学年末が近づき、私たちはまた前みたいに図書館の特等席に並んで座って試験勉強をしていた。
 前と違うのは、宇上くんの集中力が異様に短くなっていること。
「ねぇ、私のこと見てないで問題集見て。提出物に追われて寝る時間無くなるよ」
 気づいたら彼は私に視線を注いでいる。それ以上にワークに熱心になってほしいのだけど。
「確認だけどさ。俺たちって付き合ってるよね?」
「そういえば、そんな話はしてないね」
「え……」
 宇上くんは明らかに傷ついた顔をした。
 この前の土曜日の出来事を思い返せば、宇上くんからの告白に私も好きだと返しただけで、付き合うかどうかの返事はしていない。
 海外の恋愛だったらあの会話だけで……いや、あんな会話がなくてもカップルが成立していたりするのだけど。
「じゃあ付き合って。俺と付き合って今すぐ」
 宇上くんは私の方に身を乗り出して食い気味に言う。
 そんな勢いで来られると頷きにくい雰囲気がある。
「……なんで返事してくれないの。ねぇなんで目逸らす?」
「いやその……雰囲気ないなと思って」
「夕山って意外と雰囲気重視? やっぱり学校のドライって噂、嘘が過ぎるよね。結構ロマンチスト」
「恋愛小説の読みすぎだって自分でも分かってるよ」
 私は気恥ずかしさと居心地の悪さで彼の方を見れないでいた。
「せめて名前の呼び方だけでもさ。ねぇ涼心」
 ムードのかけらもない。
 しかもそんなにサラッと名前で呼ばれるとこっちが照れる。
「宇上くん。もしかしてもうすでに寝不足? そんなに提出物がたまってるの?」
「まだ寝不足になるほど時間に追われてないよ。……はぁ。今までは夕山が恋愛の話が苦手なんだと思ってあんまり強引な手段には出なかったけど、実際はそういう理由じゃなかったでしょ? だからもっとグイグイいってもいいかなって」
「宇上くんって結構その……積極的なんだね」
「ね。俺も今まで恋愛に興味なかったから知らなかった。俺かなり愛が重いタイプかもしれない」
「……そう」
 それを嫌だと感じない私って、どうなんだろう……。
 まさか、私が好きだなんて伝えてしまったから私の力の影響力が前より強まってしまったとか?
 その考えに至った瞬間、私は顔から血の気が引いた。
 だってそれって、父と同じことになってしまうんじゃないだろうか。母より強い影響力がある力を、こんなにも近くで浴びていれば、父のように壊れてしまうかもしれない。
 私は間違った選択を……。
「涼心」
 肩を掴まれて強引に宇上くんと向き合うように体制にされた。
「大丈夫だって。俺は涼心に手を出したりしない。嫉妬くらいするかもしれないけど、それは大目に見てほしい。涼心が読んできた恋愛小説だって、そのくらいは普通にあったんじゃない?」
 宇上くんと一緒にいると、彼の恋愛感情が本当に私の力のせいなのかどうか分からなくなってくる。
 力がない人がストーカー被害に遭うことだってある。嫉妬されることもある。ヤンデレ彼氏に愛される物語読んだことがある。
「うん」
「大丈夫、大丈夫」
 宇上くんは私を安心させるように笑った。
 つられて私の口角も上がる。
「怖くなったり不安になったらすぐに言って。俺、何回だって涼心に好きって言うし、大丈夫って安心させてあげるから」
「……恥ずかしげもなく」
「恥ずかしいっちゃ恥ずかしいけど、涼心が好きな気持ちは恥ずかしいものじゃないから」
 恥ずかしげもなく!
 サラッとそんなことを言う宇上くんになんだか腹が立った。
 彼が来ているダウンジャケットを殴ればシュルシュルと拳が生地を滑った。攻撃が効いている気がしない。
「涼心可愛い」
「もう黙って。……っていうか、本当にその呼び方貫くの?」
「うん。だって彼氏だし」
「学年末で上位10人に入ればね」
「えっ。今すぐって言ったのに!」
「返事してないし」
「……猫みたいにツンデレだね。うちのサラみたい」
「あ、サラちゃんに嫉妬しそう」
「ごめんなさい」
「ふっ……ふふ」
「……ふ、ははっ」
 こうやって軽口を言い合えるのが嬉しかった。
 母以外の人と笑い合ったのはいつぶりだろう。
 母が恋をして幸せオーラ前回な理由がよく分かる。この幸福感はくせになりそうだ。
 家族から得られるのとはまた違う幸せが恋愛にはあった。
 私から腕を放した宇上くんは、カウンターに転がっていたペンを取った。
「まぁでもサラはオスなんだけどね」
「へぇ。モフちゃんとアイちゃんは?」
「どっちもメスだね」
「じゃあ私が嫉妬すべきはその子たちか。アイちゃんとライバルになるのは気が引けるな」
「……なんでそんな可愛いこと言うの? 俺に勉強させる気ある?」
「学年末10位以内だったら……付き合う?」
「それ本当に今すぐじゃダメなんだ」
「さっきのはロマンチストの私に響かなかったからね」
「絶対10位に入るから。そしたら絶対付き合ってよ?」
 やっぱりムードが足りない。
 だけど、現実の恋愛なんてこんなものなのかな。
 私も、きっと宇上くんも、恋愛は初心者だから仕方ないか。
「いーよ。ほら頑張って、宇上くん」
「せめて名前だけでも……」
「宇上くんならできるよー。宇上くんはやればできる子ー、宇上くんかっこいー」
 私は棒読みでわざと宇上くんと連呼した。
 正直照れ隠しだ。
 宇上くんはそれ以上食い下がってくることはなく、拗ねたように唇を尖らせてワークを睨みつけていた。

ーー
 宇上くんは宣言通り学年末でギリギリ学年10位に食い込んだ。
「どーだ!」
 学校でも私に視線だけでやり切ったぞと訴えてきていた宇上くんは、図書館の定位置に着くなり私の目の前に成績表を掲げてきた。
「近すぎて見えないよ」
「ほらほら、日本史なんて100点なんだけど! 過去最高得点だよ!」
「ちょっと声大きいって」
「過去最高得点だよ!」
 吐息だけで喋るように言い直した宇上くんは、心底嬉しそうだった。
 学年27位の私を大幅に上回ってきた宇上くんは本当に急成長だった。
「学年順位聞きに行ったときも、かがやん先生に『惣ちゃんどうした』っていわれちゃった」
 うちの学校は、学年順位やクラス順位は担任に直接聞きに行かないと教えてもらえない。聞きに行かなくても、三者面談の時には教えてくれるけれど。
 でもあれは希望制だから三者面談もせず担任にも聞きに行かなければ、本当に知らないままだ。
 私は三者面談を希望しないから、直接担任に聞きに行って教えてもらった。先生に不愛想な態度を取るのは失礼だと分かっていても、だからと言って愛想よく訊ねることもできなかった。
 心苦しいけれど、こればかりは力と向き合と決めてもすぐには変えられない。自分も相手も傷つけないために、一番手っ取り早い方法であることは変わりないから。
「でさ、涼心」
「……はい」
 宇上くんは緊張した面持ちで私を見た。
 ごくりと彼の喉が動くのが分かった。
「その……」
 いつもあんなに恥ずかしげもなく恥ずかしいことを言ってのける宇上くんが緊張しているのがおかしくて、思わず吹き出してしまった。
「ちょ、今から真剣な話するのに……」
「付き合おっか、惣太郎くん」
「……えっ!」
 大きな声を出した宇上くんは、ここが図書館であることを思い出してか口を両手で塞いだ。
「ふ、ふふ……ははっ」
「笑いすぎでしょ……」
「だって……ふふ。驚きすぎでしょ」
「……涼心ってときどき妙に直球って言うか……。普段はすぐ照れてツンデレになるくせに」
 こういうかっこいいところはかっさらっていく、と不満そうに言われてしまった。
「嬉しくなかった?」
「嬉しいに決まってるじゃん。今とんでもなく心臓が痛いんだからっ」
 耳まで赤くなっている宇上くんが可愛く思えて笑ってしまった。
「さっきから笑いすぎ」
「ふふ、ごめん。私もちょっと、浮かれてるんだよ」
 それにやっぱり、恥ずかしいんだよ。
「もう……。……ねぇ、涼心。もう一回名前、呼んで」
 惣太郎くんの顔が目の前まで近づいてきた。
「……惣太郎くん」
 目のやり場に困りながら、吐息と一緒に彼の名前を呟く。
「涼心、好きだよ」
「……ちょ、人、いるから」
「大丈夫、近くにいない」
 恋愛小説で見たキスシーンは、みんな目を閉じていた。
 だけど、いざ自分がその立場に立ったら、目を閉じなくちゃと考える余裕もなかった。惣太郎くんもじっと私を見つめていた。
 軽く触れただけの唇は、私が目を閉じる間もなく離れていった。
 心臓がうるさい。
 ずっとうるさい。
 心臓が痛い。
「ごめっ、泣くほど嫌だった?」
「違くて。そうじゃなくて……嬉し、くて」
 恋焦がれていた恋愛を現実に自分ができることが嬉しくて、本当に私はこの人と両想いなんだって思えた。自分の力がどうとか気にならないくらい、彼といる時間が幸せだった。
「大丈夫だよ、涼心。『本物』だから。……好きだよ」
 不安になる前に伝えてくれる言葉が嬉しくて。
 事実として私は今惣太郎くんに大事にされていると実感できた。

ーー
 学年末が終わったら、終業式まであっという間だった。
 学校で惣太郎くんと話すことはなかったけれど、その分図書館では一緒に本を読んだり春休みの宿題を勧めたり、くだらない雑談をしたりと、同じ時間を共有していた。
 春休みにもきっと惣太郎くんと会うだろう。だけど約束をしているわけじゃないし、私だって毎日図書館に行くわけじゃない。母の買い物に付き合って荷物持ちをする日だってある。
 これは連絡先を交換するほうがいいんじゃないのか? それにほら……恋人、なんだし。
 自分で考えておいて顔が熱くなった。
 相変わらず絶好調な校長の長話を聞き流して終わった終業式の帰り道、私は自転車を押して歩いていた。
 教室に戻るまでの人ごみの中で、惣太郎くんが私に囁いたからだった。
『一緒帰ろ。先に帰ってて、追いかける』
 一緒帰ろ、の言い方が可愛くて、緩みそうになる顔を引き締めることに集中してる間に、惣太郎くんはクラスメイト達と先に進んでしまっていた。
 返事はできなかったけれど、歩いていればそのうち追いついてくるだろうかと思ってのんびり通学路を歩いていた。
「涼心、追いついた!」
 聞き覚えのある声がして足を止めて振り返った。
 立ち漕ぎで現れた惣太郎くんは、私の隣で急ブレーキをかけて自転車から下りた。
「惣太郎くんが先に帰ってても、私自転車で追いつけたのに」
「涼心そのままスルーして帰るじゃん」
「……まぁ」
 惣太郎くんは途中まで友達と帰っているみたいだし、邪魔しないようにと思って話しかけないのだけれど。
「今日は友達はよかったの?」
「用事があるから先に帰るって言ってきたから平気。あ、でも道は変えて帰ろ」
 惣太郎くんが指さした道を曲がる。そこは人通りのない住宅街だった。
 惣太郎くんは私の左隣を歩く。
「なんで今日は誘ってくれたの?」
「帰り道デート? してみたかったから」
「……ごめん。学校で話せなくて」
 きっと私は惣太郎くんにたくさん我慢をさせている。その中でも惣太郎くんはできそうなことを探して、今みたいに人通りのない道を歩いて帰ってくれている。
「我慢はお互い様。大丈夫、気にしないで」
 惣太郎くんはすぐに私を安心させる言葉をくれる。
「あ、そうそう、それでね。デートしたいなって」
「デートって言っても……」
「人があんまりいない公園とかどう? それかお家デート。あ、もちろん変なことは何もしない!」
 惣太郎くんは自分は無害ですと言いたげに両腕を上げた。
「……何もしないの?」
「……キスくらいしていいならしたい」
「……ごめん、今のは何もしないのに家でデート? って聞きたかったことにして」
 自分で聞いておきながら、恥ずかしさに耐えられなくなってそんなことを言った。冬だと言うのに顔が熱い。
「酷い、俺も男なんだよ涼心さん。もてあそばれた気分」
「ごめん……」
 チラッと惣太郎くんを見上げれば、惣太郎くんも真っ赤な顔でそっぽを向いていた。
「いいよ。……で、その、お家デートのことだけど」
「あ、うん」
 その話題まだ続けるんだ。
「家族が温泉旅行に行く日があって。もしよかったら、アイに会いに来ないかな……って」
 アイちゃんか。惣太郎くんから話を聞くことはあったけれど、いつも写真を見せてもらうだけであれ以来あっていなかった。元気にしているだろうけど、久しぶりに会いたいなと思った。
「いいの?」
「うん。あ、温泉旅行とか言ったけど、べつに泊まりに来てって意味ではなくて……」
「分かってる。言われても断る。恋愛初心者にそれはハードルが高すぎる」
「……うん。それと連絡先交換しない? 家にいるときも涼心と話したいなって思うから」
 惣太郎くんがコートのポケットからスマホを出した。
「うん。アイちゃんの写真送ってね」
 私はかごに入れていたスクールバッグからほとんど使われていないスマホを出した。
 メッセージアプリに母と祖父母以外の友達が初めて増えた。