「みちる様、こちらをお使いください」
 
 翌朝、身支度を終えたみちるにシノが差し出したのは蛇の目傘だった。紺色を基調としたそれにはくるりと縁取る銀色の小花模様が舞っている。
 
「きれい……」
「気に入ったか」
「はい。天巳様が用意してくださったのですね。ありがとうございます」
 
 礼を言ったみちるが玄関でそれをまじまじと見つめ、ほうと息をつく。綺麗だと褒めたはずなのにどこか浮かない表情をしている彼女を天巳は覗き込んだ。
 
「どうした。気分が悪いのか。それとも今日外に出るのはやめておくか」
「い、いいえ! 違うのです。ただ……その、あまりに綺麗なので、使うのがもったいないと思ってしまって……」
 
 申し訳なさそうに持ち手を恭しく掲げたままのみちるから、天巳は傘を取り上げて一気に開いた。傘の中からはらはらと淡い花びらが降ってくる。
 
「わ……!」
「傘は使ってこそだ。行くぞ」
 
 みちるに傘を持たせてやると、天巳も傘を開いて一歩踏み出す。
 戸口に下ろされていた青の紗がふうわりと舞い上がる。
 
「みちる様、行ってらっしゃいまし」
「たのしんでくださいね」
 
 シノとシュウに見送られ、みちるも外へ歩き出す。何故、傘を渡されたのか――その時に、理解した。
 小糠雨が辺りを包んでいる。静かに庭木を潤し、飛び石を艶々と光らせて、世界は静謐な白銀色の紗で囲い込まれていた。
 
「雨は……ずっと降っているのですか」
「ああ。鬱々とさせたらすまない」
「いえ……」
 
 みちるは口を閉じるのも忘れて見入っている。それは景色にというより、一面の雨模様に魅入られているように見えた。
 
「みちる」
「……ずっとこれを、雨が降る光景を……待ち望んでいたのです……それが、こんなに……」
 
 傘の柄を両手できつく握りしめて、みちるは一歩、またもう一歩と飛び石を伝う。天巳はその後を静かについて歩く。
 互いに言葉はなく、雨垂れが代わりに静寂を繋ぐ。天巳は傘越しにみちるの様子を窺う。俯いているのか、泣いているのかと危ぶむ彼の予想は裏切られた。
 みちるは――毅然と前を向いていた。
 頬を伝う雨はなく、瞳を翳らせる暗雲もない。
 その瞳で――青と黒の、半端な加護しか受けられぬ証の瞳で、永遠に続く雨に閉ざされた、この水底の宮を見据えていた。
 雨に満ち、流れゆく水面に花びらが浮かんでくすんだ色の天の川を成す。石に堰き止められてくるくると回り続ける葉はやがて力尽きて川底に沈む。
 水を吸って色を変えた土が、玉砂利の下で柔らかく溶けぐにゃりと飛び石を包み込む。
 雨垂れによって枝から落とされた葉がその色を失い、泥にまみれみちるの草履を汚す。
 みちるの瞳はすべてを眺め、見つめる。
 やがて、みちるはそっと傘の中から空へと手を差し伸べる。我先にと競うように降りしきる雨粒はたちまちみちるの手のひらをぐっしょりと濡らしていく。受け止めきれなかった雫がひっきりなしにぽたぽたと落ちていく様を見て、みちるはかすかに顔を歪ませた。
 
「……雨です。雨ですよ、父様、母様」
 
 みちるは傘を下ろして直接雨の中に身を置いた。空を見上げる額が雨を弾いて刹那のきらめきを魅せる。
 天巳は傘を差し掛けるべく歩を進める。しかし、みちるは背後が見えているわけでもないのに首を横に振った。
 
「向こうにいる間に雨を呼べず、不甲斐ない雨巫女で申し訳ございませんでした」
 
 濡れて頬に張りつく髪を払うことなく空からの祝福を、そして天からの縛めを受け止める。みちるを傘に入れてやらねばと思うのに天巳の足は動かない。
 
「天巳様……雨龍の御方は慈悲深く、こんな私を雨巫女として尊重してくださいます。何も成せぬ私に過ぎたる恩寵です」
 
 雨の勢いがやや増してきた。常に一定の雨量を保つ庭が更にしっとりと雨にけぶりだす。
 
「そちらに雨は降っておりますか? 願わくばこの景色を、父様と母様と見とうございました」
 
 強まる雨音に掻き消されまいとみちるは息を深く吸い込む。父様、母様、と繰り返し呼ぶその声はいとけない迷い子のそれを思わせた。
 
「もう……よい、やめよ、みちる」
 
 天巳の声が届かぬのか、みちるは父を呼ぶ。母を求める。降りしきる雨の幕が、開いた傘ひとつ分の距離を大きく隔ててふたりを引き離す。
 
「みちる……ッ」
 
 天巳も傘を捨てて手を伸ばした時――振り向いたみちるの姿が、雨よりも確かな形を取った、黒い羽根に覆われた。
 
「娘さんがこんなに濡れたらいけないよ」
 
 天巳の贈った蛇の目傘ではなく、濡羽色の――正に艶々と黒く輝く羽根が、みちるの新たな傘となって雨の紗から遠ざけている。
 それは、すべてが黒かった。すらりと降り立った足も、羽根を纏う腕も、雨空に遊ばせた髪も黒い。その中で、黒眼鏡からちらりと覗く瞳だけが鋭く金色に瞬いて――みちるの瞳は釘付けになる。
 
「俺は玄烏(くろう)。お見知り置きを。狭間の雨巫女、みちる嬢」
 芝居がかった仕草で胸に手を当てお辞儀をしたその男は、顔を上げるや否やみちると目と合わせて片目をつぶる。
 突然のことに警戒することを忘れたみちるがそのふるまいにどぎまぎとして狼狽えると、玄烏と名乗った男は口の端を上げた。
 
「可愛いなあ。初心(うぶ)な子は好きだぜ」
 
 玄烏がその羽根でよしよしとみちるの頭を撫でて愛でるが、力強く踏み込んだ天巳がそれを乱雑に振り払った。
 
「わあ乱暴者」
「玄烏、貴様何をしに来た」
 
 戯けてひらりと腕で空を扇いだ玄烏は得意げに鼻を鳴らす。
 
「何ってそりゃあご挨拶さ。お前、この子を囲って離さないつもりだろう。そうはさせない。この子がまだお前のものと決まったわけじゃないしな」
 
 指先で頬をつつかれてみちるが固まっていると、天巳は彼女を袖で覆い隠した。ちょうど玄烏が羽根でやってみせたことの再現である。
 
「みちるは我が雨巫女だ。この水底の宮がみちるの世界。手出しは無用」
「ふうん? 宮ひとつもちゃんと維持できない雨龍には雨巫女なんてもったいないなァ?」
 
 玄烏は羽根にまとわりつく水滴をふるふると払う。強まった雨足は落ち着きを取り戻しているようだ。
 
「数多の水脈を統治して淡々と己の気で満たし続けるのが雨龍の仕事だろ。なんだったんだよ今のは。みちる嬢の気に当てられてめちゃくちゃじゃないか」
「え」
 
 みちるは突如として己の名前が出てきたことに唖然とする。雨足の乱れに自分が関与していたとは思えなかった。
 
「みちるを惑わせるな。この子はまだ安定していない」
「は! 安定させられないの間違いだろ。この子が地上で受けてきた扱いだって、元はと言えばお前のせいだもんな」
「っ、それ、は」
 
 天巳の体が強ばるのを腕の中にいるみちるは鋭敏に感じ取る。いつも揺蕩うように包み込んでくれる腕の優しさがぴりぴりと肌を刺す冷気に変わる。
 反論できない天巳に対し、玄烏は追撃の手を緩めない。
 
 「どうやら――先代様からのお叱りは解けてないみたいだな」
 
 瞬間、空気が変わった。
 雨音が止んだのだ。
 みちるは天巳の袖の中からそっと外を窺い、目を疑った。
 雨粒が宙で止まっている。
 葉に弾かれた雨粒が、ふるふると丸いその形から崩れだした状態で凝固している。
 足の窪みに添ってへこんだ飛び石にあった小さな水たまりが、波紋を描き出す直前で静止している。
 水が――雨が、止まっていた。
 
「玄烏……貴様が……それを!」
 
 その怒声を呼び水として、一気に大粒の雨が叩きつける。こんなに近くにいるのに天巳が何を言っているのかわからず、みちるは天巳にしがみついた。
 
「ははっ、哀れで健気だ。でもねみちる嬢、きみに降り掛かってきたあらゆる災厄は、きみが頼りにしているその男――龍のなり損ないのせいなんだよ」
 
 痛いほどの強さで雨に打たれているというのにそれを優雅な水浴びだと愉しんでみせる玄烏は舞台に立つ役者のように両腕を広げて羽根をざわめかせた。
 天巳の言葉よりもはっきりと聞こえる玄烏の言葉が、みちるの頭の中でがんがんと反響して止まらない。
 
 ――天巳のせいで?
 ――龍のなり損ない?
 
 みちるはそれらの単語をただ反芻するだけで精一杯だ。しかしその度に胸の内に黒い染みのようなものが広がって呼吸を苦しくさせる。
 
「わからないことだらけだろう。わかるよ。だからね、そこの雨龍じゃ話にならないと思ったら俺とおいで」
 
 じっとり濡れた黒の革手袋がみちるを天巳の腕から誘い出すように手招きしている。雨を弾いて光るそれは見る角度によっては様々な宝石を纏っているようにちかちかと眩しい。
 みちるはその輝きと、玄烏の金色の瞳を見比べて天巳の腕の中で彼に向き合った。
 
「――お引き取りください」
「…………は」
 
 庭にある物、居る者すべてを乱れ打つ雨音が遠くに聞こえる。
 みちるはわざとずらされた黒眼鏡の奥から目を逸らさずにゆっくり口を開いた。
 
「ここは天巳様の御宮です。主を侮辱する方は招かれざる客にございます。ですのでお引き取りを」
「おや、随分心酔しているんだね。それとも、これも雨巫女としての職務だと思っているのかな」
 
 背中に感じる天巳の息遣いが乱れている。いつも穏やかな彼がこんなにも動揺していることが肌で伝わってきて、みちるは逆に頭が冴えてくる。
 恐ろしいほどに降りしきる雨音。触れれば貫かれそうな雨粒の痛み。それらが、却ってみちるを奮い立たせる。
 
「私は……雨巫女です。天巳様に生命を救って頂いた、天巳様の雨巫女です。貴方が天巳様を傷つけようとなさるなら――」
「なさるなら?」
 
 みちるは己を抱きしめる天巳の腕に触れ、彼を見上げる。青ざめた彼に頷いた。そして歪めた口元を羽根で隠す玄烏を見上げる。
 
「……私とて、ご容赦致しかねます」
 
 ずん、と地面が揺れた気がした。地震いかと身構えたみちるに齎されたのは――雨粒の喝采だった。
 空が、白く覆われた空から、白銀の祝福が降り注ぐ。銀の矢を思わせる鋭い雨粒が玄烏から天巳とみちるを遮らんばかりに地面を穿つ。
 
「これ、は……」
 
 天巳が息を呑む。みちるも雨の勢いに呑まれて身が竦む。そんな中、一番早く調子を取り戻したのは玄烏だった。くっくっと喉を震わせ笑いを堪えつつ羽根をばさりばさりと屋根のように広げて雨を遮る。
 
「たいした雨巫女だよ。いいさ、今日はみちる嬢に免じて追い払われてあげるよ。その代わり――」
 
 みちるを招き損ねた革手袋が羽根の奥からぐいと伸ばされ、袖を掴む。天巳の腕から力づくで引っ張りだされたみちるがたたらを踏みつつなんとか転ぶまいと顔を上げると――
 黒眼鏡の奥の瞳が、とても近くにあった。
 
「ん、ッ!?」
 
 唇が、熱い。
 呆けて開いたままのみちるの唇と、にいと不敵に歪んだ玄烏の唇が深く重なる。
 
「んん……!」
 
 ほろ苦い熱さが口の中に広がる。鼻に抜ける香りがどこか焦げ臭い。
 これは火だ。
 すべてを燃やし尽くして、焼き払って、その後に残るものを育む熱のみなもと。
 圧倒的な力の隆盛を思いのままにする覇者の香りは恐ろしいが――かすかに舌に残す甘さで、畏れを糊塗する。
 みちるが手を振りあげたのと、玄烏が顔を背けたのは、ほぼ同時だった。
 空を掻いた勢いでよろめいた体を天巳が後ろから抱きとめると、袖の中にきつく抱き込んだ。痛いくらいの抱擁だったが、みちるの心臓はそれよりも激しく早鐘を打っている。
 
「ご馳走様。また近いうちに会うことになるよ、みちる」
 
 みちるの味が残る唇に人差し指を寄せた玄烏が、黒い羽根を大きく羽ばたかせる。
 雨足に逆らうように飛び立ったその影の置き土産に、黒い羽根が一枚、ふわりと落ちた。
「まあまあみちる様、こんなにずぶ濡れ」
「あらあら天巳様も、うんとびしょ濡れ」
 
 持っていった傘をもう一度広げ直すのもおかしなほどに雨に打たれたふたりを見て、シノとシュウは仰天してその場で無意味に跳ね回った。
 
「みちるを風呂に入れてやってくれ」
「かしこまりました!」
 
 元気のいい返事と共にシノはぴちゃんと高く跳ねた水音を残して姿を消した。シュウは手早く手ぬぐいを持ち出してみちるの髪や手を拭いている。
 
「あの、私はいいので天巳様を先に」
「我に構うな。みちるが先だ」
「ですが」
「くどい。そなたが先に湯を使え」
 
 天巳の冷ややかな物言いにその場の空気がしんと冷える。手ぬぐいを握るみちるの指先が震えているのは、ずぶ濡れになったからだけではない。
 一歩退いたみちるはくずおれるように膝をつく。板の間に額を擦り付けた。
 
「も、申し訳ございません……! 差し出がましいことを申しました」
 
 シュウがぎよっとして手ぬぐいを取り落とす。はらりとみちるの背に落ちたそれはすぐに水を吸って灰色に沈んでいく。
 
「お叱りは如何様にも受けます。出過ぎた真似を致しました……」
 
 丸めた背を震わせ続けるみちるの体はあまりに華奢で、頼りない。
 先程、見ず知らずの男に啖呵をきったとは思えぬほどの弱々しさに、天巳は己の唇をぎりりと噛み締める。
 
「……そなたは、そのように生きてきたのだな。ひとの顔色を窺って、謂れなき理不尽に耐え……吹けば散る水面の花弁のように」
 
 天巳は静かに膝を折った。シュウから新しい手ぬぐいを一枚受け取ると、みちるの髪を優しく覆う。
 
「怖がらせてすまなかった。我が身の不甲斐なさをそなたに当たり散らすなど、恥ずべき行いだ」
 
 髪をひと房掬い、押すように水気を絞り、拭う。
 それを繰り返しているうちに、みちるの震えも収まってきた。
 
「……顔を、見せてくれるか」
 
 その呼びかけに、みちるはおずおずと顔を上げる。
 青と黒の視線が不安げに揺らいで天巳の鼻先あたりを遠慮がちに彷徨う。
 
「そなたの心遣い、嬉しく思う。だが、そなた以上に我は心配性のようだ。我を思うなら先に湯で温まってくれぬか」
「は……い」
 
 か細いながらも応じた声音はいつものみちるに近いものがある。天巳はゆっくりと頷き、手ぬぐいでみちるの頭を包み込みながら、色の失せた唇に親指をすべらせた。
 すう、すう、と何かを拭い去る動きにみちるは戸惑う。
 
「あの……天巳様?」
「烏に啄まれただろう。浄めておかねば」
 
 あの強引なくちづけを思い出し、みちるの頬がかっと朱を帯びる。天巳の目の前であのようなことをされたのだ。いくら憤ってもなかったことにはならないが、それでもやはり天巳に対する裏切りであることには変わりない。もっと警戒しておくべきだったと後悔の念に苛まれているみちるの唇が淡く開いた。

「みちる」
「っ、はい。あの、先程のことは私の不用心でした。迂闊なことばかりで申し訳ございません。今後は――っ」
 
 己を責め立てる言葉など封じてしまえとばかりに、天巳はみちるの唇を塞いだ。幾度も角度を変えて、何度も、何度も。呼吸が浅くなってきたみちるがくちづけの合間に大きく息を吸い込んだところで天巳の唇がそれを貪る。手ぬぐい越しに耳全体をやわやわと撫でられながら舌の先を吸われ、みちるは何もかもわからなくなりそうだった。
 
「あ、まみ、さま……ん、ッッ」
 
 天巳の腕の中で懸命に応えるみちるが名を呼ぶたびに、天巳の中で持て余している激情がうねりを増す。
 ――このまま掻き抱いて、すべて奪ってしまいたい。
 清廉なかんばせに似つかわしくない欲望がゆらりと立ち上るが、腕に縋る華奢な体のぬくもりが小さく震えているのを感じ、これ以上戻れなくなる前にと唇を離した。
 はあはあと荒い呼吸で肩を大きく上下させるみちるの背後に、湯の支度を整えてきたシノが見える。これ幸いにと天巳はシノにみちるを託した。
 
「それでは……お先に失礼致します」
「ああ。ゆっくり温まっておいで」
 
 亀裂から修復までのやりとり一部始終をちゃっかり聞いていたシュウが、濡れた床用に手ぬぐいを敷き詰め終わったところで顔を上げた。
 
「ゆずりあい、素敵。でもふたりでいっしょ、もっと素敵! 心も体もぽかぽかー!」
 
 みちるの足がぴたりと止まった。自分の手を拭っていた天巳も動きを止める。
 
「わ! 名案! シュウはお利口さんだあ」
「でしょう? 一緒にあったまれるの、仲良しさんの証拠!」
「善は急げ! さあさ天巳様、そんなところでのんびりしてるよりお湯にざぶんと浸かりましょ。みちる様もいっしょ! ふたりでぬくぬくー!」
 
 天巳の手ぬぐいを無造作に引っ張るシュウと、みちるの背をぐいぐい押すシノ。
 童の見た目には不釣り合いなほどの力で風呂場に連れて行こうとするふたりに、みちるは目を白黒させつつもなんとか宥めようとするが、こういう時ばかりはちっとも言うことを聞かないのがこのふたりである。
 背を押されてつんのめりかけながらも振り向いたみちるは天巳を見上げる。シュウと綱引き状態になっている手ぬぐいが今にも引きちぎられそうだが、つとめて無表情を保っていた。
 
「あ、天巳様……」
 
 眉を八の字にしたみちるは天巳の出方を窺う。確かにシノ達の言うように、ふたり一緒に入るのが合理的ではある。しかし、みちるの価値観ではそれは大いに問題である。天巳のことは憎からず思っているものの、そういうことはおいそれと許すものではないだろう。
 
「どうした」
「あ、ええと、その」
 
 覚束無い返事では何の時間稼ぎにもならないと自覚しつつみちるは頬に手をやる。先程のくちづけのせいで、とても熱い気がする。
 
「あ、天巳様は、どのようにお考えで」
 
 この宮の主は天巳なのだ。これは彼女が皮肉にも外敵たる玄烏に宣言したことでもある。天巳が是と言えば自分にはそれを拒む権利は無い。
 ――拒む権利。
 そこまで考えを巡らせて、みちるははたと気がついた。もし、天巳がみちるにその権利を与えたなら、自分は正面切ってそれを行使できるのか。
 嫌です、一緒に入浴は致しかねます――正論の矛と貞操観念の盾を以てそう言い切ってしまえば、天巳も無体な真似はしてこないだろう。
 しかし、ここで天巳を拒んでは、結局、先程のようなすれ違いやわだかまりを生む一方ではないか。否、それは単なる言い訳に過ぎないのかもしれない。断るための言い訳ばかり用意して、己が傷つかぬようにと予防線を張っているだけなのか。
 つまりそれは。みちるが、天巳に、肌を――
 僅かな間にそこまで発展した己の中の浅ましい欲に気づいて、みちるは今度こそ己の頬がしっかりと熱くなっていると自覚する。湯けむりの中で肌を合わせる様を想像してしまったなど、天巳には口が裂けても言えない。
 こんなはしたないことでは呆れられてしまう。そう不安に駆られつつ上目遣いで天巳を見遣れば、彼は一度、ゆっくりと瞬きをして――首を横に振った。
 
「何を言われようと我は変わらぬ。みちるが先だ」
 
 すう、と頬の熱が冷めた。
 一音一音、はっきりとそう宣言されて、みちるは俯きがちに頷いて、小さく返事をした。
 シノとシュウも、しゅんと肩を落として無言になる。自分の心の内がふたりを通して透けて見えるようで、みちるは居たたまれなさでぎゅっと手のひらに爪を立てた。
 みちるを先導するシノと、天巳の手放した手ぬぐいを畳むシュウが揃ってふたりから視線を外した時、天巳が一歩、みちるに近づいた。身をかがめた彼の長い髪がしっとりとみちるの肩に落ちる。
 
「天巳様?」
「早合点するな。拒んだわけではない。自重だ」
「え……?」
 
 うまく言葉の意味が飲め込めずに首を傾げるみちるの不安げな瞳を、天巳はじっと見下ろす。
 
「あれのせいで、今は互いに冷静ではいまい。今のくちづけもそうだが――あれ以上、そなたに衝動のまま不用意な真似をしたとあっては我は己を許せぬ。だから今は距離を置く」
 
 訥々と語る天巳の声が、乱れたままのみちるの心に染み入っては馴染んでその波を消していく。
 みちるは天巳を見上げ、今度ははっきりと頷いた。天巳も口の端をやんわりと上げて頷き返す。
 拒絶された訳では無かった。ただそれを言葉にして伝えてくれたことに、みちるの胸がいっぱいになる。
 沸き立ち、次の瞬間には凍てついた忙しない水面の温度が優しいぬくもりに満ちていく。ほうと安堵の吐息を漏らしたみちるに、天巳は悪戯っぽく囁いた。
 
「随分と喜んでいるな。次は期待して良いのか」
「え……あ、えっと……!?」
 
 安心しきったところに思わぬ奇襲をかけられみちるの心にまたもや波風が立つ。しかしこれは嫌ではない。
 返事もろくに言葉にならず慌てふためくみちるは頬を覆って無意味に首を振る。しかし、その指の隙間から垣間見える耳たぶが朱に染まっていることに天巳は目ざとく気づいていた。
 それは拒絶の証ではなく恥じらいの――天巳を男と意識するからこその掻き乱される心の波飛沫に目を細め、天巳はみちるを風呂へと送り出した。
 
「天巳様、大人です。素敵。みちる様、きっとますます天巳様に夢中」
 
 黙って一部始終を眺めていたシュウがくすくすと体を揺らす。その落ち着きのない頭を軽く撫でてやった天巳は、もう見えなくなったみちるの後ろ姿を脳裏に浮かべる。
 
「すべてを告げてもなお、みちるがそう想ってくれるなら……何を投げ打っても構わんな」
 
 シュウは己の頭を撫でる大きな手に自分の手を添える。冷えきったそれに目を大きく瞬いて、ぴちゃんと大きく跳ねた。
 入浴を終えたみちるが自室へと戻ってくると、そこはしんとしていた。否、かすかな雨音だけが窓硝子を戯れに叩いては過ぎ去っていく。
 無為に部屋をゆっくりと歩く。高い天井の果ては薄暗い雨雲の色に似てよく見えない。
 ぼんやりと灯る壁の灯りは雨粒のようにいくつも連なってはいるものの、部屋全体をくっきりと照らし出すには程遠い。
 座り心地の良い長椅子に、拭き清められた食卓。清潔な天蓋付きの寝台。美しい景色の描かれた衝立はあれど、この明るさではその筆致のすべてを眺めるには力不足だ。
 みちるは極力足音を立てないようにして一番大きな窓に近づいた。この静けさの中では、どうしても自然由来の音以外を出すのが憚られる。
 硝子の向こうに庭が見える。あの辺りを通ったのかもしれないが、雨の筋がいくつもできた窓硝子を隔てては判別が難しかった。
 しとしとと降り続く雨。それ以外に音のない世界。音を出す者がいないのだから当たり前だ。
 
「……そういえば、まだあの子達以外に、誰にもお会いしていない」
 
 良く働く女童ふたりは元は雫だ。生命を持たせたということはつまり、天巳の力の一部でもある。
 みちるはまだ、天巳が介在した以外の者がここに住んでいるのを見たことがない。
 
「雨を司る伝説の龍、雨龍の御方……その方のお住まいが、こんなにも静かで、寂しいものだなんて」
 
 これではあちらの世界で暮らしていたみちると同じようなものだ。否、みちるの方が望むと望まざるとに関わらず、様々な人と関わりを持っていた。決して好ましい間柄ではなかったが、会話があった。音があった。太陽の下ではっきりとした姿を見ていた。
 これではまるで、この宮は――
 みちるは窓の桟に触れる。世界を一直線に切り取り、あるがままの世界とこちらを隔てるもの。
 
「檻……」
「やはりそう思ったか」
 
 呟きに返されたひと言に、みちるは飛び上がるほど驚いた。ばっと振り返れば湯浴みを終えて着替えを済ませた天巳が立っている。
 
「っも、うしわけございません! 畏れ多くも住まわせて頂いている御宮に対してなんと不届きなことを……」
「構わん。慧眼だな」
 
 咄嗟に深く頭を下げたみちるを遮って天巳は肯定した。みちるは恐る恐る頭を上げて天巳の表情を垣間見たが、気分を害した様子は無さそうだった。
 座れと促されて長椅子に座れば、やはり隣に天巳も腰を下ろす。
 
「何から話そうかと迷っていたが、そなたが糸口をくれた」
「話す……」
「烏が喧しかったろう。あれの思うままも癪なことだ」
 
 烏とは、やはり玄烏のことを指すのだろう。傍若無人にふたりの間を掻き回し、あまつさえみちるの唇を奪ったあの男。思い出したことで唇にあの時の熱が灯った気がして、みちるはごしごしと唇を手の甲で擦る。その様子を見つめる天巳の視線はどこか頼りなげだった。
 
「あれの言うこともあながち間違いではないのだ。我は――龍であることを手放した蛇。この水底の宮は我のための牢獄だ」
 牢獄。はっきりとそう言い切った天巳にみちるは目を疑った。しかし、不穏な表現で己が居場所を評してみせたにも関わらず淡々とした天巳の表情はぶれることなくこの部屋を――否、窓の外の庭を見つめている。
 
「不思議には思わぬか。雨を降らせる雲は空にある。龍はその神力で空を翔けると人々は語る。しかし我はそなたを連れて水底に沈んだ。それは――我が叢雲の宮を追放されたから。雨龍を継ぐ者として、相応しくなかったからだ」
 
 そう言われて、初めてみちるは気がついた。確かに数多の絵巻物に描かれる龍は空を飛ぶ。地を這う龍など見たことがない。それは彼女が住んでいた奥宮に祀られていた屏風でも同じことだった。
 雲を背負い、雨を呼ぶ龍。その天翔る勇姿こそが龍を龍たらしめるゆえんだと、特段疑問に思うことなく過ごしてきた。
 それが、天巳に欠けているというのか。
 
「我がこのような身の上だからこそ、それに仕える雨巫女たるそなたまで辛い思いをさせた。すまぬ……と言葉で言うだけなら容易いが、そなたの心はそれで収まらぬことくらいは承知している」
 
 天巳は静かにみちるを見た。青い瞳に黒い瞳。鏡を見るたびに胸を痛め、苛立ちを強くし、哀しみを深くしてきた、半端者の、役立ずの証。
 
「……話せる範囲で構いません。何があったのか、お聞かせ願えますか」
 
 みちるは同じ瞳で天巳を見据える。天巳はその色を遮るように目を伏せた。
 
「雨龍は代々長命だ。雨巫女が捧げる人々の信仰を糧とし、その身に宿る神力を分け与えることで雨を降らせ、信仰を守る。雨巫女は加護の受け手であり、信仰の送り手だ。そこに雨龍が認識する「個」はない。しかし稀に――雨龍の伴侶たる雨巫女が生まれる。次代の龍へと血を継がせるための、運命の巫女だ」
 
 天巳の長い睫毛がぴくり、と痙攣した。しかし、その瞼は閉じられたままだ。
 
「その娘が母の胎に宿る時、雨龍に変化が生じる。その者は雨巫女を娶るために人の姿を手に入れる。その娘に加護を与えるために。数多の民の信仰より、その娘の心を糧として雨を降らせるために」
 
「それは――」
 
 咄嗟に割って入った言葉は、みちるが飲み込みきれなかった残滓だ。話に水を差す真似はしたくなかったが、まろびでた言葉は止められぬ。
 
「それは……危険なのではないでしょうか。雨巫女ひとりが、雨を、加護の元を狂わせる。村にひとつしかない井戸を塞いでしまうようなものではないのですか」
「そうだ。凪いで久しい、途方もない安寧の水面に石を投げ込むようなもの。その波紋がいかなる混乱を齎すか――聡い者ならばすぐに手を打つだろう。だから、我は自ら水底に堕ちた。天高くたゆたう水の還る源、叢雲の宮から、地中深く潜っては淀み、いつか空へ昇る日を渇仰する水底へ。龍から巳へと姿を転じた。しかし、人の姿だけは手放さぬ。その理由はただひとつ」
 
 朗々とした語りがふと途切れる。天巳の瞼がようやく上がる。堕ちた証である色を忍ばせて。みちるの心を縛り続けてきた、そのふたつの色を宿らせて。
 
「我にとってのただひとり――みちる。そなたを欲してやまぬからだ」
 
 話の最中、今まで触れずにいたのが耐えきれぬとばかりに天巳はみちるを掻き抱く。急なことで応えることも拒むことも中途半端な体勢のみちるに構うことなくぐいと膝に抱き上げてその細い首筋に顔を埋める。
 
「あま、みさま、まって」
「そなたは我を待たせてばかりだ。あと幾年待てばいいのだ」
「わたし、まだ、わからないことだらけで……」
「そうか。人の子にすべて理解してもらおうとは思わん」
 
 肌を掠める天巳の吐息がどんどん熱くなっていくことにみちるは混乱しながらなんとか彼を押しやろうとするが、細身とはいえ男の力を制することもできずに焦りばかりが先立つ。みちるのすべてを暴こうと絡みつく腕の強さにもがきながら、みちるは浅くなってきた呼吸で天巳を何度も呼んだ。
 それが功を奏したのか、天巳の腕が渋々止まる。
 
「……まだ、何を問う」
「そのお話の通り、私が天巳様を、雨龍の御方の有り様を変えさせた雨巫女ならば――私こそが貴方を龍でなくした咎人ではないのですか」
 
 天巳の吐息が一瞬乱れる。ゆったりと顔を上げたその瞳には温度がない。爛々と光るそれは尊い龍のそれとは何かが違うと、みちるの内が語りかけてくる。
 早まることしか知らぬ鼓動が胸から喉の辺りまでせり上がってくるのをなんとか抑え込んで、みちるは天巳に真正面から向き合う。
 
 ――私が、憎くはないのですか。

 ようやく手に入れた安寧を自ら手放す禁断の問いかけだった。
 ここまでの話を聞かされれば、天巳がみちるを傍に置く理由は、愛おしいからばかりではないことは見当がつく。
 罰するためか、思い知らせるためか、はたまた行き場のない衝動のはけ口にするためか。
 知らずのうちとはいえ、神を堕としたことへの贖罪ならば選ばれた雨巫女として、みちるはその償いを全うしなければならない。
 地上で耐えてきたことが続くだけだ。神の怒りと人の狼藉を同列に図ることはできずとも、向けられる感情のわだかまりは同根である。
 
 みちるが悪いのだ。
 雨を呼べぬ雨巫女が悪い。
 天を泳ぐ龍を水底に沈めた娘が悪い。
 だから責を負わねばならないのだ。
 
 その事実に行き着いたことで、みちるの頭がずきりと痛んだ。脈打つごとに熱くなる痛みと血の気が引くような寒さに捕らわれる。
 
「私は貴方様の雨巫女です。私の存在が天巳様を惑わせたなら、その報いを受けなければなりません。か……覚悟は、できております」
 
 がんがんと痛みが強くなってくる。目を背けてはならぬと見開き続けている瞳までもがちりちりと炙られている錯覚に陥る。それとは真逆に天巳の瞳にはじっとりと滲むものがしたたりそうでもあった。
 ふ、と天巳の指がしなやかにみちるの首を這う。
 爪の表面で薄い皮膚を撫でられる。時折戯れに爪の先がかりりと鎖骨を甘く引っ掻く。
 
「……っ」
 
 背筋を伝い上ってくる感覚にみちるの肌が粟立つ。天巳はそれに目を留めてふっと笑った。

「怯えずとも傷つけはせぬ。初めに申したぞ? 雨はそなたを傷つけないと」
「で……も、私のせいで天巳様が……」
「すべて納得ずくでのことよ。そなたが気に病むことは何もない。そなたがおらぬ天上など虚ろの城。水底の牢獄とて、そなたがいれば浄土もかくやだ」
 
 天巳の睦言を聞かされながら、みちるは必死に頭を働かせる。
 この期に及んで天巳が嘘をつく必要もない。文字通り、みちるのすべては天巳の手に握られている。
 天巳に対して優位になるものをみちるは何ひとつ持ち合わせていない。そんなみちるに天巳はどうして――
 
「確かに我は恩恵を手放した。己の有り様を失った。だがそれがどうした。我にとってのただひとりをなにゆえ憎まねばならぬ」
 
 歌うような独白の中、天巳がぐいと体重をかければみちるは支えきれずに背中から長椅子に倒れ込んだ。
 それを追って天巳の美しくまっすぐな髪がひと房滑り降りてくる。
 
「愛しい娘。哀しい娘。我の目に飛び込んできたばかりに狂わせた。そなたが我を憎む方が道理だろうに」
「天巳様の唯一になったからこの瞳になったというなら……おあいこでは、ないのですか」
 
 そうだ。何かがおかしい。天巳の話は彼が青と黒の瞳を持つに至った説明であり、みちるはとばっちりを食っただけになってしまう。それを償いと呼ぶには軽すぎる。
 雨龍の御方の花嫁として選ばれるべき雨巫女が無能であるわけがない。あるはずなのだ、みちるがこの瞳になった理由が。
 
「聡い娘よ。誤魔化されてはくれぬのか」
 
 こんなに近くにいるのに、天巳の顔がぼやけてくる。遠くから聞こえる声が耳のあたりでくぐもって、脳髄に至る前に弾かれる。
 
「天巳……さま? なんだか、わたし、へん……」
 
 横たわっているのに血の気が引く感覚がする。目が開けていられない。
 ぐるりと渦を巻き始めた視界から抜け出そうと手を伸ばすと、天巳に受け止められる。しかし天巳は握った手首とみちるを交互に見遣って息を呑んだ。
 
「熱い……みちる、そなた発熱しておるのか」
「ねつ……?」
 
 おかしい。みちるの指先は冷たいのだ。しかし天巳が頬にあててくれた手の甲はひんやりと気持ちがいい。思わずうっとりと力を抜いて押し当てると、天巳は勢いよく手を引き抜いてしまった。
 
「シノ、シュウ、氷を持て!」
 
 張り上げた呼び声が痛む頭に響く。う、と顔を顰めたみちるの体がふわりと浮いて、天巳に抱き上げられたのだとわかった。
 手早く寝台に運ばれ寝かされる。
 
「みちる、気を確かに持て。我が宮を流れる水で作った氷嚢なら熱などたちどころに冷ましてみせよう」
 
 大真面目に宣言した天巳にぎゅうと手を握りしめられてみちるの体から力が抜ける。
 ああ、こんなことが以前もあった。
 あの時みちるの手を握ってくれたのは――
 
「と……さま」
 
 うすらと開いた瞳には眉を下げてこちらを見つめる男が映る。ああ、心配させて申し訳ないとみちるはそっと握られた手をもぞもぞと動かして大きな手の甲を指先で撫でた。
 
「大丈夫……すこし、寝たらなおるから。とうさまも、明日早いから、休んで」
 
 は、と浅い呼吸が聞こえた。それが記憶の声と重なりきらずにぶれたことにみちるは軽く首を傾げる。
 しかし、次に耳に響いた高い水音ふたつがそれを塗りつぶして――みちるの意識は、そこで沈んだ。
 みちるが次に目を覚ましたのは翌日の夕方だった。
 慣れない環境に置かれていたことの疲労が雨に打たれ続けたことで余計に負担となったそうだ。
 
「ゆっくり休んでくださいね、みちる様」
「みちる様、何か召し上がりたいものがあれば何なりと!」
「ありがとう……今は食欲がないので大丈夫」
 
 氷嚢やら清拭やらと甲斐甲斐しく働いてくれるシノとシュウに微笑み、みちるは天井をぼんやりと見つめた。
 ――急に上げ膳据え膳の生活で甘やかされて罰が当たったのね。仮にも雨巫女が雨に打たれて倒れるなんて、情けない。
 天巳の話を聞きたいと自分から言い出しておいて、結局肝心なところは有耶無耶になってしまった。
 天巳にとっても辛い話になるだろう。そうおいそれと世間話のように聞けるはずもない。
 
「……あ。天巳様がいらっしゃいましたよ」
 
 シノの声に顔を向ける。天巳が果物の盛られた籠を持って部屋に入ってくるところだった。
 
「……あまみさま」
 
 かさついた喉で名前を呼べば、天巳は厳しい表情でみちるを見つめる。その険しさにみちるは肩を小さくして詫びた。
 
「すみません、聞き苦しい声で」
「まだ、辛いか」
「……すこし」
「そなたの少しは相当ということだな」
 
 呆れ気味に寝台に腰を下ろした天巳は籠の中身をみちるにも見えやすいように傾ける。色とりどりの果実が甘い香りを放っていた。
 
「食欲はあるか。どれなら食べられる」
「……ええと」
 
 正直に言うと食欲はなかった。しかし天巳を落胆させるのも心苦しい。一番小さなものなら胃の負担も軽いだろうか、と大きさを比べて当たりをつける。
 
「天巳様、みちる様は今食欲がございませんので無理に勧めてはなりませんよ」
「しっ……」
 
 これを、と指さしかけたところにさらりとシノが口を挟む。みちるは慌てて彼女の口を噤もうとしたが後の祭りだ。
 
「誠か」
 
 真顔で天巳が問い詰めてくる。こうなったら嘘はつけまいとみちるは観念して頷いた。
 
「すみません……」
「謝るな。我の方こそ無理に勧めてすまない。香りはきつくないか」
「それは、平気で……けほっ」
 
 乾燥した喉で話そうとして咳き込んだみちるを天巳は抱き込むようにして背を撫でてやる。こんこんと続く咳に顔を赤くするみちるを見て、天巳はどうしようもなく焦りを募らせた。
 
「何か……ないか、我にできることが」
 
 一旦落ち着いた咳の合間にふるふると無言で首を横に振るみちるの仕草は、余計に天巳を追い詰めていく。窓の外から聞こえる雨音が激しくなっていく様子に、シュウが空の杯を持ってきた。
 
「天巳様。お、み、ず!」
 
 はたと天巳は目を丸くして杯を見つめる。
 一拍置いてからその意図に気づいた彼は一瞬で杯に水を満たした。そっとそれを抱き上げたみちるの口元に寄せる。

「みちる、飲めるか」
 
 息を整えてからそっと口をつけたみちるの喉が小さく上下する。無事に嚥下した音を聞き届けて天巳はようやく肩の力を抜いた。雨音も少しずつ柔らかい音に変わっていく。
 それを見てシノとシュウがくすくすと笑う。
 
「天巳様のほうが世話が焼けるの」
「みちる様、おひとりで休みたかったら遠慮なく言ってくださいね。シュウたちが天巳様をポイってするので!」
「え、あ、それはちょっと……」
 
 流石に主に対して不敬すぎやしないだろうか、とみちるは顔を引き攣らせるが、シノたちはちっとも気にせずむしろ胸を張っている。そっと天巳の反応を窺えば、天巳は不満そうにみちるを見つめ返した。
 
「なんだ、やはり邪魔なのか」
「い、いえ、そうではなく……ああ、あの、果実ですが」
「無理に食べることはない。今は引き取ろう」
 
「いえ、そうではなく……香りがいいので、置いておいて頂けると気分が晴れるといいますか」
 
 それは本心だった。特に柑橘系の香りはすうと体を通り抜けていくようで心地良い。
 
「そうか。ならこのまま……」
 
 そこで天巳の言葉が途切れる。おもむろに水の玉を浮かべた指先が、触れずして柑橘をまっぷたつに両断した。ほんのり果実の色を纏った水が静かに杯を満たす。
 
「香りをつけた。飲んでみるか」
 
斬新すぎるやり方だったのか、目を丸くしたままのみちるに杯を持たせれば大きな瞳がぱちぱちと瞬きして今の状況を飲み込もうとしている。
 
 やがて中身の水も飲み干したみちるから杯を引き取ると、心なしか顔色が良くなっているようで天巳は不思議に思って顔を覗き込む。
 
「……天巳様から、初めて頂いたお水と同じでした。このように作ってくださったのですね」
「……!」
 
 そう。みちるがこの水底にやって来たあの日。後悔と贖罪に怯えていた彼女を落ち着かせるために天巳が飲ませたのも、この香りの果実水だった。
 柑橘系の香りは気を巡らせ、飛ばす作用がある。みちるの内にわだかまったままの悪しき気を少しでも発散し、楽にしてやりたかった一心で用意した水だ。
 混乱の最中に飲まされたものを、こうしていまだ覚えていたとは。
 みちるを抱き寄せている天巳の指先がじんとあたたかくなっていく。
 
「覚えて……いたのだな」
「……はい。とても美味しいお水でした。物語に聞く甘露とはきっとあのお水なのですね。甘くて、爽やかで、元気が出て……思わずあの時は、その……」
 
 そこで言葉を濁し俯いたみちるの耳がほんのり赤い。
 
「みちる?」
「……は、はしたないほどに、求めてしまって……天巳様に呆れられていないか、今になって不安になってしまって……」
「ああ……あの時のことか」
 
 天巳は昨日の事のようにそれを思い出せる。
 口移しで与えた時のあの柔らかな唇。雛が無防備に口を開けるように天巳を求め、腕を伸ばして素直にこくりこくりと喉を鳴らしていた、無垢なみちるの睫毛の動きまで脳裏に焼きついているのだ。
 
「呆れるものか。あの時のように求められて滾るものこそあれ、嫌なことなどあるまい」
「あ……!」
 
 恥じらいが過ぎて首を揺らすみちるが愛らしく、天巳は華奢な体を自分に更にもたれかけされた。
 もう一度、果実水を作ると自分で杯をあおる。そのまま、あの日のように――みちるの唇にそっとそれを含ませた。
 
「ん……っ」
 
 ゆっくりと喉が上下する。唇に残るそれをぺろりとひと舐めしてはまた水を用意していると、みちるが慌てた様子でそれを止めた。
 
「なんだ、もう要らぬのか」
「違います……ただ、天巳様に病が移ってしまっては大変なので、これ以上は」
「気にするな。そなたから貰えるものなら病だろうが受け取ろう」
 
 そうさらりと返した天巳は躊躇せずに再び唇を重ねる。とろりと落ちていく水を感じながら、みちるはうっとりと目を閉じた。
 
「天巳様が病を得たら……今度は、私が看病して差し上げます」
「そうか。付きっきりで頼む。シノ達に邪魔されんように離れに篭ろうか」
 
 飲み込みきれなかった分が伝う跡を指の腹で拭いながら、天巳は口移しばかりではないくちづけを繰り返す。すると、はたと我に返ったみちるがぐいと彼の胸板を押し返した。
 
「どうした、急に元気だな」
「し、シノちゃんとシュウちゃんがいること、忘れて……っ、あ、あれ?」
 
 耳まで赤くしたみちるが天巳の腕の中できょろきょろと部屋を見渡すも、シノとシュウの姿は無い。先程まで天巳を追い出そうとまで提案していた小生意気な雫たちはみちる達の睦みあいを見守りつつも、いつの間にか退室していたようだ。

「あれらも気は回ると見えるな」
「つ、次にどんな顔すればいいのでしょう……」
「いつも通りで。あれらもみちるを困らせたい訳ではないだろうからな」
 
 天巳は布団をぐいと引っ張りみちるの背中にかけてやる。己の胸に抱き込んだみちるの髪をゆっくり梳けば、呼吸がゆっくりと穏やかになっていく。
 
「眠ってしまって構わん。横になったままでは咳も辛かろう」
「すみません……はやく、よくなりますので……」
「ああ。今は眠るといい。無理に起こしてすまなかったな」
 
 これ以上休息の邪魔をしたら、そのうち本当にシノ達に追い出されそうだ。そう零した天巳にみちるが小さく笑う。
 この腕の中は安全なのだ。どれほどの罪を自分が被っていようとも、彼だけは手放しで受け入れてくれている。
 意識をそっと水底に沈ませて――みちるは深く呼吸をした。
「みちる様、ご快癒おめでとうございます」
「元気なみちる様に会えて嬉しい!」
「ありがとう。心配をかけてごめんなさいね」
 
 あれから数日経ってみちるの熱は引いた。時折浅く咳き込むことはあるが、苦しくなることはない。徐々に本調子に戻っていくだろう。
 粥も卒業し、ふっくらと炊かれたご飯を食めば体力が戻っていく気さえする。代わる代わる世話を焼いてくれる献身的な雫達にみちるは微笑んだ。
 
「天巳様も、きっとお喜び」
「嬉しくって雨粒が踊っちゃうかも」
 
 くるくるーと歌いながら手を取って踊るシノ達に拍手をしながらみちるはちらりと窓の外を見た。
 今日の雨空は少し明るいようだ。
 
「天巳様は、お部屋にいらっしゃるの?」
「ええと、多分? お仕事? があるみたいで」
 
 こてんと首を傾げたシュウがそのまま転げそうで、慌てて手を貸せば、きゅっと握り返された。
 
「みちる様の手、あったかい!」
「シュウずるい、シノもみちる様ぎゅうする!」
 
 大人顔負けの言葉遣いをしているかと思いきや、すぐに見た目通りの甘えたがりを発揮するふたりに構われながら、みちるは賑やかな食卓を味わった。
 ――けれど、やはり足りない。
 毎日様子を見に来ては世話を焼いてくれたのは天巳も同じだ。
 こうして動けるようになった今こそ、みちるから礼をしに行くのが礼儀だろう。否、それは建前であり、ただ会いに行きたいだけなのかもしれない。
 無条件でみちるを慈しんでくれる天巳は、みちるにとって今や唯一無二の存在だ。
 彼の唯一として生まれたのならその役目をまっとうしたい。天より水底に沈むことを選んだ彼に寄り添いたい。
 この数日間の献身的な看病を受けて、みちるはその思いをより強くした。
 
「……ねえ、天巳様のお好きなもの、何か知ってる?」
 
 何か差し入れをしたいの、と切り出しつつ問えば、シノとシュウは揃って顔をこちらに向けた。
 
「みちる様」
「……ええと?」
「天巳様が好きなのはみちる様!」
「だから差し入れはみちる様一択!」
 
 異口同音にそう言われてみちるは気圧されるが、それでは何の差し入れにもならない。それでは単に顔を見せに行くだけになってしまう。
 
「天巳様にとってのお水はみちる様なの」
「ご飯も、お花も、空気も!」
 
 空気も、とは流石に過剰すぎる気もしたが、そこは頑として譲らないふたりだ。おかげでみちるは何ひとつ有益な知見を得られずに身ひとつで天巳の部屋に「差し入れ」をしに行くことになってしまった。
 先日、用意してもらった傘を差して庭に出る。渡り廊下からも天巳のいる棟に行けるそうだが、みちるはこの雨を避けたくはなかった。
 雨降り続く水底の宮。潤いに満ちる空気はしっとりと肌に馴染んでいく。裾に泥はねをあげないように注意しながら飛び石を渡る。
 途中まで来て、傘をうつ雨粒が静かになっているのに気づき、おもむろに傘を傾け庭を見た。
 ――明るい。雲が薄くなっているのか。雨が小止みになっている。
 陽が射している。そこで無意識に身を強ばらせた。
 この水底において、雨は結界だ。しっとりとけぶる雨の壁があらゆる災厄を洗い流す。
 そこに陽の光が射し込むということは――
 はらり、とみちるの眼前に黒いものが舞う。黒い――烏の、羽根だった。
 飛び石にはらりと舞った漆黒のそれは異質なほどに己を主張し、己に降りしきる雨粒を弾いてなお光を放つ。
 ぎくりと足を止めたみちるはそれを凝視する。これはここにあってはいけないものだ。
 咄嗟に踵を返して渡り廊下から天巳の元へ向かおうとすると、ばさりと耳を打つ羽音が足を縫い止める。
 
「……ああいた。具合悪くしてたんだって?」
 
 軽やかな声音と共に黒を纏った青年が降りてくる。爪先が飛び石に着くや否や、くるりと体を回転させた彼は羽根に付着した雨粒を払うように手をひらめかせた。
 
「慣れない環境で疲れたんだろうねえ。もう出歩いて大丈夫なのかい」
「玄烏……さん」
「お、名前覚えていてくれたんだね。雨巫女様にはご機嫌麗しゅう……なんてね」
 
 片目を軽くつぶってみせた青年――玄烏は人懐っこく笑ってみせた。陽光の如く晴れやかな表情にも関わらず、相対するみちるは傘の柄を固く握りしめたまま目を離さない。
 
「まあ、あれだけずぶ濡れになってたら風邪のひとつもひくよねえ。俺はあの後すぐに湯浴みしたからこの通り元気いっぱい。天巳はあたためてくれなかったんだ? 冷たいやつだな」
 
 はっと漏らした吐息に嘲笑が含まれていることに気づかぬみちるではない。自分に向けられたなら流してしまえた棘も天巳を謗るものであるならば取り払ってしまいたかった。
 
「あ……まみ様も、すぐにお湯を使わせてくださいました。私が弱いから倒れただけで……天巳様は、何も、悪くありません」
 
 はっきりと言い返したみちるの一言一句を律儀に頷きながら聞いていた玄烏は、長い体躯を折り曲げてみちると目線の高さを合わせる。黒眼鏡の縁をかちゃりとずらして、直接金の瞳でみちるを見た。
 
「ふうん。体、弱いの? 昔から? 持病とかある? 合わない食べ物があるとか?」
「え……」
 
 天巳のことをこれ以上悪しく言うようなら突っぱねようと身構えていたみちるだが、思いもよらぬ角度から矢継ぎ早に疑問をぶつけられて肩透かしを喰らう。
 
「食べ物は、特に……」
「そう。人の子には個体によって毒になったりならなかったりする食べ物があるらしいけど、あの酷い暮らしをしてたら選り好みなんてしてられないよねえ。でもそんな中で何年も生きてこられたのは流石だよ」
 
 えらいえらい、と幼子を褒める口調でこれ見よがしに拍手をされてみちるはどうにもむず痒くなる。困りきったその表情を黒眼鏡の奥からしっかりと見据えつつ、玄烏は忙しなく動かしていた薄い唇をいったんつぐむ。笑顔の形に固められたそれを殊更ゆっくりと開いた。
 
「きみ自身の素養はもちろんだけど――ご両親が大切に育んできた下地があるからだろうね」
 
 はっと、みちるは顔を上げた。にたりと三日月型につり上がった唇がみちるの動きひとつひとつを見定め、嗤う。
 
「知ってるよ。あの先代を凌ぐほどの加護を持って産まれた娘だ。幼い頃は下にも置かない身の上だったろう? そこから一転、能無しと蔑まれたのは悲惨だったね。けど、そう簡単に伏せっていたら明日の飯は降ってこない。晴れの日も風の日も、たまに気まぐれに降る雨の日も、きみは必死に生きて……いや、生き延びてきた。案外きみは丈夫で図太いのさ。こんな雨ひとつじゃ揺るがないくらいにはね」
 
 褒められているのか貶されているのかわからない評価を飲み込まされて、みちるの口の中が苦くなる。どこかで感じた味だと記憶を辿れば、別れ際の強引なくちづけが脳裏をよぎった。
 
「それで――俺の言いたいこと、わかるかい?」
 
 みちるの頭を覗いているのか、赤い舌の先端をちらりと突き出しては引っ込めた玄烏は、黒眼鏡のつるをくいと引っ張ってその瞳を晒した。
 烏の輝くまなこが、己が羽根と同じ色の娘に焦点を定めた。
 
「その黒い瞳は俺が与えた色さ。半端な加護の烙印じゃない。太陽の申し子たる烏の――俺の花嫁である祝福だよ」
 みちるは眼前で漆黒の羽根を広げる男を見上げた。
 何度も瞬きを繰り返し、頭の中で彼の言葉を反芻する。
 軽やかな声音。それに似合わぬ重い一撃であることは本人も承知しているのか、みちるが状況をうまく飲み込めぬことも愉しんでいるようにふんふんと鼻歌を歌ってみせる。
 
「あなた……が? どうして……」
「おっ、復活した? いいね。固まったままならさっさと連れて行こうかと思ったよ」
「連れて?」
「そう。だってこんなじめじめした辛気臭い新居なんて御免だろ。俺ならきみを陽のあたる場所に連れ出してあげられる」
 
 玄烏はそこに観客が居並ぶ舞台であるかのように両腕を広げた。黒い羽根がばさりと重たく響いて彼の威光を引き立てる影となる。
 
「なんだかんだ言っても住み慣れたあの村が一番だろう? 優しいご両親に俺らを敬ってくれる従順な民。そしてみちるは類まれな加護を以て村を照らす()の巫女だ」
 
 くるりと回ってみせた玄烏は硬直したままのみちるに深く跪いて手を差し伸べる。傘の柄を握ったままのみちるはそれに応じることはなかったが、淡々と切り替えた彼は不思議と不恰好にならない仕草で胸に手をあててみせた。
 
「そして極めつけにきみの隣に立つのは陽の光を導く八咫烏たるこの俺がいる。どうかな。違った未来が拓けて来ないかい?」
 
 またもやぱちりと片目をつぶってみせた玄烏はそれが癖らしく、にっと口の端を上げて笑う。
 しかし、みちるは彼の仕草などどうでも良かった。彼があっけらかんと言い放ってみせた、ただひとつが彼女を捉えて離さない。
 
「…………優しいご両親?」
「そう! きみを大切に育ててくれた御尊父と御母堂さ。彼らがいなくちゃ今の君は無いからね」
「そんな……だって、ふたりとも、もう」
「そうだね。きみの認識ではそうだろう」
 
 しんみりとしてみせた玄烏はふっと目を伏せる。彼岸へ向けるまなざしに、みちるは玄烏の考えが読めずにただただ混乱させられるばかりだ。
 
「……会いたくは、ないのかな?」
 
 そう問われて否定できるほどにみちるの中で両親は過去の思い出になりきってはいない。心の一番やわらかい部分を突いてみせた玄烏は、みちるの答えを待つだけの余裕を見せる。
 何度か口を開いては閉じを繰り返していたみちるは傘の柄を握り締めながらふるふると首を振る。案外粘るな、と口の中だけで呟いた玄烏だが、今度ははっきりと音を乗せた声を発した。
 
「御母堂には浅からぬ縁があってね。頼まれごとを請負ったよ――天巳について、だけど」
「あま、み、さま」
「そう。確かに天巳はきみの運命でもある。けれど、異なる種族の運命なんかにきみの一生を棒に振ることは無いんだ。ま、一緒に暮らしてわかってきたと思うけど、あいつはなかなか一途だろう?」
 
 みちるは恐る恐る頷く。この水底に招かれてから何不自由がないようにと世話を焼いてくれた天巳の献身はみちるの想像を超えていた。それを一途と呼ぶならまさにその通りだ。
 玄烏は庭木を見渡すと、手近な葉を一枚むしってくるりと円錐状に丸める。それを杯に見立てて枝からしたたる雨粒を受けとめ始めた。
 
「それはね、言葉を変えれば執着とも呼ぶんだ。気の遠くなるような時を生きるべき龍が、全身全霊をちっぽけな人の子にすべて向ける」
 滔々と語るうちに葉の中身は徐々に雨水で満たされていく。
 
「いくら雨巫女といえど、人の子だ。生きるべき場所から離れ、破滅的なほどの霊力を受けとめ続けられるほど、強い存在ではない。寵愛の始まりは遠からず破綻する蜜月の終わりを意味している」
 
 一滴、また一滴。絶えずしたたる雫を受けとめ上昇していく水面は、器の脆弱さなど歯牙にもかけず広がり続ける。やがて増幅していく小さな水面の圧に葉の内側が震え出す。
 
「今までは気にも留めなかった些細な疲労が亀裂になる、心のうちが揺さぶられて見たことの無い自分が暴かれる――覚えはないかい」
 
 玄烏に問われるまでもなくみちるには心当たりがあった。天巳に連れられて初めて庭に出たあの日。雨音ひとつひとつにどうしようもなく心が掻き乱された。
 雨を待ち望む雨巫女としての本懐が揺さぶられたのだろうと思っていた。しかし、今にして思えば自分らしくないにも程があるふるまいだった。
 濡れることがわかっていながら傘を捨てて雨に打たれる、激昂する、天巳の制止に聞く耳を持たない――押し殺してきた幼い感情の発露なのか、それとも。
 そしてその結果の発熱だ。もっと体の芯から凍る寒さを味わったことはあった。美沙に受けた酷な仕打ちは手足の指で数えるには足りない。けれど、僅かな時間、雨に打たれただけで昏倒したのだ。あれは、本当に環境が変わったことによる疲労のせいなのだろうか?
 ぐるぐると渦を巻く思考の海に放り出されたみちるを引っ張り上げんばかりに、玄烏は言葉の命綱を投げ込む。それは妖しく揺らめいてみちるの眼前で尻尾を振った。
 
「きみにとって心地の良い献身であり、離し難い慈愛の雨垂れだ。しかし、最初は受け入れ、満たされることに浸る杯も――やがて溢れて内側から砕け散る」
 
 玄烏は無情にもぱっと手を広げる。葉はびしゃりと弾け飛んだ。びしょ濡れになった手を振って水気を払った玄烏はちらりと視線を泳がせた。みちるがそれを追えば、庭に設えてある川に葉が落ちるところだった。水面はそれを受けとめると、音もなくそれを流れの果てに追いやっていく。
 
「きみの御母堂は、それを恐れたのさ。だから俺に祈りを捧げた。禁忌とわかっていながらね。ああ美しき母の愛ってところかな」
「禁忌?」
 
 みちるは母のことをほとんど知らない。胸に抱いてもらった覚えはある。雨龍の御方のために舞う、雨巫女としての顔に畏れを成したこともある。しかし、それは母の人となりを知るものではないのだ。
 何を感じ、考え、日々の糧としてきたか。みちるの行く末をどう案じてきたのか。それを語らうにも反発するにも、まだみちるは幼すぎた。
 そう。幼いみちるを遺してどのように泉下の人となったのか――父も含め、誰も語ってはくれなかった。
 それゆえに、みちるは雨巫女の任をひとりで学ぶしかなかったのだ。祠の祀り方、祈り方、祝詞の奏上、そしてかの神剣が何故奥宮に残されていたのか――知らねばならぬことが山ほどあった。
 その母が、禁忌を犯した?
 傘の柄を握りしめた指が白んでくる。鼓動が胸の内側から振動となってみちるの喉を動かす。
 
「母様は、貴方に何を祈ったのですか」
 
 玄烏はゆっくりと口の端を歪めた。
 
「雨龍と雨巫女の繋がりを利用して、加護を反転させること。つまり呪いさ。きみの御母堂は龍を欺いた。その報いとして命を落とした。まあ天に唾する大罪の報いとしては軽すぎるけどね」
「のろい……」
 
 玄烏の言葉を反復するだけでずんと重くなっていく胃の腑のあたりを無意識にさする。
 それを見て玄烏は「おやおや随分繊細になったね」と鼻で笑った。
 
「母親の命と引き換えになり損ないの雨龍から逃れられたっていうのに、結局それに捕まって絆され、馬鹿みたいな執着に食い殺されようとしている。お人好しにも度が過ぎるとは思うけど、どうやらきみの霊力は封じたところで渾々と湧き出てくる泉のようだ」
 
 玄烏は一歩前に出ると、みちるが縋り付いている傘を掴んで放り投げる。放物線を描いたそれが落下するより早く、みちるを引き寄せ金の瞳でまっすぐに見つめた。
 
「雨龍を堕とす手伝いを引き受けたのが運の尽き、いやこれぞ運命……かな」
「……ッ、や、離してっ」
 
 身を捩るみちるの肩を抱き込んだ玄烏はそれ以上の抵抗を封じこんだ。
 あの時と同じように、唇を重ねる。
 息を吸い込む直前で硬直した唇を割って玄烏は深くみちるを味わう。
 
「んん……!」
 
 押し付けられた胸板を押し返そうとする精一杯の抵抗すら愉しみつつ、幾度も角度を変えてみちるの唇を貪った。
 身を焦がす熱い唇。その中に溶けだした甘さが、みちるを捉えて離さない。
 じっとりと濡れた玄烏の革手袋がみちるの頬を包み込む。その中で黒眼鏡のひやりとした感覚がみちるの肌になじんでいく。
 ようやくみちるの唇を解放した玄烏は、くたりと力の抜けた華奢な体を抱きとめつつ耳元に唇を寄せた。
 
「きみは青と黒の狭間にいる花嫁だ。きみの母がそうしたように、俺もきみを守ってあげる」
「や、天巳さま、たすけ……」
「人の子に呪われるような龍が助けに来るはずがない。生かされた命は、大切に使わないとね」
 
 喉の奥で押し殺した笑い声が頭に響く。
 黒い革手袋がみちるの顎をそっと捕らえ、持ち上げる。
 雨で額にこごる前髪をそっと梳き、左右で色の違う瞳をまじまじと覗き込んだ。
 
「中途半端なのは好きじゃないんだ。早く俺の色に染めてあげるよ」
「い、いや! これは、天巳様と同じ……」
「だ、か、ら。それが嫌なんだって」
 
 歌うように節をつけた玄烏は強引にみちるを横抱きにすると羽根を広げる。
 とん、と軽く飛び石を蹴って舞い上がったその影が水底の池に映り込み、影絵のように焼き付いた。
「……みちる?」
 
 執務机に向かっていた天巳は顔を上げた。
 背筋をざわざわと駆け上る感覚にたまらず椅子を蹴飛ばさんばかりに立ち上がる。机に載っていた書物や巻物が崩れて床に散らばった。墨を含んでいた筆までもが弾け飛んで壁に黒い飛沫が飛び散った。
 
「……っ」
 
 机に手をついて呼吸を整える。閉じた瞳の奥で水脈を辿る。
 水底の宮を流れるすべての水は、天巳の霊力が溶け込んでいる。今まで彼のものだけで満たされていた水脈に、突如混じり出したのがみちるの霊力だ。それを追うなどと考えたこともない。白い料紙に落ちた墨汁を見つけることと同じだからだ。
 しかし、水脈の気は、混じり気のない清廉な天巳のものだけに戻っていた。
 ――みちるが、どこにもいない。
 最悪の結果を再確認した天巳は大股で執務室を後にする。勢いよく閉じられた扉が嫌な音を立てた。
 
「シュウ、シノ!」
 
 みちるの部屋へ向かいながら呼べば、雫ふたりはすぐに姿を現した。いつもくすくす笑いながら見た目通りにはしゃいで跳ねるふたりだが、今回ばかりは神妙にしている。
 
「天巳様、大変」
「みちる様、いない」
「みちる様、天巳様に会いに行ったのに」
「みちる様、お庭から消えた」
「庭?」
 
 天巳は口々に報告を重ねるふたりを連れて庭へ向かう。常雨の庭は、雨が降ってはいるもののその結界は陽の光で散らされてそこかしこの水滴が反射し、妙に明るかった。
 
「雲、弱まってる」
「陽射しが突き抜けてきた」
 
 シノとシュウが揃って空を指さす。
 常ならば分厚い雨雲で覆われている空が、今は綿を引き裂いたように薄れている。その隙間から容赦なく降り注ぐ陽光が庭の隅々まで干上がらせんばかりに強さを増した。
 
「待て、出るな」
 
 天巳に先んじてみちるを探そうとしたシュウを手で制して後ろへ押し返す。力の加減がうまく行かずにシュウを受けとめようとしていたシノも支えきれずに後ろへひっくり返った。
 きゃあ、と悲鳴の二重奏を聞き流して天巳は慎重に庭へ出る。大きな丸い雨粒を遊ばせて揺れる葉をおもむろに弾くと、雨粒が弾け飛んだ瞬間、日に当たったところから土気色に朽ち果てていく。
 無言で眉根を寄せた天巳は他の手がかりを探すために更に足を進めた。徐々に乾き出した土がその色を薄くしている。天巳が歩けばそこは再びじとりと潤い、色が沈んだ。
 
「みちる」
 
 泥はねなど気にもとめず、天巳は庭を巡る。もう彼女の気配はここに無いことなどわかっている。
 しかし雨音は知っている。彼女の足音を。
 雨粒は映している。みちるの姿を。
 水たまりは見ている。みちるの足取りを。
 
「みちる、どこだ、どこに行った」
 
 やがて天巳は飛び石の終わりまでやって来た。小さな橋に至るその手前に――それは、あった。
 
「みちるの、傘」
 
 ひっくり返り雨を受け止め続けている、本来の役割を果たしていないその柄は、天を指していた。
 蛇の目傘の内側に満ちた雨が、銀の小花を泳がせて回り続ける。きらきら輝くそれは陽射しを乱反射して色とりどりに天巳の瞳を騒がせた。
 
「みちるは何処だ」
 
 天巳の声で、傘の水面が息づいた。
 水面が揺れる。そこに映るのは覗き込んでいる天巳ではない。
 みちるが歩いている。
 ここではない、もっと庭の手前だ。傘をさしたばかりの所で何かあったのか。
 みちるは天巳の住まう執務の棟を見上げている。何かに驚いて目を見開いた。
 黒い羽根が――見えた。
 
「玄烏、か」
 
 ぎり、と奥歯を噛み締めながら水面を見つめる。
 映るばかりで音が聞こえないことがもどかしい。
 何かを語られ、困惑した様子のみちるに更に詰め寄る玄烏。映し出される記憶に干渉できないと知りつつも割り込んで追い払ってしまいたい衝動を抑え込んでいた天巳だが――ふ、と表情が消えた。
 水面の中で、玄烏がみちるを抱き寄せていた。そして重ねられた唇。
 ぐったりと脱力したみちるが攫われていく。黒い羽根が勝利を宣言するように大きく羽ばたいてふたりが姿を消す。
 そこで水面はまた空を映し出した。
 
「…………みちる」
 
 握りしめていた天巳の手のひらから、つうと血が滲み、水面に落ちる。薄紅色が波紋を描いて溶け込んでいく。
 
「待っていろ。迎えに行く」
 
 静かな鬨の声を皮切りに天上に雲が集まり出す。何層ものそれは重なったことで白から灰色へ、鈍色へ、そして暗雲となり雷を呼ぶ。
 刹那、水底に光が満ちた。そして瞬く間に黒雲から雷の槍が突き立てられる。
 一寸先も覚束無いほどの雨が矢となりつぶてとなり降り注ぐ。
 天巳は血を垂れ流す手のひらで空を仰いだ。降りしきる雨に洗い流されていくはずのそれが、地から噴き出す雨水を呼んで巻き上げられ、水と血が混ざった塊になった。
 
「我の花嫁に手を出したか。空に太陽は要らぬということだな」
 
 みちるには一度も聞かせたことのない声音で、天巳は低く囁いた。