周りからは、大学進学に決めたとか、専門学校に行くとか、就職一択だわというような声が聞こえ始めた。
 まだ2年だけれど、大雑把な道を決めている人は多いようだ。
 私はどちらの方がいいだろう。
 就職をするにしても大学に行くにしても、お金は必要になる。
 母は私に選択を委ねてくれているけれど、大学に行ってほしそうではあった。
 そういえば、母は高卒で結婚して私を生んだんだっけ。卒業とほとんど同時に妊娠が発覚して……できちゃった婚だったと聞いたことがある。
 自分が大学に行けなかった分、私に行ってほしいと言う気持ちもあるんだろうな。
 大学に興味がないわけでないし、とりあえずオープンキャンパスや説明会などを聞きに行ってみるというのもありかな。大学に天秤が傾けば、本格的にそっちに向かって進めばいい。
 一応受験勉強はするとして。自分でも大学について調べてみようか。
 宇上くんから逃げた先のトイレでそんなことを考える。
「はぁ……」
 私が気を抜かずに不愛想で無反応で冷酷な人間でいれたなら、今回のようなことにはならなかっただろう。
 まぁ、本当にただの私の勘違いな可能性もあるから、あの時点でちゃんと話を聞かなかったことも後悔しているのだけど。
 大学に行くにしても、こういうところは徹底しておいた方がいいかもしれない。
 予鈴が聞こえて、使ってもいないトイレの水を流して個室を出る。誰もいなかったけど、もし個室にこもったきり出てこない様子を誰かに見られていたら、最近の夕山はお腹が弱い、なんて噂を流されかねない。それはそれで恥ずかしいから自分の想像でもやめてほしい。
 わざとゆっくり廊下を歩き、本鈴とほぼ同時に教室に入った。
 いつもなら同じくらいのタイミングで次の教科の先生が入ってくるのだけれど、今回に限っては先生が盛大に遅刻をしているようだった。
 授業開始から3分が経っても誰も入って来ず、教室がざわめく。
「かがやんもしかして授業忘れてない?」
「朝はいたから欠席じゃないよね」
「俺ちょっと職員室見てくるわ」
「よろしく~」
 1人が代表して教室を出て行った。
 クラスメイト達は近くの友達と雑談をして時間を潰していた。
 それを狙ったのは宇上くんも同じだったようだ。
「最近ずっとどこ行ってるの」
 久しぶりに聞いた宇上くんの声は、今までと同じくらいに穏やかだった。
 あの日のことを怒っている風ではなく、純粋な疑問が声に滲んでいた。
 答えるかどうか悩んでいるうちに、私は彼を無視しているような状態になった。
「夕山、俺、どうしても……」
 宇上くんが何かを言いかけたとき、廊下からバタバタと騒がしい足音が聞こえ、すぐに教室のドアが開けられた。
「いやぁすまん! 完全に忘れてた!」
 先生と先生を呼びに行っていた男子生徒が戻ってきた。
「そんなときもあるって、ドンマイかがやん」
「お詫びに今日の小テストは免除!」
「うおぉぉ!」
「キタコレ!」
「さすがかがやん! 太っ腹!」
 みんなが歓声をあげる中、先生は授業の準備を始めた。
 数学の小テストとは案外嫌われものだ。それが免除されただけでこんなにも喜ばれる。
 私だって喜んでいないわけではない。宇上くんとの会話を免れたことにもほっとしている。
「……」
 宇上くんは後ろ髪を引かれる思いなのか、未練たらしく私を見る視線を感じた。
「……」
 私は無言で授業が始まった黒板を見ていた。

 鬼ごっこの終わりは突然だった。
 今日私に話しかけたことで決心が付いたのか、彼は放課後の駐輪場で私を待ち伏せていた。
 よく見れば彼が立っているのは私の自転車がある場所だ。
 宇上くんは腕組みをして自転車の持ち主が来るのを待っている。
 その様子を何事かと見やる生徒の視線も、一切気にした風もない。
 腹をくくる時かもしれない。いや、まだもう少し時間が欲しい。
 彼の真意を聞く勇気がない。
 だって、あれが……あの『好き』の対象がもしも万が一億が一……私だったなら……。
 彼の偽物の恋愛感情なんてほしくない。今一番望まないものだ。
 理由なんて決まっている。そんなのは簡単だ。
 私が彼に、宇上くんに――

 ……魅かれているのだから。

 嫌だ。彼の口から私への好意なんて聞きたくない。
 そんなもの、いらない。
 何よりも本物であって欲しいから。
 だけど対象が彼が読んでいた本に向けてだったなら、勘違いをして彼を避け続けた私は謝らなければいけない。誠心誠意、頭を下げるべきだ。
「夕山」
 いつの間にか私の自転車の前に立っていた宇上くんが私の目の前に立っていた。
「……」
 聞きたくない。
 逃げようとして踵を返した私の腕を、彼はしっかりと捕まえた。
 鬼に捕まってしまった。これはタッチされたら鬼が入れ替わる鬼ごっこじゃなくて、ドロケイ、ケイドロなんて言われる遊びの方が近い気がする。捕まったら牢屋に入る。友達が助けてくれれば脱走できるけれど、生憎と私にはそんな友達なんていやしない。
 捕まったらそこでゲームセットだ。
「来て」
 怒っている。
 私の腕を掴む宇上くんの手はそれほど力が強いわけではなかったけれど、すっかり戦意喪失した私は逃げる気すら起きなかった。
 手錠をかけられた泥棒のように素直に宇上くんのあとをついて歩いた。
 チラチラと私たちを見る視線を感じたが、私はいつものように気を引き締めた冷めた表情を浮かべる余裕はなく、諦めの無表情で視線を潜り抜けた。
 人通りの少ない校舎裏まで来た宇上くんは、私に逃げる気がないと悟ったのか腕を放してくれた。
「夕山が俺を避けてたのは知ってる。その理由も。……あのことでしょ。それについて話がしたい。年末年始の休館日は仕方ないにしても、年が明けても図書館に来ないし、学校でも休み時間になったらすぐにどっか行くしで全然話せなかったから強硬手段に出させてもらったよ」
 宇上くんの行動理由はちゃんとわかっている。
 最終手段で私の自転車の前で待機する理由もちゃんと理解している。
 なんどか門の前で待ち伏せされていたのを、私が爆走して通り過ぎたことがあるせいだろう。その時に私の自転車を覚えたのだろうし。
「ちゃんと話させて、あの時のこと。ちゃんと聞かせて、俺を避けた理由。お願い」
 宇上くんの顔を見れない。
 もう彼の声に怒りはこもっていないけれど、彼がどんな顔をして私を見ているのか知るのが怖かった。
 いっそ私の方から誤解を解きに行った方が早いんじゃないだろうか。
 そう思った私は、先手必勝とばかりに口を開いた。
「ごめん、私が勘違いしたの。宇上くんはあの時、読んだ本が好きって意味ってああ言ったんだよね。それなのに一瞬でも、その……誤解した自分が恥ずかしくていたたまれなくなって逃げた。最低な態度を取ったと思う。本当にごめんね。それじゃあね」
 今までにないくらい宇上くんに長台詞を言い切ったのに、踵を返そうとした私の腕はまたも簡単に捕まった。
「それ、俺の目を見て言って。俺の第二ボタン見下ろしながら話さないで」
 視線がいい感じにここになるんだよ、と返せる雰囲気ではなかった。
「それに言ったでしょ。ちゃんと話させて、ちゃんと聞かせてって。それはちゃんと、じゃないよね」
 返す言葉もない。
 私の沈黙を肯定を受け取ったらしい宇上くんは、「じゃあ俺から話すね」と口火を切った。
 その前に腕を放してほしいのだけれど、それを言える雰囲気でもない。振り切ろうと思えば振り切れそうなほど優しい力。だけど本当にそうしようものなら、彼は私が逃げようとする前に腕を握る力を強めるだろう。
 逃げられそうに見えて絶対に逃げられない。宇上刑事はとても聡明らしい。間抜けな泥棒は手も足も出ない。
「俺が言ったあの『好き』っていうのは……」
 やめて、それ以上言わないで。聞きたくない。聞きたくない!
「やめて……言わないで」
 震えた声がこぼれた。
「聞いて、ちゃんと。お願い夕山」
「いや、だ……」
 目に涙がたまる。今ならまだ耐えられる。だから言わないで。
「あれは」
 言わないで!
「おねが……いわな、で……」
 今更ながらに彼を見上げて懇願した。
「夕山に言った言葉だよ」
 頬を赤らめていた宇上くんは、無情にも最後まで口にしてしまった。
「……っ」
 耐えられなかった私の涙が頬を伝った。
 最悪だ。
 聞きたくなかった。知らないままでいた方がどれだけよかったか。
 本に対して言ったことだという想像が、現実逃避が、こんなにも一瞬で壊されてしまった。
「……なん、で……なんで、そんなこと言うの!」
 恋愛に興味はないんじゃなかったの?
 やっぱりあれは……『興味はなかった』という過去形でしかないの?
 言われたくなかった。最後まで言われたくなかった。
 私は宇上くんに捕まれている腕だけを残してその場に崩れ落ちた。
「う……ぁ……」
 涙が止まらない。
 宇上くんがしゃがむのが分かった。遅れて降ろしてくれた私の腕を、宇上くんはそっとスカートの上に置いた。
「夕山。聞かせて。今度は夕山が話して。そこまで俺の告白を避けた理由。お願い」
 私は両手で顔を覆う。
 声を押し殺して泣く。
 話せる状況じゃなかった。
 好きな人からの告白がこんなにも嬉しくて、こんなにも悔しい。
 ときめきと後悔と切なさと悔しさで心臓が今にも絞り切られそうだった。
 痛い。痛いよ。恋って、こんなにも痛んだね、お母さん。
「……ぅ、あ、うぅ……っ」
「夕山」
「ふ、うぅ、うぁ……うっ」
 宇上くんが私に話しかけるたびに、堪えきれない嗚咽が漏れる。
 やっぱり、いないんだ。私の力が及ばない人なんて。
 無念さと絶望が押し寄せる。
「う、あぁ、ああぁあぁぁぁあぁぁ……っ!」
 押し殺そうとしても溢れる嗚咽は、最後には声になることも許されずに透明になって消えた。