「みちる様、こちらをお使いください」
翌朝、身支度を終えたみちるにシノが差し出したのは蛇の目傘だった。紺色を基調としたそれにはくるりと縁取る銀色の小花模様が舞っている。
「きれい……」
「気に入ったか」
「はい。天巳様が用意してくださったのですね。ありがとうございます」
礼を言ったみちるが玄関でそれをまじまじと見つめ、ほうと息をつく。綺麗だと褒めたはずなのにどこか浮かない表情をしている彼女を天巳は覗き込んだ。
「どうした。気分が悪いのか。それとも今日外に出るのはやめておくか」
「い、いいえ! 違うのです。ただ……その、あまりに綺麗なので、使うのがもったいないと思ってしまって……」
申し訳なさそうに持ち手を恭しく掲げたままのみちるから、天巳は傘を取り上げて一気に開いた。傘の中からはらはらと淡い花びらが降ってくる。
「わ……!」
「傘は使ってこそだ。行くぞ」
みちるに傘を持たせてやると、天巳も傘を開いて一歩踏み出す。
戸口に下ろされていた青の紗がふうわりと舞い上がる。
「みちる様、行ってらっしゃいまし」
「たのしんでくださいね」
シノとシュウに見送られ、みちるも外へ歩き出す。何故、傘を渡されたのか――その時に、理解した。
小糠雨が辺りを包んでいる。静かに庭木を潤し、飛び石を艶々と光らせて、世界は静謐な白銀色の紗で囲い込まれていた。
「雨は……ずっと降っているのですか」
「ああ。鬱々とさせたらすまない」
「いえ……」
みちるは口を閉じるのも忘れて見入っている。それは景色にというより、一面の雨模様に魅入られているように見えた。
「みちる」
「……ずっとこれを、雨が降る光景を……待ち望んでいたのです……それが、こんなに……」
傘の柄を両手できつく握りしめて、みちるは一歩、またもう一歩と飛び石を伝う。天巳はその後を静かについて歩く。
互いに言葉はなく、雨垂れが代わりに静寂を繋ぐ。天巳は傘越しにみちるの様子を窺う。俯いているのか、泣いているのかと危ぶむ彼の予想は裏切られた。
みちるは――毅然と前を向いていた。
頬を伝う雨はなく、瞳を翳らせる暗雲もない。
その瞳で――青と黒の、半端な加護しか受けられぬ証の瞳で、永遠に続く雨に閉ざされた、この水底の宮を見据えていた。
雨に満ち、流れゆく水面に花びらが浮かんでくすんだ色の天の川を成す。石に堰き止められてくるくると回り続ける葉はやがて力尽きて川底に沈む。
水を吸って色を変えた土が、玉砂利の下で柔らかく溶けぐにゃりと飛び石を包み込む。
雨垂れによって枝から落とされた葉がその色を失い、泥にまみれみちるの草履を汚す。
みちるの瞳はすべてを眺め、見つめる。
やがて、みちるはそっと傘の中から空へと手を差し伸べる。我先にと競うように降りしきる雨粒はたちまちみちるの手のひらをぐっしょりと濡らしていく。受け止めきれなかった雫がひっきりなしにぽたぽたと落ちていく様を見て、みちるはかすかに顔を歪ませた。
「……雨です。雨ですよ、父様、母様」
みちるは傘を下ろして直接雨の中に身を置いた。空を見上げる額が雨を弾いて刹那のきらめきを魅せる。
天巳は傘を差し掛けるべく歩を進める。しかし、みちるは背後が見えているわけでもないのに首を横に振った。
「向こうにいる間に雨を呼べず、不甲斐ない雨巫女で申し訳ございませんでした」
濡れて頬に張りつく髪を払うことなく空からの祝福を、そして天からの縛めを受け止める。みちるを傘に入れてやらねばと思うのに天巳の足は動かない。
「天巳様……雨龍の御方は慈悲深く、こんな私を雨巫女として尊重してくださいます。何も成せぬ私に過ぎたる恩寵です」
雨の勢いがやや増してきた。常に一定の雨量を保つ庭が更にしっとりと雨にけぶりだす。
「そちらに雨は降っておりますか? 願わくばこの景色を、父様と母様と見とうございました」
強まる雨音に掻き消されまいとみちるは息を深く吸い込む。父様、母様、と繰り返し呼ぶその声はいとけない迷い子のそれを思わせた。
「もう……よい、やめよ、みちる」
天巳の声が届かぬのか、みちるは父を呼ぶ。母を求める。降りしきる雨の幕が、開いた傘ひとつ分の距離を大きく隔ててふたりを引き離す。
「みちる……ッ」
天巳も傘を捨てて手を伸ばした時――振り向いたみちるの姿が、雨よりも確かな形を取った、黒い羽根に覆われた。
「娘さんがこんなに濡れたらいけないよ」
天巳の贈った蛇の目傘ではなく、濡羽色の――正に艶々と黒く輝く羽根が、みちるの新たな傘となって雨の紗から遠ざけている。
それは、すべてが黒かった。すらりと降り立った足も、羽根を纏う腕も、雨空に遊ばせた髪も黒い。その中で、黒眼鏡からちらりと覗く瞳だけが鋭く金色に瞬いて――みちるの瞳は釘付けになる。
「俺は玄烏。お見知り置きを。狭間の雨巫女、みちる嬢」
翌朝、身支度を終えたみちるにシノが差し出したのは蛇の目傘だった。紺色を基調としたそれにはくるりと縁取る銀色の小花模様が舞っている。
「きれい……」
「気に入ったか」
「はい。天巳様が用意してくださったのですね。ありがとうございます」
礼を言ったみちるが玄関でそれをまじまじと見つめ、ほうと息をつく。綺麗だと褒めたはずなのにどこか浮かない表情をしている彼女を天巳は覗き込んだ。
「どうした。気分が悪いのか。それとも今日外に出るのはやめておくか」
「い、いいえ! 違うのです。ただ……その、あまりに綺麗なので、使うのがもったいないと思ってしまって……」
申し訳なさそうに持ち手を恭しく掲げたままのみちるから、天巳は傘を取り上げて一気に開いた。傘の中からはらはらと淡い花びらが降ってくる。
「わ……!」
「傘は使ってこそだ。行くぞ」
みちるに傘を持たせてやると、天巳も傘を開いて一歩踏み出す。
戸口に下ろされていた青の紗がふうわりと舞い上がる。
「みちる様、行ってらっしゃいまし」
「たのしんでくださいね」
シノとシュウに見送られ、みちるも外へ歩き出す。何故、傘を渡されたのか――その時に、理解した。
小糠雨が辺りを包んでいる。静かに庭木を潤し、飛び石を艶々と光らせて、世界は静謐な白銀色の紗で囲い込まれていた。
「雨は……ずっと降っているのですか」
「ああ。鬱々とさせたらすまない」
「いえ……」
みちるは口を閉じるのも忘れて見入っている。それは景色にというより、一面の雨模様に魅入られているように見えた。
「みちる」
「……ずっとこれを、雨が降る光景を……待ち望んでいたのです……それが、こんなに……」
傘の柄を両手できつく握りしめて、みちるは一歩、またもう一歩と飛び石を伝う。天巳はその後を静かについて歩く。
互いに言葉はなく、雨垂れが代わりに静寂を繋ぐ。天巳は傘越しにみちるの様子を窺う。俯いているのか、泣いているのかと危ぶむ彼の予想は裏切られた。
みちるは――毅然と前を向いていた。
頬を伝う雨はなく、瞳を翳らせる暗雲もない。
その瞳で――青と黒の、半端な加護しか受けられぬ証の瞳で、永遠に続く雨に閉ざされた、この水底の宮を見据えていた。
雨に満ち、流れゆく水面に花びらが浮かんでくすんだ色の天の川を成す。石に堰き止められてくるくると回り続ける葉はやがて力尽きて川底に沈む。
水を吸って色を変えた土が、玉砂利の下で柔らかく溶けぐにゃりと飛び石を包み込む。
雨垂れによって枝から落とされた葉がその色を失い、泥にまみれみちるの草履を汚す。
みちるの瞳はすべてを眺め、見つめる。
やがて、みちるはそっと傘の中から空へと手を差し伸べる。我先にと競うように降りしきる雨粒はたちまちみちるの手のひらをぐっしょりと濡らしていく。受け止めきれなかった雫がひっきりなしにぽたぽたと落ちていく様を見て、みちるはかすかに顔を歪ませた。
「……雨です。雨ですよ、父様、母様」
みちるは傘を下ろして直接雨の中に身を置いた。空を見上げる額が雨を弾いて刹那のきらめきを魅せる。
天巳は傘を差し掛けるべく歩を進める。しかし、みちるは背後が見えているわけでもないのに首を横に振った。
「向こうにいる間に雨を呼べず、不甲斐ない雨巫女で申し訳ございませんでした」
濡れて頬に張りつく髪を払うことなく空からの祝福を、そして天からの縛めを受け止める。みちるを傘に入れてやらねばと思うのに天巳の足は動かない。
「天巳様……雨龍の御方は慈悲深く、こんな私を雨巫女として尊重してくださいます。何も成せぬ私に過ぎたる恩寵です」
雨の勢いがやや増してきた。常に一定の雨量を保つ庭が更にしっとりと雨にけぶりだす。
「そちらに雨は降っておりますか? 願わくばこの景色を、父様と母様と見とうございました」
強まる雨音に掻き消されまいとみちるは息を深く吸い込む。父様、母様、と繰り返し呼ぶその声はいとけない迷い子のそれを思わせた。
「もう……よい、やめよ、みちる」
天巳の声が届かぬのか、みちるは父を呼ぶ。母を求める。降りしきる雨の幕が、開いた傘ひとつ分の距離を大きく隔ててふたりを引き離す。
「みちる……ッ」
天巳も傘を捨てて手を伸ばした時――振り向いたみちるの姿が、雨よりも確かな形を取った、黒い羽根に覆われた。
「娘さんがこんなに濡れたらいけないよ」
天巳の贈った蛇の目傘ではなく、濡羽色の――正に艶々と黒く輝く羽根が、みちるの新たな傘となって雨の紗から遠ざけている。
それは、すべてが黒かった。すらりと降り立った足も、羽根を纏う腕も、雨空に遊ばせた髪も黒い。その中で、黒眼鏡からちらりと覗く瞳だけが鋭く金色に瞬いて――みちるの瞳は釘付けになる。
「俺は玄烏。お見知り置きを。狭間の雨巫女、みちる嬢」