グラウンドからは野球部の掛け声が、校舎の上階からは吹奏楽部の演奏音が聞こえてくる。

「だからごめん。本当に申しわけなかった」

「私も、本当にごめんなさい」

 生徒会室に来てもらった武元さんに、俺と長澤さんは頭を下げていた。

 自分勝手に武元さんの恋心を利用したのだ。

 許してもらえるとは思っていないが、だからと言って謝らないという選択を取ってはいけない。

「神谷くん、長澤さん。顔を上げてください」

 穏やかな春の陽気みたいな声だと思った。

 言われた通り顔を上げる。

 武元さんの目には涙がたまっていたが、笑顔を浮かべてくれていた。

「神谷くん。私はようやくあなたを知ることができました」

 武元さんは胸に手を添え。

「あなたに利用されて傷ついたのは事実ですし、ちょっとムカつきもしてますけど、神谷くんには神谷くんの理由があって、悩みがあって、私がそれに気がつけなかったのは事実なので」

 その細い指で涙を拭うと、武元さんはふわりと花が咲くように笑った。

「ようやく神谷くんからちゃんとフラれて、次に進める気がします」

 武元さんの晴れ晴れとした笑顔のおかげで、過去の罪悪感をほんの少し手放してもいいのかなと思えた。

「長澤さんも、神谷くんをよろしく頼みますね」

 長澤さんにそう声をかけて、武元さんは生徒会室を後にする。

「近藤くんも武元さんも、優しい人で本当によかったぁ」

 長澤さんは緊張の糸が切れたのか、近くの椅子にぐでんと腰を下ろす。長澤さんの言った通り、俺たちは武元さんをここに呼び出す前に、部活前の近藤を呼び出していた。そこでこれまでのことをすべて明かして誠心誠意謝罪すると。

「俺の方こそ、ごめん」

 なぜか逆に謝られた。

「本当は俺が止めなきゃいけなかったのに、自分のキャラとか嫌われたくないとか考えちゃってなにも言えなかった。そのせいで神谷の秘密を明かさせて、本当に申しわけない」

 こういう展開は予想していなくて、俺たちは言葉を失う。

「今だってみんなの視線を気にして、二人に教室で話しかけることもできなくて。俺が二人と話すのが一番の解決策なのに」

 近藤の言う通り、俺たちは教室で誰とも話さなくなった。

 だけど俺も長澤さんも、最善ではないけど最悪ではないから別にそれでいいと思っている。俺たちもクラスのみんなも『あえてかかわらない』を選んでいるだけなのだが、近藤はそれをよしとしないのだろう。

 本当に優しすぎるぞ。

「俺は自分に正直になれる二人が羨ましい。俺は誰かに笑ってもらうのが好きで、みんなに笑ってほしいって思うけど、それはきっと嫌われたくないって感情の裏返しで、変わらなきゃいけないって思うんだけど」

 そう言い終えた直後、近藤は「あっ」と声を漏らし。

「橋川のこと、必要以上に悪く思わないでほしいんだ。あいつはあいつでたぶん俺のためっていうか、ひどいこと言ったのは事実なんだけど」

「俺は、近藤がそのままでいてくれたら嬉しいって思う」

 橋川のために申しわけなさそうになる近藤を見て、無意識に言葉が出てきていた。

「自分より他人を優先できる近藤がすごいって思う。だけど、時には自分が笑うことも考えて、みんなの中に近藤自身も入れていいって、そう思う」

 長澤さんもうんうんとうなずいている。

「私が言える立場じゃないし、近藤くんが無理して私たちに話しかける必要はないけど、もし教室で話しかけてくれたなら、私は嬉しいって思う」

 今度は俺がうんうんとうなずく。

 俺たちと話すことで近藤の立場が悪化するのは嫌だけど、きっと近藤なら全員とうまくやれると思う。こいつは裏切られたやつのことすら慮ってしまう、筋金入りのお人好しだから。

「……そっか」

 口をぽかんと開けていた近藤は、照れくさそうに鼻の下をごしごしとこする。

「なんか、いろいろと吹っ切れたわ。ありがとう」

 そんな彼が将来、漫才日本一を決める大会で優勝するのはまた別のお話なので割愛するとして。

 俺たちにはもうひとつ、やらなければいけないことが残っている。

「ちょっと、もう飲んだの?」

 長澤さんが呆れたように言う。

 俺は用意された麦茶を一口で飲み干していた。

「なんか緊張してさ」

「神谷くんが緊張することないのに」

 ダイニングテーブルの上から空のグラスを回収した長澤さんが、キッチンでまた麦茶を入れてくれる。

 窓の向こうにある空は濃いオレンジ色に染まりはじめていた。

「長澤さんだって部屋着に着替えてきたとき、裏返しだったじゃん」

「あれはそうやってたたまれてただけですー」

 二杯目の麦茶を持ってきた長澤さんが隣に座る。こうやって軽口を叩き合っていないと不安に押しつぶされてしまいそうだ。

 長澤さんのお母さんは、俺たちのような異常者を極端に嫌っている。そんな人に、私たちは異常者のまま恥ずかしげもなく生きていきます! と打ち明けるのだ。

 長澤さんのお母さんにすべてを打ち明けたら、どうなるのか。

 怖いけど、向き合わないままでいたくなかった。

 わかってもらえなくてもいい。

 理解してもらえなくてもいい。

 ただ自分とは違う考えや趣味嗜好を持っていて、自分の理解の及ばない生き方をしている人がいるんだって、受け入れてほしいから。

 ちなみに、長澤さんは家でお母さんと会話すらしていないそうだ。

 俺でさえこんなに緊張しているのだから、長澤さんはもっともっと緊張していることだろう。

「でも、本当に不思議だよね」

 長澤さんがしんみりと呟く。

「不思議って?」

「はじめて神谷くんがここに来たとき、こんな風になるとは思ってもみなかった。あのときはどうしても普通になりたくて、普通に縛られて苦しくて。それが今は、普通じゃなくていいって思えて、すごく楽になった。神谷くんが隣にいるおかげだよ」

「それなら俺だって。長澤さんのおかげで大切なことに気づけたから。ありがとう」

 長澤さんと出会ったおかげで、誰かを大切に思うことの喜びを知ることができた。

「こちらこそ……あ、じゃあさ、神谷くん」

「ん?」

「あのときみたいにハグでもしとく? なんか急にしたくなったていうか、よくわかんないんだけどさ」

 長澤さんは頬を赤らめながら手を広げて、俺を迎え入れようとする。

「ハグって、まあ、そうだな」

 照れ臭かったし、このまま長澤さんの顔が赤くなっていく様子を観察しつづけるのもありかと思ったが、よくわかんないけど長澤さんの提案を受け入れるべきだと思った。

 俺は長澤さんの背中に手を回す。

 長澤さんも俺の背中に手を回す。

 右肩に乗っている彼女の髪からフローラルな匂いが漂ってくる。胸だって押しつけられている。女の子という存在を全身で感じているのに、やっぱりなにも思わな……いや、そんなことはない。

 この高揚感はなんだ?

 性的に興奮している……わけなかった。

 今、心に宿った感情は、不安や緊張を分かち合える人が隣にいることに対する喜びだ。

「ごめん。やっぱり私、なんとも……いや、たぶん神谷くんと一緒の気持ちだ」

 嬉しそうな声が耳のすぐ近くから聞こえてくる。

「俺も、長澤さんと大切な感情を共有できてる気がする」

「以心伝心ってやつ? ……あ! でもほんとにごめん。やっぱ普通に生魚の匂いの方が好きだわ」

「はぁ? 俺だってチーズの方が好きだし」

「いやいや、あんなの臭いだけでしょ」

「生魚に言われたくねぇ」

 などと照れ隠しのための自虐を言い合っているときだった。

「あっ、お母さん帰ってきた」

 玄関扉が開く音が聞こえてきた。

 一瞬で空気が張り詰める。

 長澤さんと顔を見合わせて、二人で深くうなずき合う。

 大丈夫。

 俺たちはどれだけの糾弾を受けても、大丈夫。

 二人の世界の平和は決して揺るがないのだ。

 リビングの扉が開くと、眉間にしわを寄せている長澤さんのお母さんがため息をついた。

「またあなたたちなの。今日はいったいなに」

「すみません、いきなりお邪魔して。伝えたいことがあって待ってました」

 背筋を伸ばし、丁寧な言葉遣いを意識する。

「別に私は聞きたいと思わないから、今すぐ帰ってくれる?」

 明確な拒絶に胃がきゅっと縮こまる。

 話すら聞いてもらえないとは思っていなかった。

「あの、でも俺は」

「お母さん。御託はいいからこっちに座って」

「やっと口をきいたと思ったら、そんなこと」

「いいから座って。話があるから」

 娘の圧が母親の圧を上回る。

 長澤さんのお母さんは俺たちの対面に座り、うんざりといった感じでこめかみを手で抑えた。

「なんなのもう。早くしてよ。仕事で疲れてるのに」

 敵意むき出しの言葉に背筋が凍りつく。

「えっと、その……」

 俺は確実にビビっている。長澤さんのお母さんに圧倒されて喉が正常に機能していな――テーブルの下、太ももの上に置いていた手に長澤さんが手を重ねてくれた。

「大丈夫」

 つづけて、俺にだけ聞こえるくらいの声で言ってくれる。たったそれだけなのに不思議と大丈夫だって思えた。めらめらと勇気が湧いてきて、でも緊張はしたままで、なんか勢いだけが先走って。

「お、お母さん! 僕は娘さんとけ、結婚します!」

 前日から言うべき内容を考えて丸暗記してきたのに、パニックに陥って変な宣言をしてしまった。

 体温は今、一千度を超えていると思う。

 隣の長澤さんが笑いをこらえながら「教室と同じ」と呟いた。

「……は?」

 長澤さんのお母さんは俺の発言を理解できていないのか、目を見開いたまま動かない。

 ああもうくそが!

 こうなったら勢いしかねぇ!

「実は俺も娘さんと同じで特殊な性癖を持っています。俺は裂くという行為に対して興奮する男です」

 長澤さんのお母さんはまだ固まっている。

「だから俺が人間を好きになることはないです。でも俺は娘さんと一緒にいたいと思っています」

「それがなんなのよ」

 絶対零度の悪意がテーブルの上に広がっていく。

 今はそんなの無視して、俺の思いをストレートに伝えるだけだ。

「恋愛感情を抱けなくても一緒にいたい相手がいる。それはなにもおかしなことではないと思うんです。俺たちは特殊性癖の持ち主だけど、特殊性癖の持ち主として幸せになりたい。長澤さんも俺も、互いが互いのありのままを受け入れて一緒にいたいと思っている」

「意味がわからないわ。そんな戯言」

「ねぇ、お母さん」

 母親の反論を娘が遮る。

「私たちはね、心の深い部分でつながってるの」

 今度は長澤さんの手が震え出した。俺は手のひらを上に向けて、長澤さんの震えている手をぎゅっと握りしめる。

「大丈夫」

 長澤さんにだけ聞こえるくらいの声で言うと、彼女の手の震えはぴたりと止まった。

「私は神谷くんと一緒にいたいと思うの。お互いに性癖は異常で、理解し合えないかもしれないけど、一緒にいたいと思うその気持ちは、つながり方は、決しておかしなことじゃないでしょ?」

「なによ、それ」

 長澤さんのお母さんの瞳が揺れ。

「いったいなんなのよ、あんたたちはっ!」

 両手で机を叩きながら立ち上がった。

「それは私への当てつけ? 私を非難したいの? 私はね、私だってね、そういう、そんな気持ちになりたくて」

 だが、その飢えた獣のような雰囲気は長くつづかない。

 震えている身体を自分の腕で抱きしめ、ぽつぽつと涙を流しはじめた。

「私はね、あの人とすごした時間のなにもかもを、あの人の性癖を聞いただけで嫌いになってしまって」

 崩れ落ちるように椅子に座り、泣いている姿を隠すかのように顔を手で覆う。

「愛されてたと思ってたの。あの人のことが好きだったの。でもそんな簡単に受け入れられるわけないじゃない。私が悪いみたいに言わないでよ!」

 長澤さんのお母さんはただ逆切れしているだけなのだが、そんな陳腐な言葉で片づけてしまっては誰も報われない。

「私はずっとあの人を愛してきて、愛してくれていると思って、それなのにあの人は違うものに、魚ってどういうことよ。普通に浮気されたって傷つくのに、一緒にいるなんて無理なのよ」

 長澤さんのお母さんは涙のついた手で髪をかき上げた。

 きっちりしていた化粧は完全に崩れてしまっている。

「家族でいることを無理にしたのは私。そんなのわかってる。もっと夫婦で、ただ一緒に、家族でいたかった。私にはそれができなかった」

 長澤さんのお母さんはずっと自分を責めていたのだ。

 苦しんでいたのだ。

「愛していたから、本当は愛されていなかったって気持ちを受け入れたくなかった」

 特殊な性癖を持つパートナーを受け入れられなかった自分を肯定するために、普通であることに対して固執した。周囲にも普通であることを求めた。

 パートナーを本当に愛していたからこそ、そのすべてを受け入れたくて、受け入れられればすべてがうまくいくと知っていて、でも愛していたからこそ受け入れられなくて。

 こんな悲しいことがあってたまるか。

 俺は人を愛する気持ちを知ることはできないけれど。

 人を大切に思う気持ちは、一緒にいたいと思う気持ちは理解できるから。

 人を愛することだって本当に素敵な感情だと思うから。

「あの、僕はそんなことないと思います」

「なにがそんなことないって言うのよ!」

「あなたの選んだ人は特殊性癖の持ち主だったのに、それでもあなたと一緒にいることを選んだ。結婚した。子供をもうけた。それはあなたと家族になりたいと、今の俺たちと同じ気持ちを抱いたからじゃないんですか?」

「ただのカモフラージュだったかもしれないじゃない!」

「それは違うよ! お母さん!」

 長澤さんがお母さんの言葉を遮るようにして叫ぶ。

 いつの間にか、娘の目にも光るものが浮かんでいた。

「だって私、好きだったから。お父さんとお母さんが一緒にいるのを見るの、一緒に笑い合ってるのを見るの、そこに私も混ざっていくの、好きだったから。そうやって笑い合えていたのは家族だから。みんながみんなのことを、性癖とか関係なく大切に思っていたからじゃないの?」

「姫子……」

 力なく娘の名前を呼んだ母親が奥歯を噛みしめた。

「でも」

「俺たちが!」

 衝動的に言葉を被せる。

 これ以上長澤さんのお母さんに娘を、お父さんを、自分自身を否定してほしくなかった。

「互いに恋愛感情を抱かない俺たちが、いつまでも一緒にいられることを証明します。俺たちはずっと心を通わせ合いつづけます」

 つながっている二つの手を上に持ち上げて、長澤さんのお母さんに見せつける。

「それで、もしこんな俺たちを見て気が変わったら、私にもまたできそうだと思ったなら、あなたが家族でいたいと思った人に、会いにいってみませんか」

「そんなの、私は」

「お母さん」

 娘が母親のことを呼ぶ。

 これまでのどれとも違う、結婚式で花嫁が感謝を伝えるときみたいな優しい言い方だった。

「私は、お母さんもお父さんも大好きなの」

 長澤さんはお母さんの側に駆け寄り、そして抱きしめる。

「私は、お母さんを大切だって思うこの気持ちがとても愛おしい。一緒にいたいと思うことが家族なんだよ」

「……姫子」

 長澤さんのお母さんの目から大粒の涙があふれだす。

「ずっと……ごめんなさいね」

 縋りつくように娘を抱きしめ返す。

「本当はお父さんと、あなたと、三人でずっと一緒にいたかったの」

「お母さん、これからもよろしくね」

 互いに支え合うその姿は紛れもなく家族だった。

 時間はかかるかもしれないが、また三人が再会して家族に戻れる日が来るのではと確信する。

 窓から差し込む夕焼け色の光は、性的嗜好の違う俺たちを平等に照らしてくれていた。