『涼心には人を魅了する力があるの』
『みりょう……?』
『みんな涼心を好きになるのよ。だけど、しっかり相手を見極めないとダメよ』
ーー
部屋の外から慌ただしく廊下を走る音が聞こえて目が覚めた。
何か夢を見ていたような気がするけれど、どんな夢を見ていたのかさっぱり思い出せない。いい夢だったのか、悪い夢だったのかすら覚えていない。
「あぁどうしよう遅刻しちゃうわ! でもこっちもいいしあっちもいいし……」
部屋の外で母の声が聞こえ、私はのっそりとベッドから下りた。
眠たい目をこすって部屋の壁掛け時計に視線をやれば、10時45分を過ぎていた。
遮光カーテンの隙間からは刺すような光が床に線を引いている。
「おかーさん?」
部屋のドアを開けて、掠れた声で母を呼ぶ。
玄関にいた母は、パステルグリーンの薄手の長袖ワンピースを身に纏っていた。染められている明るいミルクティー色の髪は、緩くきれいに巻かれていた。
「あら、涼心。やっと起きたのね。土曜日だからって遅くまで寝てるとよくないわよ」
「……ん。お母さん、どっか行くの?」
睡魔に襲われて頭を揺らしながら、外行き用の鞄を傍らに置いている母に訊ねる。
「そうなの、お母さんこれからデートなの! ふふ、楽しみだわ。あぁでも、晩ご飯までには帰ってくるからね」
「……食べて来ればいいのに」
いつもより少し遅れて反応する私に、母は苦笑いをした。
「優しいわね、涼心は。もし食べてくることになったら連絡するわね。一応お昼用にテーブルにお金は置いてあるから」
「……ん」
「あぁそれでね、このワンピースに合う靴ってどっちだと思う? パンプス? それともフラットサンダルの方が似合うかしら?」
母は左手に白のストラップサンダルを持ち、右手に白のフラットサンダルを持って掲げた。
私は壁に体を擦りつけながら廊下を歩き、玄関で頭を悩ませている母に近づいた。
近くで見た母はメイクを施し、どこからどう見ても恋する乙女そのものだった。
「どっちも、似合う。歩くなら、フラットの方がいいんじゃない? ……ふあ」
「それもそうね。じゃあフラットにしましょう」
母は両手に持っていたサンダルを下ろし、右手に持っていたシンプルなフラットサンダルに足を通した。
サンダルをはきながら母は私に話題を振った。
「涼心、また遅くまで小説を読んでいたの?」
「うん。……今日返さないといけない本がまだ読めてなくて」
「恋愛小説?」
「そうだけど」
母と話しているうちに、だんだんと目が覚めてくる。
さっきよりもスムーズに返事ができるようになっていた。
「面白い本があったら、お母さんにも教えて。読んでみたいわ」
「昨日読んでたのは面白かった。映画にもなってるから、タイトルくらい知ってるかも」
「あら、じゃあ帰ってきたら教えてね」
「うん」
サンダルをはいた母が、鞄を持って立ち上がる。
髪を手櫛で梳かし、ワンピースを整える。
「似合ってる?」
「似合ってる。いいと思う。変なとこもないよ」
「本当?」
母が体を左右に捻って、後ろにも変なところがないか見せてくる。
露出が多いわけでもなく、清潔感があって美人な母がより可愛らしく見えた。
「うん。本当。デート、楽しんできてね」
「えぇ。行ってきます!」
はにかむような笑みを浮かべた母は、楽しみオーラを纏ってアパートを出て行った。
手を振って母を見送った私は、ゆっくりと閉まった玄関ドアの鍵をかけて部屋に戻った。
随分と眠気も消え、さっきまでより意識がはっきりしていた。
薄手のパジャマから半袖シャツとジャージの長ズボンに着替えてパーカーを羽織った。
去年は夏休みが開けて少し経てば肌寒くなっていた気がするけれど、今年はなぜか10月になっても昼間はまだ暑い。朝と晩はひんやりとする分、服装選びに困る日が続いていた。
顔を洗ってさらに目を覚ました私は、キッチンに向かった。
図ったようにぐぅぅとお腹が鳴り、空腹を訴えてきた。
食パンを焼いてジャムを塗り、果汁100%のオレンジジュースと一緒にお腹に収めた。
「ふぅ。ごちそうさまでした」
満たされたお腹を撫でながら、今日の予定に思いを馳せる。
とりあえず図書館は絶対に行く。返却期限が今日だし、次の小説も借りたい。お昼ご飯は適当にコンビニで買ってくるとして……あとは英語の宿題をやらないといけないくらいだろうか。
思いのほかやることのない土曜日に小さく息を吐き出す。
図書館にいれば一日なんてあっという間に過ぎる。英語の宿題は帰って来てからでもいいし、なんなら明日片付けるのでもいいか。
部活には入っているけれど、文芸部は土日に活動はしていない。バイトもやっていない私は基本的に休日は時間がある。
さっそく食べた食器を片付けるために立ち上がり、出かける支度を始めた。
ーー
図書館は程よく涼しかった。
家を出たのは11時過ぎで、歩いて10分程度の図書館に行くだけでじんわりとした熱が服の中にこもっていた。半袖に長袖の羽織ものでは、昼間はまだ暑いかもしれない。
図書館に数分いただけで、体の熱は引いていった。
カウンターで借りていた本を返し、私は迷うことなく日本文学コーナーに足を向けた。
文芸部に入っているけれど、私が小説を書くことはない。あくまで読むだけだ。そんなことだから、わざわざ私が部室にいる意味というのもなくて、平日でも部室に顔を出す日は少ない。幽霊部員と言われても仕方がないような存在だ。
文芸部の本棚の小説を借りるためだけに顔を出しているようなものだった。あの部室はもはや図書館の扱いとあまり変わらないけれど、1年の間にほとんどの本を読み切った私はそうそう部室には寄り付かなくなっていた。
私が借りる本はもっぱら恋愛小説だ。
恋をする母がとても魅力的に見える私だけど、自分が恋愛をできる人間だとは思っていない。恋に恋をしているだけで、自分から一歩踏み出すようなことはしない。そもそも恋人以前に友達すらいないのだから、そんな人間に恋愛なんてハードルが高すぎる。
だけどやっぱり恋に憧れはある。
デートに行くために着飾る母は、生命力にあふれていて、幸せそうで、恋する乙女で……。そんな姿を見てきた私は、そんな母を羨ましく思っていた。
恋愛小説は、私ができない恋を主人公たちが代わりに叶えてくれる。
私はそれを読んでいるだけでいい。
だけど、恋愛小説を読めば読むほど恋に焦がれる気持ちが膨らむのもまた事実……。複雑なところだ。
そんな自分に苦笑いを零しながら、本棚からハードカバーの恋愛小説を引き抜いた。
数時間後、8冊の恋愛小説を探し出してさらに1冊の本を図書館で読み切った私は、本を借りる手続きをして図書館を出た。
朝が遅かったから昼時にはお腹が空かなかったけれど、3時ともなればさすがに空腹にもなる。
コンビニでご飯を買うか、いっそおやつ程度に留めておいて、晩ご飯のために少しでもお腹を空かせておくか悩むところだ。
そういえば母は晩ご飯をどうするつもりだろうかと、通知の切っていたスマホを肩掛け鞄から取り出した。
〈晩ご飯は食べて帰ります。家にあるものは何でも食べていいからね〉
デートは上手くいっているようだ。
出かけるときの幸せそうな母の笑顔を思い出すと、嬉しくなって自然と笑みがこぼれた。
その瞬間、さっきまであまり気にならなかった視線を感じた。
少しだけ顔を上げて辺りを見渡せば、近くにいた人たちの目が私に向いていた。
気のせいなんかじゃない。自意識過剰なんかでもない。
昔から、私は人の注目を集めてしまうのだ。
私に視線を向ける老若男女は、ほんのりと頬を染めて私を見ていた。
私は表情を引き締め、〈分かった。デート楽しんで〉と短いメッセージを母に送ってその場を離れた。
ーー
私には父がいない。
物心つく前からいなかったから、特別寂しいと思ったことはない。
それをおかしいと言う人も周りにはいなかったから、嫌な思いに会ったこともない。
だけど、やっぱり父がいないことが気になることくらいはあって、それを母に話したこともある。
母は父について苦い顔をしながら、渋々と言う感じではあったけれど話してくれたことがあった。
それは私と母の「力」にも関係することだったから。
母は私に、幼いころから私たちには「人を魅了する力」があるのだと話していた。
確かに母は美人だ。母に似ているとよく言われる私も、言ってしまえば顔立ちは整っている方だと思う。それを鼻にかけているわけでは全くないのだけれど。
だけど、私たちの力は容姿の問題ではないらしい。
母の家系に受け継がれている力らしいのだけれど、「人を魅了する力」というのは「相手に恋愛感情を抱かせる力」と言い換えてもいい。どんな態度を取っても相手に好意を抱かせてしまう。自分が望んでも望んでいなくても、相手に恋愛感情を芽生えさせてしまう。
ただ昔は……お見合い、政略結婚なんかをしている時代はその「力」が役に立ったのだそうだ。縁談は必ず上手くいくのだから。
とはいえ今時そんな縁談は多くはないだろう。
母だって恋愛結婚をしたと言うのだから。
「人を魅了する力」は、性格がオープンな人ほど相手に及ぼす力は大きいらしい。それは私も身をもって体験したことがある。
反対にあまり社交的でなければ、その「力」は弱まる。完全になくなるというわけではないから、多少は魅了してしまうことになるけれど。
老若男女関係なく人を魅了してしまう力は、ある意味人から狙われやすいという難点もある。そこは自分の身はしっかりと守らなければいけない。
そんな力を、曾祖母も祖父も母も私も受け継いでしまった。
母は昔から恋愛体質で、むしろ母の方が魅了する力を使われているのでは、と言うほどにころっと恋に落ちてしまうタイプだった。少し優しくされたり、相手と趣味があったり、目が合って微笑まれただけだったり……。そんな些細なことで恋に落ちるようなタイプ。そんなの些細な優しさはただの勘違いだと言われたところで、母には「人を魅了する力」がある。相手を落とすことだって簡単なことだった。
もちろん自分の意思でコントロールできる力ではないから、母が意図して相手を落としていたということはない。それでも、朗らかな性格だった母を好きになる人は大勢いた。
そんな中で、母は将来私の父になる人と出会った。
優しく真面目で、仕事が出来る年上の相手。母はその男性に恋をして、結婚をして、お互いに愛し合って子どもを授かった。
この「力」の欠点というのかなんなのか、子どもができると自然とその力は弱まってしまうらしい。
ここでも完全に消えると言うわけではなくて、付き合いがしやすい程度の好感度を持たせるくらいの「力」が発動する。恋愛には発展しないくらいには相手を魅了するのだ。
不倫なんかをしないために「力」が弱まっているのかは定かではないけれど。そして力が弱まると言うのは、夫相手にも起こることだった。
母は変わらず夫を愛していたが、夫は……父は以前より母を思う気持ちが薄れていた。
しかし私も母の子だ。すでに「人を魅了する力」は備わっていた。赤ちゃんなんて四六時中一緒にいる親は大変な思いをすることがあったとしても、基本的には何もしなくても人に可愛がられることが多い存在だ。そんな赤ちゃんの私が発する力は随分と強かったみたいだ。
父は私を誰にも触らせたくない、誰にも渡さない、自分のもの、という感情で囲うようになった。このままではダメだと思った母は、父と離婚した。
そしてこれは祖父から聞いた話だけれど、私は母よりこの「力」が強いみたいだ。母は赤ちゃんの頃でも祖母をそこまで魅了するようなことはなかったと言っていた。
私は自分の「力」のせいで母から愛する人を奪ってしまったのかと今でも考えることがある。母は気にすることはないと言ってくれるけれど、まったく気にしないなんてできっこない。
そんな私のことをずっと育ててくれている母には感謝しているし、幸せになってほしいとも思っている。
だけど、どうも母は男運がないらしい。魅了する力で母に落ちたような人は、母としばらくいると本性が露わになる。浮気が発覚したり、既婚者であることが発覚したり。
一度相手が詐欺師だった時はさすがに母の男運のなさを哀れに思った。
お金を借りようとした男の要求を母が断ったら豹変したのだ。
相手がクズだと分かったときはいつもは母は落ち込み、泣いてボロボロになる。それでも恋愛体質の母は恋することをやめないし、人を信じることも諦めない。
母はずっと自分が一人の女性でいることを望んでいるらしい。そんな母に呆れることがないとは言わない。けれど、羨ましくもあった。
きっと母も恋に恋をしているところがあるのだと思う。もっと、普通の恋がしたいと思っているんじゃないかと思う。
だって、私がそうだから。
だけど私は母のように、恋に積極的にはなれそうにない。
『みりょう……?』
『みんな涼心を好きになるのよ。だけど、しっかり相手を見極めないとダメよ』
ーー
部屋の外から慌ただしく廊下を走る音が聞こえて目が覚めた。
何か夢を見ていたような気がするけれど、どんな夢を見ていたのかさっぱり思い出せない。いい夢だったのか、悪い夢だったのかすら覚えていない。
「あぁどうしよう遅刻しちゃうわ! でもこっちもいいしあっちもいいし……」
部屋の外で母の声が聞こえ、私はのっそりとベッドから下りた。
眠たい目をこすって部屋の壁掛け時計に視線をやれば、10時45分を過ぎていた。
遮光カーテンの隙間からは刺すような光が床に線を引いている。
「おかーさん?」
部屋のドアを開けて、掠れた声で母を呼ぶ。
玄関にいた母は、パステルグリーンの薄手の長袖ワンピースを身に纏っていた。染められている明るいミルクティー色の髪は、緩くきれいに巻かれていた。
「あら、涼心。やっと起きたのね。土曜日だからって遅くまで寝てるとよくないわよ」
「……ん。お母さん、どっか行くの?」
睡魔に襲われて頭を揺らしながら、外行き用の鞄を傍らに置いている母に訊ねる。
「そうなの、お母さんこれからデートなの! ふふ、楽しみだわ。あぁでも、晩ご飯までには帰ってくるからね」
「……食べて来ればいいのに」
いつもより少し遅れて反応する私に、母は苦笑いをした。
「優しいわね、涼心は。もし食べてくることになったら連絡するわね。一応お昼用にテーブルにお金は置いてあるから」
「……ん」
「あぁそれでね、このワンピースに合う靴ってどっちだと思う? パンプス? それともフラットサンダルの方が似合うかしら?」
母は左手に白のストラップサンダルを持ち、右手に白のフラットサンダルを持って掲げた。
私は壁に体を擦りつけながら廊下を歩き、玄関で頭を悩ませている母に近づいた。
近くで見た母はメイクを施し、どこからどう見ても恋する乙女そのものだった。
「どっちも、似合う。歩くなら、フラットの方がいいんじゃない? ……ふあ」
「それもそうね。じゃあフラットにしましょう」
母は両手に持っていたサンダルを下ろし、右手に持っていたシンプルなフラットサンダルに足を通した。
サンダルをはきながら母は私に話題を振った。
「涼心、また遅くまで小説を読んでいたの?」
「うん。……今日返さないといけない本がまだ読めてなくて」
「恋愛小説?」
「そうだけど」
母と話しているうちに、だんだんと目が覚めてくる。
さっきよりもスムーズに返事ができるようになっていた。
「面白い本があったら、お母さんにも教えて。読んでみたいわ」
「昨日読んでたのは面白かった。映画にもなってるから、タイトルくらい知ってるかも」
「あら、じゃあ帰ってきたら教えてね」
「うん」
サンダルをはいた母が、鞄を持って立ち上がる。
髪を手櫛で梳かし、ワンピースを整える。
「似合ってる?」
「似合ってる。いいと思う。変なとこもないよ」
「本当?」
母が体を左右に捻って、後ろにも変なところがないか見せてくる。
露出が多いわけでもなく、清潔感があって美人な母がより可愛らしく見えた。
「うん。本当。デート、楽しんできてね」
「えぇ。行ってきます!」
はにかむような笑みを浮かべた母は、楽しみオーラを纏ってアパートを出て行った。
手を振って母を見送った私は、ゆっくりと閉まった玄関ドアの鍵をかけて部屋に戻った。
随分と眠気も消え、さっきまでより意識がはっきりしていた。
薄手のパジャマから半袖シャツとジャージの長ズボンに着替えてパーカーを羽織った。
去年は夏休みが開けて少し経てば肌寒くなっていた気がするけれど、今年はなぜか10月になっても昼間はまだ暑い。朝と晩はひんやりとする分、服装選びに困る日が続いていた。
顔を洗ってさらに目を覚ました私は、キッチンに向かった。
図ったようにぐぅぅとお腹が鳴り、空腹を訴えてきた。
食パンを焼いてジャムを塗り、果汁100%のオレンジジュースと一緒にお腹に収めた。
「ふぅ。ごちそうさまでした」
満たされたお腹を撫でながら、今日の予定に思いを馳せる。
とりあえず図書館は絶対に行く。返却期限が今日だし、次の小説も借りたい。お昼ご飯は適当にコンビニで買ってくるとして……あとは英語の宿題をやらないといけないくらいだろうか。
思いのほかやることのない土曜日に小さく息を吐き出す。
図書館にいれば一日なんてあっという間に過ぎる。英語の宿題は帰って来てからでもいいし、なんなら明日片付けるのでもいいか。
部活には入っているけれど、文芸部は土日に活動はしていない。バイトもやっていない私は基本的に休日は時間がある。
さっそく食べた食器を片付けるために立ち上がり、出かける支度を始めた。
ーー
図書館は程よく涼しかった。
家を出たのは11時過ぎで、歩いて10分程度の図書館に行くだけでじんわりとした熱が服の中にこもっていた。半袖に長袖の羽織ものでは、昼間はまだ暑いかもしれない。
図書館に数分いただけで、体の熱は引いていった。
カウンターで借りていた本を返し、私は迷うことなく日本文学コーナーに足を向けた。
文芸部に入っているけれど、私が小説を書くことはない。あくまで読むだけだ。そんなことだから、わざわざ私が部室にいる意味というのもなくて、平日でも部室に顔を出す日は少ない。幽霊部員と言われても仕方がないような存在だ。
文芸部の本棚の小説を借りるためだけに顔を出しているようなものだった。あの部室はもはや図書館の扱いとあまり変わらないけれど、1年の間にほとんどの本を読み切った私はそうそう部室には寄り付かなくなっていた。
私が借りる本はもっぱら恋愛小説だ。
恋をする母がとても魅力的に見える私だけど、自分が恋愛をできる人間だとは思っていない。恋に恋をしているだけで、自分から一歩踏み出すようなことはしない。そもそも恋人以前に友達すらいないのだから、そんな人間に恋愛なんてハードルが高すぎる。
だけどやっぱり恋に憧れはある。
デートに行くために着飾る母は、生命力にあふれていて、幸せそうで、恋する乙女で……。そんな姿を見てきた私は、そんな母を羨ましく思っていた。
恋愛小説は、私ができない恋を主人公たちが代わりに叶えてくれる。
私はそれを読んでいるだけでいい。
だけど、恋愛小説を読めば読むほど恋に焦がれる気持ちが膨らむのもまた事実……。複雑なところだ。
そんな自分に苦笑いを零しながら、本棚からハードカバーの恋愛小説を引き抜いた。
数時間後、8冊の恋愛小説を探し出してさらに1冊の本を図書館で読み切った私は、本を借りる手続きをして図書館を出た。
朝が遅かったから昼時にはお腹が空かなかったけれど、3時ともなればさすがに空腹にもなる。
コンビニでご飯を買うか、いっそおやつ程度に留めておいて、晩ご飯のために少しでもお腹を空かせておくか悩むところだ。
そういえば母は晩ご飯をどうするつもりだろうかと、通知の切っていたスマホを肩掛け鞄から取り出した。
〈晩ご飯は食べて帰ります。家にあるものは何でも食べていいからね〉
デートは上手くいっているようだ。
出かけるときの幸せそうな母の笑顔を思い出すと、嬉しくなって自然と笑みがこぼれた。
その瞬間、さっきまであまり気にならなかった視線を感じた。
少しだけ顔を上げて辺りを見渡せば、近くにいた人たちの目が私に向いていた。
気のせいなんかじゃない。自意識過剰なんかでもない。
昔から、私は人の注目を集めてしまうのだ。
私に視線を向ける老若男女は、ほんのりと頬を染めて私を見ていた。
私は表情を引き締め、〈分かった。デート楽しんで〉と短いメッセージを母に送ってその場を離れた。
ーー
私には父がいない。
物心つく前からいなかったから、特別寂しいと思ったことはない。
それをおかしいと言う人も周りにはいなかったから、嫌な思いに会ったこともない。
だけど、やっぱり父がいないことが気になることくらいはあって、それを母に話したこともある。
母は父について苦い顔をしながら、渋々と言う感じではあったけれど話してくれたことがあった。
それは私と母の「力」にも関係することだったから。
母は私に、幼いころから私たちには「人を魅了する力」があるのだと話していた。
確かに母は美人だ。母に似ているとよく言われる私も、言ってしまえば顔立ちは整っている方だと思う。それを鼻にかけているわけでは全くないのだけれど。
だけど、私たちの力は容姿の問題ではないらしい。
母の家系に受け継がれている力らしいのだけれど、「人を魅了する力」というのは「相手に恋愛感情を抱かせる力」と言い換えてもいい。どんな態度を取っても相手に好意を抱かせてしまう。自分が望んでも望んでいなくても、相手に恋愛感情を芽生えさせてしまう。
ただ昔は……お見合い、政略結婚なんかをしている時代はその「力」が役に立ったのだそうだ。縁談は必ず上手くいくのだから。
とはいえ今時そんな縁談は多くはないだろう。
母だって恋愛結婚をしたと言うのだから。
「人を魅了する力」は、性格がオープンな人ほど相手に及ぼす力は大きいらしい。それは私も身をもって体験したことがある。
反対にあまり社交的でなければ、その「力」は弱まる。完全になくなるというわけではないから、多少は魅了してしまうことになるけれど。
老若男女関係なく人を魅了してしまう力は、ある意味人から狙われやすいという難点もある。そこは自分の身はしっかりと守らなければいけない。
そんな力を、曾祖母も祖父も母も私も受け継いでしまった。
母は昔から恋愛体質で、むしろ母の方が魅了する力を使われているのでは、と言うほどにころっと恋に落ちてしまうタイプだった。少し優しくされたり、相手と趣味があったり、目が合って微笑まれただけだったり……。そんな些細なことで恋に落ちるようなタイプ。そんなの些細な優しさはただの勘違いだと言われたところで、母には「人を魅了する力」がある。相手を落とすことだって簡単なことだった。
もちろん自分の意思でコントロールできる力ではないから、母が意図して相手を落としていたということはない。それでも、朗らかな性格だった母を好きになる人は大勢いた。
そんな中で、母は将来私の父になる人と出会った。
優しく真面目で、仕事が出来る年上の相手。母はその男性に恋をして、結婚をして、お互いに愛し合って子どもを授かった。
この「力」の欠点というのかなんなのか、子どもができると自然とその力は弱まってしまうらしい。
ここでも完全に消えると言うわけではなくて、付き合いがしやすい程度の好感度を持たせるくらいの「力」が発動する。恋愛には発展しないくらいには相手を魅了するのだ。
不倫なんかをしないために「力」が弱まっているのかは定かではないけれど。そして力が弱まると言うのは、夫相手にも起こることだった。
母は変わらず夫を愛していたが、夫は……父は以前より母を思う気持ちが薄れていた。
しかし私も母の子だ。すでに「人を魅了する力」は備わっていた。赤ちゃんなんて四六時中一緒にいる親は大変な思いをすることがあったとしても、基本的には何もしなくても人に可愛がられることが多い存在だ。そんな赤ちゃんの私が発する力は随分と強かったみたいだ。
父は私を誰にも触らせたくない、誰にも渡さない、自分のもの、という感情で囲うようになった。このままではダメだと思った母は、父と離婚した。
そしてこれは祖父から聞いた話だけれど、私は母よりこの「力」が強いみたいだ。母は赤ちゃんの頃でも祖母をそこまで魅了するようなことはなかったと言っていた。
私は自分の「力」のせいで母から愛する人を奪ってしまったのかと今でも考えることがある。母は気にすることはないと言ってくれるけれど、まったく気にしないなんてできっこない。
そんな私のことをずっと育ててくれている母には感謝しているし、幸せになってほしいとも思っている。
だけど、どうも母は男運がないらしい。魅了する力で母に落ちたような人は、母としばらくいると本性が露わになる。浮気が発覚したり、既婚者であることが発覚したり。
一度相手が詐欺師だった時はさすがに母の男運のなさを哀れに思った。
お金を借りようとした男の要求を母が断ったら豹変したのだ。
相手がクズだと分かったときはいつもは母は落ち込み、泣いてボロボロになる。それでも恋愛体質の母は恋することをやめないし、人を信じることも諦めない。
母はずっと自分が一人の女性でいることを望んでいるらしい。そんな母に呆れることがないとは言わない。けれど、羨ましくもあった。
きっと母も恋に恋をしているところがあるのだと思う。もっと、普通の恋がしたいと思っているんじゃないかと思う。
だって、私がそうだから。
だけど私は母のように、恋に積極的にはなれそうにない。