『今日美術の課題手伝ってくれない?』



気怠い曇りの昼休み。学食から友人数名と一緒に歩いて教室に戻っていて、なんとなく携帯の画面を覗いたら、緑色のメッセージアプリの通知が目に留まった。差出人は、Sの名前。

同じ部屋だから一応、と言われて交換したSの連絡先だったけど、そんなに頻繁にやり取りをするわけではなかった。だって、同じ部屋だから毎日顔を合わせるわけだし。

何となく、画面を上にスクロールして会話を遡ってみる。
四月五日、よろしくのスタンプ。変な犬のスタンプ。ごめん、俺帰りが遅くなるから鍵掛けて寝て。わかったのスタンプ。今日ゲームしよう。いいよ、部活の後でも良い?OKのスタンプ。そして一週間後の今日、五月一日だ。
こうして見ると全ての会話がSから始まっていた。


そう、Sがこの高校へ来てからもうすぐ一ヶ月。
Sは転入した直後から、お得意の社交性を発揮して、たった一週間ほどで高校に馴染んだ。結局Sは、転校前にサッカーの地区選抜に選出されていたことがバレて、半ば無理やりサッカー部に入部させられた、らしい。三年生なので多少融通はきくらしいものの、サッカー部という花形の部活ブランドも相まって、確実に女子からの人気と地位を獲得するに至った。

そんなSだったけれど、僕の予想通り、スクールカーストがあるとすれば間違いなく上位、に属しているにもかかわらず、単純に、割と良い奴だった。

僕が地味な美術部員であることを気にしていないのか、Sとはよく部屋で雑談をするし、僕の持っているゲームでもたまに対戦をする仲、だ。
僕は何となく、今のところSとは上手くやれている気がしている。


……だけど結局、あの背中の蝶は、まだ見ることができていないまま。
ずっと気になっているけれど、自分から何か話を振ることもできない。


『いいよ』


僕はそう打ってすぐに送信ボタンを押そうとしたけれど、よく考えたら、課題を手伝う、というのはどの程度手伝えば良いんだろう?いつも迷うことなんてない右手の人差し指を、ふと止める。彼が僕に求めている“手伝い”は、そもそも何だろう。代わりに描けとか言われたら?あと課題っていうのは多分、今一斉に出されたばかりの、手のデッサンのことだと思うんだけど、



「流川、聞いてる?」



考え事を遮ったのは、一緒に歩いていた友人の声。え、あ、ごめん何だっけ。と返事をして、僕は急いで『いいよ』の三文字だけを送信し、携帯を制服のズボンの右ポケットにしまった。


「美術部だから、流川は得意だろって」

「何が?」

「だからー、今度の水彩画コンテストよ」

「ああ」


そういえば、少し先の七月中旬くらいまでの締切で、年に一度の水彩画コンテストが開催される予定になっていた。コンテストといっても、ただ校内だけで、特に優れた作品を入選や特選などの名をつけて表彰する、というだけのものだ。夏休みに入る直前に、いつも優秀作品が廊下に貼り出されるのがお決まりだ。
得意というか、美術部なのだから入選は確実にしなければならないし、貼り出された自分の作品の横についているテープが、金色か銀色か、といったところを気にするくらいのものだろう。
美術部顧問の先生が審査をするのだし、もう三年の付き合いになる先生の評価のポイントくらい、押さえているつもりだ。


「まあ当たり前でしょ」

「うわ、余裕だな」

「はは、冗談」

「テーマ自由だってよ」

「え、そうだっけ」


いつも何かしらテーマが決められている筈だけど、どうして今回だけ?まあ、締切はまだ先だから、後で考えればいいか。
そのまま水彩画の話は流れ、今度あるらしいという隣町の女子高の文化祭の話が始まる。

僕も興味がないと言えば嘘、だ。








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「あのさ、普通人差し指ってそっちに曲がらないだろ?」


よく考えたら何という失礼な物言いだろう。僕はそんなとんでもない質問を、同じ部屋で生活する同級生に投げつけてしまっていたのだ、だって、その、真新しいスケッチブックの一ページ目に彼が描いていた、風変わりな手のデッサンを目の当たりにしてしまったものだから。


「え、そう?」

「そうだよ、見てみろよ自分で」

「怖いよ流川…何なの急に」

「だっておかしいだろ」


放課後部屋に帰ってくると、Sがスケッチブックを片手に待ち構えていた。予想通り、課題というのは手のデッサンで、正直手伝えることなんかそんなにないだろう、と思っていたんだけど、僕はSを見くびっていた。

Sはベッドの上に胡座をかいて座り、脚の上に乗せたスケッチブックと睨めっこしつつ、うーん、と唸りながら自分の左手を見つめ、あっそうか、確かに!とかなんとか言って、また右手の鉛筆を動かし始める。


「あとそういう不安定な場所じゃなくて、机で描いた方が良いよ」

「え、だってこの間流川もベッドで描いてたじゃん、なんか上手なやつ」


うっ…と、口に出しそうになったけれど、僕がベッドの上でよく絵を描いているのはその通りなので、黙った。


「やっぱりなんか上手く描けない」


Sは鉛筆とスケッチブックを放り出し、ベッドに倒れ込んで仰向けに寝転がる。わしわしと頭を掻いて、はー、と息をひとつ。セットされていた黒髪が、無造作に乱れる。


「分かった、じゃあ僕の手を見て描いたら?」

「え、良いの」

「うん」

「じゃあ、ここに座ってよ」


勢いよく起き上がったSに言われるまま、彼のベッドの手前側に腰掛ける。
彼が描こうと奮闘している左手は、少し先にある何かを掴もうと手を伸ばしているみたいな、不思議な格好をしていて、同じポーズを再現するのに少し時間を要した。

これで合ってる?と、左手を目線の高さあたりで構えたまま、Sの方を向くと、Sは僕の左手をじっと見つめ、うん、あ、ちょっと待って、と、真剣な顔。
モデルになりきっている僕の左手の手首を、絵の苦手な画家の手が掴み、少しだけ角度を変えた。

…そのまま、Sの右手は、僕の左手の輪郭をなぞる。手首にあるまるい骨、手の甲、そこから、指の付け根の、関節。その関節から、人差し指に繋がって、指先へ。

真っ白で細くて骨張っている僕の左手と、小麦色に焼けた男らしい大きな右手。人肌よりも少し、温かく感じる体温。午後十七時の夕方の陽光が、二つの手のシルエットを際立たせるように、差し込んだ。

黙ったままのSの顔色を伺うと、その顔は意外と近いところにあった。真ん丸の目はどこか、そう、どこか子犬みたいな雰囲気があって、通った鼻筋、少年の残ったままの口元。


「……綺麗な手」


ふ、と開いたSの口から放たれたのは、その音。
その音の響きにびっくりした僕は、視線を左右に逃がして、咄嗟に左手を下ろす。


「そんな、ことないよ」

「何で、手戻してよ」

「真面目にやらないなら手伝わない」

「ごめんごめん、もう変なこと言わないから」


Sの顔を睨むように見てみると、許しを請うような、甘えるような、そんな目をして僕を見つめている。
ほら、やっぱり、子犬に似てる。

僕はベッドの上にきちんと座り直して、さっきと同じように左手のモデルに集中した。Sはスケッチブックと格闘を始め、さっきよりはましな線を描いている。

Sが余りにも一生懸命なので、つい僕もそのスケッチブックに釘付けになる。
なかなか良い感じの手の輪郭が出来上がり、いい感じだねと言うと、Sが得意げに笑った。


「あとは細かい陰影かな」

「やっぱり、そこまでやんなきゃダメ?」

「駄目」

「教えて下さい」

「今は夕方だから、こっちから光が来てて、陰ができてるだろ、この通りに、この指の下と手首と、あと小指に向かって少しずつ暗くなってたり、鉛筆で濃さを調整して、陰を描いていくんだ」

「へえ……」

Sの握る鉛筆が、控え目にシャッシャッ、と線を引き始める。僕は固定したままの自分の左手を見ながら、そうそう、その、親指の下とか、もっと黒いよと、先生になった気分で言う。
Sが僕の左手に、じっと視線を縫い付けたあと、またすぐにスケッチブックに集中する。
一生懸命デッサンにのめり込む、姿勢の悪い背中。

あ、その背中に。
美術の課題を手伝う代わりに、背中を見せてと言おうか?いや、なんだか気持ち悪い、無理だ、やめよう。


「あと、鉛筆だから指でぼかしたりすると良いかも、リアルになる」

「え、そうなの、こうやって?」

「あ、そうそう、上手い」


スケッチブックの左手は、かなり良い具合に仕上がり始めている。絵を普段全く描かない高校生が描いたにしては、素晴らしい出来だ。


「すごい、俺、絵上手い人みたい」

「うん、上手いよ、本当に」



流川のお陰だよ、ありがとう。

Sは嬉しそうに言って笑顔を見せ、また、僕の左手をじっと見ながら、デッサンを続ける。

今までに見たことのないような、集中しきっている彼の横顔と、一ページ目に力作が誕生しそうな、スケッチブック。細かい陰影が入り、リアルな質感まで生み出されたそれは、僕の左手だ。

僕は改めて、少しだけ疲れてきた自分の左手に視線を移す。

少し離れたところにある何かを掴もうとしているみたいな、そんな左手。届きそうで届かない、何かを。

真っ白で、男らしくもなんともない腕に、骨の分かりやすい手首、細い指。



本当に、綺麗な手、かな。



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