昼休み終了間際に、長澤さんは平然と教室に戻ってきた。スカートの裾に少しだけ土がついていたが、当然「どこいってたんだよ」なんて話しかけられない。そのまま午後の授業も終わり、気がつけば放課後。
長澤さんはすでに下校している。
俺は部活に向かう近藤と橋川を見送ったあとも席を立てずにいた。
ただぼんやりと長澤さんの座席を見つめていた。
「あ、いたよ」
廊下から女子のひそひそ声が聞こえてくる。
「ほら、璃々愛。神谷くんいたよ」
「え、あ、うん。だけど美沙」
本人たちは聞かれていないつもりだろうが、女子特有のうわついた声はよく響く。なんなら美沙って子の方は、俺にあえて聞かせているような感じだ。
「さっき覚悟決めたでしょ。ここまで来たらもう引き返せないよ。おーい、神谷くーん」
「ちょっと美沙っ」
美沙って子に大声で呼ばれる。さすがにすべてを察した。こんなことはよくあるから心を乱すな。脳裏に長澤さんの姿が浮かぶ。細く長く息を吐いて心を無にし、誰にでも好印象を与える笑顔を貼りつけてから立ち上がる。
「どうしたの?」
「この子が、神谷くんに伝えたいことがあるんだって」
「もう、美沙ってば」
璃々愛って子が美沙って子の腕をゆすっている。
美沙って子は「ほら、もう後戻りはできないよ」と耳まで真っ赤な友達の背中を押した。
それで覚悟が決まったのか、璃々愛って子が俺のところまで歩いてくる。
「ん? 俺に伝えたいこと」
鈍感なふりをしながら、璃々愛って子を見下ろす。目が合った瞬間、璃々愛って子は後ろを振り返り美沙って子と目を合わせた。美沙って子は胸の前でファイティングポーズをしてから立ち去った。
あのぉ、早くしてもらっていいですか。
璃々愛って子が、小さくうなずいてから俺に向き直る。
「えっ……と、神谷くん」
「どうしたの?」
「私、その、あの、ずっと……」
そうやってもじもじしつづけるなら、もう帰ってもいいですか。
「か、神谷くんのことが、す、好きでした!」
璃々愛って子が俺に向かって手を伸ばす。
「私と、つき合ってくれませんか?」
はぁ、マジでクソが。
こんなときに……ふざけんのも大概にしろよ。
こいつから告白されることはわかっていた。頬を朱色に染めて、緊張と不安が宿った瞳で見つめられると、胸の中が黒に塗りつぶされる。正常なやつらはいつだって、自分の気持ちに正直になりやがる。相手が今どんな気持ちでいるか考えてもくれない。素直になるのは素敵なことだと喚きやがる。俺の上っ面しか知らないくせに、マジでふざけんなよ!
「あ、えっと、その」
気がつけば、目の前の女の子が追加で話しはじめていた。まずい。俺はどれくらい黙っていたのだろう。今、きちんと笑顔を貼りつけられているか自信がない。目の前の女の子がおびえているように見えるのは、俺の身体からむしゃくしゃが滲み出ているからだろうか。
……って、こいつの名前、なんだっけ?
「もちろん、私とじゃ釣り合いそうもないって、わかってるんだけど」
だったらなんで告白したんだよ。
正直と無謀は違うぞ。
「武元さんがつき合えたなら私でもいけるかなって思って、それで勇気を出して」
「ごめん」
申しわけなさそうなトーンを意識して、断りの言葉を告げる。武元さんがつき合えたなら私でもいけるかな、だと? そんな失礼な言葉を吐けるやつとなんか、死んでもつき合うわけがない。
「君の気持ちは嬉しいけど」
心では罵倒してやりたいと思っている。だけど築き上げてきたイメージを守るため、これからも普通の中で生きるため、嘘の言葉を、嘘の笑顔を貼りつけながら吐き出していく。
「その気持ちに、俺は応えることができない」
「そ、っか。そうだよね」
失礼女の目に涙が浮かぶ。
勝手に告白したくせに傷ついたアピールすんじゃねぇよ。
なんで俺が悪者みたいにならなきゃいけないんだよ。
「で、でもさ、も、もしかして神谷くんって……笹川さんとつき合ってるの?」
「は? あん……」
あんなやつ、と言いかけてしまい、慌てて咳き込んで誤魔化す。
目の前の女がふざけたことを抜かしやがったので、危うく化けの皮が剝がれるところだった。
「なんでいきなり笹川さん? そもそも笹川さんとはそういう関係じゃないよ。武元さんと別れたばかりだって知ってるよね?」
「でも、いつも一緒にいるし」
その言葉、俺が笹川さんをキープしてるみたいじゃねぇかよ。
あっちが金魚のフンみたいに、勝手につきまとってくるだけだ。
「本当に違うって」
「じゃあどうして私じゃダメなの?」
失礼女が前のめりになって尋ねてくる。
どうしてって……そりゃ……。
脳内に長澤さんの笑顔が浮かぶ。
どうやってその笑顔をかき消したらいいのかわからない。
「つき合ってる人、いないんでしょ?」
いないから、なんなんだよ。
彼女ができれば持て余している性欲を簡単かつ合法的に満たせるから、フリーの男が告白を受け入れない理由はない。
それが正常なやつらの普通ってことかよ!
マジで気持ち悪すぎんだろ!
「ってごめん神谷くん。そうだよね。今の私ウザすぎだよね」
だったらはじめから聞くなよ!
「いや、いいよ別に。気にしないで」
「うん。でも今日は本当にありがとう。告白できてよかった。結果は残念だったけど、なんか清々しいな」
失礼女が強がりの笑みを浮かべる。なんだこいつ。勝手に自分の気持ちを押しつけて、自分だけすっきりしてんじゃねぇぞ。俺は隠しつづけないといけないのに。マジで、マジでマジでマジでマジでマジでさぁ!
「神谷くんごめんね。時間取ってもらって」
うっすらと目に涙を浮かべている身勝手女が、遠慮がちに手を振りながら教室を後にした。
ここからは俺の妄想だが、傲慢女は廊下に隠れていた友達に大粒の涙を流しながら抱き着き、その友達は傲慢女の傲慢な勇気を称え「パフェ奢るよ」と言い、傲慢女が「やっぱり恋より友情だよ」と告げ、二人の仲がさらに深まる。
正常なやつらなんて、大体こんな感じだ。
俺は教室に誰もいないことを確認して、机を思い切り蹴った。
気がつけば、ビニール袋を二つ抱えて走っていた。
家まで我慢できなかったから、スーパーの近くにある廃れた神社の本堂裏で衝動を解放させてしまう。
「ふざけやがって」
生い茂る木々が陽光を遮っているため、薄暗くてじめじめしている。少し肌寒い。本堂の壁に背中を預けつつチーズを裂いていくと身体が熱を帯びてきたが、寒さを心地よいとは思えない。
「ふざけやがって!」
裂き終えたチーズを口につっこむ。
足元に置いていたビニール袋から新たな裂けるチーズを取り出す。
「マジでマジでマジでマジでさぁ! 俺だってこんなで、裂けるチーズなんてどう考えても異常だよ! わかってるよ!」
チーズを裂いて、自分を否定して、またチーズを裂いて。
「好きでこんな身体になったんじゃねぇんだよ!」
チーズが手から滑り落ちる。マジで、マジでマジでマジでふざけんな。告白なんかしてくんなよ。裂けるチーズなんかで興奮すんなよ!
自分の腹を思い切り殴る。胃の中のチーズを吐き出しそうになって咳き込む。むしゃくしゃは全然収まってくれない。脳内に浮かぶ長澤さんの笑顔も消えてくれない。
「頼むよ、俺の身体」
俺はわずかな可能性を信じて、もうひとつのビニール袋に手を伸ばした。
「長澤さんだって、好きでこんな身体になったんじゃないんだから」
魚屋で買った、もう名前も忘れてしまった魚をじっと見つめる。ぎょろっとした黒目をじっと見つめる。見つめる見つめる見つめる見つめる。
「これの、なにがいいんだよ……」
興奮できなかった。
ただ生臭いだけだの、少し前まで命を宿していただけの、ただの物質だった。
「全然わかんねぇんだよ!」
魚を地面めがけて投げ捨てる。
待ち構えていたかのように野良猫がやってきて、泥のついた魚を咥えて逃げていった。
長澤さんはすでに下校している。
俺は部活に向かう近藤と橋川を見送ったあとも席を立てずにいた。
ただぼんやりと長澤さんの座席を見つめていた。
「あ、いたよ」
廊下から女子のひそひそ声が聞こえてくる。
「ほら、璃々愛。神谷くんいたよ」
「え、あ、うん。だけど美沙」
本人たちは聞かれていないつもりだろうが、女子特有のうわついた声はよく響く。なんなら美沙って子の方は、俺にあえて聞かせているような感じだ。
「さっき覚悟決めたでしょ。ここまで来たらもう引き返せないよ。おーい、神谷くーん」
「ちょっと美沙っ」
美沙って子に大声で呼ばれる。さすがにすべてを察した。こんなことはよくあるから心を乱すな。脳裏に長澤さんの姿が浮かぶ。細く長く息を吐いて心を無にし、誰にでも好印象を与える笑顔を貼りつけてから立ち上がる。
「どうしたの?」
「この子が、神谷くんに伝えたいことがあるんだって」
「もう、美沙ってば」
璃々愛って子が美沙って子の腕をゆすっている。
美沙って子は「ほら、もう後戻りはできないよ」と耳まで真っ赤な友達の背中を押した。
それで覚悟が決まったのか、璃々愛って子が俺のところまで歩いてくる。
「ん? 俺に伝えたいこと」
鈍感なふりをしながら、璃々愛って子を見下ろす。目が合った瞬間、璃々愛って子は後ろを振り返り美沙って子と目を合わせた。美沙って子は胸の前でファイティングポーズをしてから立ち去った。
あのぉ、早くしてもらっていいですか。
璃々愛って子が、小さくうなずいてから俺に向き直る。
「えっ……と、神谷くん」
「どうしたの?」
「私、その、あの、ずっと……」
そうやってもじもじしつづけるなら、もう帰ってもいいですか。
「か、神谷くんのことが、す、好きでした!」
璃々愛って子が俺に向かって手を伸ばす。
「私と、つき合ってくれませんか?」
はぁ、マジでクソが。
こんなときに……ふざけんのも大概にしろよ。
こいつから告白されることはわかっていた。頬を朱色に染めて、緊張と不安が宿った瞳で見つめられると、胸の中が黒に塗りつぶされる。正常なやつらはいつだって、自分の気持ちに正直になりやがる。相手が今どんな気持ちでいるか考えてもくれない。素直になるのは素敵なことだと喚きやがる。俺の上っ面しか知らないくせに、マジでふざけんなよ!
「あ、えっと、その」
気がつけば、目の前の女の子が追加で話しはじめていた。まずい。俺はどれくらい黙っていたのだろう。今、きちんと笑顔を貼りつけられているか自信がない。目の前の女の子がおびえているように見えるのは、俺の身体からむしゃくしゃが滲み出ているからだろうか。
……って、こいつの名前、なんだっけ?
「もちろん、私とじゃ釣り合いそうもないって、わかってるんだけど」
だったらなんで告白したんだよ。
正直と無謀は違うぞ。
「武元さんがつき合えたなら私でもいけるかなって思って、それで勇気を出して」
「ごめん」
申しわけなさそうなトーンを意識して、断りの言葉を告げる。武元さんがつき合えたなら私でもいけるかな、だと? そんな失礼な言葉を吐けるやつとなんか、死んでもつき合うわけがない。
「君の気持ちは嬉しいけど」
心では罵倒してやりたいと思っている。だけど築き上げてきたイメージを守るため、これからも普通の中で生きるため、嘘の言葉を、嘘の笑顔を貼りつけながら吐き出していく。
「その気持ちに、俺は応えることができない」
「そ、っか。そうだよね」
失礼女の目に涙が浮かぶ。
勝手に告白したくせに傷ついたアピールすんじゃねぇよ。
なんで俺が悪者みたいにならなきゃいけないんだよ。
「で、でもさ、も、もしかして神谷くんって……笹川さんとつき合ってるの?」
「は? あん……」
あんなやつ、と言いかけてしまい、慌てて咳き込んで誤魔化す。
目の前の女がふざけたことを抜かしやがったので、危うく化けの皮が剝がれるところだった。
「なんでいきなり笹川さん? そもそも笹川さんとはそういう関係じゃないよ。武元さんと別れたばかりだって知ってるよね?」
「でも、いつも一緒にいるし」
その言葉、俺が笹川さんをキープしてるみたいじゃねぇかよ。
あっちが金魚のフンみたいに、勝手につきまとってくるだけだ。
「本当に違うって」
「じゃあどうして私じゃダメなの?」
失礼女が前のめりになって尋ねてくる。
どうしてって……そりゃ……。
脳内に長澤さんの笑顔が浮かぶ。
どうやってその笑顔をかき消したらいいのかわからない。
「つき合ってる人、いないんでしょ?」
いないから、なんなんだよ。
彼女ができれば持て余している性欲を簡単かつ合法的に満たせるから、フリーの男が告白を受け入れない理由はない。
それが正常なやつらの普通ってことかよ!
マジで気持ち悪すぎんだろ!
「ってごめん神谷くん。そうだよね。今の私ウザすぎだよね」
だったらはじめから聞くなよ!
「いや、いいよ別に。気にしないで」
「うん。でも今日は本当にありがとう。告白できてよかった。結果は残念だったけど、なんか清々しいな」
失礼女が強がりの笑みを浮かべる。なんだこいつ。勝手に自分の気持ちを押しつけて、自分だけすっきりしてんじゃねぇぞ。俺は隠しつづけないといけないのに。マジで、マジでマジでマジでマジでマジでさぁ!
「神谷くんごめんね。時間取ってもらって」
うっすらと目に涙を浮かべている身勝手女が、遠慮がちに手を振りながら教室を後にした。
ここからは俺の妄想だが、傲慢女は廊下に隠れていた友達に大粒の涙を流しながら抱き着き、その友達は傲慢女の傲慢な勇気を称え「パフェ奢るよ」と言い、傲慢女が「やっぱり恋より友情だよ」と告げ、二人の仲がさらに深まる。
正常なやつらなんて、大体こんな感じだ。
俺は教室に誰もいないことを確認して、机を思い切り蹴った。
気がつけば、ビニール袋を二つ抱えて走っていた。
家まで我慢できなかったから、スーパーの近くにある廃れた神社の本堂裏で衝動を解放させてしまう。
「ふざけやがって」
生い茂る木々が陽光を遮っているため、薄暗くてじめじめしている。少し肌寒い。本堂の壁に背中を預けつつチーズを裂いていくと身体が熱を帯びてきたが、寒さを心地よいとは思えない。
「ふざけやがって!」
裂き終えたチーズを口につっこむ。
足元に置いていたビニール袋から新たな裂けるチーズを取り出す。
「マジでマジでマジでマジでさぁ! 俺だってこんなで、裂けるチーズなんてどう考えても異常だよ! わかってるよ!」
チーズを裂いて、自分を否定して、またチーズを裂いて。
「好きでこんな身体になったんじゃねぇんだよ!」
チーズが手から滑り落ちる。マジで、マジでマジでマジでふざけんな。告白なんかしてくんなよ。裂けるチーズなんかで興奮すんなよ!
自分の腹を思い切り殴る。胃の中のチーズを吐き出しそうになって咳き込む。むしゃくしゃは全然収まってくれない。脳内に浮かぶ長澤さんの笑顔も消えてくれない。
「頼むよ、俺の身体」
俺はわずかな可能性を信じて、もうひとつのビニール袋に手を伸ばした。
「長澤さんだって、好きでこんな身体になったんじゃないんだから」
魚屋で買った、もう名前も忘れてしまった魚をじっと見つめる。ぎょろっとした黒目をじっと見つめる。見つめる見つめる見つめる見つめる。
「これの、なにがいいんだよ……」
興奮できなかった。
ただ生臭いだけだの、少し前まで命を宿していただけの、ただの物質だった。
「全然わかんねぇんだよ!」
魚を地面めがけて投げ捨てる。
待ち構えていたかのように野良猫がやってきて、泥のついた魚を咥えて逃げていった。