「おはよう」
 翌日、宇上くんはただの日課と変わらない気軽さで私に声をかけてきた。
 いつもと変わらず恋愛小説を読んでいた私は、思わず顔を上げてしまった。
 しばらくは私に声をかけてくるようなこともなかったのに、昨日の一件でまた気を持ち直してしまったのかもしれない。
 私が昨日の自分の行いを悔いているとは知らない宇上くんは、私が反応しないことなどお構いなしに話を続けた。
「アイのことなんだけど、うちに前からいた猫たちと仲良くやってるよ。喧嘩とかしないか心配だったんだけど、モフとサラも受け入れてくれたみたいでよかった」
 報告はいらないと言ったのに、宇上くんは嬉しそうにアイちゃんのことを話してくれる。
「そういうの、いらないって言ったでしょ。私に話しかけない方がいいよ」
「でも気になるでしょ? アイを最初に見つけたのは夕山だったしさ。ちゃんと伝えておこうかなって」
「……」
 なんとなく、彼には私が何を言っても無駄なように感じた。
 今も、私なんかに話しかけるからクラスメイトも私たちに視線を向けている。これだけ愛想よく話しかけてくれている宇上くんに対して、私は微笑みかけることも返事をすることもないのだから、当然の反応だと思う。
 強いて言うならば、私に話しかけている宇上くんに対して妬ましそうに見ている視線があることは気になる……。
「今日の帰りにペットショップに行って、アイの首輪買おうと思ってるんだけど、何色がいいと思う?」
 そんなことを私にきかれても、アイちゃんを引き取ったのは宇上くんなんだから好きな色を選んであげればいいのに。
 そんな会話さえ避けたい私は、宇上くんから視線を外して本に目を戻した。
 とはいえ、この状況で小説に集中できるほど私は冷酷な人間にはなれない。
 私が塩対応であっても、彼のメンタルはとても強かった。
「茶色も白も似合いそうだけど、瞳の色に合わせて水色か黄色にするのもありだと思うんだよね」
 私が本に集中していないことを知ってか知らずか、宇上くんは私に話しかけることを諦めてくれない。
「惣、あんまり話しかけない方がいいって。読書の邪魔しちゃ悪いだろ」
 宇上くんが私に話しかけていたことを妬ましそうに見ていたクラスメイトの1人が、彼を止めてくれた。
「……それもそうか」
 何かを言いたそうにした宇上くんだったけれど、それ以上は話しかけてこなかった。
 宇上くんを止めてくれたクラスメイトに視線を向ける。目線だけでお礼を言い小さく頭を下げれば、彼はほんのり顔を染めて私から視線を逸らした。
 その様子を見ていた宇上くんは何かを察したような顔になったけれど、そんな事実はどこにもない。
 そう思ってもわざわざ否定をするためだけに彼と口をきく気にもなれなかった。
 クラスメイトの反応を見れば見るほど、一切態度に出さない宇上くんとの差がよく分かった。
 彼は私と話をしても私を好きになったりしないのだろうか。私の力が及ぶことがないのなら、もしかしたら、私は彼と話をしてもいいかもしれない。宇上くんへの淡い期待が頭を過った。

ーー
「ただい……おっと」
 家に帰った私は、玄関に転がっていた母の靴に躓きそうになった。
 今日は確か仕事は休みだから彼氏とデートしてくると言っていたと思うが……。
 母の靴を揃えながら嫌な予感が渦巻いた。
 リビングは電気がついていない。
 またか、と思いながら電気をつける。
 リビングの床に鞄を叩きつけたのか、中身がそこかしこに散らばっている。
「お母さん。ただいま」
「……っ」
 小さく鼻をすする音が聞こえた。リビングに置いてあるソファの上で、母は毛布にくるまって泣いていた。
「……お母さん」
 床に膝をついて呼びかければ、母は少しだけ顔を上げた。
 私を見るなり母は静かに涙を零す。
「また……また浮気されてた」
 消え入りそうな声が聞こえた。
 涙にぬれた声は悲しそうで、悔しそうで、こっちまで苦しくなった。
 母が傷つく姿を見たのはこれが初めてじゃない。
 それでも見るたびに胸が締め付けられる。母が本気で恋をしていたことを知っているから。
 あれだけ幸せそうに笑って、楽しそうにデートの支度をしていたのを近くで見てきた。
 それなのに、どいつもこいつも母を裏切る。
「何があったの……」
「デートの途中で、知らない女性と会ったの。彼はその人を知らないって言うんだけど、どう見ても目が泳いでた。その女性も彼の言い方に腹を立てて、『アンタの彼女よ!』って怒鳴ったの」
 母は大きく息を吸い込む。相当泣いていたのか、吸い込む息が震えていた。
 鼻をすすった母にテーブルの上にあったティッシュを差し出す。苛立ちをぶつけるように荒々しく鼻をかんだ。
「どういうことか問いただしたら、すっごく狼狽えて話にならなかったから、その女性にきいたの。そしてら2カ月前から付き合ってる彼女だ、って……」
 会ったことはないが母に見せてもらったことがある彼氏の写真を思い出す。清潔感のある服装で、穏やかに微笑んでいる母とのツーショット写真だった。
 母が彼と付き合い始めたのは3ヶ月前。たった1ヶ月で母以外の女を作ったのかあの男。いや、もしかすると他にも付き合っている女性がいたのかもしれない。
「腹立つな……」
「本当にね。ショックだわ……」
「その男、殴ってきた?」
「ふふ、彼女さんって人と一発ずつね。その人の提案よ」
「そりゃよかった」
 母は泣き腫らした目で小さく笑った。
 私に話して少しくらいは気が楽になったようだけど、その笑みはやっぱりまだ無理しているように見えた。
 私に気を遣って笑ったりしないでほしい。
 そう思って私は母に両腕を広げた。
「……涼心ちゃぁん」
 すぐに涙腺を崩壊させた母がソファーから身を乗り出してのしかかってきた。
「よしよし」
 私は母の髪や背中をさすって宥める。
 こんなことがあっても、母はきっとまた次の恋を探すだろう。
 今だけ泣いて、今だけ傷ついて、次また傷つくかもしれないことなんて恐れずに前だけを見て生きていく。
 私にはそれはとても難しいことで、どれだけ恋に憧れても私には簡単じゃない。
 自分も傷つきたくないし、相手も傷つけたくない。
 今回の母の彼氏がどんな人だったのか知らないけれど、母の魅了する力で逆に浮気や不倫をさせてしまった人がいたことも事実。
 魅了の力が解けた現実で誰かが傷つくのを見るのは嫌だった。
 ……きっと、宇上くんは私に悟らせないように表情を隠すのが上手いだけ。やっぱり今まで通り、私は彼と関わらない方がいいに決まっている。
 人を力で勘違いさせてしまうような私が勘違いをしていちゃいけない。
 間違った結末なんて、私は見たくない。
 だけど母は私とは違うから。また新しい恋を探しに行くのだろうから。
「お母さん。次の人はいい人だといいね」
 せめて母の幸せは願っていたい。

 母が落ち着きを取り戻したころには、外は暗くなっていた。
 もうすっかり日が短くなった。
「晩ご飯、作らなくちゃね」
「いいじゃん、今日くらい。カップ麺で済ませちゃお」
「野菜は食べなきゃダメよ。カットサラダがあったはずだから、それも出しましょ」
「うん」
 母が床に散らばったものを引き寄せている間に、私はキッチンでお湯を沸かす。
 戸棚を漁って母は辛いラーメンを選び、私は醤油ラーメンを選んだ。
 ラーメンができるまでの間に服を着替えてリビングに戻れば、すでにテーブルの準備は終わっていた。
「いただきまーす」
「いただきます」
 ベリベリとカップの蓋を破く。
 一気に立ち上ってきた湯気を手で払い、ラーメンをほぐす。
「……あ、辛い!」
 先に食べ始めていた母が手で顔を仰ぎながら悶えていた。
「お母さん、辛いもの苦手なくせによく食べるよね」
「ストレス発散になるの。今日みたいな日は食べなくっちゃ」
「やっぱり私はお母さんの真似はできないや」
 私はふふ、と笑ってラーメンをすする。
 じっとこちらを見ていた母は、落ちてきた私の髪を耳にかけてくれた。
「恋は楽しいの。お母さんは男の人を見る目がないけど、涼心はきっとそんなことないわ。涼心だって恋していいと思うけどなぁ」
「私は……」
「気になる人とかいないの?」
 母の楽しそうな声で、一瞬頭に宇上くんの顔が浮かんだ。
 だけど彼に対する気になる、は母が求めている答えとは違う。
「……いないよ」
 首を横に振って答え、ラーメンをすすった。
「いないのかぁ」
 母は詰まらなさそうに体を引いた。
「ん、辛い!」
 辛いと言うわりに楽しそうにしている。
 その時泣けばケロッとなる母をすごい。きっと失敗を引きずることもないんだろうな。
 私は一度した失敗を長く長く引きずってしまう。
 本当は父がいなくなった理由が私にあるのだと、今でも思っているくらいには。母をシングルマザーにしてしまったのは私のせいだと責め続けているくらいには、私は根に持つ性格なのだ。
「私には難しいよ」
 私に恋をする資格なんてないんじゃないないかって、そう思っている。