最近、帰宅すると、毛布のかたまりに擬態した同居人が、ソファの上に丸まっていることがある。
「ただいまぁ。……一佳(いちか)?」
「…………」
「あ、そこにいたのか。ただいま、一佳」
 寛子(ひろこ)が声をかけると、丸く盛り上がった毛布から一佳が少しだけ顔を出した。
 今まで寝ていた顔でもない。
 が、なんだか表情に精彩がない。
 職場を出た時に送ったメッセージに既読の表示がつかなかったから、念のため、物音を立てないように帰宅したのだが。
 こういう日が、この頃、時々ある。
「……あの、おかえりなさい。……すみません。寛子さん。ごはん、まだ作れてない……」
「ううん、謝る必要なし。こんな暑さじゃ無理! 身体、どう? しんどい?」
 寛子は一佳を観察しながら、手を洗い、うがいをする。アルコール液で消毒した手で、毛布の盛り上がりをぽん、と触る。
 寛子だって元気ではない。
 十九時半。
 今日も都内の気温は、日陰で三十六度超え。体感だといかほどか、昼休憩も、アスファルトが湯気を立てそうな暴力的な熱波に心が折れて、行き先を一番近いコンビニに変えた。
 日が落ちてからの帰宅でも、駅舎を出ようとした瞬間から、空気そのものが熱くて、あっという間にサウナのように蒸し上がる。
 帰宅したら、何はなくても水分補給。
 スポーツドリンクを出すついでにさりげなく冷蔵庫チェック。
 ――今日中に食べてしまわないといけないものはなさそうだ。
「飲むね。っていうか一佳も飲んどくか、スポドリ」
「……んん……」
「飲もう飲もう、猛暑だから」
「欲しいと、あんまり、思わないんですけど……」
 一佳はそう言いながらも、もそもそと上体を起こし、寛子が差し出したグラスを手に取ってくれる。
 蒼白めの顔が痛々しい。
 スポーツドリンクを飲んだ後、一佳は再び横になった。
「すみません……なんか、怠(だる)くて。あ、熱は、平熱です。咳も、関節痛も、味覚障害もなし」
「良かった」
「症状はないんです。ただソファから動けなくて……」
 感染を避ける生活が始まってから、体温計での検温は、それまでよりずっと身近なものになった。
 体調が悪い、の意味合いが、それまでとは変わって。
 自分が不調を抱えてつらいだけではなく、自分と同居する家族、同じ職場の同僚など、周囲の人の生活すべてに影響を及ぼすものになった。
 なので、見極めと申告はできるだけ早く。
 何をおいても、まず、コロナの心配。
 新型コロナウイルス。その位置づけが、令和五月からインフルエンザなどと同じ「五類感染症」に移行した。
 国の感染対策上、節目の時だ。
 感染対策は個人の判断にゆだねられ、まだ感染症状が出たことはない寛子と一佳も、相談をして方針を決めた。
 ――でも、かかったのがコロナじゃなければそれでオールクリア、という話でも、もちろん、ない。
「……今、『正体不明の体調不良』って、すごく多いよね、あちこちで聞く。……まあ昔から、内科系は、風邪っぽいけど様子見、って診断が多かった気がするけどね。今、体調崩してる人、単純に多くない?」
「ああ……うちの会社の上司も、オンラインミーティング前に、ヘルペスが痛いって……そこに帯状疱疹経験者もいて」
「久々の飲み会で、アルコールに弱くなったって言ってた人もいたし。三年半くらいで生活習慣や環境がかなり変わって、疲れやストレスの蓄積も出てきやすいし、戻りの反動もあるかな……」
「……アレルギーも……」
「あれ、一佳なんか持ってた?」
「いえ。……でも、出方はアレルギーみたい。メンタル方面……」
「え」
「いや、この話、長くなるから、今はいい。寛子さん、おなかすいてるでしょ」
「そんなでもない。話そうよ。それとも、食べながらが話しやすい? 一佳、おなかすいた?」
 寛子は一佳の足元に座る。
 同居人の話より大事な三大欲求などない。
「食欲……あるような……ないような……」
「軽く済ますか。冷凍庫の買い置きか、コンビニの麺類か、テイクアウトで牛丼か……お寿司とか」
「回らないお寿司。給料日前に、豪勢ですね」
 寛子はふっと笑って聞き流す。お祝いでもない日に二人の間でお寿司と言えば、チェーン店の、ほぼ二貫で百十円のお寿司と決まっていて、それが一佳なりのジョークだとわかっているから。
「そのうち、『回るお寿司』が死語になるかも」
「確かに」
 寿司大手チェーン店で、多様な寿司がレーンをくるくる回っている光景を見ることは、昨今ほとんどない。タッチパネルで注文した皿が、奥からスッと流れてきて、目の前で止まる。
 ファミリーレストランでも、タッチパネル注文、ロボット配膳が増えていた。コロナ禍を経て、大きな変化と言える。
「寛子さん。あの。今日、母からメッセージが、入ってて」
「すごく突然。なんて?」
 一佳から、リアルタイムで家族の話を聞くことはほとんどない。
 長い付き合いなので、寛子の方から訊くことも、必要に迫られない限りはなかった。
「転んで、足にひびが……って」
「わお、大丈夫かな⁉」
「大丈夫だそうです。ぴんぴんしてるって。そもそもケガしたのは一週間前で、カレシに病院の送り迎えしてもらったんだって。……じゃあなんで連絡してきたのか、今頃」
「心細いのかな」
「暇なんでしょう」
「…………」
「普通の親子の、ハートフルな触れ合いみたいなの、我が家に期待してもだめですよ」
「まあ、お互いに、もう大人だしね」
「ええ。お大事に、とは伝えたけど、それ以上は……。なんでしょうね、一言二言交わしただけで、この消耗。今更、罵詈雑言を浴びることもないんですけど、延々噛み合わない、というか。もやもやが後を引いて、もやもやする自分に余計考え込んじゃって」
「うん」
「……別に、今のカレシが誰でも、母の自由です。法律はわからないけど、私の口出しすることじゃない……けど、あんまり知りたくないのに、わざわざ言うってどんな気持ちなんだろう? って、もやもやして、動く気力が……」
「なくなっちゃうわけだ」
「生きるエネルギーを延々吸われ続ける……昔から。でも毒親とか、親ガチャ失敗とは、私は言いたくなくて。あ、やだな」
「何が」
「愚痴言っちゃいました」
「愚痴悪くないよ。吐き出しちゃえ」
「寛子さんの気分まで暗くなるんじゃ……」
「ならない、ならない。見て? この明るさ。てか、めちゃくちゃ顔テカってるでしょ。汗で化粧全部流れるんだけど?」
 笑いを取りに行ったついでに、顔の近くでギャルピースをしてみせると、懐かしさか、呆れか、一佳がなんとも言えない顔で目じりを下げて微笑む。
「……ふふっ」
「共感能力が足りないのかも。昔は、暗い人にやきもきすることがあったけど。心がギャルでしたから。明るさこそ正義、と」
「根性ありましたよね、寛子さん、あんな地方の片隅で、ギャルを名乗るなんて」
「名乗った覚えはないよ。地髪が茶色くて、ちょっとスカート短くして、ルーズソックスとか、何度かはいてみただけでしょ。あと、禁止されてたコンビニに寄るとか? それも必要があった時だけだし。渋谷のコギャルに鼻で笑われるレベルだよね」