聞き取れず首を傾げる。
 
「父様? よく聞こえない」
 
 何かを訴えかけるような気配にみちるはただならぬものを感じて玄烏を押しやる。
 
「待って……父様が、何か」
「直にわかるよ。ほら、ご両親の前だから恥ずかしいのはわかるけど、こういうことはきちんとしないと」
 
 たやすくみちるを引き戻した玄烏は親指でみちるの唇をなぞる。
 
「さあ、教えて。きみは誰の加護を受ける巫女だい?」
 
 軽やかに尋ねてくる眼前の男の名を呼べばいい。それですべてが変わる。
 それだけで父と母とまた共に暮らせる。烏に愛でられ、求められるままに巫女としての役目を果たして、そうすればみちるは――
 
「………………あ…………」
 
 目の前が白んでくる。金も黒も溶けていく。
 両親の輪郭が朧げになる直前、父がすうと息を吸った。
 
「   」
 
 それが耳に届く直前、空がごう、と鳴った。
 どこか現実味のない光の乱反射が吹き荒れる風の彼方に消えていく。
 空高くで何かが吠えている。風の唸り声か、雲の断末魔か。
 みるみる空が黒雲に覆われていく。その中で暴れ回る瞬きの正体に気がついた時――それは既に地を貫いていた。
 抉られた足元が次々と波打つように隆起し、空へ戻らんと天上めざして跳ね上がっていく。
 地が水を噴いていた。地面が脈打ちながら辺り一面を水浸しにしていく。否、水位がどんどん上がり行くこの有様では水浸しなどという生易しいもので済まされない。
 
「ちっ、あとひと息だったのに」
 
 玄烏が羽根を大きく広げて傘を作る。噴き上がる水を防ぎながらみちるを抱えて飛ぶつもりだ。ふわりと浮いた足元をぎょっと見て、みちるはじたばたと身をよじった。
 
「いや! 離して!」
「急に元気になったな。いいのか? ここで手を離したら沈むしかないぜ。大好きなご両親に二度と会えなくなっても――ああ、いや、会いたいのか」
 
 腰に回された腕をなんとか振りほどこうとするみちるがはっと動きを止める。静かに玄烏を見上げれば、優しいばかりのとろける瞳はそこになかった。
 暗雲を背負って爛々と光る金のまなこ。そこにあるのは傲慢さを宿らせた支配者の目だ。
 
「やっぱり……やっぱり父様も母様も、もういないんじゃない!」
「いいや? 居るって言っただろ。俺の用意した過去を選べば、な」
 
 吹きつける風に巻き上げられた水の飛沫がみちるの頬を打つ。金の瞳にあてられて呆けていた意識が研ぎ澄まされていく。
 
「私の過去にはきらきらした思い出なんてないの。ずっと明るい太陽を恨めしく思って生きてきた。私が望んでいたのは目のくらむ太陽じゃない、寄り添ってくれる雨。だって、私は、雨の……ッ」
 
 風に煽られて玄烏の羽根がみちるの頬を打つ。その衝撃で持たされていた神剣の鞘がするりと抜けて真っ逆さまに落ちていった。あっという間に水面に吸い込まれていくそれを見て、ぐいとみちるを抱え直した玄烏が空を目指して大きく羽ばたく。みちるはそれでも懸命に身を捩った。
 
「ここから落ちたらあの鞘と同じ目に遭うぜ。お前は利口だと思ってたんだが見込み違いか?」
「貴方と飛ぶくらいなら沈んだ方がましよ!」
 
 みちるは抜き身の神剣を勢いにまかせて振り払う。
 あぶね、と首を仰け反らせた玄烏の腕の力が緩んだ。胸板を押し返そうと逆手に持ち替えたところで刃が腕の内側をすべる。
 
「い……っ」
 
 鏡のように澄んだ剣はみちるの柔肌を切り裂いたが、構わず勢いに任せて玄烏を押しのける。
 
 黒雲と波打つ水面のちょうど真ん中に、みちるはひとり飛び込んだ。
 
 真下ではごぼりと水が湧き上がる。その一瞬、水面が龍の口を象って大きく裂けた。
 みちるの腕から流れた血が帰る場所を見つけたようにそこへ飛び込む。
 そして――黒雲が、稲妻を呼んだ。
 水面に叩きつけられることを覚悟していたみちるの体が優しく抱き上げられる。
 一滴、また一滴と降ってきた冷たい雫がみちるの腕に丁寧に触れては傷口を洗い流していく。
 すっかり綺麗になった腕を確認して――天巳は、抱き上げたみちるに頬ずりした。
 
「よく戻った……みちる」
 
 降りしきる雨の繭の中、みちるはそっと目を開ける。
 青と黒の瞳が、互いに微笑んだ。
 
「あまみ、さま……」
 
 みちるは天巳に手を伸ばす。その手を優しく受け止めた天巳は己の輪郭を確かめさせるように頬へと導いた。
 
「ここに居る」
「天巳様、ご無事で良かった……」
「こんな目に遭った後に我の心配か」
「だって、天巳様に何かあったら」
「案ずるな」
 
 そう言い聞かせれば、みちるの頬を淡い雫が伝っていく。
 雨ではない。
 涙だ。
 はらりはらりと。花がほころぶように。
 みちるの中で逃げ場を探しながらも渦を巻くだけだった哀しみが、安堵が、愛おしさが、淀みから解放されて頬を流れる。
 
「みちる、そなた……泣いて、いるのか」
「……え?」
 
 夢うつつの瞳をゆっくり瞬いて、みちるは己の頬に触れる。肌を濡らすあたたかな水。
 泉の飛沫で濡れたあの時は、泣けぬ己への天巳からの無言の、そして精一杯の激励だった。しかしこれは――
 
「わたしの、涙?」
 
 幾度目尻を拭っても指先を濡らすそれを涙だと――己が泣いているのだとそう認識した途端、みちるはくしゃりと顔を歪ませた。
 鼻の頭がつんと痛い。目の奥で火が灯ったように熱い。呼吸が浅くなる。視界が白く朧気になる。
 泣かずにいた時のほうが余程世界は明瞭だった。
 何にも揺らがぬ、揺らげぬ自分。
 己のうちだけですべて終わらせて、飲み込んで、前を向く。
 そうするしかないと、それ以外に道は無いのだと、言い聞かせては目を閉じてきた。
 しかし、これは――
 瞬きするたびに涙の粒が弾ける。しゃくりあげるたびに体の中で気が巡る。
 みちるを形作るものが、外からも内からも瑞々しく波となって溢れ出す。
 ほたほたと拭いきれぬそれを幼子に戻ったように手の甲や手のひらで受け止めつつも、それを恥じらったみちるが首をふるりと振って顔を上げた。
 
「あまみさま」
 
 溶け出さんばかりの瞳。否、本当に色が溶けて薄く見えるのは涙の膜に覆われているからだけではない。
 黒いまなこが雨雲を思わせる鈍色へ、そして混じり気のない白へと透き通っていく。
 
「みちる、そなた、目が」
「え?」
 
 天巳がそのまなこを覗き込もうと額を寄せたその時――まなこの奥で、泉が大きく波紋を描いた。
 小さな小さな稲光が瞬いて始まりを告げる。
 みちるの内から溢れる恩寵のみなもとがその堰を切って彼女自身を満たしていく。
 もう、とめどなく流れていた涙は止まっていた。
 ごしごしと擦り過ぎたせいで腫れた目元で天巳を見つめ返したみちるの両の瞳は、水底を映した(はなだ)色に揺れていた。
 
「目が……? どうか、したのですか」
「……いいや、何も。変わらず美しいまなこだと思って、な」
 
 天巳の瞳が眩しげに細められる。まっすぐに伝えられる手放しの賛辞はみちるの心にじんと染み入っては彼女を満たす慈雨となる。
 それでもやはりこそばゆいことには変わりはないのか、みちるはむずがるようにして天巳に縋りついて顔を隠した。その重みを愛おしく感じながらも天巳は険しい眼差しを空に向ける。
 降りしきる雨から成る結界が、やや薄らいでいく。射し込む薄日を背に従えて、宙に身を遊ばせる玄烏が静かに舞い降りた。
 
「あーあ。呪いが解けたか……これで名実ともに水底の花嫁になるわけだ」
 
 歌うようなそのひと言に、みちるはぎくりと身を強ばらせる。こぼされたその言葉の意味を問うために顔を上げたが、天巳の方がひと呼吸早かった。みちるの肩をしっかりと抱き寄せて玄烏をねめつける。
 
「我が妻を拐かした痴れ者、報いは受けてもらうぞ」
 
 薄らいでいるとはいえ、空を覆うのは大部分が黒雲だ。その中で威嚇する稲妻の明滅は天巳の意のままに無数の弓矢となって獲物を狙っている。
 退路を絶たれても尚笑みを崩さない玄烏は、あえて挑発するように羽根を大きく羽ばたかせた。
 
「はっ、堕ちた蛇が大口を叩くね」
 
 稲妻よりもゆっくりと、しかし勢いよく不自然なほどに太い光の柱が暗雲を割る。次々と現れるそれらは燦然と輝き、水面を穿つ槍となって雨の領域を侵していく。
 晴れゆく雲の彼方を稲妻が駆け、のたうつ龍となって咆哮を上げる。
 暗雲の下に射し込む光が意気揚々ときらめく翼を押し広げる。
 水底の龍と天空の烏は互いの喉笛を食い破らんばかりに爛々と目を光らせていた。相手の出方を眈眈と窺うその様に、みちるはごくりと息を呑む。
 わずかな動きすら水を通して伝わるのか、その振動で跳ねた雫が水面から飛び出した瞬間、じゅうと掻き消えた。寄る辺となる水面を失い、ただの雫となったものは為す術なく熱に我が身を奪われていく。
 
「あっはは! 集まっていないとたちまちこれか! 巣穴から顔を出したものから順に――だなんて、積木くずしみたいだな。儚い生命だ」
「水は流れ、上り、溶け込んだ先でまた降りてくる。永遠に巡る。儚く見えるのは貴様がそこしか見ぬからだ」
「永遠を語る前に今この現実に向き合いなよ。干物になるまでそこに突っ立っているつもりなら手伝ってやろうか!」
 
 しなやかに身を踊らせた玄烏が己の羽根を一枚摘む。中指と人差し指で挟んでひょいと飛ばせば、それは雨の膜を切り裂いた。
 しかし、それは天巳とみちるまでは届くことはなく、降りしきる雨に押し潰され足元に沈む。
 
「自慢の羽根が腐り落ちて沈む方が早いかもしれんぞ」
 
 口の端をわずかに上げた天巳がぐずぐずにふやけて溶けるそれを見送った。
 どちらも引かぬ攻防。天が裂けでもしない限り終わりの見えない予感に、みちるは意を決して声を上げた。
 
「ま……待って」
「みちる?」
 
 ぐいと天巳の腕の中でもがき、下ろしてくれるようにと頼む。支えてもらいつつ二本の足で立ち、玄烏を見上げた。
 雨が止んでいる。
 暗雲を貫く光も塗り込められて雲に歪な穴を穿っていた。
 
「おや、お姫様ごっこは終わりかい」
「呪いが解けたって……どういうこと」
「……ああ、きみのその目のことだよ。優しい優しい御母堂様がきみにかけた反吐の出るおまじない」
「……え」
 
 咄嗟に目元に触れるも、みちるには何が起きたのかわからない。母様が、私に?
 
「俺の力を利用して大したことをしでかしたもんだよ……と今となってはこう笑えるけど、それを知った時は腹が立ったね。けど、どうにかうまく利用できるはずだったんだ……呪いも祝いも表裏一体とはよく言ったものだね」
「あなた、母様の何を知ってるの。だって、母様は――」
 
 加護を逆に辿って、天巳を呪った咎で。
 そう口にする直前にみちるは背後の天巳を気にした。
 これは、天巳の知るところなのか。
 天巳はみちるという存在に触れたことで身を崩した。あまねくすべてを潤す存在から、みちるだけを満たす雨の主となった。それは運命が定めた彼を水底に沈め続ける枷であり、また彼自身が決めた己への戒めである。
 同じように、みちるも天巳と出会ったことで、何かに囚われているのだろうか。それを、母が知っていたとするならば。
 
「きみって本当にお人好しだよね。あれだけ酷い目に遭わされたのに、俺の言うことをそっくり信じ込んでいるのかい?」
 
 芝居がかった仕草で両手をひらりと泳がせた玄烏が鼻で笑う。荒波に放り出された小舟のように定まらぬ思考と、また玄烏のいいように翻弄されている自分に憤り、みちるはぎり、と唇を噛んだ。
 母様、貴方はどういうひとだったの。
 天巳様を呪うほどに、私にまじないをかけるほどに――あなたは。
 その答えを得るには、みちるが浚う思い出は浅く、そして幼すぎる。
 握りしめていた手のひらに鋭い痛みが走る。真っ白になるほど力を込めていた指先が、後ろから天巳に掬い上げられた。
 
「やめよ。これ以上、泉下の者を辱めるな。貴様も神の使いなら道理は心得ていよう」

 先程までの激情を静かに封じた天巳が、淡々と告げる。どれほどの水煙を上げた雨模様よりも厳かな威容に、玄烏が初めておとなしく引いた。
 
「みちる、我もそなたの母が成したことは知っている。この烏が言うこともまるきりの嘘偽りではない――だが」
 
 はっと振り返ったみちるの瞳が不安げに揺れていることに天巳は顔を曇らせる。すべてを伝えることがみちるのためになるのか――いまだ迷いの残る瞳を一度閉じて、みちるを落ち着かせるべく深く頷いた。
 
「そなたの母は誰も害してはおらぬ。本人から直接話を聞けぬのがそなたにとってもどかしいところではあろうが……我らは、知っておるゆえ。そなたが知りたいのなら話そう」
 
 みちるは天巳と玄烏を交互に見遣る。天巳はもちろん、玄烏すら頷いたことにみちるは目を丸くした。
 
「雨巫女であるきみの母親が俺に祈りをかけて加護を打ち消そうとしたのは本当だよ。それが元で生命を縮めたのもね。ただ、それはこいつへの呪いじゃない。みちる、きみを護るためさ」
「え……」
 
 驚きのあまり、玄烏の方へ踏み出そうとしたみちるを制したのは玄烏自身だった。その手のひらをみちるの方へ向けてぱっと開き、距離を取る。
 
「もう俺は今のきみに触れられないし、触れてはならない。まじないが解けたっていうのはそういうことだ。天巳」
 
 戸惑うみちるを飛び越えて天巳に視線を移した玄烏は顎でその先を促した。
 
「……わかった」
「じゃあそういうことだ。あーあ、みちるの霊力、気に入ってたんだけどな。やっぱり今からでもいいから上書きして俺のものにしちゃおうかな」
 
 ぐいと体を折り曲げてみちると視線の高さを合わせた玄烏が軽薄さをふんだんに纏って(うそぶ)いた。己で引いておいた境界線を勝手に飛び越えんばかりのふるまいに、天巳は素早くみちるを腕の中に抱き込んで隠す。
 
「冗談だよ……いつでも本気に変えられるけど」
「やはりそのよく動く(くちばし)に一度雷を落としておくべきか」
「おお怖い」

 大袈裟に身を震わせた玄烏は羽根で己を抱きしめてみせる。
 己を凝視するみちるに思わせぶりな視線を投げれば、天巳の腕の中でぎゅうと硬直する反応に笑うと、ぱっと背中の羽根を払って広げた。

「……最後にひとつ質問。きみに授けられた加護は何だい」
 
 玄烏に囚われていた時、幾度も問われた質問だった。こうして改めて突きつけられた問いの重さに、今のみちるなら振り回されずに答えられる。
 青と黒の狭間にいたあの時に感じていた、答えひとつで自分が変わってしまいそうな不安定な綱渡り。それに怯えていた自分の直感は正しかったのだと自覚すると同時に、答えはとうに決まっていたのだ。

 みちるは顔を上げる。金のまなざしを間近に見てももう迷わない。

「私は雨巫女です。この生命は水底から天を仰ぐ龍と――天巳様と共にあります」

 誓いの言葉が、一滴、大気を満たす。
 じんと染み渡ったそれが水面の波紋のようにみちるを中心として同心円状に広がっていく。
 どこまでも果てのないさざ波に運ばれていくその誓いを、待ち詫びていた雲が――泣いた。

 ぽつり。
 一滴。それを追いかけてぽつり。
 みちるの足元めがけて降ってきた雨粒たちが、順番に波紋を描いて彼女に寄り添っていく。
 見上げれば、雲は雷を宿す黒いものから祝福の雨たちを解き放つ白銀に煌めいていた。
 ばらばらと降り注ぐ祝福の雨。
 それらを受け止め、ほのかに輝く白い頬で笑ってみせるみちるは、紛うことなき雨巫女であった。

「……こんな降り方もするんだな」

 玄烏は背の辺りの羽根を撫でる。幾度も武器として燻らせてきた己のそれが、雨に濡れたことで不思議と熱を散じて癒されていく気がした。
 雨に任せるがままに羽根を下ろして雨を纏う。弾いた雨粒が彼の瞳に映り込んで同じ色に瞬いた。

「――これが雨巫女の祝福か。そうか……」

 くるりと向き直った玄烏は胸に手を当ててお辞儀をした。初めて出会った時にも見せた挨拶。顔を上げた時、彼はあの時と同じように、笑った。

「改めまして今代の雨巫女殿にはご機嫌麗しゅう。この粘着野郎に愛想を尽かしたらいつでも俺に乗り換えなよ。俺がちょっかいを出すよりきみから求めてくれた方が盛り上がるだろうから、ね」
「え」

 つうと彼の頬を伝ったひと筋の雫を指で払い、玄烏は外套を纏い直すようにその艶やかな羽根を風に乗せてひらめかせる。羽根を一枚だけ水面に残し、漆黒の烏は姿を消した。