体を折って泣き続けた私の背中を、宇上くんは遠慮がちに撫でてくれていた。
 ようやく私の嗚咽が落ち着いたころ、宇上くんは紺色のハンカチを差し出してくれた。
 それを首を横に振って断り、私は自分のスカートのポケットから少し皺になっている薄い水色のハンカチを取り出した。
 ずずっと鼻をすすって顔を上げる。きっと今の私は随分とブサイクなことだろう。
「……ごめん」
「いや、夕山は何も悪くないでしょ」
「私のせいなんだよ。全部」
 全部、こんな力があるせいだ。
「夕山……聞かせてくれないかな。俺を避けた理由と、『偽物』の意味」
 宇上くんは覚えていた。あの日私がうっかり口を滑らせてしまった言葉を。
 話すべきじゃない。話しても信じてもらえない。だけど今ここで話す以外に選択肢はない。
 後戻りできない場所に立ってしまったから。
「避けた、理由は……さっき言った、ことも、本当」
 私は宇上くんの靴を見下ろしながら、泣きすぎた発作で震える声で話し始めた。
「……私は、『人を、魅了する力』を……持ってる」
「『人を魅了する力』……?」
 宇上くんの声に頷く。
「自分の意思とは、関係、なく……相手を惹きつける、力。その力のせいで、小さいころから相手に恋愛感情を持たせてしまうことが、多かった。それは望んだ相手に限定できるもじゃなくて、誰彼構わず力が及んだ」
 少しずつ発作が落ち着き、話しやすくなってきた。
 宇上くんはずっと黙って話して聞いてくれているけれど、信じてくれているのは定かではない。
 頭がおかしいじゃないかという顔をされていたらと思うと、彼の靴を見ながら話す方が話しやすかった。
「私が小学生の時の話……。昔は、低学年くらいまでは、今よりずっと社交的だった。この力は性格がオープンな方が相手を魅了する力が強まるらしくて」
 幼い私は嫌われるより好かれる方がいいと思っていた。大事にされてるって思えるから。その方が私が気持ちいいから。
「私は無意識に、クラスメイトを魅了した。ある時他のクラスの女子と話をしていた時、1人のクラスメイトの男子に痛いくらいに腕を掴まれて、人気のない場所に引っ張って行かれた」
 宇上くんのように、腕を掴む力に加減なんてものはなかった。
 腕を折られてしまうんじゃないかと恐怖するほど、小学生にしては強い力だったように思う。
「その子は『今話してたの誰? なんで俺意外と話してるの?』って問い詰めながら、私にはさみを突き付けた。怖くて答えられないでいた私に苛立ったのか、その子ははさみを持った腕を振り上げて、私の顔めがけて振り下ろした」
 幸い刃先は頬を掠めただけで傷も浅くなかったし、痕も残らなかった。
 だけど怖くて怖くて泣きじゃくった。騒ぎを聞きつけた先生が駆けつけてくれて、暴れる男の子を抑え込んでくれた。私は病院に連れていかれて……親が学校に呼び出されて、相手の親にも謝罪されて。騒ぎがあった翌週には彼は転校して行った。
「好意というものが……人に好かれることがこんなにも怖いものなんだって、その時はじめて知った」
 その時は恋愛感情なんてよく分かってなくて、好きに種類があることも、愛情表現が人それぞれなことも知らなかった。
 もちろん嫉妬というものも知らなかった。
「でも、そうさせたのは私のせいだってことにあとから気づいた。その子はすごく反省して後悔して、私のいないところで私にずっと謝っていたって聞いた。私がその子を傷つけたんだって思った」
 だから私は、2度と誰かを傷つけないようにしようと思った。
「私は誰にも優しくせず、話もせず、不愛想に振舞うようにした。ほんの少しでも勘違いをさせてしまわないように」
「だから、いつも教室で……」
 彼の声を随分と久しぶりに聞いたような気がした。
 疑っているような声音ではなかった。私の話を信じているからこそ出てきた台詞なんだろうなと思った。
 私はようやく宇上くんの顔を見ることができた。
「……信じてくれるの?」
「信じるよ。疑ったりしない。夕山がなんなにアイに優しくしたのに、学校では素っ気ない態度でいるのか分かった。優しい夕山だから、その選択をしたんだよね」
 優しくない。私は人を傷つける最低な人。
 だけど、夕山くんの言葉に救われたような気になって、私はまた涙を零しそうになった。苦しんだのははさみを握ったあの子のほうなのに。
「私の力で、私のせいであの子は……。前に宇上くんが言ってた高橋くんのこともそう。あんなのは、私の力のせいで芽生えた感情だよ。だから、宇上くんのそれも……偽物だよ」
 自分で言って苦しくなった。
 偽物であってほしくないと、私が一番望んでいるのだから。
「他にも、私のせいで奪った幸せがある。私のせいで壊れてしまった人がいる」
 私のせいで母は父と離婚をした。父を壊してしまったのも私だ。
 人を魅了する大きすぎる力は、人の心を壊してしまう。
 私から大事なものを奪ってしまう。
 守るためには、手放すしかない。
「私がいない方が幸せになれる人がいる」
 私がいなければ母は父と今でも上手くやれていたかもしれない。
 今いなくなったとしても、彼氏を関係を深めることや再婚を考えることができるかもしれない。
「私がいなければ、最初から壊れなかった人がいる」
 私は掠れる声で絞り出す。
「やめて。言わないでそんなこと」
 視界が暗くなり、顔を何かに押し付けられた。いい匂いがする。何をされたのか分からなかった。
「夕山と出会って新しいことを知れた人がここにいる」
 耳元で宇上くんの声が聞こえた。
 私は宇上くんに抱き寄せられていた。
「え……」
「言ったでしょ。俺は恋愛に興味がなかったって。俺には夕山みたいに人を魅了する力はないけど、この容姿のせいか好意を向けられることは何度かあった。でも、小学……4年くらいの時かな。まだそこまで恋愛に興味がなかった俺を、2人の女子が取り合った。近所に住んでる幼馴染で、学校から帰っても一緒に遊ぶことが多かったから、他の女子よりも仲はよかったと思う。でもそこの子たちは自分が俺の一番になりたかったみたいで」
 押し付けられる腕から何とか顔を上げれば、宇上くんは苦虫を嚙みつぶしたような顔をしていた。
「『惣ちゃんはわたしのもの』って言って左右から腕を引っ張られた。夕山みたいに怪我したり大ごとになったりはしてないけど、ただ面倒だなって思った。恋愛なんて面倒だって。それで一層恋愛事への興味がなくなった」
 宇上くんも容姿がいいと言うだけで、苦労があったようだ。恋愛事で苦労があったのは、私と少し似ているのかもしれない。
「でもさ、夕山に出会って価値観が変わった。すごく美人な隣の席の人が、近寄りがたい存在で。高嶺の花扱いなのかなと思えば、声をかけても無視をする冷酷な人って言われてて。なんか気になったんだよね。人と距離を置くみたいに素っ気ない態度を取るのに、猫にはすごく優しく微笑んでるのを見たとき、初めてドキッとした。次は図書館で本を読んでいるときの楽しそうな顔を見たとき」
 宇上くんはその時のことを思い出しているのか、クスクスと笑った。
 宇上くんは私の体を離すと、私目線を合わせるように顔を近づけてきた。
「俺は夕山と出会えてよかったよ。いろんな本を読めたし、成績も上がったし、恋が楽しいっていうのも知れた。夕山に興味をもったきっかけはその力のせいかもしれないけど、夕山をもっと知りたくて話しかけてたのは俺の意思だよ」
 宇上くんは真っ直ぐに私を見つめて言った。
 ふわりと息を吐き出して困ったように笑った宇上くんは、掠れて消えてしまいそうな声で続けた。
「だから、『偽物』だなんていわないで」
 切実な響きがだった。
 宇上くんの気持ちは分かったけれど、それでも私には彼の言葉を信じていいのか分からなかった。
 母に男の人を見る目がない以上に、私はもっと人を見る目がない。人と関わることを避けてきた分、人との付き合い方は下手だろうし見る目も養われていない。
 信じたい。
 信じていいのか分からない。
 偽物だなんて思いたくない。
 嘘の感情だなんて思いたくない。
「……少しだけ、時間をちょうだい」
「いいよ。待ってる。でもせめて、図書館には来て欲しい。そしたら今回みたいに学校で無理やり話そうとはしないから」
「……」
「返事は?」
 すぐに答えられなかった私に、宇上くんは拗ねたような声できく。
「……ふふ、分かった」
 彼のころころと変わる表情がおかしくて、小さく笑った。
「本当に分かってる?」と唇を尖らせる彼が可愛くて、好きが溢れて苦しかった。
 だけど今までみたいに心臓を潰されそうな苦しさじゃなくて、幸せも感じる苦しさだった。
 ちゃんと考えるから、少しだけ時間をください。
「ちゃんと話してくれて、俺の話も聞いてくれてありがとう、夕山」
「……うん」