入浴を終えたみちるが自室へと戻ってくると、そこはしんとしていた。否、かすかな雨音だけが窓硝子を戯れに叩いては過ぎ去っていく。
 無為に部屋をゆっくりと歩く。高い天井の果ては薄暗い雨雲の色に似てよく見えない。
 ぼんやりと灯る壁の灯りは雨粒のようにいくつも連なってはいるものの、部屋全体をくっきりと照らし出すには程遠い。
 座り心地の良い長椅子に、拭き清められた食卓。清潔な天蓋付きの寝台。美しい景色の描かれた衝立はあれど、この明るさではその筆致のすべてを眺めるには力不足だ。
 みちるは極力足音を立てないようにして一番大きな窓に近づいた。この静けさの中では、どうしても自然由来の音以外を出すのが憚られる。
 硝子の向こうに庭が見える。あの辺りを通ったのかもしれないが、雨の筋がいくつもできた窓硝子を隔てては判別が難しかった。
 しとしとと降り続く雨。それ以外に音のない世界。音を出す者がいないのだから当たり前だ。
 
「……そういえば、まだあの子達以外に、誰にもお会いしていない」
 
 良く働く女童ふたりは元は雫だ。生命を持たせたということはつまり、天巳の力の一部でもある。
 みちるはまだ、天巳が介在した以外の者がここに住んでいるのを見たことがない。
 
「雨を司る伝説の龍、雨龍の御方……その方のお住まいが、こんなにも静かで、寂しいものだなんて」
 
 これではあちらの世界で暮らしていたみちると同じようなものだ。否、みちるの方が望むと望まざるとに関わらず、様々な人と関わりを持っていた。決して好ましい間柄ではなかったが、会話があった。音があった。太陽の下ではっきりとした姿を見ていた。
 これではまるで、この宮は――
 みちるは窓の桟に触れる。世界を一直線に切り取り、あるがままの世界とこちらを隔てるもの。
 
「檻……」
「やはりそう思ったか」
 
 呟きに返されたひと言に、みちるは飛び上がるほど驚いた。ばっと振り返れば湯浴みを終えて着替えを済ませた天巳が立っている。
 
「っも、うしわけございません! 畏れ多くも住まわせて頂いている御宮に対してなんと不届きなことを……」
「構わん。慧眼だな」
 
 咄嗟に深く頭を下げたみちるを遮って天巳は肯定した。みちるは恐る恐る頭を上げて天巳の表情を垣間見たが、気分を害した様子は無さそうだった。
 座れと促されて長椅子に座れば、やはり隣に天巳も腰を下ろす。
 
「何から話そうかと迷っていたが、そなたが糸口をくれた」
「話す……」
「烏が喧しかったろう。あれの思うままも癪なことだ」
 
 烏とは、やはり玄烏のことを指すのだろう。傍若無人にふたりの間を掻き回し、あまつさえみちるの唇を奪ったあの男。思い出したことで唇にあの時の熱が灯った気がして、みちるはごしごしと唇を手の甲で擦る。その様子を見つめる天巳の視線はどこか頼りなげだった。
 
「あれの言うこともあながち間違いではないのだ。我は――龍であることを手放した蛇。この水底の宮は我のための牢獄だ」