「まあまあみちる様、こんなにずぶ濡れ」
「あらあら天巳様も、うんとびしょ濡れ」
 
 持っていった傘をもう一度広げ直すのもおかしなほどに雨に打たれたふたりを見て、シノとシュウは仰天してその場で無意味に跳ね回った。
 
「みちるを風呂に入れてやってくれ」
「かしこまりました!」
 
 元気のいい返事と共にシノはぴちゃんと高く跳ねた水音を残して姿を消した。シュウは手早く手ぬぐいを持ち出してみちるの髪や手を拭いている。
 
「あの、私はいいので天巳様を先に」
「我に構うな。みちるが先だ」
「ですが」
「くどい。そなたが先に湯を使え」
 
 天巳の冷ややかな物言いにその場の空気がしんと冷える。手ぬぐいを握るみちるの指先が震えているのは、ずぶ濡れになったからだけではない。
 一歩退いたみちるはくずおれるように膝をつく。板の間に額を擦り付けた。
 
「も、申し訳ございません……! 差し出がましいことを申しました」
 
 シュウがぎよっとして手ぬぐいを取り落とす。はらりとみちるの背に落ちたそれはすぐに水を吸って灰色に沈んでいく。
 
「お叱りは如何様にも受けます。出過ぎた真似を致しました……」
 
 丸めた背を震わせ続けるみちるの体はあまりに華奢で、頼りない。
 先程、見ず知らずの男に啖呵をきったとは思えぬほどの弱々しさに、天巳は己の唇をぎりりと噛み締める。
 
「……そなたは、そのように生きてきたのだな。ひとの顔色を窺って、謂れなき理不尽に耐え……吹けば散る水面の花弁のように」
 
 天巳は静かに膝を折った。シュウから新しい手ぬぐいを一枚受け取ると、みちるの髪を優しく覆う。
 
「怖がらせてすまなかった。我が身の不甲斐なさをそなたに当たり散らすなど、恥ずべき行いだ」
 
 髪をひと房掬い、押すように水気を絞り、拭う。
 それを繰り返しているうちに、みちるの震えも収まってきた。
 
「……顔を、見せてくれるか」
 
 その呼びかけに、みちるはおずおずと顔を上げる。
 青と黒の視線が不安げに揺らいで天巳の鼻先あたりを遠慮がちに彷徨う。
 
「そなたの心遣い、嬉しく思う。だが、そなた以上に我は心配性のようだ。我を思うなら先に湯で温まってくれぬか」
「は……い」
 
 か細いながらも応じた声音はいつものみちるに近いものがある。天巳はゆっくりと頷き、手ぬぐいでみちるの頭を包み込みながら、色の失せた唇に親指をすべらせた。
 すう、すう、と何かを拭い去る動きにみちるは戸惑う。
 
「あの……天巳様?」
「烏に啄まれただろう。浄めておかねば」
 
 あの強引なくちづけを思い出し、みちるの頬がかっと朱を帯びる。天巳の目の前であのようなことをされたのだ。いくら憤ってもなかったことにはならないが、それでもやはり天巳に対する裏切りであることには変わりない。もっと警戒しておくべきだったと後悔の念に苛まれているみちるの唇が淡く開いた。

「みちる」
「っ、はい。あの、先程のことは私の不用心でした。迂闊なことばかりで申し訳ございません。今後は――っ」
 
 己を責め立てる言葉など封じてしまえとばかりに、天巳はみちるの唇を塞いだ。幾度も角度を変えて、何度も、何度も。呼吸が浅くなってきたみちるがくちづけの合間に大きく息を吸い込んだところで天巳の唇がそれを貪る。手ぬぐい越しに耳全体をやわやわと撫でられながら舌の先を吸われ、みちるは何もかもわからなくなりそうだった。
 
「あ、まみ、さま……ん、ッッ」
 
 天巳の腕の中で懸命に応えるみちるが名を呼ぶたびに、天巳の中で持て余している激情がうねりを増す。
 ――このまま掻き抱いて、すべて奪ってしまいたい。
 清廉なかんばせに似つかわしくない欲望がゆらりと立ち上るが、腕に縋る華奢な体のぬくもりが小さく震えているのを感じ、これ以上戻れなくなる前にと唇を離した。
 はあはあと荒い呼吸で肩を大きく上下させるみちるの背後に、湯の支度を整えてきたシノが見える。これ幸いにと天巳はシノにみちるを託した。
 
「それでは……お先に失礼致します」
「ああ。ゆっくり温まっておいで」
 
 亀裂から修復までのやりとり一部始終をちゃっかり聞いていたシュウが、濡れた床用に手ぬぐいを敷き詰め終わったところで顔を上げた。
 
「ゆずりあい、素敵。でもふたりでいっしょ、もっと素敵! 心も体もぽかぽかー!」
 
 みちるの足がぴたりと止まった。自分の手を拭っていた天巳も動きを止める。
 
「わ! 名案! シュウはお利口さんだあ」
「でしょう? 一緒にあったまれるの、仲良しさんの証拠!」
「善は急げ! さあさ天巳様、そんなところでのんびりしてるよりお湯にざぶんと浸かりましょ。みちる様もいっしょ! ふたりでぬくぬくー!」
 
 天巳の手ぬぐいを無造作に引っ張るシュウと、みちるの背をぐいぐい押すシノ。
 童の見た目には不釣り合いなほどの力で風呂場に連れて行こうとするふたりに、みちるは目を白黒させつつもなんとか宥めようとするが、こういう時ばかりはちっとも言うことを聞かないのがこのふたりである。
 背を押されてつんのめりかけながらも振り向いたみちるは天巳を見上げる。シュウと綱引き状態になっている手ぬぐいが今にも引きちぎられそうだが、つとめて無表情を保っていた。
 
「あ、天巳様……」
 
 眉を八の字にしたみちるは天巳の出方を窺う。確かにシノ達の言うように、ふたり一緒に入るのが合理的ではある。しかし、みちるの価値観ではそれは大いに問題である。天巳のことは憎からず思っているものの、そういうことはおいそれと許すものではないだろう。
 
「どうした」
「あ、ええと、その」
 
 覚束無い返事では何の時間稼ぎにもならないと自覚しつつみちるは頬に手をやる。先程のくちづけのせいで、とても熱い気がする。
 
「あ、天巳様は、どのようにお考えで」
 
 この宮の主は天巳なのだ。これは彼女が皮肉にも外敵たる玄烏に宣言したことでもある。天巳が是と言えば自分にはそれを拒む権利は無い。
 ――拒む権利。
 そこまで考えを巡らせて、みちるははたと気がついた。もし、天巳がみちるにその権利を与えたなら、自分は正面切ってそれを行使できるのか。
 嫌です、一緒に入浴は致しかねます――正論の矛と貞操観念の盾を以てそう言い切ってしまえば、天巳も無体な真似はしてこないだろう。
 しかし、ここで天巳を拒んでは、結局、先程のようなすれ違いやわだかまりを生む一方ではないか。否、それは単なる言い訳に過ぎないのかもしれない。断るための言い訳ばかり用意して、己が傷つかぬようにと予防線を張っているだけなのか。
 つまりそれは。みちるが、天巳に、肌を――
 僅かな間にそこまで発展した己の中の浅ましい欲に気づいて、みちるは今度こそ己の頬がしっかりと熱くなっていると自覚する。湯けむりの中で肌を合わせる様を想像してしまったなど、天巳には口が裂けても言えない。
 こんなはしたないことでは呆れられてしまう。そう不安に駆られつつ上目遣いで天巳を見遣れば、彼は一度、ゆっくりと瞬きをして――首を横に振った。
 
「何を言われようと我は変わらぬ。みちるが先だ」
 
 すう、と頬の熱が冷めた。
 一音一音、はっきりとそう宣言されて、みちるは俯きがちに頷いて、小さく返事をした。
 シノとシュウも、しゅんと肩を落として無言になる。自分の心の内がふたりを通して透けて見えるようで、みちるは居たたまれなさでぎゅっと手のひらに爪を立てた。
 みちるを先導するシノと、天巳の手放した手ぬぐいを畳むシュウが揃ってふたりから視線を外した時、天巳が一歩、みちるに近づいた。身をかがめた彼の長い髪がしっとりとみちるの肩に落ちる。
 
「天巳様?」
「早合点するな。拒んだわけではない。自重だ」
「え……?」
 
 うまく言葉の意味が飲め込めずに首を傾げるみちるの不安げな瞳を、天巳はじっと見下ろす。
 
「あれのせいで、今は互いに冷静ではいまい。今のくちづけもそうだが――あれ以上、そなたに衝動のまま不用意な真似をしたとあっては我は己を許せぬ。だから今は距離を置く」
 
 訥々と語る天巳の声が、乱れたままのみちるの心に染み入っては馴染んでその波を消していく。
 みちるは天巳を見上げ、今度ははっきりと頷いた。天巳も口の端をやんわりと上げて頷き返す。
 拒絶された訳では無かった。ただそれを言葉にして伝えてくれたことに、みちるの胸がいっぱいになる。
 沸き立ち、次の瞬間には凍てついた忙しない水面の温度が優しいぬくもりに満ちていく。ほうと安堵の吐息を漏らしたみちるに、天巳は悪戯っぽく囁いた。
 
「随分と喜んでいるな。次は期待して良いのか」
「え……あ、えっと……!?」
 
 安心しきったところに思わぬ奇襲をかけられみちるの心にまたもや波風が立つ。しかしこれは嫌ではない。
 返事もろくに言葉にならず慌てふためくみちるは頬を覆って無意味に首を振る。しかし、その指の隙間から垣間見える耳たぶが朱に染まっていることに天巳は目ざとく気づいていた。
 それは拒絶の証ではなく恥じらいの――天巳を男と意識するからこその掻き乱される心の波飛沫に目を細め、天巳はみちるを風呂へと送り出した。
 
「天巳様、大人です。素敵。みちる様、きっとますます天巳様に夢中」
 
 黙って一部始終を眺めていたシュウがくすくすと体を揺らす。その落ち着きのない頭を軽く撫でてやった天巳は、もう見えなくなったみちるの後ろ姿を脳裏に浮かべる。
 
「すべてを告げてもなお、みちるがそう想ってくれるなら……何を投げ打っても構わんな」
 
 シュウは己の頭を撫でる大きな手に自分の手を添える。冷えきったそれに目を大きく瞬いて、ぴちゃんと大きく跳ねた。