生徒会室に取り残されたとき、今までに感じたことのない孤独を感じた。絶対に他人とわかり合えないという孤独ではなく、せっかくわかり合えた誰かを失ってしまったという孤独。
だからだろうか。
『今からすぐ家に来て』
長澤さんからのメッセージを見て、すぐに家を飛び出した。
唐突に、しかもこんな遅い時間に呼び出すなんて常識外れだ。
「ばいばいじゃねぇんだよ」
だけどここで彼女の要求に応えなければ、今後長澤さんと話すことはなくなる。そういう確信があった。もちろん長澤さんの外側と会話する機会はあるかもしれないが、俺が会話をしたいのは、会いたいのは、どんな魚が好きかを嬉々として語る長澤姫子だ。
一度も足を止めずに長澤さんの住むマンションへとたどり着く。ゆっくりと上昇するエレベーターが恨めしくて、目的階ボタンを連打してしまった。エレベーターの扉が開いた瞬間に走り出し、長澤さんの家の前で立ち止まる。
呼吸を整えてから、インターホンを押す。
「いらっしゃい」
出迎えてくれたのは、長澤さんのお母さんだった。
「ありがとうね。こんな時間に」
「お、お久しぶりです」
長澤さんのお母さんは、サイコパスの連続殺人犯が描いたピエロのような気味の悪い笑みを浮かべている。ってかどうして長澤さんのお母さんが出迎えてるんだ? 長澤さんは?
「ごめんなさい。私があなたを呼ぶよう姫子にお願いしたのよ。急に姫子が変なこと言い出すから彼氏の……神谷くんだったかしら? に来てもらわないといけなくなってね」
来てもらわないといけないって、どういうことだ?
「さぁ、早く上がって」
「おじゃまします」
促されるまま家の中に入る。
長澤さんはまだ現れない。
「こっちが姫子の部屋。入って」
玄関を入ってすぐの場所にある長澤さんの部屋の前へ、流れるように誘導される。
「ちょっと待ってね。ほら姫子! 彼氏が来てくれたから」
長澤さんのお母さんが扉を開ける。
背中を押され、強制的に押し込まれた。
「えっ、ちょ……」
いきなりの対面は、それはそれで困るんですけど。
長澤さんの部屋はベッドとか机とか本棚とか、まあよくある普通の部屋だった。
「もう来たんだ」
そんな部屋の真ん中で、長澤さんは膝を抱えて座っていた。
「結構はやっ」
力なく笑う長澤さんの目じりが赤いのは、さっきまで泣いていたからだろうか。
「あの、これはどういう状況で」
長澤さんのお母さんに説明を求めるべく振り返ると、能面のような顔がそこにあった。
「どういうって、彼氏と彼女がそろっているんだから今すぐここでキスしなさい」
……は? え? キス、って……えっ?
「ちょっとお母さん、いきなりなに言ってんの」
長澤さんの鋭利な声が飛んでくるが……だからキスってどういう展開?
「なにって、証明してもらわないと」
「神谷くん困ってるじゃん」
「姫子が嘘なんかつくからよ。お母さん、それが嘘だってわかってても疑っちゃうの」
「ふざけないで」
「別になんの問題もないでしょ。あなたたちは男女の仲。キスくらい普通でしょ。しなさいよ早く。証明して! 簡単なことでしょう!」
長澤さんのお母さんは明らかに冷静さを失っている。この人を駆り立てているものがなんなのか、まったくわからない。
「私は魚が好きなの。だからキスなんて、そんなことできない」
「姫子は黙って! 私は彼氏に言ってるの!」
急に矛先を向けられても、どう言い返せばいいのかわからない。俺が黙ったままではいけないことだけはわかるので、思いついたまましゃべるしかなかった。
「あの、実は長澤さんの言う通りで俺たちはつき合ってなくて、だからキスはできなくて」
「は? できないって、あんたらは高校生のカップルでしょ」
長澤さんのお母さんは幻滅したと言わんばかりに、こめかみを押さえてよろめく。
「まさか二人して私を騙してたの? なんでカップルのふりなんてしてたの!」
「えっと、そもそも俺はカップルだなんて一言も」
「もういい!」
弁明なんか聞いちゃいなかった。
「いいから帰って! あなたなんか顔も見たくない! 早く帰って!」
「お母さん、ちょっと落ち着いて」
「落ち着かなきゃいけないのはあんたたちでしょ!」
そう喚き散らした長澤さんのお母さんがリビングに消えていく。
長澤さんは膝を抱えて座ったまま微動だにしない。
俺が、なにか言わなければ。
それはわかっているのだが、そう思えば思うほどなにを言っていいのかわからなくなる。
「ねぇ」
長澤さんがゆっくりと立ち上がる。
ただ真っ黒なだけの、温度も感情もない瞳が俺を捉えて離さない。
「ちょっと外、歩かない?」
ついていく以外の選択肢はないと思って、二人で家を後にする。夜の住宅街をさまようこと数分、小さな虫が何匹もこびりついている自動販売機の前で長澤さんは立ち止まった。
「神谷くんさ、私に言わせたのに自分は言わなかったね」
自動販売機の稼働音がとにかく耳障りだ。
「私はお母さんに魚が好きって言ったのに、神谷くんはつき合ってないとしか言わなかったね」
孤独を宿した悲しげな声が、俺の胸を貫く。
「性癖への劣等感、克服したんじゃなかったの? 私のお母さんに言えないのに?」
長澤さんはそっと眉根を寄せた。
「それは卑怯だよ」
立ち尽くすしかない。
俺が「母親に打ち明けてみなよ」と安易に言ったから。
そのせいで長澤さんとお母さんの間には決定的な溝が生まれたし、俺と長澤さんの間にも修復不可能な傷ができてしまった。
「なんにも言い返さないんだね」
長澤さんの幻滅を、俺は受け入れるしかない。
さっきから前髪がなびく程度の風しか吹いていないのに、しっかり足を踏ん張らせていないと立っていられない。
「私のお父さんもね、同じだったの」
それから、長澤さんは自身のお父さんの話をしはじめた。
「私は、小さいころ、よくお父さんの釣りについていってた。釣り上げられた魚がぴちぴち跳ねるのを見るのが本当に好きだった。今思えば、きっと興奮していたんだと思う」
長澤さんはどこか懐かしむような目で夜空を見上げる。魚を見て興奮する幼い自分を思い出しているんじゃなくて、お父さんと一緒に釣りにいくことができた、今はもう叶えられないその時間を懐かしんでいるのだろう。
「だからね、ある日、たしか雲ひとつない青空だった日に、お父さんに聞いてみたの。『魚がぴちぴちしてるのを見ると身体が熱くなるんだけど、なんで?』って。その瞬間のお父さんの見開かれた目、今でも忘れない。お父さんは『そうか』ってめちゃくちゃ重苦しく呟くわけ。幼いながらに嫌な感じしてさ、お父さんの足にしがみついたの。お父さんの服に染みついてた魚の生臭さ、今でもはっきりと思い出せる」
長澤さんが鼻から大きく息を吸いこみ、口からゆっくりと吐き出す。
「お父さんは私の頭を優しくなでた。『そのこと、お父さん以外の誰にも言っちゃダメだよ。今のお友達にも、これからお友達になる子にも。もちろんお母さんにも』だってさ」
自動販売機に群がる虫のうちの一匹が、長澤さんの肩にとまった。
「私は理解できなかった。『どうして言っちゃいけないの? おさかなさんを見てるのが一番好きなのに、好きなものを好きな人たちに言っちゃダメなの?』って、お父さんを見上げたの」
長澤さんがようやく俺を見てくれる。
「そしたらお父さんは目を閉じた。ものすごく険しい顔してた。次に目を開けたときには、目の奥に覚悟を感じた」
彼女は静かに泣いていた。
「『そうだな。好きを隠すっておかしいよな』って。『実は、お父さんもお魚さんが大好きなんだ。だから釣りをしているんだ』って、そう言ったの」
自動販売機の明かりが、長澤さんの青白い頬を朧げに照らしている。
「その日の夜。お父さんはお母さんに自分の性癖のことを告げた。当然受け入れられなくて、気持ちが悪いってお父さんを糾弾して、離婚が決まった」
今、長澤さんが浮かべている嘲笑はいったい誰に向けられたものなのだろうか。
「私がけしかけなければ、お父さんは自分の異常さを隠して生きられた。それまでだって普通として生きてこられた人だから。私が異常者として産まれちゃったせいでお父さんのこれまでを台無しにして、お母さんとの未来を傷つけて。全部私のせい。あの日、私がお父さんに『どうして』って言わなければ、お父さんもお母さんも私も、家族としてうまくやれてたのに」
長澤さんが普通になろうとしていた理由がわかった。
長澤さんのお母さんが普通に固執していた理由がわかった。
俺の、すべてが浅はかだったのだ。
自分がそれで救われたという理由だけで同じ方法を押しつけた。
なんと身勝手で傲慢なことか。
長澤さんは俺の卑しさを生徒会室で見抜いていたから、俺への信頼感を失い、その他大勢に向けるような笑顔を浮かべたのだ。
最低だ。
最低だ、最低だ、最低だ。
そうやって傲慢な俺を糾弾しつづけていると、肩にぽんと手が置かれた。
顔を上げると、すでに泣き止んでいる長澤さんが立っていた。
「神谷くん、これまでごめんね」
俺たちの最後は謝罪の言葉になってしまった。
だからだろうか。
『今からすぐ家に来て』
長澤さんからのメッセージを見て、すぐに家を飛び出した。
唐突に、しかもこんな遅い時間に呼び出すなんて常識外れだ。
「ばいばいじゃねぇんだよ」
だけどここで彼女の要求に応えなければ、今後長澤さんと話すことはなくなる。そういう確信があった。もちろん長澤さんの外側と会話する機会はあるかもしれないが、俺が会話をしたいのは、会いたいのは、どんな魚が好きかを嬉々として語る長澤姫子だ。
一度も足を止めずに長澤さんの住むマンションへとたどり着く。ゆっくりと上昇するエレベーターが恨めしくて、目的階ボタンを連打してしまった。エレベーターの扉が開いた瞬間に走り出し、長澤さんの家の前で立ち止まる。
呼吸を整えてから、インターホンを押す。
「いらっしゃい」
出迎えてくれたのは、長澤さんのお母さんだった。
「ありがとうね。こんな時間に」
「お、お久しぶりです」
長澤さんのお母さんは、サイコパスの連続殺人犯が描いたピエロのような気味の悪い笑みを浮かべている。ってかどうして長澤さんのお母さんが出迎えてるんだ? 長澤さんは?
「ごめんなさい。私があなたを呼ぶよう姫子にお願いしたのよ。急に姫子が変なこと言い出すから彼氏の……神谷くんだったかしら? に来てもらわないといけなくなってね」
来てもらわないといけないって、どういうことだ?
「さぁ、早く上がって」
「おじゃまします」
促されるまま家の中に入る。
長澤さんはまだ現れない。
「こっちが姫子の部屋。入って」
玄関を入ってすぐの場所にある長澤さんの部屋の前へ、流れるように誘導される。
「ちょっと待ってね。ほら姫子! 彼氏が来てくれたから」
長澤さんのお母さんが扉を開ける。
背中を押され、強制的に押し込まれた。
「えっ、ちょ……」
いきなりの対面は、それはそれで困るんですけど。
長澤さんの部屋はベッドとか机とか本棚とか、まあよくある普通の部屋だった。
「もう来たんだ」
そんな部屋の真ん中で、長澤さんは膝を抱えて座っていた。
「結構はやっ」
力なく笑う長澤さんの目じりが赤いのは、さっきまで泣いていたからだろうか。
「あの、これはどういう状況で」
長澤さんのお母さんに説明を求めるべく振り返ると、能面のような顔がそこにあった。
「どういうって、彼氏と彼女がそろっているんだから今すぐここでキスしなさい」
……は? え? キス、って……えっ?
「ちょっとお母さん、いきなりなに言ってんの」
長澤さんの鋭利な声が飛んでくるが……だからキスってどういう展開?
「なにって、証明してもらわないと」
「神谷くん困ってるじゃん」
「姫子が嘘なんかつくからよ。お母さん、それが嘘だってわかってても疑っちゃうの」
「ふざけないで」
「別になんの問題もないでしょ。あなたたちは男女の仲。キスくらい普通でしょ。しなさいよ早く。証明して! 簡単なことでしょう!」
長澤さんのお母さんは明らかに冷静さを失っている。この人を駆り立てているものがなんなのか、まったくわからない。
「私は魚が好きなの。だからキスなんて、そんなことできない」
「姫子は黙って! 私は彼氏に言ってるの!」
急に矛先を向けられても、どう言い返せばいいのかわからない。俺が黙ったままではいけないことだけはわかるので、思いついたまましゃべるしかなかった。
「あの、実は長澤さんの言う通りで俺たちはつき合ってなくて、だからキスはできなくて」
「は? できないって、あんたらは高校生のカップルでしょ」
長澤さんのお母さんは幻滅したと言わんばかりに、こめかみを押さえてよろめく。
「まさか二人して私を騙してたの? なんでカップルのふりなんてしてたの!」
「えっと、そもそも俺はカップルだなんて一言も」
「もういい!」
弁明なんか聞いちゃいなかった。
「いいから帰って! あなたなんか顔も見たくない! 早く帰って!」
「お母さん、ちょっと落ち着いて」
「落ち着かなきゃいけないのはあんたたちでしょ!」
そう喚き散らした長澤さんのお母さんがリビングに消えていく。
長澤さんは膝を抱えて座ったまま微動だにしない。
俺が、なにか言わなければ。
それはわかっているのだが、そう思えば思うほどなにを言っていいのかわからなくなる。
「ねぇ」
長澤さんがゆっくりと立ち上がる。
ただ真っ黒なだけの、温度も感情もない瞳が俺を捉えて離さない。
「ちょっと外、歩かない?」
ついていく以外の選択肢はないと思って、二人で家を後にする。夜の住宅街をさまようこと数分、小さな虫が何匹もこびりついている自動販売機の前で長澤さんは立ち止まった。
「神谷くんさ、私に言わせたのに自分は言わなかったね」
自動販売機の稼働音がとにかく耳障りだ。
「私はお母さんに魚が好きって言ったのに、神谷くんはつき合ってないとしか言わなかったね」
孤独を宿した悲しげな声が、俺の胸を貫く。
「性癖への劣等感、克服したんじゃなかったの? 私のお母さんに言えないのに?」
長澤さんはそっと眉根を寄せた。
「それは卑怯だよ」
立ち尽くすしかない。
俺が「母親に打ち明けてみなよ」と安易に言ったから。
そのせいで長澤さんとお母さんの間には決定的な溝が生まれたし、俺と長澤さんの間にも修復不可能な傷ができてしまった。
「なんにも言い返さないんだね」
長澤さんの幻滅を、俺は受け入れるしかない。
さっきから前髪がなびく程度の風しか吹いていないのに、しっかり足を踏ん張らせていないと立っていられない。
「私のお父さんもね、同じだったの」
それから、長澤さんは自身のお父さんの話をしはじめた。
「私は、小さいころ、よくお父さんの釣りについていってた。釣り上げられた魚がぴちぴち跳ねるのを見るのが本当に好きだった。今思えば、きっと興奮していたんだと思う」
長澤さんはどこか懐かしむような目で夜空を見上げる。魚を見て興奮する幼い自分を思い出しているんじゃなくて、お父さんと一緒に釣りにいくことができた、今はもう叶えられないその時間を懐かしんでいるのだろう。
「だからね、ある日、たしか雲ひとつない青空だった日に、お父さんに聞いてみたの。『魚がぴちぴちしてるのを見ると身体が熱くなるんだけど、なんで?』って。その瞬間のお父さんの見開かれた目、今でも忘れない。お父さんは『そうか』ってめちゃくちゃ重苦しく呟くわけ。幼いながらに嫌な感じしてさ、お父さんの足にしがみついたの。お父さんの服に染みついてた魚の生臭さ、今でもはっきりと思い出せる」
長澤さんが鼻から大きく息を吸いこみ、口からゆっくりと吐き出す。
「お父さんは私の頭を優しくなでた。『そのこと、お父さん以外の誰にも言っちゃダメだよ。今のお友達にも、これからお友達になる子にも。もちろんお母さんにも』だってさ」
自動販売機に群がる虫のうちの一匹が、長澤さんの肩にとまった。
「私は理解できなかった。『どうして言っちゃいけないの? おさかなさんを見てるのが一番好きなのに、好きなものを好きな人たちに言っちゃダメなの?』って、お父さんを見上げたの」
長澤さんがようやく俺を見てくれる。
「そしたらお父さんは目を閉じた。ものすごく険しい顔してた。次に目を開けたときには、目の奥に覚悟を感じた」
彼女は静かに泣いていた。
「『そうだな。好きを隠すっておかしいよな』って。『実は、お父さんもお魚さんが大好きなんだ。だから釣りをしているんだ』って、そう言ったの」
自動販売機の明かりが、長澤さんの青白い頬を朧げに照らしている。
「その日の夜。お父さんはお母さんに自分の性癖のことを告げた。当然受け入れられなくて、気持ちが悪いってお父さんを糾弾して、離婚が決まった」
今、長澤さんが浮かべている嘲笑はいったい誰に向けられたものなのだろうか。
「私がけしかけなければ、お父さんは自分の異常さを隠して生きられた。それまでだって普通として生きてこられた人だから。私が異常者として産まれちゃったせいでお父さんのこれまでを台無しにして、お母さんとの未来を傷つけて。全部私のせい。あの日、私がお父さんに『どうして』って言わなければ、お父さんもお母さんも私も、家族としてうまくやれてたのに」
長澤さんが普通になろうとしていた理由がわかった。
長澤さんのお母さんが普通に固執していた理由がわかった。
俺の、すべてが浅はかだったのだ。
自分がそれで救われたという理由だけで同じ方法を押しつけた。
なんと身勝手で傲慢なことか。
長澤さんは俺の卑しさを生徒会室で見抜いていたから、俺への信頼感を失い、その他大勢に向けるような笑顔を浮かべたのだ。
最低だ。
最低だ、最低だ、最低だ。
そうやって傲慢な俺を糾弾しつづけていると、肩にぽんと手が置かれた。
顔を上げると、すでに泣き止んでいる長澤さんが立っていた。
「神谷くん、これまでごめんね」
俺たちの最後は謝罪の言葉になってしまった。