目的の駅に到着し電車から降りる。扉がぷしゅうと閉まって電車が去ると、閑散としたホームの静けさをより強く意識した。
違う車両から降りた五十代くらいの禿げた男性が、足早に目の前を横切っていく。
「西口だよな、風俗街に近いの」
何度も調べたから知っているが、一応聞いてみる。
「たしか、そう」
「どこ入るとか決めてる?」
「見てから決めればいいじゃん。あんまり高くなくて、なんかおしゃれそうなとこで」
長澤さんが言い終えたタイミングでチノパンのポケットが震える。ごめんと目で謝ってからスマホを取り出すと……武元さんからのメッセージだ。時間的に一限が終わったタイミングなので不思議ではない。せっかく今まで忘れていたのに……。
長澤さんと一緒にいることで感じていた楽しさが、一気に霧散する。
『風邪、大丈夫?』
その思いやりが俺を苦しめてるんだって、今すぐ糾弾してやりたい。今まで寝てたと返信するのが無難だとわかっているのに、なぜか指を動かせない。既読にならずにメッセージを読める方法を使っておいて本当に助かった。
「げ、あいつから連絡きたよ」
長澤さんの声に驚いたおかげで、意図せず自分の醜さから目を逸らせた。
「あいつって?」
「私の彼氏役」
舌打ちしながら、スマホの画面を見せてくる。
長澤さんも既読をつけずにメッセージを見る方法を使っていた。
「『風邪ひいて休んでるって聞いた。大丈夫か? 見舞いいってもいい?』だってさ」
「やっぱ近藤は優しいな」
「違うよ。あいつはそんなんじゃないから」
だから、長澤さんの冷え切った言葉を脳が受けつけなかった。
長澤さんはスマホを線路に投げ捨てるふりをしてから、スマホの電源を切る。
「いーや、とりあえず無視しとこー」
弾んだ声で最低なことを言う長澤さん。
いい意味で開き直ったのだろう。
あいつはそんなんじゃない、と近藤を評した理由を聞きたかったがタイミングを逃してしまった。
「それでいいのかよ」
「いいのいいの。今日は神谷くんに集中したいし」
「嬉しいこと言ってくれるねぇ。さすが俺の浮気相手」
「興味なさそうな顔で言わないでくれる? ちょっとショックです」
「そっちも全然ショックじゃなさそうじゃん」
「神谷くんは、メッセージ誰から?」
笑顔の長澤さんに聞かれて、一瞬どうしようと思ったが。
「俺も、彼女役から」
近藤からの連絡を無視した長澤さんの開き直り方が羨ましく思えて。
「『風邪、大丈夫?』だってさ」
長澤さんに見せつけるようにしてスマホの電源を切った。
「へぇ、意外と優しいんだね。彼女役さん」
「俺の場合はそうかもしれない」
「うわっ、いきなり惚気てきたよ」
「は? 違うし」
「しかもそんな優しい彼女がいるのに違う女とラブホるとか」
「長澤さんだって同じだろ」
「しかも心配してくれたのに、返信もせずに電源切るとか」
「だから長澤さんも同じだろって。ってかラブホるってなんだよ」
また楽しくなってきて二人して吹き出す。
やっぱり長澤さんと話しているだけで楽しい。
しかも今は深夜テンションの向こう側って感じで、いい意味で深い思考ができなくなっている。なんかわからないけどなんかおかしくて、超おかしくて、すげぇおかしくて、おかしみが深みすぎて、深すぎたげんぱくで。
「なんかさ、こうして互いに連絡を無視してるのも、ハイパー背徳感じゃない?」
「たしかに、ザ・背徳感だな。マックス感じてる」
そんな感じで、駅から出てラブホ街に向かっているときも、わけのわからない無駄な会話の応酬はつづいた。あんまり高くなくて、なんかおしゃれそうなラブホに二人で緊張しながら入ったが、誰とも対面することなくタッチパネルですべてが完結して盛大な肩透かしをくらい、また二人で笑った。
「うわっ、神谷くん見て。ラブホなのにお風呂透明じゃないじゃん」
「さっきから遊園地に来た子供みたいにはしゃぐじゃん」
「見て見て、ベッドでかっ。神谷くんこれ、コンドームあるよコンドーム」
長澤さんがテーブルの上に置いてある黒の包装袋を取り、びりっと破って中身を取り出す。
「はじめて見たけどキモっ! トロっとしてる! やばこれキモっ!」
「前言撤回。河川敷でエロ本を見つけた男子中学生だったわ」
無駄に元気な長澤さんにちょっとだけ呆れつつ、無駄に大きなベッドの上に座ってみる。意外とクッションが利いていて、なんか変な臭いがする。ってかここは男女がセックスをする場所で……そう考えてしまったばっかりに一気に現実が襲い掛かってきて、上機嫌だった両肩から力が抜けた。
「ちょっと、なに達観したような顔してんの。賢者か」
長澤さんがけらけら笑いながら隣に座る。
先ほどまで持っていたコンドームはテーブルの上に放置されていた。
「賢者って、まあ、賢者……」
なにかツッコもうとしたが、同じベッドに座っているという事実が急に喉を締めつけてきた。
深夜テンション終了。
ラブホに入ったくらいからかなり無理していたが、ついに終わりを迎えてしまった。
「今振り返るとさ、私たちの言動、途中からひどかったよね」
苦笑した長澤さんは、太ももの上に置いてある手をぎゅっと握りしめる。
ああ、ヤバい。
せっかくここまできたのに、このまま無言がつづいたらダメな気が――。
「じゃあ、脱がせてよ」
突然、耳元でささやかれる。
吐息が当たった右耳から緊張が広がって、全身が硬直する。
一番硬直してほしいところは無気力なままそこにある。
「私は、覚悟できてるよ」
ますます真剣みを帯びていく声に、頬をビンタされたように感じた。
長澤さんとセックスをする。
俺だって覚悟してきたはずなのに、どうしても身体が追いついてこない。
チーズを裂いているときに感じる熱が、心の奥底から噴射されない。
「そういうことをしに、私たちはここへ来たんだから」
長澤さんはどんどん先に進んでいく。
ベッドの上に膝立ちになって、少しだけ目をとろんとさせて。
「ほら、脱がせてよ」
長澤さんから見下ろされる。
彼女の瞳に哀れな俺が映っている。
「わかった」
そんな自分をこれ以上見ていたくなくて、目線を落とし、デニムのトップボタンを視界の中央に置いた。
「じゃあ、脱がすよ」
口にたまった唾を飲み込むと、身体の中からなにかが湧き上がってきた。
ああ、もしかして、これが女の人に興奮するってことなのか。
俺は正常になれるのか。
いや、なるんだ。
期待と興奮を静かに吐き出しながら手を伸ばし、デニムのトップボタンに触れる。金属特有の無機質な冷たさが心地よい。トップボタンをはずと黒の下着がちらりとのぞいた。
これまでになく心臓が高鳴る。
ジッパーを、まるでなにかを裂くようにゆっくりと下ろしていく。
裂くように。
裂く、ように……。
「ごめん、このあとどうすればいいか」
気がつけば、長澤さんにそう問いかけていた。
寒いわけではないのに身体が震えている。
「そりゃあ押し倒して、キスとかするんじゃ――っ」
長澤さんが言い終えるのを待たずしてベッドの上に押し倒す。組み敷いて、彼女の身体をじっと見つめる。
「神谷、くん」
目を見開いた長澤さんが俺の名前を呼ぶ。
神谷くん、ともう一度呼ぶ。
「なんで? 泣かないでよ。私だって泣きたくなるじゃん!」
彼女の目じりからも涙が流れ落ちる。
「ここまでしてるのに、されてるのに、無理だって、どうしようもなく無理なんだって、わかっちゃうじゃん!」
この同じだけは、絶対に共有したくなかったのに。
俺は長澤さんの上からどいて、長澤さんの隣にあおむけに寝転がった。
「やっぱり無理だ。俺たちが、こんなので興奮できるわけないよ」
一度は女の子の身体に興奮できたと思った。
違った。
ただ、ファスナーを裂くように下ろしたことに対して、わずかに興奮していただけだった。
「俺たちは無理だって、最初からわかってた」
変なテンションで誤魔化すしかなかったことが、なによりの証明だ。
待ち合わせ場所でからかい合っていたときに感じた楽しいにはたしかな質量があったのに、ラブホ街に近づくにつれて、その楽しいは空っぽになっていった。
しかも今は、これまで感じた楽しさが全部嘘だったんじゃないかと、自分を信じられなくなっている。
「そんな、どうしようもないこと言わないでよ」
「言うしかないんだよ」
「認めなきゃいけなくなるじゃん」
「いつか認めなきゃいけないんだよ」
俺たちは異常者でしかないんだって。
「そんなの私は、私だって、神谷くんになにも感じなかったから!」
長澤さんが声をあげて泣きはじめる。
その悲鳴が連鎖してしまい、俺も声をあげて泣いてしまった。
違う車両から降りた五十代くらいの禿げた男性が、足早に目の前を横切っていく。
「西口だよな、風俗街に近いの」
何度も調べたから知っているが、一応聞いてみる。
「たしか、そう」
「どこ入るとか決めてる?」
「見てから決めればいいじゃん。あんまり高くなくて、なんかおしゃれそうなとこで」
長澤さんが言い終えたタイミングでチノパンのポケットが震える。ごめんと目で謝ってからスマホを取り出すと……武元さんからのメッセージだ。時間的に一限が終わったタイミングなので不思議ではない。せっかく今まで忘れていたのに……。
長澤さんと一緒にいることで感じていた楽しさが、一気に霧散する。
『風邪、大丈夫?』
その思いやりが俺を苦しめてるんだって、今すぐ糾弾してやりたい。今まで寝てたと返信するのが無難だとわかっているのに、なぜか指を動かせない。既読にならずにメッセージを読める方法を使っておいて本当に助かった。
「げ、あいつから連絡きたよ」
長澤さんの声に驚いたおかげで、意図せず自分の醜さから目を逸らせた。
「あいつって?」
「私の彼氏役」
舌打ちしながら、スマホの画面を見せてくる。
長澤さんも既読をつけずにメッセージを見る方法を使っていた。
「『風邪ひいて休んでるって聞いた。大丈夫か? 見舞いいってもいい?』だってさ」
「やっぱ近藤は優しいな」
「違うよ。あいつはそんなんじゃないから」
だから、長澤さんの冷え切った言葉を脳が受けつけなかった。
長澤さんはスマホを線路に投げ捨てるふりをしてから、スマホの電源を切る。
「いーや、とりあえず無視しとこー」
弾んだ声で最低なことを言う長澤さん。
いい意味で開き直ったのだろう。
あいつはそんなんじゃない、と近藤を評した理由を聞きたかったがタイミングを逃してしまった。
「それでいいのかよ」
「いいのいいの。今日は神谷くんに集中したいし」
「嬉しいこと言ってくれるねぇ。さすが俺の浮気相手」
「興味なさそうな顔で言わないでくれる? ちょっとショックです」
「そっちも全然ショックじゃなさそうじゃん」
「神谷くんは、メッセージ誰から?」
笑顔の長澤さんに聞かれて、一瞬どうしようと思ったが。
「俺も、彼女役から」
近藤からの連絡を無視した長澤さんの開き直り方が羨ましく思えて。
「『風邪、大丈夫?』だってさ」
長澤さんに見せつけるようにしてスマホの電源を切った。
「へぇ、意外と優しいんだね。彼女役さん」
「俺の場合はそうかもしれない」
「うわっ、いきなり惚気てきたよ」
「は? 違うし」
「しかもそんな優しい彼女がいるのに違う女とラブホるとか」
「長澤さんだって同じだろ」
「しかも心配してくれたのに、返信もせずに電源切るとか」
「だから長澤さんも同じだろって。ってかラブホるってなんだよ」
また楽しくなってきて二人して吹き出す。
やっぱり長澤さんと話しているだけで楽しい。
しかも今は深夜テンションの向こう側って感じで、いい意味で深い思考ができなくなっている。なんかわからないけどなんかおかしくて、超おかしくて、すげぇおかしくて、おかしみが深みすぎて、深すぎたげんぱくで。
「なんかさ、こうして互いに連絡を無視してるのも、ハイパー背徳感じゃない?」
「たしかに、ザ・背徳感だな。マックス感じてる」
そんな感じで、駅から出てラブホ街に向かっているときも、わけのわからない無駄な会話の応酬はつづいた。あんまり高くなくて、なんかおしゃれそうなラブホに二人で緊張しながら入ったが、誰とも対面することなくタッチパネルですべてが完結して盛大な肩透かしをくらい、また二人で笑った。
「うわっ、神谷くん見て。ラブホなのにお風呂透明じゃないじゃん」
「さっきから遊園地に来た子供みたいにはしゃぐじゃん」
「見て見て、ベッドでかっ。神谷くんこれ、コンドームあるよコンドーム」
長澤さんがテーブルの上に置いてある黒の包装袋を取り、びりっと破って中身を取り出す。
「はじめて見たけどキモっ! トロっとしてる! やばこれキモっ!」
「前言撤回。河川敷でエロ本を見つけた男子中学生だったわ」
無駄に元気な長澤さんにちょっとだけ呆れつつ、無駄に大きなベッドの上に座ってみる。意外とクッションが利いていて、なんか変な臭いがする。ってかここは男女がセックスをする場所で……そう考えてしまったばっかりに一気に現実が襲い掛かってきて、上機嫌だった両肩から力が抜けた。
「ちょっと、なに達観したような顔してんの。賢者か」
長澤さんがけらけら笑いながら隣に座る。
先ほどまで持っていたコンドームはテーブルの上に放置されていた。
「賢者って、まあ、賢者……」
なにかツッコもうとしたが、同じベッドに座っているという事実が急に喉を締めつけてきた。
深夜テンション終了。
ラブホに入ったくらいからかなり無理していたが、ついに終わりを迎えてしまった。
「今振り返るとさ、私たちの言動、途中からひどかったよね」
苦笑した長澤さんは、太ももの上に置いてある手をぎゅっと握りしめる。
ああ、ヤバい。
せっかくここまできたのに、このまま無言がつづいたらダメな気が――。
「じゃあ、脱がせてよ」
突然、耳元でささやかれる。
吐息が当たった右耳から緊張が広がって、全身が硬直する。
一番硬直してほしいところは無気力なままそこにある。
「私は、覚悟できてるよ」
ますます真剣みを帯びていく声に、頬をビンタされたように感じた。
長澤さんとセックスをする。
俺だって覚悟してきたはずなのに、どうしても身体が追いついてこない。
チーズを裂いているときに感じる熱が、心の奥底から噴射されない。
「そういうことをしに、私たちはここへ来たんだから」
長澤さんはどんどん先に進んでいく。
ベッドの上に膝立ちになって、少しだけ目をとろんとさせて。
「ほら、脱がせてよ」
長澤さんから見下ろされる。
彼女の瞳に哀れな俺が映っている。
「わかった」
そんな自分をこれ以上見ていたくなくて、目線を落とし、デニムのトップボタンを視界の中央に置いた。
「じゃあ、脱がすよ」
口にたまった唾を飲み込むと、身体の中からなにかが湧き上がってきた。
ああ、もしかして、これが女の人に興奮するってことなのか。
俺は正常になれるのか。
いや、なるんだ。
期待と興奮を静かに吐き出しながら手を伸ばし、デニムのトップボタンに触れる。金属特有の無機質な冷たさが心地よい。トップボタンをはずと黒の下着がちらりとのぞいた。
これまでになく心臓が高鳴る。
ジッパーを、まるでなにかを裂くようにゆっくりと下ろしていく。
裂くように。
裂く、ように……。
「ごめん、このあとどうすればいいか」
気がつけば、長澤さんにそう問いかけていた。
寒いわけではないのに身体が震えている。
「そりゃあ押し倒して、キスとかするんじゃ――っ」
長澤さんが言い終えるのを待たずしてベッドの上に押し倒す。組み敷いて、彼女の身体をじっと見つめる。
「神谷、くん」
目を見開いた長澤さんが俺の名前を呼ぶ。
神谷くん、ともう一度呼ぶ。
「なんで? 泣かないでよ。私だって泣きたくなるじゃん!」
彼女の目じりからも涙が流れ落ちる。
「ここまでしてるのに、されてるのに、無理だって、どうしようもなく無理なんだって、わかっちゃうじゃん!」
この同じだけは、絶対に共有したくなかったのに。
俺は長澤さんの上からどいて、長澤さんの隣にあおむけに寝転がった。
「やっぱり無理だ。俺たちが、こんなので興奮できるわけないよ」
一度は女の子の身体に興奮できたと思った。
違った。
ただ、ファスナーを裂くように下ろしたことに対して、わずかに興奮していただけだった。
「俺たちは無理だって、最初からわかってた」
変なテンションで誤魔化すしかなかったことが、なによりの証明だ。
待ち合わせ場所でからかい合っていたときに感じた楽しいにはたしかな質量があったのに、ラブホ街に近づくにつれて、その楽しいは空っぽになっていった。
しかも今は、これまで感じた楽しさが全部嘘だったんじゃないかと、自分を信じられなくなっている。
「そんな、どうしようもないこと言わないでよ」
「言うしかないんだよ」
「認めなきゃいけなくなるじゃん」
「いつか認めなきゃいけないんだよ」
俺たちは異常者でしかないんだって。
「そんなの私は、私だって、神谷くんになにも感じなかったから!」
長澤さんが声をあげて泣きはじめる。
その悲鳴が連鎖してしまい、俺も声をあげて泣いてしまった。