お風呂上りにホットミルクを入れてくれた母は、私に何があったのかを問い詰めたりはしなかった。
 話を聞いて欲しいような気もあったけれど、上手く話せる自信もなかったから根掘り葉掘りきかれなかったことはありがたかった。
 そして真冬の廊下で数時間眠ってしまった私は、最悪というか案の定というか、見事に風邪を引いた。
 年末に風邪を引いても病院は閉まっていると言うのに。
「お母さん、ごめん」
 氷枕を持って来てくれた母に謝る。
「気にしないのよ、涼心。今はゆっくり休みなさい」
 年末で仕事も休みに入った母がいてよかった。
 迷惑をかけているのは申し訳ないけれど、1人で留守番なんてしていたら心細いうえにまた昨日のことを思い出して泣いていたかもしれない。
「薬を飲んで、ご飯を食べて、しっかり寝れば治るわ」
「うん」
 力の入らない声で返事をする。
 自分の部屋で寝るのは心細かったから、今日は特別にソファーに布団を敷いてふかふかな上で毛布をかぶっている。布団で寝ているのにテレビが見られるなんて贅沢だ。
「雑炊とおうどん、どっちが食べられそう?」
「……雑炊」
「分かったわ。すぐ作るからちょっと待っていてね」
「うん」
 頭をひと撫でした母は、キッチンに立った。料理をする母の背中を眺める。近くに母がいる安心感からか、だんだんと瞼が重たくなってきた。

ーー
「涼心、涼心」
「……ん」
 目を覚ませば、近くから美味しそうな雑炊の匂いが漂ってきた。
「卵雑炊、食べられそう?」
「うん」
 母に支えてもらいながらゆっくりと体を起こす。
 できたてらしい雑炊からは湯気が立ち上っていた。
「暑いから気を付けてね。食べたら薬飲んで、また寝たらいいわ」
「うん。ありがとう。いただきます」
 寝起きの掠れた声で答える。母がお茶碗に雑炊をよそってくれて、蓮華と一緒に持たせてくれた。
 ふーふーと冷ましては雑炊を喉に流し込んでいく。
 昔から風邪を引いたらうどんか卵雑炊を選ばせてくれる。熱がある間は食べやすいものを作ってくれて、風邪が治ったらがっつり肉系の料理が食卓に並ぶ。それが嬉しくて、あまり風邪を憂鬱に思ったことはなかった。
 もちろん熱があるせいで体はだるいけれど……。
「そういえば、風邪薬ってまだ家にあったかしら」
 しばらく私が雑炊を食べるのを見ていた母は、ふと思い出したように立ち上がった。
 箪笥の上にある救急箱を開けて中を覗き込んでいた母は、いくつかの瓶と睨めっこしてからひとつの瓶を持って来た。
「あったわ。これね。1回3錠ね。水は入れておくから」
 至れり尽くせり。私が風邪を引けば母はよく私を甘やかしてくれるけれど、今日は一段と手厚い。
 きっと昨日、私が泣いていたことに気付いているからだろう。何かあったことを察しているから、余計に甘やかしてくれているんだと思う。
 そこまでしてくれても、私は昨日あったことを母に話すことはできそうになかった。
「……ごめん、お母さん」
「いいのよ。昨日何があったかなんて無理に聞かないわ」
 母親って、子どもが何も言わなくてもここまで理解してくれるものなんだろうか。
 別の生き物のはずなのに、こんなにも心を読まれてなんでも見透かされているような気になってしまう。
「でも真冬に玄関で寝落ちるのだけはやめてくれたらお母さん嬉しいかなぁ」
 笑みを浮かべた母からちょっとだけ怒りのオーラを感じた。
「……はい。それはもう本当にごめんなさい」
 それは私も反省している。
 まさかあんなところで寝落ちるなんて自分でも思っていなかった。
 正直いつの間にあそこで眠ってしまったのかすら記憶にない。次から泣くときはいつ寝落ちてもいいように自分のベッドに移動してからにしようかな。
「あ、涼心。ホラー映画見る? ホラー映画」
 母は嬉々としてテレビ台に入っているホラー映画を引っ張り出してきた。
「え……」
「風邪引いた時と言えばホラー映画よ!」
「……そんなことある?」
「あるわよ。いつも見てたでしょ?」
「そうだっけ」
「まぁ涼心はいつも途中で寝てたから、あんまり覚えてないかもね。ここ最近はしばらく風邪も引いていなかったし」
 そういえば、高校に入ってから風邪を引いたのは初めてかもしれない。
 とはいえ今までに風邪の時に嬉々としてホラー映画を見せられた記憶なんてさすがに……あるな。中学のとき、夏休みに風邪を引いた私は母にスプラッター映画を見せられてうなされた記憶があった。
「どれにしようかなぁ。モンスターホラーかなぁ。サイコホラー、ゾンビホラー……」
 母はデートの身支度をする時と同じくらい楽しそうに映画を選んでいる。
「お母さんが見たいだけじゃん……」
「ふふ、そうとも言う」
 母は鼻歌を歌いながらビデオを再生した。始まったのは怪奇ホラーの映画だった。

ーー
 いつの間にか寝落ちていたらしい私は、怪奇ホラーの終盤で目を覚ました。
 だいぶ序盤で寝落ちた気がする。
 何度か見たことがある映画だから内容は知っているはずだけれど、久しぶりに見る映画だから正直うろ覚えだった。
「あら、起きたの」
 体を起こすと、母が気づいて振り返った。
 ひとりでもホラー映画を見続けていたらしいけれど、怖がっている素振りは一切ない。
「トイレ」
「ひとりで大丈夫?」
「へーき」
 ソファーから下り、少し足をふらつかせながらリビングを出た。
 まだ体が重い。けれど朝起きた時よりはマシだった。薬が効いているのだろう。
 トイレから出て熱を測れば、37.5度と朝より下がっていた。起きて計ったときは38.6度あったのだから薬ってすごい。
「どう? 熱下がってる?」
「うん。37.5」
「だいぶ下がったわね。でも今日は安静にしていなさい」
「うん」
「ほら、もうすぐクライマックスよ!」
 母は相変わらず楽しそうにホラー映画を見ていた。きっとこれが終わったら次のホラー映画を流すんだろうな。もし私がホラー映画が苦手だったなら、このせいで熱が上がりそうだ。
 そういえば、母が風邪を引いた時もキラキラした目でホラー映画を流してとお願いするんだよね。きっと昔からの習慣なんだろうな。
 さすがに私は母がいなければ自分からホラー映画を流したりはしないけれど。流すんだったらやっぱり恋愛ものがいい。できれば湿っぽい感じの恋愛ものじゃなく、コメディ要素があったり、胸きゅんする学園ものとかがいい。
「ほらほら来るわよ!」
「ネタバレじゃん」
「もうすでに内容知ってるでしょ? そうそうこのシーンよ! 壁をすり抜けた幽霊が襲ってくるシーン! いいわよねぇ」
 何がいいのかよく分からないけど、ホラー映画ってこんなに無邪気に笑って見る映画だっけ。
 母を見ていると、見ている映画のジャンルがよく分からなくなってくる。
 私はテーブルに置かれていたお茶を飲み干し、また布団に潜り込んだ。
 氷枕のぷにぷに感を楽しんでいると、また睡魔に襲われた。

ーー
 熱は翌朝には下がっていた。体のだるさはまだ少し残っているけれど、動けないほどではない。
 さすがに今日はまだ家で大人しくしていようと思う。
 そもそも、図書館はもう昨日から休館日に入っているしどこか行きたい場所があるわけでもないからいいのだけど。
 私は自分の部屋の本棚から本を選び、ベッドに横になって読みふけった。
「涼心、熱がないなら今日は少しくらい体を動かした方がいいわよ」
「う、ん。でも今いいとこ……」
 部屋の入り口に目を向けると、母は外行きの格好で立っていた。だけどデートではなさそうだ。
「じゃあ、お母さん今からお買い物に行くから、帰ってくるまでにお風呂掃除しておいてくれる?」
「分かった、やっとく」
「それじゃあ行ってくるわね」
「行ってらっしゃい」
 ベッドに寝転んだまま母を見送った私はまた本に視線を戻した。

 キリのいいところまで読んだ私は、本に栞を挟んで閉じた。
 先にお風呂掃除をしてしまおうとベッドから立ち上がった。
 お風呂掃除をしていると、体は動かしていても読書をしている時と違って関係のないことに思考が飛んだ。
 一昨日は宇上くんから逃げるように帰ってしまったけれど、彼はあの後どうしただろうかとか。借りそびれた本は本棚に戻してもらえただろうかとか。宇上くんが言った『好き』に対して『偽物』と答えたことの後悔とか。
 考え出した止まらなくなった。昨日の風邪とはまた違う意味で熱を出しそうになった。
「……はぁ」
 わざと声を出すようなため息を吐き、思考を現実に戻す。何か喋っている方がまだ自分の思考の邪魔をできた。
 かといってひとりでブツブツ喋る気にもなれず、代わりに最近よくテレビのCMで流れている曲を口ずさみながらお風呂掃除に精を出した。

「ただいま。お風呂掃除してくれた?」
「したよ」
「ありがとう。じゃあ今日の晩ご飯は唐揚げにしましょうね」
「本当? やった」
 やっぱり風邪が治ると肉料理が出てくる。
 私は小さくガッツポーズをして両手に大量の荷物を持つ母の手伝いをした。
「そろそろスーパーも閉まっちゃうからと思って買い物してたら、買いすぎちゃった」
「これなら私もついて行った方が良かったかもね」
「そうね。でも今日はまだ大人しくしていた方がいいわ」
「うん。適度に体を動かしつつね」
「そう」
 母と私は顔を見合わせてクスクスと笑った。
 何でもないことで周りの目を気にせずに笑えるだけで、こんなにも心が軽くなる。
 宇上くんのことを考えただけ締め付けられていた心臓がすっと緩んだ気がした。