昼休み、俺は生徒会室で長澤さんを待っていた。

 一限と二限の間に『生徒会室に集まれる?』とメッセージを送ったのだ。

「神谷くんから呼び出しって、はじめてじゃない?」

 長澤さんは俺が来てから五分後にやってきた。俺からやり取りをスタートさせたのはこれがはじめてだと指摘され、申しわけなさでいっぱいになった。

「たしかに。だから今日は足取りが軽かったんだ。無茶振りが待ってるわけじゃないから」

 冗談っぽく言うと、長澤さんは「無茶振りってなによ。生意気」といじけながらも笑ってくれた。

「ラブホって言ったり、二股することになったり……無茶振り以外のなにものでもないんだよなぁ」

「え? 神谷くんラブホで二股したの? 最低。そういう人だったの?」

「こいつ立場が悪くなったら、都合よく記憶を捻じ曲げて責任転嫁しやがった!」

「神谷くん。それ、全女子を敵に回す発言だよ。たしかに女子はそういう無責任な生き物だけど、言っていいことと悪いことがあるよ」

「あのぉ、長澤さんの方が全女子を敵に回す発言してるよね?」

「なに言ってるの? 私はね、追い詰められたら都合よく記憶を捻じ曲げて、すぐ被害者面して、あなたが不安にさせたからこうなったの! って責任転嫁する女子をバカにするような発言をした神谷くんを注意しただけだよ」

「いや、もはや長澤さんの方がひどいよね。具体的な罵倒が加わってるし」

「神谷くんいい加減にして。ねぇ、私が本当に言いたいことわかる? わからないでしょ。わかろうとしてないもんね。これくらい察してよ!」

「もはや女子のウザいところ大喜利してない?」

「はいはいわかりましたー。私が全部悪かったですー。神谷くんがすべて正しいですー」

「世の中のみなさーん! 女子ってみんなこうだからねー! 絶対魚やチーズの方がましだからねー!」

 前のノリを思い出して、綺麗にオチをつける。

 ボケを重ねていた長澤さんも、これで気分よく笑ってくれるだろうと思ったのだが。

「神谷くん、いつもと違うね」

 長澤さんは、それまでの態度が嘘のように表情を失った。

「いや、いつもじゃなくて昨日までのか」

 脇から汗がじわりと滲み出る。

「違うって、なにが?」

「全然違うじゃん。そんな清々しく笑う人じゃなかった」

 そう言ったあと、長澤さんは大きく目を見開いた。

「まさか武元さんとヤッて普通の性癖を手に入れたとか」

「んなわけあるかよ」

 長澤さんの豹変にたじろぎつつも、きっちり否定する。

「昨日、武元さんとは別れたわ」

「そっか」

 安堵したのか、長澤さんの表情が緩んだ。

「ちなみに私もフッてやった。あいつとつき合ってたらこっちが押し潰されるし」

「俺も、これ以上俺の身勝手に武元さんをかかわらせたくなかったから、同じだ」

「同じ……」

 長澤さんの表情が曇って一瞬の空白が生まれる。その空白を誤魔化すように、長澤さんは大きく伸びをしながら気の抜けた声を出した。

「でもよかったぁ。私、神谷くんに裏切られたのかと思ったよ」

「そのことなんだけどさ」

 被せるようにして言葉を返していた。

 裏切られた、という言葉が持つ陰鬱な余韻をすぐに消し去りたかったから。

「俺は、ある意味で変わったのかもしれない」

「どういうこと?」

「だって俺は今、救われてるから」

 長澤さんの眉が少しだけつり上がる。

「じゃあ、やっぱり普通の性癖を」

「そうじゃなくて、実は」

 それから、ラブホテルで別れてからのことをすべて話した。

 長澤さんは今にも泣きだしそうな顔で話を聞いていたけれど、公園で母親にすべてを白状したことを説明し出したあたりから急速に表情を失っていった。

「ってことなんだけど」

 話し終えると、長澤さんは俺を見ないまま鼻で嗤った。

「そういうことね。……アホくさ」

 空気が一瞬にして凍りつく。

「つまり神谷くんは、ただのマザコンだ」

 長澤さんの頬は真っ青で、唇は紫色だ。

「マザコンはモテないぞ……いや、別に普通になったわけじゃないからマザコンでもいいのか」

 手を叩きながら笑っているが、全然面白そうじゃない。

「そういうの、私、嫌い」

 唐突に無表情になった長澤さんが生徒会室の机の上に座る。スカートをたくし上げて下着を見せようとしてきた……おいなにやってんだよ。

「もうそんなことする必要はないんだって」

 慌てて長澤さんの手を抑える。

 長澤さんの黒目は涙の膜に覆われていた。

「なんで? 神谷くんだけずるいよ。卑怯だ。ひとりで勝手に救われて、同じだと思ってたのに!」

 長澤さんが俺の肩を両手で掴む。

「お前がそんな中途半端だとは思わなかった。お前は救われたんじゃなくて諦めただけなんだよ!」

 長澤さんの闇を正面からぶつけられる。

 お前。

 神谷くんと呼んでくれないこと対してショックを受けている。

「変わることを諦めただけなんだよ! なんとか言えよ! この裏切り者!」

 前後に激しく揺さぶられる。「裏切り者ぉ、裏切者ぉ、裏切り者ぉ……」と次第に弱々しくなっていく声に心を締めつけられる。

「私は、自分を好きになれる未来を想像できない」

 涙混じりに呟きながら上半身を倒して、俺の胸に額を押し当ててくる。

「私たちは孤独な仲間じゃなかったの?」

「ありのままの自分を認めるのは難しいと思う」

 考えるよりも先に俺は長澤さんを抱きしめ、背中を優しくさすっていた。

「俺は、母さんに話せて楽になれたんだ」

 ありのままの自分を認めてくれてる人がいる。

 ありのままの自分が、ありのままの自分として帰れる場所がある。

 その安心感は、心を本当の意味で暖かくしてくれるから。

「いつの間にか俺たち自身が劣等感に飲み込まれてた。誰もわかってくれないって勝手に決めつけてた。同じ立場の人間にしかこの苦しみはわからないって思い込んでしまった」

 おもちゃを買ってもらえずに不貞腐れる子供のようだったなと自分でも思う。

「それこそが間違いだったんだ。俺は、家族なら受け入れてくれるって思うんだよ。それが家族って、親ってもんだろ」

 俺のすべてを受け止めてくれた母の愛、暖かさ、優しさ。

 長澤さんにだって、長澤さんのことを第一に考えてくれる母親がいる。

「長澤さんにも俺と同じように救われてほしい。無理に変わるより受け入れる方がずっといいんだって気づいた。勇気を出して長澤さんも打ち明けてみなよ」

「……わかった」

 長澤さんは本当に小さな声で呟いてから、俺の胸から額を離す。

 よかった。

 格好いい言葉でも綺麗な言葉でもなかったけど、思いはきちんと伝わったようだ。

「そうだね。ありがとう。勇気づけてくれて」

 顔を上げた長澤さんが笑顔を見せてくれる。

「私も、ちょっとだけ頑張ってみるよ」

 ……え?

 その不気味な笑顔に背筋が凍りつく。

 興味のない人間に向けるような、完全に作られた笑顔。

「お母さんに、うん。……頑張ってみるよ」

 なんだ、この感情は。

 取り返しのつかないなにかをしでかしたような気がする。

「今日はありがとね。神谷くんと話せてよかった」

 ぴょいと机の上から下りた長澤さんが扉の方へ歩いていく。

 一歩、二歩と離れていく度、俺と長澤さんの間にある別のなにかも一緒に離れているような気がして、思わず彼女の背中に手を伸ばした。

 なぜこんな気持ちになっているのかわからない。

 動揺しているせいで長澤さんを呼び止める声は出ない。

「私たちがここで会議するのは、今日で最後だね」

 長澤さんはゆっくり扉を開け、廊下に出てから俺の方を振り返り。

「神谷くん。ばいばい」

 不気味な笑みを浮かべている長澤さんによって、扉は静かに閉められた。