【マッチングされましたお相手様からお断りのご連絡。今回はご縁がなかったということですが……】


 通知が届いたメールを開いて、全て読み終える前に画面を閉じた。浅くため息を吐くと、白い息となって夜空に溶けていく。
 
 私の心を曇らせたのは、婚活サイトから届いたお祈りメール。機械的な文章は、擦り傷をつついてくる。

「またか……」

 同じ文面を見たのは、初めてのことではなかった。
 数えてみるとそれは片手では数える指が足りないほどだ。

 はじまりは34歳を迎えたときのこと。
 久しぶりに実家に帰ると、一回り背中が小さくなった母にまだ独り身であることを心配された。
「今は結婚しない人も増えてて……」必死に説明したけれど。
 昭和の価値観を引きずったままの母には、結婚できない人間の戯言に聞こえたのかもしれない。
 
「結婚しなかったら、幸せになれないじゃない! 綾は独りで生きてて幸せなの!?」
 強い語気で放たれた言葉は、弾丸のように胸に突き刺さった。
 さすがにムっとして、反論しようと息を紡いだ。
 だけど、泣きながら婚活をしてほしいと心配する母を目の前にして、反論する意志はもろく砕けてしまう。
 それに、ここで自分の意見を言ったとして。また泣かれるだけだろう。

 正直、めんどくさい。

 また言い合いになるくらいなら、意志を飲み込んだ方が幾分楽だ。そう思った私は、言われるがまま婚活サイトに登録した。


 婚活サイトに登録した後も、結婚には興味が湧かなかった。
【私は結婚ができないんじゃない。本当にしたいと思わない】

 心の片隅に残るのは偽らざる思い。
 だけど、脳裏にこびりついた母の泣き顔が、私の本音に上書きする。

【――結婚をすれば幸せになれる】

 
 こうして、私の日常に「婚活」が加わったのだ。 

 

 私はスマホを取り出して、あるアプリを開いた。
 それは「moment diary(モーメントダイアリー」。
 若者の間では、略して「モアリー」と呼ばれているアプリ。

 モアリーは「今この瞬間のリアルな記録」を友達と共有することを目的としたSNSだ。
 日々の記録をつぶやき形式で残せるアプリで、300文字以内と規定があり、お手軽さ重視の日記といったところだ。

 日記の公開・非公開はその都度選択できて、公開を選んだときは、タイムライン形式でフォロワーに見られる形式となっている。
 非公開設定にして自分だけの日記アプリとして使う人や、交流するSNSとして使ったりとさまざまだ。
 私はSNS機能として使っていて、その日あったことをぽつりとつぶやいたりしている。

 初期設定に、diaryタイトルとして日記のタイトルを決めなければならない決まりがあった。
 毎日のご飯を記録したい人は【主婦の夜ご飯日記】
 ペットの呟きが多い人は【愛する愛犬日記】
 こういった感じで、何に対しての日記なのかを、見た人がすぐにわかるようにつけている。

 私がつけた日記のタイトル。それは……。

【アラサーどくぼっちが幸せな結婚をするまで】

 なぜこんなに寂しげなタイトルかというと。
 はじめたきっかけが婚活だったからだ。
 胸に疼く黒いモヤを払いたくて、同時にこのSNSに登録した。渦巻く想いも婚活日記として記録しようと思ったんだ。

 そして【どくぼっち】というのは、私のアカウント名。
 独身とひとりぼっちを掛け合わせてつけた。
 自分でも自虐的だなと思う。
 だけど、そのおかげかどうかはわからないが、同じ境遇のアカウントからフォローされた。決して多くはないがフォロワーも増え始めている。



 星一つ見えない夜の街で、スマホ画面の灯りが私の顔を照らす。寒空の下私は冷えた指先を動かした。

【婚活運営から届いたのはまたお断りメールだった。まだ1回しか会ってないのに。自分を否定された気分で心がえぐられて瀕死。外は寒いし、体の芯まで凍えそう】
 
 ちょっと柔らかい文で投稿してみる。
 正直、瀕死なほどのダメージは受けてはいない。
 だけど、こういうのは少し大げさなくらいがちょうどいい。

 モアリーは、不幸や卑屈な日記なほど、いいねが増えやすい。という傾向がある。この考えが正しいかわからないが、少なくとも私の場合はそうだった。人は自分より少し不幸な人を求めてると思う。だからこそ、この日記はちょうどいい。
 
 投稿ボタンを押してから、夜の街の輝きから目を背けるように空を見上げた。
 星なんて一つも見えやしない。黒く広がる闇はまるで私の心ようだった。

「自分の存在を否定された記念に、ご飯食べてから帰ろうかな」

 どうも家に帰って料理をする気にはなれそうにない。
 本気で婚活に取り組んでなくても、誰かに拒否されたと思うと心は傷つくみたい。
 
 疲れた体と傷ついた心をひきづって、夜の街を歩いていたときだった。

 あたたかい匂いが冷たい風に乗って流れてきた。
 香ばしい匂いは、私の嗅覚と食欲を刺激する。

 美味しそうな香りを嗅いだら急にお腹がすいてきた。
 反射的に今にも鳴りだしそうなお腹に両手を当てる。
 この美味しそうな匂いの出所を探すと、すぐに見つけることが出来た。視界に映ったのは、ぽわりと優しい灯りがともる屋台。

 下げられた提灯の灯は夜に映えた。垂れ下がられたのれんには、白い布地に太字で書かれた「おでん」の文字。
 ごくりとあふれ出てきた生唾をのみこむ。

「屋台か……」

 食欲は今すぐに屋台に向かえと命令してくる。しかし、私の中の理性がそれを邪魔する。

「私……一人で屋台に行ったことないや」

 それに、もし会社の人や知り合いに一人で屋台にいるところを見られてしまったら、コソコソ何を言われるかわからない。
 自分の欲望より、周りの目を気にしてしまう自分がいた。


「グぅ――」

 頭の中で作戦会議をして、立ち止まっていると、お腹の音が盛大に鳴り出した。
 あまりに大きな音だったので、慌てて両手で抑え込む。

 今の音、絶対周りに聞こえてた。
 気恥ずかしくて、周りを見渡すが、街の行きかう人たちは誰も足を止めない。

 意外にみんな見てないのかな……。
 お腹の辺りに嫌な予感を感じる。またお腹の音が飛び出そうだった。
 空腹に逆らえなくなった私は、足早に屋台へと向かった。

 少しだけ、ちょっとつまむだけなら、女一人でいても変な目で見られないよね。

 都合の良い言い訳を考えて、屋台の目の前にやってきた。ますますあたたかな匂いが私の身体へと入り込んでくる。
 「おでん」と書かれた暖簾をめくろうとして、手が止まった。

 この場に及んで、やっぱり躊躇してしまう。
 今まで充分に浴びてきた、結婚適齢期を過ぎても結婚しない女への、世間の強い風当たり。それらが脳裏に浮かんで暴れ出す。

 もう、白い目で見られるのは、嫌なんだよ……。
 諦めて帰ろう。そう思った時だった。
 
 私ではない誰かによって、目の前の暖簾が開いた。それは、一瞬の出来事で固まる私のすぐ目の前には、白いタオルを巻いた男性。眉間にしわを寄せて、ぎろりと睨んでくる。

「……なにずっと突っ立ってんの。他のお客さんの邪魔になるよ」

 すごみを感じる低い声に、思わず足が半歩下がった。
 やっぱりすぐに帰ればよかった。自分の行動に後悔して振り切ろうとすると。
 ……美味しそうな出し汁の匂いが鼻の中に広がった。
 思わず視線を奥に移すと、モヤモヤと立ちのぼる湯気。食欲を刺激する匂いは、やはりここからだった。
 すぐ目についたのは大きな四角いおでん鍋。鍋いっぱいに注がれた出し汁は、透き通った黄金色で目を奪われた。味がしみ込んだ汁におでんの具材たちが浸かっている。パッと見ただけで分かる具は、大根、こんにゃく、卵、しらたき。よくしみ込んでいるのだろう。しらたきは色が出し汁の色に染まっている。そして、餅巾着のくたっとしたフォルムは、私の食欲を掻き立てた。思わず、またごくりと生唾をのむ。

「で、どうすんの?」

 不機嫌なような重々しい声にドキリとする。
 おでんに見入ってしまっていた私は、しばらくフリーズしていたようだ。


「し、失礼しました」

 軽く会釈をして引き返した。重いため息が聞こえて振り返ると、男性の姿は見えず、暖簾は閉まっていた。
 胸元辺りに手を当てると、心臓がバクバクと揺れている。
 突発的な行動なんてするもんじゃないな……。

 
 名残惜しくてもう一度屋台を振り返った。すっかりおでんの口になってしまったが、流石に諦めよう。そう思っていたら。
 
「ねぇ! 食べないの? ここのおでん絶品だよ!」

 肩を落とす私に、女性の声が飛んできた。
 反射的に辺りを見渡すと、声の主はすぐ近くにいた。屋台のすぐ横に配置されたこぢんまりとしたテーブルは、大きめの段ボールほどの広さしかない。そのテーブル席に座った彼女は、にこりと笑って手招きをしている。
 
「満席だった?」
「いや……数席開いてたと思います」
「だったら、食べていけばいいじゃん! ここ人気でいつも満席だよ?」

 小さな声で返すと、その倍のボリュームで返ってきた。

「えっと、おじさんの迫力が怖くて……1人で入る度胸が出ませんでした」
「……あははッ」
 
 事実を正直に話すと、女性は大きな口を開けて笑い出した。あまりに突然だったので、うろたえてしまう。

「わ、私……なにか変なこと言いました?」
「大将はね、愛想なくて顔が怖いんだよ。あれは怒ってるとか悪気はなくて……ただ顔が怖いだけだから」

 大将というのは、先ほどの強面の男性のことだと思う。
 そっか。怒ってるわけではなかったんだ。
 彼女の言葉のおかげで、胸の辺りに残っていた黒いモヤが少し晴れた。
 

「ここ大将の店のテーブル席! って言っても1つしかないけどねー」

 まるで仲の良い友達に対するように、軽やかな声が再び飛んでくる。
 よく見ると彼女の頬と鼻先は、ほんのり赤い。
 それはたぶん、しばらくの間この寒空の下にいたからだと思う。

「寒い中、外テーブルで食べる人ってあんまりいなくてさ。まぁ、私が占領してるからだけど!」

 大きな口をあけて笑う姿を見たら、悪い人ではなさそう。なんだかそう思えた。
 彼女の提案にどうするべきかと躊躇していると、テーブルにあるお皿には、つるんとしたおでんの卵。綺麗に染まった姿に視線が奪われてしまう。

「あッ」

 思わず声が漏れる。途端に、頭の中では出し汁にしたるおでんの数々が駆け巡る。
 
「ふふッ。大将のおでん食べないと、絶対後悔するよ?」

 その言葉は、矢のように心に突き刺さった。

「た、べたい……。ご一緒していいですか?」

 気づいたころには、小さく返事をしていた。
 食欲に負けた私は、普段の生活にはない未知の世界へ足を一歩踏み入れた。
 


 


 

「お、お邪魔します」

 小さめな声で挨拶をして、古びたパイプ椅子に腰を下ろした。目の前のテーブルは、一人用なのだろうか。簡単に折りたたみができそうなもので、こうして座ってみると余計に小さく感じた。
 
「ソロでよくご飯食べるの?」

 声をかけてくれた女性は、控えめな茶髪でボブヘアが似合う大人女性。なんとなくだが、同世代に見える。
 
「えっと……1人でご飯はあんまり……今日は突発的でした」
「へぇ。あ、私は里奈っていうんだ。突発的な出会いによろしく」
「私は綾と言います」

 ちょうどお互いの自己紹介を終えたときだった。

「ご注文は~」

 暖簾の隙間から大将が顔を出した。すると、里奈さんは思い出したようにぱちんと両手を合わせる。

「そうだよ! 注文しないと。綾ちゃんはなに飲む?」
「えっと……」

 メニュー表がないかと、辺りを探したがどこにも見当たらない。

「飲める口?」
「はい、ある程度は……」
「生ビールか、レモンサワーはどう? 元々酒の種類少ないんよ」
「ビールにしようかな」
「私も追加で頼んじゃお~。大将、ビール2つね! あと、おでんを適当に見繕って~」

 大将に届くように、里奈さんはちょっと声を張った。
 やり取りを見て、きっと常連さんなのだろうと感じる。注文が終わると、里奈さんは私の方へと向きなおした。そして、ハッとしたように口元に手を当てた。

「あっ、いつもの癖で「おでんを適当に見繕って」って言っちゃった。好きな具材注文したかったよね?」
「……いえ、どんな具が来るのか楽しみです」
「ごめんね~。あたし気が利かなくてさ。食べたいときは追加で頼んで?」

 さっきは気が利かないと言っていたけれど。こうして聞いてくれる時点で気が利く人だな、と思う。

「おでんの具で、1番美味しいのはなんですか?」
 
 頭の中にはさっき見たおでんが棲みついている。待ちきれずに質問をすると、里奈さんは嬉しそうに、くたーっと顔を緩めた。

「ん-! これが迷うのよ。大将のおでんは全部美味しくてさ。でも一番をあげるなら……」

 じらすように、次の声がワンテンポ遅れる。思わず私の身体も少し前のめりになった。

「あー! やっぱり決められない! 先入観なしに食べてほしいかも! それで食べ終わった後に一番美味しかったもの言い合おうよ」

 里奈さんは楽しそうに体を揺らした。そんな姿をみて、私のお腹の中でも楽し気な太鼓の音が鳴る。

「グぅ――」
 
 慌ててお腹を押さえた。
 空腹の限界を迎えたお腹は音を立てた訴え続ける。

「お待たせ」

 タイミングよく大将が持ってきてくれた。ごとんと置かれたのは大皿に盛られたおでんたち。テーブルに置いた時の、鈍い音からその重量も感じられる。
 すぐに覗き込むと、ほくほくの湯気の間から、おでんたちが顔を見せる。

「美味しそう……」
「ねっ! 大将のおでんは最高なんだよ」
「はい、ビール2つな」

 大皿でほぼテーブルの面積を占領しているが、空いたところに大きなグラスが置かれた。生ビールの琥珀色と白い泡。このコントラストはいつ見ても綺麗だ。ビールを目の前にしたら、ひどく喉が渇いていることに気づいた。さっそく冷えたジョッキに手を伸ばして、里奈さんに視線を合わせる。


「よしッ! 乾杯~!」
「乾杯!」

 グラス同士がぶつかった音は、夜の街へとすぐに消えた。グッと流し込むと、よく冷えたビールが喉に染みる。

「おいっしい〜!」
 
 ビールを飲んだ途端に、体中にそう快感が回る。やはり最初はビールで間違いなかった。

「おでんは何にする? お互いの自己紹介は後にして、まずは熱いうちに食べようよ!」
 
 里奈さんの提案には大賛成だった。ほくほくと湯気がのぼる目の前のおでんを、早く食べたくて仕方がない。
 大根、たまご、はんぺん、ちくわ、がんもどき、餅巾着。定番のおでんのたちの中で、一際目立つ鮮やかな黄緑色の具材があった。

「これって、ロールキャベツ?」

 茶色にを待った具材が多い中、同じ色には染まらない黄緑色の丸いフォルムは視線を奪う。

 
 ロールキャベツは味が染みれば染みるほど、美味しいはず。おでんの中にしたれば、美味しくないわけがない。
 まず食べる一軍として、大根、卵、ロールキャベツを選んだ。

「……いただきます!」

 おでんのだし汁の香りにごくりと唾を飲んだ後、まずは汁をを口に運ぶ。


「ッ……! 美味しい!」

 湯気が立ち昇るおでんの汁は、だし汁の味が濃くて舌で踊った。喉を通り、空腹の腹の中に落ちていく。冷えた体に染みて思わず「ほぅ」とため息が出た。

 次はロールキャベツに箸を向ける。キャベツに包まれたのは肉汁たっぷりのお肉。味の染みたキャベツを噛むと、次の瞬間にはじゅわっと感動がやってくる。


「美味しいー!」

 暖かさとおいしさに、また「ほう」とため息が飛び出した。

「大将の美味しいでしょー!」
「すごく美味しいです。もう止まらない」

 次に口に運ぶのは、摘んだ瞬間ほぐれてしまいそうな大根。丁寧に口に運ぶと、その瞬間にほどけた。染み込んだ出し汁が口いっぱいに広がる。
 

「綾ちゃんは会社勤め? この辺はよく来るの?」
 
 里奈さんは、おでんを美味しそうに頬張りながら話を振る。

「会社は割と近いです。でも、この辺に屋台が出てることは知らなかったなぁ」
「そうなの。この屋台ちょっと穴場なんだよ」
「里奈さんの会社も近いんですか?」
「あたしは一駅先だよー。会社の最寄だったら、こうして外で飲めないからね」

 里奈さんの表情が曇ったような気がした。もしかしたら、触れてほしくないことだったのかもしれない。

「あ、別に触れていい話だよ? ただ、あたしって会社では結構なお局なのよー。だから会社の人間は仕事以外であたしとは会いたくないと思って」

 私が気にかかっていたことを否定して、里奈さんはからりと笑った。私は顔に出やすいとよく言われる。きっと今も顔に出てしまっていたんだと思う。
 里奈さんが気が利かないなんて、やっぱり嘘だと確信した。

「里奈さんが上司だったら、一緒に飲みたいけどなぁ」
「それはこうやって外で会えたからだよ? あたし『総務課の鬼』って呼ばれてんだから!」
「お、鬼!?」
 
 鬼とは無縁の印象だったので、ひどく驚いた。

「会社では、どんだけ怖いんですか……」
「ひひッ! 会社で出会ってたらこんな風に笑い合えないかもね~」

 わざとらしく怪しげに笑った。確かにそれは一理あると思った。
 大人になってからの出会いとタイミングというのは、すごく重要で。少し歯車が違えば、仲良くなれなかったりするのだと思う。
 おでんを頬張りながら、深いようなそんなことを考えた。

 そのあとも、私たちの箸と会話は止まらない。里奈さんは無邪気だったり、核心をついてきたり掴みどころがない。でも、なんとなく親近感が湧くような。
 私はすっかり里奈さんとのご飯を食べる時間を楽しんでいた。


「美味しかったー! やっぱり大将のおでんは最高だな」

 大皿に盛られたおでんは、いつのまにか綺麗になくなっていた。おでんの汁までしっかり堪能したので、艶のある大皿の模様までしっかり見えた。

「では……1番を発表しようか」

 改まって何かと思えば「食べた後に美味しかったおでんを言い合おう」最初に提案された質問だった。
 私の中ですでに決まっていたので、浅く頷いた。


「ロールキャベツ」
「大根」

 同時に飛び出た答え。私がロールキャベツで、里奈さんが大根。

「わかるー。ロールキャベツ最高にうまいよね!」
「大根もほろっと砕けて美味しかったです!」
「おでんは、色々なものが食べられるのがいいところだよね」

 共感すぎて何度も深く頷いた。


 
「「ごちそうさまでした」」
 
 両手を合わると自然と声が重なる。意識せず重なった声に、目を見開いた私たちは互いの顔を見つめる。そして、また笑い合った。
 
「帰りますか」

 立ち上がった里奈さんは、慣れた手つきでお皿とグラスを持つと屋台の暖簾をめくった。私も真似してテーブルに残った食器を手に持っていく。

「大将、ご馳走様~」
「はいよ」

 もう一度よく顔を見ても、やっぱり怒っているように感じた。ボソリと低い声で話すので、それも怖さを引き立てる要因だと思う。
 だけど、里奈さんは大将は怒っていないと言っていたっけ。

「あ、あの。先ほどは失礼しました。おでん美味しかったです」
「……まいど」

 グッと勇気を振り絞って話しかけると、相変わらず声は低いが、不思議と恐怖は感じなかった。それに、口角がニヤリと上がったような気がした。

「綾ちゃん、大将喜んでるよ?」

 え、そうなの? そうだとしたら、すごくわかりにくい。
 それにしても、里奈さんはエスパーなのだろうか。私の浮かんだ疑問をいつも解消してくれる。

「また来週くるねー」
「ご、ご馳走様でした」

 軽く頭を下げてから、暖簾をくぐった。

「美味しかったなあー」

 余韻に浸りながら肩を並べて歩いた。深く吐いた息が、白く、高く、夜の闇に上っていく。風が寒いくらいに吹きつけてるはずなのに、ちっとも寒さを感じなかった。美味しいご飯と、楽しい会話に体温が上がった私には、ちょうどいいとさえ感じた。

「楽しかったよー。ありがとね」

 改めて言われて、ご飯が終われば里奈さんとお別れだということを思い出した。
 どうしよう。また一緒にご飯を食べたいな。
 せっかくの楽しい出会いを、今日で終わらせたくない。そう思った私はハッと顔を上げる。

「また一緒にご飯食べない? 来週の金曜日も、あたしはあの屋台にいるからさ」

 目が合うと、先に言葉を発したのは里奈さんだった。
 
「わ、私も! 今誘おうと思ってました」

 それは、喉まできていた言葉だった。先にいわれたことに、驚いてちょっと声が大きくなる。


「あははッ。待ってるね」
 
 そう言った里奈さんは、横並びに歩いていたわたしの肩にこつんとふれる。
 触れられた肩と心がじわりとあたたかくなる。そのままもうしばらく肩を並べて歩いた。




 
 



 家に帰ってきた私はそのままシャワーを浴びた。私は外着のままのんびりするより、さっとお風呂に入って、綺麗にしてから休みたいタイプだ。
 お風呂のお湯に温まった体のまま、ベッドにダイブする。

「楽しかったな……」

 ぽつりと零れたのは、本当の気持ち。
 思い出すのは、美味しい記憶と楽しい暖かな記憶だった。

 その時、ベッドに投げ出されたmoment diaryの通知が赤く光っていることに気づいた。きっと投稿した日記に、いいねやコメントを誰かくれたのだろう。
 アプリを開くと予想は的中する。
 
【どくぼっちさん。それは悲しい。お疲れさまでした。また頑張りましょう】
【どくぼっちさん、悲しいですね】

 全て私を慰めるようなコメントだった。
 フォロワーからのコメントを見てハッと思い出した。そういえば、お断りメールが届いて落ち込んでいたことを。

 美味しくて楽しい時間は、見事に悲しいという感情を忘れさせてくれていた。

 
【落ち込んでいた帰りにおでんを食べた。冷えた心までほっこり温まるような優しい味のおでん。そのおかげで悲しい感情は消えた。一番うれしかったのは、新しい出会いがあったこと。一緒にご飯を食べてたくさん笑い合って、胃も心も満たされた】

 楽しかった記録を残したくて、今日の出来事を綴る。新しい出会いとは、もちろん里奈さんのことだ。いつもは後ろ向きな日記が多いけれど、たまにはこういう前向きな日記もいいだろう。更新ボタンを押すと、すぐにコメントが飛んできた。

【新しい出会い! もしかして良い男性と出会ったんですか? ナンパされたとか? 良かったですね!】
 

 私の書き方が悪かったのかもしれない。
 里奈さんとの出会いを記録したつもりだった。
 けれど、男性と出会ったのだと捉えられてしまったみたいだ。
 驚いたのは、頭の中に婚活のことが消えていたから。
 

【男性じゃないですよ……もっと良い出会い……】

 なんだか少しだけムっとしてしまった私は勢いのまま返事を入力した。せっかくの楽しい出会いを、否定されたような気がして嫌だったのだ。

 しかし、投稿ボタンを押そうとして思いとどまる。
 そもそもこのアカウントは、婚活用アカウント。
 新しい出会いと聞けば、男性が思い浮かぶのも不思議なことではない。

 そう思い直した私は、モヤモヤを残しながらも、コメントにとりあえずいいねを返した。






 金曜日
 里奈さんと約束した日。
 朝からずっとそわそわしていた。なんだか落ち着かなくて、緊張と楽しみの高揚感で胸が躍っている。

 定時で仕事を終わらせると、化粧を軽く直した。
 そして、大将の屋台へと向かう。冬空は夕方でいられる時間は短い。あっというまに夜の闇が空へと広がっていた。
 
 仕事の疲労が残っているはずなのに、足取りは跳ねるように軽い。
 すっかり暗くなった道を歩くと、屋台に灯る提灯が道標となった。
 先週ぶりなのにどこか懐かしさも感じる。屋台につくと、テーブル席にはすでに里奈さんが座っていた。

「おつかれー!」
「お疲れ様です」
「特等席、とっておいたよ」

 まぶしいほどの笑顔を向けられて、途端にホッと心が和む。
 さっそく椅子に座ると、里奈さんからの視線を感じた。

「ど、どうしたの?」
「本当はね、来てくれるか半信半疑だった」
「え! ずっと楽しみにしてましたよ!」

 思わず声のボリュームが大きくなる。私の反応が予想外だったのか、里奈さんは目を丸くさせた。そして、次の瞬間には目を細めて笑った。
 

「よかった。あたしも楽しみだったよ」

 実のところ誘ってもらえたのは、その場の社交辞令だったのかもしれない。そうどこかで疑心暗鬼になっている自分がいた。
 里奈さんも楽しみだったと言ってくれたことに、肩に乗っていた不安が降りた。

 会った途端に会話が弾む中、テーブルの上に置かれた一枚の紙に視線を奪われる。
 乱雑な字で「お品書き」と書いてある。
 映え要素は見当たらないくらい思いっきりアナログなのだが、それが味が出ているような気がした。
 
――――――――――
 【お品書き 今日の焼きもの】
 ・オムレツ
 ・だし巻き卵
 ・枝豆
 ――――――――――


「今日の焼き物? あれ先週はなかったですよね?」
「先週は、売り切れだったの。おでんの他にもメニューあるんだ。おでんの鍋の横に使えるコンロがもう一つあるんだって。簡単にできるメニューが日替わりであるんだよ」

 首をかしげる私に、里奈さんが教えてくれた。
 てっきりおでんのみだと思っていたら、別メニューもあるみたい。
 数は少ないけれど、どれも惹かれるラインナップだった。
 お品書きと睨めっこしていると、里奈さんは細い指でなぞりながら教えてくれた。

「ちなみにおすすめは、だし巻き卵!」
「だし巻き卵……か」
「大将のだし巻き卵は、口に入った瞬間、だしの味がじゅわーと広がるの!」

 写真も映像もないのに、里奈さんの食レポを聞いただけで、ごくりと喉が鳴った。 
 日替わりということは、今日以外にこのメニューが食べられる保証がないということ。
 そう思うと、お腹の辺りからグぅーっと情けない音が。
 言葉にするより先に、体の方が食べたいと叫びだした。
 
「だし巻き卵食べたい!」
「お腹すいてる? おでんも食べるでしょ?」
「もちろんです! このために一週間仕事頑張ったから」
「ははッ。屋台はね、匂いで釣られるんだよね~。じゃ、頼みに行こっか」

 里奈さんは立ち上がると、一歩足を踏み出して暖簾をめくった。

「大将、おでん適当に見繕って~。あとだし巻き卵!」

 淡々と注文する里奈さんの後ろから、ひょこっと顔を出すと、白いタオルを巻いた大将と目があった。
 軽く会釈をすると、返事の代わりに大将は頷く。

「あ、飲み物はどうする?」

 里奈さんの言葉に、私は一瞬考えてすぐに口を開いた。

「……ビールで」
「大将! ビール2つ!」
「はいよ」
 
 
 注文を聞いた大将はぼそりと返事をする。まだ早い時間だというのに、カウンター席には6人ほどのお客さんが座っていた。大将は一人ですべてこなしているため忙しそうだ。
 テーブル席へと戻ると、里奈さんはわたしに投げかけた。

「ねぇ、敬語辞めようよ。その方が話しやすい」
「はい……あ、敬語になっちゃった。でも、里奈さん話しやすくて、ため口混ざってたよね」
「それが嬉しかったりしたのよ」

 敬語が抜けると、ただそれだけなのに、距離が一気に近づいた気がする。
 楽しく会話をしていると、大将がおでんとだし巻き卵を運んできた。

「はいよ」

 日替わりメニューのだし巻き卵は、白身と黄身がまざった優しい色合い。お皿のはじに添えられた大根おろしも、ポイントが高い。なぜなら、私はだし巻き卵と大根おろしの組み合わせが大好きだからだ。


「あたしも大将のだし巻き卵、食べるの久しぶりだなぁ」
「そんなにレアなの?」
「日替わりメニューとはそういうものだよ」

 里奈さんは、まるで子供をからかうように怪しげに目を細めた。

「話したいこともたくさんあるけど……」
「まずは……」
「「いただきます」」

 両手を合わせて挨拶をすると、箸が伸びたのは、揃ってだし巻き卵だった。
 大ぶりな1つを箸でつまむと、そのやわらかさにふわりと揺れた。
 口に運ぶと、噛んだ瞬間にじゅわっと広がる優しい出しの味。そのまま食べても、味がしっかりとしていて、体があたたかくなるような。そんなおいしさだ。
 すきっ腹にすとんと落ちると、優しい味が胃に染みた。

「おいしいー」
「美味しいでしょ! 大将のだし巻き卵は絶品なんだよ」
「優しい味だけど、上品で、美味しすぎる」
「あたし、居酒屋でもだし巻き卵はよく頼むなぁ」
「お店のだし巻き卵って、自分では絶対に出せない味なんだよね。大将のだし巻き卵は、味付けは一体なんだろう……」

 箸でつまんだ綺麗な層に巻かれた、だし巻き玉子をじっと見つめる。
 だし巻き卵は、自分でも作れる料理だ。しかし、簡単に作れるが、味には格段に差が出てしまう料理でもある。
 
「それ気になるでしょ?」
「気になる……」

 あわよくば自分でこの味を出したいと思ってしまう。

「隠し味を聞いても、絶対に教えてくれないんだよね」
「企業秘密てことかぁ」
「通い出してから、何回も聞いてもダメだったよ……」
「そっかぁ。残念」 
「何度か再現しようと思って家でも作ってみたけど、全然この味とは程遠いんだよ」

 里奈さんは白い息と共に、大きなため息をついた。その反応から、再現するのに何度も挑戦したのだろうなと思う。
 
「まぁ、この店に通えってことだよね。はいはい、通いますとも」

 落ち込んだのは一瞬ですぐにぱあっと笑顔を見せる。里奈さんの明るさは、その場の雰囲気も灯してくれるので、私の目にはたまに眩しい。
 
 
「ぽわん」

 そのとき、テーブルに置いてあった里奈さんのスマホから通知音が鳴った。この気の抜けるような通知音には、聞き覚えがある。

「あれ、その通知って……」
「moment diaryの通知だよ。綾ちゃんもやってる?」
「はい。その通知音って何か気が抜けません?」
「かわいいよね! アカウント教えてよ! フォローしたい!」

 スマホを差し出されて、ハッとまずいことに気づいた。私が持ってるアカウントは【どくぼっち】。婚活垢としてだ。

「あ、嫌なら無理しなくてもいいよー?」
「ち、違うの! イヤとかじゃなくて……その……」

 一瞬教えるのを迷ったが、嘘をつきたくないと思った。説明する代わりに、スマホをグイっと差し出した。

「これが綾ちゃんのアカウント? えっと……どくぼっち、アラサーどくぼっちが幸せな結婚をするまで……」

 画面に表示されたのは、私のアカウント名と、日記のタイトル。それらを読み上げられた途端、指先が冷えるほど寒いはずなのに冷や汗が湧き出た。
 
「……」

 沈黙が地獄のようだった。きっと顔は真っ赤に染まっていると思う。恥ずかしさで顔をあげられない。

「あ、婚活アカウント? 綾ちゃん、婚活してたんだー」

 返ってきたのはからりとしていた。
 ホッとしてやっと顔を上げる。

「母が結婚しろってうるさくて……」

 婚活の理由を母のせいにした。自分で言った台詞のはずなのに、どこか胸がちくりとする。

「まぁ、良い年になると、周りはうるさいよね」
「聞いてなかったけど、里奈さんも……?」
「あたしも独身貴族! ただ婚活には、一切興味なし!」

 にかっと笑って言い切った。あまりに潔くて、思わず息をのむ。
 その瞬間、また棘のような小さい針が私の胸をちくりと刺した。

「……周りの反応とか、気にならない?」
「周り? どうしてあたしの人生なのに、周りの反応を気にする必要があるの?」
「それは……」

 まっすぐな瞳を向けられる。
 里奈さんの質問に、答えが出てこない。

 あれ、何で気にする必要があるんだっけ。
 なんで、私はいつも周りの目を気にしてるんだっけ。
 
 正解に迷って、全身がみるみる冷え固って行くのを感じた。


「なーんてね、偉そうに言ってみたけど。あたしも気にしてたよ。ってか、気にさせられた(・・・・・・・)
「え……」
「『早く結婚しないと』『今は若い子も婚活する時代』『貰い手なくなるよ?」』そんなこと散々言われたなぁ」
「辛くなかった?」
「辛かった。だけど、あたしの人生じゃん?ってい思いなおして、聞いてもう流すことにした」

 自分と重なり、思わず息を呑む。

「コソコソ言われようと、あたしの人生が楽しかったら、勝ちなのよ」

 そういうと、ジョッキに半分ほど残っていた生ビールをグイっと飲み干した。

 
「開き直るのも、けっこう悪く無いよ? もちろん、婚活も楽しいなら素敵なこと」

 あまりに優しい声だったので、自分でもよく感情が整理できずに、泣きそうだった。
 婚活は私にとって、楽しい……?
 その答えはすぐに出た。私にとって、婚活は楽しいものではない。


「楽しくないな……」

 ポロリと落ちた本音。雰囲気を悪くしてしまいそうな発言をして、自分に向かって焦る。

「あ、えっと」
「楽しくないなら、やめちゃえ!」

 底抜けに明るい声に、私の方が拍子抜けしてしまった。
 
「私たちはさ、もう大人だから、自分の人生は決めれるし、楽しめるんだよ!」

 その言葉はまっすぐに心に浸透する。
 まぶしくて、あたたかくて、ずっと欲しかった言葉だったのかもしれない。

 

「ちなみに、あたしの日記のタイトルは「アラサーソロ活御飯道」どう? 見ただけで美味しそうじゃない?」

 里奈さんのアカウントの画面には、パッと見ただけで、美味しそうなご飯の写真が見えた。

「美味しそう……それに、楽しそう」
「楽しいよ。もちろん綾ちゃんのおかげでね」
「え、私?」
「こうして一緒にご飯を食べて、美味しいを共有できて。満たされる友達って、最高じゃない?」
「それは……完全同意」
「ねっ!」

 会話が弾みながらも、箸の進む手は止まらない私たち。だし巻き卵も、大皿に盛られたおでんも見事に完食する。

「はァ~。美味しかったぁ」
「満たされたぁ」


 満腹になったお腹をさすりながら、夜空を見上げた。
 寒空の下、体の芯から温めてくれるご飯を食べる。こんなに素敵な構成は、この場でしか味わえない。余韻にしたりながら手を合わせた。
 

「「ごちそうさまでした」」
 
 美味しいご飯で満たされた後は、心も弾む。
 夜の街はすでにアルコールが入った人。足早にスタスタと歩く人。様々な人が行き交い、笑い声があちこちから聞こえてくる。
 まだ話し足りなくて、まだしばらく2人並んで歩いた。



「どくぼっちさん、来週はどうする?」
「あ、その名前、さっそく覚えてるじゃん!」

 里奈さんは満足そうに、ニヤリと笑う。
 
「ゴロが良くて。覚えやすいー!」
「リアルで呼ぶのはやめてよね?」
「まぁ、あたしも独身だから、どくぼっちだけどね?」
「来週は、何食べようかな~」
「来週もお品書きあるといいね!」

 自然な会話の中で、来週も一緒にご飯を食べる約束が交わされた。






【どくぼっちさん、大丈夫ですか?】
【更新がないので、心配してました】

 家に帰って気づいたのは、届いていたのはどくぼっちに寄せられたコメント。moment diaryの通知以外にも、婚活サイトの運営からも連絡がきてたっけ。

 届いていたメールを開こうとして、やっぱりやめた。

 【婚活は……もう、やめたい】

 メールの代わりにmoment diaryを開いた。コメントに返信しようとして、思いとどまる。
 私が打ち込んだのはあふれ出た本音。
 里奈さんと出会ってから、どうしても婚活に前向きになれなかった。

 いや、違う。
 きっと最初から、婚活に前向きな気持ちなんてなかったんだと思う。
 
 里奈さんと話した時、解放されたような。そんな風に心がすっきりした。私はいったい、何におびえて、何を気にして生きてるんだろう……。

 考え込んでいると、フォロワーのタイムラインが更新された。

 【今日は常連の屋台。食べ友と一緒。美味しいを共有出来て、幸せを分かち合えるっていいよね。女友達最高!満たされて幸せな一日でした】

 それは、里奈さんの日記だった。
 読み終えると、視界がぐにゃりと歪む。涙なんて最近は流すことなんてなかったのに。
 私のお腹を満たした「美味しい」は、感情にも踏み込んでくるらしい。

 その時、持っていたスマホが震える。誰かからの着信だ。画面に映った名前を見て、どきりとする。



「……お母さん」
 
 気軽に通話ボタンを押すことは出来なくて、浅く深呼吸した。今までだったら、またあれこれ言われるのがイヤで、この電話も出ていないかもしれない。

 だけど、意を決してグッとスマホを強く握った。
 ゆっくりと通話ボタンを押す。
 
「も、もしもし?」
「綾? 今大丈夫?」
「少しなら……」
「すぐ終わるから。あのね、そろそろ実家に戻ってきたら?」

 唐突すぎる提案に、思考が一時停止する。
 どうして? なんで?
 そう聞きたかったけど、母のマシンガントークは止まらない。

「婚活うまくいってないんでしょ? だったら、お母さんが地元で探すわよ。結婚してくれるなら、誰でもいいでしょ?」

 誰でもいい? そんなわけないじゃない。

「34歳だもんね。貰ってくれるならありがたいわよね」

 人をまるで、余りものみたいにいうな。

 言い返さないでいると、母の言葉の毒はヒートアップして止まらない。
 聞きたくない言葉も、次々と鼓膜をさした。

 あぁ、めんどくさい。
 ぷつりと何かが切れる音がした。

「お母さんはさ、なんでそんなに結婚させたいの?」
「なんでって、綾に幸せになってほしいから」

 勝手に幸せを決めつけられるのは、もううんざりだ。

「だったら、大きなお世話。もう、幸せだから」
「結婚もしてないのに、なにいって……」
「私の中では、結婚がイコール幸せじゃないの! その考えはお母さんの考えだから。私の人生にまで、お母さんの価値観持ち込まないで!」
「……あ、綾?」

 一度本音が放たれると、我慢していたものがあふれ出す。

「婚活だって、本当はしたくなかった。いや、違うね。お母さんにいわれたとき、自分の人生が幸せなのか、確信が持てなかったんだ」

 そうだ。あの時、自信が持てていたなら。きちんと反論できたはず。
 だけど、今なら……。

「ごめんけど。もう心配してくれなくていいから! 人生幸せに過ごせてるんで! 自分の幸せは、私に決めさせろ!」

 殴りつけるように、強い語気で言い切った。そして、返事を待たずにぶつりと通話を遮断する。

「……ははッ、完全に言いすぎた」

 途端にちょっと笑えてきた。
 だけど、通話が終わり暗くなったスマホ画面に映った私は、開放的な笑みを浮かべていた。





 金曜日

 また一段と冷える日だった。けれど、寒空の下食べる楽しさを知った私は、寒さなんて平気だ。
 ただ念のため、首元にマフラーを巻いて防寒対策も欠かさない。

 冷えた指先をさすりながら屋台に到着すると。
 淡く灯る提灯の近くで、里奈さんは手を振っていた。

「おつかれさま」
「お疲れさまー」

 里奈さんもボリュームのあるスヌードをつけていたので、同じ思考だったのかな。と思わず笑ってしまった。

「綾ちゃんも暖かそうなマフラー付けてる」
「里奈さんはスヌード? いいよね。あったかい」
「そっ。すっぽりかぶるだけだからね」

 テーブル席に座って、雑談を交わしていると。

「今日はカウンターで食べてって」

 静かに現れて、ぼそりと言い捨てたのは、相変わらず不愛想な大将。
 カウンターに招かれるのは、はじめてのことだったので、里奈さんと顔を見合わせた。

「どうしたんだろ?」
「寒そうだから?」

 屋台のカウンター席も、けっして暖かい場所ではない。だけど、大きな鍋が目の前にあるので、テーブル席よりはあたたかいのだ。
 外で食べる私たちに気を使ってくれたのかな。そんなことを思った。

「お邪魔します」

 さっそく暖簾をくぐると、ふわりと美味しそうな匂いが広がる。おでん鍋から放たれる香りは、一気に食欲を刺激する。

「あれ、他のお客さんいないんだね」
「本当だ。いつもは満席なのに……」

 大将のお店はいつも繁盛していて、どの時間帯も誰かしらお客さんがいた。誰もいないカウンターは初めてのことだった。

 不思議に思ったけど、たいして気にしていなかった。
 今日は焼き物のお品書きあるかなー?そんなことに思考を張り巡らせていた。

 そんな時、衝撃の一言が下りてくる。




「実は、店じまいすることにしたんだ」

 大将は、ぽとりと雫がおちるように呟いた。抑えた低い声が耳の底に響く。

「え、お店しめちゃうの!?」
「そんな……移転するとかですか!?」

 受け止めきれずに、間髪入れずに返すと、大将は顔を左右に振った。

「いや……俺も、もう年でね。引退するんだ」
 
 真剣な物言いに、私たちは何も言えなくなってしまう。
 ちらりと里奈さんを見ると、瞳が潤んでいるように見えた。

 そうだよね。里奈さんは、私と出会う前からこのお店の常連だ。悲しさも寂しさも、私より数倍大きいと思う。

 
「今日は最後におでん食べてってな。そんで、これはサービス」

 寂しげに目尻を下げた大将は、コトンと白い器を置いた。その瞬間、里奈さんは顔を緩ませた。

「……あたし、これ大好きなんだよね」

 ぽってりとしてまるっこい器。これを見ただけで里奈さんには、正体が分かったみたい。ほぐれた里奈さんの表情から、美味しいものだとわかる。それだけで、喉がなりそうだった。

 気になって仕方がない私は、すぐに蓋をあけてみる。すると、湯気と共に上品な優しい香りが広がった。

「……茶わん蒸しだ」

 立ち上る湯気の間から見える薄黄色の幕には、綺麗な三つ葉。絶妙な色のコントラストは、視覚の情報だけで唾液を刺激する。

「熱いうちに食べよ?」
「……いただきます」

 木のスプーンで一口分すくってみる。乗った瞬間、ぷるるんっと揺れた。口に入れると、だし汁の味が口の中いっぱいに広がる。そして、ツゥルンと流れるように喉を潤した。

「おいし……」

 あまりの美味しさに、ボソリと感想が溢れる。
 出し汁の海の中には、具材がゴロゴロと入っていた。さっそくもう一口すくうと、大きめの鶏肉。噛んだ瞬間に、じゅわっと肉汁が出て、出し汁との相性が抜群だ。

 えび、鶏肉、かまぼこ、シイタケ、銀杏。スプーンですくうたびに、新しい美味しさと出会えた。
 上品なおいしさに「ほぅ」とあたたかなため息がでた。


「はぁ~、大将の茶わん蒸しだいすき。食べれなくなるのやだー!」

 冗談っぽく言っていたけど、里奈さんの本心だったと思う。その証拠に、声が少し震えていたような気がした。


「これ……」

 悲しみが押し寄せる中、茶碗蒸しを夢中で口に運んだ。そんな私たちの前に、大将は深刻な表情でそっとあるものを置いた。
 それは、二つ折りになった白い紙。
 
「ん?」
「なに? お別れの手紙?」

 質問には答えずに、大将は気まづそうに背中を向けた。私たちは不思議に首を傾げながら、2つに折られた紙を広げる。そこに書かれたのは……。


「だし巻き卵のレシピ……?」
「え、これって……」

 背中を向けたままの大将は返事の代わりにこくりと頷いた。そして照れたように、ポリポリと頭をかく。


「……ずっと教えてって言っても、教えてくれなかったのに。最後にずるいじゃん……」
「いいんですか? 秘伝のレシピじゃ……」
 
 乱雑な文字で書きなぐられたのは、だし巻き卵に使う調味料。そして、火加減まで詳しく書かれた料理過程だった。

「うちの味、忘れないでいてくれよ」

 ぽつりとやっと聞こえるほどの大きさの声。その一言は、妙に心に響いた。

「忘れない……です。本当に美味しかった。大将のご飯に出会えて、人生変わりました!」

 息巻いて伝えると、大将は目をパチクリさせた。


「大袈裟だな……」

 眉間によっていたシワが解けて、フッと笑った。
 大将の笑顔を見たのは初めてだ。

 なんだか嬉しくて、私の口元も緩んだ。
 それに、大袈裟なんかじゃない。
 美味しいと満たされるということを教えてくれたのだから。

 涙の感情が混ざった大将のご飯は、この日も絶品で箸が止まらなかった。







「はぁ~、大将の屋台がなくなるのは、寂しすぎるなぁ」

 里奈さんの大きなため息は、静かな夜の空にとけた。
 屋台を出た後、眠りについたように静かな夜の街を肩を並べて歩いた。

 満腹なお腹と、アルコールが入った体はポカポカとあたたかい。だけど、大将の屋台が閉店という事実に、心は冷え切っていた。

 大将のお腹も心も満たしてくれるご飯。それに、里奈さんと出会った場所が消えてしまう。

 そう考えたとき、嫌な予感が走った。
 大将のお店がなくなるということは、里奈さんとのご飯の日々もなくなってしまう……?
 
 確かめたいのに「もう終わり」そう言われるのが怖くて、なかなか勇気が出ない。
 いつもよりゆっくり歩く私たちは、しばらく無言が続いた。

「綾ちゃん、ありがとね。大将のお店で出会って、こうしてご飯友になってくれて……」
「……私のほうこそ」

冬の風と夜の闇のせいだろうか。どうしてもしんみりしてしまう。俯く私に降りてきたのは、普段通りのからりとした声だった。

「提案なんだけどさ。金曜日、大将のだし巻き卵作ってみない?」
「えっ」
「うちで作ろうよ! せっかくだから、一番最初に綾ちゃんと食べたいと思った」
「つ、つくりたい!」

 思わず返事が早口になる。


「思い出のお店はなくなってしまうけど、私たちのご飯友達は続けようよ」

 その一言に、冷え切っていた心に灯が点った。

「そうだ! 毎週金曜日、お互いの家でご飯を作るってどう?」
「記念すべき第一回目のメニューは、大将のだし巻き卵」
「いいね!異論はないです!」
 
 その場に似つかないくらいに声を張ってしまった。そんな私の肩に、里奈さんは肩をこつんとする。

「きっとこれからも別れにぶつかることもあるけど……まだまだあたしたちの人生は、楽しいよ!」
「……うん! 美味しいご飯たくさん食べたい!」
「そう! ご飯は体の栄養だけど、心の栄養にもなるのだ!」

 笑い合ってどちらかともなく、ぎゅっと腕を組んだ。
 肌を指すような冷たい風は、私たちの背中を押すように、いつのまにか追い風になっていた。







 大将のお店が閉店という寂しさを感じながらも、里奈さんと交わした約束。

 毎週金曜日。一緒にご飯食べる。

 新しい楽しみが増えて、部屋で独りニヤリと笑う。誰かに見られたら、完全に怪しい人だ。

 
 そのとき、通知音が耳に届いた。
「ぽわん」
 気の抜けるような通知音。moment diaryの通知だ。
 実はこれまでも何度も来ていた。だけど、婚活を辞めた私は、開くことなくスルーしていたのだ。

 スマホに手を伸ばしてアプリを開くと、予想以上にコメントが来ていて驚いた。
 スクロールしていくと、どくぼっちに向けての心配のコメントの数々だった。

【どくぼっちさん、元気ですか? 更新がないから心配です】
【この間のこと引きずってますか?】

 アカウント名、どくぼっち。
 それは婚活用アカウント。婚活を辞めた今、普通の日記を書くのも違うと思って、しばらく更新していなかった。
 
 
 気分を落ち着かせるように深呼吸をする。
 SNSは必ず更新するなんて決まりはない。このままひっそりフェードアウトしたって別にいい。
 だけど……私はスマホをぎゅッと握りしめる。

【ご報告があります。どくぼっち、婚活を辞めました。このアカウントをどうするか迷ったのですが、継続したいと思っています。どくぼっちというアカウント名はそのままで、ありのままの私の日記を書いていきたいと思ってます。結婚ではない人生。ガールズライフも悪くない……】

 スマホで文字を打ち付けながら、ぴたりと手が止まった。
 ガールズライフも悪くない……?
 自分で打った文章に違和感を覚える。

 いや、違う。

【……ガールズライフは最高だ】 

 本音を日記に載せると、胸のつかえが取れた気がした。モヤが消えて、嬉しさに心も体も包まれる。

 このままアカウントを消したって、世界中の誰も困りはしない。
 だけど、私はこの幸せな毎日を記録として残したい。
 幸せにあふれた私の日記を発信したい。
 つまり、”私の幸せな生活”を自慢したいのだ。

 勢いのまま更新ボタンを押した。タイムラインに私の日記が更新される。
 途端に、ひゅっと背中が寒くなる。
 フォロワーさんの反応が怖くて、じっとタイムラインを見つめた。

 すると、すぐに通知のボタンが赤く光った。
 
【いいと思います!】
【結婚がすべてではないですよね。女友達との時間も幸せです】
【大人になって仲良くできる友達って最高ですよね!】
【わかります。私もガールズライフ最高民です】


 次々とあがる共感の声。ここは婚活垢なのに、こんなにも共感されるなんて思っていなかった。私の価値観が古かったのかもしれない。



 それから自分でつけたタイトルをしばらく見つめた。
 【アラサーどくぼっちが、幸せな結婚をするまで】

 見慣れたタイトルを、消去ボタンを押して消していく。
 【 】

 まっさらになった日記のタイトル。
 そうだ。このタイトル同様に、私の人生だって自由に決めていいんだ。
 間違えたら、正しい道で上書きをすればいい。

 これからは……ありのままの日記を綴りたい。
 
 
 吹っ切れたように指が滑らかに動いて、タイトルが打ち出される。
 新しいタイトル。それは……。
 
 ――私の幸せなガールズライフ。