冬休みに図書館で宿題をしたり、ただただ黙って読書をしたりと、有意義な時間を過ごしていた。
 冬休みの宿題は家でも進めていたこともあってか、1週間足らずで片付いた。冬休み前から学校で進めていた分もあったおかげもあるけれど。
 宇上くんは学校では友達と話してばかりで宿題をしていなかったせいで、図書館に来ても私よりも宿題に当てている時間が長かった。
 私は彼が勉強している隣で、いつものように読書を楽しんでいた。
 日本文学だけでなく、海外文学にも興味深い恋愛小説はたくさんあった。たまには恋愛小説以外のジャンルを読むこともあったけれど、ほとんどは恋愛小説を開いていた。
「夕山って、人に興味なさそうな態度のわりに恋愛小説ばっかり読むよね」
「悪い?」
「悪くない。本心では恋愛に興味あるんじゃ、って思って……この話題ダメだっけ」
 宇上くんはバツが悪そうな顔で出した話題を引っ込めようとした。
「……恋愛に興味がないとは言わない」
 むしろ興味はありまくりだ。
 母を見ていて揺れる部分もあるけれど、私だってあんな風に誰かの前で笑えたらと思う。
 実際にそんなことをすれば、そこら中にいる人に好意の眼差しを向けられることになるだろうからできないけれど。
 ただ人の目なんて気にせずに、好きな人のためにおしゃれをして、好きな人に向けて笑顔を見せることには憧れがある。
 どうしたって叶うことのない憧れだ。私は羨望の眼差しで恋愛小説を読みふけることしかできない。それはとてももどかしく、妬ましく、恨めしくて……羨ましい。
「俺と逆だね」
「え?」
「俺は恋愛とか興味なかったから」
 なかったという言い方に引っかかりを覚えないわけではなかった。今も興味がないなら過去形にする意味が分からない。深い意味はないかもしれないし、もしかしたら……と思わないでもない。
 だけど答えを知ることが怖くて、今の彼との距離感を壊したくなくて、小説なら「好きな人でもいるの?」とききそうな場面だと分かっていながら何もたずねなかった。
「そうなんだ」
 ただあなたの話に興味ありませんという風を装ってそう答えるのが精いっぱいだった。
 聞かない方がいい。踏み込まない方がいい。
 後戻りできる場所にいる方が楽だから。
「ところで宇上くん。手が止まってるけど宿題は?」
「それが聞いてよ夕山さん。とてもやる気がでないんだ」
「……そう」
「もうちょっと俺に興味持って?」
 宇上くんは縋るように助けを求めてくる。分からない問題があるなら教えることくらいできるけど、ないやる気を引き出すことは私にはできそうにない。
 ひとつ方法があるとしたら、きっと私はこう言えばいい。
 宿題が終わったご飯でも食べに行こう。
 だけどそれに食いつかれてしまっては困るのは私の方だ。
「頑張って。今やったらあとが楽だよ」
 無難なエールを送るにとどめた私は、残り3分の1ほどになった恋愛小説に視線を戻した。
「うぅ……それはそう」
 唸るように呟いた宇上くんがペンを走らせる音が聞こえてきた。

ーー
 宇上くんと図書館で過ごす冬休みは、思いのほか楽しかった。
 だけど年末年始は図書館は休みになるし、宇上くんと連絡先を交換しているわけではないからしばらく会うことも話すこともなくなるだろう。
 宇上くんはどう考えているのか分からないけれど、私は少し、淋しく感じた。
「年内に宿題が終わってよかった」
「それはおめでとう」
 昨日の夜、家で宿題を終わらせたらしい宇上くんは、背負っていた重荷を下ろしたかのような晴れやかな顔をしていた。
 学生にとって宿題が重荷であることは否定しない。だけど私にとってみれば読書意外にすることがない長期休暇の暇つぶしとしてはいいものだった。
 勉強は好きではないけれど、教科書の古文をノートに書き写すとか、教科書の英文をノートに書き写すとか、漢字ドリルを進めるとか、そういう単調な作業は嫌いじゃない。
「はぁ、これで本が読める。素晴らしい。図書館はやっぱりこうでなくちゃ」
 宇上くんは図書館の天井に向かって両手を広げ、胸を反らしている。まるで図書館のすべてを抱きしめようとしているかのように見えた。
「そんなわけで夕山、おすすめの本教えて」
 宇上くんは姿勢を戻したかと思うと、期待に満ちた眼差しで私を見てきた。
「おすすめと言われても……」
「夕山が好きな恋愛小説。べつに恋愛小説でなくてもおすすめがあれば読みたい」
「好きな本選んで来ればいいのに」
「自分で選ぶより人が勧めてくれる本に興味が湧くもので」
「……はい」
 私は今日借りようと思って積んでいた本の山から、一番上にあった本を渡した。
 今年の春あたりにアニメ映画として放映されていた作品のノベライズ本だ。
「あ、これ知ってる。映画やってたよね」
「うん」
「夕山も見た?」
「見てない」
 見たかったけれど、人が多い場所に行くのは気が進まなくて見に行けなかった。地上波で放送されたら、その時は絶対に録画しようと決めている。
「……ちなみにどんな話?」
「知らない」
「それをすすめたの?」
「人が勧めてくれる本に興味が湧くんでしょ」
「……せめて知ってる本を渡してほしかった」
 そうはいっても、勧めたい本なんていくらでもあってひとつに絞れる自信がない。それに、こういうのが好きなんだと思われるのもなんだか恥ずかしかった。
「……宇上くんは映画見たの?」
 雑な扱いをしたことは申し訳なく思うけれど、拗ねたように唇を尖らせられると胸が締め付けられた。いたたまれなくなった私は、宇上くんの手にある小説に話題を戻した。
「見てないよ」
「じゃあ丁度いいでしょ」
「それはそうかも。俺も気になってたし、読んでみる」
「うん」
 そこからは、2人とも黙々と読書に集中した。
 時々、隣からクスクスと笑う声が聞こえた。チラッと宇上くんを見ると、笑いながらページを捲っていた。きっと面白いシーンがあるのだろう。それを読むのが楽しみだ。
 あぁ、そうか。人が勧める本に興味が湧くって、きっとこういうことだ。誰かが楽しそうにしていることって自分も気になってしまう。
 私は読みかけの小説に視線を戻し、読み終えるまで顔を上げなかった。

 読み終えた本を閉じて、余韻に浸りながら息を吐く。
 今回の恋愛ものは最愛の人が亡くなってしまう悲恋だった。きっと家だったら耐えられなくて泣いていたかもしれない。今も少しだけ目に涙がたまっている。
 私はそれをアウターの袖で拭っていると、隣からの視線に気が付いて顔を上げた。
「……何?」
「……んー。好きだなって思って」
 宇上くんが何でもないことのように言った。あまりにもサラッというものだから、聞き流しそうになった。
 次のおすすめでも聞くみたいにさりげなさがあった。
 お腹が空いたからご飯を食べに行こうと言うみたいに自然な言い方だった。
 だから理解が遅れた。反応が遅れた。
「あ、えっと、今のはその……」
 私よりも先に自分の言葉に狼狽え出した宇上くんは、選択を間違ったと言いたそうな顔で手で口を覆っていた。
 そして彼の言葉を理解した私は、戸惑いよりも何よりも先に口が滑った。
「それは偽物だよ」
 そんな感情は偽物だ。
 私に向けられる感情なんて、偽物ばかりだ。
 宇上くんには言われたくなかった。
 宇上くんからは向けられたくなかった。
 そんな偽物の感情で、私に好きと言ってほしくなかった。
「何それ」
 私の言葉を理解した宇上くんは、狼狽から一転、怒りのこもった目で私を見てきた。
 今度選択を間違えたのは私のほうだった。
 私にそんな顔を見せたことがなかった宇上くんは、眉間にしわを寄せて眉を吊り上げていた。
 わざと唇を尖らせて拗ねていることをアピールするようなあざとさを持ち合わせている宇上くんが、今は本気で怒っているのだと分かるくらいにふざけた様子がなかった。
 冗談だと誤魔化せる雰囲気じゃないことくらい、簡単に気づけた。
「……ごめん」
 私は借りるつもりだった本を持っていくことも忘れて、その場を離れたい一心で肩掛けかばんをひっつかんで図書館を飛び出した。
 あぁ、年末年始に読むための本を借り損ねてしまった。明日からは休刊日に入ってしまうのに。
 年末年始は返却期間が長くなるからいつもより少し多めに借りられることを楽しみにしていたのに。
 どうでもいいことを頭の片隅で考えながら足を動かす。
 今更図書館に戻って本を借りるという選択をすることもできないな。
 宇上くんが追いかけてくる気配はなかったけれど、走る足を止める勇気もない。ましてや振り返る度胸もない。
 宇上くんから逃げるように、自分の過ちから逃げるように、知らない人からの視線から逃げるように家までの道を走り続けた。

 家に着いた私は真っ先に玄関の鍵を閉め、くつを脱ぐこともできないままドア伝いにその場に座り込んだ。
 乱れた息を整える。
 家に帰ったことで少しだけ頭が冷静になった。
 呼吸も整ってきてさっきまでより頭が回るようになった。
「最悪だ……私」
 彼の話をよく聞きもしないで『偽物だ』なんて言ってしまった。
 彼が何に対して『好き』と口にしたのか聞いていないのに。私を見ていたからてっきり私に向けて言ったのだと思ったけれど、そんなこと分からないじゃないか。私が彼に渡した本を好きだと思ってああ言ったのかもしれないのに。
「せめて話くらい聞けよ私!」
 これこそ自意識過剰じゃないか。宇上くんだって何かを取り繕うような態度を取っていた。誤解させるような言い方だったと気が付いて、主語を付けようとしていたのだとしたら。それを聞いていたら、彼が『好き』だと言ったのが本だと分かったかもしれないのに。
 だけど同時に、もしもそれが自分に向けての言葉だったなら、と思うと胸が締め付けられた。今までにないくらいに苦しくなった。
 自意識過剰だ。思い込みだ。あるはずない。そう言い切りたい。言い切れない力があることを知っている。
「っふ、う……」
 涙があふれて止まらなかった。

ーー
 どれだけ泣いていたか分からないけれど、いつの間にか廊下で眠ってしまっていたらしい。
 カチャンと鍵が開く音がして目が覚めた。
「ただいえぇ! ちょっと涼心? こんなところで何してるの、どうしたの? 大丈夫?」
 帰ってくるなり廊下で横になっていた私に気付いた母が慌てた声を出した。
 私は目を擦りながら体を起こす。硬い床の上で寝ていたせいで体が痛いし、冷たい廊下で寝ていたせいでとても体が冷えている。
「ん、おかえり」
「ただいま。……ねぇ、大丈夫?」
 廊下の電気をつけた母は、スーパーの荷物を廊下の端に置いて私の視線に合わせてしゃがむ。
「寒い」
「こんな廊下で……何してたの」
「寝てたみたい」
「すず……」
 私の顔に残る涙の跡に気付いたらしい母は、それ以上何も言わずに私の腕を引っ張って立ち上がらせた。
「ホットミルクかホットココア、どっちがいい?」
「はちみつ入りのホットミルク」
「すぐに作るわ。先に着替えてらっしゃい。あ、シャワーの方が体が温まるかしら」
「ん、シャワー浴びてくる」
「髪はすぐに乾かすのよ」
「うん」
 母の心配そうな視線を背中に受けながら、私は着替えを取るために一度自分の部屋に入った。
 母に泣いていた姿を見られてしまった。
 心配かけないように気を付けていたのに。
「はぁ……最悪」
 ぶるっと身震いした私は、着替えを持って風呂場に向かった。