春休みは冬休みよりも楽しみがあった。
 惣太郎くんと図書館で過ごすものいいけれど、家に帰ってからも惣太郎くんと話ができるのが嬉しかった。
「ふふ。涼心もすっかり恋する乙女の顔ね」
「……そういうの、やめてよ」
「あら照れちゃって可愛い。あーあ、お母さん今この力をすごく疎ましく思ったわ。娘の彼氏に会いたい!」
 母の力が弱まっていて、せいぜい人に好感度持たせる程度で恋を芽生えさせるほどではないにしても、万が一ということもある。
 基本的に社交的な母のことだ。その好感度から恋愛感情に変えることはきっと容易だろう。
 もちろん惣太郎くんが母に靡いてしまったら、私は持てる力のすべて彼を取り戻すけれど。
 恋多き母と火花を散らすことはできれば避けたい。
「それはちょっと……」
「宇上くんでしょ? ねぇ、写真とかないの?」
 言われてみれば、惣太郎くんの写真は持っていない。
「あ」
 そういえば、アイちゃんを自慢するような自撮りが送られてきたことがあった。
 私は惣太郎くんとのトーク画面を開き、画像をスクロールした。
「あった。この人」
 スマホを見せると、母は口元を上品に手で押さえた。
「あらイケメン……」
「お母さん?」
「涼心から奪ったりはしないわ。でも、涼心の面食いは私譲りかしら」
 母がニヤニヤと含みのある顔で私を見る。
「べ、べつに顔で好きになったわけじゃないし」
「えぇー? 本当? ちょっとくらいあるんじゃないの?」
「ないって!」
「じゃあ顔は好きじゃないの?」
「……好き、だけど……。って何言わせるの!」
 楽しそうに私を揶揄う母を押しのける。
 バランスを崩して後ろに倒れこんだ母を跨いで、キッチンに飲み物を取りに行った。
「あ、ホットココア飲むの? お母さんも!」
「はいはい」
 ポットでお湯を沸かし、ココアの粉末を入れたマグカップにお湯を注ぐ。
 スプーンで粗方粉を溶かすと、流れに乗って回るスプーンをそのままに母にマグカップを差し出した。
「ありがとう」
 床に倒れていた母は体を起こしてソファーに背中を預ける。
 私からマグカップを受け取るなり、フーフーと息を吹きかけて口を付けた。
「あちっ」
「気を付けてよ?」
「うん。でも美味しいわ」
 私は母の隣に並んで座り、ソファーにもたれかかった。
「力と向き合えたあとは、進路ね。進学か就職か、決めた?」
「……まだ」
「……ねぇ涼心。本当に家を出たいの?」
「うん」
「……お母さんがお父さんと別れたのは、べつに涼心のせいじゃないのよ。涼心を守りたかったのは本当だけど、涼心が悪いわけじゃないの。この違い、分かってくれる?」
 母は電源のついていないテレビを見ながら言った。
 ぼんやりとした母の姿が、テレビ画面越しに私を見ていた。
「……うん」
「どっちも大事だったわ。でも、赤ちゃんをほったらかして彼を選ぶことはできなかった。どっちも守りたかったの。その結論が、離婚だっただけなの。だから誰も悪くない」
 誰も悪くない。昔から母が自分を責める私に何度も言ってくれた言葉。私はすぐに力や何かのせいにしてしまうのに。
「……ん」
「誰のせいでもないし、ましてや力のせいでもない。お母さんが出した答えなの。お母さんの離婚を、涼心が自分を責めることはないの。お母さんは涼心がいてよかったと思ってる。生んでよかったって思ってる。涼心には辛い思いをさせることもあるけど、お母さんは後悔してないの」
「うん」
「いらないなって思ったこと、ないからね」
 テレビの向こうで母がこっちを向いた。私も母に顔を向けた。
 母はきっと、私が家を出ていこうと考えている本当の理由を察している。
 だからこんな風に言ってくれるのだろう。
 家を出ていかなくてもいいと、暗に伝えてくれている。
 私が邪魔なんかではないと伝えてくれている。
 テーブルにマグカップを置いた母は、私に両手を広げた。
「涼心」
 私も母に倣ってマグカップを置き、ゆっくりと母に近寄った。
「涼心、生まれてきてくれてありがとう。お母さんの子になってくれてありがとう」
 耳元で聞こえた声は、何かを噛みしめているかのようだった。
「このことも、もう一度よく考えなおしてみて」
「……分かった」

ーー
 惣太郎くんの家に招かれる日、私は朝からクローゼットを引っ搔き回していた。
 少しでも可愛いと思ってもらいたい。
 母がデートに行く日はいつも服や靴に迷っている。その気持ちが今ならよく分かる。
「こっちのワンピースの方がいいかな。逆にスカートじゃなくてズボンの方がいい?」
 私は左手に持った白のニットワンピと右手に持った黒のスキニーを見比べる。
「家にお邪魔するのにスカートはちょっとやりすぎか」
 私は黒のスキニーをベッドに放り投げ、今度は上を何にしようかとまたクローゼットに腕を突っ込む。
 シンプルな装いで清潔感を出した方がいいか、それともフリルがあるような服で可愛らしさを出すべきか。
「……あんまり無理をするのは私らしくないか」
 普段フリルがある服を着ない私がいきなりフリルを身に纏っていた惣太郎くんはきっと驚くだろう。似合ってるくらい嘘でも言ってくれそうだ。
 だけど、恋に背伸びは禁物だと今まで読み漁ってきた恋愛小説で学んだ。背伸びをして頑張ってもいつか疲れてしまう。
 私は白のブラウスにベージュのベストを重ねて着ることにした。
 シンプルな黒の肩掛け鞄と茶色のアンクルブーツを合わせれば大人っぽい落ち着いた印象に見えるだろうか。
 惣太郎くんの普段の強そうな私服を思えば、私の服装とはあまりあっていないかもしれないけど。
「……よし」
 姿見の前で服に変なところがないかを確認する。ダウンコートとマフラーで寒さ対策も忘れない。
「あ、もうこんな時間」
 部屋の壁掛け時計は11時を過ぎていた。
 私は鞄とスマホをひっつかんで部屋を出る。玄関まで距離を走り、靴箱からアンクルブーツを取り出した。記憶より濃い茶色に、人の記憶なんて曖昧だなと思う。
 急いでブーツに足を入れ、誰もいない部屋に向かって「行ってきます」と声をかけた。

 惣太郎くんは途中まで迎えに行くと言ってくれていた。
 図書館からそんなに遠くないと教えてくれたので、図書館で待ちあわることになっていた。11時15分。待ち合わせの時間は11時半。
 だいぶ早く着いてしまったけれど、あまり待たないうちに惣太郎くんが小走りで現れた。
「ごめん、遅くなった」
「まだ時間の10分前だよ」
「どのくらい待った?」
「5分くらい。楽しみで早く来ちゃった」
「俺もだよ。うち、ここから5分くらい歩いたところだから、すぐだよ」
「本当に近いんだ。っていうか、私の家と反対方向なのに送ってくれたんだね、この前。ありがとう」
「いやいや、涼心の家も近くだったし」
 だとしても家に帰るのが遅くなってまでわざわざ送ってくれたのだから、優しいよ。
「……行こっか」
 惣太郎くんは、今来たばかりの方向を指さして言った。
「うん」
 私は惣太郎くんの隣を並んで歩いた。
「アイちゃんに会えるの楽しみ。モフちゃんとサラちゃんも触らせてくれたりするかな」
「たぶん大丈夫だよ。涼心はきっと動物にも好かれる」
「なんでそう思うの?」
「アイが懐いてたから?」
 アイちゃんが懐いたら、どうして私が動物に好かれると言えるのだろう。
 よく分からずに首を傾げると、惣太郎くんはふっと笑った。
「アイってどうも人を選ぶらしい。うちの家族の中でも俺にしか懐いてくれなくてさ。たぶんちょっと人見知りなのかな」
「そうなんだ」
 それは知らなかった。
「でも猫たらしなんだよ。猫にはすぐ好かれるんだ。涼心みたいだね」
「ふふ、アイちゃんにも魅了する力があるのかもね」
「それとも涼心の力が猫にも効いてたりして」
「それ私も考えたよ。でも、よく分からない。この力、分からないことが多すぎるね」
「だね」
 そんな他愛ない話をしていると、あっという間に惣太郎くんの家に着いた。2階建ての一軒家は、新築なのかとてもきれいな外観をしていた。
 いざ彼の家に上がると思うと緊張した。
「そんなに硬くならなくていいよ。俺しかいないから」
「お、お邪魔します」
 遠慮がちに声をかけて家に上がる。
 リビングに入った途端、毛玉が惣太郎くんに突進した。
「うわっと」
 惣太郎くんは激突してきた毛玉をキャッチする。よく見るとハチ割れのモフちゃんだった。
 そっちに気を取られていたら、いつの間にか足元に近づいてきていたのか、見覚えのある三毛猫が私の足に頭を擦りつけてきた。
「アイちゃん! 久しぶり」
「にゃぁ、にゃあぁ」
「ふふ、私のこと覚えてくれてるの? 君は記憶力がいいね」
 私はその場にしゃがんでアイちゃんに手を差し出す。
 初めて会ったときのように、私の腕に頭や体を擦りつけてきた。
 前に会ったときより毛並みが良くなっている気がした。ちゃんとお世話をしてもらっている証拠かな。
「アイちゃん、惣太郎くんにいじめられてない?」
「にゃぁ」
「えぇ、いじめられてるの? 何されたの?」
「いじめたりしてないけど!?」
「ふふ。分かってるよ、冗談」
 惣太郎くんは慌てたように私たちの会話に割り込んできた。
 そういえばもう1匹いるはずの黒猫の姿が見えない。
「サラちゃん、いないの? 私警戒されてる?」
「いや、あそこ。箪笥の上で寝てる」
「猫が高いところ好きって本当なんだね。起きたら遊んでくれるかな」
 箪笥の上から黒い尻尾を垂らしている黒猫に近づく。
 近くで見ても毛並みがサラサラしているのがよく分かった。
 撫でたいけど、さすがに寝ている邪魔をするわけにもいかないよね。
「にゃぁ」
「ん? 君が遊んでくれるの?」
 アイちゃんが私の足の間に体を滑り込ませていた。
「にゃあ」
 足元で見上げてくる猫の破壊力ってすさまじい。
 私の魅了する力なんてこの子の魅力に比べたらとても些細なことのように思えてしまった。
「飲み物、何にする? りんごジュース、レモンティー、お茶、水の中で」
「じゃあ……りんごで」
「了解。ソファーとかないけど、そっちの絨毯に座ってていいからね」
「ありがとう」
 私は惣太郎くんの言葉に甘えてテレビの前に敷かれている柔らかい絨毯に腰を下ろした。
 アウターを脱ぎながら改めてリビングを見回した。ウッド系の家具で揃えられていて温かい印象の部屋だった。
 そんなことよりも遊べと言いたげに、私にすり寄ってくるアイちゃんの頭を撫でる。
「飲み物、ここに置いておくね」
 テレビ前のテーブルにグラスを置いてくれた惣太郎くんにお礼を言う。
「ほんとよく懐かれてるね。俺より懐かれてるんじゃない?」
「そうかな」
「猫って本当に気まぐれ。アイ、俺とも遊ぼ……無視された」
「ごめんね、私と遊ぶのに忙しいから」
 私はアイちゃんの代わりに謝る。
 惣太郎くんはあざとく頬を膨らませた。
「いいもん、本読んでやる」
 惣太郎くんは唇を尖らせて、テーブルに置かれていた本に手を伸ばした。
 しばらく私はアイちゃんとモフちゃんと戯れていた。おもちゃを遣ったり柔らかい毛を撫でたり、最高の癒しを堪能した。
 いつの間に起きたのか、サラちゃんが誰? と言いたげに私を見て「なぁ」と鳴いた。
「あ、おはようサラちゃん。お邪魔してます」
「……なぁ」
 サラちゃんに手を差し出せば、鼻を近づけてきた。ひくひくと動く鼻が可愛い。
「なぁ」
 小さく泣いたサラちゃんは、小さく首元を腕に擦りつけてきた。よろしく、と言われているみたいだった。
「ほんとにサラサラだね」
 そっと体を撫でると、するんと私の腕をすり抜けて足の上に乗ってきた。
 丸まって眠る体勢に入っている。
「サラちゃん、撫でていい?」
「なぁ」
 まるで私の言葉を理解しているかのようなタイミングで小さく返事をくれるサラちゃん。
 上下する背中をそっと撫でれば、サラサラな毛並みが堪能できた。
 ひと撫ででなんて癒し。
「にゃぁ、にゃあ」
 わたしもあそんで、と言いたげにアイちゃんが私の手に抱きついてくる。
 片腕をアイちゃんのおもちゃにされて、足の上ではサラちゃんが寝ていて、モフちゃんはお腹を撫でさせてくれる。
 ここは完全にもふもふ天国だった。
「あ、サラ起きて……ないな。っていうかなんてとこで寝てんの! サラ!」
 きりのいいところまで読めたのか、惣太郎くんは本を置いてもふもふ天国に入ってきた。
「あ、寝かせて置いてあげてよ」
「ダメ。実質膝枕だよこんなの」
 そんなことを言いながら、私に触れることをためらってか強制退場させる気はないみたいだ。
「サラちゃんに厳しいよ」
 サラちゃんの背中を撫でながらジトッとした目で見れば、惣太郎くんは唇を尖らせた。
「サラはオスだから」
 なるほど、猫に嫉妬か。
「ちなみに、私の力で私に好意を向けるのは、男の人だけじゃないよ」
「……えっ!」
「老若男女問わずだね」
「モフ、アイ! 退場!」
「あ。私からアイちゃんたちを奪わないで!」
「しっかりして涼心! 俺にだって魅力はあるって!」
 あまりの必死さにまた恥ずかしいことを口走った惣太郎くんは、私から天国を奪って行ってしまった。
 リビングから追い出されてしまった猫たちに思いを馳せて、シクシクと泣きまねをする。
「天国だったのに」
「俺と一緒にいるのは地獄ってこと?」
「そんなこと言っていないけど……」
 言わされながら恥ずかしくなってくる。
「……俺、まだ涼心の服も褒めれてないのに」
「……へ?」
「今日も可愛いねってまだ言ってない」
「あ、ありがとう」
 期待をしていたわけじゃないけれど、いざ言われると服選びを頑張ってよかったと思った。
 惣太郎くんがじっと私を見つめてくる。穴が開きそうなその視線から逃げるように目を逸らした。
 廊下ではあけろと言いたげな猫たちが扉をひっかいている音が聞こえる。
「涼心」
 惣太郎くんに至近距離で名前を呼ばれ、強引に視線を絡めとられる。
「キス、したい……です」
 熱のこもった目で言われ、私は声が出なかった。
 小刻みに頷くのが精いっぱいで、惣太郎くんの手が私の頬に触れた瞬間、硬く目を閉じた。
 こんなに近くで惣太郎くんを見ていられない。恥ずかしすぎて心臓が壊れてしまいそうだ。
「ふっ」
 小さく笑う声が聞こえたかと思うと、唇が触れあった。
 ほんの2秒くらいのキスが、とても長いもののように感じた。
「涼心」
「な、に……」
 呼ばれて目を開ければ、穏やかな微笑を浮かべる惣太郎くんと目が合った。
「キスさせてくれてありがと」
「っ……う、ん」
 まさかお礼を言われると思っていなくて戸惑う。本当にキスしたんだという実感がじわじわと遅れてやってきて、羞恥心で顔に熱があるのを感じた。